1) Fabel(ファーベル),Karl(1887-?):第3海兵大隊第5中隊・1等蹄鉄工長。1914年11月7日の降伏申し入れの際は、軍使カイザー(Kayser)少佐の旗手として白旗を掲げて先導した。松山時代、山越の講習会では会場を大林寺に移して蹄鉄の講習を行った。「本職ハ馬蹄鉄匠及車輌匠多年同職に従事ス1907年ニ乗馬隊ニ入リ1910年春鍛冶工ニ命セラレ1910年ヨリ1911年迄ハノーヴェルノ陸軍蹄鉄学舎ニ入学ス、後ベルリン陸軍蹄鉄学校ノ六ヶ月実地講習ノ蹄鉄試験ニ合格シ青島ニテ蹄鉄工長タリ 鍛冶、獣医薬、馬畜及農用諸機械修繕ヲ特技トス」【「北海道移住」より】。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ヘッセン=ナッサウのヒリュシュハウゼン(Hirschhausen)出身。(2848:松山→板東)
2) Faber(ファーバー),Leonhard(?-?):第3海兵大隊第4中隊・2等歩兵。久留米時代、1918年9月16日から、つちや足袋合名会社に木綿漂白の労役で出向いた。労働時間1日8時間、賃金は1ヶ月24円(内4円は国庫納入)であった【『ドイツ軍兵士と久留米』24頁】。大戦終結して解放後は、蘭領印度に渡った。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ラインラントのジュヒテルン(Süchteln)出身。(3296:熊本→久留米)
3) Faber(ファーバー),Wilhelm(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等砲兵。1915年9月25日福岡から青野原へ収容所換えになった。大戦終結してドイツに帰国後の1920年6月6日、アンナ(Anna Kaupert)と結婚して息子一人をもうけた。マイニンゲンのドイツ帝国鉄道修理工場に勤務した。ザクセン=マイニンゲンのマイニンゲン(Meiningen)出身。(1028:福岡→青野原)
4) Fabianek(ファビアネク),Rudolf(?-?):第3海兵大隊第5中隊・2等歩兵。松山時代(山越・浄福寺収容)の1914年12月15日、歩哨に反抗したことから、19日に重営倉10日の処罰を受けた。また1916年3月2日、夜陰に乗じて共謀脱柵し、酒楼に登った科で重営倉30日に処せられた。板東時代、松山スポーツクラブの役員を務めた。ハルブルク(Harburg)出身。(2847:松山→板東)
5) Fahlbusch(ファールブッシュ),Karl Friedrich(1885-1957):第3海兵大隊第3中隊・軍曹。1905年10月1日軍隊に入った。エンマ・マリーア・ゼーバッハ(Emma Maria Seebach)と結婚した。ミュールハウゼン(Mühlhausen)出身。(418:久留米)
6) Fahn(ファーン),Gustav(1895-1950):第3海兵大隊第3中隊・2等歩兵。ドイツに帰国後やがて料理店を経営した。ヨックグリム(Jockgrim)出身。(421:久留米→板東)
7) Faißt(ファイスト),Paul(1892-1965):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。大戦終結してドイツに帰国後の1921年月14日、郷里のフロイデンシュタットでアンナ(Anna Habisreitinger;1899-1958)と結婚して5人の子どもをもうけた。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ヴュルテンベルクのフロイデンシュタット(Freudenstadt)出身。(1883:丸亀→板東)
8) Falke(ファルケ),Fritz(?-?):海軍膠州砲兵隊・副曹長。久留米時代の1919年2月5日、収容所小使牛島重太に双眼鏡の売却を依頼し、牛島はこれを国分の時計商石田伊之助に50円で売却した。このことで石田は外敵商取引禁止令違反で取調べを受けた【『ドイツ軍兵士と久留米』17頁】。ライト(Rheydt)出身。(3319:熊本→久留米)
9) Falkenhagen(ファルケンハーゲン),Wilhelm Ernst(1887-1974):海軍膠州砲兵隊・海軍中尉。〔イルチス山下部砲台指揮官〕。1905年4月1日海軍入り、1908年9月28日少尉、1911年9月5日中尉、収容中の1916年4月24日付けで海軍大尉に昇進した。1918年3月22日福岡から習志野へ収容所換えになった。1919年3月5日に開催された「朗読の夕べ」で、ベヒトルスハイム(Bechtolsheim)大尉とハイメンダール(Heimendahl)少尉によるメンデルスゾーンの歌曲の二重唱でピアノの伴奏をした。解放後の1920年8月23日、海軍大尉で退役した。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。オーデンヴァルトのミッヒェルシュタット(Michelstadt)出身。(1016:福岡→習志野)
10) Falkenhayn(ファルケンハイン),Georg(1865-?):砲兵部隊・海軍火工大尉。1880年4月海軍に入隊し、1898年4月火工少尉、1901年4月火工中尉、1907年1月火工大尉に昇進した。フランツ(Franz)砲兵監督と共同で原寸大の帆船、小船を制作して、公会堂の屋外の庭に展示した。大戦終結して帰国後の1920年4月退役となった。シュレージエンのヴァルデンブルク(Waldenburg)出身。(4150:「大阪→」徳島→板東)
11) Fammels(ファンメルス),Gerhard(?-1971):第3海兵大隊第4中隊・2等歩兵。1914年1月10日、パトリツィア号で膠州に着き、そこから天津の衛兵所に赴いた。1918年8月7日久留米から板東へ収容所換えになった。出身地のオイペン(Eupen)がベルギー領になったために、【今日でも同地区の住民の大多数はドイツ系で、ドイツ語を母語としている】、1919年10月将来の国籍決定のために一足先に解放され、10月28日横浜から帰国の途につき、12月29日にマルメディー(Malmedy;今日はベルギー領)に着いた。オイペン郡のシュトッケン(Stocken)出身。(425:久留米→板東)
12) Fangauer(ファンガウアー),Johann(?-?):第3海兵大隊第3中隊・後備2等歩兵。[朝鮮京城・聖ベネディクト修道院伝道師]。1918年8月7日久留米から板東へ収容所換えになった。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放され、京城に赴いた。バイエルンのエッゲルフィンゲン(Eggelfingen)出身。(426:久留米→板東)
13) Farr(ファル),Gustav(?-?):第3海兵大隊第6中隊・後備伍長。[カルロヴィッツ広東支店]。リンダウ(Lindau)出身。(2850:松山→板東)
14) Färtsch(フェルチュ),Albert(?-?):砲艦ヤーグアル乗員・海軍見習主計。板東時代、1919年8月13日に開催された櫛木海岸での水泳大会で、メドレーリレーに出場し、ヴィヒェルハウス(Wichelhaus)、シュタインメッツ(Steinmetz)、レーマン(Lehmann;板東には二名のレーマンがいて特定不可)と組んで第1位になった。ワイマール(Weimar)出身。(2867:松山→板東)
15) Fassbender(ファスベンダー),Martin(?-?):第3海兵大隊第4中隊・2等歩兵。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ラインラントのロッベリヒ(Lobberich)(2533:名古屋)
16) Fath(ファート),Jacob(1893-1958):海軍膠州砲兵隊第4中隊・2等砲兵。解放されて帰国後の1923年8月4日、ハイデルベルクでエリーザベト(Elisabeth Clasing)と結婚した。バーデンのヴァインハイム(Weinheim)出身。(4357:「熊本→」大分→習志野)
17) Faul(ファウル),Ernst Alfred(1887-?):総督府築城部・要塞構築曹長。[海軍東アジア分遣隊・北京]。板東時代の1917年7月15日、「要塞の歴史的発展について」の第1回講演を行う。解放後は蘭領印度に渡った。ウルム(Ulm)出身。(3066:松山→板東)
18) Fehl(フェール),Hans(?-?):海軍膠州砲兵隊・1等砲兵。1916年10月20日福岡から青野原へ収容所換えになった。1918年12月13日から20日まで開催された青野原俘虜製作品展覧会では、油絵、水彩画、ペン画等15点を出品した【『AONOGAHARA捕虜の世界』68-69頁】。解放後は蘭領印度に渡った。バルメン(Barmen)出身。(1031:福岡→青野原)
19) Felh(フェール),Kurt Wolfgang(1892-1980):第3海兵大隊第5中隊・上等歩兵。鍛治職の修業を積んだ後、1911年10月に海軍に入った。解放されてドイツに帰国後の1924年、イェニー(Jeny Lorenz)と結婚して息子一人をもうけた。フォークトラントのローテンキルヒェン(Rothenkirchen)の郵便局員として働いた。1945年から47年まで、ソ連軍によってエルベ河畔のミュールベルク(Mühlberg)の収容所に容れられた。年金生活後も86歳まで、ヴェルネスグリューンの醸造所で守衛として働いた。ザクセンのヴェルネスグリューン(Wernesgruen)出身。(2845:松山→板東)
20) Fehr(フェール),Oswald(1876-?):総督府・海軍機関兵曹長。青島時代は皇太子街(Kronprinzenstraße)に住んでいた。板東時代、第2棟の先任准士官だった。クレーフェルト(Krefeld)出身。(2869:松山→板東)
21) Felchnerowski(フェルヒネロフスキー),Clemens(1892-1971):第3海兵大隊第2中隊・上等歩兵。板東時代、レスリング及びボクシングのためのスポーツクラブ協会「青年の力」の理事長を務めた。1918年5月26日、収容所体操協会による創立記念体操会が行われた。鉄棒2、平行棒2、鞍馬1、跳び箱1を使用しての体操会であった。フェルヒネロフスキーは第1組の指導を受け持った【『バラッケ』第2巻183頁】。収容所内印刷所から出された活動記録に「板東における我等がスポーツ・運動」(Unser Turnen in Bando)の記事も書いた。自身はレスリングをして負傷したことがある。1919年6月1日(日)、12種目から成る体操大会が開催されたが、フェルヒネロフスキーは133⅔点を挙げて上級の部一位になった【『バラッケ』1919年6月号より】。劇場委員会にも属し、更には松山収容所からの人員を加えて拡大した「エンゲル・オーケストラ」のコントラバスを担当した。【松本照男「日本の器械体操生みの親はポーランド人だった」によれば、回想録を遺したそうである。しかし、記述には不正確と思われる個所もある。生没年の記載に当っては、以下のサイトに依拠した。参照:http://www.e.okayama-u.ac.jp/~taguchi/kansai/tmatsu00.htm】。西プロイセンのオーフェン(Ofen)出身。(1882:丸亀→板東)
22) Fennel(フェンネル),Heinrich(1891-1962):機雷保管庫・1等掌水雷兵曹。教師にして市の書記官ハインリヒ(Heinrich)と母カタリーネ・マルタ(Katharine Martha;旧姓Funk)との間に生まれた。1911年10月1日海軍入り、1919年に1917年10月27日付けに遡って掌水雷兵曹長に昇格し、1920年3月10日に掌水雷中尉で退役した。その後海軍に官吏として勤め、最後は海軍大佐になった。カッセル近郊のホーフガイスマル(Hofgeismar)出身。(2181:姫路→青野原)
23) Fenzel(フェンツェル),Albert(1889-1952):第3海兵大隊第6中隊・後備2等歩兵。[北ドイツ・ロイド汽船]。松山時代(不退寺収容)の1915年11月1日、夕方の点呼の際にやや酩酊し、静粛の命令に従わなかった科で、11月3日に重営倉10日に処せられた。ゴータ(Gotha)出身。(2859:松山→板東)
24) Fesseler(フェッセラー),Archus(1892-?):海軍膠州砲兵隊第1中隊・1等砲兵。1916年10月22日福岡から習志野へ収容所換えになった。バーンシュトック(Bahnstock)出身。(1019:福岡→習志野)
25) Fessler(フェスラー),Alois(?-?):海軍東アジア分遣隊第1中隊・2等歩兵。習志野時代、収容所内の酒保で篠崎兼吉が請け負っていた「西洋食調理販売所」で、クレム(Klemm)とともに働いた【星昌幸氏からの教示;参照:「アジア歴史資料センター」のレファレンスコード「C03024994300」】。上部エルザスのマス=ミュンスター(Mas-Münster)出身。(66:東京→習志野)
26) Feuerbach(フォイエルバッハ),Karl Georg(1891-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[ディーデリヒセン青島支店]。松山時代、公会堂の講習会で簿記等の講師を務めた。板東時代、松山スポーツクラブの役員をつとめた。また、1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会においては、2時間41 分39 秒で85人中の69位になった【『バラッケ』第4巻4月号82頁】。大戦終結して解放後は、蘭領印度に渡った。フランチスカ・シュテルンエッガー(Franziska Sternegger)と結婚した。ニュルンベルク(Nürnberg)出身。(2853:松山→板東)
27) Fichtner(フィヒトナー),Friedrich(?-?):第3海兵大隊第3中隊・伍長。1915年9月11日福岡から久留米へ収容所換えになった。大戦終結して解放後は、蘭領印度に渡って巡査になった。グーベン(Guben)出身。(1043:福岡→久留米)
28) Fick(フィック),Otto(1870-1945頃):青島船渠・2等歩兵。青島時代はドイツ街(Deutschlandstraße)に住んでいた。解放されて帰国後女教師と結婚し、ハンブルクのガス製造工場で技術者として働いた。ホルシュタインのブラームシュテット(Bramstedt)出身。(4505:大阪→似島)
29) Fick(フィック),Wilhelm(?-?):国民軍・砲兵軍曹長。[巡査]。青島時代はフリードリヒ街に住んだ。シュレースヴィヒ・ホルシュタインのホルスト(Horst)出身。(4502:大阪→似島)
30) Fiebes(フィーベス),Peter(1893-?):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。ケルン近郊のデュンヴァルト(Duennwald)出身。(413:久留米)
31) Fiederling(フィーダーリング),Friedrich(?-?):第3海兵大隊工兵中隊・後備伍長。松山時代、山越での収容所講習会でロシア語の講師を務めた。板東では公会堂での工芸品展に砂車小屋を制作・出品して注目を集めた。解放後は蘭領印度に渡った。ハンブルク(Hamburg)出身。(2864:松山→板東)
32) Fiedler(フィードラー),Curt(?-?):第3海兵大隊第7中隊・後備上等歩兵。[山東鉄道保線マイスター]。青島時代は大港地区に住んでいた。板東時代の1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会(当時34歳)で、2時間33分3秒5分の1で49位になった【『バラッケ』第4巻4月号81頁】。グロガン(Glogan)出身。(4354:「熊本→」大分→習志野)
33) Fiedler(フィードラー),Max(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[ウラジオストック税関]。大戦終結して解放後は蘭領印度に渡ったが、1922年頃にはすでに故国に帰還していたと思われる。オーデル河畔のクロッセン(Krossen)出身。(2857:松山→板東)
34) Filusch(フィルシュ),Emil(?-?):第3海兵大隊第4中隊・後備上等歩兵。[山東鉄道保線マイスター候補]。山東鉄道沿線の周村から応召した。上部シュレージエンのコーゼル(Kosel)出身。(4353:「熊本→」大分→習志野)
35) Findorf(フィンドルフ),Ernst(1889-1965):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[ジームセン商会香港支店]。1911年ジームセン商会香港支店に赴任した。松山時代、公会堂の収容所講習会で英語及び簿記等の講師を務めた。1920年の帰国後、ハノーファーのゴム工場に勤め、同年保母をしていたマルガレーテ・ブオインリヒ(Margarete Bräunlich)と結婚し、子供を人をもうけた。1930年、クンスト・ウント・アルバース(Kunst & Albers) 商会のために上海に赴き、第二次大戦後は台北に赴き、1952年ドイツに帰国してハンブルクのアイクホフ(Eickhoff & Co.)商会に勤務した。後に郷里リューネブルクに戻った。リューネブルク(Lüneburg)出身。(2851:松山→板東)
36) Fink(フィンク),Leopold(?-?):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・2等機関下士。青野原時代、1918年12月13日から20日まで開催された俘虜製作品展覧会では、模型部門で複葉機を出品した【『AONOGAHARA捕虜の世界』78頁】。ウィーン(Wien)出身。(2186:姫路→青野原)
37) Fink(フィンク),Walter(?-?):第3海兵大隊機関銃隊・2等歩兵。1915年6月熊本から久留米へ収容所換えになった。久留米時代の1917年2月16日、神経衰弱で入院していた衛戍病院から抜け出して捕まった。1918年12月4日に行われた「久留米体操クラブ」の12種競技(鉄棒、平行棒の演習3種目、鞍馬の演習2種目、徒手体操1種目、陸上競技3種目)では、121⅓点を獲得して中級の第2位になった。シュヴァルツブルク=ゾンダーハウゼンのエルツェ(Oelze)出身。(3310:熊本→久留米)
38) Finster(フィンスター),Georg(?-?):第3海兵大隊第1中隊・上等歩兵。1915年8月10日、久留米収容所からアメリカのドイツ語夕刊紙(新聞名は不詳)に記事を投稿した。「戦争俘虜に楽譜を! 日本の久留米収容所からの熱望 ―エルンスト・ティーセンをご存知の方はいませんか」との見出しの投稿記事の内容全文は以下の通りである。「1915年8月10日、日本の久留米にて 拝啓 手元にある貴夕刊紙によって発行所の住所を知りました。貴紙は収容所内においてとても喜んで読まれています。新世界には知人友人もおりませんので、私たち一同の切なる要望をここに敢えて申し述べさせて頂きます。それは即ち楽譜の送付に関することであります。同封した写真2枚(【新聞には笑顔の楽団員による演奏風景の一点のみ掲載】)からお分かりなるように、我々は楽団を結成しておりますが、楽譜が不足しております。天津、北京等ではピアノ楽譜もなく室内楽も出来ずにいます。我々が日ごろ行っている軽音楽、例えばオペレッタ曲、ワルツ、童話等の楽譜は手に入れることが出来ずにおります。我々が行っているのは、ピアノ、ヴァイオリン、ヴィオラ各二人のサロンオーケストラの陣容です。けれども序曲等の楽譜があったならば、これらに対しても有難く立ち向かえることでしょう。ここでは軽快なアメリカ風ダンスも格別に好まれています。しかしすでに触れましたように、我々は何であれ感謝をこめて受け取ります。もしかしてオーストリアの物はあるでしょうか。というのも勇敢なる同盟者達が同じ収容所に抑留されているからです。久留米収容所の俘虜は現在1300名以上におよんでいます。貴紙がアメリカ最大のドイツ語紙であることから、私は貴紙に宛ててペンを執った次第です。そこで私はこの手紙を、また可能であれば同封の写真も貴紙に掲載して頂けることを、衷心より願うものです。最後に再度申し述べさせて頂きますが、可能であればサロンオーケストラ用の楽譜の送付を願うものです。全戦友の名において心からの感謝とドイツ風挨拶をこめて。敬具 ゲオルク・フィンスター 追伸:もしかして貴紙購読者に、ベルリンのテーゲル出身エルンスト・ティーセン(Ernst Thiessen;不詳)をご存知の方はおられないでしょうか。彼は私の従兄弟で、数年来消息が分かりません。過去の新聞を送付願えれば幸甚に存じます。改めて感謝をこめて。第3海兵大隊第1中隊上等歩兵 ゲオルク・フィンスター 日本の久留米より」。ベルリンのテーゲル(Tegel)出身。(411:久留米)
39) Finzel(フィンツェル),Alfred(?-?):海軍膠州砲兵隊・2等砲兵。1916年10月20日福岡から青野原へ収容所換えになった。1918年12月13日から20日まで開催された青野原俘虜製作品展覧会では、模型部門で住宅(設計図および説明つき)を出品した【『AONOGAHARA捕虜の世界』78-79頁】。ザクセンのマッヘルン(Machern)出身。(1032:福岡→青野原)
40) Fischbach(フィッシュバッハ),Emil(1893-1966):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。1919年10月25日に開催された「スポーツ週間」の「投擲用ボール遠投」に出場し、62.19mで第4位になった。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。キルヒェン近郊のバックハウス(Backhaus)出身。(412:久留米)
41) Fischer(フィッシャー),Andreas(1891-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[青島のラルツ薬行(Adalbert Larz)]。板東時代、収容所内タパタオで石鹸等を売る店を出した。解放後は蘭領印度に渡り、西スマトラ薬局に勤務した。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ニュルンベルク(Nürnberg)出身。(2858:松山→板東)
42) Fischer(フィッシャー),Bruno(?-?):第3海兵大隊工兵中隊・予備副曹長。1914年9月28日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米俘虜収容所に送られた【『欧受大日記』大正三年十一月上より】。10月9日、俘虜の第一陣として久留米に到着し、下士卒用の収容先である、久留米市日吉町の大谷派久留米教務所に収容された。4班に分けられた下士卒に対する全般の監督を、ライト(Raydt)副曹長とともに務めた【坂本「久留米俘虜収容所の一側面」(上)5頁】。久留米の演劇活動では、イプセン作の『国民の敵』等3演目に出演した。ベルリンのシャルロッテンブルク(Charlottenburg)出身。(428:久留米)
43) Fischer(フィッシャー),Edmund(?-?):第3海兵大隊第4中隊・2等歩兵。1915年6月熊本から久留米へ収容所換えになった。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。フォイクトラントのプラウエン(Plauen)出身。(3291:熊本→久留米)
44) Fischer(フィッシャー),Erich Franz Oskar(1891-1975):第3海兵大隊第4中隊・予備伍長。熊本俘虜収容所では長国寺に収容された。1915年6月9日、熊本から久留米に収容所換えになったが、久留米では青島時代からの知己であるハーフェルス(Hafels)、クルーゲ(Kluge)及びトゥーハー(Tucher)と再会した。久留米時代の1919年9月、フィッシャーから横浜アメリカ総領事宛に、大戦終結後のアメリカ渡航に関する信書が出され、検閲の上情報局へ転送された。『中国と日本』と題した2巻本の日記を遺した【ウィーン大学のパンツァー教授(Prof.P.Pantzer)所蔵】。日記には、1915年3月10日熊本収容所において、最初のチフス患者3名が出て、やがて収容所内で広がったことが記されている。2007年3月に刊行された『ドイツ兵捕虜と収容生活 ―久留米俘虜収容所 W―』には、フィッシャーによる久留米での俘虜生活(1915年6月9日から1919年12月31日まで)、及び日本からドイツへの帰還中の「ヒマラヤ丸」船内での克明な日記(生熊文訳)が掲載されている。1954年11月6日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。バイエルンのシュヴァインフルト(Schweinfurt)出身。(3288:熊本→久留米)
45) Fischer(フィッシャー),Ernst Heinrich(1875-?):総督府・土地管理部秘書官。青島時代はブレーメン街に住んでいた。似島時代の1919年7月19日、青島在住のアニー・フィッシャー(Anni Fischer)から小包を受け取った。その中身は菓子パン、ラード、ジャム、パスタである【高知在住の郵趣家河添潔氏所蔵俘虜郵便より】。大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として日本国内で解放された。ケーテン(Coetehn)出身。(4658:大阪→似島)
46) Fischer(フィッシャー),Franz Paul(1879-1960):海軍東アジア分遣隊第2中隊・予備伍長。1915年9月20日福岡から名古屋へ収容所換えになった。マインツで没した。ベルンスバッハ(Bernsbach)出身。(1038:福岡→名古屋)
47) Fischer(フィッシャー),Hermann(?-?):第3海兵大隊第3中隊・2等歩兵。1918年9月16日から、日本製粉会社久留米支店に労役で出向いた。労働時間1日8時間、賃金は1ヶ月24円(内4円は国庫納入)であった【『ドイツ軍兵士と久留米』24頁】。バイエルンのブラットリング(Blattling)近郊シュタインキルヒェン(Steinkirchen)出身。(419:久留米)
48) Fischer(フィッシャー),Johann(?-?):第3海兵大隊第4中隊・後備兵。久留米時代は演劇活動で、トロイホルツ作の笑劇『ベルリンっ子』等5演目に出演した。ハンブルク(Hamburg)出身。(3300:熊本→久留米)
49) Fischer(フィッシャー),Karl(?-?):海軍砲兵中隊・2等看護兵。[伝道師・広東]。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ルール河畔のヴェッター(Wetter)出身。(71:東京→習志野)
50) Fischer(フィッシャー),Karl(?-?):海軍東アジア分遣隊第2中隊・2等歩兵。[指物師]。1915年9月20日福岡から名古屋へ収容所換えになった。ドレスデン(Dresden)出身。(1040:福岡→名古屋)
51) Fischer(フィッシャー),Karl(1881-1941):第3海兵大隊・予備副曹長。[東アジア・ロイド新聞(Ostasiatischer Lloyd)]。1881年3月21日にベルリン郊外のシュテークリッツに生まれた。1897年始め、当時16歳のギムナジウムの生徒だったカール・フィッシャーは、ベルリン大学学生ヘルマン・ホフマンが主催する速記術のサークルに入り、同時にそのサークルが行っていたベルリン郊外の遠足に参加した。その年の6月、外交官となったホフマンの推挙でフィッシャーは遠足のグループ「シュテノグラフィア」の議長に選ばれた。1901年、そのグループは会員のヴォルフ・マイエンの提案で「ワンダーフォーゲル」(Wandervogel)と名づけられた。以後カール・フィッシャーの指導の下でワンダーフォーゲルは拡大の一途を辿った。しかし独裁的な運営からグループ内に反フィッシャー派を生んだ。1904年にグループは二つに割れ、フィッシャーは「古ワンダーフォーゲル」を結成した。1906年7月、フィッシャーは「ワンダーフォーゲル」運動から身を引き、同年10月第3海兵大隊に志願した。1年間の兵役に就いた後には、ハレ大学等で習得した中国語を活かして中国に留まる意図であった。1年後には当初の予定通り上海で新聞社に勤務したが、日独戦争勃発により応召して青島に赴いた。松山時代、公会堂で行われたシュトルツェ=シュライム方式の速記術講習会の講師役を務めた。板東時代、『バラッケ』に「1919年3月29、30日のスポーツと娯楽の夕べ」の記事を寄せている(巻数、年月日は不明)。また1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会においては、38歳であったにも関わらず敢えて年配組ではない組に出場し、2時間38分22秒のタイムで85名中の58位でゴールインした【『バラッケ』第4巻4月号82頁】。大戦終結後の1920年帰国したが、最早「ワンダーフォーゲル」における地位も無く、生涯独身で寂しい晩年を過ごした。1941年6月13日、生地シュテークリッツで没した。ベルリン(Berlin)出身。(2862:松山→板東)
52) Fischer(フィッシャー),Karl(?-?):国民軍・卒。[時計・宝石商]。青島のフリードリヒ街に住んでいた。大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として日本国内で解放され、青島に戻った。ニュルンベルク(Nürnberg)出身。(4503:大阪→似島)
53) Fischer(フィッシャー),Michael(?-?):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。デコパージュ(切り貼り絵)の飾り器を残した。飾り器は半球体(直径21.5センチ、高さ8.5センチ)で、内側に当時の外国たばこの箱から切り取った赤や銀色のマークがびっしり張られ、底部には女性の姿が描かれている。納めた木箱にはドイツ語と日本語で「製作者 独逸ライン州ウォーリンゲン 海軍歩兵卒ミッヘル・フィッシャー 俘虜当時久留(米)制作」と書かれている【「西日本新聞夕刊」(平成12年5月22日付)より】。ライン河畔のヴリンゲン(Wurringen)出身。(415:久留米)
54) Fischer(フィッシャー),Friedrich Paul(1884-1967):海軍砲兵中隊・2等焚火兵。ザクセンのヴィルデンフェルスに生まれ、グリューナウ村で没した【松尾「「ドイツ牧舎」(徳島板東)指導者クラウスニッツァーの生涯」100頁】。久留米時代は演劇活動で、ザレヴスキー(Salewsky)の創作劇『シュタイリヒと息子』等6演目に、主として女役で出演した。グリューナウ(Gnuenau)出身。(3317:熊本→久留米)
55) Fischer(フィッシャー),Paul(1893-1948):海軍膠州砲兵隊第3中隊・2等砲兵。徳島時代の1916年10月、バール(Alwin Bahr)、ベーマー(Boehmer)、フィッシャー(Paul Fischer)、グレックナー(Glöckner)、ヘフト(Max Hoeft)、ライポルト(Leipold)、マイエ(Maye)の7名で、徳島市の円藤鉄工所に鋳造等の労役で派遣された。1日約8時間、賃金・期間は不明。解放されて帰国後の1924年1月12日、郷里のヴェルダウ(Werdau)でリーナ(Lina Johanne Graumüller)と結婚した。ザクセンのヴェルダウ(Werdau)出身。(4147:「大阪→」徳島→板東)
56) Fischer(フィッシャー),Richard(?-?):第3海兵大隊機関銃隊・伍長。「14歳にてダウビッツの小学校を卒業し、1909年10月の兵役迄父の農業に従事し農業の実際方面に精通す、入隊後乗馬隊に在りて養馬の方法を実際的及び学理的に修得せり、耕地牧草、牧場及び水道工事を特技とす」【「北海道移住」より】。パリット(Parit)出身。(2525:名古屋)
57) Fischer(フィッシャー), Robert(?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・1等砲兵。解放後は蘭領印度に渡り、ジョクジャカルタ近郊のシーマンで巡査をしたと思われる。ザクセンのランゲンザルツァ(Langensalza)出身。(3890:大阪→似島)
58) Fischer(フィッシャー),Rudolph(1877-?):兵器庫・海軍掌砲中尉。1895年10月海軍に入隊し、1910年7月掌砲少尉、1912年5月掌砲中尉に昇進した。1917年10月31日発令で掌砲大尉、1920年3月8日退役した【シュミット】。1915年1月1日と1916年10月30日付けで、久留米収容所からドイツの友人に宛てた絵葉書が、『ドイツ兵捕虜と収容生活―久留米俘虜収容所W―』(2007)144頁及び150頁に紹介されている。ライプチヒ(Leipzig)出身。(427:久留米)
59) Fischer(フィッシャー),Walter(1892-1970):第3海兵大隊野戦重砲兵隊・上等歩兵。ドイツに帰国後結婚して娘一人をもうけた。ナイチャウ(Naitschau)出身。(2527:名古屋)
60) Fischer(フィッシャー),Willy (?-?) :第3海兵大隊重野戦榴弾砲兵隊・掌砲兵曹長。1895年4月2日海軍に入った。1908年4月1日掌砲兵曹長。後、天津の海軍東アジア分遣隊に配属され、1914年8月青島の上記部隊に移籍した。ベルリン(Berlin)出身。(3306:熊本→久留米)
61) Fischesser(フィシェッサー),Franz(1890-?):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。【『俘虜名簿』では「Fischer」となっているが、シュミット氏の「俘虜リスト」に拠った】。上部エルザスのリューリスハイム(Rülisheim)出身。(414:久留米)
62) Fischinger(フィッシンガー),Adolf(?-?):第3海兵大隊第7中隊・伍長。[アーレンス継続社神戸支店]。松山時代、日本語を少し話したので仲間達の代理でクリスマス・ツリー等の購入役を務めた。解放後蘭領印度に渡り、バタビアの「フォン・ツィンマーマン商会」に勤めた。1925年には上海のジームセン(Siemssen & Co.)商会に勤務していた。2009年9月25日、フィッシンガーの縁者に当たるThomas Krakau氏がシュミット氏のHPの「ゲストブック」に書き込みをした。ゼッキンゲン(Säckingen)出身。(2860:松山→板東)
63) Flender(フレンダー),Karl(?-?):第3海兵大隊第4中隊・上等歩兵。1918年8月7日久留米から板東へ収容所換えになった。1919年6月1日(日)、12種目から成る体操大会が開催されたが、フレンダーは117⅓点を獲得して上級の部の第3位になった【『バラッケ』1919年6月号より】。ヴェストファーレンのエンデブリュック(Endebrück)出身。(3289:熊本→久留米→板東)
64) Flentie(フレンティー),Theodor(?-?):築城部・築城曹長。青野原時代、1918年12月13日から20日まで開催された俘虜製作品展覧会で、フレンティーは模型部門で三本マストの帆船、さらにホッフェント(Hoffend)と共同で同じく模型部門に、給水塔(鉄筋コンクリート製200センチ、20分の1モデル、50分の1設計図、力学計算書、建築過程の写真付き)、楽器部門では低音ギターを出品した【『AONOGAHARA捕虜の世界』38-39、77、78、79頁】。ハノーファー(Hannover)出身。(2183:姫路→青野原)
65) Fliegelskamp(フリーゲルスカンプ),Otto(1889-?):砲艦ヤーグアル乗員・海軍少尉。1908年4月1日海軍に入った。1911年9月27日海軍少尉となり、砲艦ヤーグアルに乗り込んだ。1914年9月19日海軍中尉に昇進した。エーリヒ・カウル(Erich Kaul)の遺稿日記によれば、カウルはフリーゲルスカンプ少尉のために箱を製作して3円を得た。ドイツに帰国後の1920年3月8日に退役したが、後に復帰して最後は海軍少佐になった。ヴィースバーデン(Wiesbaden)出身。(72:東京→習志野)
66) Flögel(フレーゲル),Wilhelm K.F.(1887-1918):海軍砲兵中隊・1等機関兵曹。1918年8月5日久留米から名古屋へ移送されたが、11月23日に死亡して、陸軍墓地に埋葬された。ラーテノー(Rathenow)出身。(3313:熊本→久留米→名古屋)
67) Florian(フローリアン),Paul(1883-1921):海軍東アジア分遣隊第2中隊・陸軍中尉。1904年3月10日陸軍(歩兵隊)に入隊、1904年6月10日少尉、1911年10月1日海軍歩兵隊へ移籍、1913年6月16日中尉に昇進した。久留米時代、1916年11月15日の大正天皇即位大典の祝いに、俘虜一人につきビール一本とりんご2個が配布された。しかしフローリアンはベーゼ(Boese)中尉とともに日独両国が交戦中であることを理由に拒否すると、激怒した真崎甚三郎所長に殴打された。このことは後に大問題に発展した。ドイツ帰国後の1920年1月30日陸軍大尉となり、その後陸軍大佐で退役した。プフォルツハイム(Pforzheim)出身。(3311:熊本→久留米)
68) Fock(フォック),Peter(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[ザンダー・ヴィーラー商会上海支店]。松山時代、公会堂の収容所講習会で4回に亘って英語の講師を務めた。ハンブルク(Hamburg)出身。(2854:松山→板東)
69) Focken(フォッケン),Charly(?-1919):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。1919年1月29日、スペイン風邪により習志野で死亡した。ヴィルヘルムスハーフェン(Wilhelmshaven)出身。(4351:「熊本→」大分→習志野)
70) Fohmann(フォーマン),Paul(?-?):第3海兵大隊重野戦榴弾砲兵隊・2等砲兵。1915年9月20日福岡から名古屋へ収容所換えになった。1916年(月日不明)、「入倉者ニ対シ陰ニ鶏卵ヲ差入レントシタル科」で重営倉10日の処罰を受けた。テューリンゲンのゼッメルダ(Sämmerda)出身。(1046:福岡→名古屋)
71) Fokkes(フォッケス),Alfred(?-?):海軍膠州砲兵隊・後備砲兵軍曹長。大戦終結後は、一般送還船出発前に予め日本国内で解放された。1925年時点では、天津の大沽街90番地のヴァルデ商会(A.Walde)に勤めていた。ハンブルク(Hamburg)出身。(3891:大阪→似島)
72) Foerck(フェルク),Theodor(?-?):第3海兵大隊第2中隊・後備上等歩兵。1914年9月28日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米俘虜収容所に送られた【『欧受大日記』大正三年十一月上より】。1954年11月6日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。ハンブルク(Hamburg)出身。(416:久留米)
73) Forst(フォルスト),August(1892-1967):海軍膠州砲兵隊・1等砲兵。1892年2月27日坑内監督の子として生れた。1916年10月22日福岡から習志野へ収容所換えになった。第二次大戦後郷里に戻ってから、ヴィルヘルム・シフラー(Wilhelm Schiffler)と接触をもち、1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した【シュミット】。ビルトシュトック(Bildstock)出身。(1030:福岡→習志野)
74) Förste(フェルステ),Willy(?-?):第3海兵大隊機関銃隊・2等兵。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ヴァイセンフェルス(Weißenfels)出身。(2530:名古屋)
75) Fortak(フォルタク),Emil(?-?):海軍野戦砲兵隊・上等砲兵。1918年8月7日久留米から板東へ収容所換えになった。大戦終結後の1919年12月26日、帰国船豊福丸で下記ローベルト(Robert)と同船でドイツに帰国した。東プロイセンのナイデンブルク(Neidenburg)郡イットヴケン(Ittowken)出身。(3303:熊本→久留米→板東)
76) Fortak(フォルタク),Robert(?-?):第3海兵大隊第5中隊・2等歩兵。大戦終結後の1919年12月26日、帰国船豊福丸で上記エーミール(Emil)と同船でドイツに帰国した。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。東プロイセンのナイデンブルク(Neidenburg)郡イットヴケン(Ittowken)出身。(2532:名古屋)
77) Fourestier(フレシュティーア),Max Paul Ferdinand(1895-1980):第3海兵大隊重野戦榴弾砲兵隊・2等兵。[鞄職人]。1912年、志願兵で海軍入りした。1915年9月20日福岡から名古屋へ収容所換えになった。解放されて帰国後の1920年9月16日二等鉄十字勲章を受けた。1923年4月28日ルイーゼ(Luise Charlotte Johanna Buchholz)と結婚した。1931年、鞄職人から郵便局員になった。ベルリン(Berlin)出身。(1047:福岡→名古屋)
78) Frank(フランク),Gustav(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[北ドイツ・ロイド汽船]。ハイデルベルク近郊のロールバハ(Rohrbach)出身。(2855:松山→板東)
79) Frank(フランク),Karl August Eduard(?-?):海軍東アジア分遣隊第3中隊・2等歩兵。1915年7月11日福岡から久留米へ収容所換えになった。解放後は蘭領印度ジャワのヴェルテフレーデンに渡った。やがて結婚して子供二人をもうけた。バーデン・バーデン(Baden Baden)出身。(1042:福岡→久留米)
80) Frank(フランク),Paul Friedrich(1892-?): 第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。ロストックで生まれた。解放後は蘭領印度に渡り、ジャワ近郊のブイテンツォルク(Buitenzorg)動物園の管理人をしたと思われる。フリーデル・シュヴァルツ(Friedel Schwarz)と結婚した。出身地不明【『俘虜名簿』では出身地として中国の漢口と記載されているが、シュミット氏の調査によればフォークトラント(Vogtland)のプラウエン(Plauen)出身】。(2521:名古屋)
81) Franke(フランケ),Alfred(?-?):第3海兵大隊第3中隊・2等歩兵。1918年9月20日、明星山への郊外散歩中に逃亡し、上広川村水原付近で捕まった。精神に異常を来たしていたことから休養室に収容された【『ドイツ軍兵士と久留米』12頁】。ボヘミアのクランメル/アオスッヒ(Krammel/Aussig)出身。(424:久留米)
82) Franke(フランケ), August(?-?):第3海兵大隊工兵中隊・上等工兵。1916年10月21日福岡から名古屋へ収容所換えになった。1917年8月16日、ブラードゥル(Bradl)及びレンツェン(Lenzen)とともに、名古屋電気鉄道での電車用電動機及び機械器具修繕の労役に就いた【校條「名古屋俘虜収容所 覚書V」所載:『「青島戦ドイツ兵俘虜収容所」研究』第6号、26頁】。ドゥルラッハ(Durlach)出身。(1035:福岡→名古屋)
83) Franz(フランツ),Friedrich(?-?):兵監及び兵站部・砲兵監督。青島時代は虎街(Tigerstraße)に住んでいた。板東時代、ファルケンハイン(Falkenhayn)大尉と共同で原寸大の帆船、小船を制作して、公会堂の屋外の庭に展示した。ブラウンシュヴァイクのキッセンブリュック(Kissenbrück)出身。(2868:松山→板東)
84) Franz(フランツ),Oskar(?-?):第3海兵大隊第7中隊・上等歩兵。[レオポルト・カッセラ商会]。丸亀時代の1915年8月14日、陸軍省副官名で発せられた文書に、名古屋の波越型染社から、染色技術を持つフランツ及び同じ丸亀のペルツァー(Peltzer)、松山のルートマン(Luthmann)の3名を雇い入れる希望をもって面接したいと願い出ていることが記されている【校條「名古屋俘虜収容所 覚書V」所載:『「青島戦ドイツ兵俘虜収容所」研究』第6号、18頁参照】。板東時代の1917年5月、松山俘虜収容所からの人員を加えて拡大した「エンゲル・オーケストラ」の第2ヴァイオリン、後に第1ヴァイオリンを担当した。1918年12月28日付けの板東収容所記録によると、東京市入谷町の大橋製釦会社に染色技師として招聘されるために習志野収容所に移送決定との文書が残っている。当時37歳だった。1919年9月22日、板東に再び移された。解放後は、東京の合名会社「Urokago商店」に就職した。バイエルンのホーフ(Hof)出身。(1884:丸亀→板東→習志野→板東)
85) Franz(フランツ),Otto(?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・2等砲兵。右大腿部榴散弾弾子盲銃創により、大阪陸軍衛戍病院に入院した。ベルリン郊外のシュプレー河畔フュルステンヴァルデ(Fürstenwalde)出身。(4631:大阪→似島)
86) Frausin(フラウズィン),Josef(?-?):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・2等水兵。1916年10月9日、マダレンチッチ(Madalencic)等12名と青野原から丸亀に移送された。板東収容所へ移送後まもなくの1917年6月22日、イタリアの連合国加盟により宣誓解放された。高木大尉以下下士13名の付き添いの下、小松島港から徳島丸(共同丸?)で神戸に着き、同夜は栄町の「恵比須屋旅館」に投宿した。大正6年6月24日付『神戸新聞』には、その折の高木大尉を囲む記念写真、旅館でくつろぐ13名の解放俘虜の写真が掲載された。トリエステ郊外のムッギア(Muggia)出身。(2189:姫路→青野原→丸亀→板東)
87) Freese(フレーゼ),Wilhelm(?-?):第3海兵大隊第6中隊・予備伍長。[シュヴァルツコプフ香港支店]。松山時代(公会堂収容)の1915年5月26日、23日にビールを買うために脱柵したことで重営倉20日に処せられた。板東時代の1918年8月11日、「収容所体操クラブ」の「ヤーン祭」で、収容所仲間による体操を詠んだ詩を朗読した【『バラッケ』第2巻411頁】。板東時代、松山スポーツ協会の役員を務めた。板東時代の1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会で(当時30歳)、2時間24分49秒で12位になった【『バラッケ』第4巻4月号80頁】。解放後は蘭領印度へ渡ったが、1922年上海へ赴いた。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。キール(Kiel)出身。(2849:松山→板東)
88) Freisewinkel(フライゼヴィンケル),Karl Julius(1890-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。応召前は神戸で働いていた。松山時代、公会堂の講習会で製図の講師を務めた。板東時代、公会堂での絵画と工芸品展覧会に、「大麻神社の並木道」と題するペン画を、また玩具コーナーには城・木の兵隊・ノアの箱舟を出品した。解放後は蘭領印度へ渡って、バタビアの水力発電所に勤めた。結婚して子ども一人をもうけた。1968年に死亡宣告された。エアフルト(Erfurt)出身。(2856:松山→板東)
89) Freitag(フライターク,Hermann(?-?):第3海兵大隊野戦重砲兵隊・2等砲兵。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ラーン河畔のシュテーデン(Steeden)出身。(3305:熊本→久留米)
90) Fress(フレス),Max(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・1等砲兵。1915年9月15日福岡から習志野へ収容所換えになった。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ハンブルク(Hamburg)出身。(1024:福岡→習志野)
91) Freundlieb(フロイントリープ),Heinrich(1884-1955):第3海兵大隊第6中隊・補充予備2等歩兵。[パン職人]。1902年から1912年まで海軍で勤務し、1912年青島でパン屋を開業した。1915年(月日不明)、「日直将校ノ問ニ対シ事虚偽ニ渉リ且ツ日本ノ待遇ヲ侮辱セシ科」で重営倉7日の処罰を受けた。1917年2月20日、名古屋市内の加藤庄吉経営の麺麭製造所から収容所へ「製麺麭ニ心得アル俘虜」の労役紹介があった。フロイントリープが当局から指名されたものと思われる。職種としては「ドイツ式麺麭製造技術研究の目的」とされ、1日8時間、給与は月額10円だった【校條「名古屋俘虜収容所 覚書V」所載:『「青島戦ドイツ兵俘虜収容所」研究』第6号、21頁。なお、同書38〜40頁にかけて、フロイントリープの労役に関する詳細な記述がある】。大戦終結して解放後、愛知県半田町の「敷島製パン」に技師長として招聘され、高木ヨンと結婚し、1924年神戸北野に自分の店を開いた。ヴォルビス郡のユッツェンバッハ(Jützenbach)出身。(2520:名古屋)
92) Frevert(フレーフェルト),August(1880-?):第3海兵大隊第7中隊・上等歩兵。[青島郵便局]。板東時代、中国漢口に住む友人のヘルマン・ノイバウアー(Hermann Neubauer:不詳)から、フレーフェルトに宛てて出された葉書二通が、郵趣家三木充氏所蔵で現存している。その内の一通は1918年6月12日漢口消印で、文面は次の通り。「前略 今日、君宛に煙草入り小包を発送した。僕の住所は今日からフリーデリヒ街のディーデリヒセン気付だ。それ以外ここではまだ、まあまあなんとかってところだ。やはり一人また一人とまいり始めている。7月7日付けの小包をまだ受け取っていない、と書いてあったけれど。それは煙草入りの小包かい、それともかみそりの刃を入れた方かい?ともかく今日はこれで失礼」。もう一通は1918年6月15日漢口消印で、文面は次の通り。「前略 今日君宛に煙草を入れた小包を発送した。その後元気ですか? 近いうち僕たちはちょっとした旅行に出る。君にそのことをすでに知らせただろうか? 旅行に出る前にもう一度書いた次第です。今日はこれで。草々」【郵趣家三木充氏所蔵品より。なお、ヘルムート・レーマン(Hellmuth Lehmann)の項を参照】。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。リッペのアイケルミューエ(Eickermuehe)出身。(2861:松山→板東)
93) Frey(フライ),Jakob(1892-?):海軍膠州砲兵隊第1中隊・2等砲兵。解放後は蘭領印度へ渡り巡査になった。ザールブリュッケンのフェルクリンゲン(Völklingen)出身。(4145:「大阪→」徳島→板東)
94) Frey(フライ),Walther(?-?):第3海兵大隊第7中隊・副曹長。応召前は北京にいた。大戦終結後は、特別事情を有す日本内地居住希望者として、日本国内で解放された。1925年時点では、北京の建築事務所(Hunke & Müller)で働いた。シュトゥットガルト(Stuttgart)出身。(1885:丸亀→板東)
95) Freyenhagen(フライエンハーゲン),Johann(?-?):海軍膠州砲兵隊第1中隊・1等機関兵曹。板東時代の1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会で(当時33歳)、2時間30分56秒5分の4で85人中の第28位になった【『バラッケ』第4巻4月号81頁】。また、1919年6月1日(日)、12種目から成る体操大会が開催されたが、フライエンハーゲンは130点を獲得して古参選手の部の第1位になった【『バラッケ』1919年6月号より】。ヴェルサイユ講和条約締結後の1919年8月26日、出身地の帰属を問う州民投票に参加の為、ヤスペルセン(Jaspersen)、ブロイニンガー(Braeuninger)、ハンゼン(Hansen)、イェプセン(Jepsen)、カルステンス(Carstens)、ニールセン(Nielsen)の6名のシュレースヴィヒ出身者とともに一足先に帰国した。フレンスブルク(Flensburg)出身。(2866:松山→板東)
96) Freymuth(フライムート),Karl(?-?):海軍砲兵中隊・1等機関兵曹。熊本時代の1914年12月31日、「酒歩ヨリノ帰途脱走シ、人力車ニ乗シ、古町遊廓ニ到リ遊興ノ後午後九時、人力車ヲ駆リテ横手村ニ帰リ、車賃ヲ仕払ハズシテ寺内ニ遁入シタ」科で重営倉10日の処罰を受けた。1918年8月7日久留米から板東へ収容所換えになった。板東時代の1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会の「シニアの部」(当時35歳)で、2時間50分13秒で16人中の14位になった【『バラッケ』第4巻4月号83頁】。ミュンヘン郊外のライト(Rheidt)出身。(3312:熊本→久留米→板東)
97) Fricke(フリッケ),Heinrich(?-?):海軍膠州砲兵隊第1中隊・1等砲兵。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ブラウンシュヴァイクのシャンデラー(Schandelah)出身。(3893:大阪→似島)
98) Fricke(フリッケ),Wilhelm(?-?):砲艦ヤーグアル乗員・2等按針兵曹。日独戦争前、ヤーグアル乗員として度々日本を訪れた事があり、日本近海の情報に通じていた。熊本時代の1915年1月24日、阿弥陀寺に収容されていたフリッケは、ブッシュ(Johannes Busch)、ラッペンエッカー(Rappenecker)及びツァイス(Zeiss)の四人で収容所から脱走した。夜の内に海岸へ20キロの地点まで進んだ。翌朝早くに同罪となることを恐れたシューマン(Paul Schumann)の報告で脱走が分かり、四人はボートで海に漕ぎ出す寸前で警察官に逮捕された。荒縄で繋がって縛られて収容所に連れ戻され、やがて軍法会議で禁錮10月に処せられた。拘禁中は赤茶色の囚人服を着せられた。解放後は蘭領印度に渡り、ジャワ島中部ヴェルテヴレーデンの皮革工場で働いた。ノイハウス(Neuhaus)出身。(3320:熊本→久留米)
99) Friebel(フリーベル),Franz(?-?):第3海兵大隊第4中隊・上等歩兵。1916年9月30日、久留米収容所より情報局へ、フリーベルの処罰について通報があった。オールドゥルフ(Ohrdruff)近郊のヴェルフィス(Wölfis)出身。(3290:久留米)
100) Friedel(フリーデル),Heinrich(?-?):第3海兵大隊第4中隊・2等歩兵。[山東鉄道・車両長(マイスター)]。済南から応召した。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ヘッセン=ナッサウのディレンブルク(Dillenburg)出身。(3299:熊本→久留米)
101) Friedmann(フリートマン),Wilhelm(1891-1963):第3海兵大隊第5中隊・2等歩兵。解放後、テレージア・ザイラー(Theresia Seiler)と結婚した。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ツェル(Zell)出身。(2531:名古屋)
102) Friedrich(フリードリヒ),Karl(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・1等砲兵。1915年9月15日福岡から習志野へ収容所換えになった。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。フランクフルト(Frankfurt am Main)出身。(1025:福岡→習志野)
103) Friedrich(フリードリヒ),August Wilhelm(1891-1959):第3海兵大隊野戦砲兵隊・伍長。解放後は蘭領印度に渡って巡査になり、後にジャワ島西部ケリボン(Cheribon)の警察部長になった。アンナ・ビュルク(Anna Bürck)と結婚して子供二人をもうけた。1940年、第二次大戦勃発で収容所に収容され、1947年ドイツへ戻った。ゴータ(Gotha)出身。(2526:名古屋)
104) Friedrichsen(フリードリヒゼン),Jacob(1885-?):海軍砲兵中隊・後備2等掌砲兵曹。1905年時点では店員であったが、後に海軍に入った。1916年1月11日、習志野で脱走未遂事件を起こした。出身地不明(『俘虜名簿』では天津)。(70:東京→習志野)
105) Frieling(フリーリング),Heinrich(?-?):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。1914年9月28日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米俘虜収容所に送られた【『欧受大日記』大正三年十一月上より】。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。レーリングハウゼン(Röhlinghausen)出身。(417:久留米)
106) Friese(フリーゼ),Hans Hermann Heinrich(1888-1966):国民軍・上等兵。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。メクレンブルク=シュヴェーリンのテテロウ(Teterow)出身。(2185:姫路→青野原)
107) Friese(フリーゼ),Wilhelm August Friedrich(1890-1981):総督府・1等電信兵曹。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。メクレンブルク=シュヴェーリンのテテロウ(Teterow)出身。(2180:姫路→青野原)
108) Frings(フリングス),Leopold(?-?):海軍膠州砲兵隊第1中隊・1等焚火兵。プリュショー中尉付き下士卒で、8月3日飛行機の翼の再組み立てに従事した。ラインラントのケルンミュールハイム(Kölnmühlheim)出身。(3889:大阪→似島)
109) Frisch(フリッシュ),Franz(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[ハンブルク・アメリカ汽船]。板東時代の1918年4月21日、クラーゼン(Claasen)及びヴェーゲナー(Wegener)と共同で「歌の夕べ」を開催して仲間達に感動を与えた。フリッシュは「バラの香の中で」及び「もしかすると」を独唱した。また1918年6月1日、軍楽曹長ハンゼン(Hansen)によって、ベートーヴェンの「第九交響曲」が板東俘虜収容所内で本邦初演された。その折り、フリッシュ、ヴェーゲナー(Wegener)2等歩兵、シュテッパン(Steppan)2等歩兵、コッホ(Koch)伍長の四人は第4楽章の「合唱」でソロを受け持った。リューベック(Lübeck)出身。(2852:松山→板東)
110) Frithoff(フリートホフ),Wilhelm(?-?):所属部隊不明・後備2等筆記。[商人]。妻アンナ(Anna)は大戦終結まで青島に留まった。大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として日本国内で解放された。ブランケゼー近郊のドッケンフーデン(Dockenhuden)出身。(4507:大阪→似島)
111) Fritsche(フリッチェ),Julius(?-?):国民軍・砲兵軍曹長。妻と娘二人は大戦終結まで上海で暮らした。ザクセン県のヴァイセンゼー(Weissensee)出身。(4501:大阪→似島)
112) Fritz(フリッツ),Georg(?-?):第3海兵大隊第3中隊・2等歩兵。1919年4月20日に行われた「久留米体操クラブ」の5種競技(投擲用ボール投げ、石投げ(15kg)、幅跳び、棒高跳び、100m競争)では、80点を獲得して初級の部の第3位になった。シュトゥットガルト(Stuttgart)出身。(783:久留米)
113) Fritzsche(フリッチェ),Arthur(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・予備伍長。1915年9月15日福岡から習志野へ収容所換えになった。習志野時代、東京京橋の「カフェ・パウリスタ」に洋菓子の指導に出かけた。ハンブルク(Hamburg)出身。(1022:福岡→習志野)
114) Fröbel(フレーベル),Karl(?-?):第3海兵大隊第4中隊・2等歩兵。久留米時代は収容所の音楽活動で、「山のあなた」の詩で知られる詩人カール・ブッセの「二つの喜び」等の詩に作曲したり、自ら歌曲を歌ったりもした。シュタイツ(Wilhelm Steitz)の手になると思われる収容所の柵をあしらったスケッチには、中央部分に「久留米収容所楽団」のオットー・レーマン(Otto Lehmann)以下22名の楽団員の写真が並べられ、また一人一人のサイン(ただしレーマンのを除く)が記されている【〔写真6〕参照】。さらに写真には各自のパートも記されている。それによるとフレーベルは、第2ヴァイオリンを受け持った。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ケルン(Köln)出身。(3295:熊本→久留米)
115) Fröhlich(フレーリヒ),Christian(1880-1952):第3海兵大隊第2中隊・後備上等歩兵。[フレーリヒ建築事務所]。1900年、一兵士として中国に赴いた。1903年総督府上部建築部に勤務した。1909年、青島のヴィルヘルム皇帝海岸通で建築事務所を経営した。同年9月14日、パオリーネ・パプスト(Pauline Pabst)と結婚し、娘三人をもうけた。妻と娘たちは大戦終結まで青島で暮らした。板東時代の1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会においては、2時間46 分11 秒で「シニアの部」の16人中の第10位になった【『バラッケ』第4巻4月号83頁】。大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として日本国内で解放されたが【『俘虜ニ関スル書類』より】、1920年家族とともにドイツに帰国した。帰国後更に4人の子どもをもうけた。1922年末か1923年の始めに単身青島に赴き、建築事務所を開設したが、1928年郷里に戻り、農地を相続した。ラーン河畔のランゲンデルンバハ(Langendernbach)出身。(2863:松山→板東)
116) Fröhlich(フレーリヒ),Franz(?-?):第3海兵大隊第4中隊・2等歩兵。熊本時代、1915年1月20日から5月27日まで、靴工として従事した。ヴェストファーレンのシュトレームベルク(Strohmberg)出身。(3293:熊本→久留米)
117) Fröhlich(フレーリヒ),Georg(1879-1952):国民軍・階級不明。[ベルニック・ウント・ペッター建築事務所(Bernick & Pötter,Baugeschäft)]。1906年(乃至は1907年)から青島で暮らした。青島時代はフリードリヒ街413番地に住んだ。1913年8月30日アンナ・クヴェルンハイム(Anna Quernheim)と結婚し、息子一人をもうけた。妻と息子は大戦中も青島に留まった。大戦終結後は、青島での就職既定者として日本国内で解放された。1920年家族と共にドイツへ帰国し、やがて娘一人をもうけた。メンヒェングラートバハ(Mönchengladbach)出身。(4504:大阪→似島)
118) Froehlich(フレーリヒ),Karl(?-?):第3海兵大隊工兵中隊・2等工兵。板東時代、工芸品展に自動噴水の仕掛けによる見事な仕上がりの水槽を製作・出品し、収容所賞第2位に輝いて賞金5円を獲得した。シュレージエンのシラースドルフ(Schillersdorf)出身。(2865:松山→板東)
119) Froehlich(フレーリヒ),Oskar(1891-1969):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・海軍中尉。日本軍による包囲後、歩兵堡塁中間地区の左翼側でクーネンフェルス(Kuhnenfels)中尉とともに、カイゼリン・エリーザベト乗員の揚陸部隊指揮に当たった。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。グラーツのシュタイアーマルク(Steiermark)出身。(2179:姫路→青野原)
120) Frohnwieser(フローンヴィーザー),Fritz(?-?):巡洋艦皇后リーザベト乗員・3等水兵。解放後は蘭領印度へ渡って、ジャワ島頭部スラバヤのアントシュ(Antosch)・ホテルに職を得た。ケルンテン(Kärnten)のヴィラッハ(Villach)出身。(3322:熊本→久留米)
121) Frymark(フリーマルク),Franz(1890-?):第3海兵大隊第6中隊・軍曹。[兵営監督]。1913年3月、青島でフリーデリーケ(Friederike Marie Helene Bindemann)と結婚した。1914年末妻は天津に移った。熊本時代、法則を遵守しなかった科で重営倉2日の処罰を受けた。ミルデ河畔のカルベ(Calbe)出身。(3301:熊本→久留米)
122) Fuchs(フクス),Oskar Albert(1893-1949):海軍砲兵中隊・2等測量兵。織物の意匠デザインの修業をした後、1913年海軍入りして青島へ赴いた。解放されて帰国後は人絹工場の倉庫主任として勤めた。1928年、リスカ(Liska;1899-1983)と結婚して息子一人をもうけた。エルスターベルク(Elsterberg)出身。(3315:熊本→久留米)
123) Fuchs(フクス)Karl E.(1893-1946):海軍膠州砲兵隊第5中隊・1等砲兵。商人としての修業をして、1911年に3年志願兵として海軍入りし、1912年2月17日青島に着いた。1918年3月22日福岡から習志野へ収容所換えになった。解放されて帰国後の1921年、ゼルマ(Selma Gräfe)と結婚して息子二人をもうけた。1933年から染料工場に勤めた。マックス・ハンペ(Max Hampe)と頻繁に交流した。1945年、ソ連軍によってワイマール郊外のブーヘンヴァルト(Buchenwald)収容所に容れられ、事故により収容所で死亡した。ライプチヒ近郊のフリーダースドルフ(Friedersdorf)出身。(1023:福岡→習志野)
124) Fuhrmann(フーアマン), Wilhelm H.(?-?):第3海兵大隊機関銃隊・2等兵。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。シュレージエンのヴァイスドルフ(Weißdorf)出身。(3309:熊本→久留米)
125) Fürl(フュルル),Max(1890-1973):第3海兵大隊第5中隊・軍曹。ベルリンのシュテークリッツ(Steglitz)で没した。ブランデンブルクのフィンスターヴァルデ(Finsterwalde)出身。(2524:名古屋)
126) Fütterer(フュッテラー),Ernst(1893-1954):海軍野戦砲兵隊・上等砲兵。1915年6月熊本から久留米へ収容所換えになった。1918年6月、「久留米体操クラブ(Turnverein Kurume)」から分派した「久留米体操会(Turnschaft-Kurume)」の会長を務めた。1920年ドイツに帰国した。やがて第二次大戦で応召したがソ連軍の捕虜となり、1954年3月19日、東シベリアのチュナ(Tschuna)で没した。キルラッハ(Kirrlach)出身。(3304:熊本→久留米)
127) Fydrich(フィードリヒ),Karl(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・砲兵軍曹長。〔第8a砲台指揮官〕。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。東プロイセンのライン(Rhein)出身。(4149:「大阪→」徳島→板東)