1) Ibler(イブラー),Franz(?-?):海軍東アジア分遣隊第1中隊・2等歩兵。習志野時代、習志野劇場による「トーマの夕べ」で、トーマ作の1幕物田舎茶番劇『一等車』に運転手役で出演した。ミュンヘン(München)出身。(106:東京→習志野)
2) Ide(イーデ),Georg(?-?):海軍膠州砲兵隊第1中隊・2等砲兵。高等師範の主将だった田中敬孝の子息の手元には、俘虜チームの写真が遺されている。体操服を着て肩を組んで並んでいる11名の写真の裏には、メンバーの名前と思われる人名が記されている。イーデの名が記されていることから、メンバーの一員だったと思われる【〔写真12〕参照】。他のメンバーは、ハープリヒス(Habrichs)、ハイネマン(Heinemann)、ホロナ(Holona)、クラーバー(Klaiber)、クラインベック(Keinbeck)、クヌッベン(Knubben)、レーベン(Loeven)、ポッサルト(Possardt)、シュライ(Schrey)、シュルマン(Schürmann)の10名である。なお、1919年1月26日に高等師範学校の運動場で、高等師範等の生徒と試合を行ったのは、集合写真【〔写真11〕参照】から別のチームと思われる。解放後は蘭領印度に渡ったが、1922年にはドイツに戻った。ブランデンブルクのハーゼルホルスト(Haselhorst)出身。(3934:大阪→似島)
3) Iffli(イフリ),August(?-?):海軍東アジア分遣隊第1中隊・2等工兵。大阪俘虜収容所は1917年2月19日に閉鎖されたが、同年3月8日時点で大阪衛戍病院に入院していた【参照:『日独戦争ノ際俘虜情報局設置並独国俘虜関係雑纂 第四巻』在本邦俘虜名簿配付及俘虜ノ安否其他情報問合ニ関スル件】。宣誓解放された。ロートリンゲンのアルトリス(Altris)出身。(4533:大阪→似島)
4) Ihrig(イーリヒ),Adam(1891-1974):海軍膠州砲兵隊第4中隊・2等砲兵。解放後は蘭領印度に渡った。結婚して子どもが一人いた。1968年、「チンタオ戦友会」に出席した。ダルムシュタット(Darmstadt)出身。(4187:「大阪→」徳島→板東)
5) Ilgner(イルクナー),Richard(1892-1954):砲艦ヤーグアル乗員・2等焚火兵。ザクセンのガルデレーゲン(Gardelegen)出身。(107:東京→習志野)
6) Iller(イラー),Johann(1892-1978):第3海兵大隊第3中隊・2等歩兵。[煉瓦積工]。解放後はヒマラヤ丸でドイツに帰国した。1921年11月14日エリーザベト(Elisabeth )と結婚して娘二人をもうけた。1960年代に、「チンタオ戦友会」に出席した。フルダ近郊のグローセンリュー(Grossenlueder)出身。【『俘虜名簿』では「Jller」となっている】。(516:久留米)
7) Imberg(イムベルク),Richard(?-?):海軍東アジア分遣隊・2等歩兵。1915年7月11日福岡から久留米へ収容所換えになった。久留米時代は演劇活動で、イプセン作の『国民の敵』に出演した。ミュンヘン(München)出身。(1160:福岡→久留米)
8) Immerheiser(イムマーハイザー),Friedrich(?-?):第3海兵大隊第7中隊・上等歩兵。板東時代、第6棟3室でビールとタバコの販売店を営んだ。大戦終結して解放後は、蘭領印度に渡った。ビンゲン(Bingen)出身。(1931:丸亀→板東)
9) Irmer(イルマー),Fritz(?-?):砲兵兵站部・2等掌砲兵曹。妻エルナ(Erna)は大戦終結まで青島に留まった。大戦終結後は、青島での就職既定者として日本国内で解放された。出身地不明(『俘虜名簿』では青島)。(2237:姫路→青野原)
10) Iserlohe(イーゼルローエ),Paul(?-?):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。1914年9月28日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米俘虜収容所に送られた【『欧受大日記』大正三年十一月上より】。郵趣家イェキッシュ氏所蔵になるイーゼルローエの日記が、生熊文氏の抄訳で『ドイツ軍兵士と久留米』(137-141頁)に紹介されている。紹介されている部分は、1914年10月9日から1915年3月3日までである。到着早々の10月15日の記述には、日本の僧侶等の団体が定期的にお土産を持参して面会に来たこと、また婦人会が訪れてプレゼントを直に手渡したことが記されている。リュートゲン=ドルトムント(Lütgen-Dortmund)出身。(513:久留米)
11) Isolap,(イソラプ)Georg(1894-?):砲艦ヤーグアル乗員・2等水兵。東カロリン群島のポナペ島原住民。1911年8月1日、ポナペ島から青島へ赴き、造船所で鍛治職として修業し働いていた。日独戦争勃発とともに砲艦ヤーグアルに乗り組んだが最終的に俘虜となった【『ドイツ兵士の見たNARASHINO』91頁】。1919年10月25日付けの「習志野俘虜収容所ニ収容中ナル南洋人俘虜ニ関スル件照会」によれば、第2代習志野俘虜収容所長山崎友造からの要請で、他のドイツ人俘虜より早めに解放されたと思われる。2006年末にシュミット氏によって、「アジア歴史資料センター」にイソラプ等ポナペ島出身者三名が解放の際に書き記した経歴書が発掘された。それによればイソラプは農場主「Piter Isolap」の息子となっているので、『俘虜名簿』の「ゲオルク」は名前で、イソラップ「Isolap」が苗字と受け取られる。東カロリン群島のポナペ(Ponape)島出身。(85:東京→習志野)
12) Israel (イスラエル;後に Jürgensen),Robert(?-1940):海軍膠州砲兵隊第4中隊・2等砲兵。1918年3月22日福岡から習志野へ収容所換えになった。ドイツに帰国後は妻エンマ(Emma)と革製品の店を営んだ。娘一人と息子二人がいた。1933年、政治的な圧迫から苗字をユルゲンセン(Jürgensen)に変えた。しかし、ユダヤ系ではなく、ユグノー派の出であった。収容所生活の後遺症で死亡したと思われる。ハンブルク(Hamburg)出身。(1158:福岡→習志野)
13) Ivanoff(イヴァノフ),Valentin D.(1891-?):国民軍・卒。『日独戦争ノ際俘虜情報局設置並独國俘虜関係雑纂』(外務省外交史料館所蔵)によれば、1916年5月4日、ウラヂスラフ・コフラー(Wladislaw Koffler)という名のオーストリア人と称して青島に流れてきた。ロシア語以外ほとんど理解しなかった、と記されている。しかし、『大正三年乃至九年 戦役俘虜ニ関スル書類』(防衛研究所図書館所蔵)中の「獨逸及墺洪国俘虜捕獲及内地後送對照表」の「第三、其ノ他ノ俘虜」によれば、大正5年5月3日、長崎に着いた汽船山城丸の乗客に言動の怪しい人物がいることが判明し、5日に門司に入港した時点で取調べを行った。大阪収容所に収容後の取調べでは、時々刻々申し立てを変更した。やがて移された似島収容所における供述では、東部戦線で負傷し、ウラジオストックに戻って義勇艦隊ペンザ号に乗り組んだがやがて脱走した。日本に収容されることを意図してのことであった、と記されている。『俘虜名簿』で唯一「釈放」と記載されている人物である。ロシアのオムスク(Omsk)出身。(4713:大阪→似島)