1)     Jäckel(イェッケル),Heinrich Christian Wilhelm1893-1968):海軍膠州砲兵隊第1中隊・1等砲兵。1912年青島へ赴いた。日独戦争では頭と腹に傷を負った。1918322日福岡から習志野へ収容所換えになった。ドイツに帰国後の1922126日シャルロッテ・ワーグナー(Charlotte Wagner)と結婚して、息子三人をもうけた。妻の里のリンデヴェラ(Lindewerra)で料理屋「葡萄亭」を営んだ。ヘッセン=ナッサウのオーバーリーデン(Oberrieden)出身。(1168:福岡習志野)

2)     Jacob(ヤーコプ),Hermann?-?):3海兵大隊7中隊・2等歩兵。[天津のカール・ヴォルフ(Carl Wolff)]。丸亀時代の191578日、第1ヴァイオリンのエンゲル(Paul Engel)、第2ヴァイオリンのモルトレヒト(Moltrecht)、第3ヴァイオリンのライスト(Leist)、第1フルートのヘス(Hess)、第2フルートのヤーコプ及びオルガンのクラーゼン(Claasen)の6人によって「エンゲル・オーケストラ」【当初は「保養楽団」の名称で、1915110日に第1回演奏会が開かれた「寺院楽団」の後継楽団】が成立した。板東時代はエンゲル・オーケストラの団員で、フルートを担当した。また収容所の印刷所から『エンゲル・オーケストラその生成と発展 1914-1919』の本を出版した。その「まえがき」には、ヘルマン・ハーケ(Hermann Hake)の勧めによって執筆に至ったことが記されている。ベルリン(Berlin)出身。(1936丸亀板東

3)     Jacob(ヤーコプ),Wilhelm1890-1956):国民軍・卒。ゲッティンゲンで没した。リッペ=デトモルトのエルダー(Erder)出身。【『俘虜名簿』では「Jakob」となっているがシュミット氏の表記に倣った】。(4536:大阪似島)

4)     Jacobi(ヤコービ),Jacob?-?):海軍膠州砲兵隊第1中隊・2等砲兵。大阪収容所は1917219日に閉鎖されたが、同年38日時点で大阪衛戍病院に入院していた【参照:『日独戦争ノ際俘虜情報局設置並独国俘虜関係雑纂 第四巻』在本邦俘虜名簿配付及俘虜ノ安否其他情報問合ニ関スル件】。宣誓解放された。下部エルザスのオーバーモデルン(Obermodern)出身。(4535:大阪似島

5)     Jacobi(ヤコービ),Wilhelm?-?):第3海兵大隊予備榴弾砲兵隊・予備伍長。191885日久留米から名古屋へ収容所換えになった。ローマン(Lohmann)の遺品と思われる写真中に、ヤコービ、ブルベルク(Burberg)、及びローマン(Lohmann)の三人が、寺の山門を通り抜けて歩いて来る様子を写した写真が現存している【ローマンの項参照】。1954116日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。ハイデルベルク(Heidelberg)出身。(3401:熊本久留米名古屋)

6)     Jäger(イェーガー),Wilhelm?-?):3海兵大隊6中隊・2等歩兵。板東時代、収容所正門の外のすぐ近くにあった「小松ジャム製造所」の所長を務めた。販売はシュタール(Stahl)が担当した。バルト海沿いのミゼトゥロイ(Misetroy)出身。(2939松山板東

7)     Jahn(ヤーン),Josef?-?:巡洋艦皇后エリーザベト乗員・4等按針下士。姫路時代の1915223日、景福寺の収容所からリップスキー(Lippsky)、レッシュ(Resch)の三名で脱走を企て、禁錮9ヶ月の処罰を受けた。当時22歳だった。オーストリアのメーリッシュ=ロートヴァッサー(Maerisch Rotwasser)出身。(2247:姫路青野原)

8)     Jahn(ヤーン),Karl1890-1959:海軍砲兵中隊・1等水兵。[屠畜職人]。習志野時代、1918218日から他の4名のソーセージ職人と、千葉市に新設された農商務省畜産試験場の飯田吉英技師の求めに応じて、ソーセージ造りの秘伝を教えた(〔写真5〕参照)。この技術は農商務省の講習会を通じて全国の食肉加工業者に伝わり、習志野は日本におけるソーセージ製造の発祥地となった。当初彼は伝授を躊躇ったが、西郷寅太郎所長の熱心な要請に応じて公開した。「俘虜労役ニ関スル件」(欧受大日記大正89月)によれば、東京市芝区三田二丁目七番地の合名会社木村屋商店に雇用されたものと思われる。この文書には、「労役俘虜 海軍一等水兵カール・ヤーン 同二等水兵トーマス・ペーテルゼン。労役ノ種類 腸詰製造作業。場所 千葉県東葛飾郡船橋町堵殺場構内。時間 自午前八時 至午後四時(日曜日祭日ヲ除ク)。賃金 日給壱円」と記述されている。大戦終結後は、日本内地での契約が成立していたため日本で解放された。なお、「陸軍欧受大日記」(大正811月)によれば、東京市神田区三崎町一丁目の東京牛乳株式会社に腸詰製造作業で雇用された。やがてドイツに帰国後ローザ・パプスト(Rosa Pabst)と結婚して息子一人をもうけた。19591231日、ザールフェルトで没した。ザールフェルト(Saalfeld)出身。(313:東京習志野)

9)     Jahn(ヤーン),Otto1886-?):第3海兵大隊第1中隊・軍曹。ブランデンブルクのツェルテンドルフ(Zeltendorf)出身。(4534:大阪→似島)

10)    Jahnヤーン,Walter Friedrich Wilhelm1891-?):海軍膠州砲兵隊第1中隊・予備砲兵伍長。上海総領事館。板東時代、砲兵大隊スポーツ協会の役員を務めた。解放後は蘭領印度に渡った。ベルリン郊外のテルトウ(Teltow)出身。4188:「大阪」徳島板東)

11)    Jaehne(イェーネ),Paul?-?):第3海兵大隊第5中隊・2等歩兵。松山時代(長建寺収容)の1916107日の夜、垣根を越えて他の収容所へ行こうとした咎で、重営倉10日に処せられた。ドレスデン(Dresden)出身。(2936:松山板東)

12)    Jaehnert(イェーネルト),Fritz1888-?:第3海兵大隊第1中隊・予備副曹長。久留米時代は演劇活動で、マイアー=フェルスター作の『アルト・ハイデルベルク』等6演目に出演した。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ザーレ河畔のナウエンブルク(Nauenberg)出身。(3394:熊本久留米)

13)    Jakob(ヤーコプ),Ferdinand?-?):所属部隊不明・階級不明。[巡査]。トイピッツ近郊のトルノウ(Tornow)出身。(2948松山板東

14)    Jakob(ヤーコプ),Johann1892-1918):第3海兵大隊第5中隊・2等歩兵。19181114日名古屋で死亡、陸軍墓地に埋葬された。メルズンゲン郡のヴァイデルバッハ(Weidelbach)出身。(2574:名古屋)

15)    Jakobiヤコービ,Heinz?-?:第3海兵大隊6中隊・2等歩兵。[ドイツ・アジア銀行神戸支店。ポツダム(Potzdam)出身。(2942松山板東

16)    Jakoby(ヤコービ),Johann?-?):国民軍・上等歩兵。[総督府土地局徴税台帳記録係]。青島時代はハインリヒ皇子街(Prinz-Heinrich-Straße)に住んでいた。板東時代、板東俘虜収容所の詳細な地図(625分の1)を作成・印刷した(191941日付け)。今日1葉(Blatt 1)のみが残されている。その地図によれば、タパタオ区域は正門を入って左手の塀沿いにあった。妻ベルタ(Berta)は息子二人娘一人と、大戦終結まで青島に留まった。トリーア近郊のノイマーゲン(Neumagen)出身。2946:松山板東)

17)    Jandeleit(ヤンデライト),Joseph1892-1979):第3海兵大隊第1中隊・上等歩兵。アーヘンのシュトルベルク(Stollberg)出身。(509:久留米)

18)    Janell(ヤネル),Paul?-?):砲艦ヤーグアル乗員・1等機関兵曹。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。ノイブランデンブルク(Neu-Brandenburg)出身。(3410:熊本久留米)

19)    Jann(ヤン), Fritz Ferdinand1891-?):第3海兵大隊機関銃隊・伍長。解放後は蘭領印度に渡って巡査になった。後にジャワ島バタビアの警察学校に勤務した。ケーニヒスベルク(Königsberg)出身。(2571:名古屋)

20)    Jaensch(イェンシュ),Albert1893-?):海軍砲兵中隊・2等木工。キール郡のガールデン(Gaarden)出身。(1737:静岡習志野)

21)    Jansen(ヤンゼン),Gustav Adolf1888-1915):海軍野戦砲兵隊・予備副曹長。ローマン(Lohmann)の遺品中には、ヤンゼン、ローマン、エンゲルホルン(Engelhorn)、カルクブレンナー(Kalkbrenner)、シュテフェンス(Walter Steffens)、シュテーゲマン(Stegemann)の六人が、冬の陽だまりの中、収容所の建物内の縁側と思われるところに、思い思い居並んで座っている写真が遺されている【ローマンの項、及び〔写真9〕を参照】。また、雪が積もった日(1915115日と思われる)に、「名古屋俘虜収容所○所」の表札が下がった門の外で、雪の上に立っている写真も遺されている。1915213日名古屋で死亡し、陸軍墓地に埋葬された。ビアリュストク近郊のスプラスル(Suprasl)出身。(2576:名古屋)

22)    Janson(ヤンゾン),Ludolf?-?):海軍東アジア分遣隊第2中隊・予備上等歩兵。1915920日福岡から名古屋へ収容所換えになった。大戦終結後は、日本内地契約成立者として、日本国内で解放された。東京の松方正義家系統の松方五郎方で月給400円の高給で雇われた【校條「青島戦ドイツ兵俘虜と名古屋の産業発展 ―技術移転の様相を探る―」24頁より】。ブレーメン(Bremen)出身。(1173:福岡名古屋)

23)    Janssen(ヤンセン),Bernhard1891-1927:海軍東アジア分遣隊第1中隊・伍長。1914102日、四房山で俘虜となり、久留米俘虜収容所に送られた【『欧受大日記』大正三年十一月上より】。同月12日の久留米に到着した時の新聞記者との談話によれば、陸軍に入る前に海軍で勤務し、長崎を訪れたことがあり、日本の風俗等にも多少通じている。俘虜虐待などないことを確信していると語った。【『大正ニュース事典』第1437頁】。解放後は蘭領印度に渡って巡査になった。心臓麻痺によりジャワで没した。シュターデ河畔のビュッツフレート(Buetzfleth)出身。(517:久留米)

24)    Janssen(ヤンセン),Heinrich?-?):海軍膠州砲兵隊第1中隊・2等砲兵。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。ハノーファー近郊のヴェスターフーゼン(Westerhusen)出身。(3938:大阪似島)

25)    Janssen(ヤンセン),Peter?-?):3海兵大隊7中隊・予備伍長。広東から応召した。板東時代、収容所合唱団の指揮者を務めた。また板東時代の1919417日に開催された21キロの競歩大会で(当時30歳)、2時間3210秒で33位になった【『バラッケ』第44月号81頁】。東フリースラントのノルデン(Norden)出身。(1935:丸亀板東)

26)    Jarling(ヤールリング),Hans?-?):総督府・2等電信生。ヤールリングの手になるものと思われる「日記」の断片が遺されている【従来、いくつかのドイツの文献で「Hans Farling」の「日記」とされていたものは、ハンス=ヨアヒム・シュミット氏の丹念な『俘虜名簿』精査によって、ハンス・ヤールリングの誤記ではないかとの疑義が出された。詳細に検討したところ、(119141116日に門司からさらに船に乗っていること(2)翌朝広島(宇品)港に着いたこと(31119日には約300名のグループとなり、更に列車で向かうこと(4)午後1時に姫路に着いたこと。以上の記述(39頁)から、当初は姫路収容所に収容された俘虜であることが明白である。ケルステン(Hermann Kersten)かと目されたが、ケルステンは福岡俘虜収容所から青野原俘虜収容所に収容された俘虜で、姫路とは関わりが無い】。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ベルリン郊外のヴァイセンゼー(Weissensee)出身。(2242:姫路青野原)

27)    Jarmuske(ヤルムスケ),Volkmar B.?-?:第3海兵大隊機関銃隊・2等歩兵。久留米時代は演劇活動で、笑劇『チャーリーの叔母』に女役で出演した。上部シュレージエンのクロイツブルク(Kreuzburg)出身。3402:熊本久留米)

28)    Jaschok(ヤショク),Paul?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・2等砲兵。大阪俘虜収容所は1917219日に閉鎖されたが、同年38日時点で大阪衛戍病院に入院していた【参照:『日独戦争ノ際俘虜情報局設置並独国俘虜関係雑纂 第四巻』在本邦俘虜名簿配付及俘虜ノ安否其他情報問合ニ関スル件】。ヴェストファーレンのレックリングハウゼン(Recklinghausen)出身。(3940:大阪似島

29)    Jaspersenヤスペルゼン,Julius1875-?):第3海兵大隊第6中隊・後備陸軍少尉。〔湛山堡塁〕。満州の牛荘(ウンチャン)から応召した。松山時代の1915726日、陸軍大臣の通達を伝達する際、命令を信奉しなかった科により、29日に重謹慎5日に処せられた。ヴェルサイユ講和条約締結後の1919826日、出身地の帰属を問う州民投票に参加の為、ブロイニンゲル(Braeuninger)、フライエンハーゲン(Freyenhagen)、ハンゼン(Hansen)、イェプセン(Jepsen)、カルステンス(Carstens)、ニールゼン(Nielsen)の6名のシュレースヴィヒ出身者とともに一足先に帰国した。ドイツ北部シュレースヴィヒ・ホルシュタインのハーデルスレーベン(後にデンマーク領ハーデルスレーフ)出身。『中国におけるあるドイツ人商人の仕事と冒険』(Do Mau.Arbeit und Abenteuer eines deutschen Chinakaufmanns,Leipzig,Verlag E.A.Seemann,1936の著書がある。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。シュレースヴィヒのハデルスレーベン(Hadersleben)出身。2937:松山板東)

30)    Jasse(ヤッセ),Carl?-?):3海兵大隊6中隊・2等歩兵。[ジームセン香港支店]。エッセン(Essen)出身。(2941松山板東

31)    Jauch(ヤオッホ),Joh.G.?-?):3海兵大隊6中隊・後備2等歩兵。大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として日本国内で解放された。シュヴェニンゲン(Schwenningen)出身。(4634:大阪似島)

32)    Jauch(ヤオッホ),Otto1893-1981:海軍東アジア分遣隊第1中隊・2等歩兵。[電気技術者]。ドイツに帰国後の1921年、イーダ・リューディガー(Ida Rüdiger)と結婚して子ども6人をもうけた。レンプテンドルフ(Remptendorf)出身。(109:東京習志野)

33)    Jebram(イェブラム),Karl?-?):海軍東アジア分遣隊第3中隊・上等歩兵。1915711日福岡から久留米へ収容所換えになった。1917710日に行われた「久留米体操クラブ」の12種競技(鉄棒、平行棒の演習3種目、鞍馬の演習2種目、徒手体操1種目、陸上競技3種目)では、135を獲得して中級の部の第3位になった。ミュンヘン行政区フントハム(Hundham)村のウスダウ(Usdau)出身。(1177:福岡久留米)

34)    Jebsen(イェプセン),Walter?-?):3海兵大隊6中隊・予備副曹長。[ディーデリヒセン漢口支店]。松山時代(公会堂収容)の1916912日、収容所職員の命令に従順でないことから、重謹慎20日に処せられた。なお松山時代の後半、ドイツが負けたら故郷がデンマーク領になることを見込んで、デンマーク語を勉強し直すことを決意した。板東へ移ってからは、一人ではやる気が起こらなくなると、デンマーク語に関心を持っていたヴィーティング(Wieting)を誘って一緒に勉強した。シュレースヴィヒ=ホルシュタインのイツェホエ(Itzehoe)出身。(2938松山板東

35)    Jeg(イェーク),Wilhelm?-?):第1水兵師団第9中隊・2等測量兵。松山時代の19151026日、夕食の際に寝具に煙草とマッチを縫い付けて、入倉中の同僚に贈ろうとした科で、翌27日に重営倉6日に処せられた。ミュールハイム(Mühlheim)出身。(2947:松山板東)

36)    Jellositz(イェロジッツ),Josef?-?):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・1等水兵。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ウィーン(Wien)出身。(2251:姫路→青野原)

37)    Jellovcic(イェロヴチッチ),Anton?-?:巡洋艦皇后エリザベト乗員・1等水兵。191999日青野原で死亡、姫路陸軍墓地に埋葬された。大戦終結後、遺骨の引き取り手がなかったために、名護山霊園内の旧陸軍墓地に、ゴモルカ(Gomolka)およびヴィータ(Vita)とともに葬られたままである。オーストリアのスブルド(Sbrdo)出身。(2254:姫路青野原)

38)    Jennewein(イェンネヴァイン),Oscar?-?):3海兵大隊予備榴弾砲兵隊・上等砲兵。1904年頃から満州で働き、1909年頃から中国の福州の英米煙草会社に勤めた。19091210日、福州から従兄弟に宛てて書いた手紙が遺されている【ハンス=ヨアヒム・シュミット氏のホームページより】。トリーア近郊のノインキルヒェン(Neukirchen)出身。(1738:静岡習志野)

39)    Jensen(イェンゼン),Hans A.1880-1979):3海兵大隊予備榴弾砲兵隊・後備副曹長。[天津ドイツ中学校]。1914年夏、妻と日本旅行をして朝鮮経由で青島へ戻った。板東時代の19175月、松山俘虜収容所からの人員を加えて拡大した「エンゲル・オーケストラ」の第2ヴァイオリンを担当した。また1917717日に発足した「収容所保険組合」に第6中隊代表となり、かつ「保険組合」の会長を務めた。また収容所合唱団でテノールを担当した。妻子は大戦中も天津で過ごした。解放後は天津へ赴き、天津ドイツ中学校に復職したが、第二次大戦後にドイツへ強制帰国させられた。「チンタオ戦友会」に出席した。シュレースヴィヒ=ホルシュタインのカイトム(Keitum)出身。(2945:松山板東)

40)    Jeppel(イェペル),Heinrich?-?):海軍膠州砲兵隊・1等砲兵。1916925日福岡から青野原へ収容所換えになった。19181213日から20日まで開催された青野原俘虜製作品展覧会で、イェペルのグループは34種類の焼き菓子等を出品した【『AONOGAHARA捕虜の世界』83-84頁】。ドゥイスブルク(Duisburg)出身。(1169:福岡青野原)

41)    Jepsen(イェプセン),Hans H.?-?):第3海兵大隊第7中隊・第2後備伍長。〔シュヴァルツコプフ商会青島支店〕。ハンブルク(Hamburg)出身。(4380:「熊本」大分習志野)

42)    Jepsen(イェプセン),Julius1893-1964海軍膠州砲兵隊第2中隊・2等砲兵。ヴェルサイユ講和条約締結後の1919826日、出身地の帰属を問う州民投票に参加の為、ヤスペルセン(Jaspersen)、ブロイニンガー(Braeuninger)、カルステンス(Carstens)、フライエンハーゲン(Freyenhagen)、ハンゼン(Hansen)、ニールセン(Nielsen)の6名のシュレースヴィヒ出身者とともに一足先に帰国した。フレンスブルク(Flensburg)出身。(3939:大阪似島)

43)    Jeschke(イェシュケ),Josef A.1894-?):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・4等按針下士。ベーメンのトゥランテナウ(Trantenau)近郊のクラーデルン(Kladern)出身。(2248:姫路→青野原)

44)    Jeschke(イェシュケ),Oswald?-?):第3海兵大隊第2中隊・副曹長。松山時代(大林寺収容)の1916919日、ヴンダーリヒ(Wunderlich)から上海に居住するツィンマーマン(Otto Zimmermann)の妻に宛てた小包の二重底に、6名の信書が隠されていたことが発覚し、イシュケは重謹慎10日の処罰を受けた。他の4名はゲルビヒ(Gerbig)、マイアー(Otto Meyer)、シャイダー(Scheider)、ツィンマーマン(Otto Zimmermann)である。キール(Kiel)出身。(2933:松山板東)

45)    Joch(ヨッホ),Reinhold Wilhelm1893-?):海軍膠州砲兵隊第3中隊・2等砲兵。解放後は蘭領印度に渡り、農園主になった。リーゼ・コンユング(Luise Konyung)と結婚して子ども二人をもうけた。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ゾーリンゲン(Solingen)出身。(4289:「大阪」徳島板東)

46)    Jocher(ヨッヘル),Anton1890-1961):第3海兵大隊第2中隊・伍長。板東時代、「エンゲル・オーケストラ」団員で、第1クラリネット、後に第2クラリネットを担当した。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。バーデンのビシュヴァイアーBischweier出身。(1932:丸亀板東)

47)    Jock(ヨック),Adolf1892-1962海軍膠州砲兵隊第1中隊・2等砲兵。1914928日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米俘虜収容所に送られた【『欧受大日記』大正三年十一月上より】。バーデンのブレッテン(Bretten)出身。(518:久留米)

48)    Johannes(ヨハネス),Hugo?-1919):海軍膠州砲兵隊第1中隊・1等砲兵。1918322日福岡から習志野へ収容所換えになった。1919131日、スペイン風邪により習志野で死亡した。テューリンゲンのシュマルカルデン(Schmalkalden)出身。(1164:福岡習志野)

49)    Johannsen(ヨハンセン),Jakob?-?):海軍砲兵中隊・1等機関兵曹。18855月から1888年までフレンスブルクに居住、1888年から1910年までリンゲン(Lingen)に居住、19104月から19144月までフレンスブルクに居住【『俘虜ニ関スル書類』より】。フレンスブルク(Flensburg)出身。(2943松山板東

50)    Johannsen(ヨハンセン),Martin?-?:国民軍・卒。〔ミネラルウオーター製造会社「健康泉」経営〕。青島時代はブレーメン街264番地に住んでいた。1915920日、青島から大阪俘虜収容所に移送された。解放後は青島に戻った。シュレースヴィッヒ=ホルシュタインのブルンスビュッテラー(Brunsbütteler)出身。(4681:大阪似島)

51)    Johannsen(ヨハンセン),Peter?-?):海軍砲兵中隊・2等焚火兵。久留米時代の19198月、在京スイス公使宛に解放に関する信書を出した。1919628日に締結されたヴェルサイユ条約により、ドイツ領からデンマーク領に編入されたアーベンラー(独名アーペンラーデ;Apenrade)出身。(3408:熊本久留米)

52)    John(ヨーン),Hermann?-?):国民軍・卒。青島時代はテティス街(Thetisstraße)に住んでいた。1915920日、青島から大阪俘虜収容所に移送された。ケーニヒスベルク(Königsberg)出身。(4682:大阪似島)

53)    John(ヨーン),Victor?-?):3海兵大隊6中隊・2等歩兵。[ボルネマン商会(F.Bornemann & Co.)香港支店]。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ベルリン(Berlin)出身。(2940松山板東

54)    Johnson(ヨーンゾン),Rolf?-?:海軍東アジア分遣隊第2中隊・予備上等歩兵。バールト(Barth)の中国時代からの知り合いで、アスレチックの体操家だった。父親はデンマーク人であったがドイツの軍隊で働いていた。あるイギリス人娘と結婚することになって初めて自分がドイツ国籍を持たないことを知る。いずれの国籍を選ぶか悩み、最終的にはドイツ国籍を選んだ。結婚して二、三ヶ月後に大戦勃発し、青島に赴き、ドイツ軍部隊で働く。19159.20日福岡から名古屋へ収容所換えになった。第一次大戦終了後、再び中国に出かけ、まもなくその地で没した。収容所時代から酒を飲みすぎたのが原因と言われた。【ヨハネス・バールト『極東のドイツ人商人』(Barth,JohannesAls deutscher  Kaufmann in Fernost40】。ザクセン=マイニンゲンのゾンネベルク(Sonnenberg)出身。1174:福岡名古屋

55)    Jordan(ヨルダン;-Gamino), Johannes1889-1973):第3海兵大隊野戦砲兵隊・伍長。ヴェッツラー(Wetzlar)等で教職のための勉強をしたが1909年海軍砲兵隊に入隊した。解放後は蘭領印度に渡り巡査になったが、後にジャワのスカブミ(Sukabumi)で警察学校の指導者となり、最終的には警察部中将になった。1973924日スカブミで没した。マイン河畔のオーバーリーダーバッハ(Oberliederbach)出身。(3399:熊本久留米)

56)    Jorra(ヨラ),Julius1893-?):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。ドルトムント(Dortmund)出身。(512:久留米)

57)    Juchheim(ユーハイム[ユッフハイム]),Carl1889-1945:国民軍・卒。18891225日、ライン河畔の町カウプに13人兄弟の10番目として生まれた。父はビール醸造職人のマイスターだった。シュトラールズントの菓子店で修業し、1908年職業学校を卒業して菓子職人になると、その年青島で菓子店と喫茶店を営むドイツ人に招かれて赴任した。バウムクーヘンを得意とし、ここで菓子職マイスターの資格を得て青島のビスマルク街で菓子店を営んだ。1914728日にニッケル(Nickel)副曹長を証人の一人として結婚式を挙げた。妻の名はエリーゼ(Elise)と言った。青島陥落時はニッケル夫人が二人の幼子を連れてユーハイム家に身を寄せていた。そこへ日本軍兵士三人が家に入り込んできた。しかし危害を加えることはなく、ニッケル夫人の二歳の子供に、角のある色とりどりの可愛らしい小さなお菓子を差し出した。エリーゼは機雷を連想して、毒かと思って立ちはだかると、兵士は自ら食べてみせた。兵士が去ったあとで口にするととても甘くておいしいお菓子で、それは「金平糖」であったという。19159月、非戦闘員であったユーハイムに召喚状が届き、俘虜として日本に送られることになり、920日大阪収容所に収容された。やがて114日に息子カール・フランツが青島の病院で生まれたことをユーハイムは収容所で知った。大阪時代、ユーハイムはサッカーチームの一員だった。藤井寛『エアハルト・アルバムと大阪俘虜収容所』69頁(所載『大阪俘虜収容所の研究 ―大正区にあった第一次大戦下のドイツ兵収容所―』)には、ユーハイムを含むイレブンの写真が掲載されている。1917218日、大阪俘虜収容所から似島俘虜収容所に移送された。191934日から広島県物産陳列館(現在の原爆ドーム)で開催された俘虜作品展示即売会には、ヴォルシュケ(Wollschke)及びオトマー(Othmerの勧め・励ましを受けてバウムクーヘンを出品し、市民の好評を博した。「似島獨逸俘虜技術工藝品展覧會目録」の30頁には、ユーハイムのバウムクーヘンのスケッチが掲載された【〔図2〕参照】。戦争終結まじかに、板東収容所の知友グロースマン(Grossmann)に似島や習志野収容所の動静を記した手紙を送った。青島に留まったエリーゼ夫人は困り果てた時幾度となく山田耕三大尉に訴え、その都度親切にしてもらった。大戦が終結しての1920125日、エリーゼは息子カール・フランツを連れて青島から神戸に着いた。ユーハイムはやがて明治屋に就職し、銀座「カフェー・ユーロップ」の製菓主任になった。月給は350円で、当時としては破格の報酬であった。やがて独立して横浜山下町に菓子店「ユーハイム」を開業した。関東大震災で店は倒壊し、1923年神戸三宮に移って再出発した。一時健康を害してドイツに帰国したが再び来日し、第二次大戦中も日本に留まった。194565日の空襲で店は瓦解し、失意の内に814日六甲ホテルで死去した。息子のカール・フランツは第二次大戦に応召し、56日ウィーンで戦死した。戦後一時期、ドイツへ強制帰国させられた妻エリーゼ(1892-1971)が日本に戻ってから、その奮闘によって店は再開して発展し、現在もドイツ菓子の店として広く知られている。【頴田島一二郎『カール・ユーハイム物語』等より】。芦屋市朝日丘の芦屋霊園に夫妻の墓がある。ポンメルンのリューゲン郡ガルツ(Garz)出身。(4683:大阪似島)

58)    Jung(ユング),Josef?-?):海軍野戦砲兵隊・伍長。名古屋時代の191732日、岡本自転車製作所から、ユング、ベッカー(Wilhelm Becker)、ヘプフナー(Höpfner)及びラウフェンベルク(Laufenberg)の4名に旋盤の就労申請が出された【校條「名古屋俘虜収容所 覚書V」所載:『「青島戦ドイツ兵俘虜収容所」研究』第6号、21頁】。20071221日、シュミット氏のホームページのゲストブックに息子のヘルマン=ヨーゼフ・ユング(Hermann-Josef Jung)氏が書き込みをした。遺品として父親の「戦争日記」や写真等の資料があり、日記を自分の子ども達に読ませるために編集しているとのことである。ヴェストファーレンのヴァルステ(Varste)出身。(2573:名古屋)

59)    Jung(ユング),Julius?-?):海軍膠州砲兵隊・2等砲兵。19161021日福岡から名古屋へ収容所換えになった。1962年にブレーメンで開催された「チンタオ戦友会」、更には1964年(ニュルンベルク)での同会開催でも実行委員を務めた。カイザースラウテルン(Kaiserslautern)出身。(1171:福岡名古屋)

60)    Jungユング),Julius Peter1892-1957):3海兵大隊第5中隊・上等歩兵。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。1962年にブレーメンで開催された同会では、アルブレヒト(Albrecht)、ベーダー(Beder)、ライポルト(Leipold)、シュトレーラー(Straeler)等とともに世話役の一人を務めた。ドゥートヴァイラーDudweiler出身。(3398:熊本久留米)

61)    Jung(ユング),Wilhelm?-?):海軍砲兵中隊・2等水兵。1916916日、久留米収容所より情報局へ、ユング処罰の件について通報があった。ライン河畔のヴィンデスハイム(Windesheim)出身。(3406:熊本久留米)

62)    Jungkurth(ユングクルト),Johannes?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等水兵。19161021日福岡から名古屋へ収容所換えになった。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。カッセル(Kassel)出身。(1166:福岡名古屋)

63)    Junker(ユンカー),Adam?-?):3海兵大隊工兵中隊・上等工兵。板東時代の191854日、『ヴァレンシュタインの陣営』上演に際して、甲騎兵を華やかに演じた。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。フランクフルト近郊のグリースハイム(Griesheim)出身。(2944松山板東

64)    Juergens(ユルゲンス),Willi?-?):国民軍・上等歩兵。大戦終結後は、青島での就職既定者として日本国内で解放された。ベルリン(Berlin)出身。(2243:姫路青野原)