1)     Kaden(カーデン),Willy Oswald1892-1966):海軍東アジア分遣隊・2等歩兵。ザクセンのデンシュテン(Dönschten)出身。(4540:大阪似島)

2)     Kahle(カーレ),Georg?-?:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[マックス・ネスラー書店Max Noeßler & Co. G.m.b.H.上海支店]。板東時代の19175月に松山収容所からの人員を加えて拡大した「エンゲル・オーケストラ」の団員で、クラリネットを担当した。また収容所内のタパタオでレストラン「クリスタル・パラスト」(水晶宮)をシューベルト(Schubert)と共同で経営した。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ハノーファー(Hannover)出身。(2963:松山板東)

3)     Kahler(カーラー),Franz1886-?):海軍砲兵中隊・海軍中尉。〔第4中間地掃射砲台並びに高角砲指揮官〕。鉄道線路上の移動中間掃射砲で、湾堤防上から日本軍に対して榴弾射撃を行った。解放後は蘭領印度に渡って巡査になった。デトモルト(Detmold)出身。(116:東京習志野)

4)     Kaie(カイエ),Richard?-1942):砲艦ヤーグアル乗員・2等電信兵曹。解放後は蘭領印度に渡ってオランダ・ガス商会に勤めた。19405月収容所に抑留され、1942119日、他の市民捕虜477名とともにオランダ船「ヴァン・イムホフ(van Imhoff)」で英領印度へ送られたが、スマトラ海岸沖で日本軍戦闘機の爆撃を受けて船は沈没した。その際400名以上が死亡したと思われ、その中にカイエも含まれていた。なお、オランダ側は如何なる救助の手も差し伸べなかった。ハンブルク(Hamburg)出身。(144:東京習志野)

5)     Kaiser(カイザー),Friedrich1894-?):3海兵大隊1中隊・2等歩兵。久留米収容所で発行された『トゥルネンとスポーツ』の「付録第7号」(1919614日付け)によると、カイザーは191968日に開催されたサッカーの試合で活躍した。また、19191022日に開催された「1919年スポーツ週間」の「幅跳び踏み切り台なし」では4.95m1位になるなど、久留米のスポーツ大会で活躍した。キルヒハイム(Kirchheim)出身。(527:久留米)

6)     Kaiser(カイザー),Friedrich Ernst Christian Ferdinand1893-?):3海兵大隊第5中隊・2等歩兵。ドイツに帰国後、やがて1924926日に蒸気船シュトゥットガルト号でアメリカに渡り、その地で没した。ミンデン郡のデーレン(Döhren)出身。(1945:丸亀板東)

7)     Kalb(カルプ),Gottfried1893-?):第3海兵大隊第3中隊・2等歩兵。ヘッセン=ナッサウのオーバーハイト(Oberhaid)出身。(549:久留米)

8)     Kalbe(カルベ),Friedrich1892-1965):海軍膠州砲兵隊第2中隊・1等水兵。ドイツに帰国後の19261016日エルザ・ヘルヒャー(Elsa Hercher)と結婚して娘一人をもうけた。郷里で没した。ザールフェルト(Saalfeld)出身。(4389:「熊本」大分習志野)

9)     Kalbrunner(カルブルンナー),Ludwig1893-1971):3海兵大隊機関銃隊・2等兵。ドイツに帰国後は石切り場で働き、その後森林監視官に就いた。1920926日クリスチーネ・ヘーガー(Christine Heger1895-1974)と結婚して息子二人をもうけた。『ドイツ兵捕虜と収容生活―久留米俘虜収容所W―』(200799-100頁には、息子のルディ・カルブルンナー氏による父親カルブルンナーの姿が伝えられている。日本時代の記念品は全て戦災で焼失したとのことであるが、友人宛てに送った写真三枚が上記文献に掲載されている。それによれば、カルブルンナーは収容所時代に海軍サッカーチームとバーラウフ競技(陣取りゲーム)チームに属した。バーラウフ競技チームの写真には、アダムツェク(Adamzek)とともに写っている。ハイデルベルク近郊のライメン(Leimen)出身。(3445:熊本久留米)

10)    Kalkbrenner(カルクブレンナー),Paul1876-1943):海軍野戦砲兵隊・予備副曹長。[商社員]。ハンブルクの貿易商社カール・ローデ商会の日本代表を務めていた。190212月に来日した。趣意書提出時点では、既に在日17年であった。妻は日本人女性で名前はアベミキといい、その間に三人の子をもうけた。トミオ(Tomio,1907-1943:大森で生まれ、マンハイムで死去)、エーファ・ハナ(Eva Sada,1910-2006、大森で生れ、オッテルスベルク(Ottersberg)で死去)及びルート・サダ(Ruth Sada,1913-1986:川崎で生れ、オッテルスベルク(Ottersberg)で死去)の三人であった。開戦前は横浜市海岸通り43のaに住んでいた。名古屋俘虜収容所を通じて、『獨逸人北海道移住ニ関スル趣意書』(大正8823日付け)を北海道帝国大学へ提出した。日本人に科学的な欧州農業経営を実地に示すために、北海道にドイツ人俘虜よりなる農場を開設する提案であった。「9歳迄家庭教師ニ就キ学ヒ後、ブロヒベツ市ノプロシヤ王国立実業科高等学校ニ入学シ大学入学資格ヲ得タリ、長男トシテ父ノ家業ヲ相続スルノ必要上三ヶ年父ノ農場ニ就キ実地農業ヲ修得セリ、後一年志願兵トシテポムメルン第二砲兵隊ニ入リ試験後、予備将校昇進資格ヲ得タリ、父ノ事業継承迄世界ヲ見ム為メハムブルヒ輸出入業会社ニ二ヶ年半就職ノ後1902年、カール・ローテ会社員トシテ神戸ニ来リ代表委任権ヲ得タリ、1908年カール・ローテ商会ニ属スル東京銀座サスガ商会ノ支配人トナリ世界大戦ニ至ル、戦争中父死シテ遺産悉ク義妹ノ夫ニ帰ス 然ルニ生涯商人タルノ志望ニ非ラス父ノ農業ヲ継承スルノ素志ナリシヲ以テ五ヶ年間ノ俘虜生活中外国移住ノ目的ニテ農業ニ関スル諸種ノ専門ヲ研究セシ、北海道農業企業ノ計画組織者タルト共ニ主催者タル者ナリ 肥料、耕作、及農業、工業ヲ特技トス」【「北海道移住」より】。ローマン(Lohmann)の遺品中には、カルクブレンナー、ローマン、エンゲルホルン(Engelhorn)、ヤンゼン(Jansen)、シュテフェンス(Walter Steffens)、シュテーゲマン(Stegemann)の六人が、冬の陽だまりの中、収容所の建物内の縁側と思われるところに思い思い居並んでいる写真が遺されている【ローマンの項、及び〔写真9〕を参照】。カルクブレンナー他、ハッセルバッハ(Hasselbach)、ホフマン(Hoffmann)、シュヴァルツ(Schwarz)、ザイフェルト(Seifert)、ゾンマーラット(Sommerlatt)の6名は、愛知県下の大地主数十名が創設した愛知産業株式会社と契約して、朝鮮蘭谷面で「機械農場」と称するドイツ式大農場の経営を始めることが、大正81225付け「名古屋新聞」で報じられた。そうした朝鮮行きの準備としてカルクブレンナーは、他の5名の計6名で愛知県農業技師だった野村新七郎の自宅庭に立てられた仮設住宅にゾンマーラット、ホフマン、シュヴァルツ、ハッセルバッハ、及びエートマンの6人で約3ヶ月住んだ。蘭谷での機械農場が本格的に起動する前に、カルクブレンナーはザイフェルトに続いて農場を去った。なお、旧ドイツ人俘虜指導による朝鮮蘭谷(38度線から北に約100キロ、現在は北朝鮮の洗浦(セポ)郡)のドイツ式大農場(約40平方キロ)は、昭和7331日で打ち切られ、その後は日本人中心の農場に変わった。その間の大正15年秋、シュヴァルツが病で没した。更にはウルバンスキー(ドイツ本国から招聘された技師)、ハッセルバッハの子供及び白系ロシア人の義父が死亡した【校條「「名古屋俘虜収容所 覚書U」所載:『「青島戦ドイツ兵俘虜収容所」研究』第270-77」】。1925年には横浜一の谷4023番地に住み、横浜市山下町の「Unitas Yoko」商会に勤めた。1943年マンハイムで没した。『俘虜名簿』記載のホーエンザルツァー近郊のオーポク(Opok)は父親の居住地。ポーゼン州シュトレルノ(Strelno)郡のマルコヴィッツ(Markowitz)出身。(2607:名古屋)

11)    Kalkof(カルコフ),Heinrich?-?):海軍東アジア分遣隊・2等歩兵。19156月熊本から久留米へ収容所換えになった。19191022日に開催された「1919年スポーツ週間」の「5km競歩」(参加者9名)で、314秒を記録して第4位になった。ラインラントのクレーヴェ(Cleve)出身。(3456:熊本久留米)

12)    Kallhammer(カルハンマー),Bernhardt1892-1952):機雷弾薬庫・2等掌水雷兵曹。青野原時代、19181213日から20日まで開催された俘虜製作品展覧会では、楽器部門でチェロを出品した【『AONOGAHARA捕虜の世界』79頁】。解放後は蘭領印度に渡った。アンナ・ツェーベル(Anna Zeberl)と結婚して子供三人をもうけた。ランツフート(Landshut)出身。(2264:姫路青野原)

13)    Kaltenhäuser(カルテンホイザー),Hans?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・1等水兵。大戦終結後は、青島における就職既定者として日本国内で解放された。ゾーリンゲン(Solingen)出身。(4548:大阪似島)

14)    Kalthoff(カルトホフ),Wilhelm?-1973:第3海兵大隊機関銃隊・軍曹。久留米の演劇活動では、喜劇『お似合いの燕尾服』に出演した。1954116日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。エッセン(Essen)出身。(520:久留米)

15)    Kammer(カンマー),Johann1895-1970): 海軍東アジア分遣隊第3中隊・当歩兵。ドイツに帰国後の1922年エリーザベト・ティーレン(Elisabeth Thielen と結婚して子供7人をもうけた。税関所で働き、後に鉄道の運輸業務主任となった。ラインラントのウロートドルフ(Brotdorf)出身。(130:東京習志野)

16)    Kammerer(カンメラー),Ernst?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・予備1等無線電信技手。1915711日福岡から久留米へ収容所換えになった。19198月、東京府豊多摩郡渋谷町の合資会社日本無線電信機製造所から情報局へ、無線電信技術を習得していて解放後雇用を望む者の有無問い合わせに、久留米ではカンメラーを紹介して連絡した。バーデンのオッフェンブルク(Offenburg)出身。(1211:福岡久留米)

17)    Kampczyk(カンプツィク),Rudolf?-?):海軍膠州砲兵隊第4中隊・2等砲兵。徳島時代の1915年(月日不明)、「妄リニ日本人ト文通セシ科」で重営倉5日の処罰を受けた。1916116日、ヤコボフスキー作の一幕物『労働』で、息子ビング役を演じ、男役も見事に演じることを示した【『徳島新報』第18号(1916123日発行)より】。板東時代の1919417日に開催された21キロの競歩大会において、カンプツィク(25歳)は2時間15415分の285人中の第1位になった【『バラッケ』第44月号80頁】。大戦終結して解放後は、蘭領印度のスラバヤに渡った。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。シュレージエンのカトヴィッツ(Kattowitz)出身。(4206:「大阪」徳島板東)

18)    Kampmann(カンプマン),Ludwig?-?:海軍東アジア分遣隊第3中隊・2等歩兵。1966910/11日にフランクフルトで開催された「チンタオ戦友会」では、アルベルト(Albert)、ベーダー(Beder)、クレシェン(Kläschen)等とともに実行委員を務めた。ゲルゼンキルヒェン郡のヴァンネ(Wanne)近郊の炭鉱町「我らがフリッツ("Unser Fritz")」出身。(131:東京習志野)

19)    Kandulski(カンドゥルスキー),Karl?-?海軍膠州砲兵隊第4中隊・2等砲兵(戦時志願)。家族と思われるアグネス(Agnes)、フランツ(Franz)、マリー(Marie)及びハンス(Hans)・カンドゥルスキーの四人は1914年末に天津のドイツ兵営28号室にいた。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ヴィルヘルムスハーフェン(Wilhelmshaven)出身。(4207:「大阪」徳島板東)

20)    Kappel(カッペル),Willy?-?:海軍砲兵中隊・給与掛2等筆記。松山時代、大林寺の講習会で算数の講師を務めた。シュレージエンのサガン(Sagan)出身。(2987:松山板東)

21)    Kappler(カップラー),Karl1890-1945):国民軍・卒。カップラー製造R.Kappler & Sohn)]。父ローベルト(Robert)・カップラーは1898年乃至1899年に青島へ赴き、レンガ製造会社を設立した。1905年ごろ、ローベルトは青島を去って、息子のヨーハン・フリードリヒ(Johann Friedrich)に会社を委ねた。そのフリードリヒは後にウラジオストックに赴き、レンガ会社を弟のカール(Karl)に任せた。カール・カップラーは会社経営に卓越していた。日本軍による占領後も青島に留まった【マツァトゥ(Wilhelm Matzat)教授の資料から】。1916410日青島からただ一人、憲兵に付き添われて大阪俘虜収容所に移送された【参照:『大阪毎日新聞』大正5411日付け】。解放後の1920年初頭に青島に戻り、マルタ・ヴァルター(Martha Walter;1897-?)と結婚した。マルタは1900年から1920年までの少女・娘時代をずっと青島で過ごしていた。マルタの父フーゴー・ヴァルター(Hugo Walter)、弟のフーゴー・ヴァルター(Hugo Walter)はともに俘虜として日本の収容所に収容されていた。婚姻届は1920329日に青島の日本の役所に提出され、1920515日にフランツ・オスター(Franz Oster)の家で新教によって結婚式が執り行われた。やがて山東省の省都済南に済南貿易商社を興して輸入業を営み、カッセラ社の代理店ともなって染料の輸入を手がけた。1945年、ドイツ東部で戦死した【マツァトゥ教授のインターネット資料(http://biographien.tsingtau.org/)から】。バイエルンのゴッホスハイム(Gochsheim)出身。4684:青島大阪似島)

22)    Kardinal(カルディナール),Hermann1892-1918):第3海兵大隊機関銃隊・2等兵。1918121日名古屋で死亡、陸軍墓地に埋葬された。ラヴィッチュ(Rawitsch)郡のコルングート(Korngut)出身。(2593:名古屋)

23)    Karius(カーリウス),Friedrich?-?:築城部・築城曹長。松山時代(山越・長建寺収容)の19151026日、婦女に戯れる目的で脱柵して浄福寺東側民家の門戸を叩いた科で重謹慎14日の処分を受けた。なお、松山時代は『陣営の火』編集に加わり、数多くの見事な地図や表を作成した。デッサウ(Dessau)出身。(2986:松山板東)

24)    Karolczak(カロルチャク),Joseph?-?:海軍砲兵中隊・2等水兵。久留米時代の1917128日、アンドレーア(Andrea)をシュルツェ(Schulze)等仲間18人で袋叩きにして、傷害罪により1月の懲役刑に処せられた。シュレージエンのザリッシュ(Salisch)出身。(3463:熊本久留米)

25)    Kaschullカシュル,Emil?-?海軍膠州砲兵隊第1中隊・2等砲兵。19161021日福岡から名古屋へ収容所換えになった。名古屋俘虜収容所所員を務めた堀山主計の息子堀山久夫氏の元に、カシュル作製のボトルシップが所蔵されている。ボトルの首のところには、「E.Kaschull,Matr.Artl.Nagoya,den 27.11.1916」と製作者の名札が付けてある。ボトルの中には、背景として汽車がトンネルから出てくる様子が描かれている。インスターブルク(Insterburg)出身。1185福岡名古屋

26)    Kaesemannケーゼマン,Friedrich?-?):国民軍・上等歩兵。[リヒャルト(Richard)運送会社]。青島時代は天津街(Tietsinstraße)に住んでいた。1915920日、青島から大阪俘虜収容所に送られた。1918119日付けで、東京のスイス公使館からスイスの内田公使に宛てた文書が遺されている。それによれば、ロシアのチタ近傍のプジェチャンカ(Pjietschanka)にいる義理の兄弟クライゼル(Ernst Kreisel)に、ケーゼマンは50円の送金願いを申請した。妻マリー(Marie)は娘(12歳以下)と二人大戦終結まで青島に留まった。19191223日、「在本邦俘虜ノ財産及家族整理ノ為」に俘虜代表としてハインツェル(Arthur Heinzel)とともに青島へ派遣された【外務省外交史料館所蔵「日独戦争ノ際俘虜情報局設置並独国俘虜関係雑纂 第一巻」より】。解放後は青島に戻った。ヴェストファーレンのシュペンゲ(Spenge)出身。(4685:大阪似島)

27)    Kast(カスト),Karl?-?):海軍東アジア分遣隊第2中隊・上等歩兵。[皮革工]。1915920日福岡から名古屋へ収容所換えになった。ロイステン(Reusten)出身。(1244:福岡名古屋)

28)    Kastner(カストナー),Hans?-?):海軍膠州砲兵隊・2等砲兵。1964年にニュルンベルクで開催された「チンタオ戦友会」では、アルブレヒト(Albrecht)、ベーダー(Beder)等とともに世話役を務めた。ローゼンハイム(Rosenheim)出身。1238:福岡→大阪→似島)

29)    Katzensteinカッツェンシュタイン,Hermann?-?):第3海兵大隊6中隊・2等歩兵。神戸シュトラウス商会G.Strauß & Co.)]板東時代の19175月に松山俘虜収容所からの人員を加えて拡大した「エンゲル・オーケストラ」の団員で、ピアノを担当した。ケルン(Köln)出身。(2970松山板東

30)    Katzorek(カツォレク),Alfred?-?):装甲巡洋艦グナイゼナウ乗員・2等焚火兵。松山時代(大林寺収容)の1915111日、同じ第2班のショッペ(Schoppe)と喧嘩をし、かつ同じ班のヴィルヘルム・ゴットシャルク(Wilhelm Gottschalk)の睾丸部を蹴って負傷させたことから仮営倉に入れられた。191632日、夜陰に乗じて共謀脱柵し、酒楼に登った科で重営倉30日に処せられた。板東時代の1919417日に開催された21キロの競歩大会においては(当時26歳)、2時間3246秒で35位になった【『バラッケ』第44月号81頁】。マグデブルク近郊のエルメンザルツェ(Elmensalze)出身。(3086:松山板東)

31)    Kauffeldt(カウフェルト),Hans?-?:海軍膠州砲兵隊・2等砲兵。1918322日福岡から習志野へ収容所換えになった。解放後は蘭領印度に渡り、ヴェルテフレーデン(Weltevreden)の郵便局に勤めた。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ブランデンブルクのシャルロッテンブルク(Charlottenburg)出身。(1224:福岡習志野)

32)    Kaul(カウル),Erich1891-1941):砲艦ヤーグアル乗員・2等焚火兵。1914422日、ヴィルヘルムスハーフェンを出発して青島へ向かった。なお、カウルの遺稿日記『青島の海軍兵士、日本での捕虜1914年から1920年』(Marinesoldat in Tsingtau,Kriegsgefangener in Japan 1914 bis 1920)が、小阪清行氏の訳で「チンタオ・ドイツ兵俘虜研究会」ホームページに、また抄訳が大河内朋子氏の訳で『「青島戦ドイツ兵俘虜収容所」研究』第3号に掲載されている。フュルステンヴァルデ(Fürstenwalde)出身。(148:東京習志野)

33)    Kaul(カウル),Hans?-?):海軍砲兵中隊・2等機関兵曹。似島時代の19193月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に際して、美術の工芸金工部門で錨の形の文鎮1点を、また全般の部の木製品部門に手提げ鞄及び写図器を、また展覧会カタログの補遺によれば、郵便箱を出品した。東プロイセンのパッベルン(Pabbeln)出身。(4541:大阪似島)

34)    Kaulmann(カウルマン),Peter1891-1969):第3海兵大隊重野戦榴弾砲兵隊・上等砲兵。1915920日福岡から名古屋へ収容所換えになった。191910月、今後の国籍選択を家族と協議する為に、一足先に解放された。ラインラントのマルメディー(Malmedy)郡ニーダーエッメルス(Nieder-Emmels)出身。(1268:福岡→名古屋)

35)    Kaumannsカウマンス,Karl?-?海軍膠州砲兵隊第4中隊・1等砲兵。徳島時代の191511月中旬、スポーツ週間のリレー競争にアウアー(Alois Auer)、バウアーファイント(Bauerfeind)、クロイツ(Kreutz)の4人で出場して優勝した【参照:『徳島新報』(Tokushima-Anzeiger)第2巻第101128日付け】。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ラインラントのユッヒェン(Jüchen)出身。(4205:「大阪徳島板東

36)    Kayser(カイザー),Georg von1870-1937):総督府参謀本部・陸軍砲兵少佐。〔総督副官〕。187076日、陸軍中将ローベルト・フォン・カイザー(Robert von Kayser)の息子として、ナイセ(Neisse)に生まれた。18901月野砲兵少尉、18981月中尉、19057月海軍歩兵大尉、19146月には少佐に昇進した。青島時代は、市内中心のフリードリヒ街に住んだ。19141013日午前10時に東呉家村において行われた、非戦闘員及び中立国民避難のための休戦会談に独軍の軍使として臨んだ。その折り、胸に日本の瑞宝章を付けていた。通訳としてユーバシャール(Ueberschaar)予備中尉が同道したが、日本語を少し話した。なお、日本軍側の軍使は磯村年砲兵大佐だった。協議の折、山田耕三砲兵大尉からシュテッヒャー(Stecher)大尉宛ての葉書を託された。また117日の降伏申し入れの際は、ヘーネマン(Hoenemann)副衛兵長をラッパ手に、ファーベル(Fabel1等蹄鉄工長を白旗を掲げる旗手に、ウルリヒ軍曹を馬丁に、日本軍本部陣地のある台東鎮に総督の降伏文書を携えて軍使として赴いた。その折り、ウルリヒ軍曹は流弾を受けて死亡した。さらに117日午後4時からモルトケ兵営で行われた青島開城交渉でも、ドイツ側委員の一員になった。1918322日福岡から習志野へ収容所換えになった。大戦終結して帰国後の19203月陸軍に入ったが、健康上の問題から除隊した。最終階級は陸軍中佐だった。192310月、エレン・アブラモファ(Ellen Abramova)と結婚したが子供はいなかった。1930年頃、「フランクフルト新聞(Frankfurter Zeitung)」に入ってジャーナリストになった。1937510日、マイン河畔のフランクフルトで没した。ダルムシュタット(Darmstadt)出身。(1181:福岡習志野)

37)    Keetmann(ケートマン),Friedrich?-?):海軍砲兵中隊・後備2等見習機関兵曹。19156月熊本から久留米に収容所換えになった。1954116日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。キール(Kiel)出身。(3464:熊本久留米)

38)    Keim(カイム),Eugen?-?):海軍膠州砲兵隊第3中隊・2等砲兵。徳島時代の1916127日、ルフ(Ruff)作の3幕劇『戦争花嫁』に、主役の老水先案内隊長ラルゼンの娘役イルゼを演じた【『徳島新報』第19号(1916130日発行)より】。板東時代の19175月に松山収容所からの人員を加えて拡大した「エンゲル・オーケストラ」の応援で、オーボエを担当した。またタパタオの19号小屋で、時計修理を営んだ。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。シュヴァーベンのグミュント(Gmünd)出身。(4194:「大阪徳島板東

39)    Keining(カイニング),Ernst?-?):国民軍・曹長。[ホテル経営者]。青島時代はフリードリヒ街に住んだ。元3海兵大隊第6中隊の曹長だった。青島陥落の際家族と天津に逃れた。19168月、所有家屋の課税問題で天津から青島に入り、その結果俘虜となって91日大阪収容所に送られた【『戦役俘虜ニ関スル書類』より】青島でホテル「カイニング」を経営していた。妻の名はマリー(Marie)。大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として日本国内で解放された。解放後は青島へ戻ったが、やがて満州に赴き、1938年には奉天で妻と「ホテル・カイニング」を経営した。ヴェストファーレンのゾエスト(Soest)出身。(4712大阪似島)

40)    Keiper(カイパー),Georg1877-1951):3海兵大隊第7中隊・予備副曹長。[徳華高等学堂講師]。ベルリンで鉱山学を学び、1905年始めに学業を終えた。190581日、ドイツ博物館の前身である「自然科学・技術傑作博物館」の共同研究者になったが、1130日に北京大学講師として招聘され、1906年始めに北京に赴き、教授として遇された。190910月、青島に設立された徳華高等学堂の講師として赴任した。青島ではフリードリヒ街213番地に住んだ。190910月と19148月に長期休暇でドイツに帰国した。1914110日、シュトラースブルクでパオリーネ・シュレーダー(Pauline Schröder)と結婚した。大戦が勃発すると妻はドイツへ帰国した。戦闘で負傷したカイパーは臨時の衛戍病院となった学校に収容された。1915年初めに青島から大阪俘虜収容所へ移送された。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放され、満州の遼寧省鞍山にあった南満州鉄道系列の鞍山鉄鋼所に勤めた。192311月、ドイツに帰国してミュンヘンに赴いたが、192410月に満州の奉天に戻り、北東大学の講師になった。192510月にごく短期間ミュンヘンに出掛けたが、1927年まで奉天の大学で教授として勤務した。1927年にドイツに帰国したが、定職に就くことは出来なかった。1928年にスペインや北アフリカに赴いたが、南京で国民党政府が樹立されると、学術・技術顧問となって中国に赴いた。1929年から1932年まで南京で暮らし、1932年から1935年までは上海福州路1番地に住んだ。1935年、ミュンヘンに戻り、晩年の16年をそこで暮らしてその地で没した。上部バイエルンのインゴルシュタット(Ingolstadt)出身。(4537:大阪似島)

41)    Keith(カイト),August?-?):海軍膠州砲兵隊。1等砲兵。191512月、福岡で宣誓解放された。シュトラースブルク(Strassburg)出身。(1222:福岡)

42)    Keller(ケラー),Florian?-?):海軍膠州砲兵隊第3中隊・2等砲兵。191611日付けの『徳島新報』第2巻第15号によれば、ケラーはルートヴィヒ・トーマ作のクリスマス劇で、バイエルン出身の後備兵役を演じて喝采を博した。また徳島時代の1916130日、ルフ(Ruff)指導による寄席「ミモザ」の第2回上演会が開催された。その折りケラーはブロンナー(Bronner)、シルト(Schild)及びローレンツ(Lorentz)とともにチロルのダンスと歌を披露した。彼らの即興歌と靴底を叩くダンスは喝采を博した【『徳島新報』第19号(1916130日発行)より】。上部バイエルンのツィーゲルハウス(Ziegelhaus)出身。(4195:「大阪」徳島板東)

43)    Keller(ケラー),Richard1892-?):海軍膠州砲兵隊第3中隊・1等砲兵。191611日付けの『徳島新報』第2巻第15号によれば、ケラーはルートヴィヒ・トーマ作のクリスマス劇で、少尉役を演じて喝采を博した。解放後は蘭領印度に渡り、ヴェルテフレデン(Weltervreden)のホテルに勤めた。ザクセン=アルテンブルクのカーラー(Kahler)出身。(4193:「大阪」徳島板東)

44)    Kellner(ケルナー),Paul1893-1946):海軍膠州砲兵隊・2等砲兵。19161021日福岡から名古屋へ収容所換えになった。ドイツに帰国してやがて製靴職マイスターになった。1921年ヘルミーネ・メルシュテット(Hermine Mörstedt)と結婚して、子供二人をもうけた。やがてナチス党の地区委員会出納係になった。そのために19459月ソ連軍によってブーヘンヴァルト強制収容所に容れられ、19467月頃そこで死亡した。死亡宣告がなされたのは、1957713日になってからである。ミュルフェルシュテット(Mülverstedt)出身。(1239:福岡名古屋)

45)    Kelter(ケルター),Heinrich?-?):海軍膠州砲兵大隊第4中隊・後備1等砲兵。[ディーデリヒセン青島支店]。青島時代はカイザー街(Kaiserstraße)に住んでいた。19161018日福岡から大分へ収容所換えになった。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ホルシュタインのハイデ(Heide)出身。(1193:福岡大分習志野)

46)    Kemmerling(ケンメルリング),Fritz1892-1955):海軍膠州砲兵隊・2等砲兵。19161021日福岡から名古屋へ収容所換えになった。解放されて帰国後、ヘレーネ(Helene Hover)と結婚したが、子どもはいなかった。ハルト(Hardt)出身。(1240:福岡→名古屋)

47)    Kempe(ケンペ;後von Gahlen-Kempe,Paul1884-?):総督府参謀本部・陸軍中尉。〔暗号将校〕。1901322日陸軍に入った。1902818日野砲兵少尉、 18.08.1911818日中尉、191295日海軍歩兵隊に移り、後に第3海兵大隊暗号将校になった。青島時代はアーダルベルト皇子街(Prinz-Adalbert-Straße)に住んでいた。19141110日にモルトケ兵営で行われた神尾司令官とマイアー=ヴァルデック総督の会見では、総督の秘書官として列席した。19151112日、大正天皇即位大典の日に逃亡したが、その際通訳のハック(Hackが助力した。ハックは事前に「神戸新聞」により連絡船の発着等の日程日時を調べ上げていた。逃走5時間後に門司に到着。フェリーで下関に着き、「三条ホテル」にスウェーデン人を装って投宿した。翌13日午後老朽船「八幡丸」に乗りこんだ。この船を選んだのは、無線設備が無いからであった。18日上海に到着し、逃亡した4名は上海の地で落ち合った。またケンペは上海でシベリアの収容所を脱走してきた将校とも接触し、やがてシベリア鉄道でドイツに行くルートを選択し、上海を出て18日後に晴れてドイツの地にたどり着いた【Burdick/Moessner:The German Prisoners-Of-War in Japan,1914-1920,26-29頁】。東フリースラントのグロートフーゼン(Groothusen)出身。(1182:福岡)

48)    Kempf(ケンプ),Conrad?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等砲兵。[ハンブルク・アメリカ汽船]。板東時代、191844日から6日の三日間、ブランダウ演劇グループによるクライストの『壊れ甕』の上演に際して、書記のリヒト役を小気味よく演じた。【『バラッケ』第233頁】。大戦終結して解放後は、蘭領印度に渡った。ベルリン(Berlin)出身。(4212:「大阪徳島板東

49)    Kendzorra(ケンツォラ),Franz?-?):第3海兵大隊第2中隊・上等歩兵。板東時代の191961日(日)、12種目から成る体操大会が開催されたが、ケンツォラは112点の得点で初級の部の第5位になった【『バラッケ』19196月号より】。また、1919417日に開催された21キロの競歩大会においては(当時24歳)、2時間33145分の338位になった【『バラッケ』第44月号81頁】。ダンチヒ(Danzig)出身。(1940:丸亀板東)

50)    Kerkhof(ケルクホーフ),Hermann?-?:海軍砲兵中隊・後備2等兵曹。「両名ハ頗ル傲慢不遜ノ態度ニシテ写真撮影セラレ敵国ノ新聞雑誌等ン掲載セラルルガ如キ事アラバ軍人ノ体面上恥辱ナリト主張シ如何ニ訓諭スルモ之ニ服従セズ遂ニ同人等ノ撮影ヲ中止スルノ已ムナキニ至レリ「ケルクホーフ」ハ常ニ粗暴不謹慎ノ言動アルモノ」とされて、ヴェーアハーン(Wehrhahn)とともに重営倉25日に処せられた【『日獨戰書』より】。オスナブリュック(Osnabrück)出身。(1744:静岡習志野)

51)    Kerl(ケルル),Stefan?-?):3海兵大隊6中隊・予備伍長。中国輸出入銀行会社China Import-Export & Bank Co.横浜支店板東時代の19175月に松山収容所からの人員を加えて拡大した「エンゲル・オーケストラ」の団員で、オーボエを担当した。ハンブルク(Hamburg)出身。(2961松山板東

52)    Kern(ケルン),Arthur1891-1961):海軍東アジア分遣隊第2中隊・2等歩兵1915920日福岡から名古屋へ収容所換えになった。ドイツに帰国後パオラ・シェーファー(Paula Schäfer)と結婚して娘一人をもうけた。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ヘッセン=ナッサウのゼッセンハウゼン(Sessenhausen)出身。(1255:福岡名古屋)

53)    Kern(ケルン),Ludwig?-?:海軍膠州砲兵隊第2中隊・2等砲兵。大阪時代の19151231日の大晦日にシュトルフ(Storf)とともに脱走したが、翌元旦に堤防の上を歩いているところを発見され逮捕、大阪監獄に収監された。1916119日、共謀逃走の罪名で禁錮26月に処せられたが、191759日仮出獄した【『大正三年乃至九年 戦役俘虜ニ関スル書類』中の「俘虜仮出獄者一覧表」より】。なお、この事件のために、1916127日に予定されたドイツ皇帝誕生日を祝う祝賀会及び音楽会が許可されなかった。似島時代、屠畜職人だったケルン(Kern)、ヴォルシュケ(Wolschke)の三人で、当時の広島市広瀬町上水入町のハム製造会社酒井商会でハム製造の技術指導をした。三人の写真が『広島中国新聞』(大正81225日付け)に掲載された。20071217日、上記シュトルフの孫ダニエル・エグナー(Daniel Egner)氏がシュミット氏のホームページの「ゲストブック」に書き込みをした。それによれば、ケルンはミュンヘン郊外のアマーゼーで漁師をしていたとのことである。バイエルンのアマーゼー(Ammersee)湖畔の出身。(3955:大阪似島)

54)    Kerstenケルステン,Otto Hermann1892-1974):海軍膠州砲兵隊・2等砲兵。1912101日海軍砲兵隊に入隊した。19161020日福岡から青野原へ収容所換えになった。1920228日に喜福丸でヴィルヘルムスハーフェン港に帰国した光景を記した。それによると、「岸壁に集まった子供達はパンを欲しさに叫び声を上げていた。そこで腕いっぱいに抱えたパンを放ると、周囲にいた大人の船員達が子供を押しのけて拾い、がつがつと食べ始めた。その光景を見て愕然となり、甲板の隅に隠れて激しく泣いた」とのことである。【《The German Prisoners-Of-War in Japan,1914-1920108-109頁】その「ケルステン日記」は『小野市史』第6巻に訳出されているが、それによるとケルステンは、1913101日に新兵として召集され、輸送船で青島に送られて第3中隊に配属されたとのことである。これまで余り知られていなかった青野原俘虜収容所の様子や俘虜生活が活写されている。神戸の「ドイツ・クラブ」での歓迎会には、トルトゼン(Thordsen)と同じ車に乗り込んで出かけた。その折、家族のいるトルトゼンとは別行動をとり、受け入れ家族に心からのもてなしを受けたと記している。1919年の帰国時には収容所で豚の飼育係りを務めていた。帰国前後から帰国船の中、途中立ち寄る蘭領印度での出来事なども記されている。19191227日の日本出発から63日目にヴィルヘルムスハーフェン港に到着し、その三日後に除隊となった。1959530/31日にククスハーフェンで開催された「チンタオ戦友会」には、海軍協会旗“Prinz Adalbert von Preußen Tsingtau von 1900”を借用して持参した。1968年のブレーメンでの同会にも出席した。なお、ヴィルヘルム・テッゲ(Wilhelm Tegge)が描いた挿絵から、平成145月末、青野原収容所の施設が農家の納屋として現存していることが判明した【『小野市史』第6巻第4章「青野ヶ原俘虜収容所と小野」及びインターネットhttp://osaka.yomiuri.co.jp/kobe/past/020531.htmyoより】。ケーテン(Köthen)出身。1241:福岡青野原)

55)    Kessingerケッシンガー,Friedrich von1866-1946):第3海兵大隊長・陸軍歩兵中佐。〔守備隊の陸上戦隊指揮官〕。1866224日、ザクセン王国陸軍少将クルト・フォン・ケッシンガー(Curt von Kessinger)の長男として生まれた。妻エルフリーデ・フォン・ネッカー(Elfride von Neckar1874-1954)との間に娘二人がいた。厳しい態度・姿勢のため、部下達からはあまり好かれてはいなかった。1110日午後2時、青島残留のドイツ兵を引き連れて台東鎮に引き揚げ、日本送還までそこで露営した。名古屋俘虜収容所の先任将校だった。パウル・エンゲル(Paul Engel)は丸亀俘虜収容所時代に、『青島行進曲』をケッシンガーに捧げた。妻エルフリーデは二人の娘(いずれも12歳以下)と大戦終結まで上海で暮らした。大戦終結してドイツに帰国後、日独戦争前から日本の収容所の様子などを記した『出来事』(Geschichte)を残した。2006年になって、孫のフリードリヒ=クリスチアン・フォン・ケッシンガー氏(Friedrich-Christian von Kessinger)の校條善夫宛ての私信から、氏の叔父が板東俘虜収容所にいたことが判明したが、氏名等は不明である【校條「名古屋俘虜収容所 覚書V」、『「青島戦ドイツ兵俘虜収容所」研究』第481】。ワイマールに没した。ドレスデン(Dresden)出身。(2577:名古屋)

56)    Kessler(ケスラー),Johann?-?):3海兵大隊5中隊・2等歩兵。板東時代、第27室で洗濯屋を営んだ。解放後は蘭領印度に渡った。ケルン(Köln)出身。(2955:松山板東)

57)    Kessler(ケスラー),Karl?-?):海軍膠州砲兵隊第3中隊・2等砲兵。板東時代、タパタオの12号小屋でギュンシュマン(Günschmann)と家具屋及び大工を営んだ。19196月の帰国準備時には、船舶輸送及び故郷送付用の荷箱仕上げの業務をした。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ザクセン=アンハルトのバデボルン(Badeborn)出身。(4197:「大阪」徳島板東)

58)    Kessler(ケスラー),Kurt?-?):3海兵大隊機関銃隊・副曹長。久留米時代の1917313日、ケスラーから日本赤十字社に「コパイザルサム」薬の送付方の依頼があった、との照会が日赤から俘虜情報局にあった。同薬品は軍医によって差し支えないと判断され、収容所医務室で配剤されることになった。イェーナ(Jena)出身。(3441:熊本久留米)

59)   Ketel(ケテル),Hellmuth1893-1961):海軍砲兵中隊・2等信号兵。[2等巡洋艦エムデン乗員・厨房兵]。北ドイツのホルシュタイン州に生まれた。大戦終結後、元習志野俘虜収容所の仲間といくつかの事業を起こすが失敗する。その後会津の女性と結婚し、1927年銀座並木通りに「バー・ラインゴールド(Bar Rheingold)」を開業し、1930年にはその隣にレストラン「ケテル(Ketel)」を開業した。1936年の日独防共協定締結後は、ドイツから来日するドイツ人はきまって「ケテル」を訪れた。元エムデン乗員20数名が一度に店を訪れた事もあった。第二次大戦中はヴォルシュケ(Wolschke)等多くの在日ドイツ人とともに、長野県の野尻湖畔の外国人村に住み、村の入り口でパン屋を営んだ。1956年製作の瑞穂春海監督による東宝映画『ある女の場合』(飯沢匡作)に、キャロー神父役で出演した。1961年東京で死去した【銀座並木通りの「ケテル」入り口脇の記念板には、「1916年(大正5年)来日」となっているが、俘虜情報局による大正410月調の『俘虜名簿』には、既にその名が収容所名とともに記載されている。なお、2004年夏にレストラン「ケテル」は突如として閉店した】。雑誌『民主文学』(日本民主主義文学会発行)20093月号には、野尻湖畔でケテルからドイツ語を教わったという碓田のぼる氏のエッセイ「遥かなる信濃西銀座」が掲載されている【高知文学学校長猪野睦氏からの教示による】。そのエッセイにはケテルとその子孫に関する興味深い事実が記されている。以下はその内容からの記述である【1935104日の晩にリヒャルト・ゾルゲが店を訪れて、ケテルとひそひそ話をしたことが、ゾルゲの日本妻だった石井花子の『人間ゾルゲ』(角川文庫)からの引用で紹介されている。なお、石井花子は当時「ラインゴールド」でホステスとして働いていた。娘のエリーゼ・ケテルは幼少期をドイツで過ごしたが、19歳の時に日本に戻って父の店を手伝い、昭和35年からは店の責任者になった。1977年には『ドイツ料理』(佼成出版社)という本を出した。エリーゼの兄の息子の嫁ウルリケ・ケテルは200810月時点で、横浜市都筑区にある「独逸学園」の図書館長を務めている】。ホルシュタインのヴェーデル(Wedel)出身。(140:東京習志野)

60)    Ketelsen(ケーテルゼン),Johannes F.?-?:国民軍・後備伍長。[裁判所書記官]。青島時代はハンブルク街に住んでいた。妻の名はイーダ(Ida)であった。シュレースヴィヒ(Schleswig)出身。(4543:大阪似島

61)    Ketscher(ケチャー),Willy1888-1968):第3海兵大隊工兵中隊・軍曹。ケムニッツ県のゲルスドルフ(Gersdorf)出身。(2973:松山→板東)

62)    Kettgen(ケットゲン),Johann(?-1919):第3海兵大隊機関銃隊・上等兵。191932日、久留米で死亡、久留米山川陸軍墓地に埋葬された。なお、大戦終結後の1920116日、遺骨はドイツ側委員に引き渡された【『欧受大日記』大正十三年三冊之内其一、附表第一「埋葬者階級氏名表」より】。ラインラントのホムベルク(Homberg)出身。(3443:熊本久留米)

63)    Keyssnerカイスナー,Rudolf Traugott Ernst1888-1955):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。カッセラ商会神戸支店。板東時代の1919年、バルクホールン、ラーン(Laan)、ルードルフ(Rudolf)及びジーモンス(Simons)と共に、日本語文献からの翻訳『国民年中行事』(Das Jahr im Erleben des Volkes)の出版に関わった。また、板東ホッケー協会のチームのメンバーだった。解放されて帰国後、カッセラ商会フランクフルト支店に勤務した。19201025日鉄十字二等勲章を受けた。1922年マグダレーナ(Magdalena Vetter)と結婚した。娘のレナーテ(Renate)はハッシェ(Ernst Hasche)の息子と結婚した。ザールフェルト郡のリヒテンタンネン(Lichtentanne)出身。2967:松山板東)

64)    Kibilka(キビルカ),August?-?):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。板東時代、「エンゲル・オーケストラ」団員で、ピアノを担当した。ヴェストファーレンのビュア(Buer)出身。(1951:丸亀板東)

65)    Kienningersキーニンガース,Josef?-?):海軍野戦砲兵隊・予備陸軍少尉。〔要塞車厰第2次指揮官〕。妻パウラ(Paula)は子ども(12歳以下)と二人で大戦終結まで上海で暮らした。大戦終結後、日本内地での契約が成立して内地解放者となった。1920年上海へ渡り、1920年から1926年まで上海の同済大学の講師として勤務した。バイエルンのイレライヒェン(Illereichen)出身。(4385:「熊本」大分習志野)

66)    Kierchnerキールヒナー,Albert1883-?):3海兵大隊第7中隊・後備2等歩兵。山東鉄道鉱山部。青島時代はキロワット街(Kilowattstraße)に住んでいた。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ブラウンシュヴァイク(Braunschweig)出身。(4384:「熊本」大分習志野)

67)    Kierdorf(キーアドルフ),Wilhelm?-?:海軍膠州砲兵隊第4中隊・2等砲兵。1915125日付けの『徳島新報』2巻第11号によれば、キーアドルフは1128日に開催されたスポーツ大会の「石投げ」で、7.11メートルの成績で2位になった。なお6種目総合では48点の成績で15位であった。板東時代、スポーツクラブ「青年の力」でレスリングをした。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ゾーリンゲン近郊のヴァルト(Wald)出身。(4208:「大阪」徳島板東)

68)    Kiesewetter(キーゼヴェッター),J.Paul(?-1917):第3海兵大隊第6中隊・後備2等歩兵。191759日大分で死亡して、陸軍墓地に埋葬された。ブレスラウ近郊のシェビッツ(Schebitz)出身。(4382:「熊本」大分)

69)    Kiessling(キースリング),Gustav Gotthard Friedrich1892-1975):海軍膠州砲兵隊第2中隊・2等砲兵。ドイツに帰国後ルツィー・グロス(Luzie Gross)と結婚して子供二人をもうけた。当初は製紙工場のボイラーマンとして働いたが、後にマイニンゲンで国有鉄道に勤務した。マイニンゲン郡のシュヴァルンゲン(Schwallungen)出身。(3961:大阪似島)

70)    Kiessling(キースリング),Otto K.1924-?:第3海兵大隊第4中隊・2等歩兵。久留米時代は演劇活動で、トーマ作の農民笑劇『一等車』等14演目に主として女役で出演した。解放後は蘭領印度に渡って、バタビア新市街のヴェルテフレーデン(Weltevreden)の郵便局で働いた。ドレスデン(Dresden)出身。(3435:熊本久留米)

71)    Kirchner(キルヒナー),Friedrich?-?):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・3等機関下士。青野原時代、19181213日から20日まで開催された俘虜製作品展覧会では、テンペラ画2点を出品した【『AONOGAHARA捕虜の世界』69頁】。【なお、301頁に及ぶ手書きの未発表日記『中国と日本、1913-20』が、19911月にウィーン大学へ提出されたトーマス・クリフダ(Thomas Krivda)氏の博士論文『1908-1914年並びに俘虜時代における東アジアにおけるオーストリア=ハンガリー帝国巡洋艦皇后エリーザベト及びその乗員』に紹介されている。2部構成の手記は、第1部が19138月から1914109日まで、第2部は19141031日から1915年の姫路俘虜収容所から青野原俘虜収容所への移送までである】。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。グラーツのシュタイアーマルク(Steiermark)出身。(2267:姫路青野原)

72)    Kirchner(キルヒナー),Reinhold?-?:第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。1914928日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米俘虜収容所に送られた【『欧受大日記』大正三年十一月上より】。ブレスラウ近郊のツバイブロート(Zweibrodt)出身。(535:久留米)

73)    Kirschner(キルシュナー),Wilhelm1892-1966):海軍膠州砲兵隊第2中隊・2等砲兵。ドイツに帰国後1930年までパン屋を営んだが、後に農業に従事した。なお、1922222日マリー・マルガレーテ・ヴァッカー(Marie Margarete Wacker)と結婚して息子4人をもうけた。ヘッセン=ナッサウのランゲンゼルボルト(Langenselbold)出身。(3960:大阪似島)

74)    Kirsinger(キルジンガー),Anton1892-?):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。19171110日に開催された「1919年スポーツ週間」の「森林競歩50km」(参加者10名)で、6時間222秒を記録して第3位になった。ヴュルテンベルクのラーヴェンスブルク(Ravensburg)出身。(525:久留米)

75)    Kistenbrugger(キステンブルッガー),Karl?-?):海軍膠州砲兵隊第3中隊・2等砲兵。板東時代、「エンゲル・オーケストラ」の応援で、小太鼓を担当した。ハンブルク(Hamburg)出身。(4200:「大阪」徳島板東)

76)    Klaiber(クライバー), Hugo1894-1976:海軍膠州砲兵隊第2中隊・2等砲兵。高等師範の主将だった田中敬孝の子息の手元には、俘虜チームの写真が遺されている。体操服を着て肩を組んで並んでいる11名の写真の裏には、メンバーの名前と思われる人名が記されている。クライバーの名が記されていることから、メンバーの一員だったと思われる。2005年になって、クライバーはイレブンの写真中左から3人目の人物である事が判明した【〔写真12〕参照】。他のメンバーは、ハープリヒス(Habrichs)、ハイネマン(Heinemann)、ホロナ(Holona)、イーデ(Ide)、クラインベック(Keinbeck)、クヌッベン(Knubben)、レーベン(Loeven)、ポッサルト(Possardt)、シュライ(Schrey)、シュルマン(Schürmann)の10名である。なお、1919126日に高等師範の運動場で、高等師範等の生徒と試合を行ったのは、集合写真【〔写真11〕参照】から別のチームと思われる。ドイツに帰国後タンクローリーの運転手をした。1921516日、パオリーネ・ケッサー(Pauline Kässer,1896-1936)とヴァンヴァイル(Wannweil)で結婚した。連れ子の息子リヒャルト(Richard Ewald,1919-1942)はロシアで戦死した。またこの年、テュービンゲン近郊のヴァンバイルでサッカーチームを結成したが、そのチームは今日なお存続し、会員数は700名に及んでいる。息子のエーヴァルト(Ewald)は第二次大戦に出征し、23歳でソ連との戦闘で戦死した。最初の妻が亡くなって、やがて再婚後に生まれた次男クラウス(Klaus)は、テュービンゲン近郊のジップリンゲンに住んでいる。テュービンゲン(Tübingen)出身。(3954:大阪似島)

77)    Kläschen(クレシェン),Friedrich?-?):海軍膠州砲兵隊・1等砲兵。1962年のブレーメン、1964年のニュルンベルク、1966年のフランクフルトで開催された「チンタオ戦友会」では、アルブレヒト(Albrecht)、ベーダー(Beder)等とともに世話役を務めた。レンツブルク(Rendburg)出身。(1218:福岡→習志野)

78)    Klautke(クラウトケ),Paul?-?:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。青島屠場検査官]。松山時代、公会堂の講習会で物理学の講師を務めた。また19169月、収容所新聞『陣営の火』第133号に、「松山の動物と植物」の記事を寄稿した【安藤秀國/森孝明「陣営の火」178頁】。板東俘虜収容所では食肉の検査をした。また、工芸品展には付属品付きの養蜂箱を制作・出品した。さらに板西農養蚕学校に出張して、植物標本の作製方法を指導した。19171126日、「中国の夕べ」で講演を行う。1919124日には、「米と茶の栽培及び養蚕」の写真展を開いた。帰国に際して板東小学校に植物標本を寄贈した。帰国後、ドイツ・ハノーファーの書肆から、『中国の有用植物と有用動物』を出版した【米澤義彦「ドイツ兵俘虜の見た日本の自然板東収容所及び松山収容所新聞の記事の分析から49頁、所載:『地域社会における外来文化の受容とその展開』】。解放後は上海に渡り、1922年まで上海の同済大学に勤務した。東プロイセンのニコライケン(Nikolaiken)近郊の荘園カールスホーフ(Karlshof)出身。2971:松山板東)

79)    Kleemann(クレーマン),Eduard1870-?):第3海兵大隊第5中隊長・陸軍騎兵少佐。〔外方陣地左翼陣地指揮官・3・第4歩兵堡塁中間地区〕。18904月ザクセン陸軍に入隊し、同年8月陸軍歩兵少尉、18993月中尉、19054月海軍歩兵大尉、19144月には少佐に昇進した。1914916日、20名の騎兵と12名のオートバイ隊を率いて李村に赴いたが、すでに日本軍によって李村は占領されていた。その後はその率いる140の兵で、第2歩兵堡塁から第4歩兵堡塁の間の守備に当たった。青島時代はハインリヒ皇子街(Prinz-Heinrich-Straße)に住んでいた。松山に到着後、収容所まで徒歩で行進させられると、騎兵将校であるからと頑なに馬を要求して実現させた。板東では「板東保険組合」の監査役を務めた。松山及び板東俘虜収容所の俘虜代表を務めた。大戦終結後の19191230日、クレーマンを輸送指揮官とする帰還船「豊福丸」は、板東604名、習志野71名、似島39名、名古屋230名の計944名が乗船して神戸の第4埠頭を出発し、1920224日ヴィルヘルムスハーフェン港に到着した。船内では、『帰国航』が第6号まで、絵葉書は2種印刷・発行された。帰国後の1920310日、陸軍に入った。グロッセン=エーリヒ(Grossen-Ehrich)出身。2949:松山板東)

80)    Kleemann(クレーマン),Robert?-?):第3海兵大隊第6中隊・予備副曹長。松山時代(公会堂・収容)の191522日、ハレ県のツァイツ(Zeitz)から差し出されたエルゼ・シュスゲン(Else Schüssgen)のクレーマン宛の長文の俘虜郵便が、高知県土佐市在住の郵趣家河添潔氏の所蔵により遺されている。手紙の裏には封緘票「Siegelmarke Kriegsgefangenenlager MATSUYAMA」の貼付された珍しいものである。1915922日、誕生日祝いに招待したヴォルフ(Wolff)が前後の思慮なく酩酊して脱柵し、民家に立ち入った科で、23日に重営倉10日に処せられた。ベルリン(Berlin)出身。(2959:松山板東)

81)    Klees(クレース),Wilhelm?-?):3海兵大隊6中隊・補充予備兵。[カッセラ大阪支店]。191887日久留米から板東へ収容所換えになった。大戦終結後は、日本内地契約成立者として、日本国内で解放された。ハーナウ近郊のビショフスハイム(Bischofsheim)出身。(3434熊本久留米板東

82)    Kleffel(クレッフェル),Julius?-?):3海兵大隊7中隊・2等歩兵。[上海・ザンダー・ヴィーラー商会]。板東時代、本部事務室で金銭授受係りを務めた。出身地不明(『俘虜名簿』では上海)。(1961:丸亀板東)

83)    Klein(クライン),Anton1893-?):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・2等水兵。191886日久留米から習志野へ収容所換えになった。19191114日、チェコスロヴァキア国籍が認定され一足先に解放されて帰国した。メーレン(Mähren)のディッテルスドルフ(Dittersdorf)出身。(3475:熊本→久留米→習志野)

84)    Klein(クライン),Emil Carl Ulrich1877-1965):総督府・海軍造機技師。19156月熊本から久留米に収容所換えになった。妻子は大戦中北京近郊で暮らした。1954116日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。ヴィルヘルムスハーフェン(Wilhelmshaven)出身。(3473:熊本久留米)

85)    Klein(クライン),Richard(?-1916):第3海兵大隊第7中隊・後備2等歩兵。191646日大分で死亡、陸軍墓地に埋葬された。ドレスデン(Dresden)出身。(4383:「熊本」大分)

86)    Klein(クライン),Wilhelm1891-1944):海軍膠州砲兵隊第4中隊・2等砲兵。1891519日、指物師職人の子としてザールブリュッケンに生れた。19148月上記中隊に入隊した。19161018日福岡から大分へ収容所換えになった。大戦終結して解放後、蘭領印度に渡った。1941年結婚、19441126日、ソ連のヴォルガ河畔のヴォルクスで死去【シュミット】。ザールブリュッケン(Saarbrücken)出身。(1197:福岡大分習志野)

87)    Kleinbeck(クラインベック),Ernst1893-1944?):海軍膠州砲兵隊第1中隊・2等砲兵。似島時代、俘虜サッカーチームと広島高等師範のチームがサッカーの試合を行ったことがあった。高等師範の主将だった田中敬孝の子息の手元には、俘虜チームの写真が遺されている。体操服を着て肩を組んで並んでいる11名の写真の裏には、メンバーの名前と思われる人名が記されている。クラインベックの名が記されていることから、メンバーの一員だったと思われる【〔写真12〕参照】。他のメンバーは、ハープリヒス(Habrichs)、ハイネマン(Heinemann)、ホロナ(Holona)、イーデ(Ide)、クラーバー(Klaiber)、クヌッベン(Knubben)、レーベン(Loeven)、ポッサルト(Possardt)、シュライ(Schrey)、シュルマン(Schürmann)の10名である。なお、1919126日に高等師範学校の運動場で、高等師範等の生徒と試合を行ったのは、集合写真【〔写真11〕参照】から別のチームと思われる。マンハイム(Mannheim)出身。(3944:大阪似島)

88)    Kleinerbüschkamp(クライナービュシュカンプ),Karl?-?):海軍東アジア分遣隊第2中隊・2等歩兵。1916411日、フォーゲルフェンガーの誕生祝に招かれた。その折に食べたウサギの肉が、愛犬シュトロルヒStrolch)の肉であったかのようにフォーゲルフェンガーの日記に記述されている【『ドイツ兵士の見たニッポン』154頁】。ゾーリンゲン(Solingen)出身。(128:東京習志野)

89)    Kleingünther(クラインギュンター),Otto?-?):第3海兵大隊機関銃隊・上等兵。似島時代の19193月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に際して、技術部門で、ヴァイス【『似島独逸俘虜技術工芸品展覧会目録』では(A.Weiss)となっているが、(Emil Weiss)の誤りか?】と共同でゴットリーバー(Gottlieber)及びミュラー(Fritz Müller 629)【似島には、同姓同名の二人の「フリッツ・ミュラー」がいたことから、「629」は収容所番号と思われる】。製作の東屋及び別荘の模型のための家具と金属製品を出品した。ルードルシュタット(Rudolstadt)出身。(4538:大阪似島)

90)    Kleinhans(クラインハンス),Wilhelm1893-1962):3海兵大隊野戦砲兵隊・2等砲兵。カールスルーエ郡のゲルスハウゼン(Gölshausen)出身。2599:名古屋)

91)    Kleinschmidt(クラインシュミット),Erich?-?:第3海兵大隊6中隊・予備陸軍少尉。1908217日海軍歩兵第78連隊予備少尉、その後司法官試補となる。休暇で北京、天津を訪れた。松山時代の1915726日、陸軍大臣の通達を伝達する際、命令を信奉しなかった咎により、29日に軽謹慎2日に処せられた。板東時代、講習会で中国語の新聞を読むコースを開き、中国語辞典を編んで収容所印刷所から出版した。スポーツの関連では、板東ホッケー協会の理事長を務めた。また1919326日、「室内楽の夕べ」が開かれてシューベルトの五重奏「鱒」が演奏された。その折りクラインシュミットはヴィオラを担当した。他は、ガルスターGalster海軍中尉のヴァイオリン、デュムラー(Duemmler)海軍大尉のチェロ、クラーゼン(Claasen)伍長のピアノ、ナスート(Nassuth)砲兵伍長のコントラバスという編成であった。解放後は蘭領印度に渡った。1925年には妻と天津に住み、弁護士を務めた。ヴェザー河畔のシュトルツェナウ(Stolzenau)出身。(2958:松山板東

92)    Klemannクレーマン,Wilhelm1883-?):総督府・海軍造船大尉。19033月海軍入隊、19114月海軍造船大尉。青島時代はドイツ街(日本による占領統治時代は大和町)に住んでいた。バルケンフェルデ(Barkenfelde)出身。(3472:熊本久留米)

93)    Klemm(クレム),Fritz?-?):海軍膠州砲兵隊・2等砲兵。1918322日福岡から習志野へ収容所換えになった。習志野時代、収容所内の酒保で篠崎兼吉が請け負っていた「西洋食調理販売所」で、アロイス(Alois)とともに働いた【星昌幸氏からの教示;参照:「アジア歴史資料センター」のレファレンスコード「C03024994300」】。ヴィースレート(Wiesleth)出身。(1225:福岡→習志野)

94)    Kleppsch(クレプシュ),Paul1890-1971):第3海兵大隊第4中隊・2等歩兵。191887日久留米から板東へ収容所換えになった。ピルナ近郊のコーピッツ(Copitz)出身。(3421:熊本→久留米→板東)

95)    Kley(クライ),Paul1894-1992:第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。〔ビスマルク砲台〕。1911年植民地勤務の海軍歩兵大隊に志願し、1913年青島に赴いた。降伏前日に右腕を負傷、丸亀では軽傷者のための病院でしばらく過ごした。また丸亀時代、演劇に必要なかつらを調達した。板東時代の19175月に松山収容所からの人員を加えて拡大した「エンゲル・オーケストラ」の応援で、アルト・ホルンを担当した。また、1919417日に開催された21キロの競歩大会で、2時間3627秒で85人中の第51位になった【『バラッケ』第44月号81頁】。大戦終結後は警察官となったが、第2次大戦でソ連の捕虜となり9年間シベリアの収容所で過ごした。ライポルト(Leipold)等と「バンドー会」(当初は80名余の会員があった)を結成しフランクフルトで例会を開いた。大阪万博の折りライポルトと来日し、板東を再訪した。ドイツ軍青島戦士の最後の生き残りとも言われたクライは、1956年以来ヴェストファーレのリューデンシャイト(Lüdenscheid)で暮らした。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。1970926日付けの『リューデンシャイト報知』(Lüdenscheider Nachrichten)には、クライが50年ぶりでライポルト(Leipold)と一緒に板東俘虜収容所跡を訪問し、慰뜊碑に花輪を捧げる様子を『徳島新聞』の記事を転載して報じた。また1972318日付けの『リューデンシャイト報知』には、鳴門市板東のドイツ館(旧ドイツ館)建設の模様が、同じく『徳島新聞』の記事を転載して報じられているが、クライの思い出話も言及されている。19839月には日本から撮影チームが訪れ、ベートーヴェンの「第九」日本初演の地である、板東の思い出等のインタヴューが行われた。地元の『ヴェストファーレン展望』及び『リューデンシャイト報知』は、その後も毎年クライの誕生日や海軍戦友会の特別表彰の模様を報道した。青島ドイツ人俘虜の最後の生存者とも言われたが、1992597歳で死去した。テューリンゲンのヴァルタースハウゼン(Waltershausen)出身。1949:丸亀板東)

96)    Klimant(クリーマント),Gustav?-?:国民軍・曹長。[青島山林局・山林監視官]。板東時代、第8棟(準士官棟)の先任下士官を務めた。また「板東収容所営林所長」とも言える役割を担った。自給自足の賄い、製パンに必要な薪を調達するためであった。191824日に初めて近隣の山に入り、伐採の手本を示した。妻ペトロネラ(Petronella)は息子と娘の三人で、大戦終結まで青島に留まった。大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として日本国内で解放された。西プロイセンのセルスク(Czersk)出身。2984:松山板東)

97)    Klimek(クリメク),Johann?-?):海軍東アジア分遣隊第2中隊・2等歩兵。200949日、クリメクの縁者に当たるマルティナ・グルーネルト(Martina Grunert)氏がシュミット氏のHPに書き込みをした。それによれば、クリメクは解放後は蘭領印度に渡った。後に結婚して子供を4人もうけオランダで暮らした。クロスターマンスフェルト(Klostermannsfeld)出身。(1248:福岡→名古屋)

98)    Klingebiel(クリンゲビール),Wilhelm?-?):海軍砲兵中隊・2等焚火兵。久留米時代、1918916日から、つちや足袋合名会社に刃物鉄工の労役で出向いた。労働時間18時間、賃金は1ヶ月24円(内4円は国庫納入)であった【『ドイツ軍兵士と久留米』24頁】。アルフェルト近郊のフェールステ(Föhrste)出身。(3465:熊本久留米)

99)    Klingmüller(クリングミュラー),Adalbert?-?):3海兵大隊2中隊・伍長。[アルンホルト=カルベルク天津支店]。ベルリン(Berlin)出身。(1939丸亀板東

100)    Klingner(クリングナー),Eugen1884-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・後備砲兵軍曹長。似島時代の19193月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会では、アーペル(Apel)、オットー(Otto)、シュピーロ(Spiro)及びヴォーゼラウ(Wosearu)とともに技術部門の責任者を務めた。ライプチヒ近郊のツェリヒカ(Zöligka)出身。(3950:大阪似島)

101)    Klingst(クリングスト),Paul?-?):3海兵大隊・予備上等歩兵。[上海ドイツ総領事館]。板東時代の19175月に松山俘虜収容所からの人員を加えて拡大した「エンゲル・オーケストラ」の団員で、チェロを担当した。またシミング(Schimming)とタパタオの6号小屋で鋳型製作所を営んだ。大戦終結して解放後は、蘭領印度のバタヴィアに渡った。ザクセンのゲーダ(Goeda)出身。(2983:松山板東)

102)    Klinke(クリンケ),Georg?-?):国民軍・伍長。[弁護士]。青島に来る前は天津にいた。青島時代は、市内中心のフリードリヒ街に住んだ。大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として日本国内で解放された。シュテーゲマン(Steegemann)の依頼で、青野原収容所についての私記を寄せた、それはシュテーゲマンの報告書に反映されている。プロイセンのフォルスト(Forst)出身。(2263:姫路青野原)

103)    Klinke(クリンケ),Kurt?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等砲兵。1915711日福岡から久留米へ収容所換えになった。久留米時代の191712月、エーベルハルト(Eberhardt)及びエームンツ(Emunds)と収容所交付の発信用紙の売買仲介により、重営倉の処罰を受けた。兵卒1ヶ月分(封書用紙1、葉書1)が40銭で売買されていた【『ドイツ軍兵士と久留米』17頁】。ブランデンブルクのツィーレンツィッヒ(Zielenzig)出身。(1209:福岡久留米)

104)    Klobucar(クロブツァー),Viktor von?-?:巡洋艦皇后エリーザベト乗員・海軍大尉。元オーストリア軍飛行将校。青島を脱出したプリュショー(Plüschow)海軍中尉の友人であった。プリュショー中尉等数名で、複葉飛行機の製作にあたったが完成に至らず、降伏前に機体を破壊した。負傷したバイエルレ(Baierle)少尉に代わって、第15砲台指揮官になった。191884日久留米から青野原へ移送された。青野原近隣の住民に寄贈した、田園風景を描いた油絵が遺されている【参照:『青野原俘虜収容所の世界』109頁。「クロイツァーの署名が見える」と記されているが、署名は「Klobucar 1919」で、正しくは「クロブツァー」である】。ハンガリーのフィウメ(Fiume)近郊のスサク(Susak)出身。(3474:熊本久留米青野原)

105)    Klöckner(クレックナー),Fritz?-?:国民軍・卒。1915920日、青島から大阪収容所に移送された。ハンブルク(Hamburg)出身。(4686:大阪似島)

106)    Klopp(クロップ),Johann Dietrich?-?):第3海兵大隊第4中隊・後備伍長。20036月、ブラウンシュヴァイクで開催された「第2回ベートーヴェン『第九』里帰り公演」に際して、娘のルイーゼ・ヴァルネッケ=ハルトゥングとエンネ・ヘセから、クロップのアルバム2冊が鳴門市ドイツ館に寄贈された。アルバムには、別府の温泉見学の様子や習志野の雪景色などの珍しい写真が含まれている。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。東フリースラントのレーア(Leer)出身。(4381:「熊本」大分習志野)

107)    Klose(クローゼ),Albert?-?):海軍膠州砲兵隊第4中隊・1等砲兵。板東時代、第62室で理髪業を営んだ。シュレースヴィヒ=ホルシュタインのアルトナ(Altona)出身。(4204:「大阪」徳島板東)

108)    Klose(クローゼ),Paul?-?):第3海兵大隊第4中隊・2等歩兵。19156月久留米へ収容所換えになった。1917710日に行われた「久留米体操クラブ」の12種競技(鉄棒、平行棒の演習3種目、鞍馬の演習2種目、徒手体操1種目、陸上競技3種目)では、104点を獲得して中級の部の第8位になった。上部シュレージエンのノイ・ラツィオンカオ(Neu Radzionkau)出身。(3429:熊本久留米)

109)    Kluge(クルーゲ),Alfred1879-?):総督府・海軍上級経理秘書官。青島時代は旧衙門(Altes Yamen;清国時代の官衙)に住んでいた。ライプチヒ(Leipzig)出身。(4392:「熊本」大分習志野)

110)    Kluge(クルーゲ),Ernst1892-1979:第3海兵大隊第2中隊・1年志願上等歩兵。1914928日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米俘虜収容所に送られた【『欧受大日記』大正三年十一月上より】。久留米時代、シュタイツ(W.Steitz)の手になると思われる収容所の柵をあしらったスケッチには、中央部分に「久留米収容所楽団」のオットー・レーマン(Otto Lehmann)以下22名の楽団員の写真が並べられ、また一人一人のサイン(ただしレーマンのを除く)が記されている【〔写真8〕参照】。さらに写真には各自のパートも記されている。それによるとクルーゲは、第一ヴァイオリン担当した。1954116日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。200212月、息子のクリスチアン・クルーゲ(Christian Kluge)氏は父親エルンストの遺品を寄贈した。それは1919123日、久留米高等女学校(今日の明善高校)で演奏されたベートーヴェンの「第九」の様子など撮影した写真である。着物姿の女学生を前にして楽器を手にするオーケストラの面々も写っている【20021229日付け『高知新聞』より】。2003315日に、久留米市教育委員会から発行された『ドイツ軍兵士と久留米』には、クルーゲの日記(ノート三冊に記された、厳密にはドイツに帰還後の「回想記」である)の抄訳が生熊文氏の訳で紹介されている。以下はそれによったクルーゲの足跡等である。「日独戦争後、沙子口から貨物船日東丸で門司港に着き、所持金の約450マルクを没収された。久留米への車中では25銭で三段重ねの駅弁を買って食べたとのことである。久留米駅には、立派なドイツ語を話す山本茂中尉が出迎えていた。兵卒用の宿舎では、ハーフェルス(Ernst Hafels)と同室になり、朝から晩まで紙でこしらえた駒でチェスをした。1115日、歓迎のために蓄音機を回してかけた「旧友」の調べが奏でられる中を、顔見知りのシュリーター(Robert Schlieter)軍曹が第1中隊を率いて久留米に現れ、そこにはリヒター(Rudolf Richter)予備伍長もいた。クルーゲは9月上旬に下士官に推奨されていたが、昇進の知らせが来たのは104日、その時には既に捕虜になっていたのである。宿舎では一応下士官並みに処遇された。やがてシュラム(Richard Schramm)海軍士官と同室になった。クリスマスが近づくと、収容所では各グループが工夫を凝らした作品の制作に励んだ。クルーゲのグループでは、ツェッペリン号LZ101 の模型を制作した。やがて大晦日になると、山本中尉は俘虜達としこたま酒を飲んで酔っ払った。赤司大尉の11時には就寝することになっているとの命令に、山本中尉は千鳥足で外にいる大尉のもとへ行き、声高な論争を始めた。自力では自室に戻れず、俘虜たちに抱えられて部屋に運ばれた。このことは悪い結果になるのでは、とクルーゲは予感した。久留米収容所での待遇が悪かった原因の一つにクルーゲは、ドイツ人将校たちの無作法で馬鹿な行為を挙げている。最初に帰還する隊が出発した後、将校部屋はめちゃめちゃに壊され、日本人にとって嬉しくない落書きでいっぱいだったとのことである。このことはなお収容所に残っている者達に不快な結果となることも将校連中にはどうでもよかったのだ、との言葉をクルーゲは吐き捨てている。青島に1年滞在し、ヨーロッパ文化をよく理解する山本茂中尉のことは、限りなく好意を寄せて記している。1919123日、久留米女学校に招かれて行ったコンサートについては、その折の様々な様子が詳しく記されている。ドイツには第何次にどの帰還船に乗れるか、また全員が同時期に乗船できずに残留者がある等のことには、解放者達に種々の不安を引き起こしていたこともありありと述べられている。12月の20日から22日には、久留米恵比寿座でオーケストラの客演を要請され、23日にはそのお礼として日本の演劇公演に収容所全体が招待された。191912月のクリスマスは、ヘルビヒ(Helbig)、マル(Marr)及びヴルフ(Wulff)の四人で過ごした」。2007103日、久留米市民会館で明善高校創立記念講演会が開催され、ドイツからクリスチアン・クルーゲ夫妻が招待された。90年前に久留米収容所俘虜によるベートーヴェンの『第九』演奏に対して、明善高校オーケストラ部による返礼の演奏が行われた。その後にクリスチアン・クルーゲは「ドイツ軍兵士と久留米、父エルンスト・クルーゲの物語」の演題で特別講演を行った。この模様は、『西日本新聞』、『朝日新聞』、『読売新聞』の各新聞紙上で数度に亘って報じられた。ベルリンのディヒターフェルデ(Dichterfelde)出身。533:久留米)

111)    Klumpp(クルムプ),Adolf?-?):3海兵大隊4中隊・予備伍長。久留米時代、19194月から佐賀県鳥栖町の中村石鹸製造工場に就労し、収容所から自転車で通勤した【『ドイツ軍兵士と久留米』24頁】。ヴェストファーレンのリップシュタット(Lippstadt)出身。(3415:熊本久留米)

112)    Knaack(クナーク),John?-?:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[ハンブルク・アメリカ汽船]。板東時代、公会堂での工芸品展に2階建てのメリーゴーランドを制作・出品して注目された。ハンブルク(Hamburg)出身。(2965:松山板東)

113)    Knappeクナッペ,Franz?-?):海軍膠州砲兵隊・予備砲兵伍長。[山東鉄道事務助手]。習志野時代の1919812日、習志野演劇協会によるベネディックス作の喜劇『親戚の情愛』では、娘役で、また同年105日の「マルフケのための謝恩の夕べ」では、二部構成の第二部の演劇でハラーシュタイン作の1幕物茶番劇『射撃手と空クジ』に代理商の役で出演した。解放後は蘭領印度に渡った。東プロイセンのティルズット(Tilsit)出身。(4390:「熊本」大分習志野)

114)    Knecht(クネヒト),Peter1892-1941):第3海兵大隊第4中隊・伍長。1892527日、ザールブリュッケンのハイリゲンヴァルト(Heiligenwald)に生れた。19148月上記中隊に入隊した【シュミット】。熊本時代、法則を遵奉せず、官給品を毀損した咎で禁錮1ヶ月の処罰を受けた。19156月熊本から久留米へ収容所換えになった。19191021日に開催された「50m競走」に出場し、6.6秒で第2位になった。ザールブリュッケン(Saarbrücken)出身。(3414:熊本久留米)

115)    Kneifl(クナイフル),Wenzel?-?):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・1等水雷水兵。青野原時代の1916年(月日不明)、ヒメルチェク(Chmelicek)とメドヴィドヴィッチ(Medvidovich)の三人で共謀して逃走をした科で重営倉30日に処せられた。、19181213日から20日まで開催された俘虜製作品展覧会で、クナイフルのグループは金属加工部門に機雷、煙草道具、灰皿、宝石箱、トイレ用鏡等26点を出品した【『AONOGAHARA捕虜の世界』75-76頁】。ボヘミアのノイ=ビショフ(Neu-Bischov)出身。(2290:姫路青野原)

116)    Knell(クネル),Friedrich?-1919):海軍砲兵中隊・後備2等機関候補生。191885日久留米から名古屋へ収容所換えになった。19191218日名古屋で死亡し、陸軍墓地に埋葬された。ルートヴィヒスハーフェン(Ludwigshafen)出身。(3458:熊本久留米名古屋)

117)    Kneupelt(クノイペルト),Johann?-?):3海兵大隊6中隊・2等歩兵。[シャム王国鉄路局]。大戦終結して解放後は蘭領印度に渡った。レーゲンスブルク(Regensburg)出身。(2969:松山板東)

118)    Knibbe(クニッベ),Paul?-?):海軍東アジア分遣隊第2中隊・予備上等歩兵。[電気技師]。1915920日福岡から名古屋へ収容所換えになった。191732日、岡本自転車製作所に設計の労役に就き、また同年314日には、甲斐洗濯店での洗濯機械設計の労役にも就いた【校條「名古屋俘虜収容所 覚書V」所載:『「青島戦ドイツ兵俘虜収容所」研究』第6号、2122頁】。ランゲンザルツァ(Langensalza)出身。(1245:福岡名古屋)

119)    Knobel(クノーベル),Gustav?-?):3海兵大隊工兵中隊・上等工兵。板東時代、クノーベル商会の名で洗濯屋を営んだ。ヴュルテンブルクのオーバーシュタディオン(Oberstadion)出身。(2976:松山板東)

120)    Knoll(クノル),Ernst1882-1930):第3海兵大隊第7中隊・上等歩兵。板東時代19175月に松山俘虜収容所からの人員を加えて拡大した「エンゲル・オーケストラ」の団員で、フルート及びオーボエを担当した。また板東時代には、徳島県下各地で農業講演を行った。解放後は蘭領印度に渡ったが、1922年以前上海に赴き、やがて奉天のヤリ輸出入商会(Yali Import & Export Co)に勤務した。北京で没した。リューベックのアーレンスベク(Ahrensbök)出身。(1953:丸亀板東)

121)    Knoop(クノープ),Karl?-?:海軍膠州砲兵隊第3中隊・1等砲兵。1915125日付けの『徳島新報』2巻第11号によれば、クノープは1128日に開催されたスポーツ大会の6種目総合で54 1/2点の成績で11 位になった。板東時代の191712月、懸賞作文募集に「故郷」で佳作とされ、『バラッケ』に掲載された。また191844日から6日の三日間、ブランダウ演劇グループによるクライストの『壊れ甕』の上演に際して、ループレヒト役を演じた。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。シュレースヴィヒのバルゲン(Bargen)出身。4196:「大阪」徳島板東)

122)    Knopf(クノップ),Kurt?-?):3海兵大隊第2中隊・予備伍長。[ジーメンス青島支店]。青島時代はミュンヘン街(Münchenerstraße;日本による占領統治時代は英町)に住んでいた。1914928日、浮山で日本軍に投降し俘虜となり、久留米俘虜収容所に送られた【『欧受大日記』大正三年十一月上より】。久留米の演劇活動では、マイアー=フェルスター作の『アルト・ハイデルベルク』等に出演した。ヴァイクセル河畔のシュヴィッツ(Schwitz)出身。534:久留米)

123)    Knubbenクヌッベン),Peter?-?:海軍膠州砲兵隊第1中隊・2等砲兵。高等師範の主将だった田中敬孝の子息の手元には、俘虜チームの写真が遺されている。体操服を着て肩を組んで並んでいる11名の写真の裏には、メンバーの名前と思われる人名が記されている。クヌッベンの名が記されていることから、メンバーの一員だったと思われる【〔写真12〕参照】。他のメンバーは、ハープリヒス(Habrichs)、ハイネマン(Heinemann)、ホロナ(Holona)、イーデ(Ide)、クラーバー(Klaiber)、クラインベック(Keinbeck)、レーベン(Loeven)、ポッサルト(Possardt)、シュライ(Schrey)、シュルマン(Schürmann)の10名である。なお、1919126日に高等師範学校の運動場で、高等師範等の生徒と試合を行ったのは、集合写真【〔写真13〕参照】から別のチームと思われる。ラインラントのヴュルゼルン(Würseln)出身。(3946:大阪似島)

124)    Knüpfel(クニュップフェル),Erich?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・後備砲兵伍長。[卵紛製造工場]。1915915日福岡から習志野へ収容所換えになった。美食家だった。そのせいか常に選り抜きの缶詰を所持し、またそれを売ったりもしていた。エルベ河畔のシャンダウSchandau出身。(1202:福岡習志野)

125)    Knüppel(クニュッペル),Karl Dr.1875-?:総督府参謀本部・海軍1等経理監督(大佐相当)。〔総督府財政長〕。19067月海軍に入る。191351等経理監督に就任した。膠州総督、高等判事、民政長官に次ぐ高額年俸を造船所長とともに受けていた。青島時代はアーダルベルト皇子街(Prinz-Adalbert-Straße)に住んでいた。19141114日の全戦闘員の日本送還後も、青島にしばらく留まって残務処理に当った。妻オリー(Olli)は子ども(12歳以下)と二人で大戦終結まで上海で暮らした。シュテッティン(Stettin)出身。(4391:「熊本」大分習志野)

126)    Knustクヌスト,Heinrich A.W.?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・予備船匠伍長。19161020日福岡から大阪へ収容所換えになった。似島時代の19193月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に際して、美術の工芸木工部門の責任者をハルムス(Harms)とともに務め、また学校部門では地図を出品した。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。キール(Kiel)出身。(1205:福岡大阪似島)

127)    Koberコーバー,Erwin?-?:第3海兵大隊第1中隊・予備上等歩兵。[ベディカー商会(Boediker & Co.)]。青島時代はハインリヒ皇子街(Prinz-Heinrich-Straße)に住んでいた。ザクセンのエレフェルト(Ellefeld)出身。(524:久留米)

128)    Koeberlein(ケーバライン),Wilhelm1890-1952:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[クンスト・ウント・アルバース商会ウラジオストック支店]。23歳の時、当時有名だった上記商社の社員として採用されたケーバラインは、19145月にシベリア鉄道でウラジオストックへ赴いた。13日ウラジオストックに着任したが、3ヶ月も経たない81日にドイツがロシアに宣戦布告すると、翌2日には24時間以内の退去を命じられた。83日、「ホウザン丸」で敦賀に向けて出航し、6日に敦賀港に着いた。ウラジオストックとは雲泥の差の町の清潔さに、ケーバラインは郷里を思い出した。大阪、神戸に少し滞在した後上海経由で青島に志願兵として応召した。なお、神戸滞在時、料亭で芸者がドイツの民謡「ムシデン」(Muß i denn)を歌ったことに驚いたとのことである。814日青島に到着し、他の10名のクンスト・ウント・アルバース商会員とともに、第3海兵大隊の兵営で最初の夜を過ごした。青島では一時総督邸の警備に当たっていた。その折、日本軍の複葉機の襲撃に遭った。1914126日、松山収容所(公会堂)から郷里へ葉書を出した。それが青島包囲後数ヶ月、音信不通のため生死を心配していた両親の元への、日本からの最初の便りである。1915116日、松山城から見た松山市を写した絵葉書(「松山城より兵営を望む」の文字あり)を出した。歩兵第22連隊の兵営と収容所になった公会堂が見られる。ケーバラインは所持していたコニカで、松山及び板東で多くの写真を写し、また板東ではグロッセ(Grosse)と共同で収容所内のタパタオで写真屋を営んだ。メッテンライター『極東で俘虜となる』によれば、ヴィルヘルムスハーフェン到着後はコールヘップ(Kohlhepp)、クロイツァー(Kreutzer)、ロッケンマイアー(Rockenmeyer)の四人で郷里のビュルツブルクに向かった。19204月、マインツで一時的に仕事に就き、後に結婚することになるゾフィー(Sophie)を知る。1923年郷里に戻り、娘二人が生まれた。1929年に鉄製品の販売代理店を、1935年には消火器販売代理店を営んだ。第二次大戦時には再び応召したが、防空警察に就いたのは、消火器販売による知識のせいであった。ケーバラインの遺品には、日記、葉書、および数多くの写真がある。1972年に鳴門市板東にドイツ館が落成すると、一部が青島戦友会を通じて寄贈されたが、他の資料は後年ヴュルツブルクのシーボルト博物館に収蔵された。俘虜送還船内で写真の注文を受けたことが、遺品の中の領収書から窺える【この項は、メッテンライター『極東で俘虜となる』による。なお、遺品中には力士とともに写っている俘虜の姿があり、ケーバライン撮影になるとされている。撮影場所についてはいま一つ判然とはしないが、松山収容所時代と思われる。ティッテル(Tittel)の項参照】。20017月、出身地ヴュルツブルクのシーボルト博物館で、ケーバラインが板東収容所等で写した写真等で構成された「極東で俘虜となって日本の収容所におけるドイツ人」と題した展示会が開催された。ヴュルツブルク(Würzburg)出身。(2972:松山板東)

129)    Koch(コッホ),Erwin von1883-1945):3海兵大隊7中隊・副曹長。[ハンブルク・アメリカ汽船香港支店]。1883928日銀行員の子としてハンブルクに生まれた。神奈川県茅ヶ崎市で商人として従事、1914129日、ゲルトルート・ライマース(Gertrud Reimers)と結婚した。丸亀時代、横浜市山下町198番地に住む妻のゲルトルートは、1915129日から191726日までに23回面会に訪れて来た。丸亀北平山町39に住居を構えたと思われる。1917913日、アメリカ経由でドイツに帰国するために最後の面会に訪れた【『丸亀俘虜収容所記事』及び『丸亀俘虜収容所日誌』より】。板東時代、19175月に松山収容所からの人員を加えて拡大した「エンゲル・オーケストラ」の団員で、第1ヴァイオリンを担当した。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。19452月、ブダペストで没した。ハンブルク(Hamburg)出身。(1955丸亀板東

130)    Kochコッホ,Heinrich(?-1914):海軍膠州砲兵隊第1中隊・1等砲兵。[鍛冶職人]。1914928日ヴァルダーゼー高地で俘虜となったが、負傷していたため久留米衛戍病院に送られた【『欧受大日記』大正三年十一月上より】。1025日コッホが重病に陥ると、所長樫村弘道少佐と所員の山本茂中尉は久留米衛戍病院に赴き、コッホから遺言を聞いたが、それは故国の母親によろしく伝えて欲しいとの一言だった。グラボウ(Grabow)中尉、ベスラー(Boesler)少尉及び下士2名が病院に駆けつけた【『東京朝日新聞』大正31027日付け記事】。1025日同病院で死亡し、軍人墓地に埋葬された。なお、クルーゲ(Ernst Kluge)の日記によれば【『ドイツ軍兵士と久留米』―久留米俘虜収容所 U―;生熊 文抄訳】、葬儀に際してはグラボウ中尉の別れの言葉に続いて、樫村所長が弔辞を山本中尉が通訳し、久留米市の代表も弔辞を述べ、100人に及ぶ群集がその様子を黙って見つめ、仏教の僧侶が線香を炊き、写真家数人が葬儀の様子を写真に収めたとのことである。【『欧受大日記』大正十三年三冊之内其一、附表第一「埋葬者階級氏名表」によれば、久留米山川陸軍墓地に埋葬された十一名の内、九名の遺骨は、大正九年一月十六日にドイツ側委員に引き渡されたが、土葬されたコッホとパウリー(Karl Pauly)の遺骨は残置された】。ハンブルク(Hamburg)出身。(562:久留米)

131)    Koch(コッホ),Heinrich?-?:第3海兵大隊第2中隊・上等歩兵。板東時代、丸亀蹴球クラブの役員を務めた。また、19175月に松山収容所からの人員を加えて拡大した「エンゲル・オーケストラ」の第1ヴァイオリンを担当した。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ギーセン(Giessen)出身。(1941丸亀板東

132)    Koch(コッホ),Johann?-?):3海兵大隊7中隊・後備伍長。[シュトラウス商会上海支店]。板東時代、収容所内の商業区域タパタオの村長を務めた。また1917717日に発足した「収容所保険組合」に第7中隊代表となって運営に従事した。191861日、軍楽曹長ハンゼン(Hansen)によってベートーヴェンの「第九交響曲」が板東俘虜収容所内で本邦初演された。その折り、コッホ、ヴェーゲナー(Wegener2等歩兵、シュテッパン(Steppan2等歩兵、フリッシュ(Frisch2等歩兵の四人は第4楽章の「合唱」でソロを受け持った。さらに「ドイツ兵記念碑」の建設を提唱した。バイエルンのブルカースドルフ(Burkersdorf)出身。(1957:丸亀板東)

133)    Koch(コッホ),Lambert1888-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。ルクセンブルク王国人。アルジェーの外人部隊、モロッコの外人部隊と渡り歩いたが、素行不良で仏領印度に送られた。老開の国境守備軍に配属されたが脱走し、上海等転々としてドイツ軍に義勇兵として雇われた。日本に送られると、フランス大使館に欧州戦争への従軍を願い出るが却下された。松山時代の191632日、夜陰に乗じて共謀脱柵し、酒楼に登った科で重営倉30日に処せられた。また同年48日、「歩哨ノ制止ニ対シ速ニ服従セサリシ科」で重営倉20日に処せられた。板東ではヘルトレ(Haertle、トロイケ(Treuke)、ヴァルシェフスキー(Waluschewski)、ツィンマーマン(Max Zimmermann)等の反ドイツ感情の強いポーランド人、ロシア系ユダヤ人と一緒に分置所に隔離収容された。【『日本人とドイツ人』94頁等】。19181019日、分置所内の争いから、ヘルトレに対してヴァルシェフスキーとともに飲酒の上暴行して、営倉30日の処罰を受けた。後に宣誓解放された。ヴァツェラート(Watzerath)出身。2968:松山板東習志野)

134)    Koch(コッホ), Robert Otto Rudolf1891-1945):海軍膠州砲兵隊・予備上等掌砲副兵曹。アイヒヴェンデ・ウント・シュレーダーEichwende & Schröder Co.青島支店1935613日マルガレーテ(Margaret Elisabeth Therese Freiin von Halkett)と結婚した。エアフルト郡のノルトハウゼン(Nordhausen)出身。(4216:「大阪徳島板東

135)    Koch(コッホ),Walter?-?):海軍膠州砲兵隊第3中隊・2等砲兵。板東時代、オール(Ohl)とタパタオの13A小屋で靴屋を営んだ。ザクセンのライスニヒ(Leisnig)出身。(4202:「大阪徳島板東

136)    Koch(コッホ),Wilhelm1892-?):海軍東アジア分遣隊第3中隊・2等歩兵。1913年に中国へ渡り、北京に滞在したと思われる。1914619日付けで北京から故国へ絵葉書を出している。1915711日福岡から久留米へ収容所換えになった。1919420日に行われた「久留米体操クラブ」の5種競技(投擲用ボール投げ、石投げ(15kg)、幅跳び、棒高跳び、100m競争)では、82点を獲得して初級の部の第2位になった。2007年、息子のヘルムート・コッホ氏から、総数155点に及ぶ絵葉書、漆塗りのアルバムに収められた彩色絵葉書、写真、印刷物が久留米市へ寄贈された。コッホが出した葉書8点が生熊 文氏の訳で、また収容所内の写した貴重な写真を含む54点が『ドイツ兵捕虜と収容生活』(久留米市文化財調査報告書第251集)に掲載されている。ザクセン・コーブルクのリーベンシュタイン(Liebenstein)出身。(1257:福岡久留米)

137)    Köhler(ケーラー),Hans?-?):海軍野戦砲兵隊・2等砲兵。19188.7日久留米から板東へ収容所換えになった。板東時代の191961日(日)、12種目から成る体操大会が開催されたが、ケーラーは初級の部で132点の得点をあげて第1位になった【『バラッケ』19196月号より】。上部フランケンのハラーシュタイン(Hallerstein)出身。(3440:熊本久留米板東)

138)    Köhler(ケーラー),Heinrich1890-?):海軍膠州砲兵隊・砲兵伍長。1915915日福岡から習志野へ収容所換えになった。解放後は蘭領印度のバタビアに渡って官吏になった。ドゥイスブルク(Duisburg)出身。(1216福岡習志野

139)    Köhler(ケーラー),Wilhelm O.?-?):3海兵大隊予備榴弾砲兵隊・後備伍長。191910月、習志野俘虜収容所で上演されたイプセンの『崩壊する社会』で、造船技師役で出演した。ハノーファー(Hannover)出身。(4387:「熊本大分習志野

140)    Kohlhepp(コールヘップ),Josef?-?):3海兵大隊・上等歩兵。[皮革工]。1915920日福岡から名古屋へ収容所換えになった。メッテンライター『極東で俘虜となる』によれば、ヴィルヘルムスハーフェン港に到着後コールヘップは、ケーバーライン(Köberlein)、クロイツァー(Kreutzer)、ロッケンマイアー(Rockenmeyer)の四人で郷里のビュルツブルクに向かった。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ヴュルツブルク(Würzburg)出身。(1264:福岡名古屋)

141)    Kohluntコールント,Wolfgang?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・予備砲兵伍長。化学工1915915日福岡から習志野へ収容所換えになった。ハイデルベルク(Heidelberg)出身。(1201:福岡習志野)

142)    Kolb(コルプ),Joseph?-?):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。板東時代、「エンゲル・オーケストラ」の団員で、大太鼓を担当した。ミュンヘン(München)出身。(1942:丸亀板東)

143)    Koll(コル),Wilhelm?-?:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。松山時代、公会堂の日曜講演会で「新旧神学の違い」と題して講演した。バルメン(Barmen)出身。(2964:松山板東)

144)    Kollmeier(コルマイアー),Wilhelm1894-1971):河用砲艦チンタオ乗員・1等焚火兵。19161022日福岡から習志野へ収容所換えになった。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ミンデン郡のベールホルスト(Bölhorst)出身。(1273:福岡習志野)

145)    Koellner(ケルナー),Karl1892-?):3海兵大隊第1中隊・上等歩兵。解放後は蘭領印度に渡って巡査になった。シャウムブルク伯爵領のローデン(Rohden)出身。(521:久留米)

146)    Kolster(コルスター),Hans?-?):3海兵大隊・予備陸軍少尉。遺品中に、191511月に高良内での日本軍将校達との写った写真、高良山麓の庭園での写真、1917年久留米寺院前での写真(遠足か?)、1918年秋の収容所脇の畑で野菜を植えている作業風景の写真、1919618日久留米市黒木の矢部川での沐浴風景、音楽の練習風景の写真等が遺されている【シュミット氏のホームページより】。ビーレフェルト(Bielfeld)出身。(3411:久留米)

147)    Kombuechen(コンビューヒェン),Johann1893-1959:海軍東アジア分遣隊第1中隊・2等歩兵。習志野時代、習志野劇場によるエルンスト作の喜劇『フラックスマン先生』に用務員役で出演した。ドイツに帰国後の1921519日、アンナ(Anna Wallmann,?-1894)と結婚して子ども三人をもうけた。ケルン近郊のパフラート(Paffrath)出身。(120:東京習志野)

148)    König(ケーニヒ),Ernst?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・1等砲兵。大戦終結後、第4次送還船で下記エーヴァルト(Ewald)と同船でドイツに帰国した。ポーゼン州ポツォリッツ(Podstolitz)出身。(3952:大阪似島)

149)    König(ケーニヒ),Ewald?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・1等砲兵。19161020日福岡から青野原へ収容所換えになった。19181213日から20日まで開催された青野原俘虜製作品展覧会で、ケーニヒは模型部門でボトルシップ6点、また楽器部門ではチター2点を出品した【『AONOGAHARA捕虜の世界』78-79頁】。大戦終結後、第4次送還船で上記エルンスト(Ernst)と同船でドイツに帰国した。ポツォリッツ(Podstolitz)出身。(1220:福岡青野原)

150)    König(ケーニヒ),Ewald1882-1930):海軍膠州砲兵隊・後備1等砲兵。似島時代の19193月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会で飾り箱と駒付きのチェス盤を出品した。ザクセン=アンハルトのケーテン(Cöthen)出身。(4636:大阪似島)

151)    Königケーニヒ,Hermann?-?):国民軍・卒。[総督府・造船所職工長]。青島時代は小港通Kleiner Hafenwegに住んでいた。19159月下旬に青島俘虜収容所に収容され、大戦終結後の19191227日、同収容所から解放された。家族6人が青島に住んでいた。【『俘虜名簿』中ただ一人、収容所が青島となっている人物である】。カイロ(Cairo)出身。(4687:青島)

152)    König(ケーニヒ),Jakob1892-1964):海軍東アジア分遣隊第3中隊・2等歩兵。[電気工]。1892725日、鉱夫の子としてザールブリュッケンのハイリゲンヴァルト(Heiligenwald)に生まれた。19148月上記中隊に入隊した。1915711日福岡から久留米へ収容所換えになった。19191110日、習志野のマイレンダーに宛てて葉書を出した。葉書は(久留米名所)高山彦九郎先生之墓と肖像と記され、墓地と肖像を配した絵葉書である。【マイレンダー(Mailänder)の項参照】。1960年ごろ、「チンタオ戦友会」の会合に参加した。1964527日、ノイキルヒェンで死去した。ザールブリュッケンのハイリゲンヴァルト(Heiligenwald)出身。(1258:福岡久留米)

153)    König(ケーニヒ),Leopold?-?):3海兵大隊第6中隊・予備上等歩兵。[横浜の買薬業オットー・ライマース(Otto Reimers)商会支配人]。収容まもない19141125日、名古屋衛戍司令官仙波太郎第三師団長による収容所巡視前に、新聞記者との会見にカルクブレンナー(Kalkbrenner)とともに臨んだ。応召前まで横浜に11年居住し、名古屋にも何度か来た事があり、その度ごとに名古屋ホテルに投宿したと語った。会見終了に際してケーニヒは記者に、日本の新聞の貸し出しを頼み、立会いの中尉から寄贈の許可を得た。名古屋俘虜収容所ではライマース(Otto Reimers)少尉及びカルクブレンナーとともに日本語を解する俘虜だった【『新聞集成 大正編年史』大正三年度版下、762-763頁】。1914年(大正3年)1210日付けの新聞『新愛知』には、アーラース(Leonhard Ahlers)、ケーニヒ、ライマース及び少年兵ビーン(Ludwig Bien)の四人の写真が掲載された。ビーンを除く三人は日本語通とされている。ローマン(Lohmann)もしくはシュテーゲマン(Steegemann)の遺品と思われる写真中に、雪の日(1915115日と思われる)に、収容所の外の垣根の脇で、手袋をはめた右の手のひらを向けている写真、ヤンゼン(Jansen)、カルクブレンナー、シュテッフェンス(Steffens)の四人が雪の上に並んで立っている写真、更には、エンゲルホルン(Engelhorn)、ミールク(Mielck)等五人で藪の草むらに座っている写真がハッセルマン(Oswald Hasselmann)氏の所蔵で現存している。1919年に開催された名古屋収容所俘虜製作展覧会のカタログには、名古屋俘虜収容所で「電報通信」という、日本の新聞からの最新ニュースを翻訳して俘虜に知らせる情報誌があったことが記されている。それによると、日本の新聞記事の翻訳に当たったのは、ケーニヒ、シェーラー(Scheerer)及びシャル(Schall)の三人だった【校條「名古屋俘虜収容所 覚書V」所載:『「青島戦ドイツ兵俘虜収容所」研究』第283頁】。またケーニヒは、名古屋収容所の活発な所外労働についての詳細なレポートを作成した。そのレポートはフォイクトレンダー(Voigtländer)予備少尉の手を通じて東京の牧師の元に送られ、更にドイツのフォイクトレンダーの家族の元に届けられた。ケーニヒ・レポートについては、校條「名古屋俘虜収容所 覚書V」所載:『「青島戦ドイツ兵俘虜収容所」研究』第6号に詳しく報告されている。大戦終結後は、一般送還船出発前に予め日本国内で解放された。【『俘虜名簿』では名前は「Leo」となっている】。シュテッティン(Stettin)出身。(2578:名古屋)

154)    Königケーニヒ,Paul Hermann?-?:第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。俘虜番号1960の同姓同名のケーニヒと区別するため、ケーニヒUと称された。板東時代、収容所内印刷所から『板東俘虜収容所漫筆』(Plauderei aus dem Kriegsgefangenenlager Bando in Japan)の本を出した。191961日(日)、12種目から成る体操大会が開催されたが、ケーニヒは107½点を挙げて古参選手の部の第7位になった【『バラッケ』19196月号より】。ワイマール(Weimar)出身。1959:丸亀板東)

155)    König(ケーニヒ),Paul?-?):3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。[東アジア・ロイド新聞]。俘虜番号1959の同姓同名のケーニヒと区別するため、ケーニヒIと称された。ワイマールWeimar出身。(1960:丸亀板東)

156)    Konitzkyコニツキー,Ferdinand A.?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[ジームセン広東支店]。191887日久留米から板東へ収容所換えになった。板東時代の1919417日が開催された21キロの競歩大会においては(当時29歳)、2時間30175分の227位になった【『バラッケ』第44月号81頁】。ブレーメン(Bremen)出身。(3433:熊本久留米板東)

157)    Konopacki(コノパキー),Günther?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等砲兵。190711月から19138月までフレンスブルクに居住した。両親はすでになく、兄弟が同地に住んでいた【【俘虜ニ関スル書類】より】。1915710日福岡から久留米へ収容所換えになった。フレンスブルク(Flensburg)出身。1207:福岡久留米)

158)    Koonen(コーネン),Alois?-?:海軍膠州砲兵隊第5中隊・1等砲兵。板東時代の19189月、「板東健康保険組合」の砲兵大隊代表理事に選ばれた。オイペン(Eupen)出身。(4211:「大阪」徳島板東)

159)    Koopmann(コープマン),Georg H.1891-?): 総督府・2等信号兵曹。[蘭領印度官吏]。解放後は蘭領印度に渡って、バタビアのドイツ総領事館に勤務した。シュレースヴィヒ=ホルシュタインのエルムスホルン(Elmshorn)出身。(2260:姫路青野原)

160)    Kopietz(コピーツ),Franz?-?):第3海兵大隊・後備上等歩兵。青島時代はホーエンローエ通(Hohenroheweg)に住んでいた。上部シュレージエンのコーゼル(Cosel)郡ポボルシャウ(Poborschau)出身。(4635:大阪似島)

161)    Kopka(コプカ),Georg?-?:第3海兵大隊重野戦砲兵隊・2等砲兵。1915920日福岡から名古屋へ収容所換えになった。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ゲルゼンキルヒェン郡のレーリングハウゼン(Röhlinghausen)出身。(1270:福岡名古屋)

162)    Koepkeケプケ,Ernst?-?:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[ジータス-プラムベック青島支店]。メクレンブルク=シュヴェーリンのミロウ(Mirow)近郊クヴァルツォウ(Qualzow)出身。(2966:松山板東)

163)    Kopp(コップ),Wilhelm1882-1963):海軍膠州砲兵隊第1中隊長・海軍大尉。〔会前岬砲台指揮官〕。青島時代はキリスト通(Christweg;日本による占領・統治時代は逢坂通)に住んでいた。俘虜として日本に向かう折り、沙子口で輸送船薩摩丸に二匹のダックスフントを連れて乗船した。熊本時代の19141219日、妻ヘレーネ(Helene)から同棲願いが出されたが不許可になった。なお、ヘレーネは6歳の男児と2歳の女児を連れて日本に来ていた。191513日、妻が陸軍大臣の許可を得て面会に訪れた。以後は所長の計らいで、毎週火曜午前9時から面会出来ることになった。久留米時代、妻は国分村浦川原の森新別荘に住んだ。19183月スイス公使宛に、ドイツアジア銀行清算に伴い送金された625円は元来妻子宛のものが誤送されたとして、12日転送された。同年85日、ガウル(Gaul)中尉、マイアーマン(Meyermann)中尉等90名と板東収容所に配置替えになった。久留米時代の19171016日付けと、板東時代の1918817日付けの妻ヘレーネ宛ての葉書がハンス=ヨアヒム・シュミット氏の元に保存されている。いずれの葉書も横浜に滞在するフォン・コッホ(von Koch)の妻気付である【松尾「板東収容士官ヴィルヘルム・コップ略伝への補足」より;所載:「チンタオ・ドイツ兵俘虜研究会」のホームページ中の「メール会報330号」】。3名の夫人達は久留米を引揚げて、しばらく箱根で静養した。その後も皇帝から拝領したと称する犬と一緒で、板東まで連れていった。その犬は板東を描いたスケッチにも登場する。内一匹は松江豊寿収容所長の息子にプレゼントされ、「太郎」の名が付けられた【『日本人とドイツ人』64頁等】。19156月熊本から久留米へ、また191887日久留米から板東へ収容所換えになった。板東時代の1919417日に開催された21キロの競歩大会においては、2時間46 29 秒で「シニアの部」で16人中の第11位になった【『バラッケ』第44月号83頁】。解放されて板東収容所を去るに当って、収容所内のコップの東屋が富田久三郎経営の富田製薬工場近くに移設された。なお、富田本家に所蔵されている若い西洋人女性の写真(裏に、「meine liebe Frau」等の文字がある)は、松尾展成氏による調査・研究により、コップの妻ヘレーネである可能性が極めて高いことが突き止められた【松尾「板東収容士官ヴィルヘルム・コップ略伝への補足」】。1954116日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。ハンブルクに没した。ドレスデン(Dresden)出身。(3467:熊本久留米板東)

164)    Koralewski(コラレウスキー),Josef?-?):3海兵大隊重野戦榴弾砲兵隊・予備伍長。[カッセラ商会の日本支店・染料製造業]。1915920日福岡から名古屋へ収容所換えになった。1919926日、墨合名会社(墨清太郎経営)からシュルツ(不詳)とともに就労申請が出された【校條「名古屋俘虜収容所 覚書V」所載:『「青島戦ドイツ兵俘虜収容所」研究』第6号、42頁】大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放され、大阪市の杉浦商店で技師として働いた【校條「青島戦ドイツ兵俘虜と名古屋の産業発展 ―技術移転の様相を探る―」33頁より】。ポーゼンのグネーゼン(Gnesen)出身。(1266:福岡名古屋)

165)    Korch(コルヒ),Wilhelm?-?):3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。[メルヒャース上海支店]。板東時代、19175月に松山収容所からの人員を加えて拡大した「エンゲル・オーケストラ」の応援で、ヴィオラを担当した。また、1919417日に開催された21キロの競歩大会においては(当時26歳)は2時間2500秒で13位になった【『バラッケ』第44月号80頁】。ベルリン(Berlin)出身。(1962:丸亀板東)

166)    Körner(ケルナー),Otto?-?:海軍膠州砲兵隊第4中隊・2等砲兵。[靴職人]。板東時代の1918311日、板東町の玉川料理店に女物小紋模様の袷の着物を着て、裏口から押し入りビールを飲ませるよう強要したことで重営倉5日に処せられた。また後に、収容所から800メートル離れた農家の戸をポケットナイフで開けて入り込んだところを住民に発見され、191879日強盗罪で懲役3年に処せられて高松監獄に収監されていたが、特赦で解放された【『大正三年乃至九年 戦役俘虜ニ関スル書類』中の「特赦俘虜人名表」より】。ブラウンシュヴァイク(Braunschweig)出身。(4209:「大阪」徳島板東)

167)    Körner(ケルナー),Peter1880-1919):海軍膠州砲兵隊第1中隊・1等焚火兵。188052日、日雇い労働者の子として生まれた。19148月上記中隊に入隊した。19161022日福岡から習志野へ収容所換えになった。習志野時代の19161220日、大分のマイレンダー(Mailänder)に宛てて葉書を出した。葉書は、日本髪の女性が、茶托に載せた蓋付きの茶碗を持っている図柄の写真の絵葉書である。裏面の文面は次の通り。「最良のクリスマスと良き新年を」【マイレンダーの項参照】。習志野時代の191918日、9日に収容所で演じられた、ハウスライターとライマン作の3幕の茶番劇『電話の秘密』に年金生活者役で出演した。その月の131日習志野でスペイン風邪で死亡。ザールブリュッケン(Saarbrücken)出身。(1187:福岡習志野)

168)    Kortコルト,Rudolf1891-1955):海軍砲兵中隊・2等焚火兵。ドイツに帰国後ルイーゼ(Luise Ida Marie Schiedt,-1896)と結婚し、国有鉄道に勤務した。第二次大戦後、マイレンダーMailänder)とコンタクトを取った【『クッツホーフから中国、日本へ』55頁】。メクレンブルク(Mecklenburg)出身。(4393:「熊本」大分習志野)

169)    Koslowskiコスロヴスキー,Hans von?-?):消防隊本部・電話士。[青島のクリーネ商会Kliene & Co.)]。青島時代はフリードリヒ街47番地に住んだ。大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として日本国内で解放された。ダンチヒ(Danzig)出身。(4547大阪似島)

170)    Kothe(コーテ),Ernst?-?):海軍膠州砲兵隊・2等砲兵。[パン職人]。1916925日福岡から青野原へ収容所換えになった。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ブレーメン(Bremen)出身。1228:福岡青野原)

171)    Kothe(コーテ),Willy1889-1970):海軍砲兵中隊・1等水兵。19156月熊本から久留米に収容所換えになった。解放後蘭領印度に渡ったが、その後上海に赴いた。1925724日結婚して、1927421日に息子が生まれたが514日に妻は死んだ。1954116日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。デーレンブルク(Derenburg)出身。(3460:熊本久留米)

172)    Kotter(コッター),Maximilian?-?:海軍東アジア分遣隊第1中隊・2等歩兵。習志野時代、習志野劇場による「トーマの夕べ」で、トーマ作の1幕物田舎茶番劇『一等車』に車掌役で出演した。アスバッハ(Asbach)出身。(121:東京習志野)

173)    Kotzold(コツォルト),Karl?-?:第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。1914928日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米俘虜収容所に送られた【『欧受大日記』大正三年十一月上より】。シュレージエンのカトヴィッツ(Kattowitz)出身。(536:久留米)

174)    Kozer(コーツァー),Erich?-?):海軍東アジア分遣隊第3中隊・予備伍長。久留米時代、シュタイツ(Wilhelm Steitz)の手になると思われる収容所の柵をあしらったスケッチには、中央部分に「久留米収容所楽団」のオットー・レーマン(Otto Lehmann)以下22名の楽団員の写真が並べられ、また一人一人のサイン(ただしレーマンのを除く)が記されている【〔写真8〕参照】。さらに写真には各自のパートも記されている。それによるとコーツァーは、第1ヴァイオリンを受け持った。1954116日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。リューベック(Lübeck)出身。(3455:熊本久留米)

175)    Krabbel(クラッベル),Heinrich1886-1982:第3海兵大隊第3中隊・予備副曹長。久留米時代は演劇活動で、レッシング作の喜劇『ミンナ・フォン・バルンヘルム』等6演目に出演した。1954116日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。ヴェストファーレンのイーゼルローン(Iserlohn)出身。(3413:熊本久留米)

176)    Kraft(クラフト),Diederich(?-1917):海軍膠州砲兵隊・2等焚火兵。191731日大阪衛戍病院で死亡、真田山陸軍墓地に埋葬された。当時35歳だった。【クラフトの死亡時点では、大阪俘虜収容所はすでに閉鎖され、書類上ではクラフトは似島俘虜収容所に移送されていることになっていた】。「墓碑には「俘虜」の二文字が刻まれていた。1931(昭和6)55日、城東練兵場での招魂祭を終えた阿部信行第四師団長が真田山陸軍墓地に墓参すると、そこで大阪駐在のドイツ領事ハンス・ワルネル・ローデがドイツ兵の墓参に来たのと出会い、両者共にドイツ兵の墓に参拝した。第四師団長が外国人俘虜の墓前に礼拝したのはこれが最初であり、ローデ領事も非常に喜び、一方第四師団では「俘虜」の文字を、その名誉のために削るとことに決定した」と、『大阪毎日新聞』(昭和657日付)で報じられた。『俘虜名簿』の「日本軍埋葬戦病死者」の「遺族住所」欄では、妻の連絡先はブレーメンのヴィルヘルムスハーフェン街22番地とされている。なお、藤井寛『エアハルト・アルバムと大阪俘虜収容所』55-60頁(所載『『大阪俘虜収容所の研究 大正区にあった第一次大戦下のドイツ兵収容所』には、クラフトに関する詳細な記述がある。ハノーファー州のヘヒトハウゼン(Hechthausen)出身。(4542:大阪[似島])

177)    Krämer(クレーマー),August?-?:海軍膠州砲兵隊・2等砲兵。19161020日福岡から青野原へ収容所換えになった。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ヴェストファーレンのティールゲ(Tielge)出身。(1230:福岡青野原)

178)    Kraemer(クレーマー),Ernst1890-1963):第3海兵大隊第4中隊・上等歩兵。189044日、工場労働者の子としてザンクト・ヨーハン(今日のザールブリュッケン)に生れた。19148月上記中隊に入隊した。191887日久留米から板東へ収容所換えになった。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ザールブリュッケン(Saarbrücken)出身。(3416:熊本久留米板東)

179)    Krämer(クレーマー),Hermann(?-1919):海軍膠州砲兵隊第4中隊・2等砲兵。19161018日福岡から大分へ収容所換えになった。1919211日スペイン風邪により習志野で死亡した。ブレーメン近郊のシュマーレンベック(Schmalenbeck)出身。(1194:福岡大分習志野)

180)    Krampe(クランペ),Adolf?-?:第3海兵大隊第7中隊・曹長。[青島山林局]。丸亀時代、感冒で倒れたマックス・ブンゲ(Max Bunge)に代って第7中隊班長を務めた【『丸亀俘虜収容所日誌』より】。板東時代、名東郡教育会代表及び同郡小学校教員に、鳥類剥製の技術指導をした。19188月、板東収容所内に完成した「ドイツ兵墓碑」の墓地の造園を担当した。ポンメルンのシュメンツィン(Schmenzin)出身。(1954:丸亀板東)

181)    Kranz(クランツ),Julius1888-1961):海軍膠州砲兵隊第3中隊・兵曹。徳島時代の19168月初め、それまでの調理長フムピヒ(Humpich)からその役目を引き継いだ【「『トクシマ・アンツァイガー(徳島新報)』紹介」37頁】。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放され、「Kuriyama」の「Shinohara商会」に勤めた。エリーザベト(Elisabeth)と結婚して子ども二人をもうけ【二人は1926年と1928年生まれ】、ドイツに帰国後更に二人の子供をもうけた【1941年と1945年生まれ】。1956年、エルベ河畔のダンネンベルク(Dannenberg)からハンブルクに移り住んだ。「チンタオ戦友会」に出席した【シュミット】。『鳴門市ドイツ館館報第16号』には、「ピウカに住んだドイツ人」としてクランツの紹介とお願いの文章が掲載されている。それによれば、クランツは北海道の旭川の北100キロの「美深」という町に若いドイツ人の妻と住んでいた。1923年から4年間、松浦周太郎の経営する製材工場と協力したとのことである。しかしクランツ夫人が火事を出して小樽に転勤し、やがてドイツに帰国したとされている。大正111225日に、松浦周太郎と一緒に写した写真が掲載されている。なお、クランツはドイツ人女性と結婚する前に、日本人女性と付き合って男の子をもうけたことが記されている。ヘッセンのハイガー(Haiger)出身。(4191:「大阪」徳島板東)

182)    Kraschinski(クラシンスキー),Eduard?-?):第3海兵大隊第4中隊・2等歩兵。青島時代はフリードリヒ街に住んだ。東プロイセンのアレンシュタイン(Allenstein)行政区のグロスコシュラウ(Grosskoschlau)出身。(2950:松山板東)

183)    Krase(クラーゼ),Hans Albert Carl Martin1892-1938):3海兵大隊第2 中隊・2等歩兵。メクレンブルク=シュヴェーリンのテテロウ(Teterow)出身。(1741:静岡習志野)

184)    Krätzig(クレッツィヒ),Curt?-?):3海兵大隊第7中隊・伍長。[貸家業]。青島時代はフリードリヒ街125番地に住んだ。板東時代、丸亀蹴球クラブの役員を務めた。妻マルガレーテ(Margarete)は大戦終結まで青島に留まった。シュレージエンのヘーニゲルン(Hönigern)出身。1956:丸亀板東)

185)    Kraus(クラウス),Simon?-1919):海軍砲兵中隊・後備2等焚火兵。ヴィルヘルム・ベーマー(Böhmer)と喧嘩事件を起こした。1919126日習志野で死亡。ハンブルク(Hamburg)出身。(139:東京習志野)

186)    Krause(クラウゼ),Hermann?-?:第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。1914928日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米俘虜収容所に送られた【『欧受大日記』大正三年十一月上より】。ランガーハウゼン(Langerhausen)郡のオーバースドルフ(Obersdorf)出身。(537:久留米)

187)    Krauss(クラウス),Adolf?-?:国民軍・卒。[ベディカー商会(Boediker & Co.)]。青島時代はハインリヒ皇子街(Prinz-Heinrich-Straße)に住んでいた。1915920日、青島から大阪収容所に移送された。ブレーメン(Bremen)出身。(4688:大阪似島)

188)    Krauss(クラウス),Jakob?-?):3海兵大隊5中隊・上等歩兵。板東時代、タパタオで薬局を営んだ。19189月には、「板東健康保険組合」の第5中隊代表理事に選ばれた。ヘッセンのツヴィンゲンベルク(Zwingenberg)出身。(2951:松山板東)

189)    Krautwurst(クラウトヴルスト),Fritz1889-1969:第3海兵大隊6中隊・予備上等歩兵。第一次大戦が勃発すると、ロシアのウラジオストックから青島に馳せ参じた。プファルツのピルマゼンス(Pirmasens)出身。2579:名古屋)

190)    Kreike(クライケ),Carl-Friedrich1884-1946:第3海兵大隊重野戦榴弾砲兵隊・後備伍長。熊本時代の19141214日、収容されていた西光寺を脱柵しようとした科で、歩兵23連隊の営倉で重営倉1日の処罰を受けた。久留米時代は演劇活動で、マイアー=フェルスター作の『アルト・ハイデルベルク』等3演目に出演した。『ドイツ兵捕虜と収容生活 ―久留米俘虜収容所W―』(2007102頁には、娘のウテマリー・リースナー氏から久留米市に寄贈された写真二点が掲載されている。一点は1916年の久留米収容所時代のスナップ写真で、もう一点は13名が食卓を囲んでいる写真である。上記文献に拠れば、解放後クライケは1926年までエッセンのドイツ銀行に勤め、その後ハノーファーの広告会社に勤務、1935年から1945年までベルリン本社の外国部部長を務めた。しかし、第二次大戦後にソ連の捕虜となり、1946年冬にワイマール近郊のザクセンハウゼン収容所で死亡したといわれる。ミュンデン(Münden)出身。3437:熊本久留米)

191)    Kremer(クレーマー),Christian?-?):3海兵大隊3中隊・2等歩兵。1915711日福岡から久留米へ収容所換えになった。1917524日、情報局から各俘虜収容所へ伝えられた、製針業に従事したことがあってかつ労役を希望する者の照会に対して、久留米俘虜収容所ではクレーマー他3名を届けた。アーヘン(Aachen)出身。(1262:福岡久留米)

192)    Kremer(クレーマー),Joseph?-?:第3海兵大隊5中隊・1等歩兵。松山時代、収容所新聞『陣営の火』の印刷に従事し、板東でも『日刊電報通信』及び『バラッケ』の印刷に携わった。アーヘン(Aachen)出身。(2953松山板東

193)    Kretschau(クレチャウ),Karl?-?):第3海兵大隊第3中隊・2等歩兵。19171110日に開催された「1917年スポーツ週間」の「森林競歩50km」(参加者10名)で、5時間5316秒を記録して第2位に、また19191025日の「15km競歩」にも出場して第3位になった。ザクセンのゲヒュフテ(Gehuefte)出身。(550:久留米)

194)    Kretschmer(クレッチュマー),Alfred?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・後備2等信号兵。大戦終結後は、青島での就職既定者として日本国内で解放された。ベルリン(Berlin)出身。(3471:熊本久留米)

195)    Kretzschmarクレッチュマー,Ernst?-?):所属部隊不明・1等水兵。青島税関所1919226日、スイス公使を通じて天津在住の妻を看護したいとの請願書を出した【『日独戦争ノ際俘虜情報局設置並独國俘虜関係雑纂』21冊の内の21より】。シュテッティン(Stettin)出身。(4546:大阪似島)

196)    Kretzschmar(クレッチュマー),Georg?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・2等砲兵。大阪時代の1915年(月日不明)、「蚊帳内ニ於イテ蝋燭ニ点火シタルノ行動ハ予テ之ヲ禁止シタル日本官憲ノ命ヲ遵守セサル科」で重営倉5日の処罰を受けた。1919121日、流行性感冒のため広島衛戍病院に入院し、126日に同病院で解放された【『戦役俘虜ニ関スル書類』中の附表第六号の「俘虜患者解放者一覧表」より】。ザクセン­=アルテンブルクのロンネブルク(Ronneburg)出身。(3959:大阪似島)

197)    Kretzschmar(クレッチュマー),Hugo?-?):海軍東アジア分遣隊第2中隊・2等歩兵。[製陶職人]。1916925日福岡から青野原へ収容所換えになった。ベンネヴィッツ(Bennewitz)出身。(1249:福岡青野原)

198)    Kretzschmar(クレッチュマー),Otto?-?:第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。板東時代、公会堂での工芸品展に編み靴下を出品した。ライプチヒ(Leipzig)出身。(1946:丸亀板東)

199)    Kretzschmar(クレッチュマー),Rudolf?-?):第3海兵大隊第5中隊・2等歩兵。規定の物品購入法を遵守しなかった科で軽営倉1日の処罰を受けた。エルベ河畔のピルナ(Pirna)出身。(2590:名古屋)

200)    Kreutz(クロイツ),Franz1879-?):青島砲兵兵器庫・海軍火工少尉。18983月海軍に入った。1912113日ククスハーフェンの砲兵兵器庫火工少尉となり、1915831日付けで火工中尉となった。192038日海軍大尉で退役した。ベルリン(Berlin)出身。(2257:姫路青野原)

201)    Kreutz(クロイツ),Friedrich?-?):海軍膠州砲兵隊第3中隊・2等砲兵。徳島時代の191511月中旬、スポーツ週間のリレー競争にアウアー(Alois Auer)、バウアーファイント(Bauerfeind)、カウマンス(Kaumanns)の4人で出場して優勝した【参照:『徳島新報』(Tokushima-Anzeiger)第2巻第101128日付け】。アーヘン(Aachen)近郊のシュトルベルク(Stolberg)出身。(4199:「大阪→」徳島→板東)

202)    Kreutz(クロイツ),Johann1892-1942):海軍膠州砲兵隊第4中隊・2等砲兵。189241日、精錬工の子として今日のザールブリュッケンに生れた。19148月上記中隊に入隊した。19161018日福岡から大分へ収容所換えになった。ザールブリュッケン(Saarbrücken)出身。(1195:福岡大分習志野)

203)    Kreuzer(クロイツァー),Johann?-?:第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。板東時代、スポーツクラブではレスリングをした。クロイツァーが遺した日記が、第三者によってタイプ打ちされたものが、連邦軍事公文書館に保存されている。その内の一部、青島から丸亀俘虜収容所に送られ、やがて板東俘虜収容所での生活、ドイツへの帰国の様子が高橋輝和氏によって「ヨーハン・クロイツァー「日本における私の俘虜生活」」と題されて翻訳された【参照『「青島戦ドイツ兵俘虜収容所」研究』第4号111-128】。それによると、クロイツァーは板東時代、拘禁生活からの精神錯乱に陥った俘虜を、その腕力の強さから看護人の任務を果たした。なお、メッテンライター『極東で俘虜となる』によれば、ヴィルヘルムスハーフェン港に到着後は、ケーバーライン(Köberlein)、コールヘップ(Kohlhepp)、ロッケンマイアー(Rockenmeyer)の四人でビュルツブルクに向かった。ビュルツブルク到着後クロイツァーは、ケーバーラインとともにその家に一緒に赴き、夕方自分の郷里の家に向かった。ヴュルツブルク近郊のアルベルツハウゼン(Albertshausen)出身。(1950:丸亀板東)

204)    Krewerth(クレーヴェルト),Leonhardt?-?):所属部隊・階級不明。[巡査]。青島時代はハンブルク街に住んでいた。松山時代に山越の日曜講演会で、「刑事警察の鑑識」と題して講演した。デュッセルドルフ(Düsseldorf)出身。(2988:松山板東)

205)    Krichau(クリーヒャウ),Jens?-?):総督府・2等筆記。青野原時代、19181213日から20日まで開催された俘虜製作品展覧会では、運営係りを務めた【『AONOGAHARA捕虜の世界』66頁】。フレンスブルク(Flensburg)出身。(2261姫路青野原)

206)    Krieger(クリーガー),Karl?-?:第3海兵大隊工兵中隊・上等工兵。板東時代、松山ホッケー協会の役員を務め、また無料水泳教室の教官も務めた。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。フランクフルト近郊のグリースハイム(Griesheim)出身。(2974松山板東

207)    Krogh(クロー),Martin?-?):国民軍・階級不明。[商人]。青島時代は妻アンナ(Anna)とフリードリヒ街に住んだ。19191028日、スゥエーデン大使に宛てて、中国には家族、財産、仕事もあることから、ドイツへの帰還船に乗せられることなく、自費で青島に出発したい旨の請願書を出した【『自大正三年至大正九年 俘虜ニ関スル書類』より】。シュレースヴィヒ=ホルシュタインのゾンダーブルク(Sonderburg)出身。(4544:大阪似島)

208)    Kroll(クロル),Otto1890-1980):海軍砲兵中隊・2等焚火兵。ドイツ帰国後も独身で通した。ミトゥルム(Midlum)出身。(137:東京習志野)

209)    Kropatschek(クロパチェク),Hans W.1878-1935:海軍東アジア分遣隊参謀本部・陸軍少尉。[青島ロシア副領事館副領事]。帝国議会議員へルマン・クロパチェク(Hermann Kropatschek)の息子として、ブランデンブルクに生まれた。母親はロシア人であった。19歳でロストック歩兵第90連隊少尉になった。しかしその後、父へルマンの希望でロシアに赴いて通訳学校に通った。学校生活を終えると再び軍隊に入った。1900年から1901年にかけて起こった義和団事件の際には派遣軍の一員となり、ペッツェル(Petzel)陸軍少将の副官を務めた。その際には大沽要塞の監視任務にも就いた。1904年ドイツ参謀本部附きとなったその年、ペッツェル少将の長女マルガレーテ(Margarete Petzel1880-)と婚約し、翌年結婚した。ペッツェル少将が清国駐屯軍司令官神尾光臣少将と知己だったことから、神尾少将から仙台箪笥を贈られた。結婚を機に軍隊生活を離れて、短期間ハンブルクのハンブルク汽船会社で業務を習い、1905年青島のハンブルク汽船会社で従事することになった。傍らロシア副領事館の副領事を務めた。191483日に総督府から動員令が発せられると、副領事の職を放棄して青島独軍に参加した【〔写真24〕参照】。107日の晩、ベルリン福音教会の教区監督フォスカンプの家を訪問していた時、山東省の省都済南が日本軍によって占領されたとの知らせが届いた。山東鉄道並びにその沿線は既に日本軍の支配下にあったことから、その情報は伝書鳩によるものと居合わせたクロパチェクは推測した。兄が神学者だったことでフォスカンプとは親しかった【VoskampAus dem belagerten Tsingtau45-46頁】。青島時代はビスマルク街(Bismarckstraße)に住んでいた。日独戦争により、ビスマルク街の家が砲弾で壊されて住めなくなると、一家はギュンター民政長官の家に移った。外交官としての身分の主張、神尾青島守備軍司令官との縁故を模索したが、不首尾に終わって日本へ移送された。『大阪時事新報』(大正4324日付け)のよれば、クロパチェクは23日早朝に薩摩丸で神戸に着き、午後4時に大阪港へ向かった。総勢は19名であった。前日23日付けの『大阪時事新報』では、クロパチェクが北清事変では福島安正大佐の指揮下にあり、日露戦争時にはステッセル将軍麾下にあったとされている。妻マルガレーテ(Margarete)は、娘のイルムガルト(Irmgard,1906-)と息子ハンス(Hans,1908-1982)の三人で大戦終結まで青島に留まった。大戦終結して解放後の19203月、妻子を日本に呼び寄せた。三人は大阪商船の台北丸で神戸に着き、神戸からは鉄道で横浜に向かった。一家は横浜山手の「ブラフ」126番の家に住んだが、それは休暇中のドイツ人の家であった。クロパチェクは当初イリス商会の倉庫清掃係りとしての職を得たが、神戸のロイド(Hapag-Lloyd 汽船就職を願っていた。そこで一家は神戸の郊外へ移った。しかし、ロイド への就職は不首尾に終わり、再び横浜の根岸へ引っ越した。子ども達をドイツで教育させるために、192293日、日本商船の熱田丸で横浜を出港してドイツに帰国した。その後郷里に戻り、1935923日イルフェルト(Ilfeld)に没した。息子ハンスによって記されたクロパチェク一家の歴史(Aus dem Leben der Familie Hans Kropatschek)が、シュミット氏のホームページに掲載されている。ブランデンブルク(Brandenburg)出身。4637:大阪似島)

210)    Krueck(クリュック),Hermann?-?):3海兵大隊6中隊・予備副曹長。板東時代の19189月、「板東健康保険組合」の第6中隊代表理事に選ばれた。ゲッティンゲン(Göttingen)出身。(2960:松山板東)

211)    Krug(クルーク),Albert?-?):海軍野戦砲兵隊・2等野砲兵。1919104日、名古屋市内の明倫中学校校庭で行われた「日独混合蹴球戦」で、白軍のRH守備の選手として出場した。試合の結果は白軍が21で黒軍を破った。この試合の模様は、106日付けの新聞『新愛知』で詳細に報じられた。なお、バイアー(Beyer)、ビーン(Ludwig Bien)、クルーク、クドラ(Kudla)及びシュテーゲマン(Stegemann)以外の6名の名古屋の俘虜は、同姓が二名以上いる等から特定することが不可能である。ザンクト・ガレン(St.Gallen)出身。(2597:名古屋)

212)    Krugクルーク,Bertram?-?):第3海兵大隊7中隊・後備伍長。青島山林局。板東時代、「ドイツ兵墓碑」の建設に際して造園を担当した。また、工芸品展には実に1000点にも及ぶ植物並びに種子の標本採集を出品した。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ベルリン(Berlin)出身。(1952:丸亀板東)

213)    Krüger(クリューガー),August?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・後備1等砲兵。[山東鉄道鉱山部・簿記係]。応召前は済南に住んでいた。大戦終結後は、特別事情を有することから日本国内での居住を希望した。下部エルザスのアンドラウ(Andrau)出身。(1740:静岡習志野)

214)    Krüger(クリューガー), Karl1892-1980):海軍膠州砲兵隊・砲兵伍長。〔イルチス砲台〕。西プロイセンのトルン(Thorn)近郊のペンザウ(Pensau)村に生まれた。父は指物師の親方であったが、長患いの後若くして亡くなった。9人兄弟の長男だったクリューガーは12歳の時、ポツダムの陸軍孤児院に預けられた。金釦の付いた美しい軍服が着られて、兵士になれることを喜んだ彼は、厳しい訓練をものともしなかった。15歳の時、多くの仲間とは違って職人となることより、軍学校に入ることを選んだ。18歳の時、陸軍と海軍との選択では海外への憧れから後者を選んだ。ククスハーフェン(Cuxhaven)で数ヶ月特別訓練を受けた後、青島に派遣されることになり、1911112日北ドイツ・ロイド汽船ネッカー(Nekar)号でドイツを出発して、31日に青島港に到着した。2年間の勤務の後休養休暇も兼ねていったん帰国し、ククスハーフェンで新兵訓練の任務に就いた。19142月末、ハンブルク・アメリカ汽船パトリーツィア(Patricia)号で再び青島勤務へと赴いた。青島からは俘虜として印度丸で門司港に入った。福岡時代は、北地域の第2棟(2階建て)に住み、ミリエス(Millies)と同室だった。その2階からは、斜め向かいにある料亭に出入りする芸者を見ることが出来た。それは禁じられていたことではあるが、俘虜の最大の楽しみであった。福岡時代は退屈が俘虜達をなによりも困らせた。時に九州帝国大学や福岡高等工業専門学校の学生・生徒達が料亭で宴会を開き、やがて表の通りに出て、俘虜達に聞こえるように、ドイツ民謡をドイツ語で歌ったりした。福岡時代に知り合いになったオストマン(Ostmann)は、やがて演劇グループを結成し、レッシングの喜劇『ミンナ・フォン・バルンヘルム』を上演した。舞台は第2棟で中庭が観客席だった。その後シラーの『群盗』も上演され、幕間には音楽の演奏もあった。ミリエスはその後毎日のようにヴァイオリンを演奏し、時に音楽に関する講義も行った。福岡時代には、かつてのイルチス砲台守備に当った第4中隊の集合記念写真が残されている。クリューガーも写っているが、マイレンダー(Mailänder)の遺品にもあったことから【マイレンダーの項を参照】、二人は同じ中隊に属したと推測できる。1915915日、レムケ(Lemke)、ルドルフ(Rudolff)等の94名とともに福岡から習志野へ収容所換えになった。大戦終結して解放後の19191225日、習志野を出発し、翌26日神戸に着き、28日喜福丸でドイツに向かった。1920年ドイツに帰国後は、エルビングの保安警察に3年勤務した。192321日から裁判所に移った。19231月に結婚し、一男一女をもうけた。1945年には後備衛生副曹長として従軍した。1957年、34年間に及ぶ裁判所を上席検査官で退職して年金生活に入った。年金生活の3年後に妻を亡くして男やもめとなった父親に、軍隊生活の回想記執筆を促したのは息子のユルゲン(Jürgen)で、1970年のことであった。息子のユルゲン・クリューガー氏によって編纂されたその回想記『ポツダムから青島へ』(Von Potsdam nach Tsingtau)は、青島(チンタオ)でのドイツ兵士の生活の様子が生き生きと描写されている。1919年の夏には、習志野収容所で映画上映があったこと、主としてアメリカ映画ではあったが、日本映画やドイツによる第一次大戦記録映画の上映もあり、「チャップリン映画」を初めて見たとも記している。また、福岡及び習志野の収容所での出来事や、大戦終結して帰国する船上・船外の光景も描かれている。日記ではなく、俘虜生活を終えてから50年後の回想記はであるが、貴重な文献となっている。俘虜に対する日本人の好意的な姿勢が読者の目を引く。懲罰のこともごく僅かに触れられているが、それは俘虜達のいたずらや逃亡の企てに起因するものとされている。俘虜にとっての最大の敵は退屈であり、そこで活発な学習、講演、演劇,音楽、体操等の活動が生まれた、と解説のクレープス教授は記している。【フランクフルトで開催された「チンタオ戦友会」に出席したとの記述がある。参照:『ポツダムから青島へ』175頁】。1980119日、ブレーマーハーフェン・ゲーステミュンデのキリスト教系老人福祉施設で死亡した。西プロイセンのトルン(Thorn)近郊出身。(1215:福岡習志野)

215)    Krüger(クリューガー),Wilhelm?-?):海軍膠州砲兵隊・後備砲兵伍長。[商船機関士]。1915915日福岡から習志野へ収容所換えになった。習志野時代、カール・クリューガー(Karl Krüger)と同じ部屋に住んだ。カール・クリューガーの仲間達の中では最年長で、結婚していた。ポンメルンのカーゼブルク(Caseburg)出身。(1203:福岡習志野)

216)    Krueger(クリューガー),Willy?-?:第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。1914928日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米俘虜収容所に送られた【『欧受大日記』大正三年十一月上より】。1917710日に行われた「久留米体操クラブ」の12種競技(鉄棒、平行棒の演習3種目、鞍馬の演習2種目、徒手体操1種目、陸上競技3種目)では、106点を獲得して初級の部の第6位になった。解放後は蘭領印度に渡った。ポンメルンのドレンチヒ(Drenzig)出身。(538:久留米)

217)    Krull(クルル),Carl1887-?):海軍砲兵中隊・海軍中尉。〔台西鎮並びに衙門砲台守備隊指揮官・日本軍による包囲後は歩兵堡塁中間防備〕。青島時代は旧衙門(Altes Yamen;清国時代の官衙)に住んでいた。1914116日夕刻、第2歩兵堡塁攻防の戦闘によるシャリエール中尉の戦死後、第3海兵大隊自動短銃隊指揮官を兼務し、大港埠頭付近の地雷敷設も担当した。119日の青島開城交渉ではドイツ側の実務委員として、地雷等の危険物除去に関わった。1113日、日本側の開城委員である堀内文次郎少将に、日ごろ丹精していた鉢植え一鉢を贈り、翌14日堀内少将から送別に絵葉書を贈られた。1918322日福岡から習志野へ収容所換えになった。ブレスラウ管区のフリートラント(Friedland)出身。(1183:福岡習志野)

218)    Kruschinski(クルシンスキー),Karl?-?):海軍野戦砲兵隊・後備上等兵。[山東鉄道・四方倉庫係助手]。大戦終結後、青島で中国人資本による輸出入会社の支配人として勤めた。シュレージエンのピチェン(Pitschen)出身。(4386:「熊本」大分習志野)

219)    Kruse(クルーゼ),Gerhard?-?:第3海兵大隊第5中隊・2等歩兵。板東時代、収容所内のタパタオで洋服屋を営んだ。ハノーファーのエックシュトゥム(Eckstumm)出身。(2957:松山板東)

220)    Krüsel(クリューゼル),Max?-?):第3海兵大隊重野戦榴弾砲兵隊・伍長。1915920日福岡から名古屋へ収容所換えになった。191876日付けで、ヴロブレフスキー(Wroblewsky)とともに名古屋楽器製造合資会社から労役申請があった【校條「名古屋俘虜収容所 覚書V」所載:『「青島戦ドイツ兵俘虜収容所」研究』第6号、32頁】。西プロイセンのレベーンケ(Lebehnke)出身。(1265:福岡→名古屋)

221)    Krusewitz(クルーゼヴィッツ),Georg?-?):砲兵兵站部・1等砲工技手。1901101日海軍に入った。青島時代はダンチヒ街(Danzigerstraße)に住んでいた。姫路時代の1915220日付けで、青島の妻マルガレーテ(Margarete)宛てに出した絵葉書が遺されている。横浜公園(山下公園?)での家族連れの光景の絵葉書である。葉書のは中身は以下のように子供宛である。「可愛いフークちゃんへ!ママからの便りでは、葉書が届いて嬉しかったそうなので、今日も一通送ります。いつもおりこうさんにしているんでしょう?ママとテオ宛にも送ります。心をこめて、パパより」【〔図14〕参照。高知在住の郵趣家河添潔氏所蔵俘虜郵便より】。なお、同年311日に同じくクルーゼヴィッツが妻に宛てた俘虜郵便も判明している【参照:山下明良「郵趣から見た第一次世界大戦時の姫路俘虜収容所とその周辺」(所載:『文化財だより』第57号、5頁)】。妻は子ども三人(いずれも12歳以下)と、大戦終結まで上海(当初は青島)で暮らした。プロイセンのオステ(Oste)河畔ノイハウス(Neuhaus)出身。(2258:姫路青野原)

222)    Kubernat(クーベルナート),Max?-?):海軍東アジア分遣隊第1中隊・2等歩兵。1919105日に上演開催された「習志野劇団主宰者マルフケ(Marufke)のための謝恩の夕べ」で、第2部の1幕物の茶番劇「当り籤と空籤」に、マルフケが演じる主役の娘マリー役で出演した。西プロイセンのコモルスク(Komorsk)出身。(122:東京習志野)

223)    Kuch(クーフ),Emil1894-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・2等砲兵。似島時代の19193月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に際して、美術の工芸木工部門で駒付きチェス版を出品した。バーデンのエッピンゲン(Eppingen)出身。(3957:大阪似島)

224)    Kudla(クドラ),Karl?-?):海軍野戦砲兵隊・2等野砲兵。1919104日、名古屋市内の明倫中学校校庭で行われた「日独混合蹴球戦」で、白軍のRH守備の選手として出場した。試合の結果は白軍が21で黒軍を破った。この試合の模様は、106日付けの新聞『新愛知』で詳細に報じられた。なお、バイアー(Beyer)、ビーン(Ludwig Bien)、クドラとクルーク(Krug)及びシュテーゲマン(Stegemann)以外の5名の名古屋の俘虜は、同姓が二名以上いる等から特定することが不可能である。ヴェレンドルフ(Wellendorf)出身。(2596:名古屋)

225)    Kügeler(キューゲラー),Peter1893-1977):海軍東アジア分遣隊第3中隊・上等歩兵。ドイツに帰国後の19225月アグネテ(Agnete Leister)と結婚して娘二人をもうけた。長年郷里デューレンの警察署に勤務した。ラインラントのデューレン(Düren)出身。(1743:静岡習志野)

226)    Kugler(クグラー),Leopold?-?):第3海兵大隊第5中隊・上等歩兵。松山時代の1915615日、ヴィルヘルム・ジームセン(Wilhelm Siemssen)とともに婦女に戯れることが目的で、612日に夜陰に乗じて脱柵して民家に至った(目的は果たさず)咎で重営倉20日に処せられた。バイエルンのバイセンベルク(Beissenberg)出身。(2954:松山板東)

227)    Kühlborn(キュールボルン),Georg?-?:第3海兵大隊第7中隊・予備陸軍少尉。[北京大使館通訳官]。当時29歳。丸亀時代の1916414日(推定)に、石井彌四郎収容所長を囲んで撮影した記念写真が現存している。ドイツ将校7名と収容所人員の計17名の集合写真である。キュールボルン少尉は、前列向かって右から二人目である【アダムチェフスキー(Adamczewski)少尉の項、及び〔写真1参照】。1916104日、ランセル大尉、ラミーン中尉、シュリーカー中尉、フェッター中尉、シェーンベルク少尉、アダムチェフスキー少尉とともに丸亀から大分へ移送された。191829日、大分の遊廓「春日楼」に従卒ナーゲル(Nagel)及びダオデルト(Daudert)の三人で登楼して夜を過ごした咎で、20日に禁錮30日の処罰を受けた。見事な筆跡で「高松市本町長野正」等の日本人名で記帳した。大戦終結して解放後は北京に戻り、北京大使館秘書官に就いた。やがて結婚して息子一人をもうけた。1930年奉天領事になったが1945年以後、ソ連軍によってシベリアに送られて死亡したと推測されている。カッセル(Kassel)出身。1938:丸亀大分習志野)

228)    Kuhlhoff(クールホフ),Hugo?-?):海軍東アジア分遣隊第2中隊・2等歩兵。父親はルール地方のヴィッテンヘーヴェンでホテルを経営していた。「フォーゲルフェンガーの日記」の19161231日の記述には、福岡時代、クールホフが最後まで福岡に残った75名の厨房第1コックを務めていたことが記されている【「チンタオ・ドイツ兵俘虜研究会」ホームページの「論文・記事等」中の、「資料」に掲載されている「フォーゲルフェンガー日記」(ファン・デア・ラーン/小阪清行共訳)より】。1918322日福岡から習志野へ収容所換えになった。ヴェストファーレンのヘーヴェン(Heven)出身。(1250:福岡習志野)

229)    Kuhlmann(クールマン),Hermann Ferdinand1892-1938):第3海兵大隊第1中隊・上等歩兵。ドイツに帰国後ラウラ・トロースト(Laura Troost)と結婚して息子一人をもうけたが、1931年再婚した。オスナブリュック近郊のベルゼンブリュック(Bersenbrück)出身。(522:久留米)

230)    Kuhlo(クーロ),Paul1866-1943):海軍東アジア分遣隊長・陸軍歩兵中佐。〔外方陣地部隊左翼陣地指揮官〕。[北京・天津守備隊司令官]。18843月陸軍に入隊し、18862月歩兵少尉、18939月中尉、19008月に大尉、19088月少佐、1912年から上記分遣隊長、19144月には中佐に昇進し、同年8月青島に派遣された【〔写真25〕参照】。19141122日午前640分、クーロ中佐等を乗せた軍用第8号列車は、静岡駅で停車して休憩した。クーロ中佐は一等室に従卒二名と分乗していた。休憩中の記者の面談では、「お早う」、「富士」などの片言の日本語を話した。富士山を見るのが三度目とのことであった【内野健一「クーロー中佐と語る(静岡民友新聞;大正31123日)」;「チンタオ・ドイツ兵俘虜研究会」メール会報342号より】。列車(4両編成)は即日東京へ向かい、品川八つ山ステーションに到着した。一帯は数万の人の山であった。クーロ中佐は正服に身を包み、白銀造りの長剣を佩び列車外に出て下車を命じた。プラットホームでは日本婦人達が黄菊、白菊を手渡した。クーロ中佐は写真を撮ろうとすると、背を向けた。610分前に7台のボギー電車に分乗して、銀座・上野経由で浅草東本願寺門跡前に着いた。折りしもどしゃ降りの雨の中で日は落ちていた。午前中から弁当持ちで見物に来ていた群集で周辺はごったがえしていた。人員点呼に約30分、西郷寅太郎所長は「戦争は政治的関係で、人民其の者に対しては何等の敵意がない」等の訓示をした。夕飯は平河町の寶亭の調理で、クーロ中佐には「コドレッドデボルク」という牛肉、馬鈴薯、人参の蓋物が一皿、スープ一皿、パンと紅茶が出された。東京俘虜収容所の先任将校だった。クーロ中佐は1907年に来日して東京に来たことがあった。また、光緒32年(1906年)620日付けで清国政府が発行した「執照」、及び明治42年(1909年)819日付けになる勲四等瑞宝章授与の勲記がクリスチアン・ボルマン(Christian Bormann)氏の元に所蔵されている。ボルマン氏はクーロ中佐の甥や曾孫とコンタクトをとり、クーロ中佐の油絵肖像画を譲り受けた。191412月中旬、浅草の東京俘虜収容所に収容されていたクーロ中佐宛てに、大日本仏教青年会から慰問の書簡が届いた。それに対するクーロ中佐の返書が1229日付けの東京朝日新聞に掲載された。それによると、クーロ中佐は久しく仏教研究に携わり、またドイツに留学して今は著名の士となっている日本人と20年来交友を結んでいるとのことであった。浅草本願寺経営私立徳風幼稚園長稲垣実秀からクーロ中佐宛てた、大正4年(1915年)18日付けの候文書簡がボルマン氏の元に所蔵されている。稲垣実秀が運動用の曳綱を差し入れ、それに対するクーロ中佐の感謝状への返書である。幼稚園児の遊戯を撮影し、幼児手製の絵葉書を贈呈し、近々には園児の唱歌と遊戯を見せたいとする内容の書簡である。1915221日付の朝日新聞に、クーロ中佐の手紙が某師団の語学教師によって印刷され、模範的ドイツ語として教材に使われている、との記事が掲載された。在アメリカ婦人義捐団体会長ベルタ・ゲッチュマン(Berta Getzschmann)女史は、日本の習志野収容所のクーロ中佐から再び興味深い手紙を受け取り、その抜粋が「日本からの手紙」と題されて『トリビューン(Tribüne)紙』に掲載された(掲載年月日は不明)。以下はその概要である。「大量の義捐物資再度到着いたしました。一同に成り代わって感謝申し上げます。特に沢山の『ガルテンラウベン(Gartenlauben)』のバックナンバーには一同とても喜び、早速図書室に配架されました。ところでご安心ください、大量の楽譜がきちんと私の手元に届きました。(これらの楽譜は指揮者T.R.レーゼ(Reese)とオマハのドイツ人音楽家達並びにブラフ委員会によって集められたもので、届くのに8ヶ月以上かかりました。)もしこの習志野に相応しい楽器と人員があれば、一部を我々自身のためにここに留めて置いたことでしょう。しかし私どもにはいくつかの弦楽器しか操れないので、本来の目的地である久留米へ送りました。そこではずっと大きなオーケストラが結成されています。彼の地の喜びは大きいことでしょう。(中略)貴女様からも、またアメリカ各地のからも新聞がたくさん届きました。シカゴのドイツ人同胞からは楽器が届けられましたが、恐らくそれは貴女様の呼びかけによるものと思われます。当地では暑い夏が訪れました。残念ながら私どもの緑地には期待していたほどの草花が茂りません。土地は肥沃ではありません。日本は想像されているほどには花芳しき国ではありません。独特の魅力はあります。しかし、3年ほど中国、日本、インド等を旅して1908年にドイツに戻ったとき、我が祖国の広葉樹林と山々の美しさに勝るものはないことが、私にははっきりと分かりました。神よ、じきに再びそれらを眼にすることが出来ますように!しかし私どもはなお耐え忍ばねばなりません」。【上記の新聞記事が掲載された時期は1915年ないしは1916年の夏と考えられる。即ち、習志野収容所の音楽活動で活躍したミリエス(Millies)が、福岡収容所から習志野へ移送された19161022日以前と考えられるからである。しかし、『ドイツ兵士の見た日本』(63頁)には、1916812日の「フランクフター・ツァイトゥング紙」に掲載された習志野の兵士の手紙によると、ドイツ系アメリカ人からの楽器・楽譜等の慰問品のことが触れられているとのことである。クーロ中佐の手紙とも考えられる】。また、ハインリヒ・ハム(Hamm)の日記には、クーロ中佐の名が頻繁に見出されるとのことである【「ハインリヒ・ハムの日記から」所載:『習志野市史研究3』参照】。習志野時代の19151225日、収容所のクリスマスコンサートでは「クリスマスの鐘」をピアノ演奏し、またメンデルスゾーンの「ピアノ三重奏曲第一番」からのアレグロとアンダンテを、ベーロウ予備少尉のチェロ、ヴォストマン軍楽兵曹のヴァイオリンに合わせてピアノ演奏した。1919年(大正8年)519日付けの東京朝日新聞第五面には、習志野収容所内の東屋の前に立つクーロ中佐の写真が掲げられている。講和条約調印も間近なって習志野収容所を訪れた記者に、花壇で土いじりをしていたクーロ中佐が語る面談記も同紙面に掲載されている。講和条約の内容について、「あれでは獨逸の國家が亡びてしまふ、國民は死ぬよりほかはない、聨合國がどうしても修正に肯じなければ獨逸は再び干戈を執って起つ迄のことである」と説いた。「俘虜生活は勿論不快だが然し日本に収容されて此優遇を受けてゐることは感謝の外ない」とも述べた。大戦終結して帰国後の1920130日大佐に昇進(1917127日発令)した。同年39日陸軍に入り、やがて『1914731日及び81日の海軍東アジア分遣隊の天津並びに北京からの出動報告』と、『1914年青島包囲中の海軍東アジア分遣隊活動報告』(Kurze Beschreibung der Tätigkeit des Ostasiatisches Marine-Detachements während der Belagerung von Tsingtau 1914.)を提出した。1943424日ビーレフェルトで没した。ビーレフェルト(Bielefeld)出身。115:東京習志野)

231)    Kuhn(クーン),Hermann?-?):第3海兵大隊工兵中隊・工兵少尉。エーリヒ・フィッシャー(Erich Fischer)の日記には、収容所仲間の人物評が記されている。クーン少尉についての人物評は次ぎの通りである。「現役少尉。プファルツ出身。上品な人で、好感のもてる、良い家庭の出身者。よくブリッジをしたが、ヒマラヤ丸に乗らないのが残念に思われる唯一の人物だ。」【『ドイツ兵捕虜と収容生活 ―久留米俘虜収容所W』(60-61頁)】。ラインプファルツのライマースハイム(Leimersheim)出身。(3448:熊本久留米)

232)    Kühn(キューン),Wilhelm?-?):3海兵大隊第4中隊・2等歩兵。ベッカー(Becker)、デーネケ(Deneke)及びエングラー(Engler)とともに、トゥルネンの指導者の一人であったことが、「名古屋俘虜製作品展覧会」のカタログに記されている。ハンブルク(Hamburg)出身。(2581:名古屋)

233)    Kühne(キューネ),Adolf?-?):海軍膠州砲兵隊第1中隊・予備1等焚火兵。久留米時代の1915104日、「久留米体操クラブ(Turnverein Kurume)が設立されたが、その初代会長を務めた。19196月から日本製粉株式会社久留米支店に、蒸気機関火夫の労役で出向いた。労働時間18時間、賃金は1ヶ月24円(内4円は国庫納入)であった【『ドイツ軍兵士と久留米』24頁】。アポルダ(Apolda)出身。(3468:熊本久留米)

234)    Kühne(キューネ),Karl1892-1918):第3海兵大隊第4中隊・2等歩兵。早くに親元から離れ、ライプチヒの海軍歩兵隊に応募した。1912102日キールの第1海兵大隊に入隊し、その後第3海兵大隊参謀本部に志願して、青島に向かった。1913218日第3海兵大隊第4中隊に配属され、野戦工兵の特別教育を受けた後長く厨房本部入りし、第一次大戦勃発時も厨房任務に就いていた。やがて銃を手にして、青島陥落の日の朝は塹壕の中にいた。自立と克己心の強い人間で、俘虜生活最初期の頃まだ多くの者が途方に暮れている時に、ヴァイオリンを習うためにヴァイオリン造りを始めた。製作費は義捐金を節約して充てた。一日の時間割はどんな事があっても変更しなかった。午前は英語、スポーツ、ヴァイオリン演奏、午後は速記か数学等で、それから再びスポーツ、徒手体操、そしてヴァイオリンであった【『バラッケ』第3巻第10147-148頁より】。191887日久留米から板東へ収容所換えになった。1918124日、スペイン風邪により板東で死亡。ライプチヒ近郊のゲリヒスハイン(Gerichshain)出身。3424:熊本久留米板東)

235)    Kühnel(キューネル),Carl?-?):砲艦ヤーグアル乗員・2等砲工。似島時代の19193月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に際して、美術の工芸金工部門で金庫の模型1点を出品した。アーヘン近郊のアイラードルフ(Eilerdorf)出身。(3968:大阪似島)

236)    Kuhnenfelsクーネンフェルス,Adalbert Freih. Kuhn von?-?):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・海軍中尉(男爵)。日本軍による包囲後、歩兵堡塁中間地区の左翼側でフレーリヒ(Froehlich)中尉とともに、エリーザベト乗員の揚陸部隊指揮に当たった。『敵の手の中で』(In Feindeshand)の第22章「日本」の項には、クーネンフェルスの「日本における戦争俘虜―“わが俘虜時代の真面目なことと愉快なこと」(Ernstes und Heiteres aus meiner „Furionenzeit“)が掲載されている。その時点でクーネンフェルスは退役海軍大尉で、ブダペスト在住となっている。ウィーン(Wien)出身。(2265:姫路青野原)

237)    Kühnert(キューネルト),Willy?-?:海軍東アジア分遣隊第1中隊・上等歩兵。1914102日、四房山で俘虜となり久留米俘虜収容所に送られたが、負傷のため当初は久留米衛戍病院に収容された【『欧受大日記』大正三年十一月上より】。ザクセンのオーバーフローナ(Oberfrohna)出身。(563:久留米)

238)    Kuhr(クーア),Egon1884-?:第3海兵大隊第1中隊・陸軍歩兵中尉。「アンデルス支隊」に属する「クーア小隊」を率いた。1914927日のヴァルダーゼー高地攻防では、最前線の最右翼を防備した。妻スザンネ(Susanne)は子ども(12歳以下)と大戦終結まで上海で暮らした。シュレージエンのオーバーランゲンビーラウ(Oberlangenbielau)出身。(519:久留米)

239)    Kunkel(クンケル),Heinrich?-?):海軍東アジア分遣隊第2中隊・2等歩兵。1916925日福岡から青野原へ収容所換えになった。19181213日から20日まで開催された青野原俘虜製作品展覧会で、クンケルは布製品・革製品部門にハギレで仕上げたテーブルクロスを出品した【『AONOGAHARA捕虜の世界』81頁】。ドルトムント(Dortmund)出身。(1251:福岡青野原)

240)    Kuentzel(キュンツェル),Otto?-?):国民軍・後備副曹長。[総督府立ギムナジウム教師]。松山時代、大林寺の収容所講習会でフランス語及び算数の講師を務めた。妻シャルロッテ(Charlotte)は大戦終結まで青島に留まった。シュレージエンのブリーク(Brieg)出身。(2985:松山板東)

241)    Kuon(クオン),Gustav?-?):海軍膠州砲兵隊第1中隊・2等歩兵(?)【『俘虜名簿』では「歩兵」となっているが「砲兵」の誤りかと思われる】。[電気工マイスター]。ホーエンツォレルンのデッティンゲン(Dettingen)出身。(3948:大阪似島)

242)    Küper(キューパー),Fritz?-?):第3海兵大隊第1中隊・予備副曹長。19156月熊本から久留米へ、また1916916日久留米から青野原へ収容所換えになった。1954116日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。トリーア郡のノイエンキルヒェン(Neuenkirchen)出身。(3412:熊本久留米青野原)

243)    Küpker(キュプカー),Ewald1893-1976):海軍膠州砲兵隊第3中隊・1等砲兵。板東時代、クルーゼ(G.Kruse)とタパタオの7号小屋で洋服仕立てを営んだ。大戦終結して解放後は、蘭領印度のスラバヤに渡って警察に勤務した。一時期ドイツに滞在した1929年、フリーダ・ルンゲ(Frieda Runge)と結婚して子ども二人をもうけた。19405月、オランダの収容所に容れられ、英領印度のデラ・ドゥン(Dehra Dun)収容所へ送られたが、家族は蘭領印度に留まった。1945年頃ドイツに送還されて、当初は妻の兄弟の元に落ち着き、1947年に妻子と再会した。後に妻の父親の仕事を手伝い、やがて商店を経営した。その後、オランダでの勤務期間が認められて年金生活に入った。「チンタオ戦友会」に出席した。東フリースラントのネッセNesse出身。4192:「大阪徳島板東

244)    Kuepperキュッパー,Wilhelm?-?:海軍膠州砲兵隊・予備掌砲副曹長。[上海のブーフハイスター(Buchheister & Co.)商会]。徳島時代、収容所図書室の図書係りをした。板東時代、砲兵隊スポーツ協会の役員を務めた。ヴェルメルスキルヒェンWermelskirchen出身。4217:「大阪」徳島板東)

245)    Kurzクルツ,Johann?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・戦時志願兵。麦酒醸造職人1915711日福岡から久留米へ収容所換えになった。ヴュルテンベルク郡のビューラータン(Bühlertann)出身。(1210:福岡久留米)

246)    Kurzke(クルツケ),Alfred H.?-?):海軍膠州砲兵隊第4中隊・2等砲兵。[北ドイツ・ロイド汽船アイテル・フリードリヒ皇子乗員]。徳島時代の191582日(神戸局の消印は1915813日)、ハンブルクの書籍印刷協会宛に葉書を出した。文面は不明【郵趣家三木充氏所蔵品より】。また 1916127日、ホルトカンプ(Holtkamp)及びシルト(Schild)の三人で演じた『壊れた鏡』が喝采を博した【『徳島新報』第19号(1916130日発行)より1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ハンブルク(Hamburg)出身。(4210:「大阪徳島板東

247)    Kuss(クス),Johann?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・2等砲兵。19161020日福岡から大阪へ収容所換えになった。似島時代の19193月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に際して、その他部門で、毛皮を詰めた靴を出品した。上部シュレージエンのプレス(Pless)出身。(1190:福岡大阪似島)

248)    Kuster(クスター),Paul?-?):海軍膠州砲兵隊・2等砲兵。1915915日福岡から習志野へ収容所換えになった。習志野で宣誓解放された。上部エルザスのサン=アマラン(St.Amarin)出身。(1236:福岡習志野)

249)    Kutt(クット),Paul?-?):国民軍・上等兵。[ヴィンクラー商会Winkler & Co.G.m.b.H.)支配人]。青島時代はハンブルク街に住んでいた。1915319日、他の5名の青島大商人とともに青島から大阪に送還された。送還される前の2ヶ月間ほど、日本の青島軍政署ないしは神尾司令官から、用務整理のために青島残留を許可された【『欧受大日記』大正十一年一月の「俘虜釋放其他訴願ニ関スル件」より。青島の大商人10名は、当初国民軍へ編入されたが、青島で築き上げたドイツの貿易・商権保持のため、マイアー=ヴァルデック総督の指示で国民軍のリストから削除されたのであった】。似島時代、リースフェルト(Liessfeldt)とトスパン(Tospann)が共同で、朝日新聞及び毎日新聞の記事をドイツ語に訳したが、時にクットも参加した。複雑な文章の時はオトマー(Othmer)予備少尉が手助けした【クライン『日本に強制収容されたドイツ人俘虜』177頁】。宣誓解放された。シュトラースブルク(Strassburg)出身。(4638大阪似島)

250)    Kux(ククス),Herbert1881-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊長・海軍大尉。敷設船ラウチング艦長。機雷将校。〔台西鎮砲台指揮官〕。19004月海軍に入った。1903927日海軍少尉、 1905929日海軍中尉、1910614日海軍大尉になった。青島時代はホーエンローエ通(Hohenroheweg)に住んでいた。ブレスラウ(Breslau)出身。(3949:大阪似島)