1)     Laan(ラーン),Heinrich van der1894-1964):第3海兵大隊6中隊・2等歩兵。〔湛山堡塁〕。[神戸・ラムゼーガー商会]。東フリースラントのヴェーア(Weer)に生まれた。銀行業を学んだ後の1913年、神戸で商会を経営していた叔父のラムゼーガー(Hans Ramseger)の誘いで日本に来た。191488日応召して日本を離れ、青島には日本の最後通牒が発せられた前日の14日に着いた。志願兵受付所で手続きをした際の係官ハーケ(Hake)とは、互いに東フリースラント出身の同郷人であることが判り、親交を深めた。ゾルガーSolger予備少尉指揮の第3小隊に属した。戦争の当初はツィンマー(Zimmer)とともにビスマルク兵営で、本部警備隊に食事やコーヒーを運ぶ任務に就いたが、その後湛山堡塁に移った。112日の未明410分前に第6中隊の湛山兵営から電話で、第2小堡塁の電信状態についての調査依頼が湛山堡塁に来ると、ラーンは進んでその任務に赴いた。松山時代、『陣営の火』編集に際して、公会堂での厄介な雑事を引き受けて貢献した【〔写真13〕参照】。板東時代は、収容所倉庫での物品の受け付けに際しての通訳を務めた。また1919813日に開催された櫛木海岸での水泳大会で、平泳ぎに出場し45秒で第2位になった。大戦終結後は一時期ドイツに帰国して、横浜正金銀行ハンブルク支店に勤務したが、やがて1921年に日本に戻り、松山、板東時代に一緒だったマイスナー(Meißner)が経営するライボルト(Leybold)商会に入って貿易の仕事に従事した。1923年ドイツ東アジア研究協会(OAG)の書記に就任したが、関東大震災の後関西に移住し、196443日に死去するまで関西で暮らした。1945年までライボルト商会と密接なシュミッツ(Schmitz)商会で、ドイツからの機械輸入に従事した。第二次大戦後、神戸と和歌山のアメリカ進駐軍石油施設で5年間働いた後、1951年から再び機械輸入の仕事に戻った。1952年に神戸総領事館が新設されるまで、一時的に差し押さえられていた神戸ドイツ人学校の資産管理に当たった。ラムゼーガー夫妻やボーナー(Bohner)の墓もある神戸・再度山の外国人墓地に埋葬された。『チンタオの思い出』(Erinnerungen an Tsingtau)の回想記を残したが、それは叔父ラムゼーガーの50歳の誕生日をきっかけに、191712月に板東で執筆され、自身の手で装丁されたものである。1919年、バルクホールン(Barghoorn)、カイスナー(Keyssner)、ルードルフ(Rudolf)及びジーモンス(Simons)と共に、日本語文献からの翻訳『国民年中行事』(Das Jahr im Erleben des Volkes)の出版に関わった。東フリースラントのエムス河畔のヴェーナー(Weener)出身。(2996:松山板東)

2)     Lacher(ラッヘル),Johann?-?):3海兵大隊7中隊・上等歩兵。[ジーメンス=シュッケルト社大阪支店]。丸亀時代の1915114日、神戸の芦屋に住む妻がこども三人を連れて面会に来た。近々アメリカを経由して帰国するための暇乞いとのことであった【『丸亀俘虜収容所記事』より】。ニュルンベルク(Nürnberg)出身。(1977:丸亀板東)

3)     Lambrechtラムブレヒト,Heinrich?-?):第3海兵大隊6中隊・2等歩兵。カッセラ大阪支店。ハーナウ近郊のビショフスハイム(Bischofsheim)出身。(2997:松山板東)

4)     Lammers(ランマース),Hermann?-?):国民軍・上等歩兵。[ジータス-プラムベック青島支店]。青島時代はホーエンツォレルン街(Hohenzollernstraße)に住んでいた。ホルシュタインのハイデ(Heide)出身。(2296:姫路青野原)

5)     Lampe(ラムペ),Eugen?-?):3海兵大隊6中隊・2等歩兵。板東時代の1918128日、偶発的逃亡癖から鉄条網の下を潜って出たが、精神病との診断から処罰されなかった。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ベルリン郊外のランクヴィッツ(Lankwitz)出身。(3001松山板東

6)     Lampe(ラムペ),Wilhelm?-?):海軍膠州砲兵大隊第3中隊・後備1等信号兵。[レストラン・シュタット=ハンブルク経営]。青島時代はカイザー街(Kaiserstraße)に住んでいた。ハンブルク(Hamburg)出身。(4218:「大阪」徳島板東)

7)     Lancelleランセル,Waldemar1871-?):第3海兵大隊第2中隊長・陸軍歩兵大尉。〔第4歩兵堡塁(台東鎮東堡塁)指揮官〕。18903月陸軍に入り、18918月歩兵少尉、189912月中尉、19075月大尉に昇進し、やがて海軍歩兵部隊に移籍した。なお、前記指揮官は後にゾーダン(Sodan)大尉に代わった。19141128日付けで海軍歩兵少佐に昇進した。丸亀時代は収容所の俘虜代表を務めた。丸亀俘虜収容所に収容されてまもない19141118日、ブンゲ(Bunge)曹長とともに収容所当局に4項目の要求を申し入れた。それは、1)食事ノ量ヲ増スコト 2)麦酒(ビール)ヲ飲マシムルコト 3)酒保ヲ開クコト 4)将校ニハ散歩ノ自由ヲ許スコトの4項目であった。19151229日、丸亀衛戍司令官東正彦大佐の命令に対して、不満の宣言をしたことにより、重謹慎2ヶ月の処罰を受けた。大尉としての月俸も2ヶ月減額された【『丸亀俘虜収容所日誌』より】。丸亀時代の1916414日(推定)に、石井彌四郎収容所長を囲んで撮影した記念写真が現存している。ドイツ将校7名と収容所人員の計17名の集合写真である。ランセル大尉は、向かって前列石井所長の右となりである【アダムチェフスキー(Adamczewski)少尉の項、及び〔写真1を参照】。1916104日、ラミーン(Ramin)中尉、シュリーカー(Schliecker)中尉、フェッター(Vetter)中尉、シェーンベルク(Schönberg)少尉、アダムチェフスキー少尉、キュールボルン(Kühlborn)少尉とともに丸亀から大分に移送された。大戦終結して帰国後の19203月陸軍に移った。ベルリン(Berlin)出身。1963:丸亀大分習志野)

8)     Landラント,Lorenz?-?):第3海兵大隊7中隊・2等歩兵。上海中央車庫Central Garage)]。ハンブルク(Hamburg)出身(『俘虜名簿』では上海)。(1981丸亀板東

9)     Landers(ランダース),Bernhardt1892-?):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。ラインラントのフェーリンゲン(Vehlingen)出身。(566:久留米)

10)    Lange(ランゲ),August?-?):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。1954116日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。ブラウンシュヴァイク(Braunschweig)出身。(572:久留米)

11)    Lange(ランゲ),Hermann1877-1950頃):第3海兵大隊第4中隊・後備上等歩兵。左大腿部銃創及び骨折、右大腿部中央砲弾破片盲貫銃創により左脚を切断していた。日本への移送当初は大阪陸軍病院に入院した。大阪収容所は1917219日に閉鎖されたが、同年38日時点でも大阪衛戍病院に入院していた【参照:『日独戦争ノ際俘虜情報局設置並独国俘虜関係雑纂 第四巻』在本邦俘虜名簿配付及俘虜ノ安否其他情報問合ニ関スル件】。1916912日に義肢を下賜された。1919121日、流行性感冒のため広島衛戍病院に入院し、126日に同病院で解放された【『戦役俘虜ニ関スル書類』中の附表第六号の「俘虜患者解放者一覧表」より】。テューリンゲンのミュールハウゼン(Mühlhausen)出身。(4639:大阪似島)

12)    Lange(ランゲ),Johann1892-?:第3海兵大隊第1中隊・伍長。ライン河畔のリンペリヒ(Limperich)出身。(3476:熊本→久留米)

13)    Lange(ランゲ),Ludwig?-?:第3海兵大隊第7中隊・後備伍長。天津から応召した。解放後は中国に赴いた。板東時代の1919417日に開催された21キロの競歩大会においては(当時25歳)、2時間3013秒で28位になった【『バラッケ』第44月号80頁】。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ロストック(Rostock)出身。(1974:丸亀板東)

14)    Langen(ランゲン),Peter Heinrich1893-1971):海軍膠州砲兵隊・2等砲兵。19161021日福岡から名古屋へ収容所換えになった。ケンペン(Kempen)県シャーク(Schaag)出身。(1298:福岡→名古屋)

15)    Langenbach(ランゲンバハ),Wilhelm1888-?):総督府・海軍建築官(少佐相当)。19027月海軍に入り、190510月建築官になる【シュミット】青島時代はドイツ街(Deutschlandstraße;日本による占領統治時代は大和町)に住んでいた。ヴェストファーレンのハスペ(Haspe)出身。(3503:熊本久留米)

16)    Langheim(ラングハイム),Joseph1894-?):海軍膠州砲兵隊第3中隊・2等砲兵。板東時代の191857日、大分のシュペーラー(Spöler)に宛てて葉書を出した。葉書は聖霊降臨祭の挨拶を極彩色で印刷した、見事な図柄の絵葉書である。図柄の文言は次の通り。「徳島近郊板東俘虜収容所より、謹んで聖霊降臨祭のご挨拶を申し上げます。J.ラングハイム至って壮健」(Die herzlichsten Pfingstgrüße aus dem Kriegsgefangenenlager in Bando bei Tokushima sendet bei bester Gesundheit J.Langheim.)。なお、差出人の部分は印刷ではなく、手書きの署名であることから、数多く刷られて、多くの俘虜も同様の絵葉書を、板東から差し出されたものと思われる。下部に「大日本」の漢字が盛り込まれている。裏面の文面欄には通信文はない。板東俘虜収容所俘虜郵便の大きな検閲済み印が押されている。【マイレンダー(Mailänder)の項参照】。ヴェストファーレンのボルケン(Borcken)出身。(4224:「大阪徳島板東

17)    Langhein(ラングハイン),Heinrich?-?):海軍膠州砲兵隊第3中隊・2等砲兵。板東時代、1919813日に開催された櫛木海岸での水泳大会に出場し、横泳ぎでは412秒で2位に、主競泳では1392秒で第3位になった。ハンブルク(Hamburg)出身。(4220:「大阪徳島板東

18)    Langjahr(ラングヤール),Karl1888-1947:海軍膠州砲兵隊第5中隊・予備2等歩兵。1914928日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米収容所に送られた【『欧受大日記』大正三年十一月上より】。ハイルブロン(Heilbronn)出身。(582:久留米)

19)    Laengner(レングナー),Martin?-1917):国民軍・上等歩兵。1917812日、青野原で死亡。トルン(Thorn)出身。(2297:姫路青野原)

20)    Langrockラングロック,Karl E.?-?:海軍膠州砲兵隊第4中隊・2等砲兵。徳島時代、収容所で発行された『徳島新報』には、ピータック(Pietack)、アウアー(Auer)及びケラー(Keller)と筆耕係で協力した。板東時代には収容所内のタパタオで、G.シュルツ(Schulz)と共同で錠前屋を営んだ。また工芸品展には、二人共同で鉄製のシャンデリアを出品した。ライプチヒ(Leipzig)出身。(4227:「大阪」徳島板東)

21)    Lanius(ラニウス),Joseph1893-?):海軍東アジア分遣隊第3中隊・上等歩兵。コーブレンツ管区のダムシャイト(Damscheid)出身。(静岡→習志野)

22)    Lassotta(ラッソタ),Theofil1876-1944:第3海兵大隊工兵中隊・後備伍長。大戦終結後、日本が経営することになった山東鉄道沿線の坊子鉱山に指導者として雇われた。解放後は青島に戻ったが、後に北京に赴きその地で没した。上部シュレージエンのアイヒェナウ(Eichenau)出身。(4399:「熊本」大分習志野)

23)    Latussek(ラトゥッセク),Paul?-?):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。板東時代、19186252728日の三日間上演された、シェイクスピア作の喜劇『じゃじゃ馬馴らし』にルセンチオ役で出演した。シュレージエンのロッセン(Lossen)出身。(1973:丸亀板東)

24)    Laetzsch(レッチュ),Curt?-?:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。上海から応召した。板東時代、公会堂の絵画と工芸品展覧会に「バンドーの山々」を出品して油絵部門の二等賞に、水彩画では鉄条網も描き込んだ「風景」で一等賞になった。1918422日から25日かけて上演された「板東人形劇」の指導をした。また1918526日、収容所体操協会による創立記念体操会が行われた。鉄棒2、平行棒2、鞍馬1、跳び箱1を使用しての体操会であった。レッチュは第6組の指導を受け持った【『バラッケ』第2巻、183頁】。ライプチヒ(Leipzig)出身。2999:松山板東)

25)    Lau(ラウ),Franz?-?:第3海兵大隊第3中隊・2等歩兵。19151020日、衛兵に煉瓦を投げて負傷させた。その罪で118日懲役5年の刑を受け、福岡監獄に収監されたが、恩赦により39月に減刑され1917515日に仮出獄した【参照:『大正三年乃至九年 戦役俘虜ニ関スル書類』中の「俘虜仮出獄者一覧表」より】。ゲルゼンキルヒェン(Gelsenkirchen)出身。(580:久留米)

26)    Lau(ラウ),Paul?-?:第3海兵大隊第3中隊・2等工兵。左臀部榴弾破片創により大阪陸軍衛戍病院に入院した。ヴェストファーレンのホルスト=エムシャー(Horst-Emscher)出身。(4550:大阪似島)

27)    Laufenberg(ラウフェンベルク),Karl?-?):海軍膠州砲兵隊・2等砲兵。19161021日福岡から名古屋へ収容所換えになった。191732日、岡本自転車製作所から、ラウフェンベルク、ベッカー(Wilhelm Becker)、ユング(Josef Jung)及びヘプフナー(Höpfner)の4名に旋盤の就労申請が出された【校條「名古屋俘虜収容所 覚書V」所載:『「青島戦ドイツ兵俘虜収容所」研究』第6号、21頁】。アルナー(Allner)出身。(1299:福岡→名古屋)

28)    Lautenbachラウテンバッハ,Hans?-?):第3海兵大隊6中隊・2等歩兵。漢口のラウテンバッハ商会Lautenbach & Co.)]1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。フォークトラントのトロイエン(Treuen)出身。(3000:松山板東)

29)    Lauenstein(ラウエンシュタイン),Arthur1888-1916):第3海兵大隊第6中隊・予備2等歩兵。[貿易商]。召集前は朝鮮の仁川で貿易業を営んでいた。松山では、格魯布性気管支炎兼慢性中耳炎のために松山衛戍病院に入院していたが、1916114日に危篤状態となり、日本人3名とドイツ人2名の立会いの上で遺言状の聞き取りが行われた。クナーク(Knaack)が書きとめ、本人が自署した後、クナークとピーツカー(Pietzcker)が証人として署名した。二日後の6日の午前1155分に死亡した。翌7日、松山衛戍病院で納棺され、市外の弥八馬場火葬場でハーバーザング(Habersang)の祈祷の後に荼毘に付され、810時山越陸軍墓地(現在はロシア人墓地と呼ばれている)に埋葬され、木製の十字架が立てられた【〔写真42〕参照】。なお、長兄は英領地中海マック島に、次兄は西南アフリカに英国の俘虜として収容された。ハンブルク(Hamburg)出身。(2995:松山)

30)    Lauzening(ラウツェニング),Johann F.?-?):河用砲艦オッター(Otter)乗員・2等水雷水兵。似島時代の19193月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に際して、全般の部で漁船の模型を出品した。メーメルのシュヴァルツオルト(Schwarzort)出身。(4557:大阪似島)

31)    Leberecht(レーベレヒト),Wilhelm1893-?):海軍東アジア分遣隊第2中隊・2等歩兵。1915920日福岡から名古屋へ収容所換えになった。帰国後の1921年ケーニヒスベルクへ赴き、その地で1925年にテレーゼ(Threse Steinhauer)と結婚した。第二次大戦では警察部隊の小隊長を務めた。【『俘虜名簿』では「Lebrecht」となっているが、シュミット氏のHPの表記に従った】。オーバープファルツのアンベルク(Amberg)出身。(1307:福岡→名古屋)

32)    Lechner(レヒナー),Michael1892-1969):海軍膠州砲兵隊・1等砲兵。19161022日福岡から習志野へ収容所換えになった。1952年、マイレンダー(Mailänder)はザールブリュッケンで偶然レヒナーに出会った。フランスの警察官になっていたレヒナーは、初めはマイレンダーと知り合いであることを快しとしない素振りであった。しかし、少し人目からそれて話をする内に、昔の思い出話が交わされた。やがてマイレンダーはレヒナーを通して、エルザス出身の戦友であるエーミール・ハンス(Emil Hanns)を知った【『クッツホーフから中国、日本へ』55頁】。エルザスのミネルスハイム(Minoersheim)出身。(1291:福岡習志野)

33)    Leffler(レフラー),Richard1888-?):砲艦ヤーグアル乗員・海軍中尉。習志野時代の19159月、ハム(Hamm)の元に届いた「登美村ワイン」一箱が運ばれて開けられた。バーケ(Baacke)大尉やクーロ(Kuhlo)中佐も試飲したと思われる【「ハインリヒ・ハムの日記」より】。1916127日、ヤーグアル乗員が全員一室に集まって、ドイツ皇帝の誕生日を祝った際に祝辞を述べた。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ブラウンシュヴァイク(Braunschweig)出身。(154:東京習志野)

34)    Lehde(レーデ),Max?-?:第3海兵大隊第2中隊・伍長。1914928日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米俘虜収容所に収容された【『欧受大日記』大正三年十一月上より】。久留米の演劇活動では、笑劇『燕尾服のレアンダー』等2演目に女役で出演した。久留米俘虜収容所で発行された『トゥルネンとスポーツ』の「付録第7号」(1919614日付け)によると、1919610日に開催された6種競技トゥルネン(鉄棒、平行棒、鞍馬、走り幅跳び、砲丸投げ、100メートル走)の下級に出場して(出場者は13名で、55点以上獲得者11名が勝者)、67点を獲得して第3位になった。オーデル河畔のフランクフルト近郊ビーゲンブリュック(Biegenbrück)出身。573:久留米)

35)    Lehmannレーマン,Ewald1874-1935:国民軍・中尉補。〔第2国民軍小隊長〕。2008126日、レーマンの孫に当たるBabara Fuetterer-Meyer氏がシュミット氏のHPに書き込みをした。また200939日には、曾孫のHeinz Fuettererが書き込みをした。スイスのダヴォス(Davos)で没した。ポンメルンのケスリン(Köslin)出身。(4554:大阪似島)

36)    Lehmann(レーマン),Hellmuth1889-1943):3海兵大隊7中隊・2等歩兵。[カルロヴィッツ商会広東支店]。丸亀時代の19151223日、ニューヨーク在住のアメリカ人女性「エル・ベンチング」が面会に訪れた。その女性はレーマンの許婚で、お互いの無事・健康を喜び合い、ニューヨークから神戸までの船旅や俘虜生活についてドイツ語で話し合った。女性はレーマンに西洋剃刀一つと指輪を手渡した【『丸亀俘虜収容所日誌』より】。1916122日、上海に住むアイスナー(H.Eissner)嬢に葉書を出した。文面は次の通り。「貴女からの手紙、新聞及び小包を受け取りました。どうも有り難うございます。以前通知を受けた品物は届いておりません。フュンステラー(Fünsterer:不詳)を通じてクレームをつけることを勧めます。弟さんがまた病気との事、お気の毒です。良くなりますよう祈っています。無事の旅行と楽しい休暇を。近い再会を願って。」【郵趣家三木充氏の所蔵品より】。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。ヴュルテンベルクのシュヴェンニゲン(Schwennigen)出身。(1975:丸亀板東)

37)    Lehmann(レーマン),Hugo K.A.?-1919):海軍膠州砲兵隊第5中隊・後備砲兵伍長。[商船船長]。1915915日福岡から習志野へ収容所換えになった。ドイツ北西部の方言低地ドイツ語を話す商船船長のツィンマーマン(Julius Zimmermann)と親しかったが、レーマンは時にドイツ語とフランス語をごちゃ混ぜにして話した【『ポツダムから青島へ』208頁】。191978日習志野で死亡。エルザスのゼーハウゼン(Seehausen)出身。1282:福岡習志野)

38)    Lehmann(レーマン),Otto1892-1971:第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。第3海兵大隊の軍楽隊所属だった。1892922日、指物師(椅子作り職人)の子としてザクセンのゲリングスヴァルデ(Geringswalde)に生まれた。翌年父親が亡くなると、母は指物師の親方と再婚し、一家はヴァルトハイムに移り住んだ。学校に通っている時代にすでに種々の音楽教育を受け、将来は音楽家になることを決意した。19074月、町の音楽監督の下で音楽修業をし、1910年からはその後任の下で同じ楽団に修業団員として月40マルクを手にする地位を得た。191041日からはドレスデン王立音楽院の給費生となってドレスデンに移り、19133月末まで同学院でヴァイオリン、指揮法、室内楽、合唱法を学んだ。やがて軍楽隊に入ることを考え、1913101日、ククスハーフェンの海軍歩兵隊に入隊し、翌年の1914112日軍艦パトリツィアで青島に赴き、227日に青島に着いた。その年の55日、「1913/1914年度第11回チンタオ・コンサート会」がプリンツ・ハインリヒ・ホテルで開催され、レーマンはヴァイオリンソロを担当した。それは海軍歩兵第3大隊の軍楽隊による演奏で、指揮者は軍楽隊長のヴィレ(O.K.Wille)、ピアノソロは上海のマクダ・フォン・デア・ライテン(Magda von der Leithen)嬢だった。曲目はフンパーディンクの《メルヒェンオペラのための前奏曲;王の子供達》、グリークの《ピアノ協奏曲》、サンサーンスの《交響詩 死の舞踏》、及びハイドンの《交響曲第13番》であった。これは第15回予約制コンサートで、しかも最後の交響曲の夕べと銘打たれている。非予約者の場合の入場料は、ホールで2ドル、バルコンで1ドルであった。夕方9時に開演、10時半終演となっている。なおプログラムには、次回519日は最後の予約制コンサートで、演目はポピュラーと記されている。日独開戦とともに軍楽隊は解散され、レーマンは80名で構成された第1歩兵堡塁に配属された。久留米時代、「久留米収容所楽団」(Die Lager-Kapelle des Kriegsgefangenenlagers Kurume-Japan)を率いて数多くのコンサートを開いた。1915629日付けで、東京銀座の十字屋楽器店からレーマンに宛てたヴィオラとチェロの弦の発送と請求額を示したはがきが現存している。1915613日、自らが主宰する「レーマン楽団」による第一回プロムナード・コンサートが開催された。曲目は軽快で大衆的なものが多かった。『久留米行進曲』等の作曲もした。また上記楽団は収容所の「交響楽団」の常連メンバーでもあった。フォークト(Vogt)と並んで久留米の音楽活動では特に指揮で大活躍した。また1916626日付けのドイツ・アジア銀行神戸支店からレーマン宛の63円送金の書類及び送金票及びさらに、同年106日付けの杉野歯科医院(久留米市両替町25番地)からのレーマン宛320銭の領収書が遺されている。「久留米カレンダー」にスケッチを寄せたヴィルヘルム・シュタイツ(Wilhelm Steitz)の手になると思われる収容所の柵をあしらったスケッチには、「久留米収容所楽団」のレーマン以下22名の楽団員の写真が並べられ、また一人一人のサインも記されているが、レーマンのサインのみがない【レーマンへの寄せ書きと思われる。〔写真8〕を参照】。1918年の第3回久留米美術・工芸品展覧会のポスターは、趣に溢れたデザインであるが、その中央にはオットー・レーマンの展覧会に対する多大な寄与への感謝の言葉が記されている。191898日には、レーマン指揮による「久留米収容所管弦楽団」(Die Sonntagskonzerte des Kriegsgefangenen-Orchesters Kurume-Japan)の第100回日曜コンサートが開かれた。大戦終結して帰国後、郷里ヴァルトハイムで休養した後、その町の楽団のコンサートマスターを1927228日まで務めた。その後も郷里で音楽監督等に就き、1930年リンダ・シュレーゲル(Linda Schlegel)と結婚した。以後の音楽家としての生活は必ずしも順調であったわけではなく、妻と子のために安定した生活をすべく音楽家としての職業を断念した。1971524日、郷里ヴァルトハイムで遺書を遺すことなく自死した【レーマンに関しては、松尾展成氏からの教示に多くを負っている】。ザクセンのゲリングスヴァルデ(Geringswalde)出身。571:久留米)

39)    Lehnert(レーネルト),Georg Immanuel1890-1969):海軍砲兵中隊・2等機関兵曹。仕立職マイスターの子として生まれた。鍛治職の修業をした後の1908101日海軍に入った。19101012等機関兵曹となり、1914423日パトリツィア号で青島へ赴いた。1914612日砲艦イツチス乗員となり、191482日「1等機関兵曹」になった。解放されてどいつに帰国後の1920117日ヘレーネ(Helene Katharina de Wall,1893-1964)と結婚して子ども二人をもうけた。19201110日から192383日まで水上警察に勤務し、その後は終生税務署で働いた。ハノーファー州のグローセフェーン(Großefehn)出身。(3498:熊本→久留米)

40)    Leidig(ライディヒ),Friedrich?-?):第3海兵大隊第5中隊・2等歩兵。松山時代(山越・弘願寺収容)の1916722日、命令を速やかに遵奉しなかったことから、重営倉5日に処せられた。板東時代の191961日(日)、12種目から成る体操大会が開催されたが、ライデイヒは104½点を挙げて初級の部の第7位になった【『バラッケ』19196月号より】。ヘンスキシュケン(Henskischken)出身。(2991:松山板東)

41)    Leimbacher(ライムバッハー),Josef?-?):第3海兵大隊工兵中隊・2等工兵。宣誓解放された。上部エルザスのズルツ(Sulz)出身。(2615:名古屋)

42)    Leipold(ライポルト),Eduard1892-1978):海軍膠州砲兵隊第4中隊・1等砲兵。日本への移送当時カメラを所持していて、後に板東俘虜収容所の様子などを数多くフィルムに納め、そのアルバム帖を鳴門市ドイツ館に寄贈した。徳島時代の191610月、徳島市の円藤鉄工所に鋳造・ダライバンの労役に、バール(Alwin Bahr)、ベーマー(Boehmer)、フィッシャー(Paul Fischer)、グレックナー(Glöckner)、ヘフト(Max Hoeft)、ライポルト(Leipold)、マイエ(Maye)の7名で派遣された。1日約8時間、賃金・期間不明。大戦終結後は郷里ザクセンのコーブルクの機械工場に勤めた。1934年、郷里出身の戦友15人に呼びかけて、「バンドーを偲ぶ会」を結成した。この呼びかけには、バイエルン州やヘッセン州在住の元俘虜も参加し、80人を超える会に発展した。やがてパウル・クライ(Kley)やヘルマン・ヴァルター(Walter)を幹事とする「バンドー会」として、フランクフルトで毎年定期的に会合を開くまでに至った。また1962年のブレーメン、及び1964年のニュルンベルクで開催された「チンタオ戦友会」では、アルブレヒト(Albrecht)、ベーダー(Beder)、ユング(Julius Jung;俘虜番号1171「同姓同名者がいるために番号を掲げた」)、シュトレーラー(Straeler)等とともに世話役の一人を務めた。1970年に開催された大阪万国博覧会の折りに来日し、パウル・クライ(Paul Kley)と一緒に板東を再訪した。1972年鳴門市にドイツ館が完成するとアルバム帖を寄贈した。当時、西ドイツのコーブルク市(出身地)に住んだ。インタヴューに応じて、俘虜時代に関する多くの談話を残した。コーブルク(Coburg)出身。(4226:「大阪」徳島板東)

43)    Leiser(ライザー),Ludwig?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・2等砲兵。似島時代の19193月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に際して、その他部門で、ドメーレ(Domele)と共同でなめし皮製品数点を出品した。バーデンのツォイテルン(Zeutern)出身。(3976:大阪似島)

44)    Leist(ライスト),Benedikt1891-1955:第3海兵大隊第7中隊・伍長。丸亀時代の191578日、第1ヴァイオリンのエンゲル(Paul Engel)、第2ヴァイオリンのモルトレヒト(Moltrecht)、第3ヴァイオリンのライスト、第1フルートのヘス(Hess)、第2フルートのヤーコプ(Hermann Jacob)及びオルガンのクラーゼン(Claasen)の6人によって「エンゲル・オーケストラ」【当初は「保養楽団」の名称で、1915110日に第1回演奏会が開かれた「寺院楽団」の後継楽団】が成立した。その折ライストはシューベルトの「魔王」等を独奏した。しかし、楽団による演奏依頼があった919日の第2中隊体操祭の日に、ライストは楽団を脱退した。『丸亀日報』で欠員補充の公募が行われたが、課題曲が多くの人を怖気づかせて応募者は一人もいなかった。板東時代、19175月に松山俘虜収容所からの人員を加えて拡大した「エンゲル・オーケストラ」の団員となり、第2ヴァイオリンを担当した。収容所内のタパタオではアイスクリーム屋を営んだ。ドイツに帰国後の1926731日マリアー(Maria Elisabeth Kolb,1899-1968)と結婚した。子どもはいなかった。ラインプファルツのエンケンバッハ(Enkenbach)出身。(1976:丸亀板東)

45)    Leist(ライスト),Stephan1883-1921):第3海兵大隊第1中隊・予備陸軍少尉。1918年から翌年にかけてエングラー(Engler)によって、体操指導員と体操選手にたいする冬の練習と講習が行われたが、ライストはアンデルス(Anders)少佐、ラッペンエッカー(Rappenecker)、エングラーとで構成された委員会で、筆記試験や面接試験の委員を務めた。ラインプファルツのエイケンバッハ(Enkenbach)出身。(564:久留米)

46)    Leist(ライスト),Wilhelm1893-1921):海軍東アジア分遣隊第2中隊・2等歩兵。バーデンのヴァインハイム(Weinheim)出身。(1750:静岡→習志野)

47)    Leitz(ライツ),Josef1893-?):3海兵大隊1中隊・2等歩兵。久留米俘虜収容所で発行された『トゥルネンとスポーツ』の「付録第7号」(1919614日付け)によると、ライツは191968日に開催されたサッカーの試合で活躍した。シュトゥットガルト(Stuttgart)出身。(567:久留米)

48)    Lemke(レムケ),Fritz?-?):海軍膠州砲兵隊・砲兵軍曹長。1915915日、カール・クリューガー(Karl Krüger)、ルードルフ(Rudolff)等93名とともに福岡から習志野へ収容所換えになった。習志野時代、クリューガー及びオストマン(Ostmann)とは浴室で同じ時刻によく出会わした。兵営ではクリューガーの隣に枕を置いていた。またクリューガーと一緒に英語、フランス語の勉強会に出席し、ユーバシャール(Ueberschaar)博士の授業には一人出席して、難しい課題を課せられても、見事に解いていた。自分の四阿(あずまや)の前に立つレムケの写真が現存し、資料に紹介されている【参照:『特別資料展「ドイツ兵の見たNARASHINO―1915-1920 習志野俘虜収容所」展示品図録』87】。シュパンダウ(Spandau)出身。(1288:福岡習志野)

49)    Lemke(レムケ),Josef1894-?):海軍兵站部・2等歩兵。東プロイセンのフロイデンベルク(Freudenberg)出身。(2293:姫路→青野原)

50)    Lemmen(レンメン),Johann1892-?):3海兵大隊1中隊・2等歩兵。久留米収容所で発行された『トゥルネンとスポーツ』の「付録第7号」(1919614日付け)によると、レンメンは191968日に開催されたサッカーの試合で活躍した。クレーフェルト(Crefeld)出身。(565:久留米)

51)    Lendrichレントリヒ,Eduard1889-?):海軍東アジア分遣隊参謀本部・海軍少主計(少尉相当)候補。習志野時代の191918日と9日、収容所で演じられたハウスライターとライマン作の3幕の茶番劇『電話の秘密』に財産家役で出演した。また同年35日に開催された「朗読の夕べ」では、ガイベル作「吟遊詩人の歌」及び古い説話の「天のベット」を朗読した。さらに同年8月に上演されたイプセン作の『幽霊』の演出を担当した。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ポツダム(Potzdam)出身。(149:東京習志野)

52)    Lennartz(レンナルツ),Mathias?-?):3海兵大隊1中隊・2等歩兵。久留米収容所で発行された『トゥルネンとスポーツ』の「付録第7号」(1919614日付け)によると、レンナルツは191968日に開催されたサッカーの試合で活躍した。ラインラントのリッケルラート(Rickelrath)出身。(569:久留米)

53)    Lenzen(レンツェン),Karl?-?):3海兵大隊工兵中隊2等工兵。191732日、岡本自転車製作所にエーベルト(Paul Ebert)及びフーベン(Huben)とともにニッケル鍍金の労役に就き、また同年816日には、フランケ(August Franke)及びブラードゥル(Bradl)とともに、名古屋電気鉄道での電車用電動機及び機械器具修繕の労役に就いた。更に191837日、ミルデ(Milde)とともに落合兵之助経営の旭鍍金でも就労し、また1919825日には、高岳製作所からライザー(Reiser)とともに就労依頼があり、変圧器製作に従事した【校條「名古屋俘虜収容所 覚書V」及覚書X;所載:『「青島戦ドイツ兵俘虜収容所」研究』第4号及び6号の2142頁】。ライン河畔のバート・クレーエ(Bad Cleoe)出身。(2616:名古屋)

54)    Leonhardt(レオンハルト),Karl?-?:第3海兵大隊6中隊・2等歩兵。[カッセラ商会]。松山時代、公会堂の日曜講演会で「お茶の色について」と題して講演した。マイン河畔のフランクフルト(Frankfurt)出身。2998:松山板東)

55)    Leopold(レオポルト),Viktor?-?):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。板東時代の1919417日に開催された21キロの競歩大会において(当時26歳)、2時間3258秒で36位になった【『バラッケ』第44月号81頁】。ロートリンゲンのアジョンクール(Ajoncourt)出身。(1970:丸亀板東)

56)    Letsche(レッチェ),Emil1893-1971):3海兵大隊1中隊・2等歩兵。19141020日、ディール(Diehl)伍長の指揮の下9名で第1歩兵堡塁から浮山所へパトロールに出た。さらにディールとリーゼナー(Riesener)の三人で浮山所岬に出て、日本軍の船舶が目印にしているブイ(浮標)を沖合250メートルのところに発見した。レッチェはディールとともに、リーゼナーが服を脱いでブイを岸に運ぶまで身を伏せて警護に当った。【ハインツ・ファン・デア・ラーン『青島回想』(van der Laan,Heinz:Erinnerungen an Tsingtau75頁】。大戦終結して解放後は、蘭領印度に渡った。プフォルツハイム近郊のフーヘンフェルト(Huchenfeld)出身。(568:久留米)

57)    Letschert(レッチェルト),Alfons1885-?):守備隊本部・曹長。1906年、兵役義務で青島の海軍歩兵第3大隊に配属された。191210月、青島で結婚した。娘が生まれたが、誕生後まもなく死に、青島欧人墓地に埋葬された。青島陥落後、妻は1916年まで青島に留まったが、その後実家のバンベルクに帰還した。1920年にドイツ帰国後はしばらくヴィルヘルムスハーフェンに暮らし、その地で1923年娘ウルズラ(Ursula)が出生した。1930年一家はキールに移った。20036月、ブラウンシュヴァイクで開催された「第2回ベートーヴェン『第九』里帰り公演」に際して、娘のウルズラ・ウルリヒから、レッチェルトの著作『俘虜生活からのまじめで陽気な詩』の原本、及び日本側が発行した青島への「渡航許可証」の現物が鳴門市ドイツ館に寄贈された。ヴェスターヴァルト(Westerwald)のバウムバッハ(Baumbach)出身。(3007:松山板東)

58)    Lewerenz(レヴェレンツ),Friedrich?-?):砲兵兵站部・掌砲兵曹長。妻ベティー(Baetty)は大戦終結まで青島に留まった。大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として日本国内で解放された。ロストック(Rostock)出身。(2291:姫路青野原)

59)    Lieber(リーバー),Fritz?-?):海軍東アジア分遣隊第2中隊・2等歩兵。似島時代の19193月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に際して、美術の工芸木工部門で額縁4点、裁縫箱1点、郵便物収集箱1点を出品した。テューリンゲンのブランケンハイン(Blankenhein)出身。(4640:大阪似島)

60)    Liebmann(リープマン),Ludwig?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・2等砲兵。大阪時代の19156月初旬、ポルシュケ(Porschke)及びポスピヒ(Pospich)と脱走したが逮捕され、禁錮2年の刑を受け大阪監獄に収監されたが、1112日の大正天皇即位の大典の恩赦で16ヶ月に減刑された。同年916日に仮出所したが1225日に取り消されて再収監された。アウグスブルク(Augsburg)出身。(3975大阪似島

61)    Liedtke(リートケ),Fritz?-?):国民軍・後備1等木工。[スタンダード石油]。大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として日本国内で解放された。エルベ河畔のアルトナ(Altona)出身。(4641:大阪似島)

62)    Liersch(リールシュ),Richard?-?):測量艦プラーネット乗員・2等水兵。1914107日、西カロリン群島のヤップ島で俘虜となったが111日宣誓解放された。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ベルリン(Berlin)出身。(4672:なし)

63)    Liesenfeld(リーゼンフェルト),Eugen?-?):海軍膠州砲兵隊第1中隊・1等水兵。似島時代の1918年、聖霊降臨祭の記念絵葉書を作画した【高橋スタンプ商会のHP「第二部・日独戦争と俘虜郵便の時代 98」に掲載されている。図柄は、兵士が「平和が来る平和は来ない“Friede”“keine Friede”と花占いをしている図)」参照:http://www.takahashistamp.com/2note98.htm】。また19193月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に当って、運営本部の一員として出納係りを務め、美術部門の絵画で鉛筆画5点を出品した。マインツ(Mainz)出身。(3970:大阪似島)

64)    Liessfeldt(リースフェルト),Alfred1891-1968):海軍東アジア分遣隊第2中隊・予備副曹長。『大阪時事新報』(大正4128日付け)のよれば、1915127日に寧静丸で大阪港に到着した。新検挙社86名、傷病兵44名、全快者29名の総勢159名であった。なお、リースフェルトは横浜の220番地に一年居住していたと記されている。似島時代、トスパン(Tospann)と共同で、朝日新聞及び毎日新聞の記事をドイツ語に訳した。時にクット(Kutt)も参加し、複雑な文章の時はオトマー(Othmer)予備少尉が手助けした【クライン『日本に強制収容されたドイツ人俘虜』177頁】。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。ハンブルク(Hamburg)出身。(4551:大阪似島)

65)    Liessmann(リースマン),Rudolf?-?):海軍砲兵中隊・後備上等兵。板東時代、劇場委員会に所属した。ヒルデスハイム(Hildesheim)出身。(3003:松山板東)

66)    Ligeti(リゲティ),Josef?-?):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・1等水兵。青野原時代、19181213日から20日まで開催された俘虜製作品展覧会で、リゲティのグループは金属加工部門に大砲、軍用車、花瓶、筆記用具、文鎮等44点を出品した【『AONOGAHARA捕虜の世界』72-73頁】。ハンガリーのエルゼクワル(Ersekujwar)出身。(2303:姫路青野原)

67)    Limmerリンマー,Dr.Heinrich1884-?):3海兵大隊野戦砲兵隊・予備少尉。ベルリン、エアランゲン及びミュンヘンで法律を学んだ。1911年博士号取得。1年間イギリスに滞在した後、1912年外務省に入省した。1914年天津副領事となったが、同年8月上記大隊野戦砲兵隊の予備少尉となる。解放されてドイツに帰国後イラ(Illa Maria Schmidt)と結婚して息子三人をもうけた。1921年プラハ大使館、1922年ウィーン大使館を経て、1924年トリエステ領事館領事となる。1927年外務省の参事官となった。バイエルンのクルムバッハ(Kulmbach)出身。3491熊本久留米

68)    Lindemann(リンデマン),Erich?-?):第3海兵大隊機関銃隊・上等兵。19156月熊本から久留米へ収容所換えになった。1915年の久留米時代、クレッチュマー(A.Kretschmer)とともにボクシングの講習会を開いた。ケーニヒスベルク(Königsberg)出身。(3496:熊本久留米)

69)    Lindenberg(リンデンベルク),Reinhold?-?):3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[ジーメンスシュッケルト門司支店]。板東時代、タパタオの80号小屋でシュミットと家具屋を営んだ。ベルリン(Berlin)出身。2994:松山板東)

70)    Lindner(リントナー),Anton1888-1970):第3海兵大隊第2中隊・軍曹。似島時代の19193月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に際して、工芸技術の金工部門で火鉢用の金網1点を出品した。また上記展覧会のカタログの30頁には、リントナー経営のストーブ、セントラルヒーティング等の工作場の広告が掲載されている。上部プファルツのナッブルク(Nabburg)出身。(4549:大阪似島)

71)    Lindner(リントナー),Julius Felix1884-?):国民軍・階級不明。大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として日本国内で解放されたが、やがて蘭領印度のメダンに渡った。ライプチヒ近郊のケチャウ(Kötschau)出身。(4556:大阪似島)

72)    Lindner(リントナー),Paul1885-?:第3海兵大隊第7中隊・上等歩兵。[商人]。青島時代はフリードリヒ街に住んだ。丸亀時代の1915327日、検閲で所持していた青島地図25枚、同風景画帖10冊を没収された【『丸亀俘虜収容所日誌』より】。大戦終結後は青島に戻り、輸入会社「パウル・リントナー」を経営した。ピッセン(Pissen)出身。(1978:丸亀板東)

73)    Linel(リーネル),Leo?-1919):海軍砲兵中隊・2等焚火兵。191924日スペイン風邪により習志野で死亡。メッツ(Metz)出身。(152:東京習志野)

74)    Lingnerリングナー,Augusut?-?):第3海兵大隊予備榴弾砲兵隊・予備上等兵。191732日、岡本自転車製作所からリングナー及びベッカー(Heinrich Becker)に、自動自転車修繕の労役申請が出され、また同年314日には、ガス(Gass)とともに甲斐洗濯店での労役にも就いた【校條「名古屋俘虜収容所 覚書V」所載『「青島戦ドイツ兵俘虜収容所」研究』第6号、2123頁】。ブラウンシュヴァイク(Braunschweig)出身。(2611:名古屋)

75)    Link(リンク),Alfred?-?):第3海兵大隊第2中隊・上等歩兵。板東時代、「エンゲル・オーケストラ」の団員で小太鼓を担当した。ベルリン(Berlin)出身。(1966:丸亀板東)

76)    Linkeリンケ,Otto1873-1952):国民軍・予備少尉。[鷲屋薬局経営者189141日アビトゥーア(Abitur)資格を習得し、ケーニヒスベルクで薬剤師としての修業を積んだ。189441日からはケーニヒスベルクの醸造所で働いたが、1898411年志願兵で兵役に就いた。189910月青島で薬局を開業した。1901720日第141連隊の予備役少尉になり、1902430日青島でマルガレーテ(Margarethe Hannig)と結婚し、娘二人と息子一人の三人子をもうけた。1910810日後備役中尉となったが、1914820日予備少尉として国民軍に編入された(後に中尉になる)。青島時代は皇太子街(Kronprinzenstrasse)住んでいた1915114日日本の青島守備軍によって逮捕され大阪俘虜収容所へ送られた。大阪時代の1915年(月日不明)、「俘虜日直勤務中高級所員ヨリ下達セル所長ノ命令ヲ俘虜将校全般ニ伝達セヘキヲ怠リタル科」で重謹慎5日の処罰を受けた。ドイツ・トゥルネン新聞(Deutsche Turn-Zeitung)』の19211020日付け42号に、「日本の似島俘虜収容所」と題してドイツ・トゥルネン連盟に宛てた、青島に所有する施設・預金の問題を訴えたリンケの手紙が載った【山田『俘虜生活とスポーツ』145頁】。大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として日本国内で解放された【『俘虜ニ関スル書類』より】が、青島に戻り、再び医薬品輸入会社「オットー・リンケ」を経営した。1925年時点では山東路145番地で前記薬局を経営し、同18番地に住んだ。1939年時点で店は山東路75番地に移り、妻子と広西路5番地に住んだ。1956年青島で没した。東プロイセンのポーゼン(Posen)出身。4553:大阪似島)

77)    Linke(リンケ),Robert?-?):3海兵大隊工兵中隊・軍曹。松山時代(山越・長建寺収容)の191554日、天津に冬軍服を輸送する際に、表地と裏地の間に信書1通を縫い付けて秘密通信を企てたことから重営倉7日に処せられた。板東時代、19175月に松山収容所からの人員を加えて拡大した「エンゲル・オーケストラ」の団員で、ヴィオラを担当した。また収容所の炊事部1の下士官を務めた。ブレスラウ(Breslau)出身。(3002:松山板東)

78)    Linne(リンネ),Ernst?-?:海軍膠州砲兵隊第5中隊・戦時志願兵。1915711日福岡から久留米へ収容所換えになった。久留米時代は演劇活動で、喜劇『教育者フラックスマン』等7演目に出演した。ブレーメン(Bremen)出身。(1287:福岡久留米)

79)    Lipinski(リピンスキー),Hans1888-1969:海軍膠州砲兵隊第2中隊・海軍中尉。〔游内山特殊砲台指揮官〕。19074月海軍に入り、19109月少尉、19139月中尉に昇進し、19148月から青島膠州湾湾口の游内山特殊砲台指揮官になった。19206月退役した。その後、エーゲ海のヴォロス(Volos)港司令官として現役に復帰したが、実際任務には就かなかったと思われる。19417月から19438月まで、ガスコーニュ(Gascogne)海防部隊司令官となり、海軍大尉に昇進した。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ブレスラウ(Breslau)出身。(3969:大阪似島)

80)    Lipkau(リープカウ),Walter?-1975):3海兵大隊6中隊・2等歩兵。[アルンホルト・カルベルク社北京支店]。松山時代、大林寺の収容所講習会で英語及びフランス語の講師を務めた。板東時代、19175月に松山収容所からの人員を加えて拡大した「エンゲル・オーケストラ」の団員で、ヴィオラを担当した。ドイツに帰国後の1920年中頃アーデルハイト(Adelheid Schraermeyer)と結婚して娘一人をもうけた。やがてメキシコへ一人で渡り、後に家族も移住した。商売のかたわら写真業を営み、1939年には自分の写真館を持った。メキシコで没した。ハーフェル河畔のラーテノウ(Rathenow)出身。2993:松山板東)

81)    Lippsky(リップスキー),Franz?-?:巡洋艦皇后エリ−ザベト乗員・3等下士。姫路時代の1915223日、ヤーン(Josef Jahn)、レッシュ(Resch)の三人で景福寺の収容所から脱走を企て、禁錮9ヶ月の処罰を受けた。当時22歳だった。宣誓解放された。メーレン(Maehren;現モラヴィア)のロツアウ(Rozuau)出身。(2300:姫路青野原)

82)    Lis(リス),Joseph?-?):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。丸亀時代、1916101日から開催された丸亀生産品展覧会に武具細工品を出品した【『大阪朝日新聞 四国版』大正51112日付け】。ポーゼンのオストロヴォ(Ostrowo)出身。(1967:丸亀板東)

83)    List(リスト),Georg1892-1941:第3海兵大隊工兵中隊・2等工兵。板東時代、収容所内のタパタオでマイヤー(Meyer)と共同で卵、キャンデー、きゅうり、果物を売る店を営んだ。ヴェーザー河畔のリンテルン(Rinteln)出身。(3005:松山板東)

84)    Litterst(リッテルスト),Theodor1889-?):所属部隊不明・階級不明。1915129日、エーデルマン(Edelmann)と協同で、非戦闘員であったことから解放を願い出たが不許可になった。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。当初は日本に滞在したが、やがてドイツに帰国して1921412日、クラーラ・フォルナー(Klara Forner)と結婚した。その後天津に赴き、その地で息子が生れた。バイエルンのフューリンゲン(Vühringen)出身。(4558:大阪似島)

85)    Löffler(レッフラー),Hermann?-?):国民軍・卒。青島時代は小港通Kleiner Hafenwegに住んでいた。1915920日、青島から大阪俘虜収容所に移送された。エアフルト(Erfurt)出身。(4689:大阪似島)

86)    Lohmann(ローマン),Dr.Max Karl Theodor1889-?:第3海兵大隊第5中隊・予備副曹長。20061215日、元ドイツ-日本研究所のウルズラ・フラッヘ氏から、アルフォンス・シュテーゲマン(Alfons Stegemann)の孫オスヴァルト・ハッセルマン(Oswald Hasselmann)氏の編集になるCDが日本の複数の研究者に届けられた。そのCDは、シュテーゲマンとその友人ローマンの遺品を集成したものである。いくつかの写真の下には短い説明文や俘虜の氏名が記されている、貴重な資料である。ローマンの遺品と思われる写真には、ローマンと他の俘虜と一緒のスナップ写真が五点ある。いずれの写真にも、「Ego」(「私」の意)と記されている人物がローマンと思われる。一人で写っているものが二点ある。そのうちの一点は、ローマンの阿屋と思われる建物の脇で立っている写真である。もう一点は、窓辺でパイプをくわえ、右側にはカナリヤか或いは文鳥が一羽入った鳥篭、左側には花瓶に挿した花がある。この写真は極めて鮮明で、ローマンの顔立ちがはっきり見て取れる。他の写真は、アーラース(Ahlers)大尉及びシュテーゲマン(Stegemann)の三人が屋外でトランプする風景、一枚はアルトマン(Altmann)とツィンク(Zinck)の三人で、もう一枚は、エンゲルホルン(Engelhorn)、ヤンゼン(Jansen)、カルクブレンナー(Kalkbrenner)、シュテフェンス(Walter Steffens)、シュテーゲマンの六人が冬の陽だまりの中、収容所の建物内の縁側と思われるところで思い思いに居並んでいる、実に味わい深いスナップ写真【〔写真9〕を参照】である。ヴェストファーレンのハーゲン(Hagen)出身。(2609:名古屋)

87)    Lohmeyer(ローマイヤー),August1892-1962):海軍膠州砲兵隊・1等水兵。[屠畜職マイスター]。大戦終結して解放後、帝国ホテルに採用されたが、一年後の1921年には出資者を得て、山手線大崎駅の南に「ローマイヤー・ソーセージ製造所」を創設して成功を収めた。やがて1923年に銀座にレストラン「ローマイヤー」を開いた。日本人女性と結婚して、息子二人と娘一人をもうけた。やがて長男のヴィルヘルムはレストランを継ぎ、次男オットーはソーセージ職人となって製造会社を継いだ。「ロースハム」という言葉の考案者と言われる。銀座7丁目に、2006年に再開したドイツレストラン「ローマイヤー」がある。横浜の外人墓地に墓碑がある。ブレーメン(Bremen)出身。(3502:熊本久留米)

88)    Loithmann(ロイトマン),Wilhelm1893-1949):第3海兵大隊第4中隊・上等歩兵。農場主の子として生まれた。帰国後の1925221日マリーア(Maria Luise Hönig)と結婚して娘一人をもうけた。ニーダーメッツ(Nidermetz)出身。(3481:熊本→久留米)

89)    Lorbach(ロールバッハ),Hubert?-?):3海兵大隊1中隊・上等歩兵。板東時代、1919813日に開催された櫛木海岸での水泳大会で、初心者競技に出場し53秒で第2位になった。ラインラントのシュヴェルフェン(Schwerfen)出身。(2989:松山板東)

90)    Lorenz(ローレンツ),Alois?-?):海軍膠州砲兵隊・2等砲兵。19161020日福岡から青野原へ収容所換えになった。19181213日から20日まで開催された青野原俘虜製作品展覧会で、ローレンツのグループは金属加工部門に燭台(銅製)、煙草道具、花瓶等21点を出品した【『AONOGAHARA捕虜の世界』73-74頁】。上部シュレージエンのゴルドゥラ=ヒュッテ(Godulla-Hütte)出身。(1296:福岡青野原)

91)    Lorenz(ローレンツ),Fritz1893-1977:海軍膠州砲兵隊第3中隊・2等砲兵。板東時代、収容所内のタパタオで靴修繕屋を営んだ。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ラインプファルツのガウアースハイム(Gauersheim)出身。(4219:「大阪」徳島板東)

92)    Loeven(レーヴェン), Heinrich1893-1944:海軍膠州砲兵隊第2中隊・上等砲兵。高等師範の主将だった田中敬孝の子息の手元には、俘虜チームの写真が遺されている。体操服を着て肩を組んで並んでいる11名の写真の裏には、メンバーの名前と思われる人名が記されている。レーヴェンの名が記されていることから、メンバーの一員だったと思われる【〔写真12〕参照】。他のメンバーは、ハープリヒス(Habrichs)、ハイネマン(Heinemann)、ホロナ(Holona)、イーデ(Ide)、クラーバー(Klaiber)、クラインベック(Keinbeck)、クヌッベン(Knubben)、ポッサルト(Possardt)、シュライ(Schrey)、シュルマン(Schürmann)の10名である。なお、1919126日に高等師範学校の運動場で、高等師範等の生徒と試合を行ったのは、集合写真【〔写真13〕参照】から別のチームと思われる。2005年に、イレブンの写真中の左端がレーヴェンではないかとされたが、息子のフランツから確証は得られなかった。アーヘン(Aachen)出身。(3971:大阪似島)

93)    Löwenig(レーヴェニヒ),Karl?-?):国民軍・上等歩兵。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。ケルン(Köln)出身。(4555:大阪似島)

94)    Lübke(リュプケ),Kunibert?-?):3海兵大隊第2中隊・上等歩兵。板東時代、第25室でビール販売を営んだ。ポンメルンのヴルヒョウ(Wurchow)出身。(1965丸亀板東

95)    Luczeck(ルセック),Franz?-?:海軍膠州砲兵隊第2中隊・砲兵軍曹長。1918527日、福岡衛戍病院で膿胸のために死亡したが、書類上は習志野に移送となっている。東プロイセンのフリーデリヒスハイデ(Friedrichsheide)出身。(1277:福岡習志野])

96)    Ludwig(ルートヴィヒ),Georg?-?):第3海兵大隊機関銃隊・上等兵。熊本時代、1915127日から430日まで、縫靴工として従事し労賃を得た。エルザスのドゥンツェンハイン(Dunzenhein)出身。(3495:熊本久留米習志野)

97)    Ludwig(ルートヴィヒ),Otto Kurt1890-?):3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。解放後は蘭領印度のヴェルテフレーデンに渡った。ザクセンのリムバッハ(Limbach)出身。(1968:丸亀→板東)

98)    Ludwig(ルートヴィヒ),Max?-?):3海兵大隊第5中隊・上等歩兵。板東時代、工芸品展にオイルナー(Eulner)及びオルロープ(Orlob)と共同で、ドイツ軍が西部戦線で捕獲した戦車の模造品を制作・出品した。ザクセンのアルンスドルフ(Arnsdorf)出身。(2990:松山板東)

99)    Luft(ルフト),Alwin?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・2等砲兵。熊本時代、1915120日から527日まで、靴工として従事した。シュレージエンのティーフェンフールト(Tiefenfuhrt)出身。(3486:熊本久留米)

100)    Luft(ルフト),Fritz?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・2等砲兵。似島時代の19193月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に際して、美術の工芸金工部門で装蹄用の模型1点を出品した。ゲーラ(Gera)出身。(3973:大阪似島)

101)    Lührs(リュールス),Julius1892-1975):装甲巡洋艦グナイゼナウ(Gneisenau)乗員・2等水兵。病気のために残留していた東カロリン群島のポナペ島で俘虜となった。19141129日横須賀に上陸後、ツァッハ(Zach)とともに海軍により護送されて東京俘虜収容所に送られた【『戦時書類』巻58より】。アッセル(Assel)出身。(114:東京習志野)

102)    Lührs(リュールス),Wilhelm?-?):海軍膠州砲兵隊第1中隊・砲兵伍長。1915125日付けの『徳島新報』2巻第11号によれば、トランプ競技「スカート」の伍長グループで960点を挙げて1位になった【1等賞品は不明であるが、2等賞品はソーセージだった】。ヴェストファーレンのルール河畔ヴェッター(Wetter)出身。(4225:「大阪」徳島板東)

103)    Lukas(ルーカス),Adolf1892-1958):海軍膠州砲兵隊第4中隊・1等砲兵。19161018日福岡から大分へ収容所換えになった。ドイツに帰国後の1920814日結婚して息子一人をもうけた。ラインヘッセンのヴォルムス郡ギムプスハイム(Gimbsheim)出身。(1279:福岡大分習志野)

104)    Lundルント,Peter E.?-?:第3海兵大隊・2等歩兵。久留米時代の1915102日、アール(Ahl)、ズィン(Sinn)、ツェルナー(Zoellner)の4名で脱走したが3名は同日捕まり、ズィンも5日に捕まった。宣誓解放された。アーペンラーデ(Apenrade)出身。(3490:熊本久留米)

105)    Lunzルンツ),Johann?-?):3海兵大隊7中隊・2等歩兵。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。下部フランケン地方のブリュッケナウ(Brückenau)出身。(1980:丸亀板東)

106)    Lütgens(リュトゲンス),Dr. Alfred1881-?:海軍東アジア分遣隊・予備少尉。[上海領事館副領事]。父はハンブルクでリュトゲンス=ライマース(Lütgens Reimers)曳航汽船の経営者だった。ローザンヌ、ハイデルベルク、ベルリン、キールで法律を学んだ。1904年司法官試補、19071118日第2軽騎兵連隊予備少尉。1910年から1年間ロンドンに滞在し、その後アメリカ、日本、中国、ジャワ、インドを数ヶ月旅した。1911年外務省に入省し、1913年上海領事館副領事となった。ヨハンナ(Johanna Soennecke)と結婚して一男一女をもうけた。1918322日福岡から習志野へ収容所換えになった。習志野時代、19198月に上演されたイプセン作の『幽霊』にアルヴィング夫人役で出演した。解放後の1920年外務省に復帰し、1928年ポーゼンの総領事館1等書記官、1939年に総領事になった。ハンブルク(Hamburg)出身。(1301:福岡習志野)

107)    Luthardt(ルートハルト),Eugen1895-1965):海軍砲兵中隊・1等筆生。板東時代の1919417日が開催された21キロの競歩大会において、ルートハルトは2時間3745秒で53位になった【『バラッケ』第44月号82頁】。「チンタオ戦友会」に出席した。ザクセン=マイニンゲンのシュタイバッハ(Steinbach)出身。(3006:松山板東)

108)    Luthmann(ルートマン),Hans1892-?:第3海兵大隊第6中隊・予備副曹長。[中国輸出入銀行]。松山時代の1915814日、名古屋の波越型染社から、染色技術を持つルートマン及び丸亀のフランツ(Oskar Franz)とペルツァー(Peltzer)の3名を雇い入れる希望をもって面接したいとの願い書が提出された【校條「名古屋俘虜収容所 覚書V」所載:『「青島戦ドイツ兵俘虜収容所」研究』第6号、18頁参照】。板東時代、191712月の懸賞作文に「平和な時代の戦争」を応募して佳作になった。また絵画と工芸品展覧会には写真による風景部門に「両親の家」を出品して二等賞を受賞した。また19185月、第2回懸賞作文で「羊飼いアスト」と「最初の通学」の二篇で1等賞を受賞した。ペンネームはアスト・ウント・シャハトで、「羊飼いアスト」は『バラッケ』第2巻第9号(1918526日号)に掲載された。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。エルベ河畔のハルブルク(Harburg)出身(『俘虜名簿』では上海)。2992:松山板東)

109)    Lux(ルクス),Franz Joseph1892-?):海軍膠州砲兵隊・1等砲兵。19161020日福岡から青野原へ収容所換えになった。解放後は蘭領印度のヴェルテフレーデンに渡った。低地シュレージエンのザブルゼ(Zabrze)出身。(1290:福岡→青野原)

110)    Luyken(リュイケン),Fritz1884-1970):第3海兵大隊重野戦榴弾砲兵隊・予備少尉。19071118日第39歩兵連隊予備少尉。ヴェストファーレンのジーゲン(Siegen)出身。(3492:熊本→久留米)