1) Maass(マース),Gustav(?-?):所属部隊・階級不明。[巡査]。青島時代は、市内中心のフリードリヒ街に住んだ。ベルリン(Berlin)出身。(3042:松山→板東)
2) Mache(マッヘ),Joseph(?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・2等砲兵。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に際して、美術の工芸木工部門で裁縫箱1点を出品した。上部シュレージエンのコーゼル(Kosel)出身。(3991:大阪→似島)
3) Madalencic(マダレンチッチ),Edmondo(?-?):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・1等水兵。1916年10月9日、マラチッチ(Maracic)等12名と青野原から丸亀に移送された。板東収容所へ移送後まもなくの1917年6月22日、イタリアの連合国加盟により宣誓解放された。高木大尉以下下士13名の付き添いの下、小松島港から徳島丸(共同丸?)で神戸に着き、同夜は栄町の「恵比須屋旅館」に投宿した。大正6年6月24日付『神戸新聞』には、その折の高木大尉を囲む記念写真、旅館でくつろぐ13名の解放俘虜の写真が掲載された。イストリアのブジェ(Buje)出身。(2317:姫路→青野原→丸亀→板東)
4) Madaus(マダウス),Heinrich(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。静岡時代、静岡物産陳列館や市内の商店で店頭装飾に携わった【参照:内野健一「静岡俘虜収容所について」;公開国際シンポジュウム(平成20年10月13日、於岡山大学)「日独文化交流史上の在日ドイツ兵捕虜とその収容所」第2部の発表要旨】。メクレンブルクのパルヒム(Parchim)出身。(1760:静岡→習志野)
5) Magener(マーゲナー),Louis(?-?):海軍膠州砲兵隊第4中隊・2等砲兵。板東時代の1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会において、マーゲナー(24歳)は2時間24分15秒5分の3で10位になった【『バラッケ』第4巻4月号80頁】。ハンブルク(Hamburg)出身。(4235:「大阪→」徳島→板東)
6) Mahnfeldt(マーンフェルト),Rudolf(?-?):第3海兵大隊第7中隊・後備伍長。丸亀時代、『丸亀日報』の編集長を務めた。板東時代の1917年7月1日、「Uボート戦について」の講演を行った。また「ドイツ近代史」の連続講義を31回に亘って行うなど多種多彩な数多くの講演を行った。『バラッケ』編集部員を務めた。グフィエン(Guvien)出身。(1993:丸亀→板東)
7) Mahnke(マーンケ),Hermann(1862-1944):国民軍・卒。[シュミット(F.H.Schmidt)商会土木建築監督]。1902年以来中国に住み、日本人の妻「Yakabe Kio,1885-1954」との間に四人の娘(後に5人目の娘が生まれた)がいた。青島時代はヴィルヘルム皇帝海岸通(Kaiser-Wilhelm-Ufer)に住んでいた。1915年9月20日、青島から大阪俘虜収容所に移送された。妻と子ども達は大戦終結まで青島に留まった。解放後は青島に戻り自分の建築事務所を開いたが、1925年満州奉天のヴィティッヒ商会(Wittig & Co.)で建築技師として勤めた。北京で没した。ポンメルンのシュトラールズント(Stralsund)出身。(4690:大阪→似島)
8) Mailänder(マイレンダー),Andreas(1892-1980):海軍膠州砲兵隊第4中隊・2等砲兵。〔イルチス砲台〕。ザールブリュッケン近郊クッツホーフ在住のハンス=ヨアヒム・シュミット(Hans-Joachim Schmidt)氏はインターネット上で、マイレンダーに関する興味深い大量の情報を記している。1985年末、夫妻が前年に購入した家の建替えを行うために、家の整理、片付けをしていたところ、屋根裏部屋から数多くの古い葉書、書類、パンフレット、ポスター、写真の入った長持を見つけた。それらは以前の所有者マイレンダーの遺品であった【〔写真14〕参照】。シュミット氏はそれら青島及び日本の収容所関連の遺品を、インターネット上で以下の6種に大別している。1)手書きの絵葉書(38点)。これらはマイレンダーが両親及び弟に宛てたもの、弟及び友人・知人から本人に宛てたもの、また日本各地の収容所に収容されていた俘虜から本人宛てのものに区別される。弟のアロイス(Alois)が1914年8月21消印でLandonvillersから差し立てた葉書は、日本軍により陥落した後に青島に届き、1915年始めになってマイレンダーの手元に渡ったと見られる。また特に、1914年11月18日にマイレンダーが両親に宛てた絵葉書は、確認されている俘虜郵便の中でも最初期に属するものである。その内容は次の通りである。「お父さん、お母さん、僕は元気でここ福岡に着きました。お父さん、お母さんもお変わりないことと思います。青島で起こったことについては、新聞で読まれたことでしょう。では、またそのうちに。僕達はこの日本が気に入っています。日本の福岡俘虜収容所にて、2等砲兵マイレンダー」。また知人からの葉書には、スウェーデン等の「Globus」(地球連盟)会員からのものが数通ある。このことからマイレンダーはこの「Globus」の会員であったと推測される。他の収容所俘虜からのものを記すと、ハインリヒ・プリルヴィッツ(Heinrich Prillwitz;徳島俘虜収容所)から本人(福岡俘虜収容所)宛て、ハインリヒ・エンゲル(Heinrich Engel;大阪俘虜収容所)から本人(福岡俘虜収容所)宛て、ヨーハン・ベーレン(Johann Behren;大分俘虜収容所)から本人(福岡俘虜収容所)宛て、ペーター・ケルナー(Peter Körner;習志野収容所)から本人(大分俘虜収容所)宛て、ヨーゼフ・ラングハイム(Joseph Langheim;板東俘虜収容所)からハインリヒ・シュペーラー(Heinrich Spöler;大分俘虜収容所)宛て、ルートヴィヒ・ビューヒ(Ludwig Büch;板東俘虜収容所)から本人(習志野俘虜収容所)宛て、ヴィルヘルム・マルティーン(Wilhelm Martin;青野原収容所)から本人(習志野俘虜収容所)宛て、ヤーコプ・ケーニヒ(Jakob König;久留米俘虜収容所)から本人(習志野収容所)宛て、ヴィルヘルム・シュロッターベック(Wilhelm Schlotterbeck;青野原俘虜収容所)から本人(習志野俘虜収容所)宛てである。2)他の手書き文書(4点)。これは収容所時代の支払い領収書等の他、1918年5月21日に、クッツホーフの父親から東京のジーメンス・シュッケルト社東京支社を通じて、25マルクの送金があり、300マルク=100円の当時の為替レートから、8円33銭が渡されたことを示す珍しい領収書も遺されている。また、ヨーハン・ヘルマン(Johann Hermann:久留米俘虜収容所から解放後に蘭領印度)からクッツホーフの本人宛ての手紙がある。3)写真(11点)。1912年当時の本人の写真。1914年福岡収容所における、イルチス山守備隊だった海軍膠州砲兵隊第4中隊の集合写真(この中には、クリューガー(K.Krüger)も写っている)。収容所時代の遠足の写真(福岡時代か?)。大戦終結後帰国してからの婚礼の写真(1921年、エンマ・ギール:Emma Gihrと結婚)。1960年当時の自宅の写真等である。4)絵葉書(12点)。青島の破壊された砲台や耶馬溪(大分)の滝と断崖の写真等。5)グラフィック(5点)としては、1918年の習志野でのクリスマス、鉄条網に止まるすずめ、1919年末の喜福丸乗員からの幸運を祈るカードがある。6)催し物のプログラムは24点あり、大分時代の1916年のクリスマス、習志野収容所楽団コンサート、男性合唱団の民謡の夕べ、演劇、体操の夕べ等に関するものである。マイレンダーのこれらの資料は、『クッツホーフから中国、日本へ アンドレーアス・マイレンダーの1912〜1920年にわたるオデッセイの旅』(Von Kutzhof nach China und Japan.Die Odyssee des Andreas Mailänder 1912-1920,von Hans-Joachim Schmidt und Karl Heinz Janson)として2001年に本となった。1916年10月18日、ビアルハ(Bialucha)等68名とともに福岡から大分に移送され、1918年8月8日には習志野へ移送された。また、上掲書によるとマイレンダーは第二次大戦後、エーベリング(Ebeling)、ハンス(Hanns)、ヘス(Höss)、コルト(Kort)、レヒナー(Lechner)及びハンス・フォン・マルティーン(Hans von Martin)中尉とコンタクトを取った。なお、マイレンダーは妻に先立たれ、息子を洪水で亡くすなど、晩年は孤独の内に過ごした。70歳を過ぎた昭和40年代、名古屋に住む日本の女子高生と文通をしたことが、遺された手紙の束から判明した。その女子高生は、習志野市教育委員会の星昌幸氏の調査によって特定された。マイレンダーは習志野時代をしきりに懐かしがっていたとのことである。ザールブリュッケン近郊のクッツホーフ(Kutzhof)出身。(1332:福岡→大分→習志野)
9) Majunke(マーユンケ),Gustav Karl(1892-?):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。板東時代、「ドイツ兵墓碑」の建設に際して石積み工事を担当した。ライプチヒ(Leipzig)出身。(1989:丸亀→板東)
10) Makowiz(マコヴィッツ),Richard(?-?):巡洋艦皇后エリーザベト艦長・海軍大佐。1918年3月22日福岡から習志野へ収容所換えになった。1919年12月28日喜福丸で横浜を出航して帰国の途に着いた。ドイツのヴィルヘルムスハーフェン到着からオーストリアへの帰国風景を報告書として残した。それによると、ドイツでは大歓迎であったにもかかわらず、オーストリアでは帝国が瓦解して見向きもされなかったといわれる。トリエステ(Triest)出身。(1315:福岡→習志野)
11) Mallon(マロン),Ernst(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等焚火兵。[青島港湾局]。板東時代の1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会において(当時27歳)、2時間38 分54 秒5分の3で62位になった【『バラッケ』第4巻4月号82頁】。シュヴェッツ(Schwetz)出身。(3034:松山→板東)
12) Maltzahn(マルツァーン),Adolf(?-?):第3海兵大隊第6中隊・後備上等歩兵。1916年(月日不明)、「組長ヨリ馬鈴薯ノ皮剥ヲ命セラレ他人ヲシテ自己ノ任務ヲ代理セシメタル科」で重営倉3日の処罰を受け、また「入倉中不謹慎ナル態度ニ出デタル科」により更に加罰15日を受けた。オルデンシュタット(Oldenstadt)出身。(2634:名古屋)
13) Mändler(メントラー),Arnold(?-?):所属部隊不明・階級不明。1919年3月4日から広島県物産陳列館で開催された、似島獨逸俘虜技術工藝品展覧會のために発行された「似島獨逸俘虜技術工藝品展覧會目録」の26頁には、メントラー経営の薬局のイラストが掲載された。大戦終結後は、青島での就職既定者として日本国内で解放された。ミュンヘン(München)出身。(4564:大阪→似島)
14) Mangold(マンゴルト),Martin(?-?):海軍膠州砲兵隊。1等砲兵。1915年12月、福岡で宣誓解放された。ラッポルツヴァイラーのアマーシュヴァイラー(Ammerschweiler)出身。(1325:福岡)
15) Manitz(マーニッツ),Richard(?-?):第3海兵大隊第4中隊・後備上等歩兵。久留米時代の1915年10月4日、「久留米体操クラブ(Turnverein Kurume)が設立されたが、その第2代並びに第6代会長を務めた。大戦終結後は、日本内地契約成立者として、日本内地で解放された。ザクセンのレーバウ(Löbau)出身。(3512:熊本→久留米)
16) Mann(マン),Paul(1880-?):海軍東アジア分遣隊・海軍中主計(中尉相当)。1900年4月2日海軍入りし、1907年12月21日海軍少主計(少尉相当)、1911年10月14日中主計に昇進し、天津の海軍東アジア分遣隊に派遣された。1918年8月4日久留米から青野原へ収容所換えになった。ベンネミューレン(Bennemühlen)近郊のエルゼ(出身)(615:久留米→青野原)
17) Maracic(マラチッチ),Petar(?-?):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・1等水兵。1916年10月9日、ピンスキー(Pinski)等12名と青野原から丸亀に移送された。板東収容所へ移送後まもなくの1917年6月22日、イタリアの連合国加盟により宣誓解放された。高木大尉以下下士13名の付き添いの下、小松島港から徳島丸(共同丸?)で神戸に着き、同夜は栄町の「恵比須屋旅館」に投宿した。大正6年6月24日付『神戸新聞』には、その折の高木大尉を囲む記念写真、旅館でくつろぐ13名の解放俘虜の写真が掲載された。イストリアのポンテ(Ponte)出身。(2318:姫路→青野原→丸亀→板東)
18) Markl(マルクル),Georg(1888-1950):海軍膠州砲兵隊第2中隊・2等砲兵。[ゲルマニア・ビール醸造所]。ヴュルツブルクに住む姪のロッツェン夫人(Coletta Lotzen)から、マルクルの情報が寄せられた。資料としては、写真6点と葉書数点が遺されている【メッテンライター『極東で俘虜となる』81-82頁 】。マイン河畔のクニッツカウ(Knitzkau)出身。(4412:「熊本→」大分→習志野)
19) Marr(マル),Walther(?-?):第3海兵大隊第2中隊・後備伍長。1914年9月28日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米俘虜収容所に送られた。同年10月21日、東京市に住むマル夫人から俘虜情報局へ夫の安否問い合わせがあった【『欧受大日記』大正三年十一月上より】。身内と思われるマリアンネ・マル(Marianne Marr)嬢は1914年末、天津領事館内のシェルホス(Schellhos)夫人の元に住んでいた【シュミット】。収容所ではクルーゲ(Kluge)と親しかった。1919年12月のクリスマスは、ヘルビヒ(Helbig)、クルーゲ及びヴルフ(Wulff)の四人で過ごした。12月29日のクルーゲの出発前夜、マルはクルーゲと二人で別れを惜しんだ。解放後は日本に残留した。ハンブルク(Hamburg)出身。(597:久留米)
20) Martin(マルティーン),Friedrich(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[カルロヴィッツ香港支店]。板東時代、1917年5月に松山俘虜収容所からの人員を加えて拡大した「エンゲル・オーケストラ」の団員で、第2ヴァイオリンを担当した。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。ハノーファー(Hannover)出身。(3028:松山→板東)
21) Martin(マルティーン),Hans von(1885-1973):海軍膠州砲兵隊・海軍中尉。〔衙門砲台指揮官〕。青島時代はビスマルク街(Bismarckstraße;日本の占領統治時代は万年通)に住んでいた。1917年2月18日、大阪から似島に収容所替えで移る際、鳥篭を提げながら梅田駅まで歩いて異彩を放った。解放後の1920年1月30日【1915年10月17日発令】海軍大尉に昇進し、同年3月8日に退役した。第二次大戦を期に現役に復帰し、1940年12月31日から1941年11月22日まで、シェルブール(Cherbourg)のノルマンディー海防部隊司令部で、海軍少佐として参謀将校の任に当たり、1941年11月23日から1944年8月まで、ル・ハーヴル(Le Havre)の海軍砲兵第266部隊司令官であった。マイレンダー(Mailänder)が第二次大戦後にコンタクトを取った人物【『クッツホーフから中国、日本へ』55頁】。シュレージエンのローテンブルク(Rothenberg)出身。(3979:大阪→似島)
22) Martin(マルティーン),Robert(1888-?):海軍野戦砲兵隊・陸軍少尉。1907年7月バイエルン陸軍に入隊した。1914年8月、第3海兵大隊の海軍野戦砲兵隊に属す。1914年12月24日付けで陸軍中尉となった。松山時代、ゾルガー(Solger)予備少尉及びゴルトシュミット(Goldschnidt)予備副曹長とともに『陣営の火』の編集に当り、また板東でも『バラッケ』の編集に当たった。1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会においては(当時30歳)、2時間43 分11 秒5分の2で85人中の71位になった【『バラッケ』第4巻4月号82頁】。1920年1月30日【1916年10月5日発令】陸軍大尉に昇進し、同月10日陸軍に入った。ミュンヘン郊外のアマーゼー(Ammersee)湖畔のディーセン(Diessen)出身。(3014:松山→板東)
23) Martin(マルティーン),Wilhelm(?-?):海軍膠州砲兵隊・2等砲兵。1916年9月25日、トルトゼン(Thordsen)等90名とともに福岡から青野原へ収容所換えになった。青野原時代の1919年6月16日、習志野のマイレンダー(Mailänder)に宛てて葉書を出した。葉書は上海の中国相互生命保険のビルディングを撮った絵葉書である。【マイレンダーの項参照】。ザールブリュッケン近郊のクヴィルシート(Quirschiet)出身。(1350:福岡→青野原)
24) Martinovic(マルチノヴィッチ),Rudolf(?-?):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・1等水兵。1916年10月9日、マラチッチ(Maracic)等12名と青野原から丸亀に移送された。板東収容所へ移送後まもなくの1917年6月22日、イタリアの連合国加盟により宣誓解放された。高木大尉以下下士13名の付き添いの下、小松島港から徳島丸(共同丸?)で神戸に着き、同夜は栄町の「恵比須屋旅館」に投宿した。大正6年6月24日付『神戸新聞』には、その折の高木大尉を囲む記念写真、旅館でくつろぐ13名の解放俘虜の写真が掲載された。ダルマチア(今日はクロアチア)のツァラ(Zara)出身。(2331:姫路→青野原→丸亀→板東)
25) Martwieg(マルトヴィーク),Richard(?-?):海軍膠州砲兵隊第1中隊・後備1等水兵。[ホテル駅舎亭(Hotel Zum Bahnhof)経営]。青島のホーエンツォレルン街(Hohenzollelun Straße)にあった「ホテル駅舎亭」の経営者であった。妻と娘は1914年末時点で天津のドイツ兵営23号室に住んでいた。1915年1月1日シベリヤ号で郷里に帰った。似島時代の1919年3月に開催された広島県物産陳列館の似島独逸俘虜技術工芸品展覧会カタログによれば、マルトヴィヒは「水兵館」を経営していた。「ビール、各種アルコール、自慢料理:ハンブルク・砕氷船、営業夕方9時半まで」等の文字のほか、オーナーのマルトヴィヒと思われる人物等の、味わいあるイラストが描かれている。【『俘虜名簿』では「Martwig」となっているが、シュミット氏のHPの表記に従った】。ポンメルンのシュテティン(Stettin)出身。(3980:大阪→似島)
26) Marufke(マルフケ),Hans R.M.(?-1933):総督府・予備伍長。[フォークト継続社(Fr.Vogt Nachflg.)]。青島時代はフリードリヒ街に住んだ。習志野時代、習志野演劇協会監督を務めた。1919年1月8日と9日、収容所で演じられたハウスライターとライマン作の3幕の茶番劇『電話の秘密』等の演出を担当した。同年3月5日に開催された「朗読の夕べ」では、ミュンヒハウゼン作の「スヴェンダラントの漁師」を朗読した。8月12日の習志野演劇協会によるベネディクス作の喜劇『親戚の情愛』及びエルンスト作の喜劇『フラックスマン先生』(上演年月日不明)の演出をするなど、習志野における演劇活動では最も活躍した。1919年10月5日には、「ハンス・マルフケのための謝恩の夕べ」が開催された。二部構成になる音楽と演劇の夕べで、第二部の演劇では、自身がハラーシュタイン作の1幕の茶番劇『射撃手と空クジ』の演出をするとともに主役を演じた。【シュミット氏のホームページの「ゲストブック」に寄せられたブリギッテ・マルフケ(Brigitte Marufke)という名の女性によれば、マルフケは1933年にフランクフルトで没し、二人の息子がいたとのことである。なお、2008年2月、マルフケの孫のアンドレーアス・マルフケ(Andreas Marufke)氏から星昌幸氏に宛ててメールが届いた。ポーゼンのブロンベルク(Bromberg)出身。(1762:静岡→習志野)
27) Massmann(マスマン),Ernst A.(?-?):第3海兵大隊第3中隊・予備伍長。[天津‐浦口鉄道]。解放後は再び中国へ渡りった。1925年維県のベルター=ニッゲマン(Börter & Niggemann)商会の代理人を務めた。ホルシュタインのハイリゲンハーフェン(Heiligenhafen)出身。(4405:「熊本→」大分→習志野)
28) Mathar(マタール),Paul(1892-1983):第3海兵大隊第4中隊・2等歩兵。ラインラントのカルターヘルベルク(Kalterherberg)出身。(610:久留米→板東)
29) Matheis(マタイス;Mathais?),Gustav(1895-1915):海軍膠州砲兵隊第2中隊・1等砲兵。1915年4月13日静岡で死亡、軍人墓地に埋葬された。静岡県安倍郡千代田村沓谷(当時)の陸軍埋葬地に埋葬された。この埋葬地には、日独戦争における戦病死下士卒の慰霊碑「大正三、四年戦役戦没戦病死下士卒碑」が建立されている。題字は青島攻囲軍司令官神尾光臣中将の書になる。埋葬地(約2200坪)は、現在も旧陸軍墓地として護られている。『欧受大日記 大正十三年』の「獨逸人戦没者墓地名簿」によれば、墓石は大正7年頃建設され、建設費等は不明とのことである。高さ二尺六寸、幅二尺四寸五分、奥行き九寸の馬蹄型の墓碑には、「Hier ruht der Matrose-Artillerist Gust.Mathais (geb.10.1.95. gest.13.4.15.) in Gott. Er starb den Heldentod fürs Vaterland」(1等砲兵グスタフ・マタイスここに眠る。祖国の英雄として没す)の銘文が刻まれている。階級・氏名・生没年は、馬蹄型の碑の中央に縁取られた十字架内に刻まれている。【1918年9月付けの、F.パラヴィチーニ博士(在ジュネーヴ赤十字国際委員会駐日代表)の報告によれば、マタイスの死因は頭部に受けた銃創により引き起こされた急性化膿性髄膜炎とのことである。参照:大川四郎編訳『欧米人捕虜と赤十字活動 パラヴィチーニ博士の復権』209頁】。バーデンのエットリンゲン(Ettlingen)出身。(1753:静岡)
30) Mathes(マテス),Heinrich(1884-1958):第3海兵大隊工兵中隊・副曹長。解放されて帰国後に結婚したアンナ(Anna)との間に子どもはいなかった。ハイデルベルク近郊のヒルシュボルン(Hirschborn)出身。(3038:松山→板東)
31) Mathiesen(マティーゼン),Eduard(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等砲兵。福岡時代の1916年(月日不明)、逃亡未遂を起こしたモッデ(Modde)少尉付き卒であった。取り調べを受けたが、本人はリュウマチに苦しんでいて、モッデのためにレインコートを買った事実のみ認め、逃亡の事は知らなかったと述べた。またモッデも単独による行動であったと陳述したが、「俘虜ノ逃走ヲ幇助シタル科」で懲役2ヶ月に処せられた。1916年10月20日福岡から青野原へ収容所換えになった。シュレースヴィヒ=ホルシュタインのアーペンラーデ近郊ローテンクルーク(Rotenkrug)出身。(1338:福岡→青野原)
32) Mathieu(マテュー),Karl(?-?):海軍野戦砲兵隊・2等野戦砲兵。宣誓解放された。上部エルザスのサン=クルス(St.Kreuz)出身。(2628:名古屋)
33) Matthias(マティーアス),Fritz(1882-?):砲艦ヤーグアル艦長・海軍大尉。1914年7月31日の夕刻、ヤーグアル艦長に任命されたばかりのマティーアス大尉は、上海から英仏露の艦船を避けながら翌8月1日朝青島に辿りついた。11月7日未明の2時半に、青島独軍最後の軍艦ヤーグアルを自沈させた。静岡俘虜収容所の俘虜代表を務めた。【1918年9月付けの、F.パラヴィチーニ博士(在ジュネーヴ赤十字国際委員会駐日代表)の報告によれば、マティーアスは強度の神経衰弱を病み、絶えず物音を立てては周囲に迷惑をかけていたとのことである。特に、夜間にその症状が顕著とのことだった。参照:大川編訳『欧米人捕虜と赤十字活動 パラヴィチーニ博士の復権』216頁】。習志野時代、誕生日に元ヤーグアル乗員から砲艦ヤーグアルの模型を贈られた。ベルリン(Berlin)出身。(1764:静岡→習志野)
34) Matthiesen(マティーゼン),Hans(?-?):国民軍・階級不明。〔水先案内人〕。妻マティルデ(Mathilde)は大戦終結まで上海で暮らした。シュレースヴィヒ=ホルシュタインのデュッペル(Düppel)出身。(4562:大阪→似島)
35) Matutat(マトゥタート),Paul(?-?):第3海兵大隊第4中隊・2等砲兵。1915年7月11日福岡から久留米へ収容所換えになった。久留米時代は演劇活動で、クリーク作の笑劇『困惑の花嫁』等8演目に出演した。ヴィッテンベルゲ(Wittenberge)出身。(1351:福岡→久留米)
36) Matz(マッツ),Erich(?-?):第3海兵大隊予備榴弾砲隊・後備伍長。青島時代はハンブルク街のベルリン街側角に住んでいた。大戦終結後は、青島での就職既定者として日本国内で解放された。出身地不明(『俘虜名簿』では青島)。(2617:名古屋)
37) Matzen(マッツェン),Heinrich(?-?):第3海兵大隊第1中隊・予備上等歩兵。久留米の演劇活動では、リンダウ作『もう一人の男』に女役で出演した。宣誓解放された。1954年11月6日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。ハンブルク(Hamburg)出身。(586:久留米)
38) Mätzold(メツォルト),Gustav(?-?):海軍東アジア分遣隊第2中隊・2等歩兵。年号は不明であるが、5月24日付けで天津在住のキルン(E.Kirn)に宛てた俘虜郵便が遺されている。葉書の内容は以下であるが、ベールマン(L.Beermann)が最後に寄せ書きしている。「親愛なるキルン様! 今日、再び貴方に宛てて筆を執っております。数日前、比較的大きな地震がありましたが、私たちには何事も起こりませんでした。健康の面でも元気にしています。多分貴方様も同様と思います。聖霊降臨祭のお祝いを申し上げます。グスタフ・メツォルト 私からも聖霊降臨祭のお祝いを申し上げます。L. ベールマン」【高知県土佐市在住の郵趣家河添潔氏所蔵の俘虜郵便より】。ザクセンのエツォルツハイン(Etzoldshain)出身。(1754:静岡→習志野)
39) Mau(マウ),Konrad(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[ハンブルク・アメリカ汽船上海支店]。ホルシュタインのカルテンキルヒェン(Kaltenkirchen)出身。(3031:松山→板東)
40) Mau(マウ),Kurt(?-?):海軍膠州砲兵隊第3中隊・1等砲兵。[鷲屋薬局]。青島時代はフリードリヒ街に住み、オットー・リンケ(Otto Linke)経営の鷲屋薬局に勤めていた。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。ベルリン(Berlin)出身。(3993:大阪→似島)
41) Maurer(マウラー),Werner(1882-?):海軍野戦砲兵隊・海軍中尉。〔要塞車厰第1次指揮官〕。青島時代はアーダルベルト皇子街(Prinz-Adalbert-Straße)に住んでいた。松山時代の1915年12月、製菓所を設立する際に中心的役割を果たし、これが後の板東での製菓・製パン所に繋がった。また山越の講習会では軍事学を講じた。ベルリン(Berlin)出身。(3012:松山→板東)
42) Maus(マウス),Karl(?-?):海軍砲兵中隊・2等水兵。久留米時代の1917年1月28日、W.アンドレーアを仲間18人で殴打し、傷害罪により1月の懲役刑を受けた。ホルシュタインのメルドルフ(Meldorf)出身。(3535:熊本→久留米)
43) May(マイ),Gustav(?-?):海軍膠州砲兵隊・予備2等砲兵。1916年10月20日福岡から青野原へ収容所換えになった。1918年12月13日から20日まで開催された青野原俘虜製作品展覧会で、マイは模型部門で外洋漁船を出品した【『AONOGAHARA捕虜の世界』78頁】。ハンブルク(Hamburg)出身。(1354:福岡→青野原)
44)
May(マイ),Oskar(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[商社員]。開戦前、広東近くの英仏共同租界沙面島でバールト(Barth)と一時期一緒であったが、バールトとは別の商社に勤めていた。板東俘虜収容所でもバールトとは一緒になった。板東近くの坂西農業学校で、フェルヒネロフスキー(Felchnerowski)およびルードルフ【Karl
Rudorffか、あるいは Walter Rudolphか?】の三人で体操の実地指導をした。第2次大戦中にベルリンで偶然バールトに出会ったという。その兄は中国人女性と結婚して二人の娘があったが、その内の一人ヘレーネ・マイ(Helene May)は東京のドイツ人の間で有名だった【ヨハネス・バールト『極東のドイツ人商人』41頁】。1989年2月、娘のエリカ・ヴルコップは夫と25歳になる息子を伴って板東俘虜収容所跡を訪問した【横田新『板東俘虜収容所長
松江豊寿』134頁】。2003年6月、ブラウンシュヴァイクで開催された「第2回ベートーヴェン『第九』里帰り公演」に際して、娘のエリカ・ヴルコップから、マイの著作『板東におけるわれわれの体操』の原本が鳴門市ドイツ館に寄贈された。2005年11月17日、孫のテース・ヴルコップがシュミット氏のホームページの「訪問者欄」に、祖父が資料や写真を遺してくれた旨の書き込みをした。キール(Kiel)出身。(3030:松山→板東)
45) Maye(マイエ),Erich(?-?):海軍膠州砲兵隊第3中隊・1等砲兵。徳島時代の1916年10月、バール(Alwin Bahr)、ベーマー(Boehmer)、フィッシャー(Paul Fischer)、グレックナー(Glöckner)、ヘフト(Max Hoeft)、ライポルト(Leipold)の7名で徳島市の円藤鉄工所に鋳造等の労役で派遣された。1日8時間、賃金・期間は不明。ライプチヒ(Leipzig)出身。(4229:「大阪→」徳島→板東)
46) Mayer(マイアー),Paul(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[青島郵便局]。ロートリンゲン(Lothringen)のディーデンホーフェン(Diedenhofen)出身。(3036:松山→板東)
47) Mayer(マイアー),Wilhelm(?-?):海軍膠州砲兵隊第3中隊・2等砲兵。徳島時代の1915年4月20日、チェス選手権試合が開催された。それに出場したマイアーは4組(出場者総数21名)の内の第3組に割り振られ、第2位で本戦A級に進出した【『徳島新報』1915年4月25日第4号より】。ケルン(Köln)出身。(4231:「大阪→」徳島→板東)
48) Mechelke(メヒェルケ),Paul(?-?):海軍膠州砲兵隊第1中隊・砲兵伍長。1915年9月15日福岡から習志野へ収容所換えになった。習志野時代、収容所内の数学の学習グループでの最強のチェスの打ち手だった。ケーニヒスベルク(Königsberg)出身。(1317:福岡→習志野)
49) Mechtersheimer(メヒテルスハイマー),Carl(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・予備砲兵伍長。生家はヴュルテンベルクの牧師館であった。1915年9月15日福岡から習志野へ収容所換えになった。習志野時代、クリューガー(Karl Krüger)と同じ部屋に住んだ。牧羊犬ほどの大きさの黒い犬を飼っていた。ハイデルベルク(Heidelberg)出身。(1333:福岡→習志野)
50) Meckel(メッケル),Heinrich(?-1942):第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。「ドイツ兵墓碑」の建設に際して石積み工事を担当した。ヘッセン=ナッサウのアウル(Aull)出身。(2001:丸亀→板東)
51) Medvidovici(メドヴィドヴィッチ),Josef(?-?):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・3等下士。1916年(月日不明)、ヒメルチェク(Chmelicek)とクナイフル(Kneifl)の三人で共謀して逃走をした科で重営倉30日に処せられた。青野原時代の1918年12月13日から20日まで開催された俘虜製作品展覧会で、メドヴィドヴィッチのグループは編み物・レース編み部門で、ハンモック、絨毯、ベッド用マット、テニスボール入れ等8点を出品した【『AONOGAHARA捕虜の世界』82頁】。ダルマチアのカステルノヴァ(Castelnova)出身。(2312:姫路→青野原)
52) Mehlis(メーリス),Peter(1893-1919):海軍東アジア分遣隊第1中隊・2等歩兵。1919年1月31日習志野で死亡。アンデルナッハ(Andernach)近郊のプライト(Plaidt)出身。(157:東京→習志野)
53) Meie(マイエ),Albert(?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・2等砲兵。1954年11月6日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。その会で写されたと思われる、パヴェルツィヒ(Pawelzig)と氏名不詳の三人で撮った写真がシュミット氏のホームページで紹介されている。アルトナ(Altona)出身。(3538:熊本→久留米)
54) Meier(マイアー),Otto(1887-?):海軍砲兵中隊・1等主計候補生。青島時代はティルピッツ街(Tirpitzstraße;日本による占領統治時代は忠海町)に住んでいた。キール(Kiel)出身。(3037:松山→板東)
55) Meier(マイアー),Richard(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[北京電灯会社(Pkg Electr.Light Co.)]。ハノーファー(Hannover)出身。(3024:松山→板東)
56) Meiners(マイナース),Ewald(?-?):海軍砲兵中隊・1等水兵。熊本時代1915年3月1日、収容先の定禅寺の禁止室に入り、自己の娯楽室を設けるために建物を壊した科で、歩兵第13連隊の営倉で重営倉2日の処罰を受けた。ブラウンシュヴァイク(Braunschweig)出身。(3533:熊本→久留米)
57) Meinsen(マインゼン),Wilhelm(1892-1956):第3海兵大隊第5中隊・上等歩兵。板東時代、1917年5月に松山俘虜収容所からの人員を加えて拡大した「エンゲル・オーケストラ」の団員で、コントラバス、後にテノール・ホルンを担当した。また1917年7月17日に発足した「収容所保険組合」に、第5中隊代表となって運営に従事した。第7棟5室では、ザウアー(Sauer)及びフェッター(Vetter)とともに洗濯屋を営んだ。大戦終結して解放後は、蘭領印度のセマラン(Semarang)に渡った。ヴェストファーレンのペテルスハーゲン(Petershagen)出身。(3019:松山→板東)
58) Meiser(マイザー),Martin(?-?):第3海兵大隊第2中隊・伍長。[ドイツ・アジア銀行青島支店]。丸亀時代の1915年12月8日、官憲の求めにより護送員の歩兵第12連隊斉藤弥平太中尉と共に青島に赴き、12月26日に丸亀に戻った【『丸亀俘虜収容所日誌』より。青島に赴いた理由は不明であるが、収容中の俘虜が青島に赴いた例としては、ギュンター(Günther)元民政長官の例、及び大阪俘虜収容所での例がある。マイザーと大阪の例は、ドイツ・アジア銀行の資産・帳簿に関するものと推測される。大阪毎日新聞(大正4年12月4日夕刊)は次のように記している。「大阪に収容中の青島俘虜元独亜銀行青島支店長外二名に就いては、爾来青島軍政署に於て取調中なりしが、今回実地に検証するの必要起り、青島軍政署より俘虜収容所に向け一名護送すべき旨、通知ありたるを以て、大阪俘虜収容所にては三日朝、独亜銀行支店長一名に憲兵及び護衛兵二名を附し、神戸に護送し、陸軍運輸部神戸出張所に一時収容の上、午前十一時半御用船寧静丸にて青島に送致したり」】。ライプチヒ(Leipzig)出身(『俘虜名簿』では青島)。(1983:丸亀→板東)
59) Meissner(マイスナー),Josef(?-?):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・3等機関下士。青野原時代、1918年12月13日から20日まで開催された俘虜製作品展覧会では、鉛筆画6点を出品した【『AONOGAHARA捕虜の世界』69頁】。ボヘミアのオッテンドルフ(Ottendorf)出身。(2313:姫路→青野原)
60) Meißner(マイスナー),Kurt(1885-1976):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。〔イルチス砲台〕。[ライボルト機械商会(L.Leybold & Co.)東京支店]。父親はハンブルクの出版社主で、カール・マルクスの著書を初めて出版したことで知られるオットー・マイスナーであった。1905年12月末、日露戦争終結により俘虜となっていた日本軍将兵が解放され、メドヴェージ村(サンクトペテルブルクの南180キロ)の収容所からドイツ経由で帰国した。その際、日本人たちのハンブルク市内見物の案内役を務めた【吹浦忠正『捕虜たちの日露戦争』、120頁】。ハンブルク大学で学んだ後1906年、ジーモン・エーヴェルト商会の日本駐在員として来日した。1907年ライボルトが死去すると、商会の第二代社長に就いた。滞日8年余の時点で応召し、日本の最後通牒が発せられた8月15日に青島に到着した。日本語は堪能で、当初は松山の大林寺に収容され、そこの収容所講習会で日本語の講師を務めた。板東では本部主計事務室で松江所長の通訳をした。板東収容所内印刷所から『日本語日常語教科書』、『日本地理』、『日本日常語授業』を出した。大戦終結後も日本に滞在し、神田伯竜の講談で知られた『阿波狸合戦』等を独訳し、他に『日本におけるドイツ人の歴史』の著作もある。『バラッケ』1919年6月号には、マイスナーによる「狸の歴史」という文章が掲載されている。1920年から1945年まで25年間、ドイツ東洋文化研究協会(OAG)の指導的な地位に就き、会長も務めた。1963年秋、郷里ハンブルクに帰り、自宅を「七夕荘」と称した。ハンブルク(Hamburg)出身。(3025:松山→板東)
61) Melchers(メルヒャース),Dr.Bertram(?-?):第3海兵大隊第6中隊・予備伍長。[済南ドイツ学校(中国人用)講師]。ブレーメン(Bremen)出身。(1759:静岡→習志野)
62) Meller(メラー),Wilhelm(1884-1962):第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。[上海・テルゲ・ウント・シュレーター商会(Telge & Schroeter)]。【メラーの以下の足跡は、息子のメラー(Adolf Meller)氏の後記文献に依拠した】。大戦勃発後の1914年8月6日、上海から鉄道で南京、済南と乗り継ぎ、青島に向かった。上海からの列車には、「マルコ・ポーロ号」乗員のイタリア人8人が乗り込んでいた。内一人はフランス語を話し、彼の言によれば北京に赴き、そこから青島に向かって「プリンツ・アイテル・フリードリヒ号(Prinz Eitel Friedrich)」に乗り組むとのことであった。メラーは8月8日正午過ぎ青島に着き、翌日身体検査を受けた。軍医からは極度の近視で、かつ右目の瞳孔が右上部にずれているとの診断を下された。当初は第6中隊に配属されたが、戦闘後に第7中隊へ配属換えになった。9月下旬のある夜、小さな穴に落ちて足を怪我したが、それでも3週間あまり戦闘勤務に就いた。やがて足が膨れ上がり、10月20日総督府衛戍病院に運ばれたが、日本軍の攻撃のため衛戍病院は閉鎖されていて、補助病院となっていたプリンツ・ハインリヒ・ホテルにすぐに移された。11月1日の午後遅く、一時日本軍の砲撃が止むと、新鮮な空気を吸うために、上海からの知り合いであるシュレーゲル(Schlögel)予備伍長とともに衛戍病院裏の丘に登った。二人はオーストリアの巡洋艦皇后エリーザベトが自沈するのを目撃した。11月12日に沙子口から貨物船「福洋丸」で日本に向かった。朝日ビール2本に船内では1ドル支払った。多度津から丸亀までは二列になって行進させられたが、メラーはシュナイダー(Eugen Schneider)伍長と並んで歩いた。丸亀俘虜収容所では中国語のグループ授業に参加した。その折の授業風景と本を積み重ねた机の前に座るメラーの写真が遺されている【〔写真2〕を参照】。板東俘虜収容所に移ってからも中国語の勉強を続けたが、ある時軍医から眼をいたわらないと失明する恐れがあると言われ、以後中国語の勉強をあきらめて、出来るだけ屋外の緑に眼を向けるようにした。そんなことから伐採の仕事には積極的に参加した。メラーの1919年12月24日のクリスマスイヴの日の日記には、「今夜は部屋の静かな片隅で、ハリー・メラー(Harry Möller)とグスタフ・アルスレーベン(Gustav Alsleben)の三人で、メラー(Möller)のウサギを食べる」との記述がある。メラーは板東俘虜収容所で発行された新聞『バラッケ』や、送還船「豊福丸」内で発行された新聞『帰国航』を保存して遺した【メラー『青島守備軍の運命』より】。ドイツに帰国後の1920年3月20日マリー(Mary Bahr)と結婚し、1921年再び中国に渡った。1923年には上海で息子のアードルフが生まれた。1925年上海のローデ(Rohde Co.)商会に勤め、後にメルヒャース(Melchers & Co.)商会に勤務した。1937年10月14日家は日本軍の空襲で破壊された。1950年上海から強制帰国させられ、1950年10月7日ケルンに着いた。ボルンシュテート(Bornstedt)出身。(1998:丸亀→板東)
63) Mengel(メンゲル),Karl(1892-1978):海軍膠州砲兵隊第2中隊・2等砲兵。ヘッセン=ナッサウのベーブラ(Bebra)出身。(3989:大阪→似島)
64) Mengeringhausen(メンゲリングハウゼン),Heinrich(?-1915):第3海兵大隊第2中隊・伍長。1915年2月7日青島で死亡、青島欧人墓地内のドイツ人戦没者墓地に埋葬された。ブレスラウ近郊のラートベルク(Radberg)出身。(4664:青島)
65) Menke(メンケ),Eduard(?-?):総督府・海軍2等筆記。板東時代、板東クリケット協会「壮年」の主将を務めた。板東時代の1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会においては(当時25歳)、2時間33分00秒で37位になった【『バラッケ』第4巻4月号81頁】。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。オルデンブルクのボックホルン(Bockhorn)出身。(3040:松山→板東)
66) Menn(メン),Gustav(?-?):海軍東アジア分遣隊・上等歩兵。[指物師]。1915年9月20日福岡から名古屋へ収容所換えになった。ドルトムント(Dortmund)出身。(1364:福岡→名古屋)
67) Merchel(メルヒェル),Friedrich(?-?):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。板東時代、公会堂での工芸品展に木製のダックスフント及び農場を制作・出品した。また、1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会において(当時26歳)、2時間38 分14 秒5分の2で55位になった【『バラッケ』第4巻4月号82頁】。レックリングハウゼン(Recklinghausen)出身。(1988:丸亀→板東)
68) Merck(メルク),Dr.Karl(1886-1968):第3海兵大隊機関銃隊・予備陸軍少尉。戦闘の初期にはシュリック(Schlick)中尉とともに、外方の前線陣地を守った。熊本時代の1914年12月14日、薬学博士田中秀介(東京市本郷区5丁目7番)が衛戍司令官の許可を得て面会に訪れ、煙草、茶、新聞を差し入れた(これが熊本収容所における最初の俘虜面会だった)。また、1915年2月24日、大賀寿吉(大阪市東区島町1丁目8)がメルク及びウルフ(不詳)の面会に訪れ、菓子1箱を差し入れた。3月10日には田中秀介が再度訪問し、1時間30分面談した。久留米時代の1917年8月、ニューヨーク市のメルク商会から、メルク宛に200円の金券交付方の依頼があった。メルクには頻繁に送金があった。久留米時代は演劇活動で、イプセン作『国民の敵』等3演目全てに女役で出演した。大正8年頃、名古屋の落合化学で落合兵之助と金液の共同研究をしていたエンゲルホルン(Engelhorn)の推薦で、その後任として久留米収容所から招かれた。メルクはエンゲルホルンの大学時代からの友人で、ドイツのダルムシュタットにある医薬・工業薬品会社E.Merck社の社長の息子であった。3ヶ月ほど落合と共同研究をした後、エンゲルホルンと一緒に帰国して、メルク社の専門技術者であるペテルセンを派遣した【校條「名古屋俘虜収容所 覚書V」所載:『「青島戦ドイツ兵俘虜収容所」研究』第2号65-68頁】。1954年11月6日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席して寄付をした。また1959年5月30日〜31日にかけてククスハーフェンで開催された同戦友会では「わが東アジア旅行1959年」と題して講演した。ダルムシュタット(Darmstadt)出身。(3526:熊本→久留米)
69) Mersiovsky(メルジオフスキー),Alfred(1890-1965頃):第3海兵大隊第4中隊・予備上等歩兵。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。1965年頃アメリカで没した。ザクセンのバウツェン(Bautzen)出身。(3511:熊本→久留米)
70) Merta(メルタ),Gustav(?-?):第3海兵大隊工兵中隊・2等工兵。松山時代の1916年3月2日、夜陰に乗じて共謀脱柵し、酒楼に登った科で重営倉30日に処せられた。板東時代の1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会においては(当時25歳)、2時間21分2秒5分の1で85人中の第5位になった【『バラッケ』第4巻4月号80頁】。クロイツブルク(Kreuzburg)出身。(3009:松山→板東)
71) Merten(メルテン),Ernst(1884-?):第3海兵大隊第7中隊・伍長。[アルンホルト・カルベルク漢口支店]。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。イルメナウ(Ilmenau)出身。(1992:丸亀→板東)
72) Mertens(メルテンス),Matthias(1893-1969):海軍東アジア分遣隊第3中隊・2等歩兵。1919年10月28日国籍を郷里で決めるために一足先に横浜から帰国し、12月29日マルメディー(Malmedy)に着いた。ラインラントのビュリンゲン(Büllingen)出身。(161:東京→習志野)
73) Mester(メスター),Hans(?-?):海軍野戦砲兵隊・2等砲兵。1918年10月7日、甲斐洗濯店からメスター、バス(Bass)、ボルン(Carl Born)及びデューベルト(Dübert)の4人に対して、鞣皮製造並びに皮製品洗濯での就労申請が出された【校條「名古屋俘虜収容所 覚書V」所載:『「青島戦ドイツ兵俘虜収容所」研究』第6号、33頁】。ニーダーゼスマール(Niedersessmar)出身。(2626:名古屋)
74) Metz(メッツ),Heinrich(?-?):海軍膠州砲兵隊・2等砲兵。1919年11月29日付けの妹宛の絵葉書が現存している。それには「愛する妹へ 戦争が終わって、自由になれる日が近づいてきました。帰還前にもう一度美しい日本の絵葉書をおくりたい。…」等のことが書かれている。【『ドイツ兵士が見たNARASHINO』37頁】。バーデンのブルッフザール(Bruchsahl)出身。(4414:「熊本→」大分→習志野)
75) Metzger(メツガー),Franz(1984-1960):海軍膠州砲兵隊第4中隊・予備1等砲兵。以下の記述は、息子のオットー・メツガー(Otto Metzger)氏からの教示による【1884年9月25日、アルテンドルフに生まれた。1905年、海軍に入隊した【〔写真15〕参照】。1906年初頭、レーエ(Rehe)からボルシア(Borussia)号に乗り組んで青島へ赴き、1908年まで青島に滞在、その年の8月海軍膠州砲兵隊第3中隊の兵曹になった。1909年に一時期ドイツに帰国したが、その年にシュプレーヴァルト(Spreewald)号で青島に戻った。1912年から1913年にかけて兵営監督を務め、1914年9月上等兵曹になった。】。1916年10月20日、福岡から大阪へ収容所換えになった。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に際して、全般の部の作業道具の部門に旋盤を出品した。広島高等師範学校の校舎の前で似島収容所の俘虜等37名が写っている集合写真がある【藤井『エアハルト・アルバムと大阪俘虜収容所』28頁;所載『『大阪俘虜収容所の研究 ―大正区にあった第一次大戦下のドイツ兵収容所―』。撮影日は、シュルツェ(Helmut Schulze)の証言から、広島県物産陳列館で「似島独逸俘虜技術工芸品展覧会」が開催された1919年3月4日から12日の期間と推定された。前列左のチターを膝に置いているのがメツガーである。他には、前列の中央の椅子に掛けてヴァイオリンを持ち、右足に×印があるのがエーアハルト(Ehrhardt)、及びシュルツェ(Helmut Schulze;中列左から6人目の白服でネクタイ姿)が判明している】。先のオットー・メツガー氏作成の資料によれば、解放後は東京のカメラ製造会社「小西六」にレーザー技師として勤務し、1910年11月30日にエリーザベト・テレジア・レヴェリング(Elisabeth Theresia Levering)と結婚した。1926年、OAG(ドイツ東洋文化研究協会)のマネージャーとして勤務し、横浜市大神宮山に住んだ。1929年ごろ、横浜の山下町でフランス料理店「クレサン・クラブ」を経営したが、1931年に世界的大恐慌のあおりを受けて閉鎖した。1929年ごろに妻のエリーザベトと離婚したと思われる。1930年、宮崎県出身の丸山タツ(1907-2006)と結婚して長男カール(Karl,1930-2000)が出生した。1931年から翌年にかけては、メツガーにとって種々困難な時期であった。1932年、ヘルマン・ヴォルシュケ(Hermann Wolschke)からソーセージ造りを学びつつ独学もして、やがて横浜の元町でソーセージ製造・販売の店「デリカテッセン」を1945年まで経営した。二人の間さらに、次男ハンス(Hans,1933-2006)、三男フランツ(Franz,1935-)、四男オットー(Otto,1938-)、長女マルガレーテ(Margarete,1942-)、次女ルイーゼ(Luise,1944-)が生れた。1945年の米軍B29による空襲で店は焼失し、1945年から1949年まで、米軍キャンプでコックの仕事をした。1949年から1952年にかけて、東京・丸の内で貿易商会を開設した。1952年、横浜の本牧で食品店「Metzger’s Delicatessen」を経営した。1960年2月9日鎌倉で没し、鎌倉雪ノ下教会(カトリック)墓地に埋葬された。今日は妻タツも一緒に埋葬されている。2006年10月、息子のオットー・メツガー氏から「チンタオ・ドイツ兵俘虜研究会」に父親フランツの足跡探しの依頼が届いた。ルール河畔西エッセンのアルテンドルフ(Altendorf)出身。(1323:福岡→大阪→似島)
76) Metzger(メッツガー),Peter(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[横浜・ホフマン-ラ・ロッシュ商会(F.Hoffmann-La Roche & Co.)]。大戦終結して解放後は、蘭領印度に渡った。マンハイム(Mannheim)出身。(3026:松山→板東)
77) Metzner(メッツナー),Paul(1891-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[ジームセン上海支店]。当初ジームセン社の上海支店から、毎月400円の仕送りを受けていた。松山時代の1915年11月3日、逃亡を企てた。小船で瀬戸内海を渡って広島に逃れるつもりであったが失敗した。やはり逃亡を企てて重禁錮2年の刑に処されたローデ(Rode)とともに、天長節の恩赦で解放された。板東時代の1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会で、2時間38分19秒5分の1で56位になった【『バラッケ』第4巻4月号82頁】。大戦終結して解放後は、蘭領印度に渡ったが、1922年時点ではすでに故国に帰還していた。ベルリン(Berlin)出身。(3027:松山→板東)
78) Meutzner(モイツナー),Walther(?-?):第3海兵大隊第4中隊・予備副曹長。習志野時代、1919年3月5日に開催された「朗読の夕べ」でロイターとタルノーの詩を朗読した。メクレンブルクのヴィスマール(Wismar)出身。(4406:「熊本→」大分→習志野)
79) Meyer(マイアー),Christoph(?-?):第3海兵大隊第5中隊・2等歩兵。板東俘虜収容所内のタパタオではリスト(List)と共同で卵、キャンデー、果物、野菜などを売る店を営んだ。ケルン(Köln)出身。(3021:松山→板東)
80) Meyer(マイヤー),Constantin(?-?):第3海兵大隊予備榴弾砲兵隊・後備伍長。[ディーデリヒセン上海支店]。1915年6月熊本から久留米へ、1918年8月7日久留米から板東へ収容所換えになった。久留米時代の1915年8月22日、オーストリアのフランツ・ヨーゼフ皇帝の誕生日の祝いが行われたが、それは皇帝のためではなくて、誕生日が同じコニー・マイヤーのためであった【『ドイツ兵捕虜と収容生活―久留米俘虜収容所W―』21頁より】。1954年11月6日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。ハンブルク(Hamburg)出身。(3522:熊本→久留米→板東)
81) Meyer(マイアー),Eduard(?-?):海軍野戦砲兵隊・予備中尉。松山時代、山越の収容所講習会で中国語の講師を務めた。ハンブルク(Hamburg)出身。(3013:松山→板東)
82) Meyer(マイアー), Friedrich(?-?):海軍東アジア分遣隊第3中隊・後備伍長。[商社員]。「ハインリヒ・ハムの日記」によると、マイアーは大戦前ロシアのリバウ(Libau)で、ある商社に勤めていた。習志野時代の1918年5月18日、ハムと一緒に散歩をするの中で、リバウ、キエフ、リガ、オデッサなどでいいワインの店が作れるだろうと話して、ハムに戦争終結後の仕事への思いを抱かせた。バイエルンのヴィンツハイム(Windsheim)出身。(158:東京→習志野)
83) Meyer(マイアー),Gerhard(?-?):第3海兵大隊第5中隊・予備副曹長。板東時代、シュテッヒャー大尉、ベルリーナー、パウル・エンゲルとともに、エンゲル主宰の「管弦楽団」の理事を務めた。また、1919年5月7日に開催されたテニス大会では、テニス協会(T.V)チームのダブルスでトレンデルブルク(Trendelburg)中尉と組んで出場し、新テニス協会(N.T.V.)のゲッテ(Goette)及びハルクス(Harcks)組と熱戦を繰り広げ、第3セットで勝利した【『バラッケ』第4巻170頁】。ハンブルク(Hamburg)出身。(3018:松山→板東)
84) Meyer(マイアー), Heinrich(?-?):第3海兵大隊第6中隊・後備上等歩兵。大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として日本国内で解放された。リューネブルク(Lüneburg)出身。(4642:大阪→似島)
85) Meyer(マイアー),Otto(?-?):第3海兵大隊第5中隊・2等歩兵。松山時代(大林寺収容)の1916年9月19日、ヴンダーリヒ(Wunderlich)から上海に居住するツィンマーマン(Otto Zimmermann)の妻に宛てた小包の二重底に、6名の信書が隠されていたことが発覚し、マイアーは重謹慎10日の処罰を受けた。他の4名はゲルビヒ(Gerbig)、イェシュケ(Jeschke)、シャイダー(Scheider)、ツィンマーマン(Otto Zimmermann)である。テューリンゲンのブッテルシュテート(Buttelstedt)出身。(3020:松山→板東)
86) Meyer(マイアー), Paul(?-?):海軍東アジア分遣隊第3中隊・予備伍長。1915年9月20日福岡から名古屋へ収容所換えになった。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放され、横浜市の小松商店に就職して英語通信事務に従事した【校條「青島戦ドイツ兵俘虜と名古屋の産業発展 ―技術移転の様相を探る―」33頁より】。ブラウンシュヴァイク(Braunschweig)出身。(1362:福岡→名古屋)
87) Meyer-Waldeck(マイアー=ヴァルデック),Alfred Wilhelm Moritz (1864-1928):膠州総督・海軍大佐。(中国名表記:麦維徳)。1864年11月27日、ロシアのサンクトペテルブルクに生まれた。父クレーメンス・フリードリヒ・マイアー(Clemens Friedrich Meyer)はサンクトペテルブルク大学のドイツ文学教授であった。10歳の時父親は退職し、一家はハイデルベルクに移り住んだ。父親はやがてマイアー・フォン・ヴァルデック(Meyer von Waldeck)の筆名を用いたが、それが息子によって後に「マイアー=ヴァルデック」と称されることになった。大学で1年間歴史学を学んだ後海軍に入った。1908年に青島に赴任して1911年まで総督府参謀長を務めた。1898年にはヨハンナ・ナイ(Johanna Ney;1880-1964)と結婚し、1男2女をもうけた。1911年8月19日、トゥルッペル総督の後任として第4代膠州総督に就任、植民地加俸、交際費等を含めた年俸は5万マルクであった。身長190センチの長躯で胸幅厚く、白髪まじりの山羊髭をたくわえた風貌はロシアの将軍を思わせた【〔写真24〕参照】。水泳と馬術がめっぽう好きであった。【《The Japanese Siege of Tsingtau》18頁より】1914年11月10日、モルトケ兵営において青島攻囲軍司令官神尾光臣中将と会見した。その折り神尾中将は、日本陸軍がドイツ陸軍からこれまでに受けた指導に感謝の意を表し、日本の政策上不本意ながら青島を攻撃したこと、また日本軍に多大の損失が出るほどドイツ軍の防備の優れたことを語った。これに対してヴァルデック総督は、日本軍の武勇を称えたと言われる。妻子は開戦後に北京に逃れた。11月14日、俘虜となるべく日本に向かった。それは奇しくも17年前に、ドイツ東洋艦隊が青島を占領した日と同じ日付であった。11月17日午前9時20分、御用船薩摩丸で門司港に到着した。服装は、黒の海軍帽、紺地にダブルの金釦を付け、四線の太い金線のある正服を着用。黒のネクタイを結び、同じ紺地のズボンに茶褐色の革の脚袢を着け、長靴を穿いていた。出迎えに来た旧知の山本茂中尉と面談した。今回で来日4度目、3年前の3度目の来日の際奈良で雷雨にあったと語った。【参照:総督の談話『東京朝日新聞』1914年11月18日付】福岡での収容宿舎は、福岡赤十字社支部であった。この建物は旧福岡藩時代の台場跡のあった洲崎海岸に在り、瀟洒にして広壮、眺望絶佳で玄海灘を望み、眼下に西公園、向かいは物産館、市塵を離れた所に在った。日本の海軍大佐の月給に相当する280円を月俸として支給された。1915年1月29日、支給された給与から150円を大分俘虜収容所の俘虜のために寄付した。1915年6月1日、妻のヨハンナは息子のハンス(Hans,1902-1965)及び長女ヘルタ(Hertha,1906-1919)、次女ダクマル(Dagmar,1908-2005)とともにドイツに帰国するため上海を発ち、長崎に寄航したが、上陸は許可されなかった。翌日横浜を経由してアメリカに向かうべく長崎を発った。なお、ドイツ人医師4名と看護人55名も乗船していた【『新聞集成 大正編年史』大正4年上800頁】。1918年3月22日福岡から習志野へ収容所換えになった。1920年1月26日朝10時、収容所長山崎友造少将の別辞・万歳三唱を受けて、副官のカイザー(Kayser)陸軍少佐等40名とともに習志野収容所を後にした。3月25日、帰還船南海丸で神戸を出発し、残留していた最後の家族(約150人)を乗せるため青島に寄港、5月23日(24日?)にハンブルクに到着した。収容中に少将に昇進した。『青島の武装と包囲』(Bericht über die Armierung und Belagerung)の報告書を残した。1928年夏、バート・キッシンゲン(Bad Kissingen)に療養に行き、その地で没し、ハイデルベルクの一家の墓地に埋葬された。1959年5月30日〜31日にかけてククスハーフェンで開催された「チンタオ戦友会」にヨハンナ夫人が列席して、退役中将シュトレーラー(Straeler)等とともに戦没者慰霊碑に花冠を手向けた。サンクトペテルブク(Sankt Peterburg)出身。(1635:福岡→習志野)
88) Meyermann(マイアーマン),Bruno(1876-1963):第3海兵大隊・予備陸軍中尉。[青島測候所長]。1901年10月予備少尉(歩兵第173連隊)、1910年10月予備中尉。1908年から1914年11月まで青島測候所長兼徳華高等学堂講師。青島時代はホーエンローエ通りHohenroheweg)に住んでいた。熊本時代の1914年12月26日、中央気象台長理学博士中村精男、及び熊本測候所長栗山茂太郎が面会に訪れた。1915年3月、天津から妻と家族の入国申請があり許可された。久留米時代、妻マティルデ(Mathilde)は国分村浦川原の森新別荘にリーデルシュタイン夫人と一緒に住んだ。子どもが二人いた。1918年8月7日、マイアーマンはコップ(Kopp)中尉等71名とともに板東へ収容所換えになった。その際夫人はコップ夫人、ガウル夫人とともに避暑のため箱根で過ごした。1954年11月6日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。ゲッティンゲン(Göttingen)出身。(3507:熊本→久留米→板東)
89) Michaelis(ミヒャエリス),Max(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・1等砲兵。1915年9月20日福岡から名古屋へ収容所換えになった。1917年9月5日、岡善鋳物工場から9月1日付けでミヒャエリス及びオイリッツ(Eulitz)の労役中止の報告が収容所に提出された【参照:校條善夫「名古屋俘虜収容所 覚書V」所載:『「青島戦ドイツ兵俘虜収容所」研究』第6号、27頁】。ヴェストファーレンの(Fröndenberg)出身。(1336:福岡→名古屋)
90) Michalkowski(ミヒャルコフスキー),Karl von(?-?):第3海兵大隊第1中隊・予備上等歩兵。[メルヒャース上海支店]。1918年8月7日久留米から板東へ収容所換えになった。1954年11月6日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。ミヒャルコフスキーによって記録された出席者リストが現存し、久留米俘虜収容所の元俘虜を中心として66名が参集したことが判明している。ミヒャルコフスキーが通し番号の1番になっている。ブレーメン(Bremen)出身。(587:久留米→板東)
91) Michelmann(ミッヒェルマン),Heinrich(?-?):第3海兵大隊工兵中隊・2等工兵。久留米時代は演劇活動で、モーザー及びミンク作の笑劇『第六感』等11演目に、主として女役で出演した。1918年8月7日久留米から板東へ収容所換えになった。板東時代の1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会で(当時24歳)、2時間38分51秒5分の3で61位になった【『バラッケ』第4巻4月号82頁】。ハノーファー近郊のパッテンゼン(Pattensen)出身。(3527:熊本→久留米→板東)
92) Miedtank(ミートタンク),Max(1892-1980):海軍東アジア分遣隊・2等歩兵。1915年7月11日福岡から久留米へ収容所換えになった。ロッセン村に生まれ、ロマッチュ市で没した【松尾「「ドイツ牧舎」(徳島板東)指導者クラウスニッツァーの生涯」100頁】。ザクセンのロッセン(Lossen)出身。(1360:福岡→久留米)
93) Mierswa(ミールスヴァ),Hans(?-?):第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。[ディーデリヒセン上海支店]。板東時代の1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会で(当時30歳)、2時間29分19秒5分の3で22位になった【『バラッケ』第4巻4月号80頁】。ザールブリュッケンのフェルクリンゲン(Völklingen)出身。(2002:丸亀→板東)
94) Mielck(ミールク),Bernhard(?-?):第3海兵大隊予備榴弾砲兵隊・後備伍長。ローマン(Lohmann)あるいはシュテーゲマン(Steegemann)の遺品と思われる写真中に、エンゲルホルン(Engelhorn)、ケーニヒ(Leo König)等五人で写った写真が現存している【ローマン及びシュテーゲマンの項参照】。大戦終結後は、特別事情を有す日本内地居住希望者として、日本国内で解放された。ハンブルク(Hamburg)出身。(2618:名古屋)
95) Mies(ミース),Johann(1891-1972):海軍東アジア分遣隊第3中隊・2等歩兵。解放されて帰国後にマリア・モイル(Maria Meur)と結婚して、息子一人と娘一人をもうけた。妹のマリアは戦友のブラウアー(Friedrich Brauer)と結婚した。ヘッセン=ナッサウのシュタールホーフェン(Stahlhofen)出身。(4559:大阪→似島)
96) Milde(ミルデ),Max(?-?):海軍膠州砲兵隊第1中隊・2等砲兵。1916年10月21日福岡から名古屋へ収容所換えになった。1917年8月25日、松井鉄工場で労役に就き、また1918年3月7日にはレンツェン(Lenzen)とともに落合兵之助経営の旭鍍金でも就労した【校條「名古屋俘虜収容所 覚書V」所載:『「青島戦ドイツ兵俘虜収容所」研究』第6号、27〜29頁】。ザールバッハ(Saalbach)出身。(1320:福岡→名古屋)
97) Millies(ミリエス),Hans(1883-1957):海軍膠州砲兵隊第5中隊・後備2等軍楽手。[上海居留地工部局管弦楽団副指揮者]。ベルリンでヴァイオリンをヨーゼフ・ヨアヒムに学んだ後、1910年10月20日、前記管弦楽団に加入し、上海共同租界オーケストラのコンサートマスター兼副指揮者に就いた【「1912年版上海工部局年次報告書」より】。パウル・エンゲル(Paul Engel)はその楽団員であった。1914年12月15日、在上海総領事から外務大臣宛に、上海租界の代表から、指揮者ミリエスとその楽団員であるエンゲル、ガーライス(Gareis)及びプレフェナー(Pröfener)は非戦闘員なので解放せよとの申し入れがあったが、軍籍があることから不許可になった。福岡時代、収容所北部地区の第2棟に居住した。クリューガー(Karl Krüger)と同室であった。オストマン(Ostmann)の指導により、やがて演劇グループが結成され、レッシングの喜劇『ミンナ・フォン・バルンヘルム』、シラーの『群盗』が上演され、幕間にはミリエス指導による音楽の演奏もあった。収容所ではやがて毎日のようにヴァイオリンを弾き、時に音楽に関する講義も行った。1916年10月22日、オストマン、シュペルリング(Sperling)等の68名とともに福岡から習志野へ収容所換えになった。習志野時代の1917年10月31日、ユーバーシャール(Ueberschaar)との共同で「宗教改革400年記念の夕べ」を主催した。二部構成の音楽会と言えるもであるが、合間に「1517年から1917年のドイツ人」の題のユーバーシャールによる講演もあった。「ミリエス楽団」を結成し、1919年3月9日には「ハンス・ミリエス・コンサート」を開いた。演奏曲目は、ベートーヴェン『ヴァイオリン協奏曲』(ピアノ伴奏:ハイメンダール(Heimendahl)少尉)、サンサーンス『序奏とロンド・カプリチオーソ』(ピアノ伴奏:アルフォンス・ヴェルダー(Alfons Wälder)2等歩兵)、シューマン『トロイメライ』、シューベルト『アヴェ・マリア』、サラサーテ『チゴイネルヴァイゼン』(以上のピアノ伴奏:ヴェーデル(Wedel)少佐)であった。また習志野弦楽四重奏団の一員で、第一ヴァイオリンを担当した。他の三人はヴォストマン(Wostmann;第二ヴァイオリン)、ハルツェンブッシュ(Hartzenbusch;ヴィオラ)、テーン(Theen;チェロ)である。宣誓解放されての帰国後、キールやリューベックの交響楽団でコンサートマスターを務めたが、リューベックでは若き日のフルトヴェングラーの下でも活動した。1925年音楽学校を設立し、1933年には州立音楽学校の校長となった。リューベックに没した。【なお、ミリエスが習志野俘虜収容所時代に書き残した「閉じておくれ僕の眼を」の楽譜が、子孫の手で2002年に習志野市に届けられ、市の依頼でソプラノ歌手鮫島有美子氏による再演が実現した。リサイタルで歌われた後に、CD『祈り〜アメイジング・グレイス』に収められている】。2008年11月11日、ミリエス楽団の写真を基にしたレリーフの記念碑が、習志野市教育委員会によって収容所跡に建立された。キール(Kiel)出身。(1335:福岡→習志野)
98) Milz(ミルツ),Josef(?-?):第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。丸亀時代、香川県麦稈真田同業組合長中西孫太郎が面会に訪れた。中西氏の語るところによれば、ミルツは青島で5万マルクを投じて麦稈真田業を営み、職工200人(但し、麦稈真田編み工員を含む)を使用して、一日に約1000個の麦藁帽子を造り、一個18銭から3円で、上海及び印度に輸出していた、とのことである【『大阪朝日新聞 四国版』大正5年11月20日付け】。板東時代、収容所で俘虜相手の風呂屋を開業した。収容所の東北隅の空き地で、間口三間、奥行四間の平屋建て。休息所、脱衣場、浴場、釜焚場に区画し、建築費は諸器具を含めて約1200円であった。シャワー一回6銭6厘で、アルザス出身の二人をマッサージ師として雇っていた。1919年5月22日、火災で全焼した。損害は約2000円に及んだといわれる【『日本人とドイツ人』209頁】。バイエルンのリンデンベルク(Lindenberg)出身。(1996:丸亀→板東)
99) Misslin(ミスリーン),Ernst(?-?):第3海兵大隊工兵中隊・2等工兵。板東時代の1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会において、ミスリーン(25歳)は2時間17分41秒で85人中の第2位になった【『バラッケ』第4巻4月号80頁】。エルザスのレーギスハイム(Regisheim)出身。(3010:松山→板東)
100) Mittag(ミッターク),Ernst(?-?):第3海兵大隊第5中隊・2等歩兵。1914年9月28日、李村で日本軍に投降して俘虜となり、久留米俘虜収容所に送られた【『欧受大日記』大正三年十一月上より】。1916年4月23日に行われた「久留米体操クラブ」の12種競技(鉄棒、平行棒、鞍馬の演習3種目、徒手体操1種目、陸上競技2種目)では、119⅓点を獲得して初級の部の第4位になり、1917年7月10日に行われた「久留米体操クラブ」の12種競技(鉄棒、平行棒の演習3種目、鞍馬の演習2種目、徒手体操1種目、陸上競技3種目)では、140点を獲得して中級の部の第1位になった。エアフルト(Erfurt)出身。(612:久留米)
101) Mladeck(ムラデク),Kurt(?-?):第3海兵大隊第6中隊・予備伍長。[クンスト・ウント・アルバース商会]。ウラジオストックから応召した。板東時代の1918年6月14日、「シベリア」と題して講演した。リューベック(Lübeck)出身。(3023:松山→板東)
102) Möbius(メービウス),Emil(?-?):海軍膠州砲兵隊第1中隊・1等砲兵。大阪時代の1916年11月14日、厭世観から収容所内の便所で、ナイフによって頚部と左腕を刺して自殺未遂を企て、衛戍病院に送られた。大阪俘虜収容所は1917年2月19日に閉鎖されたが、同年3月8日時点で大阪衛戍病院に入院していた【参照:『日独戦争ノ際俘虜情報局設置並独国俘虜関係雑纂 第四巻』在本邦俘虜名簿配付及俘虜ノ安否其他情報問合ニ関スル件】。ザクセンのメルゼブルク(Merseburg)・ザンダースドルフ(Sandersdorf)出身。(3998:大阪→似島)
103) Modde(モッデ),Friedrich(?-?):海軍膠州砲兵隊・予備海軍砲兵少尉。〔第11及び第11a砲台指揮官〕。当時年齢は40代前半であった。福岡時代の1915年11月20日に収容所から逃亡した。自称米国人フランク・ダヴュルミラーを装ったが、関釜連絡船上で嫌疑をかけられ拘束、22日に福岡俘虜収容所に護送され、1916年1月19日、禁錮3年の処罰を受けたが、1917年6月20日に仮出獄した【『大正三年乃至九年 戦役俘虜ニ関スル書類』中の「俘虜仮出獄者一覧表」より】。1918年3月22日福岡から習志野へ収容所換えになった。エアフルト(Erfurt)出身。(1316:福岡→習志野)
104) Mohr(モーア),Bernhard(?-?):第3海兵大隊・予備陸軍少尉。松山時代、その所持するタイプライターは『陣営の火』の原稿打ち込みに終日活動した。ミュラー(Wilhelm Mueller)少尉と共同でビール、サイダーの空き箱、空き瓶や竹で木製ポンプを組み立てて、來迎寺収容所前の松田池から配水して噴水をこしらえた。また新案の体操18種を考案した。板東時代の1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会の「シニアの部」(当時38歳)で、2時間48分19秒5分の2で16人中の13位になった【『バラッケ』第4巻4月号83頁】。ビーレフェルト(Bielefeld)出身。(3008:松山→板東)
105) Mohr(モーア),Dr. jur. Friedrich Wilhelm(1881-1936):第3海兵大隊・予備陸軍歩兵少尉。ライン河畔のエンゲルス(Engers)に生まれた。1895年からノイヴィートのギムナジウムに通い、1903年から7学期間ボン、ベルリン、マールブルク大学で法律を勉強した。ベルリンでは2年間中国語を学び、修得した。1906年9月、カッセルの地方上級裁判所の1審判事補試験に合格し、その年の10月1日、ケルンのライン第5師団第65歩兵連隊に1年志願兵として応召した。1907年4月1日、ヴィルヘルムスハーフェンの海軍歩兵第3大隊本部に配属された。さらに同年4月26日膠州へ派遣され兵役義務終了後、膠州総督府の司法官試補兼通訳官となる。1911年に『膠州保護地便覧』(Handbuch für das Schutzgebiet Kiautschou,Tsingtau 1911)を編纂・出版した。1912年3月予備歩兵少尉に編入され、1913年6月4日財政通訳官に任じられた。同年6月6日、マールブルク大学での博士取得口述試問に合格。学位論文は『中国における諸租借地』(Die Pachtgebiete in China, Leipzig 1913)であった。その後総督府勤務を離れて、省都済南所在の中国山東省製塩公司監督官となった。熊本時代の1915年2月12日、妻が娘を伴って面会に訪れた。久留米時代、妻は国分村浦川原の森新別荘に住んだ。1918年8月6日久留米から習志野へ収容所換えになった。大戦終結して「南海丸」で帰国後、1920年から1921年まで法務省のベルリン移住局に勤務し、1922年からはハンブルク=ブレーメン東アジア協会の事務局長を務めた。1936年、シンガポール入港を目前にした「シュトゥットガルト号」の船内で死亡した。ライン河畔のエンゲルス(Engers)出身。(3508:熊本→久留米→習志野)
106) Moelders(メルダース),Bernhard(?-?):砲艦ヤーグアル乗員・2等水兵。1917年10月14日に開催された「1917年スポーツ週間」(参加者15名)の「高跳び踏み切り台なし」では、1.60m接触で2位、10月19日の「三段跳び」(踏み切り台有)では12.36mで第2位になるなど、久留米のスポーツ大会で活躍した。 ヴェストファーレンのオスターフェルト(Osterfeld)出身。(617:久留米)
107) Moll(モル),Albert(?-?):海軍膠州砲兵隊・2等砲兵。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に際して、全般の部でぶどう栽培地のぶどう圧搾機を出品した。上部エルザスのコールマル(Colmar)出身。(3994:大阪→似島)
108) Moll(モル),Karl(?-?):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。1919年10月25日、山嘉商店からの紡績、織物、鉱山、開墾、山林等に関する技術を持つ俘虜の照会にあたって、久留米収容所ではカール・モルを紹介した。ハルブルク(Harburg)出身。(593:久留米)
109) Möller(メラー),Ernst(?-?):第3海兵大隊第6中隊・予備2等歩兵。[クンスト・ウント・アルバース商会ウラジオストック支店]。板東時代、第3棟6室でビール販売を営んだ。ラウエンブルクのザンデスネーベン(Sandesneben)出身。(3032:松山→板東)
110) Moeller(メラー),Friedrich(?-?):総督府経理課・2等給与係筆生。板東時代、「エンゲル・オーケストラ」の団員で、第2フルートを担当した。フーズム(Husum)出身。(3041:松山→板東)
111) Moeller(メラー),Gustav(?-?):第3海兵大隊・予備副曹長。〔湛山堡塁〕。[カルロヴィッツ漢口支店]。板東時代、ゴルトシュミットに代わって『バラッケ』編集部員になった。また公会堂で開催された絵画と工芸品展覧会のポスターとパンフレット部門では、縦横無尽の活躍をした。またE.ベーアの『三つの童話』(Drei Märchen)の装丁をし、ケーニヒ(Paul Hermann König)の『板東俘虜収容所漫筆』の挿絵を描いた。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。ロストック(Rostock)出身。(3035:松山→板東)
112) Möller(メラー),Harry(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[ドイツ・アジア銀行青島支店]。ヴィルヘルム・メラー(Wilhelm Meller)の1919年12月24日のクリスマスイヴの日の日記には、「今夜は部屋の静かな片隅で、ハリー・メラー(Harry Möller)とグスタフ・アルスレーベン(Gustav Alsleben)の三人で、メラー(Möller)のウサギを食べる」との記述がある【メラー『青島守備軍の運命』67頁】。ハンブルク(Hamburg)出身。(3029:松山→板東)
113) Möller(メラー),Karl(?-?):第3海兵大隊第7中隊・上等歩兵。板東時代、公会堂での工芸品展に楽器のツィターを制作・出品した。マイニンゲンのロスドルフ(Rossdorf)出身。(1994:丸亀→板東)
114) Möller(メラー),Paul(?-?):国民軍・卒。1915年9月20日、青島から大阪俘虜収容所に移送された。ハンブルク(Hamburg)出身。(4691:大阪→似島)
115) Möller(メラー),Wilhelm(?-?):海軍東アジア分遣隊第2中隊・2等歩兵。1915年7月11日福岡から久留米へ収容所換えになった。久留米時代、1918年10月から日本足袋株式会社に、織物機械修理の労役で出向いた。労働時間1日8時間、賃金は1ヶ月24円(内4円は国庫納入)であった【『ドイツ軍兵士と久留米』24頁】。メービスブルク(Möbisburg)出身。(1361:福岡→久留米)
116) Möllers(メラース),Hermann(?-?):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。1914年9月28日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米俘虜収容所に送られた【『欧受大日記』大正三年十一月上より】。久留米の演劇活動では、喜劇『クラブチェアーに座って』に出演した。ヴェストファーレンのアーメルスビューレン(Amelsbüren)出身。(599:久留米)
117) Moltrecht(モルトレヒト),Paul(?-?):第3海兵大隊第2中隊・軍曹。丸亀時代の1915年7月8日、第1ヴァイオリンのエンゲル(Paul Engel)、第2ヴァイオリンのモルトレヒト、第3ヴァイオリンのライスト(Leist)、第1フルートのヘス(Hess)、第2フルートのヤーコプ(Hermann Jacob)及びオルガンのクラーゼン(Claasen)の6人によって「エンゲル・オーケストラ」【当初は「保養楽団」の名称で、1915年1月10日に第1回演奏会が開かれた「寺院楽団」の後継楽団】が成立した。板東時代、収容所内に「モルトレヒト合唱団」(60名)を結成して指揮者を務めた。1917年5月26日、マンドリン合奏団第1回コンサートを開催した。1917年5月に松山収容所からの人員を加えて拡大した「エンゲル・オーケストラ」の団員でもあって、第2ヴァイオリン、後にヴィオラを担当した。トレンメン(Tremmen)出身。(1982:丸亀→板東)
118) Monsees(モンゼース),Wilhelm(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等砲兵。1915年12月5日付けの『徳島新報』第2巻第11号によれば、モンゼースは11月28日に開催されたスポーツ大会の6種目総合で68点の成績で4位になった。ブレーマーハーフェン(Bremerhaven)出身。(4238:「大阪→」徳島→板東)
119) Moog(モーク),Fritz(?-?):第3海兵大隊第2中隊・上等歩兵。1914年9月28日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米俘虜収容所に送られた【『欧受大日記』大正三年十一月上より】。1917年7月10日に行われた「久留米体操クラブ」の12種競技(鉄棒、平行棒の演習3種目、鞍馬の演習2種目、徒手体操1種目、陸上競技3種目)では、123点を獲得して中級の部の第4位になった。カッセル近郊のグクスハーゲン(Guxhagen)出身。(598:久留米)
120) Moos(モース),Nikolaus(?-?):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。1914年9月28日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米俘虜収容所に送られた【『欧受大日記』大正三年十一月上より】。ビットブルク郡のニーダーヴァイラー(Niederweiler)出身。(600:久留米)
121) Morawek(モーラヴェク),Rudolf Edler von(1882-?):オーストリア野砲兵第17連隊・陸軍砲兵大尉(卿)。シベリアの収容所から脱走して、中国、アメリカを経由して本国に帰ったが、やがて満州の哈爾濱(ハルピン)市内を流れる松花江の鉄橋爆破の任務に就いた。資金の10万円は上海のオーストリア領事館に預けられ、横浜港に入ったところで逮捕された。1915年2月23日に行われた第2回目の尋問調書が残されている【参照:『戦時書類 巻58』】。大阪時代の1916年12月28「日他俘虜ニ託シ秘密通信ヲ企図シタル科」で重謹慎30日に処せられた。また似島時代の1917年2月24日「所長ノ命令ニ不服従ナリシ科」で重謹慎30日に処せられた。アルテルト(Artelt)、エステラー(Esterer)、シャウムブルク(Schaumburg)の4人で大阪と似島の両収容所から二度にわたって脱走を企て、アルテルトとエステラーの二人は3年、モーラヴェクとシャウムブルクの二人は2年半の刑を受け、日独講和を受けての特赦で釈放された1920年1月15日まで、広島の吉島刑務所に服役した。ハンガリーのセケリー(Szekely)出身。(4711:大阪→似島)
122) Morgenroth(モルゲンロート),Louis(?-?):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。『ドイツ軍兵士と久留米』205頁には、1919年1月の日付での久留米ホッケーチームの集合写真が掲載されているが、その一番右にモルゲンロートが写っている。イルメナウ(Ilmenau)出身。(588:久留米)
123) Moslener(モスレナー),Friedrich(?-?):築城部・陸軍築城大尉。青島時代はイレーネ街(Irenestraße)に住んでいた。【1918年9月付けの、F.パラヴィチーニ博士(在ジュネーヴ赤十字国際委員会駐日代表)の報告によれば、モスレナーは肝臓に起因する腹水症を病み、穿刺治療を20回にわたって受けていた。診察をした上記博士は、快復ははかばかしくなく、所外の良好な環境に置くこと、看護を希望する妻の入国・看護の実現が望ましい、との診断・所見を下した。参照:大川編訳『欧米人捕虜と赤十字活動 パラヴィチーニ博士の復権』213頁】。妻エラ(Ella)は子ども(12歳以下)と二人、大戦終結まで上海で暮らした。ハンブルク(Hamburg)出身。(614:久留米)
124) Mostler(モストラー),Alois(?-?):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・3等下士。姫路時代の1915年(月日不明)、ヴォルチク(Wolczik)と共謀して脱柵した科で禁錮8ヶ月の処罰を受けた。オーストリアのグラーツ(Graz)出身。(2315 :姫路→青野原)
125) Mros(ムロス),Heinrich(?-?):国民軍・卒。[ホテル経営]。1915年9月20日、青島から大阪俘虜収容所に送られた。妻ヨハンナ(Johanna)は子ども(12歳以下)と二人で大戦終結まで上海で暮らした。ドレスデン(Dresden)出身。(4692:大阪→似島)
126) Mucks(ムクス),Walter(?-?):第3海兵大隊第6中隊・予備2等歩兵。[天津フォーゲルスベルク(A.Vogelsberg)]。板東時代の1918年5月26日、収容所体操協会による創立記念体操会が行われた。鉄棒2、平行棒2、鞍馬1、跳び箱1を使用しての体操会であった。ムクスは第4組の指導を受け持った【『バラッケ』第2巻183頁】。また1919年6月1日(日)に開催された12種目から成る体操大会では、111⅔点を獲得して上級の部4位になった【『バラッケ』1919年6月号より】。更に1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会で(当時28歳)、2時間31分11秒で第31位になった【『バラッケ』第4巻4月号81頁】。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。ゲーラ(Gera)出身。(3033:松山→板東)
127) Mühlich(ミューリヒ),Heinrich(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・予備砲兵伍長。[上海徳華医療技術専門学校・舎監]。応召の数年前まで、膠州砲兵隊に配属されていた。兵役終了後上海の上記学校に勤務した。1915年9月15日福岡から習志野へ収容所換えになった。ヴァイオリンとピアノをこなし、習志野楽団ではコントラバスを担当した。習志野時代、クリューガー(Karl Krüger)とは親しく付き合った。朝は上等なコーヒーを入れて飲み、クリューガーはその相伴に与った。東プロイセンのインスターベルク(Insterburg)出身。(1334:福岡→習志野)
128) Müldner(ミュルトナー),Heinrich(?-?):第3海兵大隊・予備陸軍少尉。静岡時代、ゼッケンドルフ(Seckendorf)退役少尉と日本の新聞をドイツ語に訳した。それは収容所内で回覧された。カッセル郡のニーダーツヴェーレン(Niederzwehren)出身。(1758:静岡→習志野)
129) Mülleneisen(ミュレンアイゼン),Heinrich(1892-1963):第3海兵大隊機関銃隊・2等兵。1919年3月に発行された『久留米詩文集』に、ミュレンアイゼンの「榴弾磨きの女工」の小詩が掲載され、『バラッケ』に紹介された【『バラッケ』第3巻第26号407頁】。1920年1月2日の『福岡日日新聞』には、医学博士久保井猪之吉訳になるミュレンアイゼンの詩「爆弾工女」が掲載された。ヴェストファーレンのボッホルト(Bochholt)出身。(613:久留米)
130) Müller(ミュラー),Barthoromäus(?-?):第3海兵大隊工兵中隊・後備上等工兵。大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として日本国内で解放された。ニュルンベルク(Nürnberg)出身。(4643:大阪→似島)
131) Müller(ミュラー),Carl(?-?):第3海兵大隊第7中隊・後備副曹長。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。ユプツェン(Uebzen)出身。(4409:「熊本→」大分→習志野)
132) Müller(ミュラー),Ernst(1896-1952):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[指物師]。父親は船乗りから後に食堂を経営した。指物師としての修業をした後、1914年に中国へ渡った。大戦終結して解放後はドイツに帰国して指物師となったが、後に父親の店を継いだ。1926年10月3日、フリーダ(Frieda Wiebke)と結婚して、二男三女をもうけた。第二次大戦にも出征し、1945年に短期間フランスの捕虜になった。「チンタオ戦友会」に出席した。オスナブリュック(Osnabrück)出身。(3519:熊本→久留米)
133) Müller(ミュラー),F.M.Eugen(?-?):国民軍・卒。1915年9月20日、青島から大阪俘虜収容所に移送された。ヴュルテンベルクのブレンツ河畔ハイデンハイム(Heidenheim)出身。(4693:大阪→似島)
134) Müller(ミュラー),Gustav(1892-1972):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。コーブルク(Coburg)近郊のノイシュタット(Neustadt)出身。(594:久留米)
135) Müller(ミュラー),Heinrich(1888-1948):海軍弾薬貯蔵所・上等掌水雷兵曹。1909年4月1日海軍入り。1914年4月9日付けで上等掌水雷兵曹になった。1937年9月ククスハーフェンの阻塞武器部隊長、1940年4月ノルゥエー司令部海軍大将付、同年8月ククスハーフェンの阻塞武器庫担当武官、1942年10月1日海軍大佐。上部ヘッセンのブツバッハ(Butzbach)出身。(2308:姫路→青野原)
136) Müller(ミュラー),Heinrich(?-?):国民軍・予備副曹長。[総督府法務局]。1913年4月24日上席刑務官になった。1915年2月3日、非戦闘員だったとして解放を申請したが却下された。西プロイセンのトルン(Thorn)出身。(4561:大阪→似島)
137) Müller(ミュラー),Hermann(1891-1974):海軍膠州砲兵隊第4中隊・2等砲兵。1916年10月18日福岡から大分へ収容所換えになった。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ヴェストファーレンのズイーゲン郡アルテンバッハ(Altenbach)出身。(1326:福岡→大分→習志野)
138) Müller(ミュラー),Hermann(?-?):第3海兵大隊第7中隊・伍長。[テルゲ・シュレーター商会天津支店]。板東時代、丸亀蹴球クラブの役員を務めた。ライプチヒ(Leipzig)出身。(1991:丸亀→板東)
139) Müller(ミュラー),Johann A.(?-?):海軍膠州砲兵隊・1等砲兵。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。1916年10月22日福岡から習志野へ収容所替えになった。バイロイト近郊のベンク(Benk)出身。(1345:福岡→習志野)
140) Müller(ミュラー),Johannes(1879-1946):海軍膠州砲兵隊第1中隊・予備1等砲兵。1902年か1903年頃に青島へ赴き、当初は弁護士事務所に勤めた。その後イレーネ街に住んで運送・委託販売業を営んだ。1908年10月16日威海衛でエルナ(Erna Orsini Neustadt)と結婚して息子三人(内一人は第一次大戦終結しての解放後)をもうけた。大戦終結後は、青島での就職既定者として日本国内で解放されて1920年に青島へ戻った。1926年に家族とともに一時ドイツに帰国したが、1931年頃再度青島へ赴き、いくつかの商会に勤務した。1946年7月4日青島で没した。妻のエルナは1951年にドイツへ強制送還された。ベルリン(Berlin)出身。(3981:大阪→似島)
141) Müller(ミュラー),John(?-?):第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。[ディーデリヒセン上海支店]。ハンブルク(Hamburg)出身。(1995:丸亀→板東)
142) Müller(ミュラー),Karl(?-?):第3海兵大隊第5中隊・2等歩兵。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。マグデブルク(Magdeburg)出身。(3996:大阪→似島)
143) Müller(ミュラー),Leopold Hermann Karl(1892-?):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。収容中に、久留米俘虜収容所の日常生活を、24種のカリカチュアでスケッチした『久留米のぞき箱』(Kurumer Guckkasten)を著した。出版年は不明。ワイマール(Weimar)出身。(590:久留米)
144) Müller(ミュラー),Ludwig(?-?):第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。[天津・ブーフマイスター商会(Buchmeister & Co.)]。板東時代、1917年5月に松山俘虜収容所からの人員を加えて拡大した「エンゲル・オーケストラ」の団員で、チェロ及びトランペットを担当した。オッフェンバハ(Offenbach)出身。(2003:丸亀→板東)
145) Müller(ミュラー),Otto(?-?):第3海兵大隊第3中隊・2等歩兵。久留米の演劇活動では、ガイベル作の『アンドレーア親方』他1演目に出演した。テューリンゲンのジークムンツブルク(Sigmundsburg)出身。(604:久留米)
146) Müller(ミュラー),Otto Friedrich(?-1914):第3海兵大隊第4中隊・後備上等兵。1914年12月27日青島で死亡、青島欧人墓地に埋葬された。ライプチヒ近郊のリンデンタール(Lindenthal)出身。(4661:青島)
147) Müller(ミュラー),Paul(?-?):第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。[理髪師]。青島時代はフリードリヒ街261番地で理髪店を営んでいた。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ウゼドム(Usedom)のグネヴェンティン(Gneventhin)出身。(2000:丸亀→板東)
148) Müller(ミュラー),Peter(?-?):海軍膠州砲兵隊第4中隊・1等砲兵。1916年10月18日福岡から大分へ収容所換えになった。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ザールブリュッケン郡のフュルステンハウゼン(Fürstenhausen)出身。(1324:福岡→大分→習志野)
149) Müller(ミュラー),Philipp(1892-1958):海軍東アジア分遣隊第2中隊・2等歩兵。1915年9月20日福岡から名古屋へ収容所換えになった。ヴェーゼル(Wesel)出身。(1359:福岡→名古屋)
150) Müller(ミュラー),Robert(?-?):海軍東アジア分遣隊第2中隊・上等歩兵。1915年9月20日福岡から名古屋へ収容所換えになった。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ヴェストファーレンのオーバーフィッシュバッハ(Ober-Fischbach)出身。(1357:福岡→名古屋)
151) Müller(ミュラー),Wilhelm(?-?):総督府・2等筆生。青野原時代、1918年12月13日から20日まで開催された俘虜製作品展覧会で、ミュラーのグループは編み物・レース編み部門に「ひざ掛け」7点を出品した【『AONOGAHARA捕虜の世界』82頁】シュテーゲマン(Steegemann)の依頼で、青野原収容所についての私記を寄せた、それはシュテーゲマンの報告書に反映されている。オルデンブルク(Oldenburg)出身。(2306:姫路→青野原)
152) Mueller(ミュラー),Wilhelm(?-?):海軍野戦砲兵隊・予備少尉。〔第3a中間地掃射砲台指揮官〕。松山時代(來迎寺収容)の1916年12月5日、許可なき場所で飲酒喧騒し、かつ衛兵の制止に対して粗暴の振る舞いをしたことから、重謹慎25日に処せられた。なお松山ではシュテッヒャー(Stecher)大尉から日本語を習った。またモーア(Bernhard Mohr)予備少尉とともにビール、サイダーの空き箱、空き瓶や竹で木製ポンプを組み立てて、來迎寺収容所前の松田池から配水して噴水をこしらえた。板東では、公会堂での絵画と工芸品展覧会にモノクローム画部門に「日本の風景」、その模写の部に「ヒンデンブルクの顔」等を出品した。また同少尉の企画によるルンプ(Rumpf)少尉とホーン(Hohn)2等砲兵の住宅モデルは、収容所賞第3位に輝いて賞金3円を獲得した。1919年8月に完成した丸亀、松山の各収容所、及び板東収容所でスペイン風邪等により死んだ10名のための記念碑【〔写真38〕参照】の設計を担当した。ハノーファー(Hannover)出身。(3015:松山→板東)
153) Müller(ミュラー),Willy(?-?):第3海兵大隊工兵中隊・2等坑道工兵。ユーハイム(Juchheim)が去った後の「カフェー・ユーロップ」を引き受け、「ジャーマン・ベーカリー」として再出発させた【『ドイツ兵士の見たニッポン』118頁】。ゾーリンゲン郡のオーリグス(Ohrigs)出身。(1763:静岡→習志野)
154) Müllerskowski(ミュラースコフスキー),Friedrich(1886-?):第3海兵大隊飛行部隊・海軍少尉。1907年3月陸軍に入隊し、1906年9月少尉、1914年8月第3海兵大隊飛行部隊所属となる。1914年11月28日陸軍中尉に昇進した。青島独軍保有の飛行機二機の内、「E第1号(旧式ル式)」を操縦したが、1914年8月2日、墜落して重傷を負い、青島陥落まで総督府衛戍病院に入院していた。『大阪時事新報』(大正3年11月16日付け)は、ミュラースコフスキーは飛行服を身につけて門司港に着いて異彩を放った、と報じている。1920年1月30日【1916年4月18日発令】陸軍大尉となった。1920年3月9日、陸軍に入った。ダルムシュタット(Darmstadt)出身。(3520:熊本→久留米)
155) Münch(ミュンヒ),Wilhelm J.(?-?):海軍東アジア分遣隊第2中隊・軍曹。1915年7月11日福岡から久留米へ収容所換えになった。久留米時代の1916年11月7日から1919年3月末まで、第18師団は俘虜を雇用して、山砲兵第3大隊の拡張敷地の盛り土及び土塁用土の採取・運搬、並びに同敷地用砂利敷の地均し作業を行った。総監督は軍曹のファルケ(Falke)であったが、ミュンヒは土木技師として参加した。また1918年9月16日から、日本製粉株式会社久留米支店で製粉の労役に出た。労働時間1日8時間、賃金は1ヶ月24円(内4円は国庫納入)であった【『ドイツ軍兵士と久留米』23-24頁】。ドレスデン(Dresden)出身。(1356:福岡→久留米)
156) Muendel(ミュンデル),Harry(1876-1946):海軍膠州砲兵隊・海軍少佐。1895年4月2日海軍入りした。1896年4月13日士官候補生、1899年1月11日海軍少尉、1901年3月23日海軍中尉、1906年3月30日海軍大尉、1912年12月14日海軍少佐へと昇進した。1913年4月9日巡洋艦グナイゼナウ(Gneisenau)の輸送指揮官としてドイツからシドニーへ向かった。1913年5月30日測量艦プラーネット司令官としてラバウルからの帰国に際して青島へ赴き、大戦勃発により青島に足止めされた。1914年11月6日ボーデカー(Bodecker)少佐の後を受けて、砲艦ヤーグアル艦長となる。『大阪時事新報』(大正3年11月22日夕刊)によれば、ミュンデル少佐は1914年11月21日、大阪俘虜収容所に収容される俘虜の第一陣(将校22名、下士卒445名)の先任将校として大東丸で大阪築港に到着した。大東丸から埋立地に向かうランチでは、大阪俘虜収容所長菅沼來中佐と柿原少尉の通訳で会話をした。四十前後の顎鬚を美しく刈り込んだ、堂々たる偉丈夫である、と報じられている。解放されてドイツに帰国後の1920年1月30日海軍中佐、1920年6月29日海軍大佐、1923年4月30日海軍少将となって退役した。シュテッティン(Stettin)出身。(3978:大阪→似島)
157) Musfeld(ムスフェルト),Hans(?-?):第3海兵大隊第1中隊・後備2等歩兵。大分時代、大阪新聞と朝日新聞から記事をドイツ語に訳して、収容所の廊下に貼り出した。1918年4月までは、ヨーロッパの新聞の購読等は禁じられていなかったが、政治的状況が先鋭化すると、それが禁じられたからであった。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。ハンブルク(Hamburg)出身。(4404:「熊本→」大分→習志野)
158) Mussmann(ムスマン),Heinrich(?-?):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。板東時代、公会堂での工芸品展にマンドリンを制作・出品した。また、「エンゲル・オーケストラ」の応援で、第2トランペットを担当した。ヴェストファーレンのアイケル(Eickel)出身。(1986:丸亀→板東)
159) Musterer(ムステラー),Adolf(?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・1等歩兵。1916年10月20日福岡から大阪へ収容所換えになった。似島時代の1919年3月に開催された広島県物産陳列館の似島独逸俘虜技術工芸品展覧会カタログの補遺によれば、ムステラーは庭園のスケッチを出品した。ベルリン(Berlin)出身。(1321:福岡→大阪→似島)
160) Muttelsee(ムッテルゼー),Wilhelm(1893-?):第3海兵大隊第4中隊・2等歩兵。1914年9月28日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米俘虜収容所に送られた【『欧受大日記』大正三年十一月上より】。1918年8月7日久留米から板東へ収容所換えになった。詩画集『鉄条網の中の四年半』のスケッチを担当し、またヒュルゼニッツ(Hülsenitz)と共同で『1920年用故郷カレンダー』を制作した。ウルム(Ulm)出身。(611:久留米→板東)