1)
Nack(ナック),Kurt(?-?):第3海兵大隊第3中隊・上等歩兵。久留米時代に収容所のコンサートでは、メンデルスゾーンの四重奏曲等の演奏で活躍した。また演劇活動では、『二つの条件』を創作して自ら演出した。久留米に移って2ヶ月後の1915年8月22日付けによる、大阪市東区の三木楽器店からの領収書がオットー・レーマン(Otto Lehmann)の遺品に残されている。内容は、チェロの弦他代金3円60銭となっている。シュタイツ(Wilhelm Steitz)の手になると思われる収容所の柵をあしらったスケッチには、中央部分に「久留米収容所楽団」のレーマン以下22名の楽団員の写真が並べられ、また一人一人のサイン(ただしレーマンのを除く)が記されている。さらに写真には各自のパートも記されている。それによるとナックは、第1ヴァイオリンを受け持った【〔写真8〕参照】。1919年3月に発行された『久留米詩文集』にナックの抒情詩が掲載され、抒情詩部門の二等賞に輝いた。1920年1月1日の『福岡日日新聞』には、医学博士久保井猪之吉訳になるナックの詩「懐郷」等が掲載された。シュテッティン(Stettin)出身。(3542:熊本→久留米)
2)
Nagel(ナーゲル),Georg(?-?):海軍砲兵中隊・2等水兵。久留米時代は演劇活動で、ガーデベルク作の笑劇『シメク家』等4演目に女役で出演した。また『久留米収容所俘虜文集』の印刷に際しては、シュルツ(W.Schulz)と共に協力した。宣誓解放された。アルトナ(Altona)出身。(3552:熊本→久留米)
3) Nagel(ナーゲル),Richard(?-?):第3海兵大隊・上等歩兵。大分時代の1918年2月10日、キュールボルン(Kühlborn)少尉及びダオデルト(Daudert)と大分の遊廓「春日楼」に登楼して、芸者と夜を過ごした科で禁固30日に処せられた。当時26歳だった。テューリンゲンのヴァルタースハウゼン(Waltershausen)出身。(4416:「熊本→」大分→習志野)
4) Nahr(ナール),Leo(?-?):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・2等機関兵曹。青野原時代、1918年12月13日から20日まで開催された俘虜製作品展覧会では、運営係りを務めた【『AONOGAHARA捕虜の世界』、67頁】。カールスバート近郊のエルブンゲン(Elbungen)出身。(2341:姫路→青野原)
5) Naroska(ナロスカ),Gustav(?-?):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。1914年9月28日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米俘虜収容所に送られた【『欧受大日記』大正三年十一月上より】。東プロイセンのルミー(Rummy)出身。(628:久留米)
6) Nassuth(ナスート),Georg(?-?):海軍膠州砲兵隊第3中隊・砲兵伍長。板東時代、1917年5月に松山収容所からの人員を加えて拡大した「エンゲル・オーケストラ」の応援で、コントラバスを担当した。1919年3月26日、「室内楽の夕べ」が開かれてシューベルトの五重奏「鱒」が演奏された。その折りナスートはコントラバスを担当した。他は、ガルスター(Galster)海軍中尉のヴァイオリン、デュムラー(Duemmler)海軍大尉のチェロ、クラインシュミット(Kleinschmidt)予備少尉のヴィオラ、クラーゼン(Claasen)伍長のピアノという編成であった。東プロイセンのフクスベルク(Fuchsberg)出身。(4239:「大阪→」徳島→板東)
7) Naumann(ナウマン),Walter(?-?):第3海兵大隊予備榴弾砲兵隊・後備伍長。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放され、神戸市のヴィンクラー商会に就職した【校條「青島戦ドイツ兵俘虜と名古屋の産業発展 ―技術移転の様相を探る―」33頁より】。1954年11月6日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。リューネブルク(Lüneberg)出身。(2636:名古屋)
8) Neidhöfer(ナイトヘファー),Michel(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・1等砲兵。[染料製造業]。トリーア近郊のルエル(Ruoer)出身。(1371:福岡→久留米→習志野)
9) Neitzert(ナイツェルト),Christian(?-?):海軍膠州砲兵隊第3中隊・2等砲兵。1916年8月20日付けの『徳島新報』第3巻第15号によれば、徳島時代ナイツェルトは徳島管弦楽団の一員で、第2ヴァイオリンを担当していた。ヴェストファーレンのケルテン(Kerten)出身。(4242:「大阪→」徳島→板東)
10) Nemeth(ネメトゥ),Ladislaus(1892-?):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・2等水兵。1918年8月6日久留米から習志野へ収容所換えになった。ハンガリーのナギュゴモスファルン(Nagymogosfaln)出身。(3554:熊本→久留米→習志野)
11) Neudenberger(ノイデンベルガー),Josef(?-?):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。1919年10月22日に開催された「1919年スポーツ週間」の「幅跳び踏み切り台なし」(参加者4名)では4.35mで4位だった。東プロイセンのブラウンスベルク(Braunsberg)出身。(622:久留米)
12) Neugebauer(ノイゲバウアー),Anton(1895-1968):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・4等按針下士。1918年8月4日久留米から青野原へ収容所換えになった。オーストリアのレリング(Reling)出身。(3556:熊本→久留米→青野原)
13) Neuherz(ノイヘルツ),Franz(?-?):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・1等水兵。青野原時代、1918年12月13日から20日まで開催された俘虜製作品展覧会で、ノイヘルツは金属加工部門に筆記用具、煙草道具、マッチ箱の3点を出品した【『AONOGAHARA捕虜の世界』75頁】。ハンガリーのクロボテク(Krobotek)出身。(2344:姫路→青野原)
14) Neumaier(ノイマイアー),Jacob(?-?):海軍膠州砲兵隊第4中隊・1等砲兵。〔イルチス砲台〕。1914年8月27日早朝、日本艦隊の出現を最初に目撃して報告した。1916年10月18日福岡から大分へ収容所換えになった。1919年12月、ドイツへ帰国するために乗船した喜福丸は、青島在住の俘虜家族を乗せるために青島に寄港した。ノイマイアーは万年山と名を変えたかつてのビスマルク山や欧人墓地等変貌した青島の街を五年振りに歩き、その折りに昔からあった高橋写真館に立ち寄った。ドイツ人と親しかったことから、日本軍にあらぬ嫌疑を掛けられたりしたのではとノイマイアーは気遣った。しかし店主はばつの悪そうな顔をした。その背後に何か不誠実なものを感じ取ったノイマイアーは急ぎ店を出たという【《The German Prisoners-Of-War in Japan,1914-1920》107頁】。上部バイエルンのクライドルフ(Kleidorf)出身。(1368:福岡→大分→習志野)
15) Neumann(ノイマン),Friedrich(?-?):第3海兵大隊第6中隊・予備副曹長。[ヴァインベルガー商会(C.Weinberger & Co.)神戸支店]。メクレンブルク=シュヴェーリンのパルヒム(Parchim)出身。(3046:松山→板東)
16) Neumann(ノイマン),Max(?-?):第3海兵大隊第2中隊・上等歩兵。[指物師]。丸亀時代の1915年11月15日、手工芸品制作心得者として他の5名とともに、香川県立工芸学校備付器械見学のために同校に赴いた。1916年10月1日から開催された丸亀生産品展覧会に、大装見鏡(姿見)を装置したサーベル掛け兼帽子掛けを、見事な出来栄えで制作した【『大阪朝日新聞 四国版』大正5年10月6日付け】。1917年1月9日から3月27日まで、建築技師のアードラー(Augusut Adler)とともに前記工芸学校に通勤することになった。労役賃金は一日30銭で、内2割の6銭は軍資金歳入に納付し、手取り24銭を得た【『丸亀俘虜収容所日誌』より】。これは丸亀収容所における唯一の労役事例である。板東時代、第4棟7室で家具屋を営んだ。ザクセンのノイゲルスドルフ(Neugersdorf)出身。(2006:丸亀→板東)
17) Neumüller(ノイミュラー),Johann(?-?):第3海兵大隊第4中隊・2等歩兵。熊本収容所時代は妙立寺に収容された。熊本時代、ドイツの母親からノイミュラーに宛てた、1915年5月29日付けの葉書、同じく母親からの1915年9月15日付けの久留米収容所のノイミュラー宛、更にニューヨーク等在住の友人からの葉書が『ドイツ兵捕虜と収容生活―久留米俘虜収容所W―』(2007)145-150頁に紹介されている。バイエルンのランツフート(Landshut)出身。(3544:熊本→久留米)
18) Neuneier(ノイナイアー),Peter(?-?):第3海兵大隊工兵中隊・予備伍長。[漢口ドイツ郵便局]。コーブレンツ近郊のクロイツナッハ(Kreuznach)出身。(3049:松山→板東)
19) Neunert(ノイナート),Fritz(?-?):海軍東アジア分遣隊第3中隊・軍曹。習志野時代の1918年5月1日、ハム(Hamm)に若い鳩のつがいを与えた【ハインリヒ・ハムの項参照】。コトブス郡のシュプレンベルク(Spremberg)出身。(167:東京→習志野)
20) Neven(ネーフェン),Nikolaus(?-1964):海軍膠州砲兵隊第3中隊・2等砲兵。ラインラントのゲルリングスハイム(Gerlingsheim)出身。(4243:「大阪→」徳島→板東)
21) Newiger(ネーヴィガー),Walter(?-?):国民軍・上等兵。姫路時代、ドイツ人下士卒が収容された船場本徳寺本堂裏には、ライン河畔の古城を模した噴水のモニュメントが俘虜たちによって製作された。永らく人々の記憶から忘れられていたが、ディルク・ファン・デア・ラーン(Dirk van der Laan)氏による調査の模様が新聞で報じられて(平成14年4月25日付け『朝日新聞』)、陽の目をみるようになった。モニュメントは、高さ1.3メートル、円錐形をしていて、基礎部分は2メートル四方の花崗岩の延石で固められられいる。姫路市史編集室の調査で、大正4年(1915年)9月9日付けの『神戸又新日報』には、「景福寺収容中のワルタピーがコンクリートと鉄線で作り上げたライン河畔の古城塞は、実に精巧を極めたもので、これは記念の為景福寺に残していくそうだ」との記述があることが判明した。モニュメントの背部には「W.N.」のイニシャルが刻まれている【〔写真 31〕を参照。藤原龍雄氏等の調査により、「W.N.」のイニシャルを持つ俘虜は2名いたが、ネーヴィガーであるとほぼ断定するに至った。噴水の階段状の滝ノ下には金魚が泳いでいたとのことである。藤原「第一次世界大戦と姫路俘虜収容所」より】。西プロイセンのローゼンベルク(Rosenberg)出身。(2340:姫路→青野原)
22) Nickchen(ニクヒェン),Wilhelm(?-?):総督府・1等電信兵曹。その「日記」がイェキッシュ氏所蔵で遺されている。ベルリンのノイケルン(Neukölln)出身。(2338:姫路→青野原)
23) Nickel(ニッケル),Otto(?-?):第3海兵大隊機関銃隊・副曹長。青島でカール・ユーハイムの結婚式の証人をつとめた。当時30歳で子どもが二人いた。青島陥落後、ニッケル夫人はユーハイム家に身を寄せた。日本人兵士三人がどかどかと家に入り込んできたが、危害は加えずニッケルの2歳の子供に、角のある可愛らしい、色とりどりのきれいな見知らぬお菓子を差し出した。ユーハイム夫人は機雷を連想して、毒でも入っているかもしれないと立ちはだかって拒んだ。兵士は幾つか口に入れて食べて見せ、にっこり笑ってそのお菓子を残して立ち去った。後で夫人達が食べてみると、甘いおいしいお菓子で、それは「金平糖」であった。ニッケルは久留米の演劇活動で、スコヴァネク作『山番小屋で』等21演目に出演し、またビヨルソン作『新婚の二人』等6演目の演出もするなどの活躍をした。マグデブルク(Magdeburg)出身。(636:久留米)
24) Nicolai(ニコライ),Friedrich(?-?):国民軍・伍長。[ハンブルク・アメリカ汽船青島支社長(?)]。1915年3月19日、他の5名の青島大商人とともに青島から大阪に送還された。送還される前の2ヶ月間ほど、日本の青島軍政署ないしは神尾司令官から、用務整理のために青島残留を許可された【『欧受大日記』大正十一年一月の「俘虜釋放其他訴願ニ関スル件」より。青島の大商人10名は、当初国民軍へ編入されたが、青島で築き上げたドイツの貿易・商権保持のため、マイアー=ヴァルデック総督の指示で国民軍のリストから削除されたのであった】。妻の名はエンマ(Emma)。1954年11月6日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。メクレンブルク=シュヴェーリンのグレーフェスミューレン(Grevesmühlen)出身。(4645:大阪→似島)
25) Niederau(ニーデラウ),Peter(?-?):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。1914年9月28日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米俘虜収容所に送られた【『欧受大日記』大正三年十一月上より】。ケルン(Köln)出身。(627:久留米)
26) Nielsen(ニールセン),Erich(1889-?):海軍膠州砲兵隊・予備2等副按針長。1916年9月25日福岡から青野原へ収容所換えになった。1918年12月13日から20日まで開催された青野原俘虜製作品展覧会では、鉛筆画3点を出品した【『AONOGAHARA捕虜の世界』69頁】。カリフォルニア(米国)のウエスト=バークリー(West-Berkeley)出身。(1373:福岡→青野原)
27) Nielsen(ニールゼン),Hans(?-?):第3海兵大隊第7中隊・上等歩兵。ヴェルサイユ講和条約締結後の1919年8月26日、出身地の帰属を問う州民投票に参加の為、ヤスペルゼン(Jaspersen)、ブロイニンガー(Braeuninger)、カルステンス(Carstens)、フライエンハーゲン(Freyenhagen)、ハンゼン(Hansen)、イェプセン(Jepsen)の6名のシュレースヴィヒ出身者とともに一足先に帰国した。ゾンダーブルク(Sonderburg)出身。(2008:丸亀→板東)
28) Niemann(ニーマン),Ernst Heinrich Friedrich Konrad(1891-1970):海軍砲兵中隊・2等水兵。ノイエンクニック(Neuenknick)出身。(169:東京→習志野)
29) Niemeier(ニーマイアー),August(?-?):第3海兵大隊第5中隊・2等歩兵。松山時代(弘願寺収容)の1916年8月8日午前10時過ぎ、所長巡視の際に浴室北側から柵を抜け出した形跡があることから取調べを受けたが、その都度曖昧な陳述をして虚偽の申し立てをしたとされて、重営倉5日に処せられた。ヴェストファーレンのパーペンヘーフェン(Papenhöfen)出身。(3043:松山→板東)
30) Niemyer(ニーマイアー),Wilhelm(?-?):第3海兵大隊第1中隊・伍長。1954年11月6日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。ヴェストファーレンのハレ近郊のヘッセルン(Hesseln)出身。(619:久留米)
31) Niesen(ニーゼン),Peter(?-?):海軍東アジア分遣隊第3中隊・2等歩兵。[電気工]。1915年9月20日福岡から名古屋へ収容所換えになった。1919年1月16日、豊田式織機(株)から他の2名とともに、鉄工としての就労申請が出された【校條「名古屋俘虜収容所 覚書V」所載:『「青島戦ドイツ兵俘虜収容所」研究』第6号、36頁】。ケルン(Köln)出身。(1376:福岡→名古屋)
32) Nilsson(ニルソン),Lorenz(?-?):砲兵需品部・監視掛。青島時代はディーデリヒス通(Diederichsweg;日本の占領統治時代は赤羽町)に住んでいた。ペルヴォルム(Pellworm)島出身。(2339:姫路→青野原)
33) Nistor(ニストル),Dimitru(?-?):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・1等水兵。青野原時代、1918年12月13日から20日まで開催された俘虜製作品展覧会で、ニストルは水彩画25点(オーストリア海軍、台風の中のエリーザベト号、日本の女性、半裸像等)を出品した【『AONOGAHARA捕虜の世界』71頁】。ハンガリーのナサド(Nasad)出身。(2342:姫路→青野原)
34)
Nitschke(ニーチュケ),Richard(?-?):第3海兵大隊第1中隊・伍長。1914年9月28日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米俘虜収容所に送られたが、負傷のため当初は久留米衛戍病院に収容された【『欧受大日記』大正三年十一月上より】。収容所の音楽活動では、主として室内楽の演奏で活躍した。久留米時代、シュタイツ(W.Steitz)の手になると思われる収容所の柵をあしらったスケッチには、中央部分に「久留米収容所楽団」のオットー・レーマン(Otto Lehmann)以下22名の楽団員の写真が並べられ、また一人一人のサイン(ただしレーマンのを除く)が記されている【〔写真6〕参照】。さらに写真には各自のパートも記されている。それによるとニーチュケは、トロンボーンを受け持った。ブレスラウ(Breslau)出身。(618:久留米)
35)
Nitschke(ニーチュケ),Rudolf(1890-1970):海軍膠州砲兵隊第2中隊・1等砲兵。1910年8月26日から1912年9月30日まで坑夫として働いた。1912年10月1日兵役に就いた。解放されてドイツに帰還後の1936年10月8日ヘレーネ(Helen Oslender;1907-1990)と結婚した。ポーゼンのダラブスキー(Dalabuszuki)出身。(4001:大阪→似島)
36)
Nitze(ニーツェ),Carl(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[神戸・レッカー商会(P.Recker & Co.)]。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。ハンブルク(Hamburg)出身。(3048:松山→板東)
37)
Noecker(ネッカー),Franz(?-?):第3海兵大隊工兵中隊・後備2等工兵。[青島のリヒター商会(Paul Friedrich Richter)]。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。ヴェストファーレンのグローナウ(Gronau)出身。(3011:松山→板東)
38)
Nöckler(ネックラー),Gustav(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等砲兵。1915年7月11日福岡から久留米へ収容所換えになった。久留米時代は演劇活動で、ハウプトマン作の喜劇『同僚クランプトン』に出演した。アポルダ近郊のカペレンドルフ(Kapellendorf)出身。(1372:福岡→久留米)
39) Nohl(ノール),Heinrich(?-?):砲艦ヤーグアル乗員・2等水兵。郷里ゾーリンゲンのグライフラートに住む妹に宛てた、富士山をあしらった絵葉書による1917年8月30日付けの誕生祝いの便りが残っている。ゾーリンゲンのグライフラート(Greifrath)出身。(172:東京→習志野)
40) Nöllner(ネルナー),Karl(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[ジータス=プラムベック天津支店]。ハンブルク(Hamburg)出身。(3047:松山→板東)
41) Noltemeyer(ノルテマイヤー),Erich(1888-?):第3海兵大隊第2中隊・上等歩兵。[ランゲリューチェ商会ウラジオストック支店]。板東時代、精神を病んでいたクヴェーデンバウム(H.Quedenbaum)の看護に従事した。また、俘虜工芸品展に出品したヨット製作では、その労作が評価された。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ハノーファー(Hannover)出身(『俘虜名簿』ではウラジオストック)。(2005:丸亀→板東)
42) Nolten(ノルテン),Josef(1892-?):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。久留米時代の1915年10月4日、「久留米体操クラブ(Turnverein Kurume)が設立されたが、その第4代会長を務めた。1917年7月10日に行われた「久留米体操クラブ」の12種競技(鉄棒、平行棒の演習3種目、鞍馬の演習2種目、徒手体操1種目、陸上競技3種目)では、107⅓点を獲得して上級の部の第5位になった。クレーフェルト=リンデン(Krefeld-Linden)出身。(625:久留米)
43) Nommensen(ノメンセン),Richard(?-?):海軍膠州砲兵隊・2等機関兵曹。[商船機関士]。1915年9月15日福岡から習志野へ収容所換えになった。クリューガー(K.Krüger)によれば、ノメンセンは習志野時代、何もしないし、何も学ぼうとしなかった唯一の人物だった。食事等で起き上がらざるを得ない時以外は、ベッドの上で常に寝ていた。ハンブルクのペトラウ(Pötrau)出身。(1375:福岡→習志野)
44) Noppeney(ノッペナイ),Philipp(?-1919):海軍膠州砲兵隊第4中隊・2等砲兵。1916年10月18日、ジーベル(Siebel)等68名とともに福岡から大分に移送された。1919年1月28日、スペイン風邪により習志野で死亡。アーヘン(Aachen)出身。(1369:福岡→大分→習志野)
45) Nordmann(ノルトマン),Franz(?-?):総督府経理部・2等筆記。青島時代は衙門(Yamen)内に住んでいた。松山時代、大林寺の講習会でシュトルツェ=シュライ方式の速記を講じた。ブレーメン(Bremen)出身。(3051:松山→板東)
46) Noss(ノス),Josef(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・後備2等機関兵曹。[上海・同済医療技術専門学校]。1915年9月15日福岡から習志野へ収容所換えになった。解放後再び上海へ戻り、1926年まで同済大学に勤務したが、後に中国の機械工場の上級技師になった。ザンクト・ヴェンデル(St.Wendel)出身。(1370:福岡→習志野)
47) Nottbusch(ノットブッシュ),Willy(1886-?):第3海兵大隊第4中隊・2等歩兵。[パン職マイスター]。青島時代は直隷街(Tschilistraße)に住んでいた。オスナブリュック(Osnabrück)出身。(4567:大阪→似島)
48) Nowak(ノーヴァク),Karl(?-1917):海軍東アジア分遣隊第3中隊・2等歩兵。1917年2月10日習志野で死亡。ファルケンベルク近郊のプシネ(Puschine)出身。(168:東京→習志野)
49) Nürnberger(ニュルンベルガー),Alexander(1886-?):第3海兵大隊・海軍少主計補。解放されて帰国後の1920年1月30日海軍中主計になった。オーデル河畔のフランクフルト沿いのランツベルク(Landsberg)出身。(4004:大阪→似島)
50) Nuss(ヌス),Franz(?-?):海軍膠州砲兵隊第3中隊・1等砲兵。板東時代、第3棟1室で床屋を営んだ。マインツ(Mainz)出身。(4241:「大阪→」徳島→板東)
51) Nützinger(ニュッツィンガー),Michael(1890-?):海軍膠州砲兵隊第4中隊・2等砲兵。【『俘虜名簿』では「Nützenger」となっているが、シュミット氏のホームページの記載に従った】。ミュンヘン(München)出身。(3553:熊本→久留米)