1) Oberhauser(オーバーハウザー),Max(?-?):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。1914年9月28日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米俘虜収容所に送られた【『欧受大日記』大正三年十一月上より】。シュレージエンのトスト=グレヴィッツ(Tost-glewitz)郡ラヴァント(Laband)出身。(640:久留米)
2) Oechsler(エクスラー),Karl(1878-?):第3海兵大隊第7中隊・上等歩兵。[馬具職マイスター]。青島時代はホーエンローエ通(Hohenloheweg)に住んでいた。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に際して、美術の工芸木工部門で木彫り箱1点、裁縫箱1点、チェス版1点、木彫り時計入れ1点、額縁3点を出品した。フレンスブルク(Flensburg)出身。(4568:大阪→似島)
3) Odermann(オーダーマン),Albert(?-?):第3海兵大隊工兵中隊・予備陸軍工兵少尉。[山東鉱山会社坑長兼技師長]。青島開城後の実務協議にドイツ側委員として加わった。久留米時代の1915年10月31日、消灯後に蝋燭を灯して衛兵及び宿直将校ともめる。翌11月1日重禁錮30日の処罰を受けた。ラインラントのハイリゲンヴァルト(Heiligenwald)出身。(3561:熊本→久留米)
4) Offergeld(オッファーゲルト),Johann(?-?):第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。板東時代の1919年6月1日(日)、12種目から成る体操大会が開催されたが、オッファーゲルトは111点を獲得して初級の部の第6位になった【『バラッケ』1919年6月号より】。ラインラントのヘンゲン(Höngen)出身。(2013:丸亀→板東)
5) Offermann(オッファーマン),Heinrich(?-?):海軍膠州砲兵隊第4中隊・予備1等砲兵。青島時代は小港通(Kleiner Hafenweg)に住んでいた。徳島時代の1915年4月20日、チェス選手権試合が開催された。オッファーマンは4組(出場者総数21名)の内の第2組に割り振られ、1位で本戦A級に進出した。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ハノーファー近郊のノイランダーモーア(Neulandermoor)出身。(4246:「大阪→」徳島→板東)
6) Offermanns(オッファーマンス),Gerhard(?-?):第3海兵大隊第4中隊・2等歩兵。熊本時代、法則に違反して構外より物品を購入し、取調べに際して欺瞞着した科で重営倉30日の処罰を受けた。アーヘン県のヴリュゼルン(Würseln)出身。(3557:熊本→久留米)
7) Ohl(オール),Hermann(?-?):海軍膠州砲兵隊第4中隊・2等砲兵。1915年12月5日付けの『徳島新報』第2巻第11号によれば、オールは11月28日に開催されたスポーツ大会の6種目総合で56点の成績で10位になった。板東時代の1918年4月4日から6日の三日間、ブランダウ演劇グループによるクライストの『壊れ甕』の上演に際して、司法顧問官ヴァルター役を演じた【『バラッケ』第2巻33頁】。また、タパタオの13号A小屋でコッホ(Walter Koch)と靴屋を営んだ。2003年5月11日付けの『エッケルンフェルデ新聞』(Eckernförde Zeitung)は、オールの板東収容所時代の手記や写真、『バラッケ』等の遺品に触れて、板東収容所が比類ない人道的な待遇でドイツ人を処遇したことを伝えている。それらの遺品は遺族にあたるハインリヒ・ロズィーア(Heinrich Rosier)氏の目に留まったことから発したものである。オールの手記には、演劇、コンサート、スポーツ等や、ベートーヴェンの『第九』の演奏、指揮者へルマン・ハンゼン(Hermann Hansen)やパウル・エンゲル(Paul Engel)等へ数多くの言及がされているとのことである。ローズィア氏はこれらの遺品を当地のリーゼビー(Rieseby)博物館に寄贈するとのことである【このオールに関しての情報は、小阪清行氏が「チンタオ・ドイツ兵俘虜研究会」のメール会報18号に寄せた記事から得たものである】。シュレースヴィヒのアルヌム(Arnum)出身。(4247:「大阪→」徳島→板東)
8) Ohlen(オーレン),Ernst(?-?):第3海兵大隊第1中隊・上等歩兵。板東時代、1918年5月の第2回懸賞作文に、「ボーケンブレン」を応募して佳作になった。また、第2棟6室で蜂蜜販売を営んだ。メルドルフ(Meldorf)出身。(3052:松山→板東)
9) Öhler(エーラー),Walther(1888-1968):海軍砲兵中隊・海軍少尉。〔モルトケ山8・8糎速射砲(第14砲台)指揮官〕。1908年4月1日海軍士官候補生として海軍入りした。1909年4月10日海軍見習士官、1910年9月29日から1913年9月29日まで軍艦ラインラントに乗組み、1911年9月27日海軍少尉、1913年11がtる13日に東アジア勤務となる。1913年11月14日から1914年8月7日まで砲艦イルチス乗員となった。1914年8月8日モルトケ山第14砲台指揮官になる。1914年9月14日海軍中尉となった。8・8糎速射砲は日本軍に長いこと探知されずにいたが、1914年11月7日未明についに発見され、集中砲火を浴びて破壊された。解放後の1920年1月30日海軍大尉、1924年10月1日海軍中佐になる。1932年10月1日海軍砲兵兵監部に勤務、1938年10月20日沿岸砲兵学校校長、北海沿岸司令部勤務を経て海軍大佐になり、1942年10月1日海軍少将になった。1943年12月14日から1944年4月20日までベルゲン海防司令官、同年4月21日から8月29日までは負傷して衛戍病院に入院した。1945年1月31日退役し、ミュンヘンで没した。ベルリン(Berlin)出身。(177:東京→習志野)
10) Oldhaber(オルトハーバー),Gustav(?-?):海軍第2工機団第4中隊・1等需品兵曹。板東時代、1917年7月17日に発足した「収容所保険組合」に、旧松山収容所の大林寺収容所代表となり、かつ「保険組合」の会計を務めた。【『板東収容所俘虜故国住所録』によれば、駆逐艦S90の乗組員とされている】。ヴィルヘルムスハーフェン(Wilhelmshaven)出身。(3058:松山→板東)
11) Olf(オルフ), Wilhelm(1892-1952):海軍膠州砲兵隊第5中隊・1等砲兵。1914年8月に応召した。1915年9月25日福岡から青野原へ収容所換えになった。解放されて帰国後の1922年結婚、冶金工として働いた。後に郷里ハッティンゲンの役所に勤務した。ルール地方のハッティンゲン(Hattingen)出身。(1380:福岡→青野原)
12) Olff(オルフ), Heinrich(1891-1969):海軍膠州砲兵隊第3中隊・1等砲兵。エッセンハイム(Essenheim)出身。(4245:「大阪→」徳島→板東)
13) Oellig(エリッヒ),Josef(?-?):海軍東アジア分遣隊第2中隊・2等歩兵。習志野時代の1919年5月24日、習志野合唱協会の「歌曲の夕べ」ではマルフケ(Marufke)、ハム(Hamm)及びシェーファー(Schäfer)の四人でクローマー作の「森の泉のほとりで」を四重唱した。ライン河畔のリンツ(Linz)出身。(176:東京→習志野)
14) Oelsner(エルスナー),Bruno(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[北ドイツ・ロイド汽船]。大戦終結して解放後は、蘭領印度に渡った。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ダルムシュタット(Darmstadt)出身。(3054:松山→板東)
15) Oelweiner(エールヴァイナー),Ludwig(?-?):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・1等水兵。久留米時代は演劇活動で、コツェブー作の喜劇『ドイツの小都市市民』等3演目に出演した。1918年8月6日久留米から習志野へ収容所換えになった。オーストリアのヘルト=ケルンテン(Hert-Kärnten)出身。(3564:熊本→久留米→習志野)
16) Onken(オンケン),Johann(?-?):海軍第2工機団・後備木工。[税関吏]。妻の名はヘレーネ(Helene)。ブレーマーハーフェン(Bremerhaven)出身。(4420:「熊本→」大分→習志野)
17) Onodi(オノディ),Michael(1891-1919):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・2等水兵。ハンガリー人。1919年9月10日に流行性感冒(スペイン風邪)に罹り、19日青野原俘虜収容所で死亡、姫路陸軍墓地に埋葬された。ハンガリーのモクサ(Mocsa)出身。(2138:姫路→青野原)
18) Ontrupp(オントルップ),Bernhardt(?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・1等砲兵。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に際して、全般の部の作業道具の部門にケルン(J.Kern)と共同で簗2点を出品した。ミュンスター(Münster)出身。(3834:大阪→似島)
19) Opfer(オプファー),August(?-?):海軍砲兵中隊・1等焚火兵。1917年1月28日、アンドレーアをカロルチャク(Karolczak)等18名で袋叩きにして負傷させ、2月7日久留米軍事法廷で懲役1月に処せられた。ハルブルク(Harburg)出身。(3562:熊本→久留米)
20) Oppel(オッペル),Wilhelm(1870-1918):第3海兵大隊第2中隊・後備2等歩兵。[屠畜職マイスター]。応召時は妻と青島に住んでいた。1918年1月28日、名古屋で死亡、軍人墓地に埋葬された。エルバーフェルト(Elberfeld)出身。(2641:名古屋)
21) Orlob(オルロープ),Philipp(1880-?):第3海兵大隊第2中隊・副曹長。[徳華高等学堂]。妻の名はミルトレート(Mildred)。板東時代、工芸品展にオイルナー(Eulner)及びルートヴィヒ(Ludwig)と共同で、ドイツ軍が西部戦線で捕獲した戦車の模造品を制作・出品した。ザクセンのボイレン/アイヒスフェルト(Beuren/ Eichsfeldt)出身(『俘虜名簿』では青島)。(2010:丸亀→板東)
22) Orlowski(オルロウスキー),Friedrich(1891-?):第3海兵大隊第1中隊・伍長。1954年11月6日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。エッセン近郊のロットハウゼン(Rotthausen)出身。(638:久留米)
23) Oertel(エルテル),Adolf(?-?):海軍砲兵中隊・2等水兵。[理髪師]。【青島のハインリヒ皇子街にあった「P.Oertel理髪店」の関係者と思われる】。アルトナ(Altona)出身。(178:東京→習志野)
24) Oertel(エルテル),Ferdinand(?-?):国民軍・卒。[理髪師]。青島時代はハインリヒ皇子街(Prinz-Heinrich-Straße)129番地に住んでいた。1915年9月20日、青島から大阪収容所に移送された。大阪収容所は1917年2月19日に閉鎖されたが、同年3月8日時点で大阪衛戍病院に入院していた【参照:『日独戦争ノ際俘虜情報局設置並独国俘虜関係雑纂 第四巻』在本邦俘虜名簿配付及俘虜ノ安否其他情報問合ニ関スル件】。シュレージエンのコスバハ(Kossbach)出身。(4694:大阪→似島)
25) Ortlepp(オルトレップ),Hermann(?-?):第3海兵大隊第3中隊・上等歩兵。1918年6月、「久留米体操クラブ(Turnverein Kurume)」から分派した「久留米体操会(Turnschaft-Kurume)」の体操指導者を務めた。フリードリヒローダ(Friedrichroda)出身。(642:久留米)
26) Ortlepp(オルトレップ),Theodor(1882-1975):総督府部築城部・築城曹長。1900年頃、アビトゥーア修了後に陸軍に入り築城学を学んだ。その後青島へ派遣された。青島時代は台東鎮の建築出張所(Baupostengebäude)に住んでいた。久留米時代にの演劇活動で、ケルナー作の悲劇『トーニー』等3演目の演出を担当し、また14演目に出演した。1921年クラーラ・ガルテニヒト(Klara Garternicht)と結婚して子ども一人をもうけた。1926年、セメント工場の主任となった。1939年陸軍少佐として出征、1940年フランス侵攻に参加、1941年、モスクワの手前の前線で負傷した。1954年11月6日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席し、70年代の初めまで参加した。シュトラースブルク(Strassburg)出身。(3563:熊本→久留米)
27)
Oster(オスター),Franz(1869-1933):第3海兵大隊飛行部隊・飛行士。[元工作機械工場、造船所経営・民間飛行家]。父親は農業経営者で、オスターは17人兄弟だった。小学校時代二人の兄が移住したアメリカへの逃亡を企てた。学校卒業後、機械工になるために親方の元で修業し、機械学校にも通った。様々な実務習得の思い止み難く、その後5年間ドイツ、スイス各地とウィーンに遍歴修業に出た。やがて軍隊勤務の時期が訪れて、海軍に入り軍艦ヴェルト(Wörth)の乗員になった。1895年4月末からは巡洋艦プリンツェス・ヴィルヘルム(Prinzeß Wilhelm)に乗り組んだが、その艦長はハインリヒ皇子であった。オスターの勤勉さがハインリヒ皇子の目に留まった。1898年の香港寄航中に、ハインリヒ皇子はオスターにドイツの租借地膠州湾で力を発揮するように勧め、当時のローゼンダール膠州総督に宛てた推薦状を認めて渡した。その頃オスターは、香港での勤めを辞めていて、上海のアルノルト、カルベルク商会の紡績工場のマイスターとなっていた。こうして1899年3月11日、オスターは青島の建設に寄与する為に青島にやって来た。某資産家の援助を受け、また青島ではスタイル派伝道会の資金援助も受け、工作所や造船所を建てた。1900年6月17日、エリーゼ(Elise Bergmann,1863-1937)と結婚した。式は青島のプリンツ・ハインリヒ・ホテルで、福音派の牧師ヨハネス・フォスカンプの司式で執り行われた。オスターはカトリックだったが、妻エリーゼは福音派であった。やがて息子のハンス(Hans,1902-1966)が生れた。1901年には小港沿いに地所を購入し、工作所を建設した。260名に及ぶ中国人労働者は、香港、上海時代にオスターの下で働いていた者たちだった。1909年頃には、官立の青島船渠が軌道に乗り始めたこともあって、オスターは地所を除く全ての工作所や機械類を9万8233マルクで売却した。1911年、一時期ドイツに戻り、6月には飛行機操縦の免許を取得して飛行機を購入した。1911年11月、青島へ戻る際にコロンボで、遊覧飛行を行って墜落し、負傷したとの情報もある。1912年8月11日付けの『膠州郵便』には、オスターが青島へ飛行機を持ち込み、既に格納庫にあると、報じている。1913年7月9日、青島での初飛行を行った。青島の小港南西で発電所の隣、屠獣所の北に飛行機工場及び格納庫を所有していて、その脇の別荘風の家に住んでいた。所有する「70馬力メルツェデス旧式ル式」は、日独戦争直前に総督府に買上げられた。1914年8月27日、故障していた飛行機を修理して自ら操縦するが機体は墜落して、破損したが本人は無事であった。大分時代、命令違反・反抗で禁錮20日間に処せられた(年月日は不明)。防衛省防衛研究所図書館所蔵資料には、オスターと考えられる人物についての次のような記述がある。「小學校卒業後高等工業學校機械科ヲ卒業シ青島ニテ機械及造船ノ工場ヲ有シ青島戰ニ於テハ飛行機操縦者タリ○彼ハ製圖及設計ニ巧ミニシテ目下常ニ飛行機及自動車ノ設計及び製圖ヲナシ居レリ予ネテ当地ノ一商人自動車ヲ求メ古品ニシテ破損セシモ大分及別府ニ於テ修理スルコトア能ハス遂ニ収容所ニ持チ来リ彼ノ監督ノモトニ他ノ俘虜ヲ使ヒ殆ト道具ナクシテ修理シタルコトアリ」【『大正三年乃至九年 戦役俘虜ニ関スル書類』中の「大正七年八月 俘虜特殊技能調」の大分収容所の項より】。妻と息子の二人は大戦終結まで青島に留まった。大戦終結後、青島に戻り工作機械会社を再興した。1927年以降は、信号山沿いの労山街に家を建てた。1933年7月19日青島で没した。墓石には錨とプロペラがレリーフされた。妻エリーゼは1937年10月11日に青島で亡くなったが、息子ハンスは引き続き青島に留まり、1946年6月ドイツへ帰国させられた。1976年6月5日付けの地方紙『バート・ホンネンフ展望』(Bad Honnefer Rundschau)に、リンダ・ヨーク(Linda York)女史による「中国へ飛行の奇蹟をもたらした男」(Das Wunder des Fliegens brachte er nach China)と題した4頁のオスター紹介記事が掲載された。ヴィルヘルム・マツァト(Wilheln
Matzat)ボン大学教授による、「青島初の飛行家フランツ・オスター略伝」がシュミット氏のホームページに掲載されている。ホンネフ(Honnef)近郊のエギディーンベルク(Ägidienberg)出身。(『俘虜名簿』では青島)。(4421:「熊本→」大分→習志野)
28)
Ostermann(オスターマン),Hans(?-1935):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[ランゲリューチェ商会ウラジオストック支店]。ホルシュタインのピンネベルク(Pinneberg)出身。(3055:松山→板東)
29)
Ostmann(オストマン),Karl(?-?):海軍膠州砲兵隊・砲兵伍長。1916年10月22日、ミリエス(Millies)、シュペルリング(Sperling)等の68名とともに福岡から習志野へ収容所換えになった。習志野時代にクリューガー(Karl Krüger)と一緒に写した写真がクリューガーの『ポツダムから青島へ』に紹介されている。上述の書によると、オストマンは福岡時代、演劇のグループを結成して、レッシングの喜劇『ミンナ・フォン・バルンヘルム』やシラーの『群盗』の上演を行っている。習志野時代、クリューガー及びレムケ(Lemke)とは浴室で同じ時刻によく出会ったとのことである。1960年ごろ、「チンタオ戦友会」に出席した。オルデンブルク(Oldenburg)出身。(1383:福岡→習志野)
30)
Östmann(エストマン),Walter(1883-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[ヴィンクラー商会神戸支店]。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ケオスリン(Keoslin)出身。(3056:松山→板東)
31)
Othmer(オトマー),Prof.Dr. Heinrich Friedrich Wilhelm(1882-1934):第3海兵大隊予備榴弾砲兵隊・予備陸軍少尉。[徳華高等学堂上級教師・中国語学者;中国名:欧特曼]。1882年12月16日、ニーダーザクセンのアウリヒ郡ウトゥヴェルデン(Uthwerden)で生まれた。1892年から1900年まで ノルデン(Norden)のギムナージウムに通い、グライスヴァルト及びベルリンで古代史、地理学、ギリシャ語を学んだ。地理学者リヒトホーフェンの講義に出席し、中国語を学ぶように勧められたとも言われる。1904年に学位を取得し、1906年までに兵役義務を済ませた。1907年末北京に赴き、中国人のためのドイツ語学校で教えた。1909年に天津の独支中等学校へ移ったがその数ヶ月後、1909年10月25日に青島に設立された徳華高等学堂へ招聘され、その翻訳部局で活動した。なお、1908年5月18日付けで歩兵第78連隊予備少尉となった。青島時代はホーエンローエ小路(Hohenroheweg)に住んでいた。1911年5月17日、看護婦をしていたエリーザベト・ブリ(Elisabeth Buri;1874-1920)と結婚し、ゲルハルト(Gerhard
;1912-1996)とヴィルヘルム(Wilhelm;1914-1986)の二人の息子をもうけた。1912年、徳華高等学堂の同僚レッシング(Ferdinand Diederich Lessing)と協同で『北方漢語口語課程』(Lehrgang der nordchinesichen
Umgangssprache)を発表した。これは独語圏における漢語のローマ字表記法の一方式である。1914年11月、第3海兵大隊予備少尉、大阪収容所に俘虜第一陣として収容されるや、多くの俘虜がまだ途方に暮れている最中、ただちに中国語の研究を続行した。このことは多くの俘虜達に刺激を与え、やがて次々に講習会が開催されるようになり、大阪収容所はさながら「学校収容所」になった、と収容所で一緒だったベルゲマン(Bergemann)中尉は書き記している【《Du verstehst unsere Herzen gut》63頁】。オトマーは講習会で教えるだけではなく、自らも学習の手本を示すべく日本語の勉強に打ちこんだ。小学校の国語読本から初めて、平仮名・片仮名を覚え、中国語の素養を生かして『漢字林』から漢字を習得し、『万葉集』にまで及んだ。大阪収容所、やがて移った似島収容所は、青島を中心とした中国での商売を営んでいた俘虜が多かったが、そうした商人達は折に触れオトマーの部屋に種々の相談に訪れた。似島時代のユーハイムもその一人で、広島県物産陳列館での俘虜作品展示即売会にバウムクーヘンを出品するよう勧められ、かつ励まされた。オトマー自身は講演、研究及び勉学以外では、似島でもっぱら野菜作りに励んだ。似島時代、リースフェルト(Liessfeldt)とトスパン(Tospann)が共同で、朝日新聞及び毎日新聞の記事をドイツ語に訳した。時にクット(Kutt)も参加したが、複雑な文章の時はオトマーが手助けした【クライン『日本に強制収容されたドイツ人俘虜』177頁】。大戦中も家族は青島で暮らした。なお、青島に残ったオトマー夫人を始め総督府の高級官吏及び知識階級者の夫人達の動静は、中国学者にして宣教師リヒャルト・ヴィルヘルムの妻ザロメの日記で僅かながら窺い知ることが出来る【これに関しては、新田義之『リヒャルト・ヴィルヘルム伝』の第12章「世界大戦と青島」を参照】。大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として日本国内で解放された【『俘虜ニ関スル書類』より】。【『廣島中國新聞』(大正九年一月二十日)には、次の記述がある「解放された似島の俘虜 歸心矢の如き思ひを西京丸に乗せて 解放された八十三名 一行中のオートメル氏は松山高校講師に内定(中略)尚オーメルヘ授は一旦青島に往き家族を纏めて本年三月末迄に赴任する筈である」。解放されて1920年初頭、青島に戻ってみると妻のエリーザベトは救いがたい病にあり、1920年8月6日に死去した。1920年から1933年まで、上海の同済大学教授となった。なお1922年、エリーザベトの妹マリア(Maria
Buri,1892-1971)と再婚して、息子カルステン(Carsten,1923-?)と娘グードルン(Gudrun,1926-?)をもうけた。1933年10月、オトマーは重い病いに罹ってドイツに帰国した。1934年1月7日、ゲッティンゲンで没した。ウトゥヴェルデン(Uthwerden)出身(『俘虜名簿』ではハノーファー)。(4005:大阪→似島)
32) Otho(オトー),Armin(?-?):第3海兵大隊第7中隊・伍長。[菓子屋]。青島時代はフリードリヒ街に住んだ。妻マリー(Marie)は息子(1919年時点で14歳)と大戦終結まで済南で暮らした。大戦終結後は、青島での就職既定者として日本国内で解放された。ドレスデン(Dresden)出身。(2012:丸亀→板東)
33) Oetje(エトゥェ),Karl(1893-1969):砲艦ヤーグアル乗員・2等水兵。オルデンブルクのオスターシェプス(Osterscheps)出身。(181:東京→習志野)
34) Oetmann(エートマン),Arthur(1889-?):海軍東アジア分遣隊第3中隊・予備上等歩兵。1915年9月20日福岡から名古屋へ収容所換えになった。「15歳迄バルメンノ実業学校ニアリテ一年志願兵資格試験ニ合格シテ後三年間商業ヲ学ヒタリ、然レ共幼少ヨリ兵役ニ来ル迄親戚ノ農場ニ在リテ農業ニ精通シテ農業ニ趣味深ク俘虜生活中学理的ニ農業ノ各方面ニ就キ研究シタリ、1912年10月1日ヨリ1913年9月30日迄チルニニ一年志願兵タリ、羊牧ト養蜂ヲ特技トス」【「北海道移住」より】。バルメン(Barmen)出身。(1387:福岡→名古屋)
35) Otte(オッテ),Heinrich(?-?):海軍東アジア分遣隊第2中隊・伍長。[指物師]。1915年7月11日福岡から久留米へ収容所換えになった。大戦終結して解放後は、蘭領印度のスラバヤに渡った。ボーデンフェルデ近郊のヴァームベック(Wahmbeck)出身。(1385:福岡→久留米)
36) Otten(オッテン),Karl(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等砲兵。1916年(月日不明)、「入倉者ニ対シ陰ニ「トラプ(トランプ?)ヲ差入レタル科」で重営倉15日の処罰を受けた。ライト(Rheydt)出身。(2012:名古屋)
37) Otten(オッテン),Nikolaus(?-?):第3海兵大隊第5中隊・2等歩兵。板東時代、第2棟8室でタバコ販売を営んだ。オイペン(Eupen)出身。(3053:松山→板東)
38) Ottens(オッテンス),Rudolf(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[ディーデリヒセン上海支店]。板東時代の1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会においてオッテンス(当時25歳)は、2時間31分6秒5分の4で29位になった【『バラッケ』第4巻4月号81頁】。キール(Kiel)出身。(3057:松山→板東)
39) Otto(オットー),Paul(?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・1等砲兵。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会では、アーペル(Apel)、クリングナー(Klingner)、シュピーロ(Spiro)及びヴォーゼラウ(Wosearu)とともに技術部門の責任者を務め、また学校部門では微分積分計算の教科書を出品した。ワイマール(Weimar)出身。(4007:大阪→似島)