1) Pabst(パプスト),August(1880-1954):第3海兵大隊第7中隊・上等歩兵。職人の父親ゴットフリートと母ドロテーアとの間の5人兄弟の長男として生まれた。父は1911年4月青島で没した。パプストは指物師として修業の後、1900年に兵士として青島に赴いた。後に青島で指物師のマイスターとなり、大沽街に住んだ。1906 年、ヴィルヘルム皇帝海岸通りのセントラル・ホテルを獲得して経営した。1909年、姉の結婚を機に両親は青島に来た。1913年4月2日、マリー・フィリップセンと結婚した。 大戦勃発により1914年8月上記大隊の後備上等歩兵として応召した。帰国後の1925年8月10日、 二度目の結婚をしてミュールハウゼンで手芸品店を経営した。テューリンゲンのミュールハウゼン(Mühlhausen)出身。(2026:丸亀→板東)
2) Pabst(パプスト),Fritz(?-?):海軍砲兵中隊・2等焚火兵。1915年6月熊本から久留米へ収容所換えになった。1919年10月21日に開催された「スポーツ週間」の「サッカーボール遠距離蹴り」に出場し、45.80mで第2位になった。マグデブルク(Magdeburg)出身。(3593:熊本→久留米)
3) Pallasch(パラッシュ),August(?-?):海軍東アジア分遣隊第1中隊・2等歩兵。熊本時代、1914年12月19日から翌年の5月15日まで、靴工として従事した。リピーネ(Lipine)出身。(3584:熊本→久留米)
4) Pansing(パンジング),Paul(?-1947):第3海兵大隊第7中隊・副曹長。[メルヒャース香港支店]。板東時代、公会堂での工芸品展に、ハイン(Hayn)副曹長と寄木細工の床と電気の灯る居心地のよさそうな人形部屋を製作・出品した。ブレーメン(Bremen)出身。(2023:丸亀→板東)
5) Pape(パーペ),Otto(1885-1918):所属部隊不明・後備2等機関兵曹。[鉄道機関士]。1918年3月18日似島で死亡し、広島市内の比治山陸軍墓地に埋葬され、その墓碑は今日なお遺されている【〔写真35〕を参照】。ブラウンシュヴァイク(Braunschweig)出身。(4647:大阪→似島)
6) Papenroth(パーペンロート), Ernst(1891-1974): 第3海兵大隊第1中隊・伍長。1918年8月5日久留米から名古屋へ収容所換えになった。ブランデンブルクのロイツ(Roitz)出身。(644:久留米→名古屋)
7) Paproth(パップロート),Fritz(1892-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等砲兵。1915年7月11日、福岡から久留米へ収容所換えになり、また1918年8月7日には久留米から板東へ収容所換えになった。板東時代の1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会においては(当時27歳)、2時間52分56秒5分の2で80位になった【『バラッケ』第4巻4月号83頁】。フォルスト(Forst)出身。(1391:福岡→久留米→板東)
8) Parenzan(パレンツァン),Marko(?-?):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・2等水兵。1916年10月9日、ロッスト(Rossut)等12名と青野原から丸亀に移送された。板東収容所へ移送後まもなくの1917年6月22日、イタリアの連合国加盟により宣誓解放された。高木大尉以下下士13名の付き添いの下、小松島港から徳島丸(共同丸?)で神戸に着き、同夜は栄町の「恵比須屋旅館」に投宿した。大正6年6月24日付『神戸新聞』には、その折の高木大尉を囲む記念写真、旅館でくつろぐ13名の解放俘虜の写真が掲載された。イストリアのピラノ(Pirano)出身。(2366:姫路→青野原→丸亀→板東)
9) Paschke(パシュケ), Stephan(?-?):第3海兵大隊野戦重砲兵隊・2等砲兵。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。シュレージエンのシャーダーヴィッツ(Schaderwitz)出身。(2651:名古屋)
10) Pasemann(パーゼマン), Henry(1893-1959):海軍膠州砲兵隊第1中隊・砲兵軍曹長。ハノーファー県のライネ河畔のパッテンゼン(Pattensen)(4426:「熊本→」大分→習志野)
11) Passon(パッソン),Hans(1892-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等砲兵。1918年3月22日福岡から習志野へ収容所換えになった。解放後は蘭領印度に渡り、ジャワのヴェルテフレーデンの郵便局で働き、やがてドイツ総領事館に勤務した。シュレージエンのイエロヴァ(Jellowa)出身。(1392:福岡→習志野)
12) Patitz(パーティツ),Richard(?-?):国民軍・伍長。[巡査]。日独戦争中は、元巡査や兵士の中国人スパイに日本軍の偵察をさせた。その際、情報の信憑性を確保するため、常に二人を1日ないしは2日違いでほぼ同じルートを探らせた。二人が出会って相談し、偽の報告をしないようなルートを考えた。二人の情報がほぼ合致すると、報酬として一人1ドルが与えられた。時にはプリュショー(Plüschow)中尉による空からの偵察も、その際の参考にされた。妻オルガ(Olga)は息子(12歳以下)と大戦終結まで青島に留まった。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ザクセンのムルデ河畔トゥレローゼン(Trelosen)出身。(4574:大阪→似島)
13) Paetow(ペトウ),Wilhelm(?-?):第3海兵大隊・2等歩兵。[アルンホルト・カルベルク青島支店]。青島時代はハンブルク街に住んでいた。解放後は青島に赴いた。ハンブルク(Hamburg)出身。(3580:熊本→久留米)
14) Patt(パット),Theodor(?-?):第3海兵大隊第7中隊・上等歩兵。板東時代、1918年6月25、27、28日の三日間上演された、シェイクスピア作の喜劇『じゃじゃ馬馴らし』に未亡人役で出演した。ボン(Bonn)出身。(2025:丸亀→板東)
15) Pätzold(ペツォルト), Richard(1895-?):海軍砲兵中隊・2等水兵。1913年4月1日海軍第1水兵団に入隊、8月7日巡洋艦マグデブルク乗船して、9月19日から1914年11月7日まで東アジアへ航海、その後河用砲艦オッターの水兵となり、1914年8月青島へ赴いき海軍砲兵中隊に配属された。1920年のドイツ帰国後、鉄十字2等勲章を授与された。後に更にシュレージエン鷲勲章も授与された。シュレージエンのバウムガウテン(Baumgarten)出身。(3590:熊本→久留米)
16) Patzig(パッツィヒ),Conrad(1885-1975):海軍膠州砲兵隊・海軍中尉。〔第12砲台指揮官〕。青島では、イルチス地区の空き別荘にプリュショーー(Plüschow)中尉と一緒に住んだ。コック等の中国人使用人を三人雇っていた。【なお『廣島中國新聞』(大正八年一月二十日付け)には次の記述がある。「獨逸俘虜團の運動競技 鮮なる其技倆に觀衆舌を巻く。廣島縣ヘ育會體育部主催に係る獨逸俘虜團體育競技大會の第二日は雪混じりの吹く風寒き昨十九日午後十時四十分より前日に引續き高等グランドに於て開催された。前日の如くパッチヒ中尉以下五十名の獨逸俘虜團は上田歩兵大尉引率の下に似島より來校して直に競技に移りたるが、雪風寒く肌を劈くが如き有様なるにも拘らず、競技の俘虜團は木綿一枚の上襦袢に薄き白の猿股仕掛と云ふ身軽き運動姿のユニホーム服に、威風堂々と競技塲に現れた】。「チンタオ戦友会」に出席した。西プロイセンのツォッポト(Zoppot)出身。(4008:大阪→似島)
17) Pauer(パウアー),Heinrich(1894-?):海軍膠州砲兵隊第3中隊・2等砲兵。1915年12月5日付けの『徳島新報』第2巻第11号によれば、パウアーは11月28日に開催されたスポーツ大会の6種目総合で62点の成績で7位になった。ハノーファー州のアデレプセン(Adelebsen)出身。(4251:「大阪→」徳島→板東)
18) Paul(パウル),Alfred(?-?):第3海兵大隊第5中隊・2等歩兵。板東時代、収容所のサッカー場の脇に60uの耕作地を所有して、野菜を栽培した。多くの者達がスポーツの出来ない雨天を嘆くとき、パウルは喜々としてサッカー場を横切って肥やしを運んだ。肥料はクラウスニッツァー(Claussnitzer)の酪農場から調達した【『バラッケ』第2巻67-71頁】。コーブレンツ(Koblenz)出身。(3060:松山→板東)
19) Paulsen(パウルゼン),Arthur(?-?):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。久留米の演劇活動では、茶番劇『放り出されて』に出演した。また『久留米収容所俘虜文集』の印刷に携わった。1954年11月6日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。ハンブルク(Hamburg)出身。(653:久留米)
20) Paulsen(パウルゼン),Lorenz(?-?):第3海兵大隊第7中隊・第2後備2等歩兵。北京から青島へ応召した。丸亀時代の1915年8月24日、歯痛が激しいために受診願いを出し、丸亀市富屋町岡歯科医院へ出かけた【『丸亀俘虜収容所日誌』より】。板東時代、松山収容所からの人員を加えて拡大した「エンゲル・オーケストラ」の団員で、第2ヴァイオリンを担当した。ヴァンツベック(Wandsbeck)出身。(2030:丸亀→板東)
21) Pauly(パオリー),Karl(1886-1918):第3海兵大隊第2中隊・軍曹。1886年3月9日、商人の子としてザールブリュッケンに生まれた。1914年9月28日、浮山周辺で日本軍に包囲され、グラボウ(Grabow)中尉等60名が俘虜となったが、その折りパオリー軍曹は、11名の部下とともに逃れた。1918年3月26日久留米で死亡した【『欧受大日記』大正十三年三冊之内其一、附表第一「埋葬者階級氏名表」によれば、久留米山川陸軍墓地に埋葬された十一名の内、九名の遺骨は、大正九年一月十六日にドイツ側委員に引き渡されたが、土葬されたパウリーとコッホ(Heinrich Koch)の遺骨は残置された】。ザールブリュッケン(Saarbrücken)出身。(3567:熊本→久留米)
22) Pawelzig(パヴェルツィヒ),Hans(?-?):海軍膠州砲兵隊・2等砲兵。大戦終結して解放後は、蘭領印度に渡った。1954年11月6日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。その折の撮ったと思われるマイエ(Meie)と氏名不詳の三人で写った写真がハンス=ヨアヒム・シュミット氏のホームページに掲載されている。ダンツィヒ(Danzig)出身。(3597:熊本→久留米)
23) Paysen(パイゼン),Wilhelm(?-?):第3海兵大隊第7中隊・予備伍長。1893年3月から1900年4月1日までシュレースヴィヒのグリュックスブルク(Glücksburg)近郊のノイキルヒェン(Neukirchen)に居住し、フレンスブルク高等実業学校に1903年4月1日から1906年4月1日まで通学した【『俘虜ニ関スル書類』より】。ランゲンフェルデ(Langenfelde)出身。(4450:「熊本→」大分→習志野)
24) Pech(ペヒ),Paul(?-?):第3海兵大隊第4中隊・伍長。久留米収容所で発行された『トゥルネンとスポーツ』の「付録第7号」(1919年6月14日付け)によると、1919年5月10日に開催された「下士官体操クラブ(Unteroffizier-Turnverein)」の6種競技(鉄棒、平行棒、鞍馬、走り幅跳び、砲丸投げ、100メートル走)の上級に出場して(出場者は6名)、73⅓点を獲得して第1位になった。上部シュレージエンのレオプスシュッツ(Leopsschütz)出身。(3571:熊本→久留米)
25) Pechbrenner(ペヒブレンナー),Max(1895-1974頃):砲艦ヤーグアル乗員・2等水兵。1916年4月11日、フォーゲルフェンガーの誕生祝に招かれた。その折に食べたウサギの肉が、愛犬シュトロルヒ(Strolch)の肉であったかのようにフォーゲルフェンガーの日記に記述されている【『ドイツ兵士の見たニッポン』154頁】。ケーニヒスベルク(Königsberg)出身。(197:東京→習志野)
26) Peger(ペーガー),Robert(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等兵曹。1916年11月22日横浜米国領事館より情報局へ,ペーガー宛て40円(金券)と信書1通交付方の願い出があり、転送するとともに同領事館へその旨回答された。ゴータ(Gotha)出身。(3595:熊本→久留米)
27) Pellny(ペルニー),Johann(?-?):海軍膠州砲兵隊第3中隊・2等砲兵。板東時代、「エンゲル・オーケストラ」の団員で、ヴィオラを担当した。東プロイセンのアリス(Arys)出身。(4252:「大阪→」徳島→板東)
28) Peltzer(ペルツァー),Friedrich(?-?):第3海兵大隊第3中隊・2等歩兵。丸亀時代の1915年8月14日、陸軍省副官名で発せられた文書に、名古屋の波越型染社から、染色技術を持つ丸亀のフランツ(Oskar Franz)及び松山のルートマン(Luthmann)の3名を雇い入れる希望をもって面接したいと願い出ていることが記されている【校條「名古屋俘虜収容所 覚書V」所載:『「青島戦ドイツ兵俘虜収容所」研究』第6号、18頁参照】。ラインプロヴィンツのライト(Ryeydt)出身。(2016:丸亀→板東)
29) Peppel(ペッペル),Johannes(1892-1966):第3海兵大隊第3中隊・2等歩兵。1954年11月6日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。上部ヘッセンのオーバーゼーメン(Oberseemen)出身。(664:久留米)
30) Pepperhoff(ペッパーホフ),Wilhelm(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等兵曹。久留米時代の1917年11月、ペッパーホフから広東のオランダ領事館宛の信書(私物の被服取り寄せに関する内容)があり、検閲の上久留米から情報局へ転送された。1918年8月5日久留米から名古屋へ収容所換えになった。ヴェストファーレンのドルステン(Dorsten)出身。(3596:熊本→久留米→名古屋)
31) Perl(ペルル), Hermann Wilmar(1892-?):海軍野戦砲兵隊・2等砲兵。父親ラインホルトは炭夫で、母の名はヴィルヘルミーネだった。ブランケンハイム(Blankenheim)出身。(2650:名古屋)
32) Perle(ペルレ),Emil(1893-1976):海軍膠州砲兵隊第3中隊・1等砲兵。板東時代、タパタオの19号小屋で家具屋を営んだ。大戦終結して解放後は、蘭領印度に渡ったが、1922年時点ではすでに故国に帰還していた。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。東プロイセンヴィスボリーネン(Wisborinen)出身。(4250:「大阪→」徳島→板東)
33) Perschmann(ペルシュマン),Erich(1871-?):第3海兵大隊第4中隊長・陸軍大尉。〔外方陣地部隊右翼陣地〕。1890年10月陸軍(歩兵)に入隊し、1892年1月少尉、1900年7月中尉、1907年5月大尉に昇進した。青島時代はイレーネ街に住んでいた。1920年1月30日【1915年1月27日発令】に陸軍少佐に任ぜられ、同年3月9日陸軍に入った。日本軍による青島包囲以前は、李村街道の守備を任ぜられ、李村河沿いの下流一帯の守備に当たった。熊本俘虜収容所の先任将校だった。マグデブルク(Magdeburg)出身。(3569:熊本→久留米)
34) Peschel(ペシェル), Fritz(?-?):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。オッフェンバッハ(Offenbach)出身。(2645:名古屋)
35) Pestel(ペステル),Willy(?-?):海軍東アジア分遣隊第2中隊・2等歩兵。1915年7月11日福岡から久留米へ収容所換えになった。久留米時代、シュタイツ(Wilhelm Steitz)の手になると思われる収容所の柵をあしらったスケッチには、中央部分に「久留米収容所楽団」のオットー・レーマン(Otto Lehmann)以下22名の楽団員の写真が並べられ、また一人一人のサイン(ただしレーマンのを除く)が記されている【〔写真8〕参照】。さらに写真には各自のパートも記されている。それによるとペステルは、第2ヴィオラを受け持った。グライツ(Greiz)出身。(1404:福岡→久留米)
36) Peters(ペーテルス),Adolf(1874-?):第3海兵大隊第2中隊・2等麺麭工。青島時代はイレーネ街に住んでいた。1917年1月28日、アンドレーアをグローベ(Grobe)等18名で袋叩きにして負傷させ、2月7日久留米軍事法廷で懲役1月に処せられた。1918年8月6日久留米から習志野へ収容所換えになった。ヴィルヘルムスハーフェン近郊のアルデンブルク(Aldenburg)出身。(3568:熊本→久留米→習志野)
37) Peters(ペーテルス),Jakob Heinrich(1882-1930):砲艦ヤーグアル乗員・1等機関兵曹。鍛冶職マイスターの父親の元で働き、1902年1月4日3年志願兵で第1工機団に入った。1902年4月30日「プリンツ・アイテル・フリードリヒ」に乗り組みヴェネズエラに赴いた。1905年4月1日2等機関兵曹、1909年4月30日巡洋艦シャルンホルストで膠州及び日本に赴いた。1910年3月6日本国ドイツに帰還したが、1913年4月16日に皇后ルイーゼ号で再度膠州に来た。1913年5月17日ヤーグアル乗員になった。解放されてドイツに帰国後の1923年2月4日フリーダ(Frieda Ladwig)と結婚して娘二人をもうけた。オルデンブルクのオスターシェプス(Osterscheps)出身。(181:東京→習志野)
38) Petersen(ペーテルゼン),Thomas Georg Carl(1890-1975):海軍砲兵中隊・予備2等水兵。「俘虜労役ニ関スル件」(欧受大日記大正8年9月)によれば、東京市芝区三田二丁目七番地の合名会社木村屋商店に雇用されたものと思われる。この文書には、「労役俘虜 海軍一等水兵カール・ヤーン 同二等水兵トーマス・ペーテルゼン。労役ノ種類 腸詰製造作業。場所 千葉県東葛飾郡船橋町堵殺場構内。時間 自午前八時 至午後四時(日曜日祭日ヲ除ク)。賃金 日給壱円」との記述がある。フレンスブルク(Flensburg)出身。(193:東京→習志野)
39) Petke(ペトケ), Georg(1893-1957):海軍膠州砲兵隊第2中隊・2等砲兵。ドイツに帰国後の1920年、オルガ・ギュンター(Olga Günther)と結婚した。ブランデンブルクのミュルローゼ(Müllrose)出身。(4014:大阪→似島)
40) Petko(ペトコ),Andreas(?-?):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・1等水兵砲手。青野原時代、1918年12月13日から20日まで開催された俘虜製作品展覧会では、運営係りを務めた【『AONOGAHARA捕虜の世界』67頁】。ハンガリーのオルソヴァ(Orsova)出身。(2361:姫路→青野原)
41) Peus(ポイス),Julius(?-?):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。1914年9月28日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米収容所に送られた【『欧受大日記』大正三年十一月上より】。ルール河畔のエッセン(Essen)出身。(659:久留米)
42) Pfäffle(プフェフレ),Ludwig(?-?):海軍東アジア分遣隊第3中隊・上等歩兵。1915年7月11日福岡から久留米へ収容所換えになった。1917年7月10日に行われた「久留米体操クラブ」の12種競技(鉄棒、平行棒の演習3種目、鞍馬の演習2種目、徒手体操1種目、陸上競技3種目)では、122点で初級の第1位になった。バイエルンのオッフィンゲン(Offingen)出身。(1409:福岡→久留米)
43) Pfeiffer(プファイファー),Dr. Heinrich Moritz F.(1875-?):第3海兵大隊参謀本部獣医長・1等獣医。1914年8月1日に青島を訪問した福島安正大将の騎馬(蒙古馬)がカーキー色に彩色されていると、騎兵中隊の兵士の間にその真似をすることが流行った。プファイファーは獣医の立場から、彩色は馬にとって良くないと警告したが、誰一人その言に耳を傾ける者はいなかった【Burdick《The Japanese Siege of Tsingtau》205頁】。トリーアのビートブルク(Bitburg)出身。(3566:熊本→久留米)
44) Pfennig(プフェニッヒ),Georg(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[上海税関]。宣誓解放された。エルザスのアルテッケンドルフ(Alteckendorf)出身。(3062:松山→板東)
45) Pfilippski(フィリッピスキ), Franz(1895-1979):海軍東アジア分遣隊第1中隊・2等歩兵。習志野時代、アドルフ・シェーファー(Adolf Schäfer)が主宰する「シェーファー楽団」の一員で、シェーファーからギター演奏を習った。楽団の演奏について「台風のようだった」との回想が『毎日新聞』の「千葉版」(2009年7月30日付け)に紹介されている。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ダンチヒ近郊のランゲナウ(Langenau)出身。(188:東京→習志野)
46) Pfister(プフィスター),Georg(?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・砲兵伍長。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に際して、美術の工芸木工部門で額縁3点を出品した。ヴュルテンベルクのヒルトカルツハウゼン(Hiltkarzhausen)出身。(4013:大阪→似島)
47) Pfluger(プフルーガー),Georg(1886-?):第3海兵大隊第7中隊・上等歩兵。パン職マイスターの子として生まれた。下記オットーの兄。1905年秋海軍入りしたが、後に上海に赴いて建築の仕事に携わった。解放後は蘭領印度に渡り、スマトラのメダン(Medang)で建築の仕事に就いた。1923年末から1924年にかけてはドイツに戻って弟の元に居候した。1924年再び上海に赴き、1934年まで暮らした。1936年4月10日ドイツに戻り、1937年6月21日アマーリエ(Amalie Stigloher)と結婚した。上部バイエルンのブルクハウゼン(Burghausen)出身。(2028:丸亀→板東)
48) Pfluger(プフルーガー),Otto(1887-?):第3海兵大隊第4中隊・麺麭夫。[パン職人]。パン職マイスターの子として生まれた。上記ゲオルクの弟。青島時代は直隷街(Tschilistraße;日本による占領統治時代は直隷町)のリヒター(Walter Richter)の元でノットオブシュ(Nottbusch)の後継者として働いた。1918年秋頃、山本五郎菓子店でパンやケーキの製造で就労していたと思われる【校條「名古屋俘虜収容所 覚書V」所載:『「青島戦ドイツ兵俘虜収容所」研究』第6号、35〜36頁】。解放されてドイツに帰国後の1920年7月3日、ヨーゼファ・ヴェーバー(Josefa Weber)と結婚して子供二人をもうけた。上部バイエルンのブルクハウゼン(Burghausen)出身。(2654:名古屋)
49) Philippi(フィリッピ),Albert(?-?):海軍東アジア分遣隊第1中隊・2等歩兵。1914年10月2日、四房山で俘虜となり久留米俘虜収容所に送られたが、負傷のため当初は久留米陸軍衛戍病院に収容された【『欧受大日記』大正三年十一月上より】。1918年12月4日に行われた「久留米体操クラブ」の12種競技(鉄棒、平行棒の演習3種目、鞍馬の演習2種目、徒手体操1種目、陸上競技3種目)では、115⅓点を獲得して上級の部の第2位になった。ルール河畔のミュールハイム(Mühlheim)出身。(667:久留米)
50) Philipps(フィリップス),Lorenz(1892-1918):第3海兵大隊工兵中隊・2等工兵。1918年11月25日名古屋で死亡し、陸軍墓地に埋葬された。オーバーレーデルン(Oberredern)出身。(2653:名古屋)
51) Piastowski(ピアストウスキー),Franz(?-?):海軍砲兵中隊・2等水兵。大阪俘虜収容所は1917年2月19日に閉鎖されたが、同年3月8日時点で大阪陸軍衛戍病院に入院していた【参照:『日独戦争ノ際俘虜情報局設置並独国俘虜関係雑纂 第四巻』在本邦俘虜名簿配付及俘虜ノ安否其他情報問合ニ関スル件】。似島への移送時点では義肢を付けていた。西プロイセンのラングフーア近郊ブレンタン(Brentan)出身。(4573:大阪→似島)
52) Pieck(ピーク),Werner(?-?):海軍砲兵中隊・予備2等兵曹。久留米時代は演劇活動で、ハウプトマン作の喜劇『同僚クランプトン』他1演目に出演した。ブレスラウ(Breslau)出身。(3586:熊本→久留米)
53) Pielke(ピールケ),Hans(?-?):第3海兵大隊第4中隊・予備副曹長。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。1954年11月6日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。ハンブルク(hamburg)出身。(3570:熊本→久留米)
54) Pietak(ピータック),Anton(1893-?):海軍膠州砲兵隊第3中隊・2等砲兵。徳島時代、収容所で発行された『徳島新報』には、アウアー(Auer)、ラングロック(Langrock)及びケラー(Keller)と筆耕係で協力した。ポーゼンのアーデルナウ(Adelnau)出身。(4253:「大阪→」徳島→板東)
55) Pietsch(ピーチュ),Karl(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・後備1等水兵。徳島時代の1915年4月20日、チェス選手権試合が開催された。それに出場したピーチュは4組(出場者総数21名)の内の第4組に割り振られたが、5位に終わり本戦のB級進出に留まった。ブレスラウ(Breslau)出身。(4254:「大阪→」徳島→板東)
56) Pietzcker(ピーツカー),Hans(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。松山(公会堂収容)で死亡したラウエンシュタイン(Lauennstein)の看護に当たり、その遺言を書きとめた。なお、松山時代には公会堂の日曜講演会で、「造船について」及び「魚雷と潜水艦」と題して講演した。板東ではバルクホールン(Barghoorn)と演劇グループを結成し、1917年7月10日にシラーの戯曲『群盗』を上演し、1919年2月18日にはゲーテの『エグモント』上演の演出を担当した。ハンブルク(Hamburg)出身。(3064:松山→板東)
57) Piezcker(ピーツカー),Rudolf(?-?):第3海兵大隊第3中隊・予備伍長。1918年8月7日久留米から板東に収容所換えになった。板東では、上記のハンス・ピーツカーと区別するために「ピーツカーU」と称された。1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会においては(当時26歳)、2時間22分11秒で85人中の7位になった【『バラッケ』第4巻4月号80頁】。1954年11月6日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。ハンブルク(Hamburg)出身。(660:久留米→板東)
58) Pinski(ピンスキー),Bruno(?-?):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・3等水兵。1916年10月9日、ロッスト(Rossut)等12名と青野原から丸亀に移送された。板東収容所へ移送後まもなくの1917年6月22日、イタリアの連合国加盟により宣誓解放された。高木大尉以下下士13名の付き添いの下、小松島港から徳島丸(共同丸?)で神戸に着き、同夜は栄町の「恵比須屋旅館」に投宿した。大正6年6月24日付『神戸新聞』には、その折の高木大尉を囲む記念写真、旅館でくつろぐ13名の解放俘虜の写真が掲載された。イストリアのトリエステ(Triest)出身。(2368:姫路→青野原→丸亀→板東)
59) Pisarik(ピザリク),Alois(1894-1972):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・4等檣帆下士。ウィーン(Wien)出身。(2356:姫路→青野原)
60) Pistor(ピストル),Friedrich(?-?):海軍膠州砲兵隊第3中隊・2等砲兵。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。マイン河畔のグリースハイム(Griesheim)出身。(4427:「熊本」→大分→習志野)
61) Planert(プラーネルト), Willi(1894-1951):海軍野戦砲兵隊・2等歩兵。ザクセンのアポルダ郡のベルクズルツァ(Bergsulza)出身。(3583:熊本→久留米)
62) Plätschke(プレチュケ),Guido(?-?):第3海兵大隊予備榴弾砲兵隊・後備伍長。[人力車運送業]。青島時代はヴィルヘルム皇帝海岸通(Kaiser-Wilhelm-Ufer)に住んでいた。大戦終結後、済南で輸出入等の仕事に従事した【ヴォルフガング・バウアー『青島(チンタオ)1914年から1931年』(Wolfgang Bauer:Tsingtau 1914 bis 1931)230頁】。ブレスラウ(Breslau)出身。(4423:「熊本→」大分→習志野)
63) Platte(プラッテ),Hermann(?-?):海軍東アジア分遣隊第2中隊・2等歩兵。[指物師]。1915年9月20日福岡から名古屋へ収容所換えになった。コスヴィヒ(Koswig)出身。(1405:福岡→名古屋)
64) Pless(プレス), Max(1892-1977):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。靴職マイスターの父ヴィルヘルムと母カロリーネの間に6人兄弟で生まれた。1906年リックマー汽船会社に入り、1914年6月末に香港に赴き、無線電信員として領事館で無線通信業務に従事し、やがて青島へ赴いた。板東時代の1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会においては、2時間49分39秒5分の4で78位になった【『バラッケ』第4巻4月号82頁】。解放されてドイツに帰国後は商業船の3等航海士となり、1922年エルザ・ラム(Elsa Ramm)と結婚、息子二人をもうけた。1938年、ハンブルク州立銀行に勤めた。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ハンブルク(Hamburg)出身。(3063:松山→板東)
65) Pluemmen(プリュンメン),Hermann(?-?):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。1914年9月28日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米俘虜収容所に送られた【『欧受大日記』大正三年十一月上より】。ラインラントのカペレン(Capellen)出身。(658:久留米)
66) Poebel(ペーベル),Fritz(?-?):第3海兵大隊第3中隊・上等歩兵。久留米時代は演劇活動で、フルダ作の喜劇『二人きりで』等11演目に主として女役で出演した。1919年10月17日の「収容所楽団と四重唱クラブの共演コンサート」で、ワーグナー『さまよえるオランダ人』より「舵取りの歌」等をテノール独唱した。宣誓解放された。ボッフム(Bochum)出身。(665:久留米→板東)
67) Pohle (ポーレ),Wilhelm(?-?):第3海兵大隊第2中隊・伍長。板東時代、「エンゲル・オーケストラ」の団員で、トランペットを担当した。シュトラースブルク(Strassburg)出身。(2015:丸亀→板東)
68)
Pönitz(ペーニッツ),Erich(?-1919):第3海兵大隊第4中隊・2等歩兵。1919年8月2日肺結核により久留米で死亡、久留米山川陸軍墓地に埋葬された。なお、大戦終結後の1920年1月16日、遺骨はドイツ側委員に引き渡された【『欧受大日記』大正十三年三冊之内其一、附表第一「埋葬者階級氏名表」より】。西プロイセンのプロイスィッシュ=シュタルガルト(Proissisch-Stargard)出身。(3578:熊本→久留米)
69)
Ponsel(ポンゼル),Hugo(?-?):第3海兵大隊第4中隊・2等歩兵。その「日記」がイェキッシュ氏所蔵で遺されている。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ブラント河畔のノイゼス(Neusess)出身。(2647:名古屋)
70)
Poppeck(ポッペク),Gustav(?-?):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。板東時代、第3棟5室で「ハリー」靴店を営み、公会堂での工芸品展には編み靴下を出品した。ヴェストファーレンのビューア(Buer)出身。(2017:丸亀→板東)
71)
Porsch(ポルシュ),Hermann(?-?):海軍東アジア分遣隊第1中隊・2等歩兵。習志野時代の1919年1月8日と9日、収容所で演じられたハウスライターとライマン作の3幕の茶番劇『電話の秘密』に年金生活者の妻役で出演した。また同年10月5日、マルフケ(Marufke)のために開催された「謝恩の夕べ」では、二部構成の第二部の演劇でハラーシュタイン作の1幕物茶番劇『射撃手と空クジ』で、料理女の役で出演した。ライン河畔のハムボルン(Hamborn)出身。(186:東京→習志野)
72)
Poerschke(ペルシュケ),Hermann(?-?):海軍野戦砲兵隊・2等野砲兵。大阪時代の1915年6月初旬、リープマン(Liebmann)及びポスピヒ(Pospich)と脱走したが逮捕され、7月5日に禁錮2年の刑を受け大阪監獄に収監されたが、11月12日の大正天皇即位の大典の恩赦で1年6ヶ月に減刑された。同年6月12日に仮出所した【参照:『大正三年乃至九年 戦役俘虜ニ関スル書類』中の「俘虜仮出獄者一覧表」より】。ポーランド人であったことから後に宣誓解放された。オステローデ郡のタンネンベルク(Tannenberg)出身。(4571:大阪→似島)
73)
Pospich(ポスピッヒ),Friedrich(?-?):海軍膠州砲兵隊第3中隊・2等砲兵。大阪所時代の1915年6月初旬、リープマン(Liebmann)及びペルシュケ(Poerschke)と共謀して脱走を企てた。1915年7月5日に禁錮2年6月に処せられて大阪監獄に収監されたが、11月12日の大正天皇即位の大典の恩赦で1年10ヶ月に減刑された。シュパンダウ(Spandau)出身。(4016:大阪→似島)
74)
Possardt(ポッサート), Alfred(?-?):海軍膠州砲兵隊第1中隊・2等砲兵。高等師範の主将だった田中敬孝の子息の手元には、俘虜チームの写真が遺されている。体操服を着て肩を組んで並んでいる11名の写真の裏には、メンバーの名前と思われる人名が記されている。ポッサートの名が記されていることから、メンバーの一員だったと思われる【〔写真10〕参照】。他のメンバーは、ハープリヒス(Habrichs)、ハイネマン(Heinemann)、ホロナ(Holona)、イーデ(Ide)、クラーバー(Klaiber)、クラインベック(Keinbeck)、クヌッベン(Knubben)、レーベン(Loeven)、シュライ(Schrey)、シュルマン(Schürmann)の10名である。なお、1919年1月26日に高等師範学校の運動場で、高等師範等の生徒と試合を行ったのは、集合写真【〔写真13〕参照】から別のチームと思われる。ブランデンブルクのフォルスト(Forst)出身。(4012:大阪→似島)
75)
Pötter(ペッター),Karl(?-1919):国民軍・卒。[ベルニック・ウント・ペッター商会(H.Bernick & Pötter Co.)共同経営者]。1900年にグスタフ・ベルニック(Gustav Bernick)の兄ヘルマンの誘いを受けて青島に来た。各種の技術を習得していた。やがてヘルマン・ベルニックと共同で、建築業を営む会社を設立した。妻のエリーザベト(Elisabeth)は一年ほど後の1901年ないし1902年に青島に着いた。青島時代はハンブルク街(日本の占領統治時代は深山町)に住んでいたが、夫婦には子供はいなかった。1915年9月下旬、青島俘虜収容所に収容された。10月11日付けの俘虜情報局による追加名簿では、収容所先がまだ青島となっている。1916年1月31日に青島から移送され2月4日に大阪収容所に着いた。1919年7月3日似島俘虜収容所で病死、享年45歳だった。妻のエリーザベトは大戦終結まで青島に留まった。1920年12月25日、青島欧人墓地内のドイツ人戦没者墓地に埋葬された。墓標番号は552番【『陸軍省欧受大日記』大正十三年三冊之内其一の「獨逸人戰没者墓地名簿」より】。ナッヘル(Nachel)出身。(4695:青島→大阪→似島)
76)
Pozar(ポーツァル),Isidor(?-?):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・3等水兵。1916年10月9日、ツリアーニ(Zulliani)等12名と青野原から丸亀に移送された。板東収容所へ移送後まもなくの1917年6月22日、イタリアの連合国加盟により宣誓解放された。高木大尉以下下士13名の付き添いの下、小松島港から徳島丸(共同丸?)で神戸に着き、同夜は栄町の「恵比須屋旅館」に投宿した。大正6年6月24日付『神戸新聞』には、その折の高木大尉を囲む記念写真、旅館でくつろぐ13名の解放俘虜の写真が掲載された。イストリアのフイウミツェロ(Fuimicello)出身。(2367:姫路→青野原→丸亀→板東)
77)
Prädel(プレーデル),Gustav(?-?):海軍野戦砲兵隊・上等兵。静岡時代の1915年(月日不明)、未知の婦人にハンカチを振って手招きする行為をして、日本婦人に対して侮辱したことを厳に戒められたにも拘らず、再度前記の行為をした科で、懲役3ヶ月の処罰を受けた。エールゼー(Oelsee)出身。(1771:静岡→習志野)
78)
Prahl(プラール),Alfred(?-?):第3海兵大隊第3中隊・2等歩兵。久留米の演劇活動では、ケルナー作の喜劇『夜番』等6演目に出演した。1919年3月に発行された『久留米詩文集』に、プラールの抒情詩「クライストの墓にて」等7編と、叙事詩「ハンス・フンデルトゲズィヒトの生活からの夜景」等2編が掲載され、前記2編はそれぞれが抒情詩部門と叙事詩部門の一等賞に輝いた。1919年にカール・フォークト(Karl Vogt)作曲の『四つの歌』の内の「夕べのヴァイオリン」を歌った。ベルリン(Berlin)出身。(662:久留米)
79)
Prahm(プラーム),Jelleus(?-?):海軍砲兵中隊・2等信号兵曹。[商船船長]。習志野時代、クリューガー(K.Krüger)と同室だった。クリューガーによれば、プラームは大柄でブロンドの髪をし、落ち着いた知的な人物だった。東フリースラントのレーア(Leer)出身。(192:東京→習志野)
80)
Prange(プランゲ),Wilhelm(?-?):砲兵弾薬庫・2等掌砲兵曹。青野原時代、1918年12月13日から20日まで開催された俘虜製作品展覧会では、運営係りを務めた【『AONOGAHARA捕虜の世界』67頁】。ダンチヒ(Danzig)出身。(2349:姫路→青野原)
81) Praschma(プラシュマ),Cajus Graf von(1874-1948):海軍野戦砲兵隊・退役陸軍少尉(伯爵)。〔要塞車厰第3次指揮官〕。[税官吏]。父フリードリヒ・グラーフ・プラシュマ・フォン・ビルカウ伯爵(Friedrich Graf Praschma,Freiherr von Bilkau)と、母エリーザベト・グレーフィン・ツー・シュトルベルク=シュトルベルク(Elisabeth Gräfin zu Stolberg-Stolberg)との間に、上部シュレージエンのファルケンベルクに生まれた。1899年末に中国に赴き、中国の軍学校及び税関に勤務した。1909年、ロンドンで英国女性アイリス・キングスコートゥ(Iris Kingscote)と結婚して中国に戻った。青島時代はアウグステ・ヴィクトリア湾(Auguste Victoria Bucht;日本時代は忠ノ海)地区に住んでいた。大戦前に息子二人が生まれた。熊本時代の1915年1月29日、妻が陸軍大臣の許可を得て面会に訪れた。以後は所長の計らいで、毎週水曜午前9時から面会出来ることになった。久留米時代、妻アイリスは国分村浦川原の森新別荘に子供二人と住んだ。1918年3月スイス公使宛に、ドイツアジア銀行清算に伴い送金された625円は元来妻子宛のものが誤送されたとして、12日転送された。同年8月6日久留米から習志野へ収容所換えになった。大戦終結して帰国後、退役大尉となり、その後娘一人と息子一人が生まれた。『ドイツ兵捕虜と収容生活―久留米俘虜収容所W―』(2007)によれば、プラシュマは第二次大戦前にシュトゥットガルトに移住した。戦後は病気で耳が不自由になり、一家の生計は大尉としての恩給と妻アイリスの翻訳の仕事(英語−ドイツ語)による収入に拠った。1948年6月1日死去し、テューリンゲンの墓地に埋葬された。なお、前記『ドイツ兵捕虜と収容生活』には、当時の『九州日日新聞』及び『福岡日日新聞』に度々掲載された、プラシュマ並びに妻アイリスに関する記事や、『プラシュマ一族新聞』にも『九州日日新聞』の「俘虜伯爵」に関する記事が紹介されたことなど、プラシュマ関連記事が7頁に亘って掲載・紹介されている。プラシュマは第二次大戦前にシュトゥットガルトに移住した。上部シュレージエンのファルケンベルク(Falkenberg)出身。(3581:熊本→久留米→習志野)
82) Precht(プレヒト),Karl(1893-1985):海軍膠州砲兵隊第1中隊・2等砲兵。[パン職人]。息子のヴィリー・プレヒト(Willi Precht)氏によれば、プレヒトはパン職人の家庭に生まれた。ヴュッルツブルクのフランクフルト街にあったパン屋テレーゼで徒弟修業した。その後フランクフルト、ケルン、ヴィースバーデン、ハノーファーで職人として働いた。1913年10月ククスハーフェンで海軍兵士として訓練を受けて、1914年1月青島に赴いた。プレヒトが収容所から祖国ドイツに送った手紙が今日いくつか遺されている。プレヒトは父親の遺品から、1918年末に似島収容所から姉妹に宛てた自分の手紙を発見したが、その内容は以下である。「僕はその後も変わりありません。今はサッカー、ファウストバル、テニスで時間をつぶしています。以前はさらに畑仕事もしていましたが、それは戦略的理由から再び禁じられています。…僕たちも直に故郷へ戻れるでしょう。というのもたった今平和条約が締結されたことを知ったからです」。大戦終結して帰国後、プレヒトはパン職人から方向転換して、煉瓦職人になった。第二次大戦中はニュルンベルクで煉瓦職として働いたが、1945年3月16日の大空襲で家が完全に破壊された。プレヒトの海軍時代の思い出の品は、時に道具箱に、時にジャガイモ入れとなっても空襲でも焼けずに残った海軍箱だけであるという。日本に対する熱い思いを終生抱き、息子によれば、ヴュルツブルクで日本人旅行客を見かけると、おぼつかない日本語で話しかけたという。もし飛行機恐怖症でなかったならば、必ずや日本にまた一度でかけたであろうとも息子のヴィリー氏は語っている。「日本人は世界で一番清潔好きだ。なにしろ毎日風呂に入る」との言葉を家族はよく耳にしたとも語っている。1972年、ヴュルツブルクでの最後の「チンタオ戦友会」には、友人にして同じく戦友のヴィリッヒ(Willig)と出席した【メッテンライター『極東で俘虜となる』84-86頁 】。下部フランケンのマイン河畔ハイディングスフェルト(Heidingsfeld)出身。(4011:大阪→似島)
83) Prechtl(プレヒトル),Josef(1894-?):海軍東アジア分遣隊第3中隊・2等歩兵。1915年7月11日福岡から久留米へ収容所換えになった。解放後は蘭領印度に渡った。低地バイエルンのノイキルヒェン(Neikirchen)出身。(1410:福岡→久留米)
84) Prediger(プレーディガー),Karl(?-?):第3海兵大隊第7中隊・予備副曹長。[青島山林局]。青島時代はアウグステ・ヴィクトリア湾地区の電信部官舎に住んでいた。丸亀時代の1915年4月17日、神戸在住の知人が犬一匹を連れて収容所を訪れ、プレーディガーへのその犬の交付を願い出た。その犬はそもそもプレーディガーの飼い犬で、病気のために神戸の知人に預けてあったものだった。規定の手続き後に交付された【『丸亀俘虜収容所日誌』より。なお、丸亀俘虜収容所では、犬の交付願いが数件あり、一時期犬を飼うことが流行ったが、8月29日をもって犬の飼育は一切認められなくなった】。板東時代、収容所周辺の山林における伐採作業では、午前のクリーマント(Klimant)の後を受けて午後の指揮を執った。1918年6月25日、収容所内タパタオの市長選挙が行われ際には開票役に選ばれた。ハンブルク(Hamburg)出身。(2022:丸亀→板東)
85) Preiss(プライス),Walter(?-?):海軍砲兵中隊・2等焚火兵。習志野時代の1919年1月8日、9日に収容所で演じられた、ハウスライターとライマン作の3幕の茶番劇『電話の秘密』に女中役で出演した。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ハンブルク(Hamburg)出身。(194:東京→習志野)
86) Preissel(プライセル),Johann(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[中国ジーメンス漢口支店]。ニュルンベルク(Nürnberg)出身。(3061:松山→板東)
87) Preissler(プライスラー),Richard(?-?):海軍膠州砲兵隊・2等砲兵。[指物師]。1915年9月15日福岡から習志野へ収容所換えになった。マイセン(Meissen)出身。(1398:福岡→習志野)
88) Pretzsch(プレッチュ),Wilhelm(?-?):海軍野戦砲兵隊・軍楽軍曹。1916年10月2日、名古屋の「いとう呉服展」(現松坂屋)から、プレッチュ、シューマン(Schumann)及びヴロブレフスキー(Wroblewsky)の3人を、洋楽教授として雇用する旨の申請書が提出された。労働条件は日曜を除く毎日午前9時から午後4時までで、給与は1ヶ月20円である【校條「名古屋俘虜収容所 覚書V」所載:『「青島戦ドイツ兵俘虜収容所」研究』第6号、21頁】。また1919年6月22日に開催された「名古屋収容所俘虜製作品展覧会」のカタログによれば、プレッチュはシェッフェル(Scheffel)とともに名古屋俘虜収容所楽団(Lagerkapelle)の指揮者を務めた。デリッチュ(Delitzsch)出身。(2642:名古屋)
89) Preu(プロイ),Johann(?-?):第3海兵大隊第1中隊・上等歩兵。1919年10月の第2回スポーツ週間開催に当たって、プロイは陸上競技の試合規則制定や、審判を選ぶための技術委員会の一員にマーニッツ(Manitz)、オルトレップ(Hermann Ortlepp)、ペッヒ(Pech)、ヴェーバー(Erenfried Weber)、ブロック(Block)とともに選ばれた。自身も1917年10月17日に開催された「幅跳び踏み切台有」(参加者14名)で、6.4mで第1位に、10月19日の「三段跳び(踏み切り台有)」では12.92mで第1位になるなど、久留米のスポーツ大会では大活躍した。ツヴィッカウ(Zwickau)出身。(646:久留米)
90) Preuss(プロイス),Alwin(1892-?):海軍砲兵中隊・2等掌水雷兵曹。久留米時代の1919年11月に撮られたプロイスのスナップ写真がシュミット氏のホームページに掲載されている。ブレスラウ(Breslau)出身。(3587:熊本→久留米)
91) Preusse(プロイセ),Paul(?-?):海軍膠州砲兵隊第1中隊・2等機関兵曹。『ドイツ・トゥルネン新聞(Deutsche Turn-Zeitung)』の1917年4月19日付け16号に、「大阪(日本)からの手紙」と題して、プロイセからの同新聞編集部への感謝と催し物について述べた手紙と、また同年8月16日付けの33号には、似島への移転とそこでの活動状況を知らせる友人宛ての手紙が掲載された【山田『俘虜生活とスポーツ』145頁】。ザクセンのピルナ(Pirna)出身。(4009:大阪→似島)
92) Prikasky(プリカスキー),Franz(?-1920):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・4等電信下士。解放後は蘭領印度に渡った。1920年10月4日サマラン(Semarang)で死亡した。ウィーン(Wien)出身。(2354:姫路→青野原)
93) Prillwitz(プリルヴィッツ),Heinrich(?-?):海軍膠州砲兵隊第3中隊・1等砲兵。徳島時代の1914年12月26日、福岡のマイレンダー(Mailänder)に宛てて葉書を出した。葉書は徳島新町橋の眉山を背景とした風景写真の絵葉書で、3センチ四方角の「徳島俘虜収容所之印」、「検閲済」の印、福岡俘虜収容所の検閲印、さらにはカタカナの「クリス」印が押されている【収容所員の栗栖中尉の印と思われる】。文面は次の通り。「君からの葉書受け取った。有難う。葉書からは元気そうだが、僕も元気だ。残念なことに大阪ではなくて、徳島にいる。ではさようなら」【マイレンダーの項参照】。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ザーレ河畔のベルンブルク(Bernburg)出身。(4249:「大阪→」徳島→板東)
94) Prinz(プリンツ),Walter(?-?):海軍膠州砲兵隊第3中隊・砲兵軍曹長。徳島時代の1915年4月20日、チェス選手権試合が開催された。それに出場したプリンツは4組(出場者総数21名)の内の第1組に割り当てられたが、5位に終わり本戦のB級進出に留まった。1915年12月5日付けの『徳島新報』第2巻第11号によれば、プリンツは11月28日に開催されたスポーツ大会の「棒高跳び」で、2.75メートルの成績で1位になった。また「走り幅跳び」でも5.63メートルで1位だった。更に「3段跳び」では、ラグーゼ(Raguse)と1位の栄光を分け合い、6種目総合では87点の成績で1位になった。板東時代の1918年5月26日、収容所体操協会による創立記念体操会が行われた。その折り、壮年組の徒手体操とゲームを指導して、大会を活気づけた。砲兵大隊スポーツ協会の役員を務めた。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ラインラントのメンヒェングラートバハ(M.-Gladbach)出身。(4248:「大阪→」徳島→板東)
95) Prinzenzing(プリンツェンツィング),Josef(?-?):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。『ドイツ軍兵士と久留米』205頁には、1919年1月の日付での久留米ホッケーチームの集合写真が掲載されているが、その左から四人目に写っている。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ヴェストファーレンのリップシュタット(Lippstadt)出身。(649:久留米)
96) Probst(プロプスト),Ewald(?-?):第3海兵大隊工兵中隊・2等工兵。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ヴェストファーレンのダールハウゼン(Dahlhausen)出身。(3065:松山→板東)
97) Probst(プロプスト),Heinrich(1874-?):総督府・海軍衛戍司令部兵監。青島時代はテティス街(Thetisstraße)に住んでいた。ハノーヴァーのホーエンシュテット(Hohenstedt)出身。(668:久留米→習志野)
98) Probst(プロプスト),Josef(?-?):海軍東アジア分遣隊第2中隊・2等歩兵。1915年9月20日福岡から名古屋へ収容所換えになり、名古屋で宣誓解放された。ズルツマット(Sulzmatt)出身。(1406:福岡→名古屋)
99) Pröfener(プレフェナー),Johannes(?-?):第3海兵大隊第4中隊・後備2等歩兵。[上海居留地工部音楽隊員]。1906年11月7日、前記音楽隊に加入した【「1912年版上海工部局年次報告書」より】。1914年12月15日、在上海総領事から外務大臣宛に、上海租界の代表から、指揮者ミリエス(Millies)とその楽団員であるエンゲル(Paul Engel)、ガーライス(Gareis)及びプレフェナーは非戦闘員なので解放せよとの申し入れがあったが、軍籍があることから不許可になった。ハンブルク(Hamburg)出身。(4017:大阪→似島)
100) Protze(プロッツェ),Arthur Richard(1888-1978):総督府・1等砲工。1914年7月31日から1914年11月10日までの青島での戦闘経過を記した日記と、1919年12月から1920年2月までのドイツへの帰国航を記した日記の断片が残されていて、娘のローゼマリー・オクセンドルフ(Rosemarie Ochsendorf)から鳴門市ドイツ館に寄贈された。1916年10月18日福岡から大分へ収容所換えになった。テューリンゲンのツェラ(Zella)出身。(1412:福岡→大分→習志野)
101) Puchert(プッヘルト),Wilhelm(1892-1918):海軍東アジア分遣隊第2中隊・2等歩兵。1915年9月20日福岡から名古屋へ収容所換えになった。1918年11月26日名古屋で死亡、陸軍墓地に埋葬された。ノイ=ヴァルダウ(Neu-Waldau)出身。(1407:福岡→名古屋)
102) Püchot(ピュヒョ),Heinrich(?-?):海軍膠州砲兵隊。2等砲兵。1915年12月、宣誓解放された。ロートリンゲンのヴァネクール(Vannecouert)出身。(1402:福岡)
103) Pügner(ピュークナー),Robert(?-?):第3海兵大隊第7中隊・後備伍長。[広東・イェプセン商会]。板東時代、収容所の合唱団でバスを担当した。ドレスデン(Dresden)出身。(2024:丸亀→板東)
104) Pupke(プープケ),Friedrich(1883-1944):第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。[時計職人]。父グスタフ(Gustav)は馬具職人、母の名はルイーゼ(Luise)。1904 年にモンテヴィデオへの旅をし、そこから南京、上海へ赴いた。板東時代、工芸品展に自動表示装置付きの雨量測定器を製作・出品した。解放後は蘭領印度へ赴き、ペダン(Padang)の商会に入り、後に時計職人として独立した。1922年3月18日カタリーナ・ナーケ(Katharina Naacke)と結婚し、4人の子どもをもうけた。1930年ドイツへ帰国して時計職を営んだ。ベルリン(Berlin)出身。(2029:丸亀→板東)