1) Quaas(クヴァース),Emil(?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・1等砲兵。1919年1月21日、流行性感冒のため広島衛戍病院に入院し、1月26日に同病院で解放された【『戦役俘虜ニ関スル書類』附表第六号の「俘虜患者解放者一覧表」より】。ザクセンのランベルツヴァルト=グローゼンハイム(Lamberzwald-Grosenheim)出身。(4018:大阪→似島)
2) Quedenbaum(クヴェーデンバウム),Heinrich(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[ウラジオストック・ランゲリューチェ商会]。松山時代の1918年8月、精神を病んで松山衛戍病院に1年9ヶ月入院していた。しばしば拘束服を着用させられもした。板東収容所に移って少し快方に向かったが、看護を担当していたノルテマイヤー(Noltemeyer)の見解では、正常人の精神状態からは程遠いとされた。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ハンブルク(Hamburg)出身。(3067:松山→板東)
3) Quinten(クヴィンテン),Rudolf(?-?):海軍膠州砲兵隊第3中隊・予備1等砲兵。青島時代はドイツ街に住んでいた。板東時代の1918年5月2日、東久邇稔彦王が四国旅行で徳島に立ち寄った際、急遽撫養で俘虜による作品展示会が特別に開催された。その折クヴィンテンが制作出品した皇帝とヒンデンブルクの焼絵肖像2枚が買い上げられた。東京の家のホールに飾るためと言われた。他に、ボーン(Bohn)、グヌシュケ(Gnuschke)、ヘフト(Hoeft)の作品も買い上げられた。コーブレンツ近郊のマイエン(Mayen)出身。(4255:「大阪→」徳島→板東)