1) Raake(ラーケ),Hermann(?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・1等砲兵。[製靴工マイスター]。1916年10月20日福岡から大阪へ収容所換えになった。アイゼナッハ近郊ベルカ(Berka)出身。(1416:福岡→大阪→似島)
2) Radau(ラーダウ),Max(?-?):海軍膠州砲兵隊・後備2等砲兵。青島時代は旧衙門(Altes Yamen;清国時代の官衙)に住んでいた。1916年10月20日福岡から青野原へ収容所換えになった。1918年12月13日から20日まで開催された青野原俘虜製作品展覧会では、運営係りを務めた【『AONOGAHARA捕虜の世界』67頁】。妻テレーゼ(Therese)は大戦終結まで、家族七人で青島に留まった。大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として日本国内で解放された。出身地不明(『俘虜名簿』では青島)。(1443:福岡→青野原)
3) Rademacher(ラーデマッハー),Adolf(?-?):第3海兵大隊第7中隊・伍長。丸亀時代、1915年12月30日付けの葉書が神戸からラーデマッハーに届いた。差出人は不明(判読不可)、文面は新年の挨拶状。収容所員の市川元治中尉を示す「いちかわ」の文字入り三角印が押されている【高松市在住の郵趣家三木充氏の所蔵品より】。丸亀時代には、神戸市に住む妻の名倉小松が28回面会に訪れた【『丸亀俘虜収容所日誌』より】。ヴェストファーレンのレトマーテ(Letmathe)出身。(2043:丸亀→板東)
4) Rademacher(ラーデマッハー),Gustav(?-?):第3海兵大隊第7中隊・伍長。丸亀時代、神戸市に住む義姉の名倉小松が面会に訪れた【『丸亀俘虜収容所日誌』より】。このことから、グスタフ(Gustav)は前記アードルフ(Adolf)の弟と考えられる。ヴェストファーレンのレトマーテ(Letmathe)出身。(2044:丸亀→板東)
5) Radseck(ラートゼック),Otto(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[青島警察署事務官]。青島時代はホーエンローエ通に住んでいた。ポンメルンのトレープリン(Treblin)出身。(3085:松山→板東)
6) Radtke(ラトケ),Eberhard(?-?):第3海兵大隊第7中隊・予備陸軍少尉。1915年6月熊本から久留米に収容所換えになった。1954年11月6日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。ベルリン(Berlin)出身。(3620:熊本→久留米)
7) Radtke(ラトケ),Heinrich(?-?):所属部隊不明・1等焚火兵。[錠前工]。青島時代は小港通に住んでいた。妻クラーラ(Klara)は五人の子(内二人は12歳以下、一人は12歳以上の息子、二人は12歳以上の娘)と大戦終結まで上海で暮らした。オルデンブルクのリュストリンゲン(Rüstringen)出身。(4582:大阪→似島)
8) Radzuweit(ラートツーヴァイト),Friedrich(?-?):海軍東アジア分遣隊第3中隊・後備軍曹。[兵営監守]。青島時代は衙門兵営(Yamenlager)に住んでいた。妻ジドニー(Sidonie)は娘二人(ともに12歳以下)と大戦終結まで青島に留まった。大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として日本国内で解放された。ヴァルテ河畔のランツベルク(Landsberg)出身。(3084:松山→板東)
9) Raguse(ラグーゼ),Friedrich(?-?):海軍膠州砲兵隊第3中隊・2等砲兵。1915年12月5日付けの『徳島新報』第2巻第11号によれば、ラグーゼは11月28日に開催されたスポーツ大会の「砲丸投げ」で、9.57メートル20点の成績を挙げて1位だった。また「3段跳び」では、プリンツ(Prinz)と1位の栄光を分け合った。6種目総合では81点の成績で2位になった。ベルリンのアルト=グリニケ(Alt-Glinicke)出身。(4266:「大阪→」徳島→板東)
10) Rahaus(ラーハオス),Hermann(1890-?):海軍膠州砲兵隊第3中隊・予備火工副曹長。[カルロヴィッツ商会青島支店]。徳島俘虜収容所内で発行された新聞『徳島新報』編集の中心的人物だったと推測されている。板東時代は『バラッケ』編集部員を務めた。大戦終結して帰国の際、帰国船豊福丸船内でも板東俘虜収容所から持参してきた印刷機で、船内新聞『帰国航』(Die Heimfahrt)の編集・発行に励んだ。ハンブルク(Hamburg)出身。(4271:「大阪→」徳島→板東)
11) Raket(ラーケット),Reinhold(?-?):海軍膠州砲兵隊第4中隊・掌罐兵曹長。板東時代、工芸品展にホーン(Hohn)と共同で写真の引き延ばし機を製作・出品した。シュレージエンのゲルリッツ(Görlitz)出身。(4269:「大阪→」徳島→板東)
12) Ramin(ラミーン),Fritz(?-?):海軍膠州砲兵隊第4中隊・2等砲兵。右上膊部榴散弾弾子盲貫銃創により、大阪陸軍衛戍病院に入院した。ザクセンのアイレンブルク(Eilenburg)出身。(4649:大阪→似島)
13) Ramin(ラミーン),Paul Otto(1883-?):第3海兵大隊第7中隊・陸軍中尉。〔第3歩兵堡塁指揮官〕。青島時代はビスマルク街に住んでいた。1914年11月5日、守備に就いていた堡塁が日本軍の猛攻を受けて崩壊した。丸亀時代の1916年4月14日(推定)に、石井彌四郎収容所長を囲んで撮影した記念写真が現存している。ドイツ将校7名と収容所人員の計17名の集合写真である。ラミーン中尉は、中列の中央、石井所長の後ろである【アダムチェフスキー(Adamczewski)少尉の項、及び〔写真1〕を参照】。1916年10月4日、ランセル(Lancelle)大尉、シュリーカー(Schlicker)中尉、フェッター(Vetter)中尉、シェーンベルク(Schönberg)少尉、アダムチェフスキー少尉、キュールボルン(Kühlborn)少尉とともに丸亀から大分に移送された。ウッカーマルク(Uckermark)のミルデンベルク(Mildenberg)出身。(2033:丸亀→大分→習志野)
14) Ramming(ラミング),Adam(?-?):海軍膠州砲兵隊第1中隊・2等砲兵。[麦酒醸造職人]。1916年9月25日福岡から青野原へ収容所換えになった。バイエルンのウンターシュタイナッハ(Untersteinach)出身。(1415:福岡→青野原)
15) Räpp(レップ),Max(?-?):海軍野戦榴弾砲兵隊・2等砲手。熊本時代、法則に違反し、濫りに構外にの小川で水浴をした科で重営倉7日の処罰を受けた。アイゼナッハ(Eisenach)出身。(3625:熊本→久留米)
16) Rappenecker(ラッペンエッカー),Dr.Karl(?-1920):第3海兵大隊第4中隊・予備副曹長。[上海・同済医療技術専門医学校教師]。フライブルク大学で学位を取得した。熊本時代の1915年1月24日、阿弥陀寺に収容されていたラッペンエッカーは、ブッシュ(Johannes Busch)、フリッケ(Fricke)及びツァイス(Zeiss)四人で収容所から脱走し、禁固1年に処せられた。なお、ラッペンエッカーが逃亡時に所持していたものは、日用品・衣類等の他にりんご、蜜柑、チョコレート32個、腸詰・ハム、双眼鏡で、更に日本紙幣25円、日本銀貨2円22銭であった。『旧保護地及び海外部隊伝統連盟会報第56号』(1977年4/5月)に、「日本の監獄から」と題した文章を寄せた。その中で、熊本俘虜収容所で4人の俘虜が脱走を試みて失敗し、数ヶ月の懲役を受けたことを記している【クライン『日本に強制収容されたドイツ人俘虜』216頁】。1918年8月6日久留米から名古屋へ収容所換えになった。解放後は上海へ渡り、再び同済専門学校で教えたが、1920年5月18日に上海で没した。フライブルク(Freiburg Br.)出身。(3607:熊本→久留米→名古屋)
17) Rasch(ラッシュ),Albert(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等砲兵。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に際して、その他部門で、背広1点及びジャケツとチョッキの試作品を出品した。上記展覧会のカタログの32頁には、ラッシュ経営の洋服店の広告がイラスト入りで描かれている。ゲッティンゲン(Göttingen)出身。(4578:大阪→似島)
18) Raschdorf(ラッシュドルフ),Karl(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・1等給与掛筆生。青島時代はテティス街(Thetisstraße)に住んでいた。1916年9月25日福岡から青野原へ収容所換えになった。シュレージエンのフランケンシュタイン(Frankenstein)出身。(1456:福岡→青野原)
19) Rasenack(ラーゼナック),Friedrich W.(?-1920):第3海兵大隊・予備副曹長。[ザンダー・ヴィーラー商会]。板東時代、1917年5月に松山収容所からの人員を加えて拡大した「エンゲル・オーケストラ」の団員で、第2ヴァイオリンを担当した。公会堂での絵画と工芸品展覧会の肖像画部門に、「水兵Zの肖像」を出品して一等賞を受賞し、また「ドイツ騎士団員」等の水彩画も多く出品した。俘虜送還船「豊福丸」船内で発行された新聞『帰国航』第2号は、ラーゼナックの追悼記事を冒頭に掲げた。それによるとラーゼナックは、神戸で乗船した時に既に重い風邪に罹っていた。シンガポールに着く直前の夜、1920年1月11日午後2時5分に肺炎のため船内で死亡し、水葬に付された。第3海兵大隊第6中隊長ブッターザック(Buttersack)中尉の、愛惜をこめた詩が『帰国航』第2・3号に掲載された。オーデル(Oder)河畔のフランクフルト(Frankfurt)出身。(3083:松山→板東)
20) Rasmussen(ラスムッセン),Peter(?-?):砲艦ヤーグアル乗員・上等兵曹。習志野時代の1916年1月27日、ヤーグアル乗員が全員一室に集まってドイツ皇帝の誕生日を祝った際に、木製のヤーグアルとその乗員の鉄の水兵について講談を行った。宣誓解放された。キール(Kiel)出身。(216:東京→習志野)
21) Rasor(ラーゾル),Otto(1891-?):第3海兵大隊第6中隊・予備伍長。[カルロヴィッツ漢口支店]。板東時代の1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会においてラーゾル(28歳)は、2時間34分30秒5分の1で46位になった【『バラッケ』第4巻4月号81頁】。マイン河畔のフランクフルト(Frankfurt)出身。(3071:松山→板東)
22) Rau(ラウ),Peter(1892-1973):第3海兵大隊第3中隊・上等歩兵。1892年8月31日、坑夫の子としてマルシュタット=ブルバハ(今日のザールブリュッケン)に生れた【シュミット】。ザールブリュッケン(Saarbrücken)出身。(689:久留米)
23) Rauh(ラオ),Hans(?-1914):海軍膠州砲兵隊第5中隊・1等砲兵。1914年12月8日青島で死亡し、青島欧人墓地に埋葬された。バイエルンのホーフ(Hof)出身。(4660:青島)
24) Rausche(ラウシェ),Otto(?-?):第3海兵大隊予備榴弾砲兵隊・後備2等砲兵。青島時代はハンブルク街に住んでいた。カンシュタット(Cannstatt)出身。(1778:静岡→習志野)
25) Rawengel(ラーヴェンゲル),Bruno(?-?):第3海兵大隊・海軍中主計(中尉相当)。1954年11月6日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。シュテッティン(Stettin)出身。(671:久留米)
26) Raydt(ライト),Ernst(1887-?):海軍東アジア分遣隊参謀本部・予備副曹長。[ベンク、クレッチュマー商会]。青島時代はダンチヒ街に住んでいた。習志野時代の1918年5月、ハム(Hamm)と一緒にシュレーダー(Schröder)【習志野収容所には同姓が三人いて特定不可】にロシア語を週3回習った。大戦終結後は、青島での就職既定者として日本国内で解放された。また1919年8月12日、習志野演劇協会によるベネディクス作の喜劇『親戚の情愛』に子ども役で出演した。ハノーファー(Hannover)出身。(201:東京→習志野)
27) Raydt(ライト),Felix(?-?):第3海兵大隊第2中隊・副曹長。1914年9月28日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米俘虜収容所に送られた【『欧受大日記』大正三年十一月上より】。10月9日、俘虜の第一陣として久留米に到着し、下士卒用の収容先である、久留米市日吉町の大谷派久留米教務所に収容された。4班に分けられた下士卒に対する全般の監督を、フィッシャー(Fischer)副曹長とともに務めた。久留米の演劇活動では、喜劇『クラブチェアーに座って』に出演した。シュレースヴィヒ=ホルシュタインのラッツェブルク(Ratzeburg)出身。(683:久留米)
28) Razenberger(ラーツェンベルガー),Karl(?-?):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・4等檣帆下士。熊本時代の1915年2月28日、それまで妙永寺に収容されていたが、同寺の水兵・古参下士との間で軋轢があり、フラヴィツァ(Hlavica)及びラーツェンベルガー(Razenberger)とともに、細工町阿弥陀寺に移された。1918年8月4日久留米から青野原へ収容所換えになった。上部オーストリアのザンクト・エギティ(St.Aegiti)出身。(3641:熊本→久留米→青野原)
29) Redecker(レーデカー),Wilhelm(?-?):国民軍・階級不明。[教師]。妻ベルタ(Berta)は大戦終結まで青島に留まった。ビーレフェルト(Bielefeld)出身。(4581:大阪→似島)
30) Reieke(ライエケ),Willy(1881-1930):測量艦プラーネット乗員・海軍中主計(中尉相当)。1914年10月9日、西カロリン群島のヤップ島で俘虜となったが11月1日宣誓解放された。シュパンダウ(Spandau)出身。(4665:なし)
31) Reiher(ライアー),Engelbert(?-?):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。1917年1月16日、居室の床板を切って私物の倉庫としたために、軍法会議で懲役3ヶ月の刑を受け、福岡監獄に収監された。下部フランケンのメルカースハウゼン(Merkershausen)出身。(682:久留米)
32) Reimer(ライマー),Balthasar(?-?):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。1914年9月28日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米俘虜収容所に送られた【『欧受大日記』大正三年十一月上より】。デューレン(Düren)出身。(685:久留米)
33) Reimers(ライマース),Otto(?-?):第3海兵大隊参謀本部・予備陸軍少尉。[オットー・ライマース商会社長]。名古屋収容所ではケーニヒ(Leo König)及びカルクブレンナー(Kalkbrenner)とともに日本語を解する俘虜だった。1914年(大正大三年)12月10日付けの新聞『新愛知』には、アーラース(Leonhard Ahlers)、ケーニヒ(Leo König)、ライマース及び少年兵ビーン(Ludwig Bien)の四人の写真が掲載された。ビーンを除く三人は日本語通とされている。ローマン(Lohmann)あるいはシュテーゲマン(Steegemann)の遺品と思われる写真中に、シュリック(Schlick)中尉とテニスコートのネットを挟んで、にこやかに握手している写真が現存している【ローマン及びシュテーゲマンの項、及び〔写真10〕を参照】。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。横浜在住のドイツ人ヴェルナー・ライマースは実弟で、丸亀及び板東に収容されたエルヴィン・フォン・コッホ(Erwin von Koch)はヴェルナーの義兄に当たる。ハンブルク(Hamburg)出身。(2658:名古屋)
34) Reimers(ライマース),Stephan(?-?):国民軍・卒。[メルヒャース商会社長]。青島時代は皇帝街(Kaiserstraße)に住んでいた。1915年3月19日、他の5名の青島大商人とともに青島から大阪に送還された。送還される前の2ヶ月間ほど、日本の青島軍政署ないしは神尾司令官から、用務整理のために青島残留を許可された【『欧受大日記』大正十一年一月の「俘虜釋放其他訴願ニ関スル件」より。青島の大商人10名は、当初国民軍へ編入されたが、青島で築き上げたドイツの貿易・商権保持のため、マイアー=ヴァルデック総督の指示で国民軍のリストから削除されたのであった】。ヴェーザー河畔のニーンブルク(Nienburg)出身。(4650:大阪→似島)
35) Reiminger(ライミンガー),Karl(?-?):海軍野戦砲兵隊・2等野戦砲兵。宣誓解放された。オストヴァルト(Ostwald)出身。(2671:名古屋)
36) Reinhardt(ラインハルト),Josef(?-?):国民軍・卒。青島時代はイレーネ街に住んでいた。1915年9月下旬に青島俘虜収容所に収容され、1916年1月31日青島から大阪俘虜収容所に移送された。バイエルン(Bayern)出身。(4696:青島→大阪→似島)
37) Reinhardt(ラインハルト),Kurt(1880-?):第3海兵大隊第7中隊・副曹長。板東時代、1918年4月9日、16日及び30日の3回に分けて、「東ヨーロッパの歴史」と題して講演した。ワイマールのドイシュテット(Deustedt)出身。(2042:丸亀→板東)
38)
Reinhardt(ラインハルト),Walter(?-?):砲艦ヤーグアル乗員・2等電信兵。【「W.Reinhardt,Narashino 16.Maerz 1917」と鉛筆書きで記したランゲンシャイト版の日本語会話帳が遺されていて、息子から日本人のドイツ文学研究者宮内啓太郎に譲られた。参照:『ブルンネン』、291号、郁文堂(Brunnen,Maerz
1987,Nr.291)】。ベルリン(Berlin)出身。(217:東京→習志野)
39) Reining(ライニング),Josef(?-?):海軍膠州砲兵隊第2 中隊・1 等砲兵。1916年10月20日福岡から大阪へ収容所換えになった。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に際して、美術の工芸金工部門で模型の大砲1点を出品した。ボートマン・アム・ゼー(Bodmann am See)出身。(1417:福岡→大阪→似島)
40) Reinking(ラインキング),Hans(?-?):第3海兵大隊第3中隊・2等歩兵。板東時代、収容所内のタパタオで製本屋を営んだ。公会堂での工芸品展には、部分的に水彩画による装飾をほどこしたアルバムを出品した。ミンデン(Minden)出身。(2039:丸亀→板東)
41) Reise(ライゼ),Heinrich(?-?):第3海兵大隊第4中隊・2等歩兵。1915年6月熊本から久留米へ収容所換えになった。1918年12月4日に行われた「久留米体操クラブ」の12種競技(鉄棒、平行棒の演習3種目、鞍馬の演習2種目、徒手体操1種目、陸上競技3種目)では、110 ⅓点を獲得して中級の部の第3位になった。マールブルク(Marburg)出身。(3614:熊本→久留米)
42) Reisener(ライゼナー),Otto(?-?):海軍膠州砲兵隊第1中隊・後備2等水兵。青島時代はテティス街(Thetisstraße)に住んでいた。アルトマルク/アーレントゼー(Arendsee)出身。(3637:熊本→久留米)
43) Reiser(ライザー),Friedrich(?-?):第3海兵大隊第6中隊・補充予備上等歩兵。1907年ローベルト・ボッシュ(Robert Bosch)機械に機械工として入った。ロンドンの販売店を経て、1912年横浜に設けられたカナダ資本との合弁会社へ、ボッシュ社初の出向者として日本に派遣された。1914年8月、青島へ応召した。1919年8月25日には、高岳製作所からレンツェン(Lenzen)とともに就労依頼があり、モーター修繕に従事した【校條「名古屋俘虜収容所 覚書X」;所載:『「青島戦ドイツ兵俘虜収容所」研究』第4号及び6号の41〜42頁】。大戦終結して解放後、神戸のボッシュ代理店のイリス商会で働いた【シュミット】。シュトゥットガルト(Stuttgart)出身。(2659:名古屋)
44) Renkel(レンケル),Paul(?-?):海軍膠州砲兵隊第4中隊・砲兵軍曹長。徳島時代の1915年4月20日、チェス選手権試合が開催された。それに出場したレンケルは4組(出場者総数21名)の内の第1組に割り振られ、1位で本戦のA級に進出した。板東時代は砲兵大隊スポーツ協会の役員を務めた。ドルトムント(Dortmund)出身。(4267:「大阪→」徳島→板東)
45) Rensing(レンジング),Heinrich(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。板東時代、板東ホッケー協会のチームのメンバーだった。また、1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会の「シニアの部」(当時36歳)で、2時間41分16秒5分の4で第6位になった【『バラッケ』第4巻4月号83頁】。ボッフム(Bochum)出身。(3077:松山→板東)
46) Resch(レッシュ),Nikolaus(?-?):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・4等水兵。姫路時代の1915年2月23日、景福寺の収容所からヤーン(Josef Jahn)、リップスキー(Lippsky)の三名で脱走を企て、禁錮9ヶ月の処罰を受けた【なお、従来この人物は諸文献で「アレッシ」と記されていて、『俘虜名簿』で確認が出来なかった人物である】。青野原時代、1918年12月13日から20日まで開催された俘虜製作品展覧会で、レッシュは絵画部門にテンペラ画と水彩画各1点を出品した【『AONOGAHARA捕虜の世界』72頁】。オーストリアのリンツ(Linz)出身。(2384:姫路→青野原)
47) Rettberg(レットベルク),Georg O.(?-?):第3海兵大隊・予備陸軍中尉。妻パオラ(Paula)は大戦終結まで、子ども二人と(ともに12歳以下)上海で暮らした。出身地不明(『俘虜名簿』では上海)。(4428:「熊本→」大分→習志野)
48) Rettermeyer(レッターマイアー),Sebastian(1892-1991):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。1914年8月上記中隊に入隊した。板東時代、スポーツクラブでレスリングをした。大戦終結して帰国後、ビール醸造及び家畜取引の仕事に就いた。第二次大戦後、「チンタオ戦友会」の会合に参加した。バイエルンのフォーブルク(Vohburg)出身。(2038:丸亀→板東)
49) Rettig(レッティヒ),Hans(?-?):第3海兵大隊・副曹長。久留米時代は演劇活動で、F.及びシェーンタン作の笑劇『ザビニ人の娘のたちの誘拐』等13演目に出演し、内1回は女役で出た。ヴァルテ河畔のランツベルク(Landsberg)出身。(3621:熊本→久留米)
50) Rex(レクス),Wilhelm(?-?):海軍膠州砲兵隊第3中隊・1等砲兵。板東時代、第3棟2室で床屋を営んだ。シュレージエンのローラント(Rohland)出身。(4259:「大阪→」徳島→板東)
51) Ribbe(リッベ),Carl(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[ジーメンス=シュッケルト社アルベンガ(Albenga)支店]。ボイスハウゼン(Beushausen)の日記によれば、ビスマルク兵営ではリッベと同室だったと記されている。ハンブルク(Hamburg)出身。(3079:松山→板東)
52) Richardt(リヒャルト),Julius(?-?):国民軍・2等兵曹。[運送業]。青島では運送業を営業し、青島郊外の名所の労山(標高1130m)やプリンツ・ハインリヒ山等近郊へのタクシー、ハイヤーによる観光業も行っていた。ブランデンブル県のノイダム(Neudamm)出身。(4579:大阪→似島)
53) Richter(リヒター),Bruno(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・後備2等機関兵曹。[商人]。モスクワ生まれで、学校時代もモスクワだったことから、ロシア語を流暢に話した。また、パリで生活したこともあってフランス語も習得していた。満州の哈爾濱(ハルピン)から応召した。1915年9月15日、他の94名とともに福岡から習志野へ収容所換えになった。習志野時代、収容所でフランス語の授業を開き、クリューガー(Karl Krüger)もそこで学んだ。一時期クリューガー(K.Krüger)と同室だった。大戦終結後は、特別事情を有することから日本国内での居住を希望した【『俘虜ニ関スル書類』より】。モスクワ(Moskau)出身。(1424:福岡→習志野)
54) Richter(リヒター),Otto(?-?):第3海兵大隊第7中隊・上等歩兵。[上海アスター・ハウス・ホテル(Astor House Hotel)]。ザクセン=アンハルトのベルンブルク(Bernburg)出身。(2045:丸亀→板東)
55) Richter(リヒター),Paul(?-?):第3海兵大隊工兵中隊・上等工兵。1919年4月1日、敷島製粉工場からリヒターとトーマ(Thoma)には煉瓦職工として、ブレール(Bröhl)は麺麭焼窯設計者として、ケーニヒ(Leo König)は通訳としての就労申請が出された。麺麭焼窯設計者と通訳は日給1円、煉瓦職工は日給80銭だった【校條「名古屋俘虜収容所 覚書V」所載:『「青島戦ドイツ兵俘虜収容所」研究』第6号、38頁】。ドレスデン(Dresden)出身。(2663:名古屋)
56) Richter(リヒター),Paul(?-?):国民軍・後備上等歩兵。[建築家]。青島時代は、イレーネ街のハンブルク街側の角に住んでいた。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。ベルリン(Berlin)出身。(4651:大阪→似島)
57) Richter(リヒター),Rudolf(?-?):第3海兵大隊第1中隊・予備伍長。1914年11月15日、久留米俘虜収容所に収容された。その折、既に収容されていた俘虜たちが蓄音機で「旧友」をかけて出迎えた。シュリーター(Schlieter)曹長の指揮で行進するリヒターの顔は髭面だったが、クルーゲ(Kluge)にはすぐに分かった【クルーゲの項参照】。1954年11月6日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。ヴァンツベック(Wandbeck)出身。(672:久留米)
58) Richter(リヒター),Walter(?-?):国民軍・上等歩兵。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。ハンブルク(Hamburg)出身。(2371:姫路→青野原)
59) Rickenberg(リッケンベルク),Carl(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・1等砲兵。[電気工]。1915年7月11日福岡から久留米へ収容所換えになった。ハノーファー(Hannover)出身。(1426:福岡→久留米)
60) Ricking(リッキング),Ferdinand(?-?):海軍東アジア分遣隊第3中隊・2等歩兵。習志野時代の1918年9月、ハム、ホルヒ、ハスラッハー、リーガーの四阿を建てる際、屋根葺きの仕事をした【ハインリヒ・ハム(Hamm)の項参照】。ノルトライン=ヴェストファーレンのラインベルク(Rheinberg)出身。(208:東京→習志野)
61) Riedel(リーデル),Georg Erich(1895-1917):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。〔湛山堡塁〕。[北ドイツ・ロイド汽船プリンツ・アイテル・フリードリヒ号乗員]。郷里のプラウエンでコックの修業をした後、1912年から船のコックとして世界中を回った。ロイド汽船会社の客船プリンツ・アイテル・フリードリヒのコックとして乗り込んでいた時、大戦が勃発して船は軍に徴用され、青島で志願兵として応召した。ビスマルク兵営でコックの任に就き、やがてイルチス兵営に移った。更に10月中旬から湛山堡塁の第6中隊の厨炊所に移った。松山時代は収容所の士官食堂で仕えた。【『バラッケ』第1巻152頁より】1917年12月6日徳島衛戍病院で死亡した。『バラッケ』12号は彼の追悼記事を載せた。【板東関連文献では、Kurt Erich Riedelとなっている】。【なお『欧受大日記』大正十三年三冊之内其一は、ドイツ人戦没者及びその墓地等に関する資料集成でもある。1920年(大正11年)12月21日付けの陸軍省副官松木直亮【元熊本俘虜収容所長で、後に陸軍大将になった】からの照会に対し、翌1921年1月31日付けの第11師団参謀長浅田良逸の回答は、ヘルムート(Hellmuth)と並んで設けられたリーデルの墓碑には、次のドイツ文が刻まれているとの報告をしている。「Hier ruht in Gott Seesoldat Erich Riedel geb.21.4.1895 in Plauen gest.6.12.1917 in Kriegsgefangenschaft in Tokushima」。今日は白い標識に墓碑銘が一緒に記されて、次の訳文が掲げられている。「海軍水兵エーリヒ・リーデル 一、八九五年四月二十一日プラウエン−ロイザー、フォークラントにて出生 一、九一七年十二月六日徳島戦争捕虜収容中に死亡 安らかに眠りたまえ」。【墓地所在地として記されている徳島県名東郡加茂名町の陸軍墓地は、眉山中腹にあり、今は西部公園と呼ばれている。公園は1989年から三次にわたって整備され、今日では二人の墓碑のほかに「ドイツ兵の墓」、日独両語による「墓碑」及び、ニュルンベルク近郊在住の彫刻家ペーター・クシェル(Peter Kuschel)氏寄贈の「悲しみを超えて」の記念碑がある。参照:石川栄作「二人のドイツ兵墓地」】。2002年4月、リーデルの甥エバハート・リーデル(Eberhard Riedel)氏が徳島を訪問して、徳島で死亡したドイツ兵俘虜の慰霊祭に出席した【エバハート・リーデル/石川晶子訳「私の日本旅行2002年」、所載:『菩提樹』(徳島日独協会会報)第10号、12頁】。フォークトラントのプラウエン= ロイザ(Plauen-Reusa)出身。(3072:松山→板東)
62) Riedlstein(リードゥルシュタイン),Herbert von(?-?):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・退役陸軍中尉。熊本時代の1915年2月26日、妻が陸軍大臣の許可を得て面会に訪れた。以後は所長の計らいで、毎週金曜午前9時から面会出来ることになった。1916年2月27日、鬱病で久留米衛戍病院に入院した。1917年1月20日、東京で開催された文部省主催の教育展覧会に、画家でもあるリードゥルシュタインの絵が他の60点余とともに出品された。久留米時代、夫人は国分村浦川原の森新別荘に住み、1917年8月の夏はプラシュマ夫人と軽井沢で過ごした。なお、10月にプラシュマ夫人とともに家財の保険契約をしたことが対敵取引禁止令違反となり、告発されたが起訴猶予となった。1918年8月6日久留米から習志野へ収容所換えになった。ハンガリーのテムスファー(Temesvar)出身。(3640:熊本→久留米→習志野)
63) Riedinger(リーディンガー),Günther(1881-?):第3海兵大隊第5中隊・陸軍中尉。中間陣地守備にあたっていたが、第2歩兵堡塁攻防の戦闘にも参加した。大阪時代の1916年5月20日にドイツに宛てて出した葉書が郵趣家大西二郎氏の元に所蔵され、『大阪俘虜収容所の研究 ―大正区にあった第一次大戦下のドイツ兵収容所―』318頁に全文が紹介されている。上部シュレージエンのラチボア(Ratibor)出身。(4029:大阪→似島)
64) Rieger(リーガー),Waldemar(?-?):海軍砲兵中隊・後備1等焚火兵。ハインリヒ・ハム(Hamm)と親しかった。ハムからロシア語を教えてほしいと頼まれたが、忙しいことからその役はシェーファー(Schäfer)が果たした。1918年9月21日、ハム、ホルヒ(Holch)、ハスラッハー(Hasslacher)及びリーガーの四人の四阿が完成すると、リーガーとハスラッハーは籤で南側の部屋になった【「ハインリヒ・ハムの日記から」より】。大戦終結後は、特別事情を有することから青島居住を希望した。ツィッタウ(Zittau)出身。(211:東京→習志野)
65) Riegow(リーゴフ),Franz(?-?):海軍東アジア分遣隊第3中隊・予備2等歩兵。習志野時代の1917年10月、ハム(Hamm)と日本語の勉強を続けた【「ハインリヒ・ハムの日記から」より】。ハンブルク(Hamburg)出身。(210:東京→習志野)
66) Riehle(リーレ),Gerhard(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[ジームセン香港支店]。松山時代(公会堂収容)の1916年8月11日、ハンドボール競技中に転倒して親指を脱臼して松山衛戍病院で治療を受けた。板東時代、1917年5月に松山俘虜収容所からの人員を加えて拡大した「エンゲル・オーケストラ」の団員で、チェロを担当した。デュッセルドルフ(Düsseldorf)出身。(3073:松山→板東)
67) Riekert(リーケルト),Fritz(1876-1957):総督府参謀本部幕僚。[総督府築港土木部長]。裕福な家庭に生まれた。テュービンゲンのギムナジウムを修了後、シュトゥットガルト高等工業で建築学を学んだ。1904年に海軍築港技師となった。1911年2月、リーケルトは青島の総督府築港土木部長に就任した。1914年秋、更に4年青島での仕事を継続するために一時帰国する予定であったが、大戦の勃発で帰国は叶わなかった。1918年、福岡から習志野へ収容所換えになった。1915年10月26日撮影の、福岡俘虜収容所内の部屋で写した写真、及び1916年4月12日に写したリーケルトの居室を写した写真が遺されている。リーケルトが収容されている間、妻ジークリット(Siegrid)と二人の娘ヘルガ(Helga)とイルゼ(Ilse)の三人は天津で一年を過ごし、その後ドイツ本国に帰還した。1918年3月22日福岡から習志野へ収容所換えになった。解放されてドイツに帰国後の1924年、リーケルトはシュトゥットガルトのローベルト・ボッシュ(Robert Bosch)会社に就職した。80歳でシュトゥットガルトに没した【テュービンゲン市立文書館主任ウード・ラオッホ(Udo Rauch)氏による「中国及び日本における三人のテュービンゲン出身者―フーゴー・クライバー、ヘルマン・ヘスラー及びフリッツ・リーケルト」(Drei Tübinger in China und Japan Hugo Klaiber,Hermann Henssler und Fritz Riekert)による】。【『俘虜名簿』では「Rieckert」となっているが、正しくは「Riekert」である】。テュービンゲン近郊のルストナウ(Lustnau)出身。(1413:福岡→習志野)
68) Riesener(リーゼナー),Wilhelm(?-?):第3海兵大隊第1中隊・上等歩兵。1914年10月20日、ディール(Diehl)伍長の指揮の下9名で第1歩兵堡塁から浮山所へパトロールに出た。さらにディールとレッチェ(Letsche)の三人で浮山所岬に出て、日本軍の船舶が目印にしているブイ(浮標)を沖合250メートルのところに発見した。リーゼナーは服を脱いでブイまで泳ぎ、決死の覚悟でブイを岸に運び上げた。久留米の演劇活動では、リンダウ作『もう一人の男』に出演した。宣誓解放された。ドゥイスブルク(Duisburg)出身。(673:久留米)
69) Rikowsky(リコフスキー),Aloisius(?-?):海軍膠州砲兵隊第3中隊・2等砲兵。西プロイセン出身のポーランド人。父親は製材所を経営していた。リコフスキーには毎月相当の金額の仕送りがあったが、仲間と飲んだウイスキー代でほとんど消えた。収容所内を散歩するリコフスキーに対して、歩哨たちが銃剣を手にして建物内に追い込もうとすると、屈強なリコフスキーは銃剣を取り上げて溝に放り込んだ。騒ぎで駆けつけた歩哨将校は、サンダル履きの肌着姿で、軍帽の被ぶらずに剣を振りかざしていた。リコフスキーはベッドから独房に連れてゆかれた。【『チンタオ俘虜郵便案内』(H.Rüfer u.W.Rungas:Handbuch der Kriegsgefangenenpost Tsingtau)19頁】。東プロイセンのディートリヒスヴァルデ(Dietrichswalde)出身。(4264:「大阪→」徳島→板東)
70) Rink(リンク),Valentin(1892-?):海軍膠州砲兵隊第4中隊・2等砲兵。1914年8月上記中隊に入隊した。1915年6月久留米へ収容所換えになった。1916年4月23日に行われた「久留米体操クラブ」の12種競技(鉄棒、平行棒、鞍馬の演習3種目、徒手体操1種目、陸上競技2種目)では、102⅓点を獲得して上級の部の第4位になった。また1917年7月10日に行われた「久留米体操クラブ」の12種競技(鉄棒、平行棒の演習3種目、鞍馬の演習2種目、徒手体操1種目、陸上競技3種目)では、100点を獲得して上級の部の第6位になった。ザールブリュッケン(Saarbrücken)出身。(3618:熊本→久留米)
71) Ringenbach(リンゲンバッハ),Ferdinad(?-?):海軍膠州砲兵隊第1中隊・2等砲兵。宣誓解放された。上部エルザスのズルツ(Sulz)出身。(1772:静岡)
72) Risch(リッシュ),Karl(?-?):第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。板東時代、1918年6月25、27、28日の三日間上演された、シェイクスピア作の喜劇『じゃじゃ馬馴らし』にグレミオ役で出演した。また同年9月、「板東健康保険組合」の代表理事に選ばれた。ブレスラウ(Breslau)出身。(2048:丸亀→板東)
73) Rist(リスト),Anton(?-?):第3海兵大隊第4中隊・2等歩兵。1964年にニュルンベルクで開催された「チンタオ戦友会」では、アルブレヒト(Albrecht)、ベーダー(Beder)等とともに世話役を務めた。ニュルンベルク(Nürnberg)出身。(3613:熊本→久留米)
74) Ritsert(リツェルト),Eduard(?-?):海軍東アジア分遣隊第2中隊・2等歩兵。[腸詰製造職人]。1915年7月11日福岡から久留米へ収容所換えになった。シュトゥットガルト(Stuttgart)出身。(1448:福岡→久留米)
75) Ritter(リッター),Johannes(?-?):国民軍・上等歩兵。[ジータス、プラムベック青島支店]。青島時代はホーエンツォレルン街に住んでいた。ザクセンのミットヴァイダ(Mittweida)出身。(2370:姫路→青野原)
76) Ritthausen(リットハウゼン),Otto(1871-1923):所属部隊・階級不明。[ジームセン商会青島支店;不動産鑑定士・損害保険査定士]。青島時代は皇太子街(Kronprinzenstraße;日本の占領統治時代は浜松通)に住んでいた。大戦終結して解放後は青島に戻り、不動産売買及び火災保険を扱う事務所を経営した。生涯独身だった。ドレスデン近郊のヴィルスドゥルフ(Wilsdruff)出身。(4583:大阪→似島)
77) Rittmüller(リットミュラー),Fritz(?-?):国民軍・卒。[ドイツ・アジア銀行青島支店支配人]。青島時代はヴィルヘルム皇帝海岸通に住んでいた。1916年2月4日、青島から大阪俘虜収容所に移送された。大戦終結して解放後は青島に戻りドイツ・アジア銀行に復帰した。シュトラースブルク(Strassburg)出身。(4697:大阪→似島)
78) Rizzi(リッチ),Giovani(?-?):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・1等水兵。1916年10月9日、ビアンチ(Bianchi)等12名と青野原から丸亀に移送された。板東収容所へ移送後まもなくの1917年6月22日、イタリアの連合国加盟により宣誓解放された。高木大尉以下下士13名の付き添いの下、小松島港から徳島丸(共同丸?)で神戸に着き、同夜は栄町の「恵比須屋旅館」に投宿した。大正6年6月24日付『神戸新聞』には、その折の高木大尉を囲む記念写真、旅館でくつろぐ13名の解放俘虜の写真が掲載された。ダルマチアのルッシンピッコロ(Lussinpiccolo)出身。(2377:姫路→青野原→丸亀→板東)
79) Robens(ローベンス),Johann(?-?):海軍東アジア分遣隊第1中隊・上等歩兵。習志野時代、将校用厨房で炊事係を務めた。フォーゲルフェンガー(Vogelfänger)と共に写った写真が残されている。【『ドイツ兵士の見たNARASHINO』47頁】。ラインラントのフリンマースドルフ(Frimmersdorf)出身。(203:東京→習志野)
80) Rockenmeyer(ロッケンマイアー),Ignatz(?-?):海軍東アジア分遣隊第3中隊・2等歩兵。1918年3月22日福岡から習志野へ収容所換えになった。メッテンライター『極東で俘虜となる』によれば、ヴィルヘルムスハーフェン港に到着後は、ケーバーライン(Köberlein)、クロイツァー(Kreutzer)、コールヘップ(Kohlhepp)の四人で郷里のビュルツブルクに向かった。ビュルツブルク近郊のリンパー(Rimpar)出身。(1450:福岡→習志野)
81) Röcker(レッカー),Eugen(?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・1等砲兵。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に際して、全般の部で兵営用の2段式ベッドと庭用家具の模型を出品した。ヴュルテンベルクのヴィンターバッハ(Winterbach)出身。(4021:大阪→似島)
82) Rockser(ロックザー),Alexander(?-1918):国民軍・後備伍長。青島時代はホーエンツォレルン街に住んでいた。1918年7月31日、似島で死亡。イェーナ(Jena)出身。(4580:大阪→似島)
83) Rode(ローデ),Fritz(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[薬剤師]。松山時代(公会堂収容)の1916年7月12日のやる8時35分から9時の間に、炊事場北側垣根から逃走した。松山署の刑事、巡査の捜索により、13日午前7時頃福角より権現を経て大栗に通じる山中で逮捕された。ケーバライン(Köberlein)の遺品中には、松山時代にローデが脱走したことが記された紙片が含まれている。その紙片には、6月12日付けで次のように書かれている。「夕方9時、軍曹による二度目の点呼。ローデが脱走を企てたのだ。…軍曹がやって来て衛兵達が周辺の田んぼと畑に飛び出ていった時には、ローデはとっくに激しい雨の降る中夜の闇に乗じて姿をくらませていた。10時に再度点呼。他のもの達へすぐさま尋問があり、大がかりな調査。夜は外出禁止。翌午後4時、ローデが宝林寺脇の森の中で捕まった知らせが届く。彼はどうやら泳いで小船にたどり着いたが、錨を揚げることが出来なかったのだ。」【メッテンライター『極東で俘虜となる』45-46頁】。また、1916年8月19日には、軍用物損壊、横領の咎で第5師管軍法会議において、懲役3月に処せられて広島監獄に入れられた。なお公会堂の日曜講演会で「キニーネとコカイン」と題して講演した。板東時代は収容所内のタパタオで、ヴンダーリヒ(Wunderlich)と共同で薬局・薬品店を営んだ。やがて、ヴェーバー(Josef Weber)とともに大阪の野村彦太郎からウイスキー、ブランデーの製造指導に請われた。1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会で(当時28歳)、2時間32分16秒で85人中の第34位になった【『バラッケ』第4巻4月号81頁】。ハノーファー(Hannover)出身。(3076:松山→板東)
84) Rodenberg(ローデンベルク),Hans(?-?):第3海兵大隊第2中隊・2等砲兵。板東時代の1919年4月17日が開催された21キロの競歩大会において、ローデンベルク(26歳)は2時間34分51秒5分の2で48位になった【『バラッケ』第4巻4月号81頁】。ドルトムント(Dortmund)出身。(2037:丸亀→板東)
85) Rödenwald(レーデンヴァルト),Emil(?-?):第3海兵大隊第3中隊・上等歩兵。1916年4月23日に行われた「久留米体操クラブ(Turnverein Kurume)」の12種競技(鉄棒、平行棒、鞍馬の演習3種目、陸上競技2種目、徒手体操)では、114⅔点を獲得して初級の部の第6位になった。シュテッティン(Stettin)出身。(688:久留米)
86) Rogalla(ロガラ),Hans(1885-?):第3海兵大隊機関銃隊・陸軍中尉。1903 年10月18日陸軍(歩兵部隊)に入隊、1905年1月27日少尉、1911年9月1日付けで海軍歩兵部隊に移籍、1914年1月27日中尉、1914年8月第3海兵大隊に移籍した。青島時代はハインリヒ皇子街に住んでいた。東プロイセンのオステローデ郡ガンスホルン(Ganshorn)出身。(2656:名古屋)
87) Rohde(ローデ),Carl(?-?):所属部隊不明・階級不明。大戦終結後は、青島での就職既定者として日本国内で解放された【『俘虜ニ関スル書類』より】。ブレーメン(Bremen)出身。(4586:大阪→似島)
88) Rohde(ローデ),Heinrich(?-?):海軍膠州砲兵隊第3中隊・2等砲兵。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。ヴェストファーレンのヘルデ(Hoerde)出身。(4261:「大阪→」徳島→板東)
89) Rohde(ローデ),Walter(?-?):第3海兵大隊予備榴弾砲兵隊・予備1等測量兵。1915年6月熊本から久留米に収容所換えになった。1954年11月6日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。ヴァルネミュンデ(Warnemünde)出身。(3639:熊本→久留米)
90) Röhreke(レーレケ),Ernst(?-?):第3海兵大隊第7中隊・後備上等歩兵。[カルロヴィッツ商会上海支店]。板東時代の1918年7月7日、長らくシュラークバルの審判をしていたレーレケは、この日初めて高い審判席に座って大きな拍手を受けた。オシャースレーベン(Oschasleben)出身。(2046:丸亀→板東)
91) Röhreke(レーレケ),Otto(?-?):第3海兵大隊第7中隊・後備上等歩兵。[ディーデリヒセン徐州支店]。【上記エルンスト・レーレケ(Ernst Röhreke)とは出身地が同じであることから、身内と思われる】。丸亀俘虜収容所時代の所内の様子をまとめて編集したアルバムに、更に板東俘虜収容所や青島時代の写真を加えた写真帳が、鳴門市ドイツ館に寄贈された【中野正司「画像資料から見た板東俘虜収容所の施設と生活」93頁、所載:『地域社会における外来文化の受容とその展開』】。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。1969年4月9日、レーレケの息子H.G.レーレケ氏がかつての板東俘虜収容所跡を訪問した。氏の「訪問記」が、シュミット氏のホームページに掲載されている。オシャースレーベン(Oschersleben)出身。(2047:丸亀→板東)
92) Röllgen(レルゲン),Karl(?-?):第3海兵大隊工兵中隊・2等工兵。板東時代、第7棟5室で生卵とゆで卵を販売した。ケルン近郊のヴェッセリング(Wesselingen)出身。(3081:松山→板東)
93) Rollhausen(ロルハウゼン),Walter(?-?):第3海兵大隊機関銃隊・陸軍少尉。1914年11月2日未明の日本軍の攻撃に際しては、第8塹壕で機関銃が運び込まれるまでのいっとき、たった一人で日本軍の攻撃に耐えた。マイン河畔のフランクフルト(Frankfurt)出身。(4575:大阪→似島)
94) Rommelmann(ロンメルマン),Heinrich(?-?):第3海兵大隊第5中隊・上等歩兵。松山時代の1916年10月、来迎寺収容のロンメルマン以下4名と弘願寺収容の6名の計10名は、収容所の掃除に来た女に金を与えて淫行をした咎で、重営倉7日に処せられた【『大阪朝日新聞 四国版』大正5年10月21日付け】。シュレージエンのビュッケブルク(Bückeburg)出身。(3068:松山→板東)
95) Röper(レーパー),Albert(?-?):国民軍・卒。[ペンキ職マイスター;A・レーパー・ペンキ店経営]。青島時代はイレーネ街に住んでいた。1915年9月20日、青島から大阪俘虜収容所に移送された。解放後は青島へ戻った。ベルリン(Berlin)出身。(4698:大阪→似島)
96) Röper(レーパー),Max(?-?):海軍膠州砲兵隊第1中隊・予備1等水兵。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に際して、その他部門で、マウ(Mau)と共同で種々のリキュール、薬品の調合剤及び洗面用品を出品した。上記展覧会のカタログには、マウと共同で経営していた薬局の広告が掲載されている。西プロイセンのマリーエンヴェルダー(Marienwerder)出身。(4019:大阪→似島)
97) Roeper(レーパー),Wilhelm(?-?):第3海兵大隊第2中隊・予備2等歩兵。[画家]。1914年9月28日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米俘虜収容所に送られた【『欧受大日記』大正三年十一月上より】。出身地不明(『俘虜名簿』では青島)(686:久留米)
98) Rösch(レッシュ),Oskar(1889-1957):第3海兵大隊第2中隊・上等歩兵。1914年8月上記中隊に入隊した。大戦終結して帰国後、椅子、クッションの張替え職人マイスターになった【シュミット】。ヴィッテンベルク(Wittenberg)出身。(2036:丸亀→板東)
99) Rose(ローゼ),Otto(1876-1936):国民軍・卒。[書籍・文具・玩具商]。1905年、威海衛でローザ(Rosa)と結婚した。やがて青島に居住し、ハンブルク街のベルリン街側の角に住んでいた。ヴェルニゲローデ(Wernigerode)出身。(4585:大阪→似島)
100) Rosengerger(ローゼンベルガー), Dr.Ernst Heinrich(1873-1956):総督府・後備陸軍少尉。法学博士の学位取得後の1995年10月、バイエルン歩兵第17連隊に1年志願兵として入隊した。その後海軍法務官を経験した後1904年から1907年まで膠州総督府法務官を務め、1913年4月から青島の徳華高等学堂講師となり、プリンツ・ハインリヒ・ホテルを住まいとした。1914年8月に総督府後備陸軍少尉となった。大戦終結して解放後の1920年6月30日に、上席法務官として再び海軍に入隊した。プファルツ県のツヴァイビュッケン(Zweibücken)出身。(4028:大阪→似島)
101) Rosenberger(ローゼンベルガー),Heinz (?-1919):第3海兵大隊予備榴弾砲兵隊・予備上等兵。1919年1月31日スペイン風邪により習志野で死亡。ボヘミアのルムブルク(Rumburg)出身。(1776:静岡→習志野)
102) Rosenstein(ローゼンシュタイン),Josef(?-?):海軍膠州砲兵隊・1等砲兵。1916年10月22日福岡から習志野へ収容所換えになった。1919年7月27日に上演された習志野寄席(Variete Theater Narashino)の「陽気な未亡人」で、下僕のクニュル役で出演した。オーバーラール(Oberlahr)出身。(1436:福岡→習志野)
103) Rossow(ロッソウ),Carl(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[メルヒャース上海支店]。板東時代の1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会において(当時29歳)、2時間52 分56 秒5分の3で81位になった【『バラッケ』第4巻4月号83頁】。ブレーメン(Bremen)出身。(3074:松山→板東)
104) Rossut(ロッスト),Karlo(?-?):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・1等水兵。イタリア人。1916年10月9日、他の12人のイタリア系等の俘虜とともに、青野原から丸亀に写された。板東時代の1917年5月13日縊死未遂事件を起こした。その後まもなくの6月22日、イタリアの連合国加盟により宣誓解放された。高木大尉以下下士13名の付き添いの下、小松島港から徳島丸(共同丸?)で神戸に着き、同夜は栄町の「恵比須屋旅館」に投宿した。大正6年6月24日付『神戸新聞』には、その折の高木大尉を囲む記念写真、旅館でくつろぐ13名の解放俘虜の写真が掲載された。1919年6月28日のヴェルサイユ講和条約で、イタリア領に編入されたイストリアのチッタノーヴァ(Cittanova)出身【同地は第二次大戦後のユーゴースラヴィアを経て、今日はクロアチア共和国に属し、ノヴィグラード(Novigrad)となっている】。(2379:姫路→青野原→丸亀→板東)
105) Roth(ロート),Diederich(?-1978):第3海兵大隊第4中隊・伍長。熊本時代は長国寺に収容された。熊本時代、1915年1月29日付けの『九州日日新聞』の記事「種々さまざまな珍芸当 俘虜の祝賀会」は、ロートについて次のように報じた。「…其内、赤毛布の幕が引かゝると、伍長ロートがウルリヒ、ウイロバの二人を率ゐて出場、吊環体操をやる。之は独逸では寄席でもやる相なり。最後に、ロートとウルリヒとが裸体になり、非常に発達した筋肉に更に金粉を塗って光線を按排した処、実に立派なもの」【『熊本の日独交流』81頁より】。1915年6月熊本から久留米に収容所換えになった。1917年10月21日に開催された「100m競走」に出場し、11.8秒で第4位になった。また久留米俘虜収容所で発行された『トゥルネンとスポーツ』の「付録第7号」(1919年6月14日付け)によると、1919年5月10日に開催された6種競技トゥルネン(鉄棒、平行棒、鞍馬、走り幅跳び、砲丸投げ、100メートル走)の上級に出場し、60⅓点を獲得して出場6名中の第4位になった。なおロートは、砲丸投げで9.96メートルという飛び抜けた距離を出すなど、目覚しい活躍であったことが特筆された。1954年11月6日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。また1959年5月30日/31日にククスハーフェンで開催された同会では、ククスハーフェン在住ということから、グレーニング(Gröning)の二人で万事を引き受ける世話役を務めた。ブライテンダイヒ(Breitendeich)出身。(3609:熊本→久留米)
106) Roth(ロート),Heinrich(?-?):第3海兵大隊第2中隊・上等歩兵。1915年6月熊本から久留米へ収容所換えになった。久留米時代は演劇活動で、笑劇『第六感』等の演出を担当するとともに、26演目に出演した。マイン河畔のフランクフルト(Frankfurt)出身。(3604:熊本→久留米)
107) Roth(ロート),Paul(1892-1938):第3海兵大隊第3中隊・上等歩兵。ラインラントのハットゲンシュタイン(Hattgenstein)出身。(690:久留米)
108) Rothkegel(ロートケーゲル),Curt(1876-1946):第3海兵大隊工兵中隊・後備陸軍少尉。[建築家]。建築の修業を積んだ後、1903年に青島に赴いた。1904年3月10日第6工兵大隊予備役少尉となる。1905年青島で建築業の事務所を開いて独立した。1908年一時期ドイツに帰国し、1909年2月2日ゲルトルート(Gertrud Zimmermann;1881-1978)と結婚して、フランツ(Franz,1910-1922)とヘルムート(Helmut,1912-?)の息子二人をもうけた。1909年に再度中国へ渡り、天津、北京で建築事務所を開いた。ロートケーゲルの設計になる建造物としては、ビスマルク通り東の丘に建てられた福音派教会堂(工期:1908-1910)の他に、オットー・リンケ(Otto Linke)が経営していた「鷲屋薬局」(Adler-Drogerie)等数棟が2007年時点で現存している【参照:『日本統治の歴史をもつ中国・青島歴史街区の住み方に関する研究』(平成17年度、18年度、19年度科学研究費補助金 基盤研究(B)(海外学術調査)研究成果報告書)44-51頁】。1915年6月9日熊本から久留米へ、1918年8月7日には久留米から板東へ収容所換えになった。『バラッケ』1919年6月号に、ロートケーゲルによる大麻神社境内の祠のスケッチが掲載されている。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放されて、1920年に青島へ赴いた。やがて1923年に満州の奉天で建築事務所を開いたが、1929年に最終的にドイツに帰国した。なお、妻のゲルトルートと息子のヘルムートはアフリカのナムビア(Nambia)で没した。低地シュレージエンのザガン(Sagan)出身(『板東収容所俘虜故国住所録』38頁参照;『俘虜名簿』では北京)。(3628:熊本→久留米→板東)
109) Röttgen(レットゲン),Paul(?-?):第3海兵大隊第7中隊・後備曹長。[陰島駐在巡査]。妻ローザ(Rosa)は大戦終結まで青島に留まった。【1918年9月付けの、F.パラヴィチーニ博士(在ジュネーヴ赤十字国際委員会駐日代表)の報告によれば、レットゲンは極東に14年間続けて滞在して、神経衰弱を病み、健忘症を訴えているとのことである。参照:大川編訳『欧米人捕虜と赤十字活動 パラヴィチーニ博士の復権』217頁】。大戦終結後は、特別事情を有することから青島居住を希望した【『俘虜ニ関スル書類』より】。ゲーラ郡のグライツ(Greiz)出身。(1775:静岡→習志野)
110) Ruch(ルッフ),Hermann(?-?):第3海兵大隊第2中隊・2等水兵。1915年6月久留米へ収容所換えになった。1917年7月10日に行われた「久留米体操クラブ」の12種競技(鉄棒、平行棒の演習3種目、鞍馬の演習2種目、徒手体操1種目、陸上競技3種目)では、116⅓点を獲得して上級の部の第4位になった。アイゼナッハ(Eisenach)出身。(3606:熊本→久留米)
111) Rudloff(ルートロフ),Franz(1891-1980):海軍膠州砲兵隊第5中隊・砲兵伍長。1915年9月15日、他の94名とともに福岡から習志野へ収容所換えになった。習志野ではクリューガー(Karl Krüger)と同室で、ホッケーチームに属した。大戦終結後は、青島での就職が確定したため日本で解放された。ブレーメン(Bremen)出身。(1425:福岡→習志野)
112) Rudolf(ルードルフ),Gustav(?-1974):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。板東時代の1919年に、バルクホールン(Barghoorn)、カイスナー(Keyssner)、ラーン(Laan)及びジーモンス(Simons)と共に、日本語文献からの翻訳『国民年中行事』の出版に関わった。また「エンゲル・オーケストラ」の団員で、当初はトランペットを、後にホルンを担当した。ハンブルク(Hamburg)出身。(3078:松山→板東)
113) Rudolph(ルードルフ),Karl(?-?):守備隊本部・後備曹長。青島時代は旧衙門(Altes Yamen;清国時代の官衙)に住んでいた。大戦終結して解放後は、特別事情を有することから青島居住を希望した【『俘虜ニ関スル書類』より】。ヴェーザー川支流のアラー(Aller)河畔のフェルデン(Verden)出身。(4432:「熊本→」大分→習志野)
114) Rudolph(ルードルフ),Walter(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[カルロヴィッツ青島支店]。ハノーファー近郊のリンデン(Linden)出身。(3075:松山→板東)
115) Ruff(ルフ),Heinrich(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・予備1等水兵。徳島時代、収容所で発行された『徳島新報』には、ヒュープナー(Hübner)及びヘンケ(Häncke)とともに印刷技術の面で協力した。また徳島時代の1916年1月27日、ルフ作の3幕劇『戦争花嫁』が上演された。また、1月30日にはルフ指導による寄席「ミモザ」の第2回上演会が開催された【『徳島新報』第19号(1916年1月30日発行)より】。大戦終結して解放後は、蘭領印度のジャワ島東部のスラバヤに渡った。ヴェストファーレンのハーゲン(Hagen)出身。(4270:「大阪→」徳島→板東)
116) Ruffing(ルフィング),Hans(?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・予備1等砲兵。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会の技術部門で、自らの設計になる単葉と複葉の戦闘機を出品した。バイエルンのツヴァイブリュッケン(Zweibrücken)出身。(4022:大阪→似島)
117) Ruge(ルーゲ),Otto(1874-?):砲兵兵站部・海軍火工中尉。1889年4月海軍に入隊し、1907年9月火工少尉、1910年4月火工中尉、1915年10月18日火工大尉に昇進した。妻フリーダ(Frieda)は大戦終結まで青島に留まった。大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として日本国内で解放された。フレンスブルク(Flensburg)出身。(4030:大阪→似島)
118) Rühe(リューエ),Ernst(?-?):海軍野戦砲兵隊・後備副曹長。[徳華高等学堂講師]。解放後は上海へ渡り、同済大学に1927年まで講師として勤務した。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席したと思われる。ランツベルク(Landsberg)出身。(3623:熊本→久留米)
119) Rumpel(ルムペル),Albert(?-?):第3海兵大隊第3中隊・予備伍長。久留米収容所で発行された『トゥルネンとスポーツ』の「付録第7号」(1919年6月14日付け)によると、1919年5月10日に開催された6種競技トゥルネン(鉄棒、平行棒、鞍馬、走り幅跳び、砲丸投げ、100メートル走)の下級に出場し(出場者は13名で、55点以上獲得者11名が勝者)、64点を獲得して第5位になった。ドレスデン(Dresden)出身。(687:久留米)
120) Rumpf(ルンプ),Dr.Fritz(?-?):海軍野戦砲兵隊・予備陸軍少尉。〔第3中間地掃射砲台指揮官〕。[弁護士]。松山時代、山越の講習会で民法の講座を受け持った。また、ルンプ少尉の小屋は収容所新聞『陣営の火』の編集室になった。板東時代、公会堂での工芸品展では、ミュラー(Mueller)少尉の企画によるルンプ少尉とホーン(Hohn)2等砲兵の住宅モデルが、収容所賞第3位に輝いて賞金3円を獲得した。1918年3月16日消印で、名古屋収容所のアルフォンス・シュテーゲマン(Alfons Steegemann)に宛てて出した葉書が、スイス在住のシュテーゲマンの孫オスヴァルト・ハッセルマン(Oswald Hasselmann)氏の手元に遺されている。葉書の表には、「板東俘虜作品展覧会」(Deutsche Ausstellung Bando 1918)等の記念印が押されている。なお、ルンプは同年5月8日消印でもシュテーゲマン宛てに葉書を出している。大戦終結して解放後、青島で法律事務所を開業した。ハーナウ(Hanau)出身。(3082:松山→板東)
121)
Rumpf(ルンプ),Fritz(1888-1949):第3海兵大隊重野戦榴弾砲兵隊・予備伍長。1888年(明治21年)1月5日ベルリン郊外のシャルロッテンブルクに生れた。本名はフリードリヒ・カール・ゲオルク・ルンプ(Friedrich
Karl Georg Rumpf)で、父フリードリヒ・ハインリヒ・ルンプは、当時ドイツで有名な画家だった。1903年の15歳頃、ルンプ邸に集まる芸術家達からジャポニズムの影響を受ける。またこの頃、ポツダムの陸軍士官学校に留学していた山本茂中尉から日本語を教わった。1908年(明治40年)10月1日、青島で1年の兵役(野戦砲兵隊予備役下士官)を終えて、16日に憧れの日本に到着した。日本で最初に投宿した先は、東京市麹町区平河町5丁目にあったスクリバ(Scriba)邸であった。その後、1年の東京滞在のために、神田区猿楽町3丁目にあった、洋画家安田稔が経営する旅館安田屋に移り住んだ。1909年の始めに木版彫刻師伊上凡骨に弟子入りした。1909年2月13日、初めて出会った木下杢太郎から「パンの会」に誘われる。【参照:森鴎外『日記』、木下杢太郎『パンの会の回想』、北原白秋『フリッツ・ルムプのこと』、富士川英郎『西東詩話』】。「パンの会」で、北原白秋、石井伯亭、吉井勇等を知り、交友を結ぶ。この年の『スバル』第5号(石川啄木編集)の裏表紙にルンプが描いた「海辺の漂泊」が載る。同年7月15日に森鴎外邸に赴き、29日にも再訪する。10月23日、「パンの会」主催のルンプ送別会が日比谷の松本楼で開かれる。1910年9月、吉井勇の歌集『酒ほがひ』に、「この歌をFritz Rumpfに寄す」と付記して、短歌30首が掲載される。1911年、ベルリン工芸美術館付属学校に入学して、来日したこもある画家エーミール・オルリクに学ぶ。9月、弟アンドレーアスとパリで生活する。1912年1月、パリに来ていた与謝野鉄幹、石井伯亭らと会う。同じその月、ベルリンに来た石井伯亭をポツダムの自宅に招く。1913年3月中国上海に渡り、やがて再来日する。長崎、奈良、京都、日光を旅行する。この年、歌集『兵たちが町を行進する』(Wenn die Soldaten durch die Stadt
marschieren---)がベルリンの出版社から出される。1914年4月15日、「東アジア自然学及民俗学のためのドイツ協会」主催の講演会で、鴎外と再会する。「…そこへFritz Rumpf君が来た。相變可哀らしい、圓い顔をしている。」等の記述が『ハアゲマン』にある。また上記歌集のことを鴎外は話題にする。大戦が始まる前に婚約者アリス・ヘラー(Alice Heller)が来日し、スクリバ邸で会うが、戦雲急を告げる情勢になりアリスは一週間で帰国する。11月24日、「明日、俘虜として日本に行く」との手紙を青島からドイツのアリスに書き送る。同年12月12日、一時的に収容された熊本俘虜収容所から大分俘虜収容所に移った。ルンプは大分、習志野時代に多くの手紙をアリスに書き送った。大分時代、「大分黄表紙」(Das Oita-Gelb-Buch)と題する収容所スケッチを書いた。そのスケッチは後に習志野時代の1919年にデルリーン(Derlien)によって印刷された。防衛省防衛研究所図書館所蔵資料には、ルンプのことと考えられる人物についての次のような記述がある。「美術學校ヲ卒業シ肖像画に巧ミニシテ常ニ俘虜将校ノ依頼ヲ受ケテ揮毫シツツアリ予テ独逸皇帝ノ肖像画ヲ画キ文部省學務局主催ニ関ル時局展覧會ニ出品シタルコトアリ(賣価貮百圓)」【『大正三年乃至九年 戦役俘虜ニ関スル書類』中の「大正七年八月 俘虜特殊技能調」の大分収容所の項より】。1918年2月1日、収容所替えで大分から習志野に移され、旧知のスクリバ(Scriba)及びヴェークマン(Weegmann)と一緒になった。1919年(大正8年)5月19日付けの東京朝日新聞第五面には、壁に掛かった浮世絵の前で三人がヴェークマンが拡げる画集とおぼしき本を眺める写真が掲載された【〔写真3〕を参照】。習志野ではさらに、「東京湾稲毛の漁師の娘」等数多くの情緒ある絵葉書を制作した。それらは故国に便りをだす仲間のために制作されたものであった。山本茂は習志野にルンプの面会に訪れているが、その背景には鴎外からの要請もあった。近松門左衛門、河竹黙阿弥、井原西鶴の作品を研究し、また収容所内で約1500余の日本の民話を読み、やがて「日本民謡集」の翻訳を行って、鴎外に序文を求めた。1920年2月2日、上海で乗り込んだハドソン丸でドイツに帰国し、アリス・ヘラーと結婚した。1922年9月17日、ドイツ旅行中の杢太郎とベルリンで再会する。1926年、ベルリンの「日本研究所」の所員となる。1930年、『日本の演劇』(Japanisches Theater.)を発表する。1931年、学位を取得して日本研究所助手Cのポストに就き、学生に日本文化史を講義する。1932年10月21日、ドイツ旅行中の竹久夢二と会い会食をする。1934年夏、東山魁夷がルンプの「日本演劇史」の講義を受ける。1937年4月25日、ベルリンを旅行中の高浜虚子と日本学会で会い、翌26日には日本人会の俳句会に出席する。1938年『日本の民話』(Japanische Volksmärchen,Eugen Diederichs
Verlag,1938.)を刊行する。1945年、ドイツの降伏直前にポツダムの自宅が砲撃で破損する。やがて自宅はソ連軍の宿舎に充てられる。1949年5月、肺疾患により61歳でポツダムにて死去。妻アリスとの間にマリアンネ(Marianne)とバーバラ(Barbara)の二人の娘がいた。1989年11月9日、ベルリンの日独センター(現在の日本大使館の建物)で、「Du verstehst unsere Herzen gut」と題された、大規模なフリッツ・ルンプ展が開かれた。2005年(平成17年)3月15日から5月8日にかけて伊東市立木下杢太郎記念館において、「杢太郎と異国情緒―二人のドイツ人との交流を通して」と題する特別展が開催された。目を引く展示物としては、東大医学部皮膚科助手時代の杢太郎がドイツのルンプに宛てた手紙(1912年9月15日、東京発信)である。小阪清行氏の訳になるもので、参観者の反響を呼んだその手紙の抜粋は以下である【「パンの会ももう随分長い間開いておりません。(…)僕は当地の大学で皮膚科学教室の助手として研究を続けておりますが、二ヶ月の勤務でもうすっかり疲れ果ててしまいました。(…)僕はヴァン・ゴッホ、マチス、ピカソをもっと深く知りたいと思っています。それらの芸術家に関する良い著書があれば送ってください。僕の方からも日本の劇芸術についての優れた本をプレゼントするつもりです。(…)もし可能ならば、また以前のごとく一緒に杯を交わしたいものです。また日本に来てください」】。また、ルンプが習志野俘虜収容所時代に訳して、ドイツで出版した上記『日本の民話』や、習志野時代に製作した絵葉書等の資料が、習志野市教育委員会の星昌幸氏の協力の下に陳列され、ベルリンでの大規模な「フリッツ・ルンプ展」の資料も展示された。【ルンプの生涯については、日本文学研究家盛厚三(小谷厚三)氏の「フリッツ・ルンプ 日本美術文化研究家・波乱の生涯」(『北方人』及び「フリッツ・ルンプ物語 日本美術文化研究家・波乱の生涯(2-3)、『サン板 SAN PAN』、第V期第10号〜第14号」に負うところが多い)】。ポツダム(Potzdam)出身。(4430:「熊本→」大分→習志野)
122)
Runge(ルンゲ),Gustav(?-?):第3海兵大隊第4中隊・2等歩兵。久留米時代、1918年9月16日から日本製粉会社久留米支店に労役で出向いた。労働時間1日8時間、賃金は1ヶ月24円(内4円は国庫納入)であった【『ドイツ軍兵士と久留米』24頁】。トレープニッツのシュロッタウ(Schlottau)出身。(3617:熊本→久留米)
123)
Runtemund(ルンテムント),Fritz(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・1等砲兵。1915年7月11日福岡から久留米へ収容所換えになった。久留米時代は演劇活動で、シュトルム作の一幕喜劇『神童フリドリン』等3演目に出演した。ルール河畔のフレンデンベルク(Fröndenberg)出身。(1427:福岡→久留米)
124)
Runtzler(ルンツラー),Johannes(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等水兵。1915年7月11日福岡から久留米へ収容所換えになった。久留米時代は演劇活動で、リンダウ作の『もう一人の男』に出演した。アイダーシュテット(Eiderstedt)郡のノルトゼーバート(Nordseebad)出身。(1431:福岡→久留米)
125)
Rüsch(リュッシュ),Hermann(?-?):第3海兵大隊第2中隊・上等歩兵。板東時代、1918年6月25、27、28日の三日間上演された、シェイクスピア作の喜劇『じゃじゃ馬馴らし』にペトクルキオ役で出演した。また1919年8月13日に開催された櫛木海岸での水泳大会で、平泳ぎに出場し46.2秒で第3位になった。メクレンブルク=シュヴェーリンのパルヒム(Parchim)出身。(2035:丸亀→板東)
126)
Rüter(リューター),Wilhelm(?-?):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。1954年11月6日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。ドルトムント郡のアルテンデルネ(Altenderne)出身。(678:久留米)