1)
Saalwächter(ザールヴェヒター),Georg(?-?):海軍膠州砲兵隊・2等砲兵。1916年10月21日福岡から名古屋へ収容所換えになった。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ラインヘッセンのオーバーインゲルハイム(Ober-Ingelheim)出身。(1534:福岡→名古屋)
2)
Sachsse(ザクセ),Fritz(1875-1954):総督府・海軍少佐。[砲艦イルチス艦長]。1915年11月16日、300円の所持金を懐にして福岡俘虜収容所から逃亡した。逃走ルートは下関まではケンペと同じであったが、以後は釜山→京城→瀋陽→北京→上海のルートを採った。世界漫遊旅行中のフランス人、リヨン大学政治学教授ルイ・ガラールを装った。上海で4人が落ち合った後、ザクセは上海のドイツ領事館から2通のパスポートを受け取る。ともにかつて青島のドイツ人学校の教師をしていたがとっくにドイツに帰国していた人物である。シュトレーラー(Straelher)と二人太平洋を渡ってアメリカに行き、更にノルウェー人を装ってヨーロッパに向かった。しかし、スコットランド沖でイギリス軍艦の臨検を受けて発覚して逮捕され、大戦終結までマン島の俘虜収容所に収容された。シュトレーラーと共同執筆した「我等が逃亡記」という記事が、『シュトゥラールズント日報』の付録娯楽版(Stralsunder
Tageblatt,Unterhaltungs-Beilage,Nr.54ff,März〜Juli,1938)に掲載された。ハレ近郊のホーエントゥルム(Hohenturm)出身。(1459:福岡)
3) Sack(ザック),Bernhard(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・1等砲兵。久留米時代の1916年1月3日に逃亡したが、翌4日に日吉町で捕まり、7日重営倉30日の処罰を受けた。ハンブルク(Hamburg)出身。(3734:熊本→久留米)
4) Sachs(ザックス),Ernst(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[カルロヴィッツ上海支店]。マーレヒン(Malehin)出身。(3106:松山→板東)
5) Saefkow(ゼフコウ),Emil(1891-?):第3海兵大隊第1中隊・伍長。解放後は蘭領印度に渡って、バタビアのカール・シュリーパー(Carl Schlieper)商会に勤めた。メクレンブルク=シュトレリッツの旧シュトレリッツ(Strelitz)出身。(699:久留米)
6) Saldern(ザルデルン),Siegfried von(1881-1917):海軍砲兵中隊長・海軍大尉。〔封鎖指揮官・繋留気球隊長〕。1914年8月6日、軍艦エムデンが露艦リャザン(Rjasan)を捕獲して青島に入港する際、砲艦ヤーグアル搭載の汽艇で出迎えて無事入港させた。10月初旬、繋留気球に数回乗り込んで、日本軍の偵察を試みたが、周囲の山に遮られて目的を果たせなかった。1915年12月15日、妻のイルマ(Irma)は子供二人を伴い上海を発って門司に上陸し、シーメンス=シュッケルト社の門司支店長宅に約半年身を寄せ、月に三回夫の面会に訪れた。1916年6月、門司から福岡市外住吉字蓑島の元愛知県知事深野一三邸を借り受けて移り住んだ。神奈川県出身のコック北条歌三郎とその妻テル、及び家庭教師アンナ・ボックが共に住んでいた。1917年2月25日の夜、強盗が侵入して夫人を刺殺した。それを知ったザルデルンは悲痛のあまりに、3月1日収容所で自殺した。この事件は当時の新聞で大々的に報じられた。イルマ夫人は時のドイツの海軍大臣カペレ(Eduard von Capelle)の娘であった。埋葬地不明。デッサウ(Dessau)出身。(1461:福岡)
7) Salewsky(ザレヴスキー),Gustav(?-?):第3海兵大隊第3中隊・2等歩兵。久留米の演劇活動では、13演目に出演するとともに、笑劇『巨大児』や『あゝ、何て女達!』等3演目を創作して、それを含む4演目の演出を担当した。ケーニヒスベルク(Königsberg)出身。(761:久留米)
8) Samuel(ザムエル),Nanpon Joseph(1896-?):砲艦ヤーグアル乗員・2等水兵。[青島造船所]。東カロリン群島のポナペ島原住民で、本名はサムエル・ナンポン(Samuel Nanpon)。労働者としてポナペ島から青島の造船所に送られた。日独戦争勃発とともに砲艦ヤーグアルに乗り組んだが最終的に俘虜となった。【『ドイツ兵士の見たNARASHINO』91頁】。1919年10月25日付けの「習志野俘虜収容所ニ収容中ナル南洋人俘虜ニ関スル件照会」によれば、第2代習志野俘虜収容所長山崎友造からの要請で、他のドイツ人俘虜より早めに解放されたと思われる。2006年末にシュミット氏によって、「アジア歴史資料センター」にザムエル等ポナペ島出身者三名が解放の際に書き記した経歴書が発掘された。それによればザムエルは農場主「Josoph」の息子となっているので、「ザムエル」は名前でヨーゾフ「Josoph」が苗字とも受け取られる。東カロリン群島のポナペ(Ponape)島出身。(265:東京→習志野)
9) Sandbiller(ザントビラー),Richard(1896-1926):海軍膠州砲兵隊・2等水兵。[電気工]。1915年9月15日福岡から習志野へ収容所換えになった。シュトゥットガルト(Stuttgart)出身。(1552:福岡→習志野)
10) Sander(ザンダー),Hermann(1884-?):第3海兵大隊第1中隊・予備副曹長。[徳華高等専門学校教師]。青島時代はイレーネ街に住んでいた。妻ベルタ(Bertha)は娘(12歳以下)と二人大戦終結まで青島に留まった。解放後は上海に渡って、同済大学に勤めたが、1925年にドイツに帰国した。ハールツ地方のシュトルベルク(Stolberg)出身(4068:大阪→似島)
11) Sanders(ザンダース),Johannes(?-?):海軍野戦砲兵隊・2等野砲兵。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放され、東京の松方正義家系統の松方五郎宅で私傭書記として働いた【校條「青島戦ドイツ兵俘虜と名古屋の産業発展 ―技術移転の様相を探る―」33頁より】。オルデンブルク(Oldenburg)出身。(2732:名古屋)
12) Sandhövel(ザントヘーフェル),Franz(?-?):海軍膠州砲兵大隊第5中隊・2等水兵。1915年7月11日福岡から久留米へ収容所換えになった。久留米時代は演劇活動で、笑劇『ベルリンっ子』に出演した。ロッテルダム(Rotterdam)出身。(1522:福岡→久留米)
13) Sandrock(ザントロック),Johann(?-?):第3海兵大隊第5中隊・2等歩兵。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。カッセル(Kassel)出身。(3093:松山→板東)
14) Sandru(ザンドル),Paul(?-?):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・3等船渠職工長。青野原時代、1918年12月13日から20日まで開催された俘虜製作品展覧会で、ザンドルは楽器部門にチターを出品した【『AONOGAHARA捕虜の世界』79頁】。ハンガリーのキスミハルド(Kismihald)出身。(2405:姫路→青野原)
15) Sanitz(ザニッツ),Hans(?-?):国民軍・後備伍長。[薬剤師]。青島時代はハインリヒ皇子街に住んでいた。ブランデンブルクのシュマゴライ(Schmagorei)出身。(4598:大阪→似島)
16) Sanz(ザンツ),Josef(?-1916):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・2等水兵。1916年4月21日久留米で死亡、久留米山川陸軍墓地に埋葬された。『ドイツ兵捕虜と収容生活―久留米俘虜収容所W―』117頁には、ザンツの葬儀の様子や墓標を写した写真3点が掲載されている。なお、大戦終結後の1920年1月16日、遺骨はドイツ側委員に引き渡された【『欧受大日記』大正十三年三冊之内其一、附表第一「埋葬者階級氏名表」より】。ボヘミアのニームブルク(Niemburg)出身。(3742:熊本→久留米)
17) Sarna(ザルナ),Emil(?-?):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・1等水兵。姫路時代の1915年3月19日、ヘック(Hoeck)が祖国の祝祭を祝うために買ったビール三本が紛失し、同輩のメッスチル(不詳)に嫌疑をかけたことがきっかけで、ザルナ(Sarna)はヘックと喧嘩を始めた。そこにヘックに味方したスニツフェル(不詳)がナイフでザルナに切りかかった。この事件でスニツフェルとヘックは処罰された【藤原「第一次世界大戦と姫路俘虜収容所」13頁】。ガリチアのクラカウ(Krakau)近郊出身。(2408:姫路→青野原)
18) Sarnow(ザルノフ),Georg(1891-?):海軍膠州砲兵隊・予備海軍見習士官。1914年9月28日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米俘虜収容所に送られた【『欧受大日記』大正三年十一月上より】。久留米の演劇活動では、ガイベル作の喜劇『アンドレーア親方』等11演目に主として女役で出演した。キール(Kiel)出身。(768:久留米)
19) Sartori(ザルトリ),Hans(?-?):海軍東アジア分遣隊・上等兵。久留米時代は演劇活動で、トーマ作の農民喜劇『一等車』等3演目に出演した。エーリヒ・フィッシャー(Erich Fischer)の1918年9月26日付け日記によれば(『ドイツ兵捕虜と収容生活―久留米俘虜収容所W―』(45頁)、ザルトリは山岳ガイドや狩猟の仕事をしていた、山育ちの男とのことであったが、捕虜生活がひどく堪えていて、フィッシャーとツァイス(Zeiss)に面倒を看てもらっていた。強いホームシックにかかっていて、「故郷」の言葉を耳にしただけで、ドイツ・アルプス最高峰のツークシュピッツの話が出たとのことである【このことからも、『青島から来た兵士たち』(瀬戸武彦;同学社刊)の斎藤茂吉をめぐるエピソードの人物は、ザルトリ本人とほぼ断定できる(参照:斉藤茂吉『蕨』)。】。また、1919年12月21日の久留米恵美須座での幕間演芸で、ザルトリはシュタインバッハー(Steinbacher)と一緒に南ドイツの靴踊りを披露して大喝采を博した(『ドイツ兵捕虜と収容生活―久留米俘虜収容所W―』(55頁)。宣誓解放された。ガルミッシュ=パルテンキルヒェン(Garmisch-Partenkirchen)出身。(3706:熊本→久留米)
20) Sasse(ザッセ),Wilhelm(?-?):海軍砲兵中隊・2等水兵。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。シャウムブルク=リッペ(Schaumburg-Lippe)のシュタインベルゲン(Steinbergen)出身。(253:東京→習志野)
21) Sassin(ザッシン),August(?-?):国民軍・卒。[錠前工場経営]。青島時代は大沽路(Takustraße)に住んでいた。1915年9月20日、青島から大阪収容所に移送された。解放後は青島に戻った。シュレージエンのブラニッツ(Branitz)出身。(4699:大阪→似島)
22) Saternus(ザテルヌス),Stanislaus(?-?):第3海兵大隊第3中隊・予備2等歩兵。1917年4月17日傷害罪で懲役3ヶ月に処せられ、福岡監獄に収監された。上部シュレージエンのボイテン(Beuthen)出身。(752:久留米)
23) Sauer(ザウアー),Johann(1892-1960):海軍膠州砲兵隊第4中隊・2等砲兵。板東時代、第7棟5室でマインゼン(Meinsen)及びフェッター(Vetter)とともに洗濯屋を営んだ。ドイツに帰国後マリア(Maria Ottilie)と結婚して息子一人をもうけた。1960年以前、「チンタオ戦友会」に出席した。ヘッセン(Hessen)出身。(4294:「大阪→」徳島→板東)
24) Sauerbrei(ザウアーブライ),Paul(?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・2等砲兵。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に際して、技術部門の機械建設及び電気技術の部では、グレーゴール(H.Gregor)と共同で固定蒸気機関の模型を出品した。テューリンゲンのズール(Suhl)出身。(4060:大阪→似島)
25) Sauerland(ザウアーラント),Walter(1890-?):国民軍・卒。[ジータス-プラムベック青島支店]。青島時代はホーエンツォレルン街に住んでいた。1915年9月下旬に青島俘虜収容所に収容され、1916年1月31日青島から移送されて2月4日大阪俘虜収容所に着いた。解放後は蘭領印度に渡って、ジャワのセマランに住んだ。アドリエンネ(Adrienne E. S. Mehlbaum)と結婚して子ども一人をもうけた。ブラウンシュヴァイクのシュタットオルデンドルフ(Stadtoldendorf)出身。(4700:青島→大阪→似島)
26) Saurbier(ザウルビーア),Hubert(?-?):第3海兵大隊第3中隊・上等歩兵。久留米の演劇活動では、笑劇『巨大児』等11演目に出演した。ザールブリュッケン(Saarbrücken)出身。(747:久留米)
27) Saxen(ザクセン),Heinrich(?-?):第3海兵大隊予備榴弾砲兵隊・2等歩兵。[職工長]。青島時代はフリードリヒ街に住んだ。シュレースヴィヒのオステンフェルト(Ostenfeld)出身。(3134:松山→板東)
28) Saxer(ザクサー),Ludwig(1869-1957):総督府参謀長・海軍大佐。1914年11月7日、午後4時からモルトケ兵営で行われた青島開城交渉におけるドイツ側の全権委員を務めた。青島時代はディーデリヒス通の幕僚官舎に住んでいた。福岡時代、収容所の俘虜代表を務めた。1918年3月22日福岡から習志野へ収容所換えになった。習志野では最年長の俘虜だった。妻ケーテ(Käthe)は息子と娘の二人の子(いずれも12歳以上)と大戦終結まで上海で暮らした。ブランデンブルクのカールスブルク(Carlsburg)出身。(1457:福岡→習志野)
29) Schaadt(シャート),August(1891-1965):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等砲兵。1914年8月上記中隊に入隊した。1915年9月15日福岡から習志野へ収容所換えになった。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。トリーア管区のロシュベルク(Roschberg)出身。(1519:福岡→習志野)
30) Schad(シャート),Emil(?-?):第3海兵大隊第7中隊・後備2等歩兵。[ホテル経営]。大戦終結後、シュタイン(Stein)と青島で経営していた「ホテル・シュタイン・ウント・シャート」の営業を再開した。上記ホテルは大戦中、ある日本人女性に形式上譲渡してあった。バーデンのズルツフェルト(Sulzfeld)出身。(4437:「熊本→」大分→習志野)
31) Schaefauer(シェーファウアー),Friedrich(?-?):第3海兵大隊参謀本部・予備伍長。[シュヴァルツコップ青島支店]。青島時代はホーエンツォレルン街に住んでいた。松山時代、山越の収容所講習会で簿記等の講師を務めた。フライブルク(Freiburg Br.)出身。(3133:松山→板東)
32) Schäfer(シェーファー),Adolf(1893-1945):海軍東アジア分遣隊第3中隊・2等砲手。貧しい炭鉱労働者の家に6人兄弟の長男として生まれた。音楽教育は受けなかったが、10代の頃から独学でチェロやバイオリンを習得して友人たちと演奏を楽しんだ。習志野時代の1915年、ギター、バイオリン、チェロ、ドラムなど約20名のメンバーで「シェーファー楽団」を結成して、ワルツやオペラの挿入曲などを演奏した【楽団の写真が子孫(ヘルムート・シェーファー氏)の元に遺されていて、『毎日新聞』千葉版(捕虜が奏でた調べ;2009年7月29日付け)に掲載された】。また1919年5月24日の習志野合唱協会の「歌曲の夕べ」では、マルフケ(Marufke)、ハム(Hamm)及びエリッヒ(Oellig)の4人でクローマー作の「森の泉のほとりで」を四重唱した【ハム(Heinrich Hamm)の日記には、シェーファーの名が随所に出てくる。ハムとは気が合って親しかったと思われる:ハムの項を参照】。更に同年10月10日の「第2回芸術家コンサート」での揃いのタキシード姿の楽団の写真が『毎日新聞』(千葉版;2009年7月30日付け)に掲載された。大戦終結して帰国後、鉱山での発破作業のマイスターとして活躍した。第二次大戦でのドイツ降伏直後の5月、地雷除去作業で重症を負い、一ヵ月後に死亡した。病院に見舞いに訪れたかつての戦友に「足がなくなったのはまだしも、指がなくてはもうバイオリンは弾けない」と涙を見せたという【『毎日新聞』千葉版(捕虜が奏でた調べ;7月30日付け)による】。【2009年3月26日付の『読売新聞』(星 昌幸氏情報)によれば、アードルフ・シェーファーが大叔父に当たるマールブルク大医学部教授ヘルムート・シェーファー(Helmuth Schäfer)氏が、3月25日に習志野俘虜収容所跡を訪ねて記念碑等を見学した。この出来事は2009年7月29日付『毎日新聞』の「千葉版」(捕虜が奏でた調べ)で紹介された】。ズィーゲン近郊のノイキルヒェン(Neukirchen)出身。(241:東京→習志野)
33) Schaefer(シェーファー),Albert(?-?):第3海兵大隊第6中隊・上等歩兵。1917年7月28日、河本製機所に各種機械製図で労役に就いた【校條「名古屋俘虜収容所 覚書V」所載:『「青島戦ドイツ兵俘虜収容所」研究』第6号、26頁】。ハノーファー近郊のパイネ(Peine)出身。(2676:名古屋)
34) Schaefer(シェーファー),Benedikt(?-?):第3海兵大隊第5中隊・曹長。松山時代(不退寺収容)の1916年8月19日、収容所寺院の庫裏で婦人と懇親を結んだ科で重謹慎10日に処せられた。バーデン・バーデンのザントヴァイアー(Sandweier)出身。(3088:松山→板東)
35) Schäfer(シェーファー),Hermann(1887-1979):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[横浜・ベルクマン商会(Bergmann & Co.)]。松山時代は公会堂に収容され、マイスナー(Meißner)、ベーアヴァルト(Bärwald)、エッゲブレヒト(Eggebrecht)及びシュタインフェルト(Steinfeld)の五人で通訳業務に当たった。板東時代はマイスナー及びシュタインフェルトと同室だった。また、コルトゥム(Cortum)が率いるホッケーチームの一員だった。チームのゴールキーパーは若いブラント(Friedrich Brandt)だった。スペイン風邪の流行時には風邪に罹り、ピーツカー(Pietzcker)の手厚い看護を受けた。大戦終結後は、再度横浜での就職を希望した。それが叶わなかったために、1920年1月27日に神戸で解放されて、「ハドソン丸」で一旦帰国し、ブレーマーハーフェン港に着いたのは1920年3月31日だった。港の波止場には、最初の帰国船豊福丸で既に帰国していたブラント(Brandt)が出迎えていた。その後再度日本へ戻り、1921年以来神戸のデラカンプ・ピーパー商会(Delakamp Piper & Co.)に勤務し、やがて1931年ドイツへ戻った。ドーラ(Dora Kniese,1891-1977)と結婚して子ども三人をもうけた。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。娘のレナーテ・ベルガー(Renate Berger)氏の手による、シェーファーの「自伝風報告」の抜粋が、シュミット氏のホームページに掲載されている。それによるとシェーファーは応召の際、横浜から、神戸、門司、奉天と鉄道を使って一週間かけて天津に辿り着き、天津ではドイツ軍兵営に宿泊した。そして翌日、船で青島に赴いたとのことである。マールブルク(Marburg)出身。(3108:松山→板東)
36) Schäfer(シェーファー),Karl(?-?):国民軍・卒。1915年9月下旬に青島俘虜収容所に収容され、1916年1月31日青島から大阪に移送された。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ルーディヒスドルフ(Rudigsdorf)出身。(4701:青島→大阪→似島)
37) Schäfer(シェーファー),Kurt(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。板東時代の1918年6月11日、「ロシアのシベリア進出」と題して講演した。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ゲルリッツ(Gerlitz)出身。(3110:松山→板東)
38) Schäfer(シェーファー),Willy(?-?):第3海兵大隊第2中隊・上等歩兵。板東時代、1918年5月の第2回懸賞作文に「アラーフ・コロニア」を応募して、佳作になった。また同年春のテニス・トーナメントのシングルスでは、Bクラス2位になった。更に1919年8月13日に開催された櫛木海岸での水泳大会に出場し、横泳ぎでは41.1秒で1位に、主競泳では1分38.1秒で第2位に、抜き手では40秒で第1位になった。ケルン(Köln)出身。(2054:丸亀→板東)
39) Schaffrath(シャフラート),Heinz(?-?):第3海兵大隊重野戦榴弾砲兵隊・後備2等砲兵。1916年9月25日福岡から青野原へ収容所換えになった。ヘルマン・ケルステンの日記によれば、青野原時代の1918年、ドイツ兵俘虜とスラヴ系(チェコ人、ポーランド人、クロアチア人)俘虜との間で、軋轢が生じた。その際のドイツ兵俘虜の集会で、シャフラートは発言を求め、スラヴ系俘虜と接した棟にいることから、仲直りに対しての不満を述べた【『AONOGAHARA捕虜の世界』29-31頁】。大戦終結後は、一般送還船出発前に予め日本国内で解放された。アーヘン(Aachen)出身。(1582:福岡→青野原)
40) Schall(シャル),Hans(?-?):第3海兵大隊第6中隊・補充予備兵。1919年に開催された名古屋収容所俘虜製作展覧会のカタログには、名古屋俘虜収容所で「電報通信」という、日本の新聞からの最新ニュースを翻訳して俘虜に知らせる情報誌があったことが記されている。それによると、日本の新聞記事の翻訳に当たったのは、ケーニヒ(Leo König)、シェーラー(Scheerer)及びシャル(Schall)の三人だった【校條「名古屋俘虜収容所 覚書V」所載:『「青島戦ドイツ兵俘虜収容所」研究』第2号83頁】。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放され、名古屋の豊田紡績会社に就職して技術部書記として働いた【校條「青島戦ドイツ兵俘虜と名古屋の産業発展 ―技術移転の様相を探る―」33頁より】。ウルム(Ulm)出身。(2681:名古屋)
41) Schaller(シャラー),Leonhard(?-?):海軍膠州砲兵隊第4中隊・2等砲兵。徳島時代の1916年10月、徳島工業学校での塗装労役に派遣された。1日約4時間、賃金1日30銭内外。板東時代、タパタオの5号小屋でヴェーバー(Weber)と家具の仕事を営んだ。ロイス(Reuss)のキルシュカウ(Kirschkau)出身。(4293:「大阪→」徳島→板東)
42) Scharf(シャルフ),Karl(?-?):第3海兵大隊第5中隊・2等水兵。板東時代、ドイツ式ハンドボール協会「壮年」の器具係を務めた。エアフルト(Erfurt)出身。(3095:松山→板東)
43) Scharlemann(シャルレマン),Gerhard(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・後備砲兵伍長。[商社員]。上海から応召した。1915年9月15日福岡から習志野へ収容所換えになった。習志野時代、クリューガー(Karl Krüger)と同じ部屋に住んだ。年長者グループに属する年齢で、冬季にはリューマチに苦しんだ。妻は大戦終結まで上海で暮らした。大戦終結して解放後は、蘭領印度のスマトラ島西部のペダンに渡った。出身地不明(『俘虜名簿』では上海)。(1491:福岡→習志野)
44) Scharschou(シャルショウ),Gustav(?-?):第3海兵大隊第3中隊・2等歩兵。1917年10月17日から19日にかけて開催された「レスリング」に出場し、Vクラス(軽量級)の1位になった。エルザスのミュールハウゼン(Mühlhausen)出身。(750:久留米)
45) Schätzle(シェッツレ),Karl(1892-1939):海軍東アジア分遣隊第1中隊・2等歩兵。生涯独身だった。オッフェンブルク県のベルクハウプテン(Berghaupten)出身。(231:東京→習志野)
46) Schattschneider(シャットシュナイダー),Franz(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・後備1等筆生。[天津ドイツ領事館]。ポンメルンのパーゼヴァルク(Pasewalk)出身。(4301:「大阪→」徳島→板東)
47) Schauerte(シャウエルテ),August(1888-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・予備1等砲兵。1916年10月20日福岡から大阪へ収容所換えになった。ヴェストファーレンのオーバーフンデム(Oberhundem)出身。(1474:福岡→大阪→似島)
48) Schaum(シャウム),Johann(1893-1966):海軍東アジア分遣隊第2中隊・2等歩兵。1914年8月上記中隊に入隊した。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した【シュミット】。トリーア県のトライ(Toley)出身。(3702:熊本→久留米)
49) Schaumburg(シャウムブルク),Otto(1877-?):海軍東アジア分遣隊第2中隊長・陸軍歩兵大尉。〔外方陣地左翼陣地指揮官〕。1914年9月18日の李村郊外の戦闘で壮絶な死を遂げたリーデゼル少尉の屍から、勇敢な兵卒に砲火をくぐってその武器を取り戻させて、その夜少尉を埋葬した。大阪時代の1916年、「12月28日秘密通信ヲ企テタル科」で重謹慎30日に処せられた。大阪俘虜収容所及びその次に収容された似島俘虜収容所から、アルテルト(Artelt)、モーラヴェク(Morawek)、エステラー(Esterer)の4人で脱走を企て、アルテルトとエステラーは3年、モーラヴェクとシャウムブルクは2年半の刑を受け、日独講和を受けての特赦で釈放された1920年1月15日まで、広島の吉島刑務所に服役した。コーブレンツ(Koblenz)出身。(4069:大阪→似島)
50) Scheck(シェック),Franz(?-?):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。丸亀時代の1916年2月26日、レッターマイアー(Rettermeyer)に切りつけて軽傷を負わせ、懲役3ヶ月に処せられた【『俘虜ニ関スル書類』より】。板東時代、第2棟5室で洗濯屋を営んだ。上部バイエルンのベルナウ(Bernau)出身。(2066:丸亀→板東)
51) Scheel(シェール),Wilhelm(?-?):国民軍・階級不明。[ジータス、プラムベック商会青島支店]。青島時代はハインリヒ皇子街に住んでいた。妻の名はアウグステ(Auguste)。ハンブルク(Hamburg)出身。(4601:大阪→似島)
52) Scheerer(シェーラー),Robert(1883-1963):第3海兵大隊第6中隊・予備2等歩兵。[福音派伝道師]。1919年6月22日に開催された名古屋収容所俘虜製作展覧会のカタログには、名古屋俘虜収容所で「電報通信」という、日本の新聞からの最新ニュースを翻訳して俘虜に知らせる情報誌があったことが記されている。それによると、日本の新聞記事の翻訳に当たったのは、シェーラー、ケーニヒ(Leo König)及びシャル(Schall)の三人だった【校條「名古屋俘虜収容所 覚書V」所載:『「青島戦ドイツ兵俘虜収容所」研究』第2号、83頁】。プファルツのゲルスバッハ(Gersbach)出身。(2677:名古屋)
53) Scheffel(シェッフェル),Georg(?-?):第3海兵大隊機関銃隊・後備伍長。1919年6月22日に開催された「名古屋収容所俘虜製作品展覧会」のカタログによれば、シェッフェルは1915年に40人編成で設立された、名古屋俘虜収容所合唱団の指導者であった。マイン河畔のフランクフルト郊外のノイ=イーゼンブルク(Neu-Isenburg)出身。(2695:名古屋)
54) Scheibe(シャイベ),Alfred(?-?):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。1914年9月28日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米俘虜収容所に送られた【『欧受大日記』大正三年十一月上より】。久留米の演劇活動では、ビーガー(Bieger)演出になる1幕物『インディアン達』他1演目に出演した。ブレスラウ(Breslau)出身。(742:久留米)
55) Scheider(シャイダー),Kurt(1888-?):総督府経理局・海軍少主計(少尉相当)。松山時代(大林寺収容)の1916年9月19日、ヴンダーリヒ(Wunderlich)から上海に居住するツィンマーマン(Otto Zimmermann)の妻に宛てた小包の二重底に、6名の信書が隠されていたことが発覚し,シャイダーは重謹慎10日の処罰を受けた。他の4名はゲルビヒ(Gerbig)、イェシュケ(Jeschke)、マイアー(Otto Meyer)、ツィンマーマン(Otto Zimmermann)である。板東時代、新板東テニス協会の理事長を務めた。また「エンゲル・オーケストラ」の団員で、第2ヴァイオリンを担当した。ヴィルヘルムスハーフェン(Wilhelmshaven)出身。(3139:松山→板東)
56) Scheithauer(シャイトハウアー),Alois(?-?):第3海兵大隊機関銃隊・2等歩兵。大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として日本国内で解放された。上部シュレージエンのブラチェ(Bratsch)出身。(3694:熊本→久留米)
57) Scheithauer(シャイトハウアー),Josef(?-?):所属部隊不明・予備伍長。[錠前マイスター]。青島時代はフリードリヒ街に住んだ。妻ヘレーネ(Helene)は娘(12歳以下)と二人大戦終結まで青島に留まった。上部シュレージエンのブラッチュ(Bratsch)出身。(4607:大阪→似島)
58) Schekorr(シェコル),August(?-?):海軍膠州砲兵隊第3中隊・1等砲兵。1915年12月5日付けの『徳島新報』第2巻第11号によれば、シェコルは11月28日に開催されたスポーツ大会の「石投げ」で、7.24メートルの成績で1位になった。更に同上新聞の同巻同号によれば、収容所に豚小屋が建設されると豚の肥育と繁殖の係りを務めた。 ザクセンのシュミッツドルフ(Schmitzzdorf)出身。(4280:「大阪→」徳島→板東)
59) Schellhase(シェルハーゼ),Fritz(?-?):第3海兵大隊第3中隊・2等歩兵。『熊本俘虜収容所記事』中の附表第21「負傷證明書附與者一覧表」には、シェルハーゼについて「右鎖骨中央下部ヨリ右肩甲骨翼中央部通スル骨傷銃創」と記述されている。ベルリン(Berlin)出身。(3647:熊本→久留米)
60) Schellhoss(シェルホス),Hans(?-?):築城部・陸軍大尉。1914年8月7日の夕方、プリンツ・ハインリヒ・ホテルで妻フランツィスカ(Franziska)と食事を取っていた際、ギムボルン(Gimborn)と出会った。シェルホス大尉は、妻とともに青島で休暇を過ごしていたのであった。1918年3月22日福岡から習志野へ収容所換えになった。1918年6月9日、シェルホス大尉が3人の子ども連れ夫婦の訪問を受け、その光景には胸に迫るものがあった、とハインリヒ・ハム(Heinrich Hamm)の日記に記されている。妻フランツィスカは大戦終結まで息子と上海で暮らした。ブラウンシュヴァイク(Braunschweig)出身。(1584:福岡→習志野)
61) Schenk(シェンク),Jean(1893-1960):第3海兵大隊第5中隊・2等歩兵。ドイツに帰国後の1922年12月23日、フリデリーカ(Friederika Dudenhofen)と結婚して子ども二人をもうけた。コーブレンツ郡のファレンダール(Vallendar)出身。 (2709:名古屋)
62) Schenk(シェンク),Walter(?-?):第3海兵大隊第3中隊・予備副曹長。1919年6月22日に開催された「名古屋収容所俘虜製作品展覧会」のカタログによれば、クルト・ウンガー(Kurt Unger)及びオットー・ヘル(Otto Herr)とともに収容所図書室の管理係りを務めた。ベルリン(Berlin)出身。(2686:名古屋)
63) Scherer(シェーラー),Ernst(1876-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・予備上等掌砲副兵曹。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された【『俘虜ニ関スル書類』より】。大連の南満州鉄道会社に勤務、1920年1月21日に退役し、同年2月21日付けで予備少尉になった。出身地不明(『俘虜名簿』では上海)。(4065:大阪→似島)
64) Schiefer(シーファー),Peter(?-?):第3海兵大隊工兵中隊・2等工兵。板東時代、公会堂の工芸品展に編み物のテーブルセンターを出品した。また、1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会においては(当時26歳)、2時間21分59秒5分の3で85人中の6位になった【『バラッケ』第4巻4月号80頁】。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。アーヘン近郊のエシュヴァイラー(Eschweiler)出身。(3126:松山→板東)
65) Schiegat(シーガット),Otto(1889-1945):海軍膠州砲兵隊第3中隊・砲兵伍長。東プロイセンのダルケーメン(Darkehmen)出身。(4276:「大阪→」徳島→板東)
66) Schierwagen(シーアヴァーゲン),Max(?-?):海軍膠州砲兵隊第3中隊・1等砲工技手。大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として日本国内で解放された【『俘虜ニ関スル書類』より】。ハインリヒスヴァルデ(Heinrichswalde)出身。(3728:熊本→久留米)
67) Schiess(シース),Heinrich(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等砲兵。1916年10月20日福岡から青野原へ収容所換えになった。1918年12月13日から20日まで開催された青野原俘虜製作品展覧会では、油絵、水彩画、ペン画等26点を出品した【『AONOGAHARA捕虜の世界』67-68頁】。コンスタンツ(Konstanz)出身。(1536:福岡→青野原)
68) Schieweck(シーヴェック),Paul(?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・1等砲兵。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会技術部門の機械製作・電気技術で、ハルツハイム(Hartzheim)及びフリングス(Frings)と共同でガスモーターを出品した。エッセン(Essen)出身。(4045:大阪→似島)
69) Schiffler(シフラー),Wilhelm(1892-1956):第3海兵大隊第3中隊・2等歩兵。ザールブリュッケン郊外のエアクルシェーエ(Erkurschöhe)出身。(751:久留米)
70) Schild(シルト),Richard(?-?):海軍膠州砲兵隊第3中隊・2等砲兵。徳島時代の1916年1月27日、ホルトカンプ(Holtkamp)及びクルツケ(Kurzke)の三人で演じた『壊れた鏡』が喝采を博した【『徳島新報』第19号(1916年1月30日発行)より】。低地バイエルンのオスターホーフェン(Osterhofen)出身。(4284:「大阪→」徳島→板東)
71) Schilk(シルク),Friedrich(?-?):第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。[カルロヴィッツ天津支店]。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放され、東京の磯部商会に勤めた。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。シュレージエンのナムスラウ(Namslau)出身。(2091:丸亀→板東)
72) Schilling(シリング),Adolf(?-?):第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。板東時代、第5棟3室でビールとタバコの販売をした。ブラウンシュヴァイク(Braunschweig)出身。(2090:丸亀→板東)
73) Schilling(シリング),Karl(?-1915):海軍膠州砲兵隊・1等水兵。1915年4月15日、胃がんのために熊本衛戍病院で死亡し、河原火葬場にて荼毘に付された。翌16日に熊本市手取本町の天主公教教会堂で、収容所長、師団副官、病院長、各収容所先からのドイツ兵代表10人が参列して、荘重・盛大に葬儀が執り行われ、その後黒髪村小峰官軍墓地に埋葬された。1915年4月17日付けの『九州日日新聞』は、「俘虜水兵シルリングの葬儀―小峰墓地に埋葬す」との次の記事を掲載した。「熊本市細工町俘虜収容所の一等水兵カールシルリングの葬儀は十六日午前九時三十分熊本市手取本町天主公教会教会堂にておこなわれたり収容所にては十五日午後三時上河原火葬場にて屍体を荼毘に付し遺骨は十六日早朝同教会堂に送られ松木収容所長渡邊大尉以下所員一同、師団よりは牧副官、衛戍病院よりは肥田病院長会葬し俘虜将校全部及細工町収容所よりは各寺院より十名宛の代表会葬し深堀宣教師聖堂に棺を迎へ入堂の式あり、聖人来り彼を助け天使は出でて彼を迎へ云々の□□にて棺は聖堂に安置され六本の燭は悲しき光を放ちて収容所職員、俘虜将校等の献じたる十個の花輪を照し煙の如く春雨降り続く屋外まで立つ九セル会葬者粛として控える内に深堀氏の祈祷あり細工町俘虜は「未来の安住」なる哀悼歌唱へ赦祷式に移りオルガンに合唱する悲哀の曲、堂内に起これば燭光瞬いて死者生前の罪科は赦され 司祭者は更に祷文を黙祷しつつ聖水を瀧きて死体を清め香を薫じてキリストとの芳しき香を湛え死者の罪科は悉く清められて式を終り午前十時より棺は会葬者に囲まれて市外黒髪村小峰官軍墓地へと送られ埋棺の式あり聖水、浄土は松木所長以下によりて投ぜられ花輪に掩はれし土饅頭に木の香高き十字架の墓標建てられたるが会葬者中青島(チンタオ)以来の朋友パウレルは俘虜将校より贈れる花輪を両手に確かと握りて放しも得せず朋友永遠の別れに涙を流して立去りかねたるは憐れを極めり」。今日カール・シリングの墓碑は、熊本市立田山自然公園にある市営墓地にあるが、長らくその存在は不明であった。墓石の発見に至った背景には、近藤文子氏(徳島市)による調査・研究があった。なお、何時、誰によって石碑が建立されたのかは不明であるとのことである【以上、シリングに関する記述は、窪田隆穂「熊本に眠るドイツ人たち」(熊本日独協会会報No.14、2002年11月)より】。墓石には「Hier ruht Karl Schilling Obermatrose gest.15.4.1915」と刻まれている。なお『俘虜名簿』の「日本軍埋葬戦病死者」の「遺族住所」欄には、妻の連絡先として中国漢口の「ドイツ・クラブ」が記されている。出身地不明(『俘虜名簿』では漢口)(3733:熊本)
74) Schillo(シロ),Peter(1894-1984):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等砲兵。徳島時代の1915年4月20日、チェス選手権試合が開催された。それに出場したシロは4組(出場者総数21名)の内の第4組に割り振られ、2位で本戦のA級に進出した。同年7月に行われたサッカーの試合では脚を骨折した。1984年8月3日、ラインラントのヴァーデルン(Wadern)で死去。ヴァーデルン(Wadern)出身。(4306:「大阪→」徳島→板東)
75) Schimmel(シンメル),Peter(1873-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・第2後備1等砲兵。応召前は、東アジアを航海していた蒸汽船「聖テオドーレ号」に乗り組んでいた。徳島時代の1915年4月20日、チェス選手権試合が開催された。それに出場したシンメルは4組(出場者総数21名)の内の第3組に割り振られたが、4位で本戦のB級進出に留まった。同年10月3日付けの『徳島新報』(Tokushima Anzeiger)第2巻第2号に、シンメルの9行詩の体裁をとった投稿が掲載された。「私の42歳の誕生祝に当って、私に幸福と祝福を寄せてくれた全ての人々に良きことがありますよう。特に朝美しい歌を繰り広げてくれた我々の合唱団に、皆に好かれた指揮者たちに、私にも贈りものをくれ、私の机を花で飾り、それによって私の老いた国民軍魂を元気つけてくれた全ての友人たちに、私の心からの感謝を捧げる。」板東時代、1917年7月17日に発足した「収容所保険組合」に砲兵大隊代表となって運営に従事した。ヴォルムス(Worms)出身。(4307:「大阪→」徳島→板東)
76) Schimming(シミング),Fritz(?-?):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。[天津ドイツ郵便局]。板東時代、クリングスト(Klingst)とタパタオの6号小屋で鋳型製作所を営んだ。また「エンゲル・オーケストラ」の団員で、チェロを担当した。レバ(Leba)郡のレチン(Letschin)出身。(3087:松山→板東)
77) Schindler(シントラー),Otto(?-?):海軍東アジア分遣隊第3中隊・2等歩兵。[パン職人]。1915年7月11日福岡から久留米へ収容所換えになった。1954年11月6日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。ザクセンのオシャッツ近郊ヴェルムスドルフ(Wermsdorf)出身。(1577:福岡→久留米)
78) Schindler(シントラー),Rudolf(?-?):国民軍・卒。1915年9月20日、青島から大阪俘虜収容所に移送された。ウィーン(Wien)出身。(4702:大阪→似島)
79) Schlachtbauer(シュラッハトバウアー),Karl(?-?):第3海兵大隊予備榴弾砲兵隊・後備上等兵。[馬具職人;カール・シュラッハトバウアー馬具店経営]。青島時代はイレーネ街に住んでいた。バイエルンのメニングスロート(Möningsroth)出身。(2707:名古屋)
80) Schleisner(シュライスナー),Fritz(1876-?):兵器庫・海軍火工少尉。1894年10月海軍に入隊し、1912年7月火工少尉に昇進した。1915年6月30日海軍火工大尉に昇進。1920年3月退役した。1920年4月12日付けで海軍火工大尉になった【シュミット】。ノイブリュック(Neubrück)出身。(2390:姫路→青野原)
81) Schlemper(シュレムパー),Wilhelm(?-?):第3海兵大隊第6中隊・予備2等歩兵。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放され、ゾーリンゲンのヘルダー商会(R. A. Herder)横浜支店に勤務した。出身地不明(『俘虜名簿』では上海)。(2679:名古屋)
82) Schlichtiger(シュリヒティガー),Hermann(?-1965):総督府・上等機関兵曹。[ジーメンス=シュッケルト技師]。青島時代はヴィルヘルム皇帝海岸通に住んでいた。板東時代は劇場委員会に所属した。ベルリン(Berlin)出身。(3137:松山→板東)
83) Schlick(シュリック),Friedrich F.von(1881-?):第3海兵大隊機関銃隊・陸軍中尉。戦闘の初期にはメルク(Merck)予備少尉とともに、外方の前線陣地を守った。11月7日戦闘終了後、ビスマルク兵営の占領・処理のために訪れた歩兵第56連隊第3大隊長中島少佐とマイアー=ヴァルデック総督の身上について語り合った。ローマン(Lohmann)あるいはシュテーゲマン(Stegemann)の遺品と思われる写真中に、オットー・ライマース(Otto Reimers)テニスコートのネットを挟んで、にこやかに握手している写真が現存している【ローマン及びシュテーゲマンの項、及び〔写真10〕参照】。1954年11月6日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。なお、ドイツに帰国後、「日本軍の状況について」(Etwas über Verhältnisse der japanischen Armee)の報告書を提出した。今日その報告書はフライブルクの連邦公文書館に保存されているが、その内容が校條善夫氏によって紹介されている【「名古屋俘虜収容所 覚書V」、所載:『「青島戦ドイツ兵俘虜収容所」研究』第4号62頁及び66頁】。ヴァンツベック(Wandsbeck)出身。(2675:名古屋)
84) Schliecker(シュリーカー),Wilhelm(?-?):第3海兵大隊第7中隊・陸軍中尉。〔第2歩兵堡塁指揮官〕。シュルツ(Schulz)大尉に代わって前記の指揮官になった。丸亀時代の1916年4月14日(推定)に、石井彌四郎収容所長を囲んで撮影した記念写真が現存している。ドイツ将校7名と収容所人員の計17名の集合写真である。シュリーカー中尉は、前列向かって石井所長の右となりである【アダムチェフスキー(Adamczewski)少尉の項、及び〔写真1〕を参照】。1916年10月4日、ランセル大尉、ラミーン中尉、フェッター中尉、シェーンベルク少尉、アダムチェフスキー少尉、キュールボルン少尉とともに丸亀から大分に移送された。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。出身地不明(『俘虜名簿』では漢口)。(2050:丸亀→大分→習志野)
85) Schlierbach(シュリーアバッハ),Rudolf(?-?):海軍膠州砲兵隊・2等砲兵。[パン職人]。1915年7月11日福岡から久留米へ収容所換えになった。ビーバー(Bieber)河畔のロートハイネ(Rodheine)出身。(1537:福岡→久留米)
86) Schlieter(シュリーター),Robert(1883-?):第3海兵大隊第1中隊・曹長。1914年11月15日、久留米俘虜収容所に収容された。その折、既に収容されていた俘虜たちが蓄音機で「旧友」をかけて出迎えた。シュリーターが中隊を指揮して行進させている中には髭面のリヒター(Richter)がいたが、クルーゲ(Kluge)にはそれがリヒターだとすぐに分かった【クルーゲ(Kluge)の項参照】。西プロイセンのヴァイクセルブルク(Weichselburg)出身。(698:久留米)
87) Schlitter(シュリッター),Bernhard(?-?):第3海兵大隊第7中隊・予備上等歩兵。青島時代はフリードリヒ街に住んだ。下記フリードリヒ・シュリッターの兄。弟の名古屋収容所への収容所替えを申請したが許可されなかった【『日独戦争ノ際俘虜情報局設置並独國俘虜関係雑纂』21冊の内の2の1より】。大戦終結後の1919年12月28日、帰国船ヒマラヤ丸で下記弟フリードリヒ(Friedirch)と同船でドイツに帰国した【「親子兄弟同船者人名及配船表」より】。フォークトラントのエルスニッツ近郊ウンターヘルムスグリューン(Unterhermsgrün)出身。(2683:名古屋)
88) Schlitter(シュリッター),Friedrich(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等砲兵。[指物師]。上記ベルンハルト・シュリッターの弟。名古屋への収容所替えを申請したが許可されなかった。1915年7月11日福岡から久留米へ収容所換えになった。大戦終結後の1919年12月28日、帰国船ヒマラヤ丸で上記兄ベルンハルト(Bernhard)と同船でドイツに帰国した【「親子兄弟同船者人名及配船表」より】。ウンターヘルムスグリューン(Unterhelmsgrün)出身。(1517:福岡→久留米)
89) Schlögel(シュレーゲル),Ernst(?-?):第3海兵大隊第6中隊・予備伍長。[中国輸出入銀行上海支店]。1914年11月1日午後遅く、日本軍の攻撃が一時止むと、上海時代からの知り合いであるメラー(Meller)とともに衛戍病院の裏手の丘に登り、オーストリアの軍艦カイゼリン・エリーザベトが自沈するのを目撃した【メラー『青島守備軍の運命』25頁】。板東時代、新板東テニス協会の会計係を務めた。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。フライブルク(Freiburg Br.)出身。(3100:松山→板東)
90) Schloemerkaemper(シュレーマーケンペル),Heinrich(?-?):第3海兵大隊第2中隊・上等歩兵。板東時代、「エンゲル・オーケストラ」の団員で、コントラバスを担当した。デトモルト(Detmold)出身。(2055:丸亀→板東)
91) Schlosser(シュロッサー),Karl(?-?):第3海兵大隊第4中隊・2等歩兵。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に際して、美術の工芸木工部門で人形芝居用の人形5体を出品した。ツヴィッカウ(Zwickau)出身。(4589:大阪→似島)
92) Schlotfeldt(シュロートフェルト),Hans(1893-1918):総督府・1等筆生。1918年7月29日、青野原俘虜収用所内の第19号井戸に身を投げて死亡。キール近郊のザックスドルフ(Sachsdorf)出身。(2389:姫路→青野原)
93) Schlotterbeck(シュロッターベック),Wilhelm(1892-1965):海軍東アジア分遣隊第2中隊・上等歩兵。1916年9月25日福岡から青野原へ収容所換えになった。1919年12月18日、習志野のマイレンダー(Mailänder)に宛てて葉書を出した。それは川べりに大きな柳の木があり、そのたもとに小船二艘、ぼんやり月が浮かんでいる風情のある絵葉書である。【マイレンダーの項参照】。大戦終結して解放後は、蘭領印度に渡った。1965年1月1日、ザールブリュッケンで死去。ザールブリュッケン(Saarbrücken)出身。(1557:福岡→青野原)
94) Schlund(シュルント),Alfred(?-1918):海軍膠州砲兵隊第5中隊・後備1等機関兵曹。1915年7月11日福岡から久留米へ収容所換えになった。1918年3月13日久留米で死亡し、久留米山川陸軍墓地に埋葬された。『ドイツ兵捕虜と収容生活―久留米俘虜収容所W―』(2007)118頁には、シュルントの葬儀の様子を写した写真が掲載されている。なお、大戦終結後の1920年1月16日、遺骨はドイツ側委員に引き渡された【『欧受大日記』大正十三年三冊之内其一、附表第一「埋葬者階級氏名表」より】。ツヴィッカウ郡のシュタインプライス(Steinpleis)出身。(1489:福岡→久留米)
95) Schlüter(シュリーター),Hubert(?-?):国民軍・上等兵。[山東鉄道運行検査官]。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ヴェストファーレンのリューテン(Rüthen)出身。(4446:「熊本→」大分→習志野)
96) Schmalenbach(シュマーレンバッハ),Wilhelm(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・1等水兵。[河用砲艦チンタオ乗員]。1915年12月5日付けの『徳島新報』第2巻第11号によれば、シュマーレンバッハは11月28日に開催されたスポーツ大会の6種目総合で50点の成績で12位になった。板東時代の1918年4月4日から6日の三日間、ブランダウ演劇グループによるクライストの『壊れ甕』の上演に際して、産婆のマルテ・ルル役を、得意の声色のレパートリー全てを駆使して演じた。ヴェストファーレンのハーゲン(Hagen)出身。(4302:「大阪→」徳島→板東)
97) Schmalz(シュマルツ),Siegfried(1882-1943):第3海兵大隊参謀本部・陸軍中尉。〔参謀本部幕僚・伝令処罰将校、後に自動車廠指揮官〕。ドイツに帰国後の1920年3月10日陸軍に移り、最後は少佐になった。ハンブルク空襲で死亡した。ザクセンのオシャッツ(Oschatz)出身。(2674:名古屋)
98) Schmid(シュミート),Friedrich(?-?):海軍膠州砲兵隊第3中隊・2等砲兵。1915年12月5日付けの『徳島新報』第2巻第11号によれば、11月28日に行われたスポーツ大会で手渡された表彰状の図案を製作した。板東時代、公会堂の絵画と工芸品展覧会に、芸術家らしい味わいを示した油絵「徳島収容所のホールの隅」を、また色鉛筆・チョークの部門に「裸体画」を出品した。シュトゥットガルト近郊のウンタートュルクハイム(Untertürkheim)出身。(4283:「大阪→」徳島→板東)
99) Schmidt(シュミット),Ambrosius(?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・1等砲兵。1916年10月20日福岡から大阪へ収容所換えになった。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に際して、美術の工芸木工部門でヴトカ(Wuttka)と共同で、鳥籠1点を出品した。マールブルク近郊のシュロック(Schrock)出身。(1475:福岡→大阪→似島)
100) Schmidt(シュミット),Daniel(1891-?):海軍野戦砲兵隊・上等兵。「14歳にしてグーデンベルヒの小学校を卒業し17歳迄食肉加工職を学び同時にカッセルの補修学校に通学す、農家に生長し通学期を通じて農業の実際を学びたり、特に17歳より19歳迄農作牧畜を修得し1912年10月2日入隊して乗馬隊に入り養馬を実地及び学理的に修得す、牛畜、肉製品、腸詰、缶詰を特技とす」【「北海道移住」より】。グーデンスベルク(Gudensberg)出身。(2701:名古屋)
101) Schmidt(シュミット),Daniel(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・後備1等砲兵。[山東鉄道駅長]。大戦終結後は、特別事情を有することから青島居住を希望した【『俘虜ニ関スル書類』より】。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ハノーファー近郊のシュターデ(Stade)出身。(4443:「熊本→」大分→習志野)
102) Schmidt(シュミット),Felix(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・予備砲兵伍長。[ジーメンス東京支店]。1915年9月15日福岡から習志野へ収容所換えになった。習志野時代、クリューガー(Karl Krüger)と同室だった。またユーバシャール(Ueberschaar)の下で日本語を学び、スポーツとしてはホッケーをした。テューリンゲンのシュタイナッハ(Steinach)出身。(1492:福岡→習志野)
103) Schmidt(シュミット),Friedrich(?-?):海軍東アジア分遣隊第3中隊・後備上等歩兵。熊本時代の1915年1月13日、散歩中に落とした「青島紙幣10円」を郵便局員の息子が拾い、その父親が届け出て無事に手元に届いた。シュミットはその息子に1円を謝礼として渡した。ダブリングハウゼン(Dabringhausen)出身。(3703:熊本→久留米)
104) Schmidt(シュミット),Fritz(1894-1976):総督府・1等筆生。福岡時代の1917年3月28日、青野原のヘルケ(Herke)に絵葉書(箱崎八幡宮)を出した【シュミット】。1918 年3月22日福岡から習志野へ収容所換えになった。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ザーレ河畔のゴルビッツ(Golbitz)出身。(1586:福岡→習志野)
105) Schmidt(シュミット),Heinrich(?-?):第3海兵大隊第7中隊・伍長。[庭師]。北京から応召した。妻の名はTsune(ツネ?:日本女性と思われる)。丸亀時代の1915年2月9日、東京市芝区松本町の会社員の妻辻川英が知人として面会に訪れ、ドイツ語でシュミットの妻や友人のことなどについて30分ほど談話して、みかん、鶏卵、菓子を差し入れた。また、同年3月21日には、観音寺女学校職員織田シカが菓子二箱を差し入れに来た。織田シカなる人は北京に居るシュミットの妻の知人で、その住所を尋ねに来たのであった【『丸亀俘虜収容所日誌』より】。また1916年2月11日には、愛媛県の織田仁太郎が尋ねてきて日本語で会話した。二人は8年から9年にかけて北京で花卉商として従事した当時の思い出、数年前に別れてからの双方の身の上や家族に関して話しあった【『丸亀俘虜収容所日誌』より】。農学を修めたことから板東時代、郡農会・板野郡立農蚕学校等に招かれ講演した。シュミットによる試作地での蔬菜の品目は10種に及ぶ。赤なす(トマト)、火焔菜(赤ビート)、甘藍(キャベツ)、玉葱はそれまでこの地方にはなかったと言われる【『日本人とドイツ人』89頁】。ゴータ(Gotha)出身。(2086:丸亀→板東)
106) Schmidt(シュミット),Heinrich(?-?):第3海兵大隊第4中隊・2等歩兵。熊本時代(長国寺に収容)の1915年3月30日、6日から急性喉頭炎の疑いで入院していたところ、腸チフスと診断され、4月8日に退院した。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。マイン河畔のフランクフルト(Frankfurt)出身。(3665:熊本→久留米)
107) Schmidt(シュミット),Jakob Ludwig(1892-1938):海軍膠州砲兵隊第2中隊・1等砲兵。ドイツに帰国後の1923年10月27日、カロリーネ(Karolina Fessler)と結婚した。子供はいなかった。カールスルーエ県のゴンデルスハイム(Gondelsheim)出身。(3726:熊本→久留米)
108) Schmidt(シュミット),Karl(1893-1952):第3海兵大隊第3中隊・2等歩兵。1917年5月24日、情報局から各収容所への製針業に従事していて、労役希望者の照会に対して、久留米ではシュミット他3名を届けた。ライン河畔のエトワレ(Etoille)出身。(748:久留米)
109) Schmidt(シュミット),Karl Friedrich(1898-1916):第3海兵大隊第5中隊・2等歩兵。1916年5月31日名古屋で死亡、陸軍墓地に埋葬された。グラウデンツ(Graudenz)郡のピーントケン(Pientken)出身。(2713:名古屋)
110) Schmidt(シュミット),Otto(1891-1971):第3海兵大隊第3中隊・2等歩兵。1891年12月28日、錠前工の子としてマルシュタット=ブルバハ(今日はザールブリュッケン)に生れた。1914年8月上記中隊に入隊した。第二次大戦後「チンタオ戦友会」に出席した【シュミット】。ザールブリュッケン(Saarbrücken)出身。(4587:大阪→似島)
111) Schmidt(シュミット),Richard(?-?):第3海兵大隊第3中隊・予備伍長。久留米の演劇活動では、トーマ作の喜劇『放蕩娘』に出演した。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。出身地不明(『俘虜名簿』では上海)(746:久留米)
112) Schmidt(シュミット),Rudolph(?-?):第3海兵大隊第1中隊・予備上等歩兵。1918年1月24日、ニューヨーク市ゴールド街C.O.フレックスなる人物から情報局へ、シュミット宛て金50円交付方の出願があったので転送し、その旨出願人へ通牒された。カッセル(Kassel)出身。(708:久留米)
113) Schmidt(シュミット),Sylvester(?-?):第3海兵大隊工兵中隊・上等兵。板東時代、無料水泳教室の教官を務めた。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。アンハルトのベルンブルク(Bernburg)出身。(3124:松山→板東)
114) Schmidt(シュミット),Wilhelm(1894-1972):第3海兵大隊第4中隊・2等歩兵。1918年8月7日久留米から板東へ収容所換えになった。ドイツに帰国後の1921年7月8日、マリア(Maria Bungarts)と結婚して子どもを四人もうけた。1922年以来帝国鉄道に勤務、第二次大戦に志願兵として応召した。「チンタオ戦友会」に出席した。ラインラントのノイス(Neuß)出身。(764:久留米→板東)
115) Schmidt(シュミット),Willy(1891-1916):第3海兵大隊工兵中隊・伍長。1915年(月日不明)、「病気ノ為メ衛戍病院ニ入院中ニモ拘ラス収容所ヘ面会ニ来リシ途中飲酒シタル科」で重営倉1日に処せられた。1916年6月18日名古屋で死亡、陸軍墓地に埋葬された。ライプチヒのリンデナウ(Lindenau)出身。(2691:名古屋)
116) Schmiedel(シュミーデル),August(1893-1919):海軍野戦砲兵隊・野砲兵兵曹。1918年8月7日久留米から板東へ収容所換えになった。1919年3月6日板東(徳島)で死亡。シェーンフェルト(Schönfeld)出身。(3686:熊本→久留米→板東)
117) Schmieder(シュミーダー),Hugo(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[マックス・ネスラー書店。マイセン(Meissen)出身。(3113:松山→板東)
118) Schmitt(シュミット),Georg(1892-1966):海軍膠州砲兵隊第3中隊・1等砲兵。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ラインヘッセンのアルツァイ(Alzey)出身。(4278:「大阪→」徳島→板東)
119) Schmitz(シュミッツ),Karl(?-?):海軍膠州砲兵隊第3中隊・予備1等砲兵。1915年12月5日付けの『徳島新報』第2巻第11号によれば、シュミッツの仲介により、上海在住のスポーツ愛好家から美しい錫製のコップ5個がスポーツ大会の景品として提供された。1964年のニュルンベルク、1966年のフランクフルトで開催された「チンタオ戦友会」では、アルブレヒト(Albrecht)、ベーダー(Beder)等とともに世話役を務めた。ケルン=フィングスト(Köln-Vingst)出身。(4281:「大阪→」徳島→板東)
120) Schmolke(シュモルケ),Heinrich(?-?):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。1916年9月26日横浜米国領事館より情報局へ、シカゴ市「ピーター・ファルネー」父子商会の依頼でシュモルケ宛てに薬品入小包2個交付方の照会があり、検閲の上用法を付して転送し、その旨領事館に回答された。『ドイツ軍兵士と久留米』205頁には、1919年1月の日付での久留米ホッケーチームの集合写真が掲載されているが、その右から五人目にシュモルケが写っている。東プロイセンのインスターブルク(Insterburg)出身。(729:久留米)
121) Schnack(シュナック),Otto(?-?):第3海兵大隊第4中隊・予備伍長。久留米時代の1918年9月頃、187名が他の収容所に移って16号棟が空き、シュナックはエーリヒ・フィッシャー(Erich Fischer)及びツァイス(Zeiss)とともに町でピアノを借りて練習した【『ドイツ兵捕虜と収容生活―久留米俘虜収容所W―』37頁】。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。キール(KIel)出身。(3654:熊本→久留米)
122) Schneeweiss(シュネーヴァイス),Emil(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・1等砲兵。1915年7月11日福岡から久留米へ収容所換えになった。1917年10月19日に開催された「1917年スポーツ週間」の「三段跳び」(踏み切り台有)では12.26mで第3位に、10月22日の「100mハードル」では13.6秒で第4位になるなど、久留米のスポーツ大会で活躍した。ドレスデン郡のミューゲルン(Mügeln)出身。(1495:福岡→久留米)
123) Schneider(シュナイダー),Eugen(?-?):第3海兵大隊第7中隊・伍長。[元軍楽隊鼓手]。多度津から丸亀まで二列になって行進したとき、メラー(Meller)と並んで歩いた。その折シュナイダーは、見物に集まった群衆から感嘆の声を上げられた。軍楽隊員を示す金色の半月形の肩章が、将軍を思わせたからであった【メラー『青島守備軍の運命』36頁】。ヴュルテンベルクのシュラムベルク(Schramberg)出身。(2081:丸亀→板東)
124) Schneider(シュナイダー),Gustav(?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・後備1等掌砲兵曹。[青島警察署]。1918年8月7日久留米から板東へ収容所換えになった。上部シュレージエンのノイシュタット(Neustadt)出身。(3725:熊本→久留米→板東)
125) Schnell(シュネル),Rudolf(?-?):海軍東アジア分遣隊第2中隊・海軍少主計(少尉相当)候補。習志野時代、習志野劇場によるエルンスト作の喜劇『フラックスマン先生』に教師役で出演した。ポンメルンのコルベルク(Kolberg)出身。(1555:福岡→習志野)
126) Schnirpel(シュニルペル),Paul(?-?):第3海兵大隊第1中隊・伍長。1918年8月7日久留米から板東に収容所換えになった。1954年11月6日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。ケーテン(Köthen)出身。(701:久留米)
127) Schober(ショーバー),Max(?-?):第3海兵大隊第4中隊・2等歩兵。妻イーダ(Ida)は大戦終結まで、娘(12歳以下)と青島に留まった。低地シュレージエンのラウバン郡オーバーシュライバースドルフ(Oberschreibersdorf)出身。(3669:熊本→久留米)
128) Schober(ショーバー),Reinhold(?-?):海軍第2工機団・技術秘書官。青島時代はドイツ街に住んでいた。大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として日本国内で解放された。シュテッティン(Stettin)出身。(4653:大阪→似島)
129) Scholl(ショル),Lorenz(?-?):海軍東アジア分遣隊第2中隊・2等歩兵。[腸詰製造職人]。1916年9月25日福岡から青野原へ収容所換えになった。バイエルンのグラーフェンラインフェルト(Grafenreinfeld)出身。(1561:福岡→青野原)
130) Scholl(ショル),Maximilian(?-?):海軍膠州砲兵隊第1中隊・1等焚火兵。プリュショー(Plüschow)中尉付き卒で、8月3日飛行機の翼の再組み立てに従事した。ミュンヘン(München)出身。(4032:大阪→似島)
131) Schöllkopf(シェルコプ),Adolf(?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・2等砲兵。[理髪マイスター]。1916年10月20日福岡から大阪へ収容所換えになった。似島時代の1919年3月に開催された広島県物産陳列館の似島独逸俘虜技術工芸品展覧会カタログによれば、シェルコプはガルケン(Garken)と共同で理髪店を営業していた。キール(Kiel)出身。(1478:福岡→大阪→似島)
132) Scholz(ショルツ),Arthur L.(?-?):海軍砲兵中隊・2等水兵。1917年1月28日、アンドレーア(Andrea)をペーテルス(Peters)等18名で袋叩きにして負傷させ、2月7日久留米軍事法廷で懲役1月に処せられた。ベルリン(Berlin)出身。(3718:熊本→久留米)
133) Scholz(ショルツ),Gustav(?-?):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。板東時代、第3棟3室で家具屋を営んだ。シュレージエンのペツェルスドルフ(Petzelsdorf)出身。(2068:丸亀→板東)
134) Scholz(ショルツ),Rudolf Georg(?-?):国民軍・卒。[建築技師]。青島時代はハインリヒ皇子街に住んでいた。1915年9月20日、青島から大阪俘虜収容所に移送された。1919年3月4日から広島県物産陳列館で開催された、似島獨逸俘虜技術工藝品展覧會のために発行された「似島獨逸俘虜技術工藝品展覧會目録」の26頁には、ショルツの石版印刷のスケッチが掲載された。ケルン(Köln)出身。(4703:大阪→似島)
135) Schon(ショーン),Wilhelm(?-?):第3海兵大隊第7中隊・伍長。[上海花卉(Shanghai-Flora)]。ヴィーティング(Wieting)の回想録によれば、ショーンは花卉の分野では名を知られた、心優しい人物だった。ベルリンではヴィルヘルム皇帝やその他お偉方の食卓を花で飾る際、ショーンが勤めていた会社に注文があると、盛り付けを担当するのはショーンであった【「ルートヴィヒ・ヴィーティングの回想」から;所載:『「青島戦ドイツ兵俘虜収容所」研究』第2号26頁】。ダンチヒ(Danzig)出身。(2075:丸亀→板東)
136) Schönberg(シェーンベルク),Rudolf von(1884-1936):第3海兵大隊第2中隊・陸軍少尉。丸亀時代の1916年4月14日(推定)に、石井彌四郎収容所長を囲んで撮影した記念写真が現存している。ドイツ将校7名と収容所人員の計17名の集合写真である。シェーンベルク少尉は、中列向かって右端である【アダムチェフスキー(Adamczewski)少尉の項、及び〔写真1〕を参照】。1916年10月4日、ランセル(Lancelle)大尉、ラミーン(Ramin)中尉、シュリーカー(Schliecker)中尉、フェッター(Vetter)中尉、アダムチェフスキー(Adamczewski)少尉、キュールボルン(Kühlborn)少尉とともに丸亀から大分に移送された。ザクセンのプルシェンシュタイン(Purschenstein)出身。(2051:丸亀→大分→習志野)
137) Schönberger(シェーンベルガー),Jakob(?-?):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。板東時代、1918年6月25、27、28日の三日間上演された、シェイクスピア作の喜劇『じゃじゃ馬馴らし』にヴィンセンチオ1の役で出演した。ラインプファルツのヴァイセンハイム(Weissenheim)出身。(2061:丸亀→板東)
138) Schönborn(シェーンボルン),Friedrich(?-?):海軍東アジア分遣隊第1中隊・2等歩兵。1915年6月熊本から久留米へ収容所換えになった。1918年12月4日に行われた「久留米体操クラブ」の12種競技(鉄棒、平行棒の演習3種目、鞍馬の演習2種目、徒手体操1種目、陸上競技3種目)では、113⅔点を獲得して初級の部の第3位になった。ヘッセンのニーデルンハウゼン(Niedernhausen)出身。(3699:熊本→久留米)
139) Schöning(シェーニング),Hugo(?-?):海軍東アジア分遣隊第2中隊・2等歩兵。1915年7月11日福岡から久留米へ収容所換えになった。1919年10月21日に開催された「1919年スポーツ週間」の「幅高跳び Bクラス」(参加者5名)で、高さ1.30m、幅2.40mをクリアして第5位だった。ヴェストファーレンのバーロプ(Barop)出身。(1560:福岡→久留米)
140) Schortz(ショルツ),Franz(?-?):ヤップ島住民部隊指揮官・予備2等兵曹。1914年10月7日、西カロリン群島のヤップ島で俘虜となったが11月1日宣誓解放された。ハンブルク近郊のザムデ(Samde)出身。(4673:なし)
141) Schöttel(シェッテル),Carl(?-?):第3海兵大隊第2中隊・上等歩兵。大分時代の1916年、「11月8日夜、飲酒シテ消灯後直チニ就寝セサルノミナラス喧騒シテ他人ノ安眠ヲ妨害シタル科」で重営倉7日の処罰を受けた。シュトラースブルクのノイホーフ(Neuhof)出身。(4433:「熊本→」大分→習志野)
142) Schöttler(シェットラー),Leopold(?-?):海軍砲兵中隊・後備1等水兵。妻(名は不詳であるが、日本人と推測される)は大戦終結まで、セウ、タケシの二人の子(ともに12歳以下)と上海で暮らした。ハノーファーのブルッフハウゼン(Bruchhauen)出身。(3714:熊本→久留米)
143) Schrader(シュラーダー),Ernst Klaus Heinrich(1887-?):第3海兵大隊工兵中隊・上等工兵。[四川鉄道漢口支店]。板東時代の1918年9月、「板東健康保険組合」の工兵中隊代表理事に選ばれた。公会堂での絵画と工芸品展覧会には、入念な細密画の作品『橋』及び『管理棟』を、水彩画では三等賞を受賞した「カルヴェンデル鉄道」を、さらには編んだ敷物を出品した。シュラーダーは富田久三郎経営の冨田製薬による「ドイツ牧舎」建設に当って設計を担当したと考えられる。なお、『富田製薬百年のあゆみ』(90頁)には、富田久三郎、松本清一、船本宇太郎達ともに、女児を抱いているクラウスニツァー、その左で女児を見やるシュラーダー(推定)等の集合写真が掲載されている【〔写真21〕参照】。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放されたが、やがて蘭領印度のジャワ島西部のバンドンに渡った。ノイミュンスター(Neumünster)出身。(3122:松山→板東)
144) Schrader(シュラーダー),Walter(?-?):国民軍・卒。[ディーデリヒセン青島支店]。青島時代は皇帝街(Kaiserstraße)に住んでいた。プロイセンのカルテンキルヒェン(Kaltenkirchen)出身。(2395:姫路→青野原)
145) Schrage(シュラーゲ),Carl(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等砲兵。1915年7月11日福岡から久留米へ収容所換えになった。久留米時代は演劇活動で、笑劇『ベルリンっ子』に出演した。ライプチヒ(Leipzig)出身。(1509:福岡→久留米)
146) Schramm(シュラム),Richard(1898-1969):海軍第2工機団測量船第3号・2等機関兵曹。1914年10月19日、東カロリン群島のトラック島で俘虜となり久留米俘虜収容所に送られた【『欧受大日記』大正三年十一月上より】。久留米俘虜収容所で発行された『トゥルネンとスポーツ』の「付録第7号」(1919年6月14日付け)によると、1919年5月10日に開催された6種競技トゥルネン(鉄棒、平行棒、鞍馬、走り幅跳び、砲丸投げ、100メートル走)の下級に出場して(出場者は13名で、55点以上獲得者11名が勝者)、63⅓点を獲得して第7位になった。2006年11月3日、孫娘のエルケ・セペス(Elke Szepes)氏はベースコウ(Beeskow)において、祖父が遺した二冊の日記を基に、久留米収容所での生活等について、多くの写真スライドを用いて講演した。ザクセンのラースベルク(Rasberg)出身。(765:久留米)
147) Schrey(シュライ), Johann(?-?):海軍膠州砲兵隊第1中隊・2等砲兵。高等師範の主将だった田中敬孝の子息の手元には、俘虜チームの写真が遺されている。体操服を着て肩を組んで並んでいる11名の写真の裏には、メンバーの名前と思われる人名が記されている。シュライの名が記されていることから、メンバーの一員だったと思われる【〔写真12〕参照】。他のメンバーは、ハープリヒス(Habrichs)、ハイネマン(Heinemann)、ホロナ(Holona)、イーデ(Ide)、クラーバー(Klaiber)、クラインベック(Keinbeck)、クヌッベン(Knubben)、レーベン(Loeven)、ポッサルト(Possardt)、シュルマン(Schürmann)の10名である。なお、1919年1月26日に高等師範学校の運動場で、高等師範等の生徒と試合を行ったのは、集合写真【〔写真13〕参照】から別のチームと思われる。ラインラントのライト(Rhydt)出身。(4035:大阪→似島)
148) Schröder(シュレーダー),Arend(?-?):国民軍・階級不明。青島時代は大港地区に住んでいた。ブレーメン(Bremen)出身。(4602:大阪→似島)
149) Schröder(シュレーダー),Hugo August Robert(1882-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等兵曹。[商船高級船員]。1915年9月15日福岡から習志野へ収容所換えになった。習志野時代、シュレーダーは自分を常にフルネームで名乗った。よく笑うので、クリューガー(Karl Krüger)等の仲間から「笑い鳩」のあだ名がつけられていた。クリューガーとは同じ12月18日生まれだが、ちょうど10歳年長だった【『ポツダムから青島へ』208頁】。ヴェストファーレンのハム(Hamm)出身。(1490:福岡→習志野)
150) Schröder(シュレーダー),Johann(?-?):砲艦イルチス乗員・2等水兵。福岡時代の1916年(月日不明)、「俘虜ノ逃走ヲ幇助シタル科」で懲役2ヶ月に処せられた。1918年3月22日福岡から習志野へ収容所換えになった。ブレーメン(Bremen)出身。(1587:福岡→習志野)
151) Schröder(シュレーダー),Reinhold(?-?):第3海兵大隊第2中隊・副曹長。妻カタリーナ(Katharina)は子ども二人(いずれも12歳以下)と大戦終結まで上海で暮らした。ポンメルンのコルベルク(Kolberg)出身。(2052:丸亀→板東)
152) Schroer(シュレーアー),August(?-?):第3海兵大隊工兵中隊・2等工兵。板東時代、工芸品展に収容所の全景を描いた象眼細工のアルバム帳を出品して特別賞を受賞し、更には収容所賞第1位に輝いて賞金10円を獲得した。また子供用のヴァイオリンも制作・出品した。ヴェストファーレンのゼッペンラーデ(Seppenrade)出身。(3125:松山→板東)
153) Schroeter(シュレーター),Ernst(1882-?):機雷保管庫・海軍水雷少尉。青島時代はハンブルク街(日本による占領統治時代は深山町)に住んでいた。1914年11月20日姫路に到着早々の光景で、『姫路又新日報』は特に目を引いた事柄として、シュレーター少尉が引き連れた国民兵20人余の一行のことを報道した。50歳に達しようかとおぼしき古老兵もいたとのことであった【藤原「第一次世界大戦と姫路俘虜収容所」7頁】。マグデブルク(Magdeburg)出身。(2393:姫路→青野原)
154) Schrott(シュロット),Emil(?-?):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・4等操舵下士。青野原時代、1918年12月13日から20日まで開催された俘虜製作品展覧会で、シュロットは模型部門で蒸気機関、写真関係部門に三脚付き写真機を出品した【『AONOGAHARA捕虜の世界』78及び82頁】。第二次大戦後、ライポルト(Leipold)とともに「チンタオ戦友会」の幹事を務めた【『チンタオ俘虜郵便案内』1頁】。モラヴィアのレーマーシュタット近郊ニーダー=モーラウ(Nieder-Morau)出身。(2404:姫路→青野原)
155) Schrötter(シュレッター),Konrad(?-?):海軍野戦砲兵隊・後備上等兵。[朝鮮京城・聖ベネディクト修道院]。1918年8月7日久留米から板東へ収容所換えになった。1918年9月、「板東健康保険組合」の野砲兵隊代表理事に選ばれた。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。バイエルンのエンスフェルト(Ensfeld)出身。(3684:熊本→久留米→板東)
156) Schubert(シューベルト),Karl(?-?):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。1917年7月10日に行われた「久留米体操クラブ」の12種競技(鉄棒、平行棒の演習3種目、鞍馬の演習2種目、徒手体操1種目、陸上競技3種目)では、116⅔点を獲得して中級の部の第5位になった。フライブルク近郊のブラント(Brand)出身。(722:久留米)
157) Schubert(シューベルト),Paul(?-?):所属部隊不明・補充予備兵。大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として日本国内で解放された。ヴィルヘルムスハーフェン(Wilhelmshaven)出身。(4608:大阪→似島)
158) Schubert(シューベルト),Rudolf(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[クンスト・ウント・アルバース商会ブラゴヴェシチェンスク支店]。板東時代、収容所内のタパタオでカーレ(Kahle)と共同でレストラン「クリスタル・パラスト」(水晶宮)を経営した。オーバープラニッツ(Oberplanitz)出身。(3120:松山→板東)
159) Schubert(シューベルト),Wilhelm(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等砲兵。静岡時代の1915年1月10日、脱柵して逃亡した科で重営倉5日の処罰を受けた。また4月15日には収容所を脱走し、昼間は山野に潜み、夜間東海道線の線路沿を歩いて横浜を目指した。富士川駅に近いところで取り押さえられ、重営倉30日の処罰を受けた。その他にも2回逃亡を企てた【参照:内野健一「静岡俘虜収容所について」;公開国際シンポジュウム(平成20年10月13日、於岡山大学)「日独文化交流史上の在日ドイツ兵捕虜とその収容所」第2部の発表要旨】。習志野時代は収容所運動会で「棒高跳び」に出場した。キューンドルフ(Kühndorf)出身。(1782:静岡→習志野)
160) Schulte(シュルテ),Friedrich L.(?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・2等砲兵。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会学校部門では、ボルマッハー(Bormacher)と共同で昆虫標本3箱(蛾、甲虫、蝶)を出品した。ヴェストファーレンのリースボルン(Liesborn)出身。(4059:大阪→似島)
161) Schulte(シュルテ),Fritz(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等砲兵。1959年5月30日/31日にククスハーフェンで開催された「チンタオ戦友会」、及び1962年(ブレーメン)、1964年(ニュルンベルク)、1966年(フランクフルト)での同会開催の実行委員を務めた。ヴェストファーレンのドレシュデ(Dröschde)出身。(4300:「大阪→」徳島→板東)
162) Schultz(シュルツ),Gerhard(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[アルンホルト・カルベルク商会広東支店]。バールト(Barth)が中国時代に勤めたアルンホルト・カルベルク社の直属上司であった。板東時代、収容所内のタパタオでラングロック(Langrock)と錠前屋を営んだ。また、かつてホッケーの選手だったことから、コルトゥム(Cortum)とともにホッケーチームを組織し、シュルツ・チームを率いた。第2次大戦後、東京・荻窪にバールトを訪ねて来たが、やがて南米チリに居を定めて貿易会社を経営した。ハンブルク(Hamburg)出身。(3103:松山→板東)
163) Schultz(シュルツ),Hugo(?-?):海軍砲兵中隊・上等兵曹。大戦終結後は、特別事情を有することから青島居住を希望した【『俘虜ニ関スル書類』より】。バルト海のヴォリン(Wollin)島出身。(243:東京→習志野)
164) Schultz(シュルツ),Walter(?-?):第3海兵大隊第6中隊・後備伍長。[カッセラ商会大阪支店・染料製造職人]。1915年9月20日福岡から名古屋へ収容所換えになった。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放され、尾西市(現一宮市)の染色繊維業「艶金」で技術指導して、この業種の発展に貢献した。ラーデボイル(Radebeul)出身。(1572:福岡→名古屋)
165) Schulz(シュルツ),Adolf(?-?):第3海兵大隊第5中隊・伍長。板東時代、1917年5月に松山俘虜収容所からの人員を加えて拡大した「エンゲル・オーケストラ」の団員で、クラリネット、後にオーボエを担当した。また公会堂での工芸品展に、ブラント(Brandt)と共同で楽器のチェロを制作・出品した。ハノーファーのヴァルタースドルフ(Waltersdorf)出身。(3091:松山→板東)
166) Schulz(シュルツ),Fritz(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。松山時代(公会堂収容)の1915年10月30日、夕食の際に密かにパンの中に卵を入れ、入倉中の同僚に差し入れをしようとした科で重営倉3日に処せられた。ハンブルク(Hamburg)出身。(3104:松山→板東)
167) Schulz(シュルツ),Hans(1881-?):第3海兵大隊第7中隊長・陸軍歩兵大尉。〔第2歩兵堡塁指揮官〕。前記指揮官は後日シュリーカー(Schliecker)中尉に替わった。ポーゼン(Posen)出身。(2682:名古屋)
168) Schulz(シュルツ),Johannes(1887-?):海軍膠州砲兵隊・海軍中尉。〔連絡将校・第6砲台指揮官〕。青島時代はビスマルク街に住んでいた。コットブス(Cottbus)出身。(4274:「大阪→」徳島→板東)
169) Schulz(シュルツ),Josef(?-?):第3海兵大隊第4中隊・2等歩兵。1914年9月28日、浮山で日本軍に投降し俘虜となり、久留米俘虜収容所に送られたが、負傷のため当初は久留米衛戍病院に収容された【『欧受大日記』大正三年十一月上より】。1918年8月7日久留米から板東へ収容所換えになった。ダンチヒ=ラングフーア(Danzig-Langfuhr)近郊のエックホーフ/ザスペ(Eckhof/Saspe)出身。(763:久留米→板東)
170) Schulz(シュルツ),Otto(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・1等機関兵曹。[河用砲艦チンタオ乗員]。板東時代、1918年4月18日に開かれた「中国の夕べ」で、「帝国軍艦チンタオの航海」と題して講演した。西プロイセンのグラウデンツ(Graudenz)出身。(4299:「大阪→」徳島→板東)
171) Schulz(シュルツ),Wilhelm(?-?):第3海兵大隊第4中隊・後備2等歩兵。久留米時代は演劇活動で、ハウプトマン作の喜劇『同僚クランプトン』に出演し、また『久留米収容所俘虜文集』の制作に協力した。ベルリン(Berlin)出身。(3675:熊本→久留米)
172) Schulze(シュルツェ),Erich(?-?):第3海兵大隊第4中隊・後備伍長。熊本時代の1915年1月7日、妻が面会に訪れて来た。ベルリン郊外のノイケルン(Neuköln)出身。(3661:熊本→久留米)
173) Schulze(シュルツェ),Gustav(?-1918):海軍膠州砲兵隊第1中隊・砲兵伍長。1916年10月22日福岡から習志野へ収容所換えになった。ノイマイアー(Neumaier)の日記によると、1912年、東アジアへの出発の際、ククスハーフェン駅に花嫁が見送りに来ていて、白いバラを手渡して涙を流したとのことである。1916年10月22日、他の68名とともに福岡から習志野に移送された。1918年12月5日、結核性腹膜炎により習志野で死亡した。ベルリン(Berlin)出身。(1465:福岡→習志野)
174) Schulze(シュルツェ),Harry(?-?):第3海兵大隊第4中隊・予備伍長。1915年6月熊本から久留米に収容所換えになった。1954年11月6日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。ハンブルク(Hamburg)出身。(3655:熊本→久留米)
175) Schulze(シュルツェ),Helmut(?-?):第3海兵大隊第6中隊・1年志願兵。大阪俘虜収容所への移送当初は、右上膊部銃創及び骨折、右大腿部銃創により大阪陸軍衛戍病院に入院した。広島高等師範学校の校舎の前で似島収容所の俘虜等37名が写っている集合写真がある【藤井『エアハルト・アルバムと大阪俘虜収容所』28頁;所載『『大阪俘虜収容所の研究 ―大正区にあった第一次大戦下のドイツ兵収容所―』。撮影日は、シュルツェの証言から、広島県物産陳列館で「似島独逸俘虜技術工芸品展覧会」が開催された1919年3月4日から12日の期間と推定された。中列左から6人目の白服でネクタイ姿がシュルツェで、他には、前列左のチターを膝に置いているのはメツガー(Metzger)、及び前列の中央の椅子に掛けてヴァイオリンを持ち、右足に×印があるのがエーアハルト(Ehrhardt)である】。解放後は日本留まって東京の日本商社に就職し、やがて日本女性と結婚した。その後、貿易関係の商社を興した。なお、前記藤井寛氏の文章には、大阪で死亡したゴル(Hermann Goll)に関しての証言が載っている。シュレージエンのブレスラウ(Breslau)出身(『俘虜名簿』では天津)。(4590:大阪→似島)
176) Schulze(シュルツェ),Robert(?-1918):第3海兵大隊第5中隊・2等歩兵。1918年11月17日名古屋で死亡し、陸軍墓地に埋葬された。マグデブルク郡のブルク(Burg)出身。(2712:名古屋)
177) Schulze(シュルツェ),Wilhelm(?-?):海軍砲兵中隊・1等水兵。久留米時代の1917年1月28日、アンドレーア(Andrea)をカロルチャク(Karolczak)等仲間18人で袋叩きにして、傷害罪により1月の懲役刑に処せられた。演劇活動では、トーマ作の『放蕩娘』に出演した。ハンブルク(Hamburg)出身。(3713:熊本→久留米)
178)
Schumann(シューマン),Max(?-?):海軍東アジア分遣隊第2中隊・予備上等歩兵。1915年9月20日福岡から名古屋へ収容所換えになった。1916年10月2日、名古屋の「いとう呉服展」(現松坂屋)から、シューマン、プレッチュ(Pretzsch)及びヴロブレフスキー(Wroblewski)3人を、洋楽教授として雇用する旨の申請書が提出された。労働条件は日曜を除く毎日午前9時から午後4時までで、給与は1ヶ月20円である【校條「名古屋俘虜収容所 覚書V」所載:『「青島戦ドイツ兵俘虜収容所」研究』第6号、20頁】。ライプチヒ郡ランペルツヴァルデ(Lampertswalde)出身。(1558:福岡→名古屋)
179) Schunke(シュンケ),Karl(?-?):海軍東アジア分遣隊第3中隊・伍長。1918年10月29日、傷害罪で懲役2年を宣告されて神戸監獄姫路分監に収監されていたが、特赦で解放された。【『大正三年乃至九年 戦役俘虜ニ関スル書類』中の「特赦俘虜人名表」より】。マツキルヒ(Matzkirch)出身。(1571:姫路→青野原)
180) Schurgens(シュルゲンス),Hubert(?-?):海軍砲兵中隊・2等水兵。[河用砲艦チンタオ乗員]。ラインラントのファールス(Vaals)出身。(4305:「大阪→」徳島→板東)
181) Schürholz(シュルホルツ),Wilhelm(1890-1973):第3海兵大隊第1中隊・予備上等歩兵。建築業者の父にブランケンバッハに生まれた。左官業の修業を積み、1910年10月に兵役に就き、1911年パトリツィア号で青島へ赴いた。軍隊勤務を終了すると、総督府の建築部に入った。解放されて帰国後の1923年、マリーア(Maria Magdalena Henrichs)と結婚して息子二人、娘一人をもうけた。1937年以来トリーアに住み、その地で没した。1971年にチンタオ戦友会に出席した。久留米俘虜収容所で発行された『トゥルネンとスポーツ』の「付録第7号」(1919年6月14日付け)によると、1919年6月10日に開催された6種競技トゥルネン(鉄棒、平行棒、鞍馬、走り幅跳び、砲丸投げ、100メートル走)の下級に出場し(出場者は13名で、55点以上獲得者11名が勝者)、77点を獲得して第1位になった。ラインラントのブランケンバハ(Blankenbach)出身。(709:久留米)
182) Schürmann, (シュルマン) Fritz(1892-1919):海軍膠州砲兵隊第1中隊・2等砲兵。高等師範の主将だった田中敬孝の子息の手元には、俘虜チームの写真が遺されている。体操服を着て肩を組んで並んでいる11名の写真の裏には、メンバーの名前と思われる人名が記されている【〔写真12〕参照】。他のメンバーは、ハープリヒス(Habrichs)、ハイネマン(Heinemann)、ホロナ(Holona)、イーデ(Ide)、クラーバー(Klaiber)、クラインベック(Keinbeck)、クヌッベン(Knubben)、レーベン(Loeven)、ポッサルト(Possardt)、シュライ(Schrey)、の10名である。なお、1919年1月26日に高等師範学校の運動場で、高等師範等の生徒と試合を行ったのは、集合写真【〔写真13〕参照】から別のチームと思われる。その後2005年になって、シュルマンはイレブンの写真中の右端の人物であると、甥や姪によって確認された。1919年4月6日似島でスペイン風邪により死亡。郷里の両親の元に遺灰と埋葬時の写真が送られた。遺灰はホルテンの両親が眠る墓に8月1日に埋葬された。なお、藤井寛『エアハルト・アルバムと大阪俘虜収容所』66-70頁(所載『大阪俘虜収容所の研究 ―大正区にあった第一次大戦下のドイツ兵収容所―』)にシュルマンについての詳細な記述がある。デュッセルドルフ近郊のホルテン(Holten)出身。(4038:大阪→似島)
183) Schuster(シュースター),Gustav(?-?):海軍膠州砲兵隊第3中隊・2等砲兵。1916年8月20日付けの『徳島新報』第3巻第15号によれば、徳島時代シュースターは徳島管弦楽団の一員で、第1フルートを担当していた。ゲッティンゲン(Göttingen)出身。(4279:「大阪→」徳島→板東)
184) Schütte(シュッテ),Wilhelm(?-?):第3海兵大隊第5中隊・2等歩兵。ドイツ本国と青島との無線電信を確保すべく、兗州府に無線電信所設備の設営に尽力した。ブラウンシュヴァイクのヘルムシュテット(Helmstedt)出身。(2720:名古屋)
185) Schütze(シュッツェ),Julius(?-1919):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等砲兵。1915年9月15日福岡から習志野へ収容所換えになった。1919年1月31日、スペイン風邪により習志野で死亡した。タンガーミュンデ(Tangermünde)出身。(1513:福岡→習志野)
186) Schütze(シュッツェ),Wilhelm(?-?):第3海兵大隊第7中隊・曹長。青島時代はブレーメン街(Bremerstraße;日本の占領統治時代は馬関通)に住んでいた。妻ヘトヴィヒ(Hedwig)は子供(12歳以下)と大戦終結まで上海で暮らした。ポンメルンのグライスヴァルト(Greiswald)出身。(2074:丸亀→板東)
187) Schwaff(シュヴァフ),August(?-?):国民軍・伍長。[シュヴァルツコップ商会支配人]。1915年3月19日、他の5名の青島大商人とともに青島から大阪に送還された。送還される前の2ヶ月間ほど、日本の青島軍政署ないしは神尾司令官から、用務整理のために青島残留を許可された【『欧受大日記』大正十一年一月の「俘虜釋放其他訴願ニ関スル件」より。青島の大商人10名は、当初国民軍へ編入されたが、青島で築き上げたドイツの貿易・商権保持のため、マイアー=ヴァルデック総督の指示で国民軍のリストから削除されたのであった】。なお同年4月20日、シュヴァフは陸軍省宛に釈放の請願書と損害賠償請求書を提出した。釈放の理由としては、戦役中軍務に服さず、開戦と同時に免除されたこと、国民軍、警察または消防隊等の勤務に従事しなかったことなど5項目を挙げた。損害賠償としては、シュヴァルツコップ商会において、自身が俘虜となることで生じた損害、及び現に生じつつある損害として数10万ドルに達するとしていること。また、自身が冷湿にして風の通る木造営舎に起居することで、健康上の障害を来たしたことを日本政府の責任としている。妻リリー(Lili)は大戦終結まで、こども(12歳以下)と二人上海で暮らした。ハンブルク(Hamburg)出身。(4655:大阪→似島)
188) Schwarm(シュヴァルム),Wilhelm(?-?):第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。〔第2歩兵堡塁〕。[宣教師]。広東のベルリン福音教会から、ヴァナクス(Wannags)とともに青島守備軍に馳せ参じた。板東時代の1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会においてシュヴァルム(当時33歳)は、2時間33分41秒5分の3で42位になった【『バラッケ』第4巻4月号81頁】。ポンメルンのアルト・ドゥラーハイム(Alt-Draheim)出身。(2092:丸亀→板東)
189) Schwarz(シュヴァルツ),Franz(1890-1924):海軍東アジア分遣隊第3中隊・伍長。1915年9月20日福岡から名古屋へ収容所換えになった。1916年(月日不明)、「秘密通信ヲ企テタル科」で重営倉20日の処罰を受けた。また同年(月日不明)、「入倉中営倉内羽目板ニ不穏当ナル楽書ヲ為シ且規定ヲ犯セシ科」で重営倉25日に処せられた。「14歳にて小学校を卒業し、三ヶ年大工職を学び同時に工業補修学校に通学せり、幼少より1910年10月15日陸軍に入営する迄農業に従事し大工職の他に農業の実際に精通するに至れり、兵役中乗馬隊に入り養馬の方法を実際と学理に就いて修得せり、建築と耕作を特技とす」【「北海道移住」より】。カルクブレンナー(Kalkbrenner)をリーダーとする6名、ハッセルバッハ(Hasselbach)、ホフマン(Hoffmann)、シュヴァルツ、ザイフェルト(Seifert)、ゾンマーラット(Sommerlatt)は、愛知県下の大地主数十名が創設した愛知産業株式会社と契約して、朝鮮蘭谷面(蘭谷村)で「機械農場」と称するドイツ式大農場(約千町歩)の経営を始めることが、大正8年12月25日付け「名古屋新聞」で報じられた。翌年春の出発までシュヴァルツはハッセルバッハとともに、当時建築中の敷島パンの工場に出かけて生活費に充てた。ほどなくエートマン(Oetmann)を加えたシュヴァルツ等7名は朝鮮蘭谷で営農し、カルクブレンナーを総指揮とする朝鮮蘭谷のドイツ式大農場の農場長となったが、1926年(大正15年)秋に腸チブスで没して、農場に埋葬された【校條「名古屋俘虜収容所 覚書V」所載:『「青島戦ドイツ兵俘虜収容所」研究』第2号74頁及び『朝鮮半島に夢を求めて』60頁】。テューリンゲンのクレーヴィンケル(Kräwinkel)出身。(1570:福岡→名古屋)
190) Schwarz(シュヴァルツ),Karl(?-?):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・2等機関下士。青野原時代、1918年12月13日から20日まで開催された俘虜製作品展覧会で、シュヴァルツは金属加工部門には文鎮3点、木工部門の「焼き絵」で、ペーパーホルダー、裁縫箱、板関カレンダー、箴言の壁掛け等38点、また写真部門では「青野原とその周辺」の写真1点を出品した【『AONOGAHARA捕虜の世界』77、79-80、82頁】。ボヘミアのカリッヒ(Kallich)出身。(2398:姫路→青野原)
191) Schweim(シュヴァイム),Arthur(?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・後備1等水兵。青島時代はドイツ街に住んでいた。妻ヨハンナ(Johanna)は大戦終結まで上海で暮らした。東プロイセンのメーメル(Memel)出身。(4043:大阪→似島)
192) Schwengenbecher(シュヴェンゲンベッヒャー),Carl(?-?):第3海兵大隊第7中隊・上等歩兵。[山東鉄道管理部・文書係]。青島時代はハインリヒ皇子街に住んでいた。ブラウデローダ(Brauderoda)出身。(2085:丸亀→板東)
193) Schwerke(シュヴェルケ),Reinhold(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[カルロヴィッツ商会広東支店]。松山時代、公会堂の収容所講習会でスペイン語の講師を務めた。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。シュテッティン(Stettin)出身。(3114:松山→板東)
194) Schwitzki(シュヴィツキ),Wilhelm(?-?):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。久留米収容所で発行された『トゥルネンとスポーツ』の「付録第7号」(1919年6月14日付け)によると、シュヴィツキは1919年6月1 日に開催されたホッケーの試合に出場したが、そのボールをさばき方は模範的であった。また6月8日に開かれたサッカーの試合でも活躍し、更には、6種競技トゥルネン(鉄棒、平行棒、鞍馬、走り幅跳び、砲丸投げ、100メートル走)の下級にも出場し、67⅓点を獲得して第3位になった。大戦終結して解放後は、蘭領印度に渡った。ベルリン郊外のアルトグリーネケ(Altglieneke)出身。(717:久留米)
195) Scoppwer(スコップヴェーア),Paul(1893-1984):海軍東アジア分遣隊第1中隊・2等歩兵。1893年9月11日コットブスに生まれた。大戦終結して帰国後、トリーアで歯科技工士となり、1984年3月15日死亡した。遺品中に浅草本願寺での集合写真が遺されている【シュミット】。コットブス(Cottbus)出身。(227:東京→習志野)
196) Scriba(スクリバ),Emil(1891-1933):第3海兵大隊・予備陸軍少尉。父はユリウス・カール・スクリバ(Jurius Karl Scriba,1848-1905)博士で、エルヴィン・ベルツとともに東京帝国大学医学部の基礎を築いた人物。母は富山県出身で名は神谷ヤスといい、その間に次男として1891年11月23日東京で生まれた。1908年(明治40年)10月16日、ポツダムから来日したフリッツ・ルンプ(Fritz Rumpf)が日本で最初に投宿したのはスクリバ邸であった。1914年12月3日付けの『九州日日新聞』に、母親ヤス(やす子)の次の言葉が紹介された。「実は私共へも三十日の夕刻、門司の発信で港務部の福田という人から『御令息、只今無事到着。これから熊本へ行く』と云ふ、至って簡単な電報が参りましたので、初めて俘虜となって来たのを知ったのです。同人は一昨年伯林郊外のポツダムの士官学校を卒業すると共に伯林の近衛連隊に勤務して居ましたが、昨年春病気に罹り非常に衰弱しましたので、八月始め保養方々日本に参り、それ以来引続いて滞在してゐます中本年七月召集されて俄に青島へ参りました儘何等の便りもありませんので安否如何と気遣ってゐたのですが今回、俘虜として日本に参ったと云ふ知らせを得て漸く安心しました。私の方からも折返して電報を出したいと思ひますが、何処へ宛て宜いのやら分り兼ねるので其儘にしてゐますが、何れその中詳しい便りを寄越すことだろうと、それのみを待って居ます」【『熊本の日独交流』63頁より】1915年1月7日、弟が陸軍大臣の許可を得て面会に訪れた。久留米時代の1915年11月5日に発生した、真崎甚三郎所長によるベーゼ(Boese)、フローリアン(Florian)両将校殴打事件では、日本通としてフォークト(Vogt)予備少尉とともに真崎所長とアンデルス(Anders)少佐の会談に列席した。1918年8月6日久留米から習志野へ収容所換えになった。習志野収容所では旧知のルンプ及びヴェークマン(Weegmann)と一緒になった。1919年(大正8年)5月19日付けの東京朝日新聞第五面には、壁に掛かった浮世絵の前で三人がヴェークマンが拡げる画集とおぼしき本を眺める写真が掲載された【〔写真3〕を参照】。1919年12月17日、リューマチと喘息で苦しんでいた母親が軽い脳溢血を起こしたことから早期の解放を願い出た。兄は欧州大戦に従軍して負傷し、一時期スイスに居た。大戦終結後は日本窒素(株)に入社、ビジネスマンとして活躍した。1924年小西ともえと結婚して娘二人を儲けた。1933年11月24日東京で没した。東京の青山霊園に父、兄及び本人の墓碑がある。東京出身(『俘虜名簿』ではダルムシュタット(Darmstadt)出身)。(3643:熊本→久留米→習志野)
197) Seckendorff(ゼッケンドルフ),Oscar A.A.Freiherr von(1873-1928):第3海兵大隊第7中隊・退役陸軍少尉(男爵)。静岡時代、ミュルトナー(Müldner)予備少尉と日本の新聞をドイツ語に訳し、収容所内で回覧した。静岡師範学校の校庭で俘虜たちはサッカーやテニスを行ったが、当時の師範学校長は青島戦以前からのゼッケンドルフの知人であった。【内野「静岡俘虜収容所について」;公開国際シンポジュウム(平成20年10月13日、於岡山大学)「日独文化交流史上の在日ドイツ兵捕虜とその収容所」第2部の発表要旨】。出身地不明(『俘虜名簿』では福州)。(1784:静岡→習志野)
198) Seddig(ゼディッヒ),Gustav(?-?):装甲巡洋艦シャルンホルスト(Scharnhorst)乗員・1等焚火兵。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に際して、美術の工芸木工部門で漆塗り小箱1点及び水雷1点を、また金工部門では文鎮3点、灰皿1点、真鍮製の額縁1点を出品した。シュテッティン(Stettin)出身。(4605:大阪→似島)
199) Seebach(ゼーバッハ),Thilo von(1890-?):海軍砲兵中隊・海軍少尉。〔第8砲台指揮官〕。習志野では将校用厨房責任者であった。また1915年12月25日収容所のクリスマスコンサートでは、ハイメンダール(Heimendahl)少尉とヴェーバーの「舞踏への勧誘」及び「ジョスランの子守唄」をピアノで演奏した。ヴィースバーデン(Wiebaden)出身。(242:東京→習志野)
200) Seebold(ゼーボルト),Philipp(?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・1等砲兵。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に際して、技術部門に、ヘントリヒ(Hendrich)及びヴァーゲマン(Wagemann)と共同で、縮尺20分の1の家の模型を出品した。ヘッセンのエルフェルデン(Elfelden)出身。(4051:大阪→似島)
201) Seeger(ゼーガー),Hermann(1891-1918):第3海兵大隊第2中隊・上等歩兵。〔中隊伝令〕。1913年2月18日、兵員輸送船「ルイーゼ王妃」で青島に来た。最初は機関砲部隊に勤務し、2年目に第2中隊伝令に就いた。日独戦争勃発後、口子街道防備に加わり、四房山への出撃に巡邏隊長として活躍し、1914年10月3日上等歩兵に昇進した。第4歩兵堡塁に日本軍が突撃して来た時、負傷していたにもかかわらず、伝令としての任務の赴こうとした。結局は堡塁指揮官に呼び戻されて中隊に留まり俘虜となった。丸亀時代の1916年2月12日、ヨーハン・ヘルマイ(Johann Hermey)と脱走を企てたが14日に辻村で発見され逮捕、禁錮1年3ヶ月の刑を受け高松刑務所に収監された【『丸亀俘虜収容所記事』より】。板東時代の1918年11月18日スペイン風邪に罹り、11月30日肺炎で死亡した。12月2日、新設のホールで戦友であった牧師ヴァナクス(Wannags)の司式で葬儀が執り行われた【『バラッケ』第3巻第10号145-147頁】。1960年頃、親類が「チンタオ戦友会」に出席した。ルール(Ruhr)河畔のミュールハイム(Mühlheim)出身。(2056:丸亀→板東)
202) Seemuth(ゼームート),Wilhelm(?-?):海軍第2工機団測量船第3号・2等焚火兵。1914年10月11日、東カロリン群島のトラック島で俘虜となり久留米俘虜収容所に送られた【『欧受大日記』大正三年十一月上より】。『ドイツ軍兵士と久留米』205頁には、1919年1月の日付での久留米ホッケーチームの集合写真が掲載されているが、その左から三人目にゼームートが写っている。マンハイム近郊のアルトルスハイム(Altlussheim)出身。(766:久留米)
203) Seffern(ゼッフェルン),Theodor(?-?):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。1914年9月28日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米俘虜収容所に送られた【『欧受大日記』大正三年十一月上より】。ノイヴィート郡のラインブロート(Rheinbrod)出身。(741:久留米)
204) Segebarth(ゼーゲバルト),Daniel(?-?):海軍砲兵中隊・2等按針兵曹。松山時代、公会堂の収容所講習会でフランス語の講師を務めた。板東では、工芸品展に船のモデルを多数出品したグループの代表だった。大戦終結して解放後は、蘭領印度に渡り、当初はジャワ島西部バタビア新市街のヴェルテフレーデンに住んだが、後に東部のスラヴァヤに移った。バルト海沿いのバールト(Barth)出身。(3135:松山→板東)
205) Segelken(ゼーゲルケン),Bernhard(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。板東時代の1918年5月26日、収容所体操協会による創立記念体操会が行われた。鉄棒2、平行棒2、鞍馬1、跳び箱1を使用しての体操会であった。ゼーゲルケンは第3組の指導を受け持った【『バラッケ』第2巻183頁】。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ブレーメン(Bremen)出身。(3109:松山→板東)
206) Seggern(ゼッゲルン),Max von(1887-?):機雷保管庫・上等水雷兵曹。1908年10月上等水雷兵曹に任じられた。1914年8月上記部隊に配属された。1916年9月掌水雷兵曹長に、1917年4月掌水雷少尉に昇進した。板東時代、ゼッゲルンは「エンゲル・オーケストラ」の団員で第1ヴァイオリンを担当したが、1917年6月頃ガーライス(Gareis)とともに楽団から退いた。1920年1月蘭領印度に渡ったが、直にドイツへ帰国して退役した。1922年2月、クラーラ・ドライアー(Klara Dreyer)と結婚、一男一女をもうけた。1934年9月再婚して、息子をもうけた。オルデンブルクで商人として従事したが、1936年海軍大尉として復職した【シュミット】。オルデンブルク(Oldenburg)出身。(3136:松山→板東)
207) Seidel(ザイデル),Alfred(?-?):国民軍・階級不明。[ザンダー、ヴィーラー商会支配人]。青島時代は皇帝街(Kaiserstraße)に住んでいた。1915年3月19日、他の5名の青島大商人とともに青島から大阪に送還された。送還される前の2ヶ月間ほど、日本の青島軍政署ないしは神尾司令官から、用務整理のために青島残留を許可された【『欧受大日記』大正十一年一月の「俘虜釋放其他訴願ニ関スル件」より。青島の大商人10名は、当初国民軍へ編入されたが、青島で築き上げたドイツの貿易・商権保持のため、マイアー=ヴァルデック(Meyer-Waldeck)総督の指示で国民軍のリストから削除されたのであった】。大戦終結後は青島に戻り、ジーボルト(Siebold)と共同で精練・加工を中心とする化学工業会社を経営した。シュレージエンのヒルシュブルク(Hirschburg)出身。(4654:大阪→似島)
208) Seidel(ザイデル),Paul(?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・後備1等砲兵。[土木監督]。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会学校部門で、画法幾何学のノート15枚、鉄筋コンクリート構造物、小さな橋等を出品した。解放後は天津に渡ったが、1920年3月に南海丸で帰国した。出身地不明(『俘虜名簿』では上海)。(4594:大阪→似島)
209) Seidel(ザイデル),Willy(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[天津・ローゼンベルク商会]。板東時代、収容所内のタパタオでコーヒー店を営んだ。ケムニッツ(Chemnitz)出身。(3111:松山→板東)
210) Seifert(ザイフェルト),Richard(1890-?):第3海兵大隊第4中隊・伍長。[園庭師]。「小学校卒業後、四年間園芸業を学び(野菜栽培、園芸美術、農作、植樹法等)同時に工業専門学校に通学せり、入隊に至るまで園芸技手として従事し1912年12月青島総督の園芸人に命ぜられ同時に総督府庭園の監督として開戦に至れり、目下久留米俘虜収容所に於いて主として植物学を研究し収容所耕地の監督たり、園芸、果実、植樹、製林及び野菜缶詰業を特技とす」【「北海道移住」より】。カルクブレンナー(Kalkbrenner)をリーダーとする6名、ハッセルバッハ(Hasselbach)、ホフマン(Hoffmann)、シュヴァルツ(Schwarz)、ザイフェルト、ゾンマーラット(Sommerlatt)は、愛知県下の大地主数十名が創設した愛知産業株式会社と契約して、朝鮮蘭谷面(蘭谷村)で「機械農場」と称するドイツ式大農場の経営を始めることが、大正8年12月25日付け「名古屋新聞」で報じられた。しかし蘭谷の機械農場での営農後しばらくたって、農場の準備も整いドイツから機械類が到着してまもなくザイフェルトは農場を去った。ザクセンのツァイツ(Zeitz)出身。(3651:熊本→久留米)
211) Seiffert(ザイフェルト),Thomas C.(1885-?):海軍膠州砲兵隊・海軍中尉。青島時代は皇太子街(Kronprinzenstraße)に住んでいた。1915年10月17日付けで海軍大尉に昇進した。ドイツに帰国後の1920年1月30日海軍に復帰したが、同年9月9日で退役した。ヴィルヘルムスハーフェン(Wilhelmshaven)出身。(3724:熊本→久留米)
212) Seigel(ザイゲル),Franz(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等砲兵。1915年7月11日福岡から久留米へ収容所換えになった。久留米時代は演劇活動で、トーマ作の喜劇『放蕩娘』等3演目に女役で出演した。バーデンのオッフェンブルク郡ヴィントシュラーク(Windschlag)出身。(1520:福岡→久留米)
213) Seiler(ザイラー),Martin(1892-1968):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。1892年1月20日、坑夫の子としてザールブリュッケン郊外のシフヴァイラーに生れた。大戦終結して解放後、蘭領印度に渡った【シュミット】。ザールブリュッケン近郊のシフスヴァイラー(Schiffsweiler)出身。(737:久留米)
214) Seiner(ザイナー),Karl(?-?):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・1等水兵。久留米時代は演劇活動で、ブルーメンタール及びガーデルベルク作の笑劇『私が戻ったとき』に出演した。1918年8月6日久留米から習志野へ収容所換えになった。アフレンツ(Aflenz)近郊のテルル(Thörl)出身。(3745:熊本→久留米→習志野)
215) Seitz(ザイツ),Julius(1880-1951):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。「チンタオ戦友会」に出席した。ハイルブロン郊外のターレム(Thalem)出身。(3102:松山→板東)
216) Selbach(ゼールバッハ),Christian(?-?):海軍砲兵中隊・2等水雷機関兵曹。大戦終結後、日本足袋(株)に入社した。ケルン=ライン管区のヘスペルト/エッケンハーゲン(Hespert/Eckenhagen)出身。(3711:熊本→久留米)
217) Semmelhack(ゼンメルハック),Franz(?-?):第3海兵大隊第4中隊・予備上等歩兵。久留米時代は演劇活動で、茶番劇『ペンション・シェラー』に出演した。宣誓解放された。ハンブルク(Hamburg)出身。(3659:熊本→久留米)
218) Seng(ゼング),Karl(?-1919):海軍膠州砲兵隊第4中隊・2等砲兵。1916年10月18日福岡から大分へ収容所換えになった。1919年2月6日、スペイン風邪により習志野で死亡。フィリンゲン(Villingen)郡のノイキルヒ(Neukirch)出身。(1486:福岡→大分→習志野)
219) Senkbeil(ゼンクバイル),Wilhelm(?-?):第3海兵大隊第4中隊・予備伍長。名古屋俘虜収容所に収容中に、落合兵之助が経営する旭鍍金工場(落合化学)に、鍍金技術者のミルデ(Milde)及びレンツェン(Lenzen)の通訳として派遣された。やがて落合の依頼を受けて、技術力により優れたエンゲルホルン(Engelhorn)の派遣を実現した。落合兵之助とゼンクバイル及びエンゲルホルン等の俘虜6名が一緒に写った写真が、落合化学の後身日本金液所蔵で残されている【校條「名古屋俘虜収容所 覚書V」所載:『「青島戦ドイツ兵俘虜収容所」研究』第6号、54頁】。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放され、落合化学に就職した。落合化学は大正13年9月には「ゼンクバイル商会」と改称した。ゼンクバイルの帰国の時には、友人で敷島パンに勤めていたフロイントリープ(Freundlieb)夫妻が見送りに来た。故国にはすでに両親もなく、姉一人だったとのことである。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。ベルリン(Berlin)出身。(2694:名古屋)
220) Setzer(ゼッツァー),Hugo(1890-1962):海軍膠州砲兵隊・1等砲兵。1916年10月21日福岡から名古屋へ収容所換えになった。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。解放されて帰国後ミナ(Mina)と結婚した。ハイルブロン(Heilbronn)出身。(1528:福岡→名古屋)
221) Setzkorn(ゼッツコルン),Wilhelm(?-?):第3海兵大隊予備榴弾砲隊・後備上等歩兵。[機械組立工]。ルール河畔のヴェルデン(Werden)出身。(2706:名古屋)
222) Seufert(ゾイフェルト), Dr.Wilhelm D.(1885-1974):海軍東アジア分遣隊第2中隊・予備副曹長。[宣教師]。牧師の父の下、8人兄弟の4番目として生まれた。1903年に父親が亡くなると、母はカールスルーエに移った。カールスルーエ等のギムナジウムで勉強し、1904年に大学入学資格を取り、シュトラースブルク及びハイデルベルクで神学を学んだ。1909年10月1日から1910年9月30日まで、一年志願兵として兵役に就いた。牧師として任務に就いた後、「統合福音派海外伝道教会」から宣教師にして中国学者リヒャルト・ヴィルヘルムの補佐として青島に派遣され、1912年12月8日に青島に着いた。青島時代は上海路(Schanghaistraße)に住んでいた。久留米時代の1916年1月27日、ドイツ皇帝ヴィルヘルムU世誕生祭に当たって説教祈祷を行った。1916年9月16日久留米から青野原へ収容所換えになった。1919年、オーストリアのドラッヘンタール(Drachenthal)少佐に代わって青野原収容所の俘虜代表に選出された。大戦終結して解放後の1920年4月1日、南海丸でドイツに一時帰国し、その年の12月28日にベアトリーチェ・ブリント(Beatrice Blind;1891-1973)と結婚した。1922年にハンブルク大学に提出した、「漢王朝の国家下の新国家秩序資料」によって博士の学位を取得した。1922年に再び青島に戻り、1949年に伝道教会が青島での活動を閉じるまで、ヴィルヘルムの設立した学院「禮賢書院」の運営に当たった。その後、共産党治下の中国での布教活動の難しさから、1952年3月30日に妻とともに青島を去った。帰国後の当初はカールスルーエに住んだが、その後フライブルク(Freiburg i.B.)近郊に移り、ハイデルベルク大学中国学講座で講義をして、中国に関する一連の本を出版した。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。夫妻に子供はいなかった。バーデンのフォイエルバッハ(Feuerbach)出身。(3701:熊本→久留米→青野原)
223) Seuffert(ゾイフェルト),Heinz(1884-?):駆逐艦タークー艦長・海軍大尉。〔陸正面砲兵隊指揮官〕。1902年4月1日海軍に入った。 1905年9月29日海軍少尉、1908年3月30日海軍中尉、1914年3月22日海軍大尉に昇進した。河用砲艦オッター艦長の時青島に赴きタークー艦長に就いた。ミュンヘン(München)出身。(1779:静岡→習志野)
224) Seyffart(ザイファルト),Paul(?-?):装甲巡洋艦グナイゼナウ(Gneisenau)乗員・2等水兵。習志野時代の1919年10月7日、習志野寄席の第2部で上演されたケルン風茶番劇「むちゃくちゃな夜」の演出を担当した。ハンブルク(Hamburg)出身。(1789:静岡→習志野)
225) Sickel(ジッケル),Hugo(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・後備1等水兵。1915年7月11日福岡から久留米へ収容所換えになった。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。1954年11月6日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。ハレ河畔のヴェルムリッツ(Wörmlitz)出身。(1521:福岡→久留米)
226) Siebel(ジーベル),Carl(1867-?):総督府参謀・陸軍少佐。〔総督府要塞工兵部長〕。1888年4月1日陸軍に入った。1889年9月21日少尉、1897年5月20日中尉、1902年9月21日大尉、1913年5月6日少佐に昇進し、1913年9月1日付けで海軍歩兵隊に移籍した。1918年3月22日福岡から習志野へ収容所換えになった。解放されて帰国後の1920年1月30日、1918年5月18日付けで陸軍中佐に昇進し、1920年3月9日に帝国陸軍に移籍した。ラインラントのバルメン(Barmen)出身。(1458:福岡→習志野)
227) Siebel(ジーベル),Robert(?-1919):海軍膠州砲兵隊第4中隊・1等砲兵。1916年10月18日、ベルント(Berndt)等68名とともに福岡から大分へ収容所換えになった。1919年2月2日、スペイン風邪により習志野で死亡した。ジーゲン郡のゴーゼンバッハ(Gosenbach)出身。(1482:福岡→大分→習志野)
228) Sieber(ズィーバー),Bernhard(?-?):第3海兵大隊第4中隊・予備伍長。『熊本俘虜収容所記事』中の附表第21「負傷證明書附與者一覧表」には、ズィーバーについて「右前膊下端内側ヨリ同前面中央部ニ至ル榴霰弾々子ニヨル軟部盲管銃創」と記述されている。バート=ズルツァ(Bad Sulza)出身。(3652:熊本→久留米→板東)
229) Siebold(ジーボルト),Hugo(?-?):第3海兵大隊予備榴弾砲兵隊・後備上等兵。1918年8月7日久留米から板東へ収容所換えになった。大戦終結後は青島に戻り、A.ザイデル(Seidel)と共同で精練・加工を中心とする化学工業会社を経営した。解放後は蘭領印度に渡った。ハンマースレーベン(Hammersleben)出身。(3685:熊本→久留米→板東)
230) Sieger(ズィーガー),Jakob(?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・2等砲兵。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に際して、美術の工芸木工部門でシュヴァルツヴァルト(黒い森)の晴雨自動表示器を出品した。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ヴュルテンベルクのトゥットリンゲン(Tuttlingen)出身。(4054:大阪→似島)
231) Siemssen(ジームセン),Frederick(1888-?):第3海兵大隊第5中隊・予備副曹長。板東時代、板東テニス協会のコート係を務めた。妻子は大戦終結まで上海で暮らした。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。出身地不明(『俘虜名簿』では福州)。(3090:松山→板東)
232) Siemssen(ジームセン),Wilhelm(?-?):第3海兵大隊第5中隊・戦時志願兵。[福州のコロンビア商会]。青島時代はハインリヒ皇子街に住んでいた。【上記フレデリックとヴィルヘルムの二名の出身地は中国・福州となっている。青島に広大な地所を所有し(個人として6個所合計13963u、約4200坪、商会所有として6184u、約1800坪)、一部を総督府に提供したため、後に日本側により土地・家屋の没収処分を受けたジームセン商会を経営していたアルフレート・ジームセン(Alfred Siemssen)の身内であろうか?(『青島経済事情』27頁以下を参照)ジームセン家はハンブルク有数の貿易商で、1851年ハンザ都市ハンブルクの広東領事に任命された】。松山時代の1915年6月15日、クーグラー(Kugler)とともに婦女に戯れることが目的で、6月12日に夜陰に乗じて脱柵して民家に至ったした科で(目的は果たさず)重営倉20日に処せられた。板東時代、1917年5月に松山収容所からの人員を加えて拡大した「エンゲル・オーケストラ」の団員で、第2ヴァイオリンを担当した。また板東公会堂での絵画と工芸品展覧会では、「B 1の顔」で肖像画部門の一等賞を受賞した。また、1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会で(当時28歳)、2時間38分31秒5分の1で85人中の第59位になった【『バラッケ』第4巻4月号82頁】。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。出身地不明(『俘虜名簿』では福州)。(3096:松山→板東)
233) Sieweke(ジーヴェケ),Ludwig(1893-1963):海軍膠州砲兵隊第3中隊・2等砲兵。板東時代、「ドイツ兵墓碑」の建設に際して石積み工事を担当した。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ヒッデッセン/リペ(Hiddessen/Liype)出身。(4291:「大阪→」徳島→板東)
234) Simon(ジーモン),Oskar(1891-1970):海軍膠州砲兵隊第5中隊・1等砲兵。2007年11月14日、ジーモンの孫トーマス・ベルンハルト(Thomas Bernhardt)氏が、ハンス=ヨアヒム・シュミット氏のホームページの「ゲストブック」に書き込みをした。それによればジーモンは家族に『チンタオの飛行家』(Flieger von Tsingtau)の本を遺した。ジーモンはプリュショー(Plüschow)海軍中尉附きのコックをしていたとのことである。ザクセンのカーメンツ(Kamenz)で没した。ポーゼンのダンゲンフェルト(Dangenfeld)出身。(4062:大阪→似島)
235) Simon(ジーモン),Robert(?-1916):第3海兵大隊第2中隊・伍長。1916年3月19日久留米で死亡し、久留米山川陸軍墓地に埋葬された。『ドイツ兵捕虜と収容生活 ―久留米俘虜収容所W―』(2007)117頁には、ジーモンの葬儀の様子、収容所長渡邊保治大佐から贈られた花輪、酒保の商人の名が見られる幟を写した写真4点が掲載されている。なお、大戦終結後の1920年1月16日、遺骨はドイツ側委員に引き渡された【『欧受大日記』大正十三年三冊之内其一、附表第一「埋葬者階級氏名表」より】。ザクセンのグリューン(Grün)出身。(3645:熊本→久留米)
236) Simon(ジーモン),Wilhelm(1884-1966):海軍膠州砲兵隊・予備海軍少尉。〔第1中間地掃射砲台指揮官〕。1918年3月22日福岡から習志野へ収容所換えになった。ホーフガイスマル(Hofgeismar)出身。(1463:福岡→習志野)
237) Simonis(ジーモニス),Erich(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[オットー・ライマース商会神戸支店]。板東時代の1919年、バルクホールン(Barghoorn)、カイスナー(Keyssner)、ラーン(Laan)及びルードルフ(Rudolf)と共に、日本語文献からの翻訳『国民年中行事』の出版に携わった。ベルリン(Berlin)出身。(3112:松山→板東)
238) Singer(ジンガー),Georg(?-?):砲艦ヤーグアル乗員・2等電信兵。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ヴィースバーデン(Wiesbaden)出身。(270:東京→習志野)
239) Sinn(ズィン),Otto(?-?):第3海兵大隊第3中隊・曹長。1915年10月2日、アール(Ahl)、ルント(Lund)、ツェルナー(Zoellner)の4名で脱走したが、他の3名は同日逮捕、ズィンも5日収容所に戻ったところを逮捕された。ハイルブロン(Heilbronn)出身。(743:久留米)
240) Skrebba(スクレッバ),Hans(?-?):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。1916年4月23日に行われた「久留米体操クラブ(Turnverein Kurume)」の12種競技(鉄棒、平行棒、鞍馬の演習3種目、陸上競技2種目、徒手体操)では、110点を獲得して上級の部の第3位になった。1918年6月、「久留米体操クラブ」から分派した「久留米体操会(Turnschaft-Kurume)」の体操指導者を務めた。ハノーファーのミスブルク(Misburg)出身。(738:久留米)
241) Skupin(スクーピン),Wilhelm(?-?):第3海兵大隊第2中隊・上等歩兵。[ディーデリヒセン漢口支店]。上部シュレージエンのコンシュタット(Konstadt)出身。(2058:丸亀→板東)
242) Smith(スミス),Richard(?-?):第3海兵大隊・予備後備上等歩兵。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ハンブルク(Hamburg)出身。(2705:名古屋)
243) Snoek(スネク),Hermann(1892-?): 第3海兵大隊第4中隊・伍長。解放後は蘭領印度に渡り、ペダン(Padang)のギュンツェル製靴商会に勤めた。ブレーメン(Bremen)出身。(3656:熊本→久留米)
244) Sobottka(ゾボトカ),Johann(?-?):第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。板東時代、1918年6月25、27、28日の三日間上演された、シェイクスピア作の喜劇『じゃじゃ馬馴らし』にビオンデロ役で出演した。また1919年6月1日(日)に開催された12種目から成る体操大会では、初級の部で121½点を挙げて第2位になった【『バラッケ』1919年6月号より】。東プロイセンのトロッフェン(Troffen)出身。(2088:丸亀→板東)
245) Sodan(ゾーダン),Ernst A.(1876-1935頃):第3海兵大隊工兵中隊長・陸軍工兵大尉。〔第5歩兵堡塁(海岸堡塁)指揮官〕。小柄であったが強靭な肉体と強い精神の持ち主のユニークな人物で、部下を始め多くの人から親しみを持たれていた。ヴェーデル(Wedel)少佐と替わって前記指揮官になった。11月9日の青島開城交渉ではドイツ側の実務委員として、地雷等の危険物除去に関わった。11月14日、日本側の開城交渉委員の堀内少将から絵葉書を贈られた。久留米時代、収容所内での散歩を日課として、久留米から故郷東プロイセンのケーニヒスベルクまでの距離8500キロを、1年以上の所内の散歩で達成し、収容所の仲間達から大喝采を受けた。収容所仲間からは親しみをこめて「小さな大尉」と呼ばれた。大戦終結して帰国後、11月1日の第5歩兵堡塁の砲撃についての報告書を書き残した【『青島戰史』124頁以下等より】。1920年1月30日に1918年9月20日付けによる陸軍少佐に昇進し、同年3月9日再度陸軍に入った。ケーニヒスベルク(Königsberg)出身。(3695:熊本→久留米)
246) Solger(ゾルガー),Dr. Friedrich(1877-1965):第3海兵大隊第6中隊第3小隊長・予備陸軍少尉。[北京大学教授・地質学者;中国名表記:梭格尓]。枢密衛生顧問官の息子としてベルリンに生れた。1894-1895年にベルリン大学、1896-1899年にはブレスラウ上級鉱山監督局で鉱山学を実習し、その後再びベルリン大学及び王立鉱山大学に学ぶ。1899年から1903年までベルリン大学地質学・古生物学研究所助手、1902年にベルリン大学で哲学博士の学位を取得した。1903年から1909年までベルリンのマルクブランデンブルク博物館勤務、1907年ベルリン大学教授資格を取得して講師となる。1909年ロシア・トルキスタンを旅行し、1910年から1913年まで北京大学教授、1913年から翌年にかけて、中国地質図の作成を指揮した。青島で所属した第6中隊は、商人や官吏等の応召兵から成る即席部隊でろくに軍事訓練も受けていなかった。そこでゾルガーは「勤務能力無し中隊」(Die D.U. [=dienstuntaugliche]Kompagnie)の戯れ詩を作った。【《Tsingtau Tagebuch》18頁及び《Erinnerungen an Tsingtau》73頁。但し《The Japanese Siege of Tsingtau》(204頁)ではブラシュケ(Blaschke)等の複数による合作となっている】また青島陥落後には、愛惜をこめた「嗚呼、チンタオ」(O,Tsingtau)の詩も作った。松山時代、マルティーン(Martin)少尉及びゴルトシュミット(Goldschmidt)予備副曹長とともに『陣営の火』の編集に当たった。板東では収容所内講演会で最も活躍し、所内最高の知性と謳われ、収容所印刷所から『故国の土と父祖の血』を出した。1917年5月14日、第1回「中国の夕べ」を開催し、「中国について」の連続講義を45回に亘って行うなど多種多彩な数多くの講演を行った。『バラッケ』編集に携わり、演劇の指導を行い、上演に際しての責任者にもなった。大戦終結してドイツに帰国後の1920年4月からベルリン大学員外教授、1925年ドイツ国粋主義連盟会員、1930年からは同理事長、1927年から1933年までドイツ大学協会理事、1946年からは東ドイツのフンボルト大学教授に就き、1953年退官した。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。1965年11月29日、東ベルリンで没した【ゾルガーの俘虜以前及び解放後の経歴については、高橋輝和「板東収容所のドイツ語学・文学・文化論」所載:『「青島戦ドイツ兵俘虜収容所」研究』第2号、129頁を参照】。ベルリン(Berlin)出身。(3097:松山→板東)
247) Sommer(ゾンマー),Eugen(?-?):海軍東アジア分遣隊・第3中隊・2等歩兵。大分時代の1916年3月1日付けの葉書(宛先不明。コーブレンツ連邦文書館所蔵)によると、下士卒は一日40キロから50キロの行進をしたことを報告している。バイエルンのホーフ(Hof)出身。(4441:「熊本→」大分→習志野)
248) Sommer(ゾンマー),Hermann Ernst(1888-1968):第3海兵大隊第3中隊・軍曹。ドイツに帰国後の1920年12月24日、エマ(Emma Jenny Höhn,1894 -1963 )と結婚して娘一人をもうけた。ザクセン=マイニンゲンのアイスフェルト(Eisfeld)出身。(2690:名古屋)
249) Sommerfeld(ゾンマーフェルト),Konrad(?-?):海軍東アジア分遣隊第3中隊・2等歩兵。1915年7月11日福岡から久留米へ収容所換えになった。1919年10月24日に開催された「1919年スポーツ週間」の「石投げBクラス」で、9.205mを記録して第2位になった。ヴェストファーレンのオスターフェルト(Osterfeld)出身。(1576:福岡→久留米)
250) Sommerlatt(ゾンマーラット),Benedikt(1889-?):海軍東アジア分遣隊第2中隊・予備伍長。1915年9月20日福岡から名古屋へ収容所換えになった。「英領東印度カラチン生まれ6歳にしてハノーベル市の市立リツェーウム高等学校に入り18歳にして卒業し大学入学資格を得たり、後二ヶ年半ハムブルヒにて商業を学びハムブルヒ、香港に商人として従業す、1910年より同11年迄一年志願兵たり 企業上の営業部及び会計部及び簿記を特技とす」【「北海道移住」より】。カルクブレンナー(Kalkbrenner)をリーダーとする6名、ハッセルバッハ(Hasselbach)、ホフマン(Hoffmann)、シュヴァルツ(Schwarz)、ザイフェルト(Seifert)、ゾンマーラットは、愛知県下の大地主数十名が創設した愛知産業株式会社と契約して、朝鮮蘭谷面(蘭谷村)で「機械農場」と称するドイツ式大農場の経営を始めることが、大正8年12月25日付け「名古屋新聞」で報じられた。ほどなくしてエートマン(Oetmann)を加えた7名は朝鮮蘭谷で営農した。しかし農場が本格的に起動する前にゾンマーラットは、ザイフェルト、カルクブレンナーに続いて農場を去った。ハンブルク近郊のオルデンフェルデ(Oldenfelde)出身。(1556:福岡→名古屋)
251) Sonntag(ゾンターク),Joseph(?-?):海軍東アジア分遣隊第1中隊・2等歩兵。1914年10月2日、四房山で俘虜となり久留米俘虜収容所に送られた【『欧受大日記』大正三年十一月上より】。コーブレンツ近郊のハッツェンポルト(Hatzenport)出身。(767:久留米)
252) Sottorf(ゾットルフ),Bernhard(?-?):第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。[上海・フーアマイスター商会]。板東時代、1917年5月に松山俘虜収容所からの人員を加えて拡大した「エンゲル・オーケストラ」の団員で、ホルンを担当した。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ハンブルク(Hamburg)出身。(2089:丸亀→板東)
253) Spann(シュパン),Alexander(1890-?):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。[独中・高等学校助手]。1890年12月22日ハンブルクのアルトナに生れたが、教育はザーレ河畔のハレで受けた。その地のギムナージウムを出た後、ハレ市近郊の農園で実習を受け、ハレ高等農林に進学した。1910年に同校を終えると上記農園の支配人を務めたが、その後ベルリンとハレの大学で農芸化学を学んだ。1912年10月、一年志願兵として青島に赴いた。2年後に青島の独中・高等学校の農林学科助手に就任した。1915年(月日不明)、「猥リニ印刷物ヲ発行シ我官憲ヲ侮辱シテ俘虜ヲ煽動スル言辞ヲ弄シタル科」で重営倉30日の処罰を受けた。久留米収容所では菜園で研究に必要な植物の栽培をし、また久留米俘虜収容所雑誌『故国の三角旗』(Heimatswimpel)の主筆を務めた。大戦終結して解放後、九大医学部教授久保井猪之吉の紹介で福岡県幸袋町(現飯塚市)の伊藤農園の顧問になった。1920年10月から九州帝国大学講師として、医学部の有志にドイツ語とドイツ文化を教え、翌年には農学部で農業発達史の講義を委嘱され、1926年まで担当した。この間1922年4月から山口高等学校で3年間外国人教師として勤めてドイツ語を教えた。収容所時代に日本語を学んだが、独学によって日本語に一層磨きをかけた。1924年7月に独力で発行した独文雑誌「Das Junge Japan」(若き日本)は1926年6月の第2巻10号出で廃刊するまでに全21冊を出したが、日本近代文学の翻訳を数多く発表した。以下に主なものを挙げると、夏目漱石『坊ちゃん』、武者小路実篤『その妹』、菊池寛『藤十郎の恋』(米沢直人共訳)、『恩讐の彼方に』、里見ク『嫉妬』、山本有三『海彦山彦』(内山貞三郎共訳)、国木田独歩『帰去来』がある。『坊ちゃん』は1925年に大阪の共同出版社から上梓された238頁の完訳である。副題として「お人好し」(Ein reiner Tor)が付けられている。シュパンは「『坊ちゃん』を独訳して」という文章で次のように述べている。「夏目漱石氏の坊ちゃんを訳了出版するにあたって、色々の感慨に打たれます。私が、最初これを読んだ時には、其の生彩に富み、溌剌たる独創性の横溢してゐる点で、明治文壇異数の作品であると思ひましたが、自ら其の後教職に就いて、日本に関する研究を積んでからは、所謂『江戸っ子気質』がこれ程巧みに生き生きと描写してあるものは殆ど他に比類を見まいと思ひます。勿論漱石氏の作品中には、より深刻なより偉大なものがあるけれども、坊ちゃんの人間本然的な、闊達にして廉直なしかも同時に優に柔しい性格は独り日本人のみではなく世界万国の人々に同感を起こすものと思はれ増す。…」シュパンはその後一時神戸鉄道病院でドイツ語講師を務めたが、昭和2年再び九州帝国大学講師となり、医学部でドイツ語論文の校閲などの仕事をしたが、翌年の昭和3年には久留米の九州医学専門学校(現久留米大学医学部)にも出講した。翻訳の仕事はこの頃も続け、上海の独文誌『橋』(Die Brücke)に、菊池寛『小野小町』、芥川龍之介『鼻』等の独訳を発表した。1934年3月10日付けで九州帝国大学講師を依願退職後の消息は不明である。一説には、ある事件のために三池港から密かに貨物船で帰国したとも言われているが、真相は不明である【以上は、上村直己熊本大学教授の「『坊ちゃん』独訳者A・スパン」(「熊本大学学報」第550号)から抜粋したものである】。1920年1月1日の『福岡日日新聞』には、久保井猪之吉訳になるシュパンの詩「窓の前」が掲載された。ハンブルクのアルトナ(Altona)出身。(732:久留米)
254) Spenle(シュペンレ),Albert(?-?):第3海兵大隊工兵中隊・2等工兵。宣誓解放された。ゼンハイム(Sennheim)近郊のウフホルツ(Uffholz)出身。(2737:名古屋)
255) Sperling(シュペルリング),Eduard(?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・後備砲兵伍長。応召前10年近く北京に暮らし、蒋介石軍の顧問を務めていた。妻は中国人で、中国語を流暢に話した。とがった顎鬚をはやし太鼓腹のシュペルリングは、周囲から中国老人と言われた。1916年10月20日、ミリエス(Millies)、オストマン(Ostmann)等68名とともに福岡から習志野へ収容所換えになった。下記弟のエーミール(Emil)とは福岡で一緒であったが、弟は大阪俘虜収容所行きとなって別れ別れになった【参照『大阪朝日新聞』大正5年10月21日付け】。習志野時代、習志野楽団でティンパニーを受け持った。楽譜が読めなかったシュペルリングは、演奏の際指揮者に左の拳で合図をもらってティンパニーを打ち鳴らした【『ポツダムからチンタオへ』204頁】。また習志野劇場によるエルンスト作の喜劇『フラックスマン先生』に教師役で出演した。ベルリン(Berlin)出身。(1473:福岡→習志野)
256) Sperling(シュペルリング),Emil(?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・2等砲兵。[神戸製鋼所]。1916年10月20日、上記兄エドゥアルト(Eduard)と一緒に福岡を出発して大阪へ向った。大阪駅では、習志野に送られる兄と手を取り合って別離を嘆いた【参照『大阪朝日新聞』大正5年10月21日付け】。ベルリン(Berlin)出身。(1479:福岡→大阪→似島)
257) Speth(シュペート),Nikolaus(1890-1970):第3海兵大隊第5中隊・副曹長。解放されてドイツに帰国後の1921年4月23日、アンナ(Anna Fontaine, 1888-1942)と結婚した。ラインラントのフラウラウテルン(Fraulautern)出身。(3089:松山→板東)
258) Spiesecke(シュピーゼッケ),Fritz(?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・砲兵伍長。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に際して、美術の工芸木工部門で額縁2点、箱1点、戸棚1点、筆入れ1点を出品した。ブランデンブルクのフレーダースドルフ(Fredersdorf)出身。(4042 :大阪→似島)
259) Spiro(シュピーロ),Wilhelm(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・後備機関兵曹長補。1916年10月20日福岡から大阪へ収容所換えになった。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。当初は小樽で職を得ようとしたが、最終的には上海へ渡り、同済大学に勤務し教授となり、工学部長も務めた。ハンブルク(Hamburg)出身。(1488:福岡→大阪→似島)
260) Spohr(シュポーア),Christian W.(?-?):海軍東アジア分遣隊第3中隊・後備軍曹。[宣教師]。東京時代の1914年11月29日、ミサを執り行った。「なかなか立派な説教であったが、自身の純潔を褒めすぎた嫌いがある」、がハインリヒ・ハム(Hamm)の評だった【「ハインリヒ・ハムの日記から」】。習志野時代、1915年12月のクリスマスにミサの司式を執り行った【Jäckisch,W.:Das Barackenlager in NARASHINO、85頁、所載:(Philatelistische Japan-Berichte)116 号】。オスナブリュック(Osnabrück)出身。(234:東京→習志野)
261) Spöler(シュペーラー),Heinrich(1894-1919):海軍膠州砲兵隊・2等砲兵。大分時代の1918年5月7日、板東のラングハイム(Langheim)から葉書を受けた。【マイレンダー(Mailänder)の項参照】。1919年1月29日、スペイン風邪により習志野で死亡。ヴェストファーレンのボルケン(Borken)出身。(4445:「熊本→」大分→習志野)
262) Spörl(シュペルル),Simon(1890-1965):海軍膠州砲兵隊第3中隊・2等砲兵。板東時代、第4棟2室で仕立屋を営んだ。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。上部フランケンのカールスグリューン(Carlsgrün)出身。(4288:「大阪→」徳島→板東)
263) Sporreiter(シュポアライター),Albert(1892-?):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。1917年7月10日に行われた「久留米体操クラブ」の12種競技(鉄棒、平行棒の演習3種目、鞍馬の演習2種目、徒手体操1種目、陸上競技3種目)では、136⅔点を獲得して中級の部の第2位になった。ライプチヒ(Leipzig)出身。(724:久留米)
264) Sprick(シュプリック),Friedrich(?-?):海軍砲兵中隊・2等木工。習志野時代の1918年9月、ハム、ホルヒ、ハスラッハー、リーガーの四阿を建てる際に、大工仕事をした【ハインリヒ・ハム(Hamm)の項参照】。シュトルツェナウ郡のウヒテ(Uchte)出身。(256:東京→習志野)
265) Spurzen(シュプルツェン),Peter(?-?):海軍膠州砲兵大隊第3中隊・2等砲兵。徳島時代の1916年1月16日、ヤコボフスキー作の一幕物『労働』で女役を演じ、観客にその方面の才能もあることを見せつけた【『徳島新報』第18号(1916年1月23日発行)より】。板東時代の1918年4月4日から6日の三日間、ブランダウ(Brandau)演劇グループによるクライストの『壊れ甕』の上演に際して、マルタの娘エーフェ役を演じた。大戦終結して解放後は、蘭領印度に渡った。ラインラントのマイエン(Mayen)出身。(4287:「大阪→」徳島→板東)
266) Stabel(シュターベル),Heinrich(1892-1971):海軍膠州砲兵隊第2中隊・2等砲兵。『大阪毎日新聞(大正4年4月2日付け)』によればシュターベルは、鉄屑2400貫ほどを積んだ南区難波蔵前町浅野政市所有の和船が、ロープを切断して困っているのを見て、服を脱いで海中に飛び込み、牡蠣殻で足を負傷したのにも拘らずロープを取って、収容所所員を感心させたとのことである。ラインラントのシュトルベルク(Stolberg)出身。(4055:大阪→似島)
267) Staben(シュターベン),Johannes(?-?):総督府・1等按針長。青島時代はビスマルク街に住んでいた。妻マクダレーナ(Magdalena)は大戦終結まで上海で暮らした。ホルシュタインのレンツブルク(Rendsburg)出身。(3737:熊本→久留米)
268) Stahl(シュタール),Ludwig(?-?):総督府・2等焚火兵。板東時代、収容所正門の外のすぐ近くにあった「小松ジャム製造所」の販売を第5棟6室で担当した。所長はイェーガー(Jaeger)であった。また1919年6月1日(日)、12種目から成る体操大会が開催されたが、シュタールは初級の部で120½点をを獲得して第3位になった【『バラッケ』1919年6月号より】。ミュンヘン(München)出身。(3138:松山→板東)
269) Stahlschmidt(シュタールシュミット),Hermann(?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・2等砲兵。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に際して、美術の工芸金工部門で木箱用の留め金(真鍮及び鉄製)を出品した。ライン河畔のアルテンドルフ(Altendorf)出身。(4053:大阪→似島)
270) Staiger(シュタイガー),Karl(?-?):国民軍・伍長。大戦終結して解放後は、特別事情を有する青島居住希望者として日本国内で解放された【『俘虜ニ関スル書類』より】。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。【『俘虜名簿』では「Steiger」となっている】。孫娘は、同じ収容所にいたエステラー(Maximilian Esterer)の息子ライナー(Rainer)と結婚した。ヴュルテンベルクのクラインガルターエ(Kleingartahe)出身。(4597:大阪→似島)
271) Stamm(シュタム),Rudolf(?-?):第3海兵大隊第4中隊・予備上等歩兵。[鋳型工]。熊本時代、酩酊して脱柵し、民家に入った科で重営倉15日の処罰を受けた。久留米時代、1918年10月から澤野鉄工場で鋳型の労役で出向いた。労働時間1日8時間、賃金は1ヶ月24円(内4円は国庫納入)であった【『ドイツ軍兵士と久留米』24頁】。エルビング(Elbing)出身。(3660:熊本→久留米)
272) Starcic(スタルチッチ),Johann(?-?):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・2等機関下士。青野原時代、1918年12月13日から20日まで開催された俘虜製作品展覧会で、スタルチッチは木工部門の「削ぎ彫・平彫り」で、宝石箱、額縁等7点を出品した【『AONOGAHARA捕虜の世界』80-81頁】。イストリアのポーラ(Pola)出身。(2397:姫路→青野原)
273) Stauch(シュタオホ),Karl(?-1919):海軍東アジア分遣隊第1中隊・2等歩兵。1919年1月29日、スペイン風邪により習志野で死亡。テューリンゲンのルーラ(Ruhla)出身。(228:東京→習志野)
274) Staudt(シュタウト),Heinrich(1893-1986):第3海兵大隊第4中隊・2等歩兵。1918年8月7日久留米から板東へ収容所換えになった。1925年8月29日に結婚した。ヘッセン=ナッサウのドルヒハイム(Dorchheim)出身。(3673:熊本→久留米→板東)
275) Stecher(シュテッヒャー),Georg Walter(1874-1922):海軍野戦砲兵隊長・陸軍砲兵大尉。〔外方陣地左翼陣地指揮官〕。1874年11月(日にちは不明)、父クルト・シュテッヒャー(Kurt Stecher;1840?-1900)と母(Elise Anna、旧姓Lemke)との間に長男としてドレスデンで生まれた。後に弟(名前は不詳)が出生する。父はザクセン陸軍の軍医であった。ザクセン陸軍省に所属していたシュテッヒャーは、陸軍少佐久邇宮邦彦王のプロイセン陸軍への受け入れと交換で来日することになり、1907年4月、ドレスデン駐屯第4野砲兵連隊中尉から大尉に昇進して同年9月初旬東京に着いた。同年11月に静岡の連隊に、翌1908年9月に東京世田谷・三宿の近衛第14野砲兵連隊付武官となった。1909年4月の満州戦場視察を願い出たが、病気のために満韓旅行は中止された。滞在中、日本陸軍の教範『歩兵操典』、『野戦砲兵操典』及び『野戦砲兵射撃教範』を独国大尉クント(不詳)等と独訳した。その時期に明治天皇の接見をも体験している。日本滞在の期間は当初2年間とされていたが、配属部隊が1909年9月から11月まで演習を行うことから3ヶ月の滞在延長を願い出た。世田谷時代に猪狩亮介少佐と親交を結んだと思われる。1909年11月に帰国した。1909年の『ザクセン国政便覧』によれば、ドレスデン駐屯第4野戦砲兵連隊所属となっている。1913年にはピルナ(Pirna)市駐屯第5野戦砲兵連隊に所属した。その年青島の守備隊に配属された。10月13日の一時休戦時に、カイザー(Kayser)少佐を通じて知友の山田耕三大尉の安否を問う葉書を受け取った。山田大尉からはその後も、シュテッヒャー大尉を気遣う葉書がドイツ側前線に送られた【ベヒトルスハイム(Bechtolsheim)大尉の項を参照】。青島時代はアーダルベルト皇子街(Prinz-Adalbert-Straße)に住んでいた。松山時代、猪狩亮介少佐の弟猪狩恭助(当時、愛媛県立農事試験場技師)が収容所に面会に訪れた。また来迎寺の収容所では他の俘虜達に日本語の授業を行い、山越の日曜講演会では「日本」と題して講演した。また、松山俘虜収容所では非合法の形で新聞『陣営の火』が発行されたが、1916年に3回に亘って掲載された松山地域を概観する論説が載った。その前書きによると、関連する日本語文献を翻訳したのはシュテッヒャーであった【松尾「ザクセン王国出身の青島捕虜」45頁】。板東では、1917年10月2日「日本側から見た青島の戦い」の第1回講演(第2回は9日)を行った。板東テニス協会の理事長を務めた。板東の鳴門市ドイツ館には、シュテッヒャーが筆で書いた「忍 耐 ステッヘル少佐」の書が額に納められて展示されている【収容中に昇進したと思われる。フォラートゥン(Vollerthun)及びマイアー=ヴァルデック(Meyer-Waldeck)の項を参照】。妻クレール(Claire)は息子と娘の三人で、大戦終結まで上海で暮らした。ドイツに帰国後の1920年1月30日、1915年1月30日付けで陸軍少佐に昇進し、1920年3月9日、再度陸軍に入った。なお、前述したシュテッヒャーの父親クルト・シュテッヒャーについては、森鴎外との接点が明らかになった【参照:松尾展成「日本とザクセンを結んだシュテヒャー父子」所載:『チンタオ・ドイツ兵俘虜研究会』ホームページ中の「論文・記事等」】。ドレスデン(Dresden)出身。(3132:松山→板東)
276) Steckelberg(シュテッケルベルク),Hans(1886-?):海軍膠州砲兵隊第4中隊・予備2等砲兵。1886年11月、ラインラントのランゲンベルクに生まれた。1888年1月から1898年2月までシュレースヴィヒのゾンダーベルク(Sonderberg)に居住し、後に家族とともにヴェストファーレンに移住したが、1910年8月中国に赴いた。母親は1918年11月に再びゾンダーベルクに移住した【『俘虜ニ関スル書類』より】。1916年10月18日福岡から大分へ収容所換えになった。ラインラントのランゲンベルク(Langenberg)出身。(1487:福岡→大分→習志野)
277) Steen(シュテーン),Heinrich(?-?):第3海兵大隊第7中隊・伍長。[上海・ヘットラー商会(Hoettler & Co.)]。大戦終結して解放後は、特別事情を有す日本内地居住希望者として、日本国内で解放された。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ハンブルク(Hamburg)出身。(2078:丸亀→板東)
278) Steffens(シュテフェンス),Walter(1889-?):総督府・海軍少主計。1907年4月1日海軍に入り、1911年9月22日海軍少主計補、1914年10月30日少主計に昇進した。ドイツに帰国後の1920年1月30日海軍中主計、1922年11月1日退役した。ローマン(Lohmann)の遺品中には、シュテフェンス、ローマン(Lohmann)、エンゲルホルン(Engelhorun)、カルクブレンナー(Kalkbrenner)、ヤンゼン(Jansen)、シュテーゲマン(Stegemann)の六人が、冬の陽だまりの中、収容所の建物内の縁側と思われるところで思い思い居並んでいる写真が遺されている【ローマンの項、及び〔写真9〕を参照】。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ククスハーフェン(Kuxhaven)出身。(2685:名古屋)
279) Steffens(シュテフェンス),Heinrich(1880-?):第3海兵大隊第6中隊・予備副曹長。[横浜・ドイツ学園教師]。松山時代、公会堂の収容所講習会で英語の講師を務めた。板東時代、1917年5月に松山俘虜収容所からの人員を加えて拡大した「エンゲル・オーケストラ」の団員で、ヴィオラを担当し、合唱団にも所属してバスを担当した。板東時代、ヘルマン・ハーケ(Hermann Hake)と二人同室で過ごした。ハーケによれば「真の友人」となった【石川「ベートーヴェン『第九』と板東俘虜収容所」189-190頁】。解放後は日本に留まり、横浜のドイツ学園に復帰した。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席。ハノーファーのゾルタン郡エッガースミューレン(Eggersmühlen)出身。(3098:松山→板東)
280) Stegemann(シュテーゲマン),Alfons(?-?):第3海兵大隊予備榴弾砲兵隊・予備副曹長。1919年10月4日、名古屋市内の明倫中学校校庭で行われた「日独混合蹴球戦」で、白軍のRH守備の選手として出場した。試合の結果は白軍が2対1で黒軍を破った。この試合の模様は、10月6日付けの新聞『新愛知』で詳細に報じられた。なお、バイアー(Beyer)、ビーン(Ludwig Bien)、クルーク(Krug)、クドラ(Kudla)及びシュテーゲマン以外の5名の名古屋の俘虜は同姓が二名以上いる等から特定することが不可能である。2006年12月15日、ドイツ-日本研究所のウルズラ・フラッヘ氏から、シュテーゲマンの孫オスヴァルト・ハッセルマン(Oswald Hasselmann)氏の編集になるCDが日本の複数の研究者に届けられた。そのCDは、シュテーゲマンとその友人マックス・ローマン(Max Lohmann)の遺品を集成したもので、総数は50枚である。青島から日本へ送られる際の「ヨーロッパ丸」船内、帰国船「豊福丸」船内、蘭領印度のサバン(Sabang)港、スエズ運河沿いのイギリス軍収容所、ヴィエルヘルムスハーフェン港、名古屋市内の様子など、従来余り知られていなかった写真映像が多数ある。いくつかの写真の下には短い説明分や俘虜の氏名が記されている、貴重な資料である。シュテーゲマン自身が写っている写真は4枚ある。またローマン(Lohmann)の遺品と思われる写真には、シュテーゲマン、ローマン、エンゲルホルン(Engelhorn)、カルクブレンナー(Kalkbrenner)、ヤンゼン(Jansen)、シュッテンフェンス(Walter Steffens)の六人が、冬の陽だまりの中、収容所の建物内の縁側と思われるところで思い思い居並んでいる写真が含まれている【ローマンの項、及び〔写真9〕を参照】。なお、1918年3月16日消印で、名古屋収容所のシュテーゲマンに宛てて板東収容所のフリッツ・ルンプ(Fritz Rumpf)が出した葉書が、スイス在住のシュテーゲマンの孫オスヴァルト・ハッセルマン(Oswald Hasselmann)氏の手元に遺されている。葉書の表には、「板東俘虜作品展覧会」(Deutsche Ausstellung Bando 1918)等の記念印が押されている。なお、ルンプは同年5月8日消印でもシュテーゲマン宛てに葉書を出している。ハンブルク(Hamburg)出身。(2689:名古屋)
281) Stegemann(シュテーゲマン),Otto(?-1978): 第3海兵大隊・予備伍長。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。フライブルクの連邦公文書館には、「日本におけるドイツ人俘虜の状況」(Die Lage der deutschen Kriegsgefangenen in Japan)の報告書が所蔵されている。その内容の一部が校條善夫氏によって紹介されている【「名古屋俘虜収容所 覚書V」、所載:『「青島戦ドイツ兵俘虜収容所」研究』第4号、62頁及び64-66頁】ダイスター(Deister)河畔のラウエナウ(Lauenau)出身。(3678:熊本→久留米)
282) Steglich(シュテークリヒ),Friedrich(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等砲兵。1916年9月25日福岡から青野原へ収容所換えになった。青野原時代の1919年3月30日に開催された慈善演奏会で指揮を執った。この演奏会は東シベリアで苦境に喘いでいる戦友のために開かれたものである。曲目としては、グリークの『ソルヴェイグの歌』、ワァーグナー『巡礼の合唱(歌劇「タンホイザー」)』、シューベルト『軍隊行進曲第一番』等である【『AONOGAHARA捕虜の世界』85頁】。ドレスデン近郊のロシュヴィッツ(Loschwitz)出身。(1503:福岡→青野原)
283) Stegmaier(シュテークマイアー),Alois(?-?):海軍膠州砲兵隊第4中隊・1等砲兵。1916年10月18日福岡から大分へ収容所換えになった。習志野時代の1919年8月12日、習志野演劇協会によるベネディクス作の喜劇『親戚の情愛』に女中頭役で出演した。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ウルム(Ulm)出身。(1481:福岡→大分→習志野)
284) Steil(シュタイル),Alwin(1889-1960):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[独亜銀行香港支店]。松山時代の1915年3月15日、シュタイルは両親に宛てて手紙を書いたが、規定の書き方に反したことで、本人に通知されることなく検閲官に没収された。【久留米俘虜収容所及び松山俘虜収容所では、郵便を出す際にその書き方に厳しい規定を設けた。線をきちんと引いてその上に文字を書かせるようにしたのである。検閲しやすいようにとの考えからと思われる。因みにその手紙には、上海のドイツ人クラブが松山の俘虜達のために、その蔵書の一部を送ったことが記されてある。手紙は今日、コブレンツの連邦資料館に保存されている。クライン『日本に強制収容されたドイツ人俘虜』134頁及び179頁】。板東時代の1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会においては(当時30歳)、2時間58分56秒5分の1で84位になった【『バラッケ』第4巻4月号83頁】。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ライン河畔のアルトリップ(Altripp)出身。(3105:松山→板東)
285) Steimann(シュタイマン),Franz(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・1等砲兵。1915年7月11日福岡から久留米に収容所換えになった。1954年11月6日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。ヴェストファーレンのハム(Hamm)出身。(1496:福岡→久留米)
286) Steimetz(シュタイメッツ),Fritz(?-?):第3海兵大隊幕僚・後備中尉。〔地区工兵将校〕。1918年3月22日福岡から習志野へ収容所換えになった。ライナイ(Lainey)出身。(1578:福岡→習志野)
287) Stein(シュタイン),Wilhelm(1892-?):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。[ホテル経営]。久留米時代の1916年12月15日、松山のオットー・ヴェルナー(Otto Werner)の母親(未亡人)宛にクリスマスと新年の挨拶を述べた絵葉書を出した【シュミット】。大戦終結して解放後、シャート(Schad)と青島で共同経営していた「ホテル・シュタイン・ウント・シャート」の営業を再開した。大戦中はある日本人女性に形式上譲渡してあった。ザール河畔のノイキルヒェン(Neukirchen)出身。(720:久留米)
288) Steinbach(シュタインバッハ),H.Walter(?-?):海軍砲兵中隊・2等水兵。1917年1月28日、アンドレーア(Andrea)をショルツ(Scholz)等18名で袋叩きにして負傷させ、2月7日久留米軍事法廷で懲役1月に処せられた。ライプチヒ(Leipzig)出身。(3717:熊本→久留米)
289) Steinbacher(シュタインバッハー),Hans(?-?):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。久留米の演劇活動では、ベネディクス作の喜劇『新婚旅行』等25演目に、主として女役で出演した。1919年12月21日の久留米恵美須座での幕間演芸で、シュタインバッハーはザルトリ(Sartori)と一緒に南ドイツの靴踊りを披露して大喝采を博した(『ドイツ兵捕虜と収容生活―久留米俘虜収容所W―』(55頁)。ミュンヘン(München)出身。(713:久留米)
290) Steinbrück(シュタインブリュック), Heinrich Robert(1886-?):第3海兵大隊工兵中隊・予備少尉。[建築家]。応召前は上海及び広東で建築の仕事をしていた。解放後は蘭領印度に渡った。ライプチヒ(Leipzig)出身。(3696:熊本→久留米)
291) Steindecker(シュタインデッカー),Arthur(?-?):国民軍・卒。1915年9月20日、青島から大阪俘虜収容所に移送された。ハンブルク(Hamburg)出身。(4704:大阪→似島)
292) Steinert(シュタイネルト),Kurt(?-?):第3海兵大隊第4中隊・2等歩兵。1918年8月7日久留米から板東へ収容所換えになった。板東時代、「エンゲル・オーケストラ」の団員で、第2ヴァイオリンを担当した。板東時代の1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会においては(当時26歳)は、2時間38分30秒で58位になった【『バラッケ』第4巻4月号82頁】。エアフルト(Erfurt)出身。(3662:熊本→久留米→板東)
293) Steinfeld(シュタインフェルト),Heinrich(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[神戸・ジーモン・エーファース商会]。松山時代、公会堂の収容所講習会で日本語の講師を務めた。板東時代,1918年春のテニス・トーナメントのダブルスで、ボイスハウゼンと組んでBクラス1位になった【『バラッケ』第2巻211頁】。また1918年9月、「板東健康保険組合」の第6中隊代表理事に選ばれ、また劇場委員会にも所属した。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放され、大阪の井村貿易商会に勤めた。リーグニッツ(Liegnitz)出身。(3107:松山→板東)
294) Steinhagen(シュタインハーゲン),Fritz(?-1920):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等砲兵。1915年7月11日福岡から久留米へ収容所換えになった。1920年1月15日に死亡した(帰国船内?)。ブレーメン(Bremen)出身。(1501:福岡→久留米)
295) Steinhart(シュタインハルト),August(1884-1971):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。解放されて帰国後に結婚した。ホーエンツォレルンのケッテンアッカー(Kettenacker)出身。(716:久留米)
296) Steinhoff(シュタインホフ),Fritz(?-?):第3海兵大隊工兵中隊・後備2等工兵。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放され、東京で勤務した。ヴェストファーレンのヴェルファー(Welver)出身。(3130:松山→板東)
297) Steinlein(シュタインライン),Jakob(1892-?):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。板東時代、丸亀蹴球クラブの役員を務めた。解放後は蘭領印度に渡った。ザールブリュッケン(Saarbrücken)出身。(2069:丸亀→板東)
298) Steinmetz(シュタインメッツ),Hermann(1891-?):第3海兵大隊第7中隊・伍長。丸亀時代の1915年7月19日、楽器購入のために市街に赴いた。同年10月21日には、高松師範学校外県立4学校の音楽教師の希望により、パウル・エンゲル(Paul Engel)と丸亀高等女学校で試験演奏を行った【『丸亀俘虜収容所日誌』より】。板東時代、1919年8月13日に開催された櫛木海岸での水泳大会に出場して、横泳ぎでは42.1秒で第3位に、主競泳では1分28.4秒で第1位になった。またメドレーリレーでは、ヴィヒェルハウス(Wichelhaus)、フェルチュ(Färtsch)、レーマン(Lehmann;板東にはレーマンが二名いて特定不可)と組んで第1位になった。ブレーメン(Bremen)出身。(2082:丸亀→板東)
299) Steitz(シュタイツ),Fred(?-?):第3海兵大隊第2中隊・後備上等歩兵。1914年9月28日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米俘虜収容所に送られた【『欧受大日記』大正三年十一月上より】。吉村縫いという名の内縁の妻がいた。ヴィースバーデン(Wiesbaden)出身。(739:久留米)
300) Steitz(シュタイツ),Dr.Wilhelm(1891-?):第3海兵大隊第1中隊・予備陸軍少尉。久留米時代、シュタイツの手になると思われる収容所の柵をあしらったスケッチには【〔写真6〕参照】、中央部分に「久留米収容所楽団」のレーマン(Otto Lehmann)以下22名の楽団員の写真が並べられ、また一人一人のサイン(ただしレーマンのを除く)が記されている。さらに写真には各自のパートも記されている。それによって「久留米収容所楽団」の楽団員が受け持ったパートが判明した。シュタイツは1919年用の「久留米カレンダー」に12枚のスケッチを寄せた。また収容所で制作された「久留米カレンダー」(1919年用)にスケッチ12枚を載せた。1954年11月6日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。マイン河畔のフランクフルト(Frankfurt)出身。(3644:熊本→久留米)
301) Stelzner(シュテルツナー),Georg(?-?):第3海兵大隊第3中隊・2等歩兵。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に際して、技術部門で、農場及び一家族用住居の設計図を出品した。ザクセンのメーラネ(Meerane)出身。(4070:大阪→似島)
302) Stephan(シュテファン),Andreas(?-?):海軍膠州砲兵隊第4中隊・2等砲兵。大戦終結後の1919年12月26日、帰国船豊福丸で下記マティーアス(Matthias)と同船でドイツに帰国した。ラインラントのヴァインスハイム(Weinsheim)出身。(4298:「大阪→」徳島→板東)
303) Stephan(シュテファン),Matthias(?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・1等砲兵。大戦終結後の1919年12月26日、帰国船豊福丸で上記アンドレーアス(Andreas)と同船でドイツに帰国した。ラインラントのヴァインスハイム(Weinsheim)出身。(4049:大阪→似島)
304) Stephan(シュテファン),Paul(?-?):海軍東アジア分遣隊第1中隊・2等歩兵。ハインリヒ・ハム(Heinrich Hamm)の日記によると1918年3月、勤務に就くのが少し遅れたことで、田中中尉に殴られて倒れそうになった。反抗出来ない俘虜に対するこの態度は、皆を立腹させた。エルンストタール近郊のホーエンシュタイン(Hohenstein)出身。(232:東京→習志野)
305) Steppan(シュテッパン),Herbert(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。松山時代の1915年6月11日、6月4日に規定場所以外で日光浴をし、かつ歩哨に対して粗暴な振る舞いをした科で重営倉20日に処せられた。板東時代、公会堂での絵画と工芸品展覧会に日本趣味に富んだ風景画「赤い寺」を出品して奨励賞を受けた。1918年6月1日、軍楽曹長ハンゼン(Hansen)によってベートーヴェンの「第九交響曲」が板東収容所内で本邦初演された。その折り、シュテッパン、ヴェーゲナー(Wegener)2等歩兵、フリッシュ(Frisch)2等歩兵、コッホ(Koch)伍長の四人は第4楽章の「合唱」でソロを受け持った。プフォルツハイム(Pforzheim)出身。(3115:松山→板東)
306) Stern(シュテルン),Heinrich(?-?):海軍砲兵中隊・海軍中主計。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に当って、運営本部の一員として出納主任を務めた。ヴェルニゲローデ(Wernigerode)出身。(4072:大阪→似島)
307) Stern(シュテルン),Otto(?-?):砲艦ヤーグアル乗員・1等水兵。習志野時代、習志野劇場によるエルンスト作の喜劇『フラックスマン先生』にブロックマン役で出演した。ニーダーバルミン郡のシュトルプス(Stolps)出身。(262:東京→習志野)
308) Stertze(シュテルツェ),Friedrich(?-1916):海軍砲兵中隊・2等水兵。1916年6月4日、肺結核兼結核性脳膜炎により習志野で死亡し、陸軍墓地に埋葬された。ホーエンエルクスレーベン(Hoenerxleben)出身。(255:東京→習志野)
309) Steude(シュトイデ),Rudolf(?-?):国民軍・卒。[ザンダー・ヴィーラー青島支店]。青島時代はイレーネ街(Irenestraße;日本による占領統治時代は久留米町)に住んでいた。ライプチヒ(Leipzig)出身。(4599:大阪→似島)
310) Steudner(シュトイトナー),Hermann(?-?):兵器庫・砲兵係。青島時代はティルピッツ街に住んでいた。松山時代(大林寺収容)の1916年5月28日、酔って同僚に危害を加えようとしたことで、営倉預けになり重謹慎5日に処せられた。ザクセンのアイバウ(Eibau)出身。(3140:松山→板東)
311) Stevens(シュテフェンス),Heinrich(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等砲兵。板東時代の1918年4月4日から6日の三日間、ブランダウ(Brandau)演劇グループによるクライストの『壊れ甕』の上演に際して、農民ファイト・テュンペル役を演じた。ラインラントのレース(Rees)出身。(4304:「大阪→」徳島→板東)
312) Stobrawe(シュトブラーヴェ),Paul(?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・2等砲兵。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に際して、全般の部の作業道具の部門に手編みの壁掛けを出品した。ブレスラウ(Breslau)出身。(4058:大阪→似島)
313) Stoffregen(シュトフレーゲン),Karl(?-?):第3海兵大隊第7中隊・後備上等歩兵。青島時代はヴィルヘルム皇帝海岸通に住んでいた。ハノーファー(Hannover)出身。(2684:名古屋)
314) Stoll(シュトル),Hugo(?-?):海軍東アジア分遣隊第2中隊・副曹長。〔第13砲台指揮官〕。指揮官は後に、ブリルマイアー(Brilmayer)予備少尉に替わった。似島時代、屠畜職人だったケルン(Kern)、ヴォルシュケ(Wolschke)の三人で、当時の広島市広瀬町上水入町のハム製造会社酒井商会でハム製造の技術指導をした。三人の写真が『広島中国新聞』(大正8年12月25日付け)に掲載された。ザクセンのランゲンザルツァ(Langensalza)出身。(4067:大阪→似島)
315) Stolle(シュトレ),Otto(1886-1967):第3海兵大隊第7中隊・予備伍長。[オットー・ライマース商会横浜支店]。板東時代、収容所の管理本部事務室で通訳を務め、「ドイツ牧舎」の建設にあたっての通訳の任に当たった。また電灯係りとして電灯の注文・代金支払いの公示や故障申告・補充品販売等の仕事をを務めた。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。オルデンブルク(Oldenburg)出身。(2080:丸亀→板東)
316) Stopsack(シュトップザック),Hermann(?-?):海軍膠州砲兵隊第4中隊・予備2等水兵。1919年11月25日、九州・若松の帝国鋳物株式会社に技師として就職した。月給は350円であった【坂本「久留米俘虜収容所の一側面」(下)5頁】。なお、大阪安治川鉄工場からの鉄工作業技術を持っていて、日本在留就職希望者照会に対する、同年12月23日付けの久留米収容所からの回答にもその名がある。メークデシュプルング(Mägdesprung)出身。(3731:熊本→久留米)
317) Storf(シュトルフ),Matheus Josef Otto(1892-1967):海軍膠州砲兵隊第3中隊・2等砲兵。建築士の父マテーウス(Matheus;1845-1911)と母マリーア(1863-1948)との間にアウグスブルクで生まれた。1913年10月1日海軍に入り、1914年1月12日、パトリツィア号で膠州に向かい、2月12日に青島に着いた。大阪時代の1915年12月31日の大晦日、ケルン(Kern)とともに脱走したが、翌元旦に堤防の上を歩いているところを発見され逮捕、大阪監獄に収監された。1916年1月19日、共謀逃走の罪名で禁錮2年6月に処せられたが、1917年5月11日仮出獄した【『大正三年乃至九年 戦役俘虜ニ関スル書類』中の「俘虜仮出獄者一覧表」より】。なお、【堀田暁生氏からの教示によれば、「欧受大日記」(大正5年2月)には、12月30日夜に脱走となっている。また、同「欧受大日記」(大正11年1月)では、大正6年2月2日、5日付けで、似島への収容所換えに関して、「収監中ノ俘虜ハ其侭収監 …刑期満了ヲ待テ似島ニ護送」とある由。】。この事件のため、1月27日に予定されたドイツ皇帝誕生日を祝う祝賀会及び音楽会が許可されなかった。ドイツに帰国後は機械印刷主任として働いた。1927年ブラジルに移住し、後にアルゼンチンのブエノスアイレスに移り、その地で没した【シュミット】。なお、2007年11月30日、ブエノスアイレス在住のシュトルフの孫ダニエル・エグナー(Daniel Egner)氏が、シュミット氏のホームページの「ゲストブック」に上記内容に関して若干の書き込みをした。またエグナー氏からシュミット氏に寄せられた情報では、シュトルフは禁固28月に処せらたとされている。エグナー氏は2007年12月17日にも書き込みをした。上記ケルンの子孫と連絡を取りたいという内容である。アウグスブルク(Augsburg)出身。(4061:大阪→似島)
318) Straehler(シュトレーラー),Herbert(1887-1979):海軍膠州砲兵隊・海軍中尉。〔第7及び第7a砲台指揮官〕。1915年11月福岡収容所から逃亡した。フランス語が巧みだったので、パリ・ヴォルテール街59番地に住む法律家アンリ・ヴーテル(Henry Vouters)と称した。上海で四人が落ち合って後、ザクセと二人で太平洋を渡ってアメリカに行き、更にザクセとともにノルウェー人を装ってヨーロッパに向かったが、スコットランド沖でイギリス軍艦の臨検で発覚して逮捕され、大戦終結までマン島の俘虜収容所に収容された。ザクセ少佐と共同執筆した「我等が逃亡記」という記事が、『シュトゥラールズント日報』の付録娯楽版(”Stralsunder Tageblatt”,Unterhaltungs-Beilage,Nr.54ff,März〜Juli,1938)に掲載された。1942年4月1日海軍中将に昇進し、翌年退役した。1954年11月6日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席し、1959年5月30日のククスハーフェンでの同会では開会の挨拶を述べ、1962年のブレーメンでの同会では、アルブレヒト(Albrecht)、ベーダー(Beder)、ユング(Julius Jung;俘虜番号1171「同姓同名者がいるために番号を掲げた」)、ライポルト(Leipold)等とともに世話役の一人を務めた。また1964年9月5日のニュルンベルク大会では演説を行った。ブレスラウ(Breslau)出身。(1462:福岡)
319) Strantz(シュトランツ),Harry von(1872-1923):海軍東アジア分遣隊第3中隊長・陸軍大尉。〔外方陣地左翼陣地〕。ゲルリッツ(Gerlitz)出身。(3698:熊本→久留米)
320) Strassenburg(シュトラーセンブルク),Wilhelm(?-?):第3海兵大隊機関銃隊・2等信号兵。1917年1月28日、アンドレーア(Andrea)をシュタインバッハ(Steinbach)等18名で袋叩きにして負傷させ、2月7日久留米軍事法廷で懲役1月に処せられた。ベルリンのシャルロッテンブルク(Charlottenburg)出身。(3688:熊本→久留米)
321) Strasser(シュトラッサー),Karl(1869-?):総督府・経理官及土木監督官。[建築家]。1905年に総督府建設局の守備隊建築監督官に就いた。1912年3等経理並建築監督官(少佐相当)。青島時代はキリスト通(Christweg)に住んでいた。日独戦争ではゲーデッケ(Gödecke)中尉の後を受けて要塞火工長に就いた。1918年3月22日福岡から習志野へ収容所換えになった。ヴュルテンベルクのアウレンドルフ(Aulendorf)出身。(1460:福岡→習志野)
322) Straub(シュトラウプ),Eugen(?-?):装甲巡洋艦グナイゼナウ乗員・2等木工。[写真屋]。青島時代はフリードリヒ街に住んだ。ヴュルテンベルクのドラッケンシュタイン(Drackenstein)出身。(4606:大阪→似島)
323) Strauch(シュトラオホ),Rudolph(1893-1972):第3海兵大隊第3中隊・上等歩兵。1893年5月3日、機関手の子としてザンクト・ヨーハン(今日のザールブリュッケン)に生れた。1914年8月上記中隊に入隊した。1915年7月11日福岡収容所から久留米収容所に収容所換えになった。1915年10月4日、「久留米体操クラブ(Turnverein Kurume)が設立されたが、その第3代会長を務めた。第二次大戦後「チンタオ戦友会」に出席した【シュミット】。ザールブリュッケン(Saarbrücken)出身。(1579:福岡→久留米)
324) Strauss(シュトラウス),Moi(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。妻は日本人女性でミサオという名であった【『日本人とドイツ人』59頁】。マインツ近郊のボーデンハイム(Bodenheim)出身。(3117:松山→板東)
325) Strauss(シュトラウス),Paul(1892-?):第3海兵大隊第4中隊・2等歩兵。熊本時代(長国寺に収容)の1915年3月15日、少し以前から高熱で入院していたが、この日ベッヒャー(Böcher)及びグラーゼル(Glaser)とともに腸チフスと診断された。久留米時代は演劇活動で、トーマ作の喜劇『放蕩娘』等に出演した。バイエルンのアイニヒ(Aynig)出身。(3668:熊本→久留米)
326) Streich(シュトライヒ),Otto(?-?):海軍東アジア分遣隊第3中隊・上等歩兵。[屠畜職人]。東京収容所時代の1915年4月4日、日本官憲の命令を聞かなかったことから重営倉2日に処せられた【『日独戦争ノ際俘虜情報局設置並独國俘虜関係雑纂』21冊の内の第8巻より】。ボン(Bonn)出身。(235:東京→習志野)
327) Streicher(シュトライヒャー),Kuno(?-?):海軍膠州砲兵隊・1等砲兵。[麦酒製造職人]。1916年9月25日福岡から青野原へ収容所換えになった。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。ブレーナ(Brena)出身。(1532:福岡→青野原)
328) Strempel(シュトレンペル),Walter(?-?):所属部隊なし・2等掌砲兵曹。元キールの海軍水兵第1大隊所属。1912年アメリカに渡りペンキ屋となったが、1914年11月3日アメリカ歩兵大隊に志願してマニラに赴いた。1915年2月除隊してサンフランシスコに戻る途中船は長崎に寄港した。上陸して酒をしこたま飲み日本の官憲に見咎められた。たまたまドイツの新聞を持っていたため逮捕され、久留米俘虜収容所に送られた。当時24歳だった。1916年4月10日ヴィラーバッハ(Willerbach)と逃亡するが、4月17日長崎で捕まり、禁錮1年6ヶ月の刑を受けて福岡監獄に収監された。久留米の演劇活動では、喜劇『クラブチェアーに座って』他1演目に出演した。ベルリン(Berlin)出身。(4710:久留米)
329) Strieder(シュトリーダー),Kurt W.(?-?):第3海兵大隊工兵中隊・後備伍長。[四川鉄道漢口支店]。松山時代、山越の収容所講習会でフランス語の講師を務めた。カールスルーエ(Karlsruhe)出身。(3131:松山→板東)
330) Strietzel(シュトリーツェル),Martin(?-?):海軍膠州砲兵隊第3中隊・2等砲兵。板東時代、タパタオの14号小屋でヘフト(Hoeft)と鍛冶屋、金属加工を営んだ。シュレージエンのロイン(Royn)出身。(4286:「大阪→」徳島→板東)
331) Struck(シュトルック),Heinrich(?-1950):総督府。[巡査長]。妻オッティーリエ(Ottilie)は息子(12歳以下)と大戦終結まで青島に留まった。ハノーファー近郊のハマー(Hammah)出身。(4074:大阪→似島)
332) Struczynski(シュトルシンスキー),Hans von(?-?):第3海兵大隊第7中隊・伍長。板東時代の1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会においては「シニアの部」(当時36歳)で、2時間22分13秒5分の2で第1位になった【『バラッケ』第4巻4月号83頁】。ダンチヒ(Danzig)出身。(2076:丸亀→板東)
333) Stueben(シュトゥーベン),Franz(?-?):海軍膠州砲兵隊・1等機関兵曹。〔海軍飛行部隊〕。青島船渠技手のロルケ(Rolke)とともに、プリュショー(Plüschow)中尉の飛行機の組み立てを行った。徳島時代の1915年4月20日、チェス選手権試合が開催された。それに出場したシュトゥーベンは4組(出場者総数21名)の内の第2組に割り振られたが、3位で本戦のB級進出に留まった。ヴェストファーレンのハーゲン(Hagen)出身。(4308:「大阪→」徳島→板東)
334) Stühler(シュテューラー),Fritz(?-?):海軍膠州砲兵隊第3中隊・1等兵曹。1916年8月20日付けの『徳島新報』第3巻第15号によれば、徳島時代シュテューラーは徳島管弦楽団の一員で、第3チェロを担当していた。ベルリン(Berlin)出身。(4275:「大阪→」徳島→板東)
335) Stuhlsatz(シュトゥールザッツ),Johann(1891-?):第3海兵大隊第3中隊・2等歩兵。1919年1月21日、流行性感冒のため広島衛戍病院に入院し、1月26日に同病院で解放された【『戦役俘虜ニ関スル書類』中の附表第六号の「俘虜患者解放者一覧表」より】。ザールブリュッケン(Saarbrücken)出身。(4588:大阪→似島)
336) Sturm(シュトゥルム),Peter(?-?):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。1914年9月28日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米俘虜収容所に送られた【『欧受大日記』大正三年十一月上より】。1916年4月23日に行われた「久留米体操クラブ(Turnverein Kurume)」の12種競技(鉄棒、平行棒、鞍馬の演習3種目、陸上競技2種目、徒手体操)では、128⅓点を獲得して初級の部の第1位になった。また、1919年10月23日に開催された「五種競技」に出場し、円盤投げ3位、砲丸投げ3位、立幅跳び1位、突撃跳び2位、100m競争3位で総合成績第2位になった。ヘッセンのヴァラーシュテーテン(Wallerstädten)出身。(740:久留米)
337) Suhr(ズーア),Karsten H.(?-?):第3海兵大隊工兵中隊・後備2等工兵。板東公会堂での絵画と工芸品展覧会に連作「日本の風景」を出品した。また1918年5月9日、収容所近隣の水車小屋谷への遠足が行われた。『バラッケ』第2巻第8号の「水車小屋谷への遠足」の文章用にその水車小屋のスケッチを、また同巻第11号には四国の山から見た瀬戸内海のスケッチを寄せた。更に『バラッケ』1919年6月号には、ズーアによる大麻神社に通じる祓川橋、本殿前の石段風景と拝殿のスケッチ等が掲載された。シュレースヴィヒ=ホルシュタインのメルドルフ(Meldorf)出身。(3004:松山→板東)
338) Suran(ズーラン),Franz(?-1917):海軍砲兵中隊・後備2等兵曹。東京時代の1914年12月、不服従の行動で重営倉3日に処せられた。更に1915年6月29日には、収容所内の酒保が閉店になってから酒の販売を強請し、空き瓶で酒保監督の軍曹を殴ろうとして重営倉10日の処罰を受けた【『日独戦争ノ際俘虜情報局設置並独國俘虜関係雑纂』21冊の内の第8巻より】。習志野時代の1916年7月14日、「収容所医師ニ対シ不軍紀ノ言動ヲナシタル科」で重営倉20日、また入院中の10月21日には「脱院シ逃走ヲ企タル證跡顕著ナル科」で重営倉30日に処せられた。1917年8月29日習志野で死亡。ハンブルク近郊のヴィルヘルムスブルク(Wilhelmsburg)出身。(247:東京→習志野)
339) Surand(ズーラント),Fritz(?-?):第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。西プロイセンのエルビング(Elbing)出身。(2073:丸亀→板東)
340) Susemihl(ズーゼミール),Werner F.(?-?):第3海兵大隊第6中隊・後備伍長。松山時代、公会堂の収容所講習会で英語の講師を務め、板東時代は、板東義勇消防団の団長を務めた。キール(Kiel)出身。(3101:松山→板東)
341) Sussmann(ズスマン),Kurt(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等水兵。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会学校部門で、一家族用の家のスケッチ、鉄筋コンクリート構造物等を出品した。ザクセンのシェーネルン(Schönern)出身。(4063:大阪→似島)
342) Sutter(ズッター),Walter(?-?):海軍野戦砲兵隊・2等野戦砲兵。収容所の労役では、フロイントリープ(Freunleib)の後任として名古屋市の加藤製パン所に就役したと思われる【校條「青島戦ドイツ兵俘虜と名古屋の産業発展 ―技術移転の様相を探る―」26頁】。ショップハイム(Schopfheim)出身。(2726:名古屋)
343) Swierszinski(スヴィルチンスキー),Anton(?-?):第3海兵大隊第3中隊・軍曹。1919年5月10日に行われた「下士官体操クラブ(Unteroffizier-Turnverein)」の6種競技(陸上競技三種目、器械体操三種目)では、67⅓点を獲得して初級の部の第3位になった。西プロイセンのブロムベルク(Bromberg)出身。(745:久留米)
344) Symalla(ジュマラ),Max(?-?):第3海兵大隊第2中隊・伍長。[天津ドイツ領事館]。ヴェストファーレン地方マルク(Mark)のブリーゼン(Briesen)出身。(2053:丸亀→板東)
345) Syré(ジュレ),Hermann(1882-1962):第3海兵大隊第7中隊・上等歩兵。[建築家]。1901年(あるいは1902年)に膠州に赴き、要塞の建設及び山東鉄道の敷設に従事した。1908年1月9日、青島で結婚した。1912年10月、ドイツ帝国の皇弟ハインリヒ・フォン・プロイセン皇子が青島を訪問した際、プリンツ・ハインリヒ・ホテルで歓迎の式典が執り行われた。その折の記念写真をあしらった絵葉書でジュレは兄弟にはがきを出した。記念写真には白い服を着た王子とマイアー=ヴァルデック(Meyer-Waldeck)総督を中心にして、総勢50名ほどが写っている。ジュレは王子のすぐ左隣に立っている。そのはがきの文面は次の通り。「親愛なるアルフレート!ヘルゴラント島からの便り有り難う。元気な様子なによりです。裏面の写真は、陸海軍合同のハインリヒ・フォン・プロイセン皇子歓迎式典の時に写したものです。これ以外には特に変わったことはありません。ヘルマンより」【シュミット】。青島時代はハンブルク街(日本の占領統治時代は深山町)に住んでいた。丸亀時代の1916年2月5日、済南で暮らしていた妻メタン(Metan)に宛てて、25円を送金した現金封筒の表の部分が三木充氏所蔵で現存している。板東時代、工芸品展にアードラー(Adler)と縮尺25分の1の橋を制作・出品した。妻は娘(1919年時点で11歳)と大戦終結して俘虜の解放後まで済南で暮らした。テューリンゲンのシュレンジンゲン(Schlensingen)出身。(2083:丸亀→板東)