1) Tabbert(タッベルト),Otto(1879-?):第3海兵大隊第1中隊・予備陸軍少尉。[裁判所書記官]。青島時代はフリードリヒ街に住んだ。妻のマルガレーテ(Margarete)と子供二人(いずれも12歳以上)は、大戦終結まで上海で暮らした。出身地不明(『俘虜名簿』では青島)(769:久留米)
2) Tauch(タオッホ),Eduard(1883-?):総督府・海軍中主計(中尉相当)。1901年10月1日海軍入り、1909年9月11日海軍少主計、1913年6月28日中主計。北京の海軍東アジア分遣隊経理部勤務から青島へ応召した。ベルリンのハーレンゼー(Halensee)出身。(788:久留米)
3) Taudien(タオディーン),Hugo(?-?):海軍砲兵中隊・2等副按針長。久留米時代の1916年7月19日、ヘルム(Helm)と逃亡するがすぐに捕まって、重営倉30日に処せられた。このことは収容所と警察の対立を生んだ。同年9月16日、ゾイフェルト(Seufelrt)等と久留米から青野原へ収容所換えになった。東プロイセンのザイケンブルク(Seikenburg)出身。(3753:熊本→久留米→青野原)
4) Tegethoff(テーゲトフ),Adolf(?-?):海軍膠州砲兵隊第3中隊・2等砲兵。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。マンハイム県のシュヴェッツィンゲン(Schwetzingen)出身。(1606:福岡→習志野)
5) Tegge(テッゲ),Willy(?-?):砲兵兵站部・2等掌砲兵曹。青野原時代の1918年12月13日から20日にかけて、俘虜製作品展覧会が開催されたがその折、テッゲは数々の色鮮やかなスケッチ、デッサンを描いた。今日それらは『小野市史』第6巻、及び第3巻の別冊「AONOGAHARA 捕虜兵の世界」で見ることが出来る。なお、青野原俘虜収容所全景のスケッチも残している。シュトラースブルク(Strassburg)出身。(2427:姫路→青野原)
6) Teinitz(タイニッツ),Max(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[上海・シェルフ商会(W.Schärff & Co.)]。タイのバンコク在住のドイツ人友人からタイニッツに宛てた葉書が、『ドイツ兵捕虜と収容生活―久留米俘虜収容所W―』144-145頁(2007)に紹介されている。ベルリン(Berlin)出身。(3145:松山→板東)
7) Teller(テラー),Herbert(?-1919):海軍膠州砲兵隊第2中隊・1等砲兵。1919年2月3日(4日?)、スペイン風邪により習志野で死亡した。シュレージエンのオッペルン(Oppeln)出身。(1790:静岡→習志野)
8) Temme(テンメ),Amandus(1893-1915):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。1915年6月6日、12指腸虫症により死亡し、丸亀市土器町東駒ヶ林の軍人墓地に埋葬された。ドイツの習慣にはなかったために検便を拒否したことも、死亡につながったと言われる。前月初旬から丸亀衛戍病院に入院していたが病状悪化し、3日には青島時代の上官及び同郷人としてランセル(Lancelle)大尉、バウツ(Bautz)曹長、アンドレ(Andrae)伍長、シュレーダー(Jakob Schröder)2等歩兵が見舞った。6月8日、石井収容所長を始め所員等職員が立会い、俘虜将校以下273名が整列し、法衣を纏った俘虜宣教師ヒルデブラント(Hildebrandt)の司式により新教で葬儀が執り行われた。10月20日には墓標の竣工がなり、俘虜准士官以下255名が参拝し、一周忌は俘虜将校以下が参列して執り行われた【『丸亀俘虜収容所日誌』より】。ノルトライン=ヴェストファーレンのゲルゼンキルヒェン(Gelsenkirchen)出身。(2094:丸亀)
9) Thamm(タム),Eduard(?-1914):海軍東アジア分遣隊第2中隊・2等歩兵。1914年9月28日、浮山で日本軍に投降して俘虜となる。二日後の30日、青島郊外の東李村第2野戦病院で死亡し、日本軍により埋葬された【『欧受大日記』大正三年十一月上より】。【11月7日の青島ドイツ軍の降伏より1ヶ月以上も前に捕虜となり、しかもその後まもなく死亡して埋葬もされたタムに俘虜番号「108」が付されたのは、『俘虜名簿』作成上での大きな間違いといえる】。ゲルゼンキルヒェン(Gelsenkirchen)のビューア(Buhr)出身。(108:なし)
10) Theen(テーン),Theodor(?-?):海軍東アジア分遣隊第1中隊・後備伍長。[シュヴァルツコプ商会青島支店]。青島時代はヴィルヘルム皇帝海岸通に住んでいた。青島では両親と妻の四人家族で、開戦後上海に逃れた妻ルル(Lulu)は、こども(12歳以下)と夫の両親(商人のテーオドールとその妻カロリーネ)とともに大戦終結まで上海で暮らした。1915年12月25日の習志野収容所でのクリスマスコンサートでは、P.ローデの作品10「エア・ヴァリエ」及びヘンデルの「ブーレ」をヴェルダー(Wälder)水兵のピアノに合わせてヴァイオリン演奏した。習志野俘虜収容所開設以来5年余に亘って俘虜郵便係となって、陸軍郵便検閲官の業務を助けたことによる山崎友造所長名の感謝状(1919年11月7日付け)が残っている。また同日付での妻の病状悪化を示す文書も残っている。正規の解放前に1ヶ月早く上海へ向けて習志野を発った。上海に居る妻ルルがこの年の1月以来病にあり、危篤との理由からであった。出身地不明(『俘虜名簿』では青島)。(271:東京→習志野)
11) Theile(タイレ),Friedrich(1889-1978):第3海兵大隊第1中隊・上等歩兵。[ジータス-プラムベック青島支店]。青島時代はホーエンツォレルン街に住んでいた。久留米時代の演劇活動では、K.Th.ケルナー作の悲劇『トーニー』等に出演した。宣誓解放された。1954年11月6日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。アルトナ(Altona)出身。(773:久留米)
12) Thibaut(チボー),Charles(1881-?):砲艦ヤーグアル乗員・海軍中主計(中尉相当)。キールもしくはオーデル(Oder)河畔のフランクフルト(Frankfurt)出身。(789:久留米)
13) Thiel(ティール),Gustav(?-?):海軍野戦砲兵隊・後備副曹長。エーリヒ・フィッシャー(Erich Fischer)の日記には、収容所仲間の人物評が記されている。ティールについての人物評は次ぎの通りである【『ドイツ兵捕虜と収容生活―久留米俘虜収容所W―』(60頁-61頁)「ティールは昔漢口で茶の鑑定人をしていた。それにもかかわらず治しようのないタバコ飲みだ。既婚、素晴らしい数学家で頭が切れる。どもることがある。大金稼ぎ。僕が知っている中で最高に節度をわきまえた人間だ。休暇を取って、上海にいる兄弟を訪ねるつもりでいる。」】。ケーニヒスベルク(Königsberg)出身。(3750:熊本→久留米)
14) Thiel(ティール),Otto(?-?):第3海兵大隊第4中隊・予備伍長。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放され、佐賀県の日本電機株式会社に電機技師として雇用された。ノインキルヒェン(Neukirchen)出身。(3746:熊本→久留米)
15) Thiele(ティーレ),Johannes(1890-1974):海軍東アジア分遣隊第2中隊・2等歩兵。[金銀細工師]。1916年9月25日、トルトゼン(Thordsen)等90名で福岡から青野原へ収容所換えになった。大戦終結して解放後の1920年9月、結婚のためにツィッタウ市役所に書類を提出した【松尾「「ドイツ牧舎」(徳島板東)指導者クラウスニッツァーの生涯」99頁】。ツィッタウ(Zittau)出身。(1607:福岡→青野原)
16) Thiele(ティーレ),Wilhelm(?-?):海軍膠州砲兵隊第3中隊・2等砲兵。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に際して、美術の工芸金工部門で蹄鉄2点を出品した。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ザクセンのハルバーシュテッテ(Halberstett)出身。(4078:大阪→似島)
17) Thielsch(ティールシュ),Alfons(?-?):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。1914年9月28日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米俘虜収容所に送られた【『欧受大日記』大正三年十一月上より】。ブレスラウ近郊のティンツ(Tintz)出身。(777:久留米)
18) Thies(ティース),Bruno(?-?):第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。丸亀時代の1915年(月日不明)、「禁止ノ場所ニ猥リニ立入リタルノミナラス絶対ニ服従スヘキ衛兵司令ノ命令ニ従ハサリシ科」で重営倉10日の処罰を受けた。板東時代,1918年春のテニス・トーナメントのシングル(ハンディ付き)Aクラス2位になった【『バラッケ』第2巻211頁】。また、1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会においては(当時29歳)、2時間29分56秒5分の2で85人中の24位になった【『バラッケ』第4巻4月号80頁】。ブレーマーハーフェン(Bremerhaven)出身。(2098:丸亀→板東)
19) Thies(ティース),Heinrich(?-?):第3海兵大隊第7中隊・上等歩兵。[上海郵便局]。1914年8月5日の夜10時半に友人のギムボルン(Gimborn)と一緒に青島に向けて上海を出発した。8月6日朝7時南京着、8月7日朝6時に青島に到着した。板東時代,1918年春のテニス・トーナメントのダブルス(ハンディ付き)で、アルプスTと組んでAクラス2位になった【『バラッケ』第2巻211頁】。また同年6月25日、収容所内「タパタオ」の村長選挙が行われ、決戦投票の結果ティースの22票に対して、ハークが44票を獲得して新村長に選出された。板東ホッケー協会の庶務係を務めた。ブレーメン郡のノイツェン(Neuzen)出身。(2096:丸亀→板東)
20) Thilo(ティーロ),Friedrich(?-?):第3海兵大隊第6中隊・予備副曹長。[山林局長代理]。8月末からの豪雨で破壊された道路を、部下とともに中国人労働者を使って修復に努め、日本軍が租借地境界に進軍する前に復旧させた【『青島戰史』76頁】。妻エルナ(Erna)は大戦終結まで上海で暮らした。なお、1914年12月17日付けで、広島衛戍病院から青島ビスマルク街の歯科医ブーヒンガー夫妻に宛てたハガキ(俘虜郵便)が残存している。ホルシュタイン(Holstein)出身。(4079:大阪→似島)
21) Thoma(トーマ),Leo(1894-1968):第3海兵大隊第5中隊・2等歩兵。1919年4月1日、敷島製粉工場からトーマとリヒター(Paul Richter)には煉瓦職工として、ブレール(Bröhl)は麺麭焼窯設計者として、ケーニヒ(Leo König)は通訳としての就労申請が出された。麺麭焼窯設計者と通訳は日給1円、煉瓦職工は日給80銭だった【校條「名古屋俘虜収容所 覚書V」所載:『「青島戦ドイツ兵俘虜収容所」研究』第6号、38頁】。ドイツに帰国後の1920年に結婚して子供三人をもうけた。郷里で理髪店を営んだ。ラインラントのカルターヘアベルク(Kalterherberg)出身。(2714:名古屋)
22) Thomer(トーマー),Fritz(?-?):海軍東アジア分遣隊・2等歩兵。1918年3月22日福岡から習志野へ収容所換えになった。1919年1月8日、9日、収容所で演じられたハウスライターとライマン作の3幕の茶番劇『電話の秘密』に娘役で出演した。ケルン近郊のフレシェン(Fleschen)出身。(1608:福岡→習志野)
23) Thomsen(トムゼン),Erich(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・予備2等砲兵。天津から応召した。シュレースヴィヒ=ホルシュタインのボルデスホルム(Bordesholm)出身。(4311:「大阪→」徳島→板東)
24) Thomsen(トムゼン),Oswald(?-?):第3海兵大隊参謀本部・予備陸軍少尉。静岡時代の1915年4月13日、俘虜情報局に横浜のオットー・ライマース(Otto Reimers)商会のヴェルナー・ライマースより、トムゼン訪問の願い書が提出された【『欧受大日記』(大正十一年一月綴り)より】。ハンブルク(Hamburg)出身。(1791:静岡→習志野)
25) Thönes(テーネス),Fritz(?-1919):第3海兵大隊第1中隊・予備副曹長。1919年2月2日、スペイン風邪により習志野で死亡した。デュッセルドルフ(Düsseldorf)出身。(4447:「熊本→」大分→習志野)
26) Thordsen(トルトゼン),Thomas(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・1等砲兵。1916年9月25日、ティーレ(Thiele)等90名で福岡から青野原へ収容所換えになった。トルトゼンと同じ部隊で、収容所も一緒であったケルステン(Kersten)の日記には、トルトゼンに言及した部分がある。それによると青野原時代、6羽のチャボと1羽の雄鶏を飼う許可を得、後にはチャボの代わりに普通の産卵鶏を買う許可も得た。また、神戸の「ドイツ・クラブ」での歓迎会に出席するため休暇を得ての神戸行きが、時間的に極めて困難であると、司令官等に粘り強く交渉した【『小野市史』第6巻825頁】。妻は子どもと神戸で暮らしていた。神戸から応召したものと思われる。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。ハンブルク(Hamburg)出身。(1597:福岡→青野原)
27) Thoss(トス),Alfred(?-?):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。『ドイツ軍兵士と久留米』205頁には、1919年1月の日付での久留米ホッケーチームの集合写真が掲載されているが、その左から五人目にトスが写っている。テューリンゲンのツォイレンローダ(Zeulenroda)出身。(776:久留米)
28) Thron(トゥローン),Karl(?-?):第3海兵大隊工兵大隊・2等工兵。[北ドイツ・ロイド汽船プリンツ・アイテル・フリードリヒ号乗員]。板東時代、1917年5月に松山収容所からの人員を加えて拡大した「エンゲル・オーケストラ」の団員で、第2ヴァイオリンを担当した。プロイセンのプレッサ(Plessa)出身。(3146:松山→板東)
29) Thurm(トゥルム),Max(?-?):第3海兵大隊第6中隊・補充予備兵。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。ザクセン=アルテンブルクのゲスニッツ(Gössnitz)出身。(4449:「熊本→」大分→習志野)
30) Tidemann(ティーデマン),Karl(?-?):第3海兵大隊第1中隊・予備伍長。久留米の演劇活動では、リンダウ作の『もう一人の男』等3演目に出演した。1919年10月21日に開催された「1919年スポーツ週間」の「幅高跳び Aクラス」で、高さ1.50m、幅2.80m 接触で第2位になった。上部シュレージエンのエルグート=ティロヴィッツ(Ellguth-Tillowitz)出身。(771:久留米)
31) Tiefenbacher(ティーフェンバッハー),Josef(1892-1972):第3海兵大隊第6中隊・予備伍長。〔湛山堡塁〕。1914年11月2日未明の日本軍の攻撃で負傷した。ハンブルク近郊のラインベク(Reinbek)出身。(4609:大阪→似島)
32) Tiefensee(ティーフェンゼー),Dr. Franz(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[徳華高等学堂講師・中国語学者]。松山時代、公会堂の収容所講習会で中国語及び数学の講師を務めた。板東時代、『日刊電報通信』のために中国からのニュースを翻訳した【『バラッケ』第2巻82頁】また収容所内印刷所から『中国礼式入門』、『商用中国語・中国事情』、『礼節指南』を出した。1917年6月21日、「中国の夕べ」で講演を行う。ドイツが戦争に負けて俘虜達が故国に帰還し始めると、ドイツで若者達の再教育をする方が中国語の勉強よりも重要だとの考えに至った。帰還船がインド洋上にさしかかった時、ティーフェンゼーは貴重な草稿類を全て海中に放り投げてしまった。ドイツ帰国後の1920年、『東亜評論』に「日本で俘虜となって」の文章を寄稿した。グロス・オッテンハーゲン(Gross-Ottenhagen)出身。(3143:松山→板東)
33) Tiemann(ティーマン),Theodor(?-?):海軍野戦砲兵隊・上等歩兵。大戦終結後は、特別事情を有することから日本国内での居住を希望した。ブレーメン(Bremen)出身。(1793:静岡→習志野)
34) Tiesel(ティーゼル),Kurt(?-?):第3海兵大隊第3中隊・2等歩兵。1918年9月16日から、つちや足袋合名会社に木綿漂白の労役で出向いた。労働時間1日8時間、賃金は1ヶ月24円(内4円は国庫納入)であった【『ドイツ軍兵士と久留米』24頁】。ゲーラ(Gera)出身。(784:久留米)
35) Timm(ティム),Johannes(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[ハンブルク・アメリカ汽船青島支店]。青島時代は皇帝街に住んでいた。松山時代、山越の収容所講習会で英語及びスペイン語の講師を務めた。板東時代の1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会においては(当時36歳)、2時間28分52秒5分の1で85人中の第19位になった【『バラッケ』第4巻4月号80頁】。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ハンブルク(Hamburg)出身。(3142:松山→板東)
36) Timme(ティンメ),Wilhelm(1867-1942):総督府・予備海軍大佐。〔青島市防衛指揮官及び国民軍並びに消防隊指揮官〕。日独開戦に備えての食料・物資の調達責任者になった。ウラジオストックに豚やセメント等を運ぶあるアメリカ商人の船の積み荷を、相場価格でまるごと買い取って、防備・篭城に備えた。糧食は半年分を確保したと言われる。青島時代はアルベルト街(Albertstrasse)に住んでいた。1918年3月22日福岡から習志野へ収容所換えになった。トリーア(Trier)出身。(1590:福岡→習志野)
37)
Tittel(ティッテル),Hans(1880-?):第3海兵大隊第7中隊・副曹長。[上海郵便局]。東アジアの数ヶ国語に通じ、バールト(Barth)の中国古典の師であった。丸亀時代には、『大阪朝日新聞』を購読していて、グロスマン(Grossmann)と共同で講和提議の号外をただちに独訳して大型の洋紙に大書して掲示した。(『大阪朝日新聞』大正5年12月25日付け)。日本語に関しては、会話よりは読解力に優れていた。板東時代の1919年、ティッテルは収容所内の印刷所から、『相撲図説 日本の格闘技』を出版した。『丸亀俘虜収容所日誌』によれば、丸亀時代の1915年5月21日、収容所の別院門前広場で相撲興行が行われた。文書からは不明であるが、見物が許されたとなれば、この相撲見物が上記出版のきっかけになったと思われる【この相撲興行は、引退直後の常陸山一行かとも考えられる。常陸山は俘虜慰問のために四国での興行を行った。しかし地元香川新報の上述の日付前後には相撲興行の記事はない、とのことである。前年の1914年11月22日の香川新報には、興行中の太刀山一行中の4、5名が収容所前広場で運動中の俘虜の前に姿を見せ、その図体の大きいことに驚いた俘虜達の「俘虜関取に驚嘆す」の記事が掲載されている】。1919年8月13日に開催された櫛木海岸での水泳大会で、背泳ぎに出場して45・1秒で2位になった。またグロースマン(Grossmann)と共著で『尋常小学校読本独文解説』の本も出した。下士官室の彼の机の脇には、常にウイスキーのビンが置いてあった。戦後バタビアのオランダ財務部に就職し、中国人商会の会計帳簿等の税務調査の仕事をした。中国語、マレー語の知識が存分に発揮されたが、数年後に死亡した。噂では、竹の繊維に含まれる微細な毒の入ったカクテルが原因とも言われた【Barth《Als deutscher Kaufmann
in Fernost》56頁】。ブレスラウ(Breslau)出身。(2095:丸亀→板東)
38)
Tjardes(チャルデス),Hero(?-?):海軍砲兵中隊・2等水兵。1917年1月28日、アンドレーア(Andrea)をシュトラーセンブルク(Strassenburg)等18名で袋叩きにして負傷させ、2月7日久留米軍事法廷で懲役2月に処せられた。オルデンブルクのイェーファ(Jever)出身。(3756:熊本→久留米)
39)
Tolle(トレ),Constanz(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[ウラジオストック・ランゲリューチェ商会(Langelütje
& Co.)]。板東時代の1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会においては(当時25歳)、2時間39 分36 秒で67位になった【『バラッケ』第4巻4月号82頁】。大戦終結して解放後は、蘭領印度に渡った。ゲッティンゲン(Göttingen)出身。(3144:松山→板東)
40)
Tolle(トレ),Gustav(?-?):第3海兵大隊第2中隊・副曹長。[カルロヴィッツ上海支店]。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。出身地不明(『俘虜名簿』では上海)。(2093:丸亀→板東)
41)
Tomaszewski(トマツェフスキー),Wladislaus(?-?):海軍膠州砲兵隊第3中隊・1等砲兵。板東時代、第4棟2室で洗濯屋を営んだ。ポーゼン(Posen)出身。(4309:「大阪→」徳島→板東)
42)
Tönnissen(テニッセン),Edmund(?-?):海軍膠州砲兵隊第1中隊・2等砲兵。1915年10月21日名古屋へ収容所換えになった。1950年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。オルデンブルク(Oldenburg)出身。(1592:福岡→名古屋)
43)
Tospann(トスパン),Ernst(1889-?):第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。似島時代、リースフェルト(Liessfeldt)と共同で、朝日新聞及び毎日新聞の記事をドイツ語に訳した。時にクット(Kutt)も参加し、複雑な文章の時はオトマー(Othmer)予備少尉が手助けした【クライン『日本に強制収容されたドイツ人俘虜』177頁】。1918年9月付けの、F.パラヴィチーニ博士(在ジュネーヴ赤十字国際委員会駐日代表)の報告によればトスパンは、似島時代に共同で提出した嘆願書の中で、父親から送金された200円が日本に届いていないことで探索依頼をした。大戦終結後は、一般送還船出発前に予め日本国内で解放された。1950年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ハーメルン(Hameln)出身。(4080:大阪→似島)
44)
Tostmann(トストマン),Heinrich(1877-?):第3海兵大隊・海軍中主計(中尉相当)。[総督府主計長]。【以下の記述は、2007年9月22日にトストマンの孫娘エーファ・キューラー(Eva Kühler)氏がシュミット氏のホームページの「ゲストブック」に書き込んだ内容による。「トストマンは1913年8月、妻アンナ(Anna)、二人の子供ヨアヒム(Joachim,1908年生まれ)及びギーゼラ(Giesela:エーファの母親で1913年4月生まれ)とともに青島へ赴いた。」祖父のアルバムが遺されていて、日本軍の青島入城行進等の写真が保存されている、とのことである。なお、2008年1月30日にも、エーファ・キューラー氏が書き込みをした。それによれば、シュミット氏のホームページを見てから青島への思いが脳裡から離れず、2008年10月に四人の姪と一緒にトストマンの足跡を辿る旅に出るとのことである】。ベットルム(Bettrum)出身(『俘虜名簿』には天津も記載)。(770:久留米)
45)
Traeder(トレーダー),Fritz(?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・予備1等砲兵。[灯台守]。妻の名はエミーリエ(Emilie)。ポンメルンのベルクラント(Bergland)出身。(4076:大阪→似島)
46)
Träger(トレーガー),Richard(?-?):海軍膠州砲兵隊・2等砲兵。1916年10月20日福岡から青野原へ収容所換えになった。青野原時代、1918年12月13日から20日まで開催された俘虜製作品展覧会で、トレーガーは金属加工部門に「イルティス記念像」、額縁、筆記用具、花瓶等13点を出品した【『AONOGAHARA捕虜の世界』74頁】。ザクセンのベルクギースヒューベル(Berggiesshübel)出身。(1605:福岡→青野原)
47)
Traut(トラウト),Dr.Hans(?-?):第3海兵大隊・予備副曹長。〔第5歩兵堡塁〕。1914年9月29日の夜海泊河の河口近くで、トラウト率いる20名は日本軍と不意に遭遇し、銃床での殴り合いになった。かろうじて第5歩兵堡塁に逃れた。1916年10月16日、ゾイフェルト(Seufert)等と久留米から青野原へ収容所換えになった。大戦終結して解放後は北京大使館へ赴いた。ライプチヒ(Leipzig)出身。(3749:熊本→久留米→青野原)
48)
Trautmann(トラウトマン),Franz(1891-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・予備1等信号兵。[旋毛虫検査官]。青島時代はホーエンローエ通に住んでいた。1914年9月28日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米俘虜収容所に送られた【『欧受大日記』大正三年十一月上より】。ハノーファーのアインベック(Einbeck)出身。(787:久留米)
49) Trendel(トレンデル),Anton(?-?):海軍膠州砲兵隊・予備海軍少尉。〔第1砲台指揮官〕。[ホテル経営者]。木製の擬砲を造ってその周囲を火薬で爆破させ、あたかも砲台が破壊されたように見せかけた。福岡時代、5名の将校の逃亡事件で調べられるが、無罪判決を受けた。1918年3月22日福岡から習志野へ収容所換えになった。大戦終結後青島に戻ったが、戦争中のホテルの維持困難から負債が嵩み売却せざるを得なかった。クルムバッハ(Kulmbach)出身。(1591:福岡→習志野)
50) Trendelburg(トレンデルブルク),Franz(1884-?):第3海兵大隊第5中隊・陸軍中尉。〔新沙子口派遣隊指揮官〕。後に第3歩兵堡塁救援に向かった。1904 年4月21陸軍入りして同月24日騎兵少尉、1911年12月3日海軍歩兵隊に移籍、1913年4月18日陸軍中尉になった。板東時代、収容所のスポーツ委員会の委員長を務めた。1919年5月7日に開催されたテニス大会では、テニス協会(T.V)チームのダブルスでマイアー(G.Meyer)と組んで出場し、新テニス協会(N.T.V.)のゲッテ(Goette)及びハルクス(Harcks)組と熱戦を繰り広げ、第3セットで勝利した【『バラッケ』第4巻170頁】。ヴィースバーデン(Wiesbaden)出身。(3141:松山→板東)
51) Treuke(トロイケ),Richard(?-?):国民軍・卒。〔イルチス砲台〕。[ヴィンクラー商会(Winckler & Co)青島支店・簿記係]。青島時代はホーエンローエ小路に住んでいた。当時43歳でベルリン生まれ。18歳の時スイスを経てアルゼンチン、ブラジルへ行き、数年を経て中国に渡り、上海、天津を経て青島に住んだ。最後は青島の貿易商社「ヴィンクラー」の簿記係となった。青島在住は14年に及んだ。〈その〉という名の日本人女性と暮らしていたが、〈その〉は青島のドイツ人家庭に保母として雇われていた。同棲6年になり、子供が三人いた。1915年9月20日、青島から大阪俘虜収容所に送られると日本への帰化を申請したが却下された。大阪時代、他のドイツ人と折り合いが悪く、マックス・ツィンマーマン(Max Zimmermann;本名はヤン・パホルチックでポーランド人)とともに隔離所に容れられた【『自大正三年至大正九年 俘虜ニ関スル書類』より】。1916年10月9日、ツィンマーマンとともに大阪から丸亀へ収容所換えになった。板東時代は、ドイツ人俘虜達としっくりしなかったヘルトレ(Haertle)、コッホ(Lambert Koch)、ヴァルシェフスキー(Waluschewski)、ツィンマーマン等の反ドイツ感情の強いポーランド人、ロシア系ユダヤ人と一緒に成就院分置所に隔離収容された。トロイケはドイツ人であったが、帰化申請が反感を買っていたからであった。解放まじかの1919年11月22日、分置所から復帰したがナイフで自殺未遂を図った。大戦終結後は、特別事情を有す日本内地居住希望者として、日本国内で解放された。ベルリン(Berlin)出身。(4705:大阪→丸亀→板東)
52) Trilk(トリルク),August(1892-?):海軍膠州砲兵隊・砲兵伍長。1916年10月18日福岡から大分へ収容所換えになり、更に1918年8月習志野へ移された。解放後は蘭領印度に渡って巡査になった。メクレンブルク=シュヴェーリンのハーゲノー(Hagenow)出身。(1600:福岡→大分→習志野)
53) Trittel(トリッテル),Walther(1880-?):総督府通訳・戦時志願兵(予備陸軍少尉)。〔暗号将校〕。ベルリン大学の東洋語研究室に学んだ。1904年10月1日海軍歩兵隊入り、1912年10月19日予備役少尉。青島時代はティルピッツ街(日本による占領・統治時代は忠海町)に住んでいた。妻マルタ(Martha)は子ども(12歳以下)と大戦終結まで上海で暮らした。解放後は蘭領印度に渡って、ヴェルテフレーデンの中国研究事務所の顧問を務めた。ヴェルニゲローデ(Wernigerode)近郊のネッシェンローデ(Nöschenrode)出身。(3757:熊本→久留米)
54) Trokle(トロクレ),Nikolaus(1893-1966):第3海兵大隊第3中隊・2等歩兵。1919年4月20日に行われた「久留米体操クラブ」の5種競技(投擲用ボール投げ、石投げ(15kg)、幅跳び、棒高跳び、100m競争)では、89点を獲得して初級の部の第1位になった。ザールブリュッケンのヴェールデン(Wehrden)出身。(785:久留米)
55) Trost(トロスト),Hermann(?-?):第3海兵大隊・階級不明。[巡査]。妻マルタ(Martha)は娘(12歳以下)と二人大戦終結まで青島に留まった。バルヒム郡のツィーデリヒ(Ziedich)出身。(3147:松山→板東)
56) Truber(トルーバー),Wilhelm(1892-1945):海軍膠州砲兵隊第3中隊・2等砲兵。〔ビスマルク砲台〕。解放後はドイツで警察所の事務官になった。ヘッセンのバーベンハウゼン(Babenhausen)出身。(4077:大阪→似島)
57) Trümper(トゥリュンパー),Franz(?-?):海軍砲兵中隊・2等水兵。1915年6月熊本から久留米へ収容所換えになった。1918年12月4日に行われた「久留米体操クラブ」の12種競技(鉄棒、平行棒の演習3種目、鞍馬の演習2種目、徒手体操1種目、陸上競技3種目)では、初級の審判を務めた。2007年10月4日、孫娘のヒリゲス氏(Ilona Maria Hilliges)がシュミット氏のホームページのゲストブックに書き込みをした。トゥリュンパーが久留米では体操クラブに属していたこと、久留米時代の写真が遺されていること、六人の子を儲け、大勢の孫と曾孫がいることを記している。ヒルデスハイム(Hildesheim)出身。(3755:熊本→久留米)
58) Tschentscher(チェンチャー),Waldemar(1881-1962):海軍東アジア分遣隊第1中隊・陸軍中尉。1900年陸軍に入隊し、1901年歩兵少尉1909年10月1日海軍歩兵隊に移った。1910年8月8日海軍歩兵中尉に昇進、1914年8月海軍東アジア分遣隊附きとなり、ヘルツベルク大尉の戦死後の1914年10月第1中隊長(第1中隊の指揮を執ったが、後バーケ中尉と替わった。)、.1914年10月8日大尉に昇進した。解放後の1920年3月10日陸軍に移り、少佐で退役した。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。シュレージエンのナイセ(Neisse)出身。(4610:大阪→似島)
59) Tucher(トゥーハー),Christof Freiherr von(1892-1974):第3海兵大隊第5中隊・1年志願兵(男爵)。9月27日、李村で俘虜となり久留米収容所に送られたが、負傷のため当初は久留米衛戍病院に収容された【『欧受大日記』大正三年十一月上より】。なお、クルーゲ(Ernst Kluge)の日記によれば【『ドイツ軍兵士と久留米』―久留米俘虜収容所 U―;生熊 文抄訳】、パトロール中に日本軍に遭遇し、3発の擦過弾を受け、馬が弾に当たって死んだ時に落馬して気絶した。眼を覚ました時には手足を縛られていたとのことである。1918年8月7日久留米から板東へ収容所換えになった。1954年11月6日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。また1964年に開催された同会では、アルブレヒト(Albrecht)、ベーダー(Beder)等とともに世話役を務めた。ミュンヘン(München)出身。(786:久留米→板東)