1) Ueberschaar(ユーバシャール),Dr. Johannes(1885-1965):第3海兵大隊参謀本部通訳・予備陸軍中尉。法学博士。[大阪高等医学校外国人教師]。マイセンに生まれた。ライプチヒ大学で(1906-1911)法律を学ぶ。1911年、日本国憲法の研究で学位取得、大阪高等医学校のドイツ語及びラテン語教師として来日した。1914年10月12日の戦死者埋葬、負傷者救出のための一時休戦には、カイザー(Kayser)少佐の通訳として派遣された。また11月7日午後4時からモルトケ兵営で行われた青島開城交渉にも通訳として参加した。習志野時代の1917年10月31日、ミリエス(Millies)と共同で「宗教改革400年記念の夕べ」を主催した。二部構成の音楽会と言えるもであるが、合間に「1517年から1917年のドイツ人」の題で講演した。1919年3月5日に開催された「朗読の夕べ」では、レッシング作の『賢者ナータン』から第3幕7場の有名な「3つの指輪」の場面を朗読した。大戦終結後も日本に留まり、1919年から1930年まで再び大阪高等医学校に在職し、この間日独交換学生制度及びゲーテ協会設立に参加した。1932年から1937年ライプチヒ大学日本学教授、日本文化研究所を設立し、初代所長となった。1937年再度来日し、天理外国語学校、甲南高等学校を経て、第二次大戦後は甲南大学教授に就いた。1965年1月21日、神戸市の海星病院で没した。『天皇の地位』、『プロイセン憲法と日本憲法』、『芭蕉と「奥の細道」』、『日本における学生運動』等の著書がある。ボッフム(Bochum)出身。(276:東京→習志野)
2) Uffelmann(ウッフェルマン),Heinrich(?-?):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。1918年8月7日久留米から板東へ収容所換えになった。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ヴェストファーレンのイーゼンシュテット(Isenstedt)出身。(793:久留米→板東)
3) Uhlenhuth(ウーレンフート),Walter(1881-?):海軍東アジア分遣隊第2中隊・後備副曹長。久留米俘虜収容所では絵を描いた。1917年5月19日、朝香宮鳩彦王にリードゥルシュタイン(Riedlstein)、シュタイツ(Wilhelm Steitz)等の絵とともに供覧に呈する。その『日記』の中で青島の攻防について論評している。また1976年4月15日付けで、グライクスナー(Gleixner)から手紙が届いた。1954年11月6日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。コーブルク(Koburg)出身。(3762:熊本→久留米)
4) Uhlig(ウーリヒ),Alfred(?-?):第3海兵大隊第2中隊・後備上等歩兵。1914年9月28日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米俘虜収容所に送られた【『欧受大日記』大正三年十一月上より】。ニーダーラウジッツのクレットヴィッツ(Clettwitz)出身。(795:久留米)
5) Ulbl(ウルブル),Rudolph(?-?):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・機関銃隊宿営長。解放後は、蘭領印度に渡ったと思われる。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。グラーツ(Graz)出身。(2438:姫路→青野原)
6) Ulbrich(ウルブルヒ),Ernst(?-?):海軍東アジア分遣隊第2中隊・2等歩兵。[電気工]。1915年7月11日福岡から久留米へ収容所換えになった。1918年10月から、久留米市のつちや足袋合名会社に織物機械据付及び修繕の労役で出向いた。労働時間1日8時間、賃金は1ヶ月24円(内4円は国庫納入)であった【『ドイツ軍兵士と久留米』24頁】。ヴェストファーレンのグローナウ(Gronau)出身。(1618:福岡→久留米)
7) Ulbrich(ウルブリヒ),Robert(?-?):海軍東アジア分遣隊第5中隊・2等兵曹。板東時代、松江所長の斡旋により、他の3名の俘虜と一緒に撫養中学校において、板野郡長や郡内の小中学校校長および体操教師を集めて、体操の講話並びに実技を行った。やがて彼等は巡回体操教師として各小中学校を回って実技を行った【棟田『日本人とドイツ人』271頁より】。また無料水泳教室の教官も務めた。シュレージエンのライヒェンバッハ(Reichenbach)出身。(4312:「大阪→」徳島→板東)
8) Ulrich(ウルリヒ),Heinrich(1894-1973):海軍膠州砲兵隊第1中隊・2等砲兵。1916年10月21日福岡から名古屋へ収容所換えになった。ドイツに帰国後、やがて指物師マイスターになった。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ハノーファー州のブルクドルフ(Burgdorf)出身。(1612:福岡→名古屋)
9) Ulrich(ウルリヒ),Walter(?-?):第3海兵大隊第4中隊・2等歩兵。1915年6月熊本収容所から久留米に収容所換えになった。久留米時代の1915年10月4日、「久留米体操クラブ(Turnverein Kurume)」が設立されたが、その第5代会長を務めた。1916年4月23日に行われた「久留米体操クラブ」の12種競技(鉄棒、平行棒、鞍馬の演習3種目、陸上競技2種目、徒手体操)では、113⅔点を獲得して上級の部の第1位になった。1918年9月16日から、つちや足袋合名会社にミシン機械類修繕の労役で出向いた。労働時間1日8時間、賃金は1ヶ月24円(内4円は国庫納入)であった【『ドイツ軍兵士と久留米』24頁】。テューリンゲンのアポルダート(Apoldat)出身。(3761:熊本→久留米)
10) Umbscheiden(ウムブシャイデン),Ernst(1892-1965):海軍膠州砲兵隊第1中隊・1等砲兵。1916年10月22日福岡から習志野へ収容所換えになった。1919年1月8日、9日、習志野収容所で演じられたハウスライターとライマン作の3幕の茶番劇『電話の秘密』に衛生顧問官役で出演した。ライン河畔のアンデルナッハ(Andernach)出身。(1611:福岡→習志野)
11) Unger(ウンガー),Fritz(?-?):第3海兵大隊第7中隊・第2後備伍長。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ケムニッツ(Chemnitz)出身。(2100:丸亀→板東)
12) Unger(ウンガー),Herbert(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等砲兵。板東時代、1919年3月9日から16日にかけて開催された「懸賞九柱戯大会」で、カール・ベーア(Karl Baehr)及びフェルヒネロフスキー(Felchnerowski)とともに主催者を務めた。また、1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会においては(当時24歳)、2時間29 分8 秒5分の3で20位になった【『バラッケ』第4巻4月号80頁】。大戦終結して解放後は、蘭領印度に渡った。ケムニッツ(Chemnitz)出身。(4313:「大阪→」徳島→板東)
13) Unger(ウンガー),Kurt(?-?):第3海兵大隊第4中隊・上等歩兵。1919年6月22日に開催された「名古屋収容所俘虜製作品展覧会」のカタログによれば、ヴァルター・シェンク(Walter Schenk)及びオットー・ヘル(Otto Herr)とともに収容所図書室の管理係りを務めた。ケムニッツ(Chemnitz)出身。(2743:名古屋)
14) Unkel(ウンケル),Heinrich(1891-?):第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。20歳の時に上海に赴き、そこでメラー(Wilhlem Meller)と知り合いになり、終生の友となった。静岡俘虜収容所の俘虜の多くは、青島での戦闘で負傷していたが、ウンケルも肘に銃弾を受けていた。1916年3月14日、静岡収容所を脱走した。カナダ・ライフル隊アンダーウッド大尉と称するアメリカの偽造旅券で上海に逃げ、更に上海から逃走した。ウンケルはドイツ本国まで辿り着いた数少ない逃亡俘虜の一人である。以下のウンケルの足跡は、幼少時からウンケルを知るメラーの子息アードルフ・メラー氏の『第一次大戦時における日本の収容所からのチンタオ戦士の逃走』(Adolf Meller:Fluchtversuche von Tsingtau-Verteidigern aus japanischem Gewahrsam im Ersten Weltkrieg.)に依拠するものである。ウンケルの逃亡の日付は上記のように3月14日で、日本側の資料による逃亡日の3月18日には既に天津に着いていた。1920年にウンケルとメラーの二人は上海で再会した。1930年代にメラーが上海のウンケルを訪問したときの写真が遺されている。ウンケルはスイス女性のパルミーラ(Palmira)と結婚していたが、妻はその後癌で死亡した。第二次大戦後は上海から香港へ移り、1951年10月1日にフランス女性と再婚した。1962年2月3日付のウンケルからメラーに宛てた誕生を祝う手紙が遺されている。メラーからウンケル宛ての手紙は、1962年2月27日付けが最後である。シュトゥットガルト(Stuttgart)出身。(1796:静岡)
15) Unland(ウンラント),Arnold(1885-?):海軍膠州砲兵隊・掌砲副兵曹。1907年10月2日第3砲兵隊入隊、1908年11月26日予備掌砲副兵曹。1915年9月25日福岡から青野原へ収容所換えになった。ハンブルク(Hamburg)出身。(福岡→青野原)
16) Unverzagt(ウンフェアツァークト),Friedrich(1892-1963):海軍砲兵中隊・1等焚火兵。久留米時代の1917年1月28日、アンドレーア(Andrea)を仲間18人で殴打し、傷害罪で1月の懲役刑に処せられた。ドイツに帰国後、郷里でブリキ職マイスターになった。2007年1月30日、オーストラリア在住の孫娘エルザ・アボリンス(Elsa Abolins)がシュミット氏のホームページの「ゲストブック」欄に書き込みをした。それによれば、ウンフェアツァークトの長女オッティーリエ(Ottilie)は1949年に豪州に移住した。投稿者のエルザはその娘である。なお、この投稿によってウンフェアツァークトの没年が判明した。ヴィースバーデンのビーデンコプフ(Biedenkopf)出身。(3763:熊本→久留米)
17) Urban(ウルバン),Wilhelm(?-?):海軍膠州砲兵隊第3中隊・2等砲兵。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に際して、美術の工芸木工部門で額縁2点を出品した。シュレージエンのベアレングルント(Bearengrund)出身。(4083:大阪→似島)
18) Urbanski(ウルバンスキー),Georg(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・砲兵軍曹長。1915年9月25日福岡から青野原へ収容所換えになった。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。西プロイセン州のエルビング(Elbing)出身。(1614:福岡→青野原)
19) Urmersbach(ウルメルスバッハ),Jakob(?-?):第3海兵大隊第3中隊・2等歩兵。静岡時代の1916年10月21日、「衛兵司令ニ対シ従順ナラサル態度ヲ取リシ科」で重営倉20日の処罰を受けた。ゲルゼンキルヒェン(Gelsenkirchen)出身。(1795:静岡→習志野)
20) Uerscheln(ユルシェルン),Matthias(?-?):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。エンジニアとして電気会社に勤めていた。兄弟が8人いた。大戦終結して帰国後、バーバラと結婚した。その息子のヘルマン・ユルシェルンの娘で、東京在住のガブリエレ内藤氏によると、祖父のユルシェルンは久留米では絵を描いたり、スポーツをしたりして過ごしたとのことである。サッカーは特に好きで、地元の日本人に教えることもあったとのことである。軍服姿の写真が紹介されている【『ドイツ軍兵士と久留米』150頁】。また前掲書205頁掲載の、1919年1月の日付での久留米ホッケーチームの集合写真中にも、左から二人目で写っている。デュッセルドルフ近郊のコルシェンブルク(Korschenberg)出身。(792:久留米)