1)     Vahldick(ファールディック),Otto?-?):所属部隊・階級不明。[青島警察署巡査]。ブラウンシュヴァイクのヴァルベルク(Warberg)出身。(3154:松山板東

2)     Valder(ファルダー),Peter?-?):3海兵大隊7中隊・上等歩兵。[カルロヴィッツ青島支店]。大戦終結後は、青島での就職既定者として日本国内で解放され、青島で貿易会社を興し、カルロヴィッツ社の代理店として営業した。ケルン(Köln)出身。(2120:丸亀板東)

3)     Vassillière(ファシリール),Peter1893-?):第3海兵大隊4中隊・2等歩兵。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。時にその会の議長を務めた。アーヘン(Aachen)出身。(3767:熊本久留米)

4)     Veidt(ファイト),Richard?-?):巡洋艦シャルンホルスト(Scharnhorst)乗員・2等焚火兵。第一次大戦が勃発し、シャルンホルストがドイツ東洋艦隊司令官シュペー中将に率いられて太平洋へと出撃した際、病気で総督府衛戍病院に入院していた。シャルンホルストはイギリスとのフォークランド沖海戦で撃沈された。メーメル地方のシュメッツ(Schmetz)出身。(1798:静岡習志野)

5)     Vennewitz(フェネヴィッツ),Oskar1887-1928):3海兵大隊7中隊・2等歩兵。上海から応召した。板東時代、1919813日に開催された櫛木海岸での水泳大会で、背泳ぎに出場して534秒で第3位になった。デトモルト(Detmold)出身。(2106:丸亀板東)

6)     Verleger(フェアレーガー),Karl?-?):第3海兵大隊工兵中隊・2等工兵。似島時代の19193月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に際して、美術の工芸金工部門で種々の鋳造品を出品した。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ヴェストファーレンのギュータースロー(Gütersloh)出身。(4090:大阪似島)

7)     Vetter(フェッター),Franz?-?):青島時代はテティス街に住んでいた。海軍砲兵中隊・後備1等焚火兵。ベルンブルク(Bernburg)出身。(280:東京習志野)

8)     Vetter(フェッター),Dr.Friedrich1881-1957):3海兵大隊2中隊・陸軍中尉。丸亀時代の1916414日(推定)に、石井彌四郎収容所長を囲んで撮影した記念写真が現存している。ドイツ将校7名と収容所人員の計17名の集合写真である。フェッター中尉は、前列向かって左端である【アダムチェフスキー(Adamczewski)少尉の項、及び〔写真1を参照】。1916104日、ランセル(Lancelle)大尉、ラミーン(Ramin)中尉、シュリーカー(Schliecker)中尉、シェーンベルク(Schönberg)少尉、アダムチェフスキー(Adamczewski)少尉、キュールボルン(Kühlborn)少尉とともに丸亀から大分に移送された。ドイツに帰国後の1920310日、陸軍に移籍し、第二次大戦時での最終階級は少佐だった。ラインプファルツのランダウ(Landau)出身。(2101:丸亀大分習志野)

9)     Vetter(フェッター),Kurt1892-1971):3海兵大隊7中隊・上等歩兵。板東時代、第75室でマインゼン(Meinsen)及びザウアー(Sauer)とともに洗濯屋を営んだ。なお19186252728日の三日間上演された、シェイクスピア作の喜劇『じゃじゃ馬馴らし』にヴィンセンチオ2の役で出演した。また、191961日(日)、12種目から成る体操大会が開催されたが、フェッターは109点を獲得して上級の部の第5位になった【『バラッケ』19196月号より】。エルベ河畔のケーニヒスシュタイン(Königsstein)出身。(2105丸亀板東

10)    Violet(ヴィオレット),Frederic?-?:第3海兵大隊第7中隊・予備副曹長。[ジームセン商会大阪支店]。丸亀俘虜収容所時代、ジームセン商会大阪支店関係者からのヴィオレ宛俘虜郵便が、郵趣家河添潔氏所蔵で数通現存している。1915年1月4日付けのイルゼ・マツノ夫人(Ilse Matsuno)からの葉書は、比較的長文の内容である。板東時代、公会堂での工芸品展に拡大写真を出品した。また、板東ホッケー協会のチームのメンバーだった。ベルリン(Berlin)出身。(2104:丸亀板東)

11)    Vissering(フィッセリング),Carl1888-1960:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[上海・ロイター・ウント・ブルーケルマン商会]。松山時代、公会堂の収容所講習会で中国語の講師を務めた。板東時代、19175月に松山俘虜収容所からの人員を加えて拡大した「エンゲル・オーケストラ」の団員で、第1ヴァイオリンを担当した。また板東では1917716日、「中国の夕べ」で講演をした。また、新板東テニス協会の記録係及び競技係を務めた。解放後の当初は日本に留まったが、やがて中国に赴いた。リューネブルク(Lüneburg)出身。(3151:松山板東)

12)    Vita(ヴィータ),Janos?-1916:巡洋艦皇后エリーザベト乗員・2等水兵。1916525日青野原で死亡し、姫路陸軍墓地に埋葬された。大戦終結後、遺骨の引き取り手がなかったために、名古山霊園内の旧陸軍墓地に、イエロヴィッチ(Anton Jellovcic)およびゴモルカTheofill Gomolka)とともに葬られている。ハンガリーのホルトマロス(Holdmaros)出身。(2442:姫路青野原)

13)    Vockerodt(フォッケロート),Eduard?-1974:第3海兵大隊予備榴弾砲兵隊・予備上等砲兵。[アルンホルト、カルベルク商会天津支店]191887日久留米から板東へ収容所換えになった。1919年、板東収容所内の印刷所から『工場設計』(Fablikanlagen)の本を出した。板東時代の1919417日に開催された21キロの競歩大会(当時33歳)で、2時間2441秒で85人中の第11位になった【『バラッケ』第44月号80頁】。1954116日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。ハンブルク(Hamburg)出身。(3771:熊本久留米板東)

14)    Vogel(フォーゲル),Carl?-?):第3海兵大隊第1中隊・上等歩兵。19186月、「久留米体操クラブ(Turnverein Kurume)」から分派した「久留米体操会(Turnschaft-Kurume)」の会長を務めた。ブラウンシュヴァイク(Braunschweig)出身。(797:久留米)

15)    Vogel(フォーゲル),Gustav1892-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・2等砲兵。[鍛冶職]。ザクセン=マイニンゲンのゾンネベルク(Sonneberg)出身。(4086:大阪似島)

16)    Vogel(フォーゲル),Karl1890-1971):第3海兵大隊第1中隊・上等歩兵。コンスタンツ(Konstanz)出身。(798:久留米)

17)    Vogel(フォーゲル),Karl Arthur1892-1967):海軍東アジア分遣隊第2中隊・2等歩兵。1915925日福岡から青野原へ収容所換えになった。ドレスデン郊外のゼルコヴィッツ(Serkowitz)出身。(1175:福岡青野原)

18)    Vogelfänger(フォーゲルフェンガー),Christian1896-1980:砲艦ヤーグアル乗員・2等水兵。191411月、東京に列車で着いた時に市民、生徒を含む人々から歓迎の挨拶を受けたが、一人の和服を着た若い女性から、「親切にしてくれたあるドイツ人夫妻への感謝に応えて、の紙片が折りたたまれた花籠を受け取った」【The German Prisoners-Of-War in Japan,1914-19208】。浅草の東京俘虜収容所時代、あるドイツ人夫妻から貰った愛犬シュトロルヒ(Strolch)を連れていた。彼は東京俘虜収容所の図面一葉と習志野俘虜収容所の詳細な地図数葉を書き残した。習志野時代は将校用厨房で炊事係を務めた。また、彼の「日記」の表紙には、苗字を漢字に当てはめた「風久留寶賀」とカタカナによる「フウクルフィンガァー」と「フ(ォ)ーゲルフヰンガー」の文字が見られる。大戦終結して豊福丸で帰還し、ヴィルヘルムスハーフェン港に入港する際には安全に入港すべく水先案内をした。愛犬シュトロヒと写した写真【〔写真6〕を参照】など、フォーゲルフェンガーが写った写真は、今日いくつもの資料で多数紹介されている。【『ドイツ兵士の見たNARASHINO41頁等より】。生家はデュッセルドルフ市内で食料品店を営んでいた。フォーゲルフェンガーは二種類の『日記』を遺した。今日、習志野教育委員会に所蔵されている『日記』は、俘虜収容所及び俘虜に関する郵便資料等の収集研究家であるイェキッシュ氏所蔵のコピーになるものである。一つは東京及び習志野の収容所において手書きで記された。青島での戦闘、両収容所での出来事を日誌風に書き記したものである。1916年の大晦日で一応終わっている。もう一つは、帰国後にタイプ打ちで記された、回想録風のものである。記述の期間は先のものと概ね同じであるが、解放の朝から豊福丸での帰国の模様、デュッセルドルフの自宅に帰り着く場面が追加されている。【『ドイツ兵士の見たニッポン』より】。1916411日の日記には、ハーゲン(Hagen)に誕生祝をしてもらったことが記されている。その折に食べたウサギの肉が、愛犬シュトロルヒStrolch)の肉であったかのように(?)フォーゲルフェンガーは日記に記している【『ドイツ兵士の見たニッポン』154頁】。なお、フォーゲルフェンガーの日記には、習志野俘虜収容所の吉岡量平軍医のことが、「今までに出会った一番の好人物」(『ドイツ兵士の見たニッポン』155頁)と記されている。また日記の一部が、ハンス=ヨアヒム・シュミット氏のホームページに掲載されている。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。デュッセルドルフ(Düsseldorf)出身。281:東京習志野)

19)    Vogelstein(フォーゲルシュタイン),Max Vogel von1894-1949):海軍膠州砲兵隊第1中隊・1等砲兵。同名の父(1869-1927)と母マリア(Maria1869-1935)との間に189434日、ヴァイルハイムのミュンヘン通り231番地に生まれた。大戦終結して解放後まもなく、1920年にブラジルへ旅立ち、森林労働者として働きやがて農園主になった。その後ブエノスアイレスに移り、その地でマリア・エレナ(Maria Elena1898-1976)と結婚し、酪農を始めるとともに、やがてアイスクリーム工場を経営した。19491110日、ブエノスアイレスで没した。上部バイエルンのヴァィルハイム(Weilheim)出身。(4085:大阪似島)

20)    Voget(フォーゲット),Franz?-?):海軍東アジア分遣隊第2中隊・上等歩兵。[パン職人]。1916925日福岡から青野原へ収容所換えになった。ヴェストファーレンのオスターフェルト(Osterfeld)出身。(1629:福岡青野原)

21)    Vogt(フォークト),Fritz?-1920):砲艦ヤーグアル乗員・2等信号兵。1920118日、帰還船豊福丸船内で死去【シュミット】。ゾエスト(Soest)出身。(283:東京習志野)

22)    Vogt(フォークト),Dr. Karl1878-1960):海軍東アジア分遣隊第2中隊・予備陸軍少尉。[弁護士・弁理士]。アンハルト公国のザーレ河畔のニーンブルクに生まれた。学校の校長を勤めていた父親の関係でデッサウのギムナジウムに学んだ。父親に勧められてベルリン大学の東洋語研究所で日本語を学び、また法律、音楽史や対位法も学んだ。19032月、東京のドイツ公使館勤務のために来日した。1907年、兵役実習義務を青島及び膠州で果たし、東京のドイツ大使館勤務に戻った。191010月、ドイツ人として最初の弁理士資格を得た。日本の民法、商法を独訳・紹介した本を数冊自費出版した。19141月に発覚した一大疑獄事件であるシーメンス事件の弁護人を務めた。19141010日、フォークト法律特許事務所から俘虜情報局へ、俘虜氏名照会手続きについての問い合わせがあった。117日午後4時からモルトケ兵営で行われた青島開城交渉に、通訳として参加した。また1110日にモルトケ兵営で行われた神尾青島攻囲軍司令官とヴァルデック総督の会見では、通訳の任に当たった。熊本収容所時代の1914121日付け「九州日日」新聞の記事によると、フォークト予備少尉は金には不自由せず、金遣いが荒かったとのことである。日本語に堪能であったので、出入りの塩山呉服店に絹の綿入れ寝巻きと布団を注文し、物産陳列場見学の折には、座布団を買い込んだ【『新聞集成 大正編年史』大正三年度版下、787頁及び788頁より】。久留米収容所の音楽活動においてフォークトは、レーマン(Otto Lehmann)及びヘルトリング(Hertling)と並ぶ存在であった。久留米市民たちの「共鳴音楽会」はフォークトの指導を受けていた。日独戦争前、横浜市山下町75番地で法律特許事務所を開いていた【秘書を務めていたマルガレーテ・ハークマン(Margarethe Hagmann,?-1917)の兄弟グスタフ・ハークマン(Gustav Hagmann)は神戸の商会「Tait & Co.」に勤めていて、日本女性(旧姓雨宮)と結婚し娘が一人いた。大戦勃発により青島へ応召し、第3海兵大隊第7中隊伍長として第2歩兵堡塁で日独戦争を戦ったが、1914115日戦死して、第2歩兵堡塁の後ろに埋葬された】。久留米時代の1915115日、真崎甚三郎所長によるベーゼ(Boese)、フローリアン(Florian)両将校殴打事件が発生した際、日本通であることからスクリバ(Scriba)予備少尉とともに真崎所長とアンデルス(Anders)少佐の会談に列席し、事件打開に骨を折った。フォークトは真崎と幾度も面談協議し、また俘虜将校達に対しても日本の習慣等について説明した。191612月から収容所内の「交響楽団」の指揮を執り、更にヘルトリング(Hertling)やツァイス(Zeiss)とともに収容所の音楽教育にも携わった。191734日、収容所のオーケストラ・コンサート「ベートーヴェンの夕べ」では、「交響曲第5番〈運命〉」の指揮をした。また191879日には、ベートーヴェンの「第九」を第3楽章までではあるが演奏指揮した。【インターネットによる「『第九』事始め(中)」より】「カール・フォークトの四つの歌」(1919年)を作曲し、演奏指導等も行い、また自身が作曲した歌曲を歌うなど、久留米の音楽活動ではレーマンとともに大活躍した。解放後の1920325日、南海丸でドイツに帰国し、527日に故国に着いた。192068日ドーラ=マリア(Dora-Maria Ostwald,1874-1941)と結婚した。19212月から再び東京及び横浜で弁護士・弁理士活動をした。また東京のドイツ大使館の法律顧問をするなど、法律家として日本におけるドイツ人の権利擁護、またドイツにおける日本の権利仲介にも重要な役割を果たした。『ある日本在住ドイツ人の人生記録から』(Aus der Lebenschronik eines Japandeutschen ,Tokyo,1962)の著書もある。後半生は、神奈川県二宮町の二宮駅前の相模湾を見下ろす4000坪の敷地に、中国的で日本風の寺のような邸宅に住んだ。昭和35年(1960年)514日、83歳で没した。ザーレ河畔のニーンブルク(Nienburg)出身。3772:熊本久留米)

23)    Vogt(フォークト),Wilhelm1892-1939):海軍膠州砲兵隊・2等砲兵。[板金工]。1912102日海軍に入った。191316日蒸気船「王妃ルイーゼ号」で青島に赴いた。解放されて帰国後の1923215日マリーア(Marias Trippel,1902-1989)と結婚し子ども三人をもうけた。郷里の精錬工場で働いたが工場での事故で死亡した。ヒュステン(Hüsten)出身。(1626:姫路→青野原)

24)    Voigt(フォイクト),Oskar Hermann Paul1894-1969):海軍東アジア分遣隊第2中隊・2等歩兵。1916925日青野原へ収容所換えになった。19181213日から20日まで開催された青野原俘虜製作品展覧会で、フォイクトは木工部門で竹製のビールジョッキ17点を出品した【『AONOGAHARA捕虜の世界』81頁】。テューリンゲンのアルンシュタット(Arnstadt)出身。(1630:福岡青野原)

25)    Voigtländer(フォイクトレンダー),Hermann?-?:第3海兵大隊参謀本部・予備少尉。〔連絡将校〕。「名古屋俘虜製作品展覧会」のカタログによれば、フォイクトレンダーは19187月に設立された名古屋俘虜収容所劇団の指導者であった。フォイクトレンダーは、ケーニヒ(Leopold König)が作成した名古屋収容所での活発な所外労働についての詳細なレポートを受け取り、そのレポートを東京の牧師の元に送った。そのレポートは更にドイツのフォイクトレンダーの家族の元に届けられた【ケーニヒ・レポートについては、校條「名古屋俘虜収容所 覚書V」所載:『「青島戦ドイツ兵俘虜収容所」研究』第6号に詳しく報告されている】。ラインラントのバート=ミュンスター(Bad-Münster)出身。(2744:名古屋)

26)    Volland(フォラント),Franz?-1922):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。解放後は蘭領印度に渡り、ジャワ島中部のスマラン(Semarang)に住み、19221017日その地で没した。ヴェストファーレンのギュータースロー(Gütersloh)出身。(2103:丸亀板東)

27)    Vollerthun(フォラートゥン),Waldemar1869-1929):総督府参謀本部・海軍大佐。〔情報部長〕。[海軍省膠州課長]。1908526日に進水式を行った小型巡洋艦「エムデン」が、191041日にドイツ帝国海軍の艦船となった時の初代艦長を務めた。191215日に後任艦長と交代した。19147月、ドイツ本国から膠州湾租借地視察のために出張で青島に来た。暫く滞在して帰国の途に就いたところで大戦が勃発し、本省の命を受けて青島に引き返した。83日青島に戻り、総督府情報部長に就任した。84日、イギリスが参戦後ただちに上海、芝罘等でドイツの電信網の切断を開始すると、フォラートゥンは中国当局と接触して、通信網確保に奔走した。伝書鳩の利用も指示した。814日、日本の参戦がありうるか探るべく総督の命令を受けて、東京に情報収集に出かける直前、済南まで赴いたところで総督から日本の参戦間じかとの電報を受けた。済南で待機するか青島に戻るか判断中の16日、日本の最後通牒が発せられたことを知って青島に戻った。俘虜として収容中に少将に昇進し、また後に海軍次官になった。1918322日福岡から習志野へ収容所換えになった。著書に『青島攻防戦』(《Der Kampf um Tsingtau,Leipzig,1920.)がある。上記の書は習志野収容所で執筆されたものと思われる。序文には「1919101日習志野にて」と記されている。『青島戰史』もこの書物に多くを依拠している。また、プリュショー(Plüschow)中尉に関する記述には多くの頁を割いている。「プリュショー中尉はその有名な書物(私は未見だが)でその辺を既に語っていて、周知のことを繰り返すことになるが、読者に再度紹介せねばならない」【『青島攻防戦』75頁】との記述も見られる。大戦終結後の19191228日、フォラートゥン少将(収容中に昇進)を輸送指揮官とする帰還船「喜福丸」は、習志野557名、似島64名、久留米98名、青野原222名の計941名が乗船して神戸第4埠頭から出発し、翌年12日青島に立ち寄って、荷物及びドイツ市民と官吏を収容して、192038日、ヴィルヘルムスハーフェン港に到着した。西プロイセンのエルビング郡フュルステンアウ(Fürstenau)出身。1619:福岡習志野)

28)    Vollmann(フォルマン),Robert1891-?):海軍膠州砲兵隊・2等砲兵。[製靴職人]。日雇い煉瓦工を父に9人兄弟で生まれた。19161020日福岡から青野原へ収容所換えになった。解放後は蘭領印度に渡った。ヴュルテンベルクのクライルスハイム(Crailsheim)出身。(1627:福岡青野原)

29)    Vollweiler(フォルヴァイラー),Adolf1885-?):3海兵大隊第4中隊・予備伍長。久留米時代の19186月スイス公使から情報局へ、シベリア・ハバロフスクのスイス赤十字社の依頼によるフォルヴァイラー宛葉書1葉交付依頼があり、検閲の上13日に転送された。バーデンのベルヴァンゲン(Berwangen)出身。(3765:熊本久留米)

30)    Vorläuferフォアロイファー,Friedrich1867-?):2船渠師団・海軍大主計大尉相当188741日海軍入り、1898427日海軍少主計、1901420日海軍中主計、1906年第3海兵大隊移籍、1908627日海軍大主計、1909年海軍膠州砲兵隊付、 1914年膠州総督府経理首座。青島時代はフリードリヒ街に住んだ。ヴィルヘルムスハーフェン(Wilhelmshaven)出身。(3778:熊本久留米)

31)    Voskamp(フォスカンプ),Joachim1889-1960:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[ドイツ銀行]。青島ベルリン福音教会の教区監督フォスカンプ(C.J.Voskampの長男。1907年ベルリンでアビトゥーア試験合格後、アメリカ経由で中国に向った。弟の1年志願兵ゲルハルトは1914114日、徳華高等学堂付近で背中に砲弾を受けて死亡、青島欧人墓地内のドイツ人戦没者墓地に埋葬された。久留米時代は演劇活動で、ケルナー作の悲劇『トーニー』等3演目に出演した。解放後は青島に戻り、ドイツ・アジア銀行に勤めた。マルガリータ(Margarita Bürgin)と結婚して三人の子どもをもうけた。1929年上海、1933年漢口、1934年北京と移り、1939年に北京支店長になった。1945年までに再び青島に戻り、19466月ドイツへ強制帰国させられた。帰国後はブレーメン州立銀行に勤め、ブレーメンで没した。出身地不明(『俘虜名簿』では広東)。3768:熊本久留米)

32)    Voss(フォス),Fritz?-?:海軍膠州砲兵隊第4中隊・1等砲兵。19161018日福岡から大分へ収容所換えになった。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ザクセンのクヴェードリンブルク(Quedlinburg)出身。(1622:福岡大分習志野)

33)    Vosteen(フォステーン),Johann1884-1957):海軍砲兵中隊・1等機関兵曹。熊本時代、許可なく市街に外出して、酒楼に登った科で重営倉10日の処罰を受けた。191885日久留米から名古屋へ収容所換えになった。ヴィルヘルムスハーフェン(Wilhelmshaven)出身。(3774:熊本久留米名古屋)