1) Wachsmann(ヴァックスマン),Hermann(1894-1985):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。帰還船ヒマラヤ丸でドイツに帰国した。ハノーファーのディーフォルツ(Diepholz)出身。(814:久留米)
2) Wachter(ヴァハター),Simon(?-?):第3海兵大隊機関銃隊・2等兵。熊本時代、1915年1月20日から5月27日まで、靴工として従事した。ヘッセンのナッケンハイム(Nackenheim)出身。(3803:熊本→久留米)
3) Wacker(ヴァッカー),Adolf(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[香港・ベーデカー商会(Baedecker & Co.)]。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ハンブルク(Hamburg)出身。(3168:松山→板東)
4) Wacker(ヴァッカー),Carl(?-?):海軍東アジア分遣隊第3中隊・予備上等歩兵。大戦終結後は、特別事情を有することから日本国内での居住を希望した。大戦終結して解放後の1920年、汕頭のレスラー(Roessler)商会に勤めた。テューリンゲンのルードルシュタット(Rudolstadt)出身。(4460:「熊本→」大分→習志野)
5) Wagemann(ヴァーゲマン),Franz(?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・1等砲兵。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に際して、技術部門に、ヘントリヒ(Hendrich)及びゼーボルト(Seebold)と共同で、縮尺20分の1の家の模型を出品した。ザクセンのガルストウルフ(Garsturf)出身。(4097:大阪→似島)
6) Wagner(ヴァーグナー),Friedrich(?-?):砲艦ヤーグアル乗員・2等焚火兵。「フォーゲルフェンガーの日記」の1916年12月31日の記述には、ヴァーグナーが将校用浴場の清掃係りを務めていたことが記されている【「チンタオ・ドイツ兵俘虜研究会」ホームページの「論文・記事等」中の、「資料」に掲載されている「フォーゲルフェンガー日記」(ファン・デア・ラーン/小阪清行共訳)より】。ザールブリュッケン近郊のエルファースベルク(Elversberg)出身。(307:東京→習志野)
7) Wagner(ワーグナー),Georg Walter(1881-?):第3海兵大隊第2中隊・伍長。1914年9月28日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米俘虜収容所に送られた【『欧受大日記』大正三年十一月上より】。俘虜の第一陣として久留米に到着し、下士卒用の収容先である、久留米市日吉町の大谷派久留米教務所に収容された。4班に分けられた内の第2班の班長を務めた。ハノーファー(Hannover)出身。(816:久留米)
8) Wagner(ヴァーグナー),Hans(1889-1970):第3海兵大隊第2中隊・予備副曹長。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ザーレ河畔のゲシュヴィッツ(Göschwitz)出身。(1802:静岡→習志野)
9) Wagner(ヴァーグナー),Hermann(1892-1970):海軍膠州砲兵隊第2中隊・1等砲兵。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に際して、美術の工芸金工部門で火鉢の模型2点を出品した。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ヴェストファーレンのニーダーディールフェン(Niederdielfen)出身。(4096:大阪→似島)
10) Wagner(ヴァーグナー),Jacob(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[メルヒャース商会漢口支店]。板東時代、板東義勇消防隊の第2小隊長を務めた。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ブレーメン(Bremen)出身。(3166:松山→板東)
11) Wagner(ヴァーグナー),Dr.Wilhelm(?-?):国民軍・階級不明。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会学校部門では、農業の授業用の図版20枚と講義ノートを、また化学教授のカイパー(Keiper)と共同で授業用の化学実験装置、分析器、講義ノートを出品した。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ヴィースバーデン(Wiesbaden)出身。(4615:大阪→似島)
12) Waldecker(ヴァルデッカー),Emil(?-?):海軍膠州砲兵隊第1中隊・砲兵伍長。大戦終結して解放後の1920年、蘭領印度に渡ってセマラング(Semarang)の郵便局に勤めた。マンハイム(Mannheim)出身。(4091:大阪→似島)
13) Wälder(ヴェルダー),Alfons(?-?):海軍東アジア分遣隊第1中隊・2等歩兵。元音楽指揮者。習志野時代、60人編成の習志野男声合唱団の指揮者を務めた。1915年5月24日、主宰する合唱協会の「歌曲の夕べ」で指揮を執り、同年12月25日の習志野収容所でのクリスマスコンサートでは、P.ローデの作品10「エア・ヴァリエ」及びヘンデルの「ブーレ」をテーン(Theen)伍長のヴァイオリンに合わせてピアノ演奏するなどの活躍をした。1919年10月15日、「アルフォンス・ヴェルダー氏のための謝恩コンサート」が収容所で開催され、最初の演奏曲目は自ら作曲した「俘虜の歌」であった。シュトゥットガルト(Stuttgart)出身。(288:東京→習志野)
14) Wallbott(ヴァルボット),Carl(?-?):海軍野戦砲兵隊・上等砲兵。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ヘッセンのゲーゼン近郊シュタインベルク(Steinberg)出身。(4458:「熊本→」大分→習志野)
15) Wallner(ヴァルナー),Josef(?-?):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。大戦終結して解放後の1920年、蘭領印度に渡ってジャワ島西部バタヴィアのイェンネ(Jenne)商会に勤めたが、1922年5月以前にはドイツに帰国した。ミュンヘン(München)出身。(3155:松山→板東)
16) Walter(ヴァルター),Karl Arthur(1893-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等砲兵。大戦終結して解放後の1920年、蘭領印度に渡って地方警察の主任看守として勤務した。ザクセンのザイフヘンナースドルフ(Seifhennersdorf)出身。(4318:「大阪→」徳島→板東)
17) Walter(ヴァルター),Berthold(?-?):第3海兵大隊第3中隊・2等歩兵。1915年7月11日福岡から久留米へ収容所換えになった。1916年9月29日、久留米俘虜収容所より情報局へ、ヴァルター他1名の処罰について通報があった。ブレスラウ(Breslau)出身。(1687:福岡→久留米)
18) Walter(ヴァルター),Heinrich(?-?):海軍野戦砲兵隊・2等砲兵。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。シュピールベルク(Spielberg)出身。(2760:名古屋)
19) Walter(ヴァルター),Heinrich(?-?):第3海兵大隊第6中隊・予備伍長。〔湛山堡塁〕。姫路から応召した。1919年7月、一足先に解放されてフランスに向かった。エルザスのミュールハウゼン(Mülhausen)出身。(3165:松山→板東「→習志野」)
20) Walter(ヴァルター),Hugo(1868-?):国民軍・中尉補。〔第1国民軍小隊長〕。妻の名はヴィルヘルミーネ(Wilhelmine)で、1900年頃から青島に住んでいた。1901年6月10日兵営並びに衛戍病院監督官、1909年8月21日衛戍司令部監督官、1910年11月4日同主任監督官となった。フーゴー(Hugo,1899-?;下記参照)、ヘルマン(Hermann,1900-?)、ジークフリート(Siegfried,?-?)、マルタ(Martha,1897-?)、テレーゼ(Therese,?-?)の五人の子どもがいた。大戦終結後は、青島居住を希望した。なお、娘のマルタは1920年3月29日、カップラー(Karl Kappler)との婚姻届を日本の役所に提出して青島で結婚した。ヴィルヘルムスハーフェン(Wilhelmshaven)出身。(4462:「熊本→」大分→習志野)
21) Walter(ヴァルター),Hugo(1899-?):国民軍・卒。1914年8月3日の総督府による動員令発布時点では、兵役を課せられない17歳未満であった。いったんは俘虜を免れたが、軍服を着た記念写真が発見され、尋問の結果俘虜と宣告された。母親と姉妹弟合わせて5人がいて扶養の要ありとみなされ、一時自宅居住を許された。1915年9月下旬に青島収容所に収容され、1916年1月31日に青島から移送され2月4日に大阪収容所に着いた(当時満16歳の最年少俘虜)【『戦役俘虜ニ関スル書類』より】。大戦終結後は、特別事情を有することから青島居住を希望した【『俘虜ニ関スル書類』より】。上記同姓同名のヴァルター(Walter)の息子。なお、姉のマルタ(Martha)はカップラー(Karl Kappler)と青島で結婚した。ククスハーフェン(Kuxhaven)出身。(4709:青島→大阪→似島)
22) Walter(ヴァルター),Michael(1892-?):海軍東アジア分遣隊第1中隊・上等歩兵。1912年、ヴィルヘルムスハーフェンの第3海兵大隊第1中隊に入隊し、1913年に天津の海軍東アジア分遣隊に派遣された。解放されてドイツに帰国後の1920年6月1日郷里エカルツヴァイアーの町有林の森林監督官になった。ケール(Kehl)近郊のエカルツヴァイアー(Eckartsweier)出身。(287:東京→習志野)
23)
Walther(ヴァルター),Paul(?-?):第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。[ジームセン青島支店]。大戦前から麦藁帽子の材料である麦稈真田の買い付けのために、青島から丸亀に再三出張で来たことがあった。麦わらの漂白、圧搾、軟靱等の諸工程から帽子の完成に至る技術に習熟していたことから、丸亀市の勧業課と提携して工場建設の話しがもちあがった【『大阪朝日新聞 四国版』大正5年8月13日付け】。丸亀時代の1915年2月5日、多度津町の商人大島吉平と斉藤佳都の二名が面会に訪れ、日本語で会話を交わし10円を寄贈した【『丸亀俘虜収容所日誌』より】。大戦終結して解放後の1920年、蘭領印度に渡ったが、1922年5月以前にドイツに帰国した。ドレスデンのドーナ(Dohna)出身。(2129:丸亀→板東)
24) Waluschewski(ヴァルシェフスキー),Theophil(?-?):海軍砲兵中隊・2等焚火兵。ポーランド人。18歳でアルゼンチンに渡り、アメリカ、オーストラリア等を放浪する。軍艦エムデンに乗船3ヶ月後に青島守備軍に配属された。1916年10月9日、ヘルトレ(Haertle)とともに久留米から丸亀に移送された。板東時代は、コッホ(Lambert Koch)、ヘルトレ(Haertle)、トロイケ(Treuke)、ツィンマーマン(Max Zimmermann)等の反ドイツ感情の強いポーランド人、ロシア系ユダヤ人と一緒に分置所に隔離収容された。板東時代の1918年10月19日、分置所内の争いからヘルトレに対してコッホとともに飲酒の上暴行して、障子を破損し営倉20日の処罰を受けた。板東では同じポーランド人のヘルトレと絶えず行動をともにして、「腰巾着」の渾名が付いた【林 啓介:『「第九」の里ドイツ村』133頁】。ヴァイクセル河畔のクルム(Kulm)出身。(3811:熊本→久留米→丸亀→板東)
25) Walzer(ヴァルツァー),Viktor(1872-1956):所属部隊不明・後備伍長。[為替仲介業]。メッテンドルフに生まれ、トリーアのギムナジュウムで勉強した。ドレスデンで兵役義務を果たし、1894年ラインラントの小さな村メルケン(Merken)の煙草工場で商業教育を受けた。その後1897年春、ロンドン、アルジェ、上海、香港を経て天津に赴いた。1910年頃、天津で長崎出身の日本女性ウメさんと出会い、長女時子をもうけた思われる。やがて青島に赴き、そこで次女照子が生まれたと推測される【以上までの経歴は、後述するゲルトルートの従兄弟ヘリベルト・アムブロス(Heribert Ambros)氏から篠田和絵氏に寄せられた手紙による】。青島では市内中心のフリードリヒ街に住み、為替仲介の仕事に就いた。しかし第一次大戦が勃発して、日独の戦争も始まると一家は離れ離れに引き裂かれた。1918年11月9日付けで、東京のスイス公使館からスイスの内田公使に宛てた文書が遺されている。それによると、ロシアのイルクーツクにいる甥フェーリクス・ヘス(Felix Hess)が病気になり、窮地に落ちいていることからヴァルツァーは30円の送金願いを申請した。似島俘虜収容所から解放されたヴァルツァーは、なぜか長崎に住むウメとの接触をしないままドイツ本国に帰国した。帰国後は、リムブルク(Limburg)の姪夫婦の近くに住んだ。姪夫婦の間に生まれた娘ゲルトルート(Gertrud Wetzel;1928-)からは“おじいさん”と呼ばれるようになった。1938年、ヴァルツァーと姪夫婦一家はグラーツに引っ越したが、1945年グラーツから追放されると、ヴァルツァーは郷里のメッテンドルフ(Mettendorf)に戻った。1956年頃、メッテンドルフ近郊の村ヴァックスヴァイラー(Waxweiler)で没したが、メッテンドルフのヴァルツァー家の墓地に埋葬された。ヴァルツァーの遺品中には、大阪収容所時代のアルバムがあり、それには本人の写真二枚があることが判明している【〔写真18〕参照】。【ヴァルツァーの生涯の一端が判明したきっかけは、平成12年1月に習志野市教育委員会によって開催された「特別史料展 ドイツ兵士の見たNARASHINO」であった。史料展を訪れた三井悠二氏は、ウメさんが後に再婚した人との間に生れた方だった。やがて三井氏は母親ウメさんの先夫が俘虜であったことを思いだし、異父姉の時子さんから「ワルチェル」という名前、及び広島の近くの収容所にいたという話を聞き及んだ。その話をきいた星昌幸氏(習志野市教育委員会)によって上記二点を手がかりに、ヴァルツァーであることが突き止められた。照子さんの娘、すなわちヴァルツァーの孫娘に当たる篠田和絵さんの手元には、大阪収容所から差し出された手紙が遺品として遺されていた。また天津の「シュトラオホ商会(Strauch & Co.Ltd.)」からウメさんに宛てた、ヴァルツァーが似島収容所に収容されていることを伝える手紙も遺されている。やがて篠田和絵さん自身のルーツへの強い思いが前記のヴァルツァーの経歴・足跡の判明に至った。判明に至るその過程には、篠田和絵さんの友人石井晴美氏や、星昌幸氏及びドイツの俘虜研究者ハンス=ヨアヒム・シュミット氏の支援と熱意があった。特にシュミット氏の探索によって上記ドイツの縁者が判明した。大戦終結して解放後、ヴァルツァーは何故か単身ドイツに帰国し、二人の子供をもうけたウメとはその後関わりを持たなくなったと思われる。しかしドイツに戻ったヴァルツァーは結婚することなく、子供をもうけることもなかった。参照:星昌幸「ワルチェルさんのこと」(所載:『青島戦ドイツ兵俘虜収容所研究』第1号、及び篠田和絵「メッテンドルフに眠る祖父ヴィクトール・ヴァルツァーへ」所載:『青島戦ドイツ兵俘虜収容所研究』第2号】。ラインラントのメッテンドルフ(Mettendorf)出身。(4618:大阪→似島)
26) Wannags(ヴァナクス),Martin(1885-?):第3海兵大隊第7中隊・上等歩兵。〔第2歩兵堡塁〕。[宣教師]。リトアニアの出身で、元胸甲騎兵であった。広東のベルリン福音教会から、シュヴァルム(Schwarm)とともに青島守備軍に馳せ参じた。丸亀時代の1915年11月7日、准士官以下に対して宗教講和を行った【『丸亀俘虜収容所日誌』より】。板東時代の1918年3月21日と28日の「中国の夕べ」で、「広東地方の住民」と題して講演した。また1918年12月2日、スペイン風邪で死亡した戦友ゼーガー(Seeger)の葬儀で、感動的で心にしみわたる追悼の言葉を述べた【『バラッケ』第3巻145-147頁】。東プロイセンのグルムベルン(Grumbern)出身。(2122:丸亀→板東)
27) Wannrich(ヴァンリヒ),Paul(?-?):海軍野戦砲兵隊・2等砲兵。1918年8月7日久留米から板東へ収容所換えになった。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ブランデンブルクのアンガーミュンデ(Angermünde)出身。(3798:熊本→久留米→板東)
28) Waschkewitz(ヴァシュケヴィッツ),Wilhelm(?-?):海軍東アジア分遣隊第3中隊・2等歩兵。1915年7月11日福岡から久留米へ収容所換えになった。久留米時代は演劇活動で、笑劇『ベルリンっ子』に出演した。大戦終結して解放後の1920年、蘭領印度に渡ってマカッサール(Makassar)の警察所の主任看守として勤務した。ライン河畔のメルス(Mörs)出身。(1682:福岡→久留米)
29) Wasmeier(ヴァスマイアー),Robert(?-?):第3海兵大隊第3中隊・上等歩兵。久留米の演劇活動で、シェーンヘル作の悲劇『信仰と故郷』に出演した。宣誓解放された。トリフテルン(Trifftern)出身。(818:久留米)
30) Wassermann(ヴァッサーマン),Albert(?-?):第3海兵大隊第7中隊・副曹長。北京から応召した。1915年8月12日、ドレークカンプ(Drögkamp)伍長とともに麺麭製造見学のため、収容所納入業者の丸亀市大西商会に赴いた【『丸亀俘虜収容所日誌』より】。テューリンゲンのエステンツェル(Estenzell)出身。(2116:丸亀→板東)
31) Wassermann(ヴァッサーマン),Georg Wilhelm Carl(1879-?):国民軍・副曹長。大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として日本国内で解放された。シュミット氏のホームページの「ゲストブック」には、2005年3月20日付けでPákozdi氏が以下の書き込みをしている。「私の義母イルゼ・コッホ(Ilse Kosch、旧姓Wassermann)は、1915年2月4日に青島のファーバー病院で出生。義母の父親は青島のドイツ館のオーナーだったのでしょうか? Georg Wassermannは1880年生れですか?情報お願いします」。これに対しては5月23日付けで、マツァトゥ(Matzat)教授が「ゲストブック」に大要以下の文章を寄せている。「Pákozdi氏に次の情報をお伝えします。1910年から1913年の青島住所録に名前が記載されています。1911年では、ヴァッサーマンはティルピッツ街のプショル醸造レストランの業務主任、1912年にそのレストランのオーナーになり、ヘレーネ(Helene)と結婚し、娘エディト(Edith)が1913年に生れたものと思われます。1913年に彼はレストランを売却して、フリードリヒ街の「チンタオ・クラブ」の支配人になりました。この建物は現存します。戦争中、妻と二人の娘は1920年初頭まで青島に留まりました」。ベルリン(Berlin)出身。(4614:大阪→似島)
32) Waetcke(ヴェトケ),Wilken(?-?):海軍東アジア分遣隊第2中隊・予備上等兵。上海から応召した。1915年9月20日福岡から名古屋へ収容所換えになった。大戦終結後は、特別事情を有す日本内地居住希望者として、日本国内で解放され、カルロヴィッツ神戸支店に勤めた。エルベ河畔のアルトナ(Altona)出身。(1674:福岡→名古屋)
33) Weber(ヴェーバー),Adolf(?-?):第3海兵大隊・後備曹長。大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として日本国内で解放された。ベルリンのシュパンダウ(Spandau)出身。(4657:大阪→似島)
34) Weber(ヴェーバー), Alwin(?-?):海軍野戦砲兵隊・2等砲兵。1917年3月2日、岡本自転車製作所にガス(Gass)及びハンマー(Hammer)とともに火力・燃料の労役に就いた【校條「名古屋俘虜収容所 覚書V」所載:『「青島戦ドイツ兵俘虜収容所」研究』第6号、21頁】。キルヒシュタイツ(Kirchsteitz)出身。(2762:名古屋)
35) Weber(ヴェーバー),Ehrenfried(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等砲兵。久留米時代の1917年10月18日に開催された三種競技(高飛び踏み切り台なし、砲丸投げ、100m競争)で、ベンツ(Benz)とともに17点を獲得して第1位になった。なお、10月21日の100m競争でも11.4秒で第1位になった。また、1919年10月の第2回スポーツ週間開催に当たって、ヴェーバーは陸上競技の試合規則制定や、審判を選ぶための技術委員会の一員にマーニッツ(Manitz)、オルトレップ(Hermann Ortlepp)、ペッヒ(Pech)、プロイ(Preu)、ブロック(Block)とともに選ばれた。バーデンのクラインアイヒョルツ(Kleineincholzheim)出身。(3817:熊本→久留米)
36) Weber(ヴェーバー),Friedrich(1893-1926):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等砲兵。[指物師]。1915年7月11日福岡から久留米へ収容所換えになった。解放されてドイツに帰国後は指物師として働き、1925年8月28日ヴィルヘルミーネ(Wilhelmine Homrich)と結婚して息子一人をもうけた。クレーデンバッハ(Kredenbach)出身。(1648:福岡→久留米)
37) Weber(ヴェーバー),Friedrich(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等砲兵。徳島時代の1915年4月20日、チェス選手権試合が開催された。それに出場したヴェーバーは4組(出場者総数21名)の内の第1組に割り振られ、3位で本戦のA級に進出した。大戦終結して解放後の1920年、蘭領印度に渡り、セレベス島南部マッカサー(Makassar)のオランダ・セメントに勤めた。バーデンのリンクス(Linx)出身。(4319:「大阪→」徳島→板東)
38) Weber(ヴェーバー),Josef(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等砲兵。徳島時代の1915年4月20日、開催されたチェス選手権試合において、4組(出場者総数21名)の内の第1組に出場し、2位で本戦A級に進出した。板東時代、タパタオの5号小屋でシャラー(Schaller)と家具の仕事を営んだ。また板東時代、大阪市難波の野村彦太郎(洋食製品業)から、ウイスキー、ブランデーの製法指導を要請された。1960年ごろ、「チンタオ戦友会」に出席した。南ヴェストファーレンのレックリングスハウゼン(Recklingshausen)出身。(4321:「大阪→」徳島→板東)
39) Weber(ヴェーバー),Karl(?-?):第3海兵大隊第3中隊・上等歩兵。久留米の演劇活動では、シェーンヘル作の悲劇『信仰と故郷』に女役で出演した。宣誓解放された。バイエルンのアンシュパッハ(Anspach)出身。(820:久留米)
40) Weber(ヴェーバー),Kurt(1892-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・1等砲兵。1915年9月25日福岡から青野原へ収容所換えになった。イルメナウ(Ilmenau)出身。(1649:福岡→青野原)
41) Weber(ヴェーバー),Otto(?-?):第3海兵大隊第3中隊・2等歩兵。1914年9月28日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米俘虜収容所に送られた【『欧受大日記』大正三年十一月上より】。ドレスデン(Dresden)出身。(823:久留米)
42) Weber(ヴェーバー),Willy(?-?):第3海兵大隊第6中隊・予備伍長。[漢口・中国ジャワ輸出商会(China Java Export Co.)]。板東時代、1917年5月に松山収容所からの人員を加えて拡大した「エンゲル・オーケストラ」の応援で、ピアノを担当した。デュッセルドルフ(Düsseldorf)出身。(3163:松山→板東)
43) Weckmann(ヴェックマン),Georg(1868-?):第3海兵大隊第1中隊長・陸軍歩兵大尉。〔第1歩兵堡塁(湛山堡塁)指揮官〕。1918年8月6日久留米から習志野へ収容所換えになった。ミュンヘン(München)出身。(803:久留米→習志野)
44) Wedekind(ヴェーデキント),Heinrich(1889-1971):海軍砲兵中隊・2等機関兵曹。〔ビスマルク砲台〕。工業学校を出てドイツ海軍の機械整備係りとして軍艦に乗り込んだ。第一次大戦前に日本に来たことがあった。久留米時代は収容所で数学の学習をした。その折りのドイツ語の教科書が残されている。また演劇活動では、シェーンタン作の笑劇『無分別』に出演した。大戦終結後は久留米の「つちやたび合名会社」(後に日華ゴム株式会社となり、1962年には月星ゴム株式会社となる)に入社し、50年余勤務してゴム産業の発展に貢献した。後年社内では、上田金蔵の日本人名を用いた【『月星ゴム90年史』等より】。1963年5月31日付け朝日新聞の西日本版で、東宝映画「青島要塞爆撃命令」(監督・古沢憲吾、特技監督円谷英二、出演:加山雄三、佐藤允、夏木陽介、池部良、浜美枝等)に関して、「東宝映画「青島要塞爆撃命令」を見て」の記事が掲載されたが、その記事の中にヴェーデキントの感想が談話の形で紹介されている。ハノーファー(Hannover)出身。(3807:熊本→久留米)
45) Wedel(ヴェーデル),Hasso von(1868-1933):第3海兵大隊第3中隊長・陸軍少佐。〔第5歩兵堡塁指揮官〕。前記指揮官は後にゾーダン(Sodan)大尉に替わった。弁護士・公証人の父グスターフ・フォン・ヴェーデルと母マティルデ(旧姓フライイン・フォン・ヴァンゲンハイム)との間に生れた。1888年9月陸軍に入り、1890年1月歩兵少尉、1898年中尉に昇進した。1900年10月ヴィルヘルミーナ・フォン・アルニム(Wilhelmina von Arnim;1880-1969)と結婚、1901年7月一人娘カローラ(Karola)をもうけた。1905年5月大尉に昇進し、海軍歩兵部隊に移った。1914年5月少佐に昇進し、同年8月第3海兵大隊第3中隊長兼第5歩兵堡塁の司令官になった。青島時代はアーダルベルト皇子街(Prinz-Adalbert-Straße)に住んでいた。大分時代は収容所の俘虜代表を務めた。1918年5月大分から習志野へ移された。習志野時代の1919年3月9日、「ハンス・ミリエス・コンサート」ではサラサーテの「チゴイネルワイゼン」及びシューマンの「トロイメライ」をピアノ演奏し、また同年7月3日の文化・体育祭では第1部の収容所楽団の指揮をした。さらに同年10月5日、マルフケ(Marufke)のために開催された「謝恩の夕べ」では、終了の音楽としてヴェーデル作曲の「大分行進曲」がヴォストマン(Wostmann)指揮の収容所楽団によって演奏された。大戦終結して解放後は、シベリア鉄道の陸路で帰還したとも思われる【参照:Rüfer/Rungas、111頁】。ヴィルヘルムスハーフェン(Wilhelmshaven)出身。(4451:「熊本→」大分→習志野)
46) Wedel(ヴェーデル),Jonny(?-?):砲艦ヤーグアル乗員・2等水兵。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ハルブルク近郊のアルテンウェルダー(Altenwerder)出身。(304:東京→習志野)
47) Wedemeyer(ヴェーデマイアー),Max(?-?):海軍東アジア分遣隊第1中隊・予備伍長。習志野時代の1919年1月8日、9日、収容所で演じられたハウスライターとライマン作の3幕の茶番劇『電話の秘密』にオルガン奏者役で出演した。ブレーメン(Bremen)出身。(286:東京→習志野)
48) Weegmann(ヴェークマン),Dr. Oskar Carl von(1879-1960):海軍砲兵中隊・予備海軍中尉。1879年1月15日ケルンに生まれた。ミュンヘン大学とハイデルベルク大学で美術文化史を学ぶ。1914年日本美術研究のため3ヶ月日本に滞在したところで第1次大戦が勃発した。森鴎外と面識があった。習志野収容所では旧知のフリッツ・ルンプ(Fritz Rumpf)及びスクリバ(Scriba)と一緒になった。1919年(大正8年)5月19日付けの東京朝日新聞第五面には、壁に掛かった浮世絵の前で三人がヴェークマンが拡げる画集とおぼしき本を眺める写真が掲載された【〔写真3〕を参照】。大戦終結後、松山高等学校でドイツ語を教え、この地の女性と結婚した。東京に戻ってからは陸軍大学校、陸軍士官学校のドイツ語教官となり、東京のOAG(ドイツ東洋文化協会)の理事も務めた。その後日本医科大学、成蹊大学等の教壇に立った。『おあん物語』、『お菊物語』をドイツ語に翻訳し、また『日本の歴史』、『日本の教育』等の著書も遺した。1959年勳4等旭日章を受賞。1960年5月9日、OAG(ドイツ東洋文化研究協会)事務所のデスクに向かったままで死去し、多磨霊園に埋葬された。ポツダム市の参事官を勤めていた兄がルンプ家の近くに住んでいたことから、フリッツ・ルンプとは旧知の間柄であった。ミュンヘン(München)出身。(299:東京→習志野)
49) Wefers(ヴェーフェルス),Conrad(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・予備2等砲兵。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。エッセン(Essen)出身。(4461:「熊本→」大分→習志野)
50) Wegener(ヴェーゲナー),Georg(?-?):総督府参謀本部。[海軍法務官・総督府法務長]。青島時代はハインリヒ皇子街(Prinz-Heinrich-Straße)に住んでいた。福岡時代、5名の逃亡事件で調べられるが、無罪判決を受けた。1918年3月22日福岡から習志野へ収容所換えになった。妻ルツィエ(Lucie)は大戦終結まで、子ども三人と上海で暮らした。カッセル(Kassel)出身。(1636:福岡→習志野)
51) Wegener(ヴェーゲナー),Hermann(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[ロイター・ブルーケルマン商会広東支店]。板東時代の1918年4月21日、F.フリッシュ(Frisch)とクラーゼン(Claasen)と共同で「歌の夕べ」を開催して仲間達に感動を与えた。ヴェーゲナーはメンデルスゾーンの「春の歌」及び「いざ、さらに飲まん」を独唱した。また1918年6月1日、軍楽曹長ハンゼン(Hansen)によってベートーヴェンの「第九交響曲」が板東収容所内で本邦初演された。その折り、ヴェーゲナー、シュテッパン(Steppan)2等歩兵、フリッシュ(Frisch)2等歩兵、コッホ(Koch)伍長の四人は第4楽章の「合唱」でソロを受け持った。1918年8月11日、「収容所体操クラブ」の「ヤーン祭」では、熱気に満ちた躍動的な開会宣言の言葉を述べた【『バラッケ』第2巻87頁及び411頁】。ブレーメン(Bremen)出身。(3169:松山→板東)
52) Wegener(ヴェーゲナー),Joseph(1892-1963):第3海兵大隊機関銃隊・上等兵。久留米時代、1918年10月から久留米市通町の本村治兵衛工場で、麺麭及び洋菓子製造の労役で出向いた。労働時間1日8時間、賃金は1ヶ月24円(内4円は国庫納入)であった【『ドイツ軍兵士と久留米』24頁】。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ヴェストファーレンのポルズム(Polsum)出身。(3802:熊本→久留米)
53) Wegner(ヴェークナー),Arthur(?-?):海軍膠州砲兵隊第1中隊・2等砲兵。大戦終結して解放後の1920年、蘭領印度に渡り、ソロ(Solo)の郵便局に勤めた。マグデブルク(Magdeburg)出身。(4092:大阪→似島)
54) Wegner(ヴェークナー),Ferdinand(1884-?):キール第9師団歩兵第85連隊・伍長。『大正三年乃至九年 戦役俘虜ニ関スル書類』に次の記述がある。「大正七年四月十九日奉天ニ於テ飢餓ニ迫リ同地帝国警察官憲ニ保護ヲ願出テタル独逸国下士「フエルヂナンド、ウエーグネル」ト云フ者アリ同人ハ二年以前「リガ」附近ニ於テ露国ノ俘虜ト為リ西伯利ニ収容中再度戦線ニ立ツニ至ル虞アルヲ厭ヒテ脱走シタルモノナルモ途中所持金ニ欠乏シ奉天附属地ナル我警察署ニ願出テタルヲ以ッテ我邦ニ俘虜トシテ収容スルコトトシ関東都督府ヨリ青野原俘虜収容所ニ護送シ来リ同地ニ収容ノ手続キヲ了シタリ」。【従ってヴェークナーは、日独戦争には直接的な関わりを持たなかった】。大戦終結して解放後の1920年、蘭領印度に渡った。ハノーファー(Hannover)出身。(4714:青野原)
55) Wehrhahn(ヴェーアハーン),Ernst R.A.(?-?):第3海兵大隊重野戦榴弾砲兵隊・後備伍長。静岡時代に、「両名ハ頗ル傲慢不遜ノ態度ニシテ写真撮影セラレ敵国ノ新聞雑誌等ニ掲載セラルルガ如キ事アラバ軍人ノ体面上恥辱ナリト主張シ如何ニ訓諭スルモ之ニ服従セズ遂ニ同人等ノ撮影ヲ中止スルノ已ムナキニ至レリ「ヴェーアハーン」ハ収容所俘虜中富裕者ニシテ金銭ヲ浪費シ行状不脩ノ者ナリ」とされて、ケルクホーフ(Kerkhof)とともに重営倉25日に処せられた【『日独戦書』】。ハンブルク(Hamburg)出身。(1806:静岡→習志野)
56) Weichold(ヴァイヒホルト),Arno(?-?):第3海兵大隊第2中隊・伍長。板東時代の1918年10月16日、フライベルクに住むエルザ・シュレーゲル(Elsa Schlegel)嬢に宛て出したクリスマスと新年の祝いを述べる葉書が、郵趣家大沼幸雄氏の所蔵で遺されている。板東時代の1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会において、ヴァイヒホルト(28歳)は2時間23分39秒で85人中の第9位になった【『バラッケ』第4巻4月号80頁】。ザクセンのフライベルク(Freiberg)出身。(2107:丸亀→板東)
57) Weidtmann(ヴァイトマン),Josef(1893-1973):第3海兵大隊第5中隊・2等歩兵。アーヘン近郊のビュシュバッハ(Büschbach)出身。(4456:「熊本」→大分→習志野)
58) Weigandt(ヴァイガント),Horst(1885-?):砲艦ヤーグアル乗員・海軍中尉。ライプチヒ(Leipzig)出身。(1808:静岡→習志野)
59) Weigel(ヴァイゲル),Karl(?-?):第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。大戦終結後は、特別事情を有す日本内地居住希望者として、日本国内で解放された。シュレージエンのザガン(Sagan)出身。(2124:丸亀→板東)
60) Weigele(ヴァイゲレ),Eugen(?-?):第3海兵大隊参謀本部・予備陸軍少尉。〔連絡将校〕。1918年3月22日福岡から習志野へ収容所換えになった。エルザスのミュールハウゼン(Mühlhausen)出身。(1686:福岡→習志野)
61) Weindorf(ヴァインドルフ),Eugen(?-?):海軍東アジア分遣隊第1中隊・2等歩兵。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ヴァッテンシャイト(Wattenscheid)出身。(1671:姫路→青野原)
62) Weinholz(ヴァインホルツ),Dr.Fritz(1887-?):第3海兵大隊第2中隊・上等歩兵。[ドイツ・アジア銀行漢口支店]。青島時代はイレーネ街に住んでいた。板東時代、新板東テニス協会のテニス小屋(収容所脇の借上地にあった)の管理係りを務めた。オーデル(Oder)河畔のフランクフルト(Frankfurt)出身。(2109:丸亀→板東)
63) Weis(ヴァイス),Adolf(?-?):海軍東アジア分遣隊第2中隊・2等歩兵。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ヴィースバーデン近郊のオーデルスベルク(Odersberg)出身。(1675:姫路→青野原)
64) Weis(ヴァイス),Karl(?-?):第3海兵大隊第1中隊・後備伍長。久留米時代の1915年3月16日、三井郡役所の黒岩書記が赤岩筑後川架橋設計図を持参して、架橋技師のカール・ヴァイスに意見を求めに来て、翌日一緒に視察に出掛けた。1917年5月1日名古屋収容所より情報局へ、ヴァイスが名古屋市熱田服部商店の機械工場で、労役に服するため収容替えとなった旨の報告がなされた。また名古屋収容所に移されてから、興和紡績桜田工場に、ドイツのランツ社からボイラー据付の際に派遣された。工場と収容所が近かったことから、後に毎日収容所から工場に通って技術指導をした。解放後は日本国内就職内定者として名古屋で解放され、神戸市の神戸桟橋株式会社で機械技師として働いた【校條「青島戦ドイツ兵俘虜と名古屋の産業発展 ―技術移転の様相を探る―」33頁より。なおカール・ヴァイスの名古屋での労役については、校條「名古屋俘虜収容所 覚書V」所載:『「青島戦ドイツ兵俘虜収容所」研究』第6号に詳述されている】。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。カールスルーエ(Karlsruhe)出身。(804:久留米→名古屋)
65) Weise(ヴァイゼ),Johannes(1890-?):第3海兵大隊・2等見習主計。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。キール(Kiel)出身。(3174:松山→板東)
66) Weise(ヴァイゼ),Richard(?-?):第3海兵大隊第7中隊・伍長。大戦終結後は、特別事情を有す日本内地居住希望者として、日本国内で解放された。ベルリン(Berlin)出身。(2117:丸亀→板東)
67) Weisleder(ヴァイスレーダー),Paul(?-?):海軍膠州砲兵隊第1中隊・1等砲兵。大戦終結して解放後の1920年、蘭領印度に渡り砂糖工場に勤めた。ワイマール(Weimar)出身。(3815:熊本→久留米)
68) Weiss(ヴァイス),Adolf(1893-1968):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・2等下士。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ウィーン(Wien)出身。(3820:熊本→久留米)
69) Weiss(ヴァイス),Wilhelm(?-1920):砲兵兵站部・上等掌砲兵曹。1920年1月17日、蘭領印度のサバン(Sabang)の手前で肺炎のために帰還船ヒマラヤ丸船内で死亡して水葬に付された【シュミット】。ポツダム(Potzdam)出身。(2446:姫路→青野原)
70) Weiss(ヴァイス),Wilhelm(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。板東時代の1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会で(当時29歳)、2時間39分6秒5分の2で64位になった【『バラッケ』第4巻4月号82頁】。ブエノスアイレス(Buenos Aires)出身。(3167:松山→板東)
71) Weissenborn(ヴァイセンボルン),Hermann(?-?):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。久留米俘虜収容所の音楽活動では歌曲を作曲した。シュタイツ(Wilhelm Steitz)の手になると思われる収容所の柵をあしらったスケッチには、中央部分に「久留米収容所楽団」のオットー・レーマン(Otto Lehmann)以下22名の楽団員の写真が並べられ、また一人一人のサイン(ただしレーマンのを除く)が記されている【〔写真8〕参照】。さらに写真には各自のパートも記されている。それによるとヴァイセンボルンは、コントラバスを受け持った。ザクセンのヴォルビス郡ハインローデ(Haynrode)出身。(809:久留米)
72) Weisshaar(ヴァイスハール),Ernst(?-?):海軍砲兵中隊・1焚火兵。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会の技術部門で蒸気機関の模型を出品した。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ラインラントのレネップ(Lennep)出身。(4612:大阪→似島)
73) Weitz(ヴァイツ),Franz(1891-1972):第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。[上海・ガレルス・ベルナー商会]。板東時代の1917年5月、松山俘虜収容所からの人員を加えて拡大した「エンゲル・オーケストラ」の第1ヴァイオリンを担当した。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。リューネブルク(Lüneburg)出身。(2126:丸亀→板東)
74) Weller(ヴェラー),Adam(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等焚火兵。1915年7月11日福岡から久留米へ収容所換えになった。[電気工]。エルランゲン近郊のヴェラーシュタット(Wellerstadt)出身。(1655:福岡→久留米)
75) Welter(ヴェルター),Hans(?-?):第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。[ロイター‐ブレッケルマン商会上海支店]。板東時代の1917年5月、松山俘虜収容所からの人員を加えて拡大した「エンゲル・オーケストラ」の第2ヴァイオリンを担当した。ハンブルク(Hamburg)出身。(2127:丸亀→板東)
76) Welter(ヴェルター),Heinrich(?-1915):海軍膠州砲兵隊第4中隊・1等砲兵。1915年1月15日,チフスにより福岡で死亡し、軍人墓地に埋葬された。ザールブリュッケンのヘレンスオーア(Herensohr)出身。(1645:福岡)
77) Welzel(ヴェルツェル),Albrecht(?-?):第3海兵大隊参謀本部・予備陸軍大尉。[青島警察署長]。青島時代はベルリン街に住んでいた。游内岬の対岸にあたる膠州湾口のイェシュケ(Jaeshcke)半島北庄猟区779ヘクタールを、6年間(1914年1月15日まで)39ドル(約60万円)で借りていた【『青島経営ニ関スル獨国ノ諸法令』612頁】。ゲルリッツ(Gerlitz)出身。(4452:「熊本→」大分→習志野)
78) Welzel(ヴェルツェル),Reinhold(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等焚火兵。ロシア国籍のポーランド人。1917年11月10日、ヴェルツェルから長崎ロシア領事館及びロシア陸軍大臣宛に解放請願の信書が送られ、検閲の上情報局へ転送された。1915年7月11日福岡から久留米へ収容所換えになった。後に宣誓解放された。ロシアのタルンチノ(Tarntschino)出身。(1656:福岡→久留米)
79) Wenckstern(ヴェンクシュテルン),Gerhardt von(1887-?):海軍砲兵中隊・海軍少尉。〔第1b砲台指揮官〕。メラー少尉指揮の河用砲艦チンタオ(213トン)の乗員。1914年8月3日、停泊していた広東の英仏共同租界沙面島を脱出する際病気のため一人10日ほど留まり、8月12日河船、三板(平底の河船)、鉄道、馬、徒歩等で650キロの離れた青島に向かい、3週間程かけて辿り着いた。青島到着後は数週間衛戍病院に入院し、10月上旬に退院した。1915年11月19日福岡収容所から逃亡した。アメリカに渡り、ニュウーオリンズ近くのオーストリア人農場主からはその娘との結婚話を持ち掛けられたりした。オランダのカリフォルニャ号にオランダ人船員として乗り組みアメリカを脱出したが、イギリス海軍軍艦の臨検により逮捕された。ロンドン近郊のメイドゥンヘッドの将校収容所に容れられたが、神経衰弱症を偽装して治療のためスイスに送られ、大戦終結までその地で過ごした。ゲルリッツ(Gerlitz)出身。(1638:福岡)
80) Wendekamm(ヴェンデカム),Albert(?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・1等砲兵。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会の喫茶室の屠畜・ソーセージ製造部門で、鰊・サラダを提供した。大戦終結して解放後の1920年、蘭領印度に渡り郵便局に勤めた。ザクセンのオーバールングヴィッツ(Oberlungwitz)出身。(4098:大阪→似島)
81) Wendler(ヴェントラー),Gustav(?-?):海軍膠州砲兵隊第4中隊・予備砲兵伍長。似島時代の1918年、聖霊降臨祭の記念絵葉書を作画した【高橋スタンプ商会のHP「第二部・日独戦争と俘虜郵便の時代 98」に掲載されている。参照:http://www.takahashistamp.com/2note98.htm】。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放され、オットー・ライマース(Otto Reimers & Co.)横浜商会支店に勤めた。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ハンブルク(Hamburg)出身。(4110:大阪→似島)
82) Wendt(ヴェント),Emil(?-?):海軍砲兵中隊・2等焚火兵。1917年1月28日、アンドレーア(Andrea)をチャルデス(Tjardes)等18名で袋叩きにして負傷させ、2月7日久留米軍事法廷で懲役1月に処せられた。シュテッティン(Stettin)出身。(3813:熊本→久留米)
83) Wendt(ヴェント),Paul(1887-1963):海軍東アジア分遣隊・陸軍中尉。大分時代、小さい荷物の横パネルに秘密の指令文書を隠し、北京にいる友人と連絡し合って脱走するための綿密な計画を練った。しかし、脱走はしないという宣誓をしていたことから、その計画は実行されずに頓挫した【《The German Prisoners-Of-War in Japan,1914-1920》68頁】。1954年11月6日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。トルン(Thorn)出身。(4459:「熊本→」大分→習志野)
84) Wenslawski(ヴェンスラフスキー),Karl(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等砲兵。1915年9月15日福岡から習志野へ収容所換えになった。習志野時代、俘虜博覧会に自作の写真額を出品した。ロッゲンハウゼン(Roggenhausen)出身。(1652:福岡→習志野)
85) Werdecker(ヴェルデッカー),Paul(?-?):海軍東アジア分遣隊第2中隊・2等歩兵。1916年9月25日福岡から青野原へ収容所換えになった。1918年12月13日から20日まで開催された青野原俘虜製作品展覧会で、ヴェルデッカーは金属加工部門に文鎮と時計ケースを出品した【『AONOGAHARA捕虜の世界』77頁】。ゲーラ(Gera)出身。(1676:福岡→青野原)
86) Werder(ヴェルダー),Wilhelm von(1895-?):機雷保管庫・上等兵。青野原時代、1918年12月13日から20日まで開催された俘虜製作品展覧会で、ヴェルダーのグループは玩具部門で体操選手の操り人形を出品した【『AONOGAHARA捕虜の世界』83頁】。ブレーメン(Bremen)出身。(2448:姫路→青野原)
87) Werff(ヴェルフ),Bernhard de(?-?):海軍膠州砲兵隊第4中隊・1等砲兵。1918年3月22日福岡から習志野へ収容所換えになった。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。東フリースラントのヘーゼル(Hesel)出身。(1646:福岡→習志野)
88) Werkmeister(ヴェルクマイスター),Karl(?-?):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。1914年9月28日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米俘虜収容所に送られた【『欧受大日記』大正三年十一月上より】。1915年10月21日消印で、東京銀座の十字屋楽器店からのヴェルクマイスター宛に出荷案内書が出された。内容はヴァイオリン、ヴィオラ、バスの弦発送と請求で、21円40銭の10パーセント引きになっている。プファルツのランダウ(Landau)出身。(817:久留米)
89) Werner(ヴェルナー),Albert(?-?):第3海兵大隊工兵中隊・2等工兵。板東時代は俘虜収容所医務室の通訳を務めた。やがて戦争終結まで病院の一室にバールトと一緒に住んだ。バールトが日本の内外貿易に就職する際には通訳をした。ザクセンのヴァイセンフェルス(Weissenfels)出身。(3170:松山→板東)
90) Werner(ヴェルナー),Alfred(?-1918):第3海兵大隊機関銃隊・2等焚火兵。1918年5月8日久留米で死亡し、久留米山川陸軍墓地に埋葬された。『ドイツ兵捕虜と収容生活 ―久留米俘虜収容所W―』(2007)119頁には、ヴェルナーの葬儀の様子、収容所長林銑十郎中佐から贈られた花輪と墓標、葬儀の様子を写した写真が掲載されている。なお、大戦終結後の1920年1月16日、遺骨はドイツ側委員に引き渡された【『欧受大日記』大正十三年三冊之内其一、附表第一「埋葬者階級氏名表」より】。シュレージエンのローンシュトッホ(Rohnstoch)出身。(3804:熊本→久留米)
91) Werner(ヴェルナー),Otto(?-?):第3海兵大隊第5中隊・2等歩兵。青島時代の1912年9月28日を初めとして三通の母親宛の葉書、及び松山時代の1916年1月23日付けの母親からの葉書、1916年9月6日付けの兄弟からの葉書が遺されている。また、神戸のヤーコプ・クラウス(Jakob Kraus)から板東のヴェルナー宛の葉書も存在している【ハンス=ヨアヒム・シュミット氏のホームページより】。なお、松山時代の1915年8月30日、ベッカース(Beckers)と柵外から物品を購入した科で重営倉3日に処せられた。ザールラントのノインキルヒェン(Neukirchen)出身。(3159:松山→板東)
92) Werner(ヴェルナー), Wilhelm Ferdinad(1894-1973):海軍膠州砲兵隊・2等砲兵。1915年9月15日福岡から習志野へ収容所換えになった。習志野時代、自分の四阿の前で戦友と立っている写真が現存して、資料に紹介されている【『特別資料展「ドイツ兵の見たNARASHINO ―1915-1920 習志野俘虜収容所」展示品図録』54頁】。ドイツに帰国後の1929年5月17日、フレンスブルクでエリー(Elly Hentschel Rasmussen)と結婚したが、1947年5月20日に離婚した。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。1970年7月3日ヴィルヘルムスハーフェンでアントニー(Antonie Hermine Bindel)と再婚した。フレンスブルク(Flensburg)出身。(1667:福岡→習志野)
93) Werner(ヴェルナー),Willy(?-?):海軍東アジア分遣隊・後備副曹長。〔第8a砲台〕。フィードリヒ(Fydrich)砲兵曹長から引き継いで第8a砲台の指揮を執った。板東時代、グロースマンとともに『日刊電報通信』及び『バラッケ』に戦況等ニュースの記事執筆を担当した【『バラッケ』第2巻82頁】。ベルリン(Berlin)出身。(4322:「大阪→」徳島→板東)
94) Wernert(ヴェルネルト),Emil(?-?):海軍膠州砲兵隊。2等砲兵。1915年12月、宣誓解放された。シュトラースブルク郊外のグリース(Gries)出身。(1666:福岡)
95) Werther(ヴェルター),Max(?-?):海軍膠州砲兵隊・2等砲兵。1916年10月21日福岡から名古屋へ収容所換えになった。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ホーク(Hog)出身。(1669:福岡→名古屋)
96) Wese(ヴェーゼ),Arthur(?-?):第3海兵大隊第7中隊・上等歩兵。板東時代の1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会の「シニアの部」に当時43歳の最年長で出場し、2時間42分25秒で16人中の第9位になった【『バラッケ』第4巻4月号83頁】。ブレスラウ(Breslau)出身。(2119:丸亀→板東)
97) Wesemann(ヴェーゼマン),Walter(1884-1948):海軍東アジア分遣隊第3中隊・後備上等歩兵。ロシアのウラジオストックから青島に馳せ参じた。1915年9月20日福岡から名古屋へ収容所換えになった。1922年4月25日、エリーザベト(Elisabeth Johanna Fischer)と結婚し、息子一人をもうけた。ザクセン=アンシュタルトのアルテンブルク(Altenburg)出身。(1681:福岡→名古屋)
98) Wessoly(ヴェッソリー),Rudolf(?-?):第3海兵大隊第2中隊・後備上等歩兵。一般送還船出発前に予め日本で解放された。ルクセンブルク(Luxenburg)出身。(1801:静岡→習志野)
99) Westphal(ヴェストファール),Erich(?-?):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。[中国ジーメンス上海支店]。板東時代,1918年春のテニス・トーナメントのダブルスで、エルトニス上級書記官と組んでBクラスの第2位になった【『バラッケ』第2巻211頁】。大戦終結して解放後の1920年、蘭領印度のバンドンに渡り、ジーメンス社のバンドン支店に勤務した。ポンメルン(Pommern)出身(『俘虜名簿』では上海)。(2114:丸亀→板東)
100) Weule(ヴォイレ),Wilhelm(1891-1979):海軍膠州砲兵隊第2中隊・予備砲兵伍長。1915年9月20日福岡から名古屋へ収容所換えになった。ドイツに帰国後、ゲルトルート(Gertrud Rüders;1899-1979)と結婚した。仕事は父親の商会を手伝った。リンゲンハイム近郊のアルトヴァルモーデン(Altwallmoden)出身。(1641:福岡→名古屋)
101) Wex(ヴェックス),Friedrich(?-?):海軍東アジア分遣隊第2中隊・後備伍長。[製薬会社社員]。応召前は横浜のバイエル合名合資会社薬品部に勤めていた。1918年8月に習志野に移送され、ルンプ(Rumpf)と知り合いになる。かつての日本人同僚が習志野に面会に来た時、これまでの労苦が失われたことを悲しがって涙を流したと言われる。大戦終結して解放後の1920年に再び日本に戻り、バイエル製薬会社の東京支社支配人となった。ベルリン(Berlin)出身。(1800:静岡→習志野)
102) Weyand(ヴァイヤント),Hans(?-?):第3海兵大隊第4中隊・2等歩兵。大戦終結して解放後の1920年、蘭領印度に渡った。ドイツに帰国後は郷里で警察官となった。ザール河畔のノイキルヒェン(Neukirchen)出身。(3786:熊本→久留米)
103) Weyand(ヴァイヤント),Johann(?-?):第3海兵大隊第4中隊・後備上等歩兵。大戦終結して解放後の1920年、蘭領印度に渡った。ザールブリュッケン(Saarbrücken)出身。(3784:熊本→久留米)
104) Weyershausen(ヴァイヤースハウゼン),Hermann(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・1等砲兵。1918年3月22日福岡から習志野へ収容所換えになった。大戦終結して解放後の1920年、蘭領印度のサマルディナ(Samardina)に渡った。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。オーバーシェルト(Oberscheld)出身。(1650:福岡→習志野)
105) Weyhe(ヴァイエ),Curt von(?-1964):海軍野戦砲兵隊・予備陸軍少尉。1914年10月5日、前線の方に移された繋留気球に乗り込んだ。日本軍の榴散弾が気球に当り地面に落下したが、負傷はしなかった。1919年8月、ウラジオストックのスイス赤十字社に宛てて、私有物品取り寄せ依頼の信書を出し、検閲の上18日情報局に転送された。1954年11月6日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。1916年1月6日に死去。ブローメ/ハノーファー近郊のファーレンホルスト(Fahrenhorst)出身。(837:久留米)
106) Wichelhaus(ヴィッヒェルハウス),Hermann(?-?):第3海兵大隊第5中隊・上等歩兵。板東時代、公会堂での絵画と工芸品展覧会に、丹念な模写「ノルウェーの女」等を出品したが、松山で完成していたものを放置していたため紙が黄ばんでしまっていた。1919年8月13日に開催された櫛木海岸での水泳大会で、平泳ぎに出場し42秒で1位になった。またメドレーリレーでは、フェルチュ(Färtsch)、シュタインメッツ(Steinmetz)、レーマン(Lehmann;板東にはレーマンが二名いて特定不可)と組んで1位になった。ヴッパータールのエルバーフェルト(Elberfeld)出身。(3158:松山→板東)
107) Widder(ヴィッダー),Friedrich Franz(1896-1965):第3海兵大隊第3中隊・2等歩兵。ドイツに帰国後リーナ(Lina Olga Herta Heynlein)と結婚して息子一人をもうけた。テューリンゲンのグロース=ブライテンバッハ(Gross Breitenbach)出身。(828:久留米)
108) Wider(ヴィーダー),Hermann(?-?):海軍膠州砲兵隊・1等砲兵。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。カールスルーエ(Karlsruhe)出身。(1662:名古屋)
109) Wied(ヴィート),Emil(?-?):海軍膠州砲兵隊・2等砲兵。大阪俘虜収容所は1917年2月19日に閉鎖されたが、同年3月8日時点で大阪衛戍病院に入院していた【参照:『日独戦争ノ際俘虜情報局設置並独国俘虜関係雑纂 第四巻』在本邦俘虜名簿配付及俘虜ノ安否其他情報問合ニ関スル件】。似島への移送時点で右目は義眼であった。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ヴェストファーレンのズィーゲン(Siegen)出身。(4613:大阪→似島)
110) Wieder(ヴィーダー),Josef(1894-?):海軍東アジア分遣隊第1中隊・2等歩兵。習志野時代の1919年5月24日、習志野合唱協会の「歌曲の夕べ」ではエンスリン、ハイメンダール及びベヒトルスハイムの4人でシュヴァーベン民謡の「選ばれし者」を四重唱した。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。バリンゲン郡のタイルフィンゲン(Tailfingen)出身。(292:東京→習志野)
111) Wiedermann(ヴィーダーマン),Fritz(1880-?):第3海兵大隊第7中隊・後備2等歩兵。[山東鉄道駅長]。1913年9月ヘンリエッテ(Henriette Caroline Krieger)と結婚した。東プロイセンのアイトクーヘン(Eydtkuhnen)出身。(4457:「熊本」→大分→習志野)
112) Wiegand(ヴィーガント),Leopold Otto Amalius(1877-1977):国民軍・陸軍中尉。〔動員国民軍指揮官〕。1880年の2歳の時から1899年12月までフレンスブルクに居住【『俘虜ニ関スル書類』より】。解放後当初は日本に留まって大阪の松浦商会に勤めることになっていたが、1920年1月23日、他の6名ととも青島に居住するために台北丸で出発した【『小野市史』438頁】。フレンスブルク(Flensburg)出身。(2449:姫路→青野原)
113) Wiemeier(ヴィーマイアー),Ernst(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。大戦終結して解放後の1920年、蘭領印度に渡った。1922年5月前にドイツに帰国したが、後に再度蘭領印度に渡り、1933年にドイツに最終的に帰国した。ピュルモント(Pyrmont)出身。(3791:熊本→久留米)
114) Wiemer(ヴィーマー),Severin(?-?):海軍野戦砲兵隊・2等砲兵。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ライン河畔のリンツ(Linz)出身。(2763:名古屋)
115) Wierny(ヴィルニー),Paul(?-?):第3海兵大隊第6中隊・補充予備。大戦終結して解放後の1920年、蘭領印度に渡った。グライヴィッツ(Gleiwitz)出身。(3795:熊本→久留米)
116) Wiersbitzki(ヴィルスビツキー),August(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等焚火兵。[電気工]。ボイテン(Beuthen)郡オルツェゴウ(Orzegow)出身。(1657:福岡→久留米)
117) Wiese(ヴィーゼ),Wilhelm(?-?):海軍東アジア分遣隊第2中隊・2等歩兵。1916年9月25日福岡から青野原へ収容所換えになった。1918年12月13日から20日まで開催された青野原俘虜製作品展覧会で、ヴィーゼは絵画部門で鉛筆画、チョーク絵、パステル画等13点を出品した【『AONOGAHARA捕虜の世界』70頁】。シェーンベルク(Schönberg)出身。(1678:福岡→青野原)
118)
Wiesendt(ヴィーゼント),Hermann(1882-1953):第3海兵大隊第6中隊・後備副曹長。久留米時代の1917年4月17日、上海のロシア・アジア銀行に預金している500円の払い戻しを請求し、在東京のロシア大使館から許可があれば払い戻すとの回答が届いた。1918年8月5日久留米から名古屋へ収容所換えになった。妻ヘトヴィヒ(Hedwig)は息子(12歳以下)と大戦終結まで青島に留まった。ハレ(Halle an der Saal)に生まれ、ハレで没した。ハレ(Halle)出身(『俘虜名簿』では青島)。(836:久留米→名古屋)
119)
Wieser(ヴィーザー),Rudolf(?-?):第3海兵大隊第6中隊・予備2等歩兵。[ドイツ・アジア銀行天津支店]。徳島時代の1915年4月20日、チェス選手権試合が開催された。それに出場したヴィーザーは4組(出場者総数21名)の内の第4組に割り振られ、1位で本戦のA級に進出した。板東時代、ホッケー協会の会計係を務めた。ニュルンベルク(Nürnberg)出身。(4323:「大阪→」徳島→板東)
120)
Wiesner(ヴィースナー),Hugo(1861-?):国民軍・副曹長。オルデンブルクのネーエンブルク(Nehenburg)出身。(1807:静岡→習志野)
121)
Wiesner(ヴィースナー),Paul(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等砲兵。[ハンブルク・アメリカ汽船]。シュレージエンのティレンドルフ(Tillendorf)出身。(4320:「大阪→」徳島→板東)
122)
Wiest(ヴィースト),Richard(?-?):海軍砲兵中隊・1等焚火兵。久留米時代の1916年12月17日、青野原のヘルケ(Herke)に絵葉書(久留米名所としての歩兵第56連隊の正門前を写した写真)を出した【シュミット】。久留米の演劇活動では、リンダウ作『もうひとりの男』に出演した。ベルリン(Berlin)出身。(3809:熊本→久留米)
123)
Wieting(ヴィーティング),Ludwig(?-?):第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。[エードゥアルト・マイアー商会(Eduard Meyer & Co.)天津支店]。丸亀俘虜収容所時代の所内の様子をまとめて編集したアルバムが、鳴門市ドイツ館に寄贈され、所蔵されている。また、1968年(昭和43年)3月3日、ドイツ館に1万円を寄付した【中野正司「画像資料から見た板東俘虜収容所の施設と生活」93頁及び西田素康「現代によみがえる板東俘虜収容所」109頁;所載:『地域社会における外来文化の受容とその展開』】。1970年のクリスマスの折り、ヴィーティングは娘と孫に「回想録」を贈った。2003年、鳴門市によるブラウンシュヴァイクでの「『第九』里帰り公演」の折に、ヴィーティングの娘インゲマリー・フォン・ハレンさんから上述の「回想録」の一部がドイツ館に寄贈された。それは「第1次世界大戦―1914年の夏と秋」と「日本 1914年―1920年」の2章である。前章では、青島への応召から堡塁での防禦の様子、直属の上官ショーン(Schon)の人物像が記されている。また、日本軍の攻撃から逃れる際に一人遅れて自陣の地下壕に辿り着き、既に死者として登録されてしまい、そのことが正規ルートでブレーメンの父親の元に通知されたこと、しかしそれが届いたときには、日本で俘虜となって無事であることを知っていたことな度が記述されている。次章では、丸亀収容所での過密状態や、所内「犯罪クラブ」とでもいうものの存在について触れている。丸亀時代は「アルフォンス」というあだ名で呼ばれていたが、あだ名で呼び合うことが一般的であった、と記している。板東時代の記述としては、イェプセン(Jebsen)とデンマーク語の勉強をし、後にブレーメンのコーヒー会社「カフェー・ハーク」のデンマーク語のパンフレットの翻訳をしたことが記されている。なお、ヨハネス・バールト(Johannes Barth)とは、少年の頃からの友人で同窓生であることが、この「回想録」から判明した。ブレーメン(Bremen)出身。(2131:丸亀→板東)
124)
Wild(ヴィルト),Gerhard(1893-?):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。久留米時代、シュタイツ(Wilhelm Steitz)の手になると思われる収容所の柵をあしらったスケッチには、中央部分に「久留米収容所楽団」のオットー・レーマン(Otto Lehmann)以下22名の楽団員の写真が並べられ、また一人一人のサイン(ただしレーマンのを除く)が記されている【〔写真8〕参照】。さらに写真には各自のパートも記されている。それによるとヴィルトは、フルートを受け持った。ラインラントのヴァイスヴァイラー(Weissweiler)出身。(808:久留米)
125)
Wilde(ヴィルデ),Carl Johann Heinrich(?-?):国民軍・卒。[商人]。1912年まで、ミネラルウオーター製造会社「イルチス鉱泉(Iltisbrunnen)」の共同経営者であった。その後はもう一人の経営者の単独会社になった。ヴィルデは1914年にヘレーネ・アーレンス(Helene
Ahrens)との婚姻届を戸籍登録所に提出した。青島時代は、市内中心のフリードリヒ街に住んだ。1915年9月16日に青島から日本へ送られ、20日に大阪俘虜収容所に収容された。解放後の1920年初頭に青島に戻り、1920年5月21日、リヒャルト・ヴィルヘルムの司式でヘレーネとの正規の結婚式が執り行われた。それがヴィルヘルムが執り行った青島での最後の結婚式であった。なお、ヘレーネはハインリヒ・アーレンス(Heinrich Ahrens)の長女だった。1920年代にはハンブルクに住み、青島のヘルマン・グレーフェン(Hermann Grefen)商会の代理人を務めた。1956年時点では、アーレンブルク(Ahrenburg)のアーレンスフェルダー通(Ahrensfelderweg)に住んでいた。ポンメルンのバルテルスハーゲン(Bartelshagen)出身。(4706:大阪→似島)
126)
Wildner(ヴィルトナー),Karl(?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・砲兵軍曹長。大阪時代の1917年1月29日、俘虜6名を指揮して大阪衛戍病院に入院中の俘虜の荷物を荷車三台に積んで衛戍病院へ赴いた。似島移転に際して同道し、荷物搬送の指揮を執ったものと思われる(『大阪朝日新聞』大正6年1月30日付による)。ザクセン=ヴァイマルのアポルダ(Apolda)出身。(4094:大阪→似島)
127)
Wilhelm(ヴィルヘルム),Gustav(?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・2等砲兵。1916年10月20日福岡から大阪へ収容所換えになった。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に当って、目録の表紙・装丁を担当し、また美術部門の責任者をハッハマイスター(Hachmeister)とともに担当して、自ら油絵16点を出品した。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ヴェストファーレンのズィーゲン(Siegen)出身。(1644:福岡→大阪→似島)
128)
Wilhelm(ヴィルヘルム),Karl(1885-?):海軍砲兵中隊・2等需品兵曹。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。シュタインバック=ハレンベルク(Steinback-Hallenberg)出身。(3806:熊本→久留米)
129)
Wilke(ヴィルケ),Waldemar(1889-?):第3海兵大隊第4中隊・予備副曹長。プレンツラウ(Plenzlau)出身。(3781:熊本→久留米)
130)
Will(ヴィル),Dr.Eduard(1883-?):第3海兵大隊第5中隊・予備陸軍少尉。[弁護士]。ハイデルベルク大学で法律を学んだ。久留米時代、収容所の音楽活動では主として室内楽の演奏で指揮を執った。1919年7月、在北京オランダ公使宛に妻子救出に関する信書を出し、検閲の上11日に情報局に転送された。出身地不明(『俘虜名簿』では天津)。(3790:熊本→久留米)
131)
Will(ヴィル),Heinrich(?-?):海軍東アジア分遣隊第2中隊・2等歩兵。[鋳型工]。1915年7月11日福岡から久留米へ収容所換えになった。久留米時代、1918年10月から澤野鉄工場で鋳型の労役で出向いた。労働時間1日8時間、賃金は1ヶ月24円(内4円は国庫納入)であった【『ドイツ軍兵士と久留米』24頁】。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。エーリングハウゼン(Ehringhausen)出身。(1679:福岡→久留米)
132)
Wille(ヴィレ),Fritz(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等砲兵。1915年7月11日福岡から久留米へ収容所換えになった。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ヴェリングホーフェン(Wellinghofen)出身。(1651:福岡→久留米)
133)
Wille(ヴィレ),Georg(?-?):第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。1919年6月1日(日)、12種目から成る体操大会が開催されたが、ヴィレは119点を挙げて古参選手の部の第4位になった【『バラッケ』1919年6月号より】。ハンブルク(Hamburg)出身。(2130:丸亀→板東)
134)
Willems(ヴィレムス),Anton Max(1894-1959):海軍膠州砲兵隊第・2等砲兵。1894年5月17日、機械工の子としてメルヒヴァイラーに生れた。1914年8月上記砲兵隊に入隊した【シュミット】。トリーア郡のメルヒヴァイラー(Merchweiler)出身。(3818:熊本→久留米)
135) Willerbach(ヴィラーバッハ),Ernst(?-?):第3海兵大隊第4中隊・2等歩兵。久留米時代の1916年4月10日、シュトレンペル(Strempel)と逃亡したが、17日に長崎で捕まった。禁錮10ヶ月の刑を受けて、福岡監獄に収監され、1917年2月27日出獄した。久留米時代は演劇活動で、喜劇・笑劇に出演した。ハノーファー(Hannover)出身。(3788:熊本→久留米)
136) Willers(ヴィラース),Ernst(?-?):第3海兵大隊第4中隊・予備上等歩兵。久留米時代に演劇活動で、トーマ作の喜劇『放蕩娘』に出演した。1954年11月6日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。オルデンブルク(Oldenburg)出身。(3783:熊本→久留米)
137) Willers(ヴィラース),Fritz(?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・砲兵伍長。1915年9月20日福岡から名古屋へ収容所換えになった。大戦終結後は、特別事情を有す日本内地居住希望者として、日本国内で解放された。ヴェストファーレンのミンデン(Minden)出身。(1642:福岡→名古屋)
138) Willhöft(ヴィルヘフト),Arthur(?-?):第3海兵大隊・2等歩兵。福岡時代の1916年(月日不明)、「俘虜ノ逃走ヲ幇助シタル科」で懲役2ヶ月に処せられた。1916年10月20日福岡から青野原へ収容所換えになった。ハンブルク(Hamburg)出身。(1688:福岡→青野原)
139) Willig(ヴィリッヒ),Georg(1890-1981):海軍膠州砲兵隊・2等砲兵。義理の娘ロッテ(Lotte Willig)によると、ククスハーフェンで海軍兵士としての訓練を受けた後、1913年1月に青島に赴いた。1916年10月21日福岡から名古屋へ収容所換えになった。1938年以来ヴュルツブルクに住み、ドイツ帝国鉄道(後の連邦鉄道)の機関士として働いた。1972年、ヴュルツブルクでの最後のチンタオ戦友会には、友人にして同じく戦友のプレヒト(Karl Precht)と出席した。戦友との集まりには生涯きちんと出席した。日本の収容所時代を記念するものは、生前中すでに散逸して失われた【メッテンライター『極東で俘虜となる』84-85頁 】。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。リムブルク(Limburg)出身。(1670:福岡→名古屋)
140) Willuda(ヴィルダ),August(?-?):所属部隊不明・後備伍長。[帽子仕立て職人]。青島時代は、市内中心のフリードリヒ街に住み、軍御用達商として広く知られていた。大戦終結が近づいた頃、『似島俘虜収容所新聞』に軍装品やシルクハット、背広の広告を出した。また1919年3月4日から広島県物産陳列館で開催された、似島獨逸俘虜技術工藝品展覧會のために発行された「似島獨逸俘虜技術工藝品展覧會目録」の32頁には、ヴィルダの帽子のスケッチが掲載された。妻アンナ(Anna)は子ども(12歳以下)と二人で大戦終結まで上海で暮らした。東プロイセンのラステンブルク(Rastenburg)出身。(4619:大阪→似島)
141) Wilms(ヴィルムス),Robert(?-?):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ライン河畔のランク(Lank)出身。(812:久留米)
142) Wilms(ヴィルムス),Walther(?-?):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。丸亀時代の1916年8月4日、ヴェーザー河畔の町(判読不可)175番地のH.Wilms(ヴィルムス)宛てに絵葉書を出した。図柄は、丸亀の将校収容所を写した写真である。写真には門の奥、建物の前に立つ三人の将校(?)と衛兵、衛兵詰め所脇に立つ白い服の巡査(?)、及び塀の脇に置かれた自転車一台が写っている。文面はごく簡単な挨拶状【郵趣家三木充氏の収蔵品より】。大戦終結して解放後は、蘭領印度に渡ったが、1922年時点ではすでに故国に帰還していた。ゲーステミュンデ(Geestemünde)出身。(2113:丸亀→板東)
143) Wilucki(ヴィールキ),Günther von(1883-1950):海軍東アジア分遣隊・陸軍大尉。〔外方陣地左翼陣地副官〕。1900年4月1日ザクセン陸軍に入った。1901年8月25日歩兵少尉、1910年3月23日中尉、1910年9月1日海軍歩兵隊に移った。1914年8月海軍東アジア分遣隊副官、1914年9月5日大尉。解放されてドイツに帰国後の1925年5月26日マリー(Marie Helene von Nostiz-Wallwitz;1896-1977)と結婚した。ドレスデン(Dresden)出身。(284:東京→習志野)
144) Wimmer(ヴィンマー),Ludwig(?-?):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。久留米の演劇活動では、ブルーメンタールとガーデルベルク合作の笑劇『私が戻った時』に出演した。ミュンヘン(München)出身。(466:久留米)
145) Wingert(ヴィンゲルト),Walter(?-?):海軍砲兵中隊・2等焚火兵。久留米時代の1917年1月28日、アンドレーア(Andrea)をカロルチャク(Karolczak)等18名で袋叩きにして負傷させ、2月7日久留米軍事法廷で懲役1月に処せられた。また、1919年6月からは日本製粉株式会社久留米支店に、蒸気機関火夫の労役で出向いた。労働時間1日8時間、賃金は1ヶ月24円(内4円は国庫納入)であった【『ドイツ軍兵士と久留米』24頁】。大戦終結して解放後の1920年、蘭領印度に渡った。シュテッティン(Stettin)出身。(3814:熊本→久留米)
146) Winkler(ヴィンクラー),Albrecht(?-?):国民軍・卒。1915年9月20日、青島から大阪俘虜収容所に移送された。オーストリアのアウスゼー(Aussee)出身。(4707:大阪→似島)
147) Winkler(ヴィンクラー),Anton(?-?):第3海兵大隊第3中隊・2等歩兵。板東時代の1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会で(当時27歳)、2時間39分14秒5分の1で66位になった【『バラッケ』第4巻4月号82頁】。コーブレンツ(Koblenz)出身。(3156:松山→板東)
148) Winkler(ヴィンクラー),Johann(1892-1960):海軍東アジア分遣隊第1中隊・上等歩兵。1914年10月2日、四房山で俘虜となり、久留米俘虜収容所に送られた【『欧受大日記』大正三年十一月上より】。バーデンのウイシングハイム(Uissingheim)出身。(838:久留米)
149) Winkler(ヴィンクラー),Josef(1895-?):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・3等下士。【「1919年12月似島」と題する、タイプ打ち95枚の回想記を著したが、出版されるには至らなかった。1991年1月に、ウィーン大学へ提出されたトーマス・クリフダ(Thomas Krivda)氏の博士論文『1908-1914年並びに俘虜時代における東アジアにおけるオーストリア=ハンガリー帝国巡洋艦皇后エリーザベト及びその乗員』に、ヴィンクラーの遺稿が紹介されている】。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。オーストリアのミュルツシュラーク(Mürzuschlag)出身。(2451:姫路→青野原)
150) Winne(ヴィンネ),Paul(?-?):第3海兵大隊機関銃隊・2等兵。名古屋時代の1917年6月5日、岡本自転車製作所からヴィンネの労役を中止する旨の文書が収容所へ提出された【校條「名古屋俘虜収容所 覚書V」所載:『「青島戦ドイツ兵俘虜収容所」研究』第6号、26頁】。エアフルト(Erfurt)出身。(2757:名古屋)
151) Winterhagen(ヴィンターハーゲン),Friedrich(?-?):砲艦ヤーグアル乗員・2等水兵。1954年11月6日、青島攻防戦終結40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。更に1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ヴェストファーレンのハーゲン(Hagen)出身。(833:久留米)
152) Winterscheidt(ヴィンターシャイト),Paul(1892-1959):第3海兵大隊第4中隊・2等歩兵。1914年9月28日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米俘虜収容所に送られた【『欧受大日記』大正三年十一月上より】。ラインラントのインガー(Inger)出身。(834:久留米)
153) Wischnat(ヴィッシュナト),Friedrich(?-?):第3海兵大隊第6中隊・後備軍曹。大戦終結して解放後の1920年、蘭領印度に渡った。シュタルペネン(Stallupönen)出身。(2748:名古屋)
154) Witt (ヴィット),Ludwig A.(?-?):国民軍・階級不明。[ジータス=プラムベック青島支店]。青島時代は皇太子街に住んでいた。1919年10月29日、大戦終結後は従来勤めていた上海のH.C.Augusteslenという、デンマークの会社に就職したい旨の手紙をスイス公使に出した【『自大正三年至大正九年 俘虜ニ関スル書類』より】。青島就職既定者として日本国内で解放された。シュレースヴィヒ=ホルシュタインのゾンダーブルク(Sonderberg)出身。(4616:大阪→似島)
155) Witte(ヴィッテ),Georg(1879-?):第3海兵大隊第7中隊・上等歩兵。板東時代、収容所内のタパタオで肉屋を営んだ。また、1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会の「シニアの部」で、2時間38分12秒で第5位になった【『バラッケ』第4巻4月号83頁】。フィッセルヘヴェーデ(Visselhövede)出身。(2123:丸亀→板東)
156) Wittmann(ヴィットマン),Hans(1880-?):海軍膠州砲兵隊・海軍大尉。〔海正面(陸上砲兵隊)司令官〕。1898年4月12日海軍入りし、1901年9月13日海軍少尉、1903年3月28日中尉、1908年3月30日海軍大尉に昇進し、青島へ赴いた。青島時代はハインリヒ皇子街に住んでいた。妻エルゼ(Else)は1914年末天津に住んだ。1918年3月22日福岡から習志野へ収容所換えになった。シュトゥットガルト(Stuttgart)出身。(1637:福岡→習志野)
157) Wodarz(ヴォダルツ),Robert(?-1933):海軍膠州砲兵隊第3中隊・副曹長。青島での戦闘で右脚に貫通銃創を受け、右脚を切断していた。1916年9月12日、義足を下賜された。大阪俘虜収容所は1917年2月19日に閉鎖されたが、同年3月8日時点で大阪衛戍病院に入院していた【参照:『日独戦争ノ際俘虜情報局設置並独国俘虜関係雑纂 第四巻』在本邦俘虜名簿配付及俘虜ノ安否其他情報問合ニ関スル件】。シュレージエンのオッペルン郡のアルテ=ブトゥコヴィッツ(Alte Budkowitz)出身。(4656:大阪→似島)
158) Wohlfahrt(ヴォールファールト),Ludwig(1892-?):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・1等水兵。青野原時代、1918年12月13日から20日まで開催された俘虜製作品展覧会で、ヴォールファールトは編み物・レース編み部門にレース3点を出品した【『AONOGAHARA捕虜の世界』82頁】。ボヘミアのゼバスチアンスベルク(Sebastiansberg)出身。(2452:姫路→青野原)
159) Woineck(ヴォイネック),Fritz(?-?):海軍砲兵中隊・1等木工。熊本時代、哨兵に暴行を加えた科で禁錮1月の処罰を受けた。ブレスラウ(Breslau)出身。(3808:熊本→久留米)
160) Wolczik(ヴォルチク),Heinrich(1894-?):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・3等下士。姫路時代の1915年(月日不明)、モストラー(Mostler)と共謀して脱柵した科で禁錮8月の処罰を受けた。1919年11月14日、チェコスロヴァキア国籍が認定されて一足先に解放された。モラヴィアのヴィトゥコヴィッツ(Witkowitz)出身。(2450:姫路→青野原)
161) Wolf(ヴォルフ),Gustav(?-?):海軍東アジア分遣隊第3中隊・2等歩兵。習志野時代、東京京橋の「カフェ・パウリスタ」に洋菓子製造の指導に出向いた。ヤコビーネ/オーラウ(Jacobine Ohlau)出身。(295:東京→習志野)
162) Wolf(ヴォルフ),Hermann Ernst Oskar(1885-1938):第3海兵大隊第3中隊・予備2等歩兵。ドイツでは化学の勉強をして製薬会社に勤め、1910年ないし1912年頃ウラジオストックへ行き、大戦勃発で応召し青島に赴いた。大戦終結後は、一般送還船出発前に予め日本国内で解放された。1920年始めにドイツに帰国したが、ドイツの経済事情悪化で就職が難しく、南海丸を日本へ返す仕事に応募して、再び日本に来た。貿易の仕事に従事した後に鋼鉄の勉強をし、やがて二枚刃の安全剃刀を製作した。そのブランド名は頭文字からとったH-Wと呼ばれ、カタカナで「ハーヴェー」と書かれていたとのことである。1928年、大阪出身の日本女性「カシマ志を」と結婚した。ヴォルフはヴァイオリンが得意で、久留米オーケストラの指揮や合唱団の指揮をした。二人が出会ったのは、「カシマ志を」の琴演奏リサイタルであったと、娘のハーサ・W.ロジャースさんは語っている。合唱団を指揮する様子や、収容所の建物脇のベンチに本を広げて座るヴォルフの写真がロジャースの元に遺されている。1930年4月頃、脳卒中で4ヶ月寝たきりになった。剃刀製造会社は閉鎖・倒産のやむなきに至った。1938年11月二度目の脳卒中に倒れ、二日後に他界した。日本ではほとんどを神戸市の青谷町に住んだ。1966年、妻の「志を」はハーサの住むアメリカへ渡り、1968年11月に癌で死亡した【ハーサ・W.ロジャーズ/安達康子訳「父、ヘルマン・エルンスト・オスカー・ヴォルフ」より。所載:『ドイツ軍兵士と久留米』142-144頁】。ハンブルク(Hamburg)出身。(824:久留米)
163) Wolff(ヴォルフ),Josef(1875-1923):第3海兵大隊第6中隊・後備軍曹。松山時代(公会堂・収容)の1915年9月22日、クレーマン予備副曹長(Kleemann)から誕生日祝いの招待を受け、前後の思慮なく酩酊して脱柵し、民家に立ち入った科で23日に重営倉10日に処せられた。コーブレンツ(Koblenz)出身。(3162:松山→板東)
164) Wölk(ヴェルク),Max(?-?):第3海兵大隊第6中隊・予備伍長。〔湛山堡塁〕。[青島郵便局]。1914年11月2日の未明4時10分頃、ヴェルクは第6中隊の湛山兵営から湛山堡塁に電話をかけて、第2小堡塁の電信状態についての調査依頼をした。ラーン(Laan)が進んでその任務に赴いた。東プロイセンのピラウ(Pillau)出身。(3164:松山→板東)
165) Wolkenhauer(ヴォルケンハウアー),Gustav(?-?):第3海兵大隊第1中隊・上等歩兵。1918年12月2日、久留米からブレーメンの家族に宛てて、久留米収容所をスケッチした絵葉書を送った【イェキッシュ氏所蔵】。『ドイツ兵捕虜と収容生活―久留米俘虜収容所W―』(2007)113頁には、ヴォルケンハウアーの撮影になるスポーツ大会の写真2枚が掲載されている。アラー(Aller)河畔のヴェルデン(Verden)出身。(806:久留米)
166) Wolschke(ヴォルシュケ),Friedrich Hermann(1893-1963):海軍膠州砲兵隊第2中隊・2等砲兵。[屠畜職マイスター]。1891年7月31日、ブランデンブルクのラウノ(Rauno)に生れた。兄(Friedrich Paul)、弟(Friedrich Carl)、妹(Marie Martha,Frieda Charlotte,Agnes Margarethe,Anna Marie)四人の7人兄弟の次男だった。似島時代、屠畜職人だったケルン(Kern)、シュトル(Stoll)の三人で、当時の広島市広瀬町上水入町のハム製造会社酒井商会でハム製造の技術指導をした。三人の写真が『広島中国新聞』(大正8年12月25日付け)に掲載された。1919年3月4日から広島県物産陳列館で開催された俘虜作品展示即売会では、バウムクーヘンを出品するようユーハイムを励まし、自身はソーセージを出品し、またドイツ料理を供した。似島獨逸俘虜技術工藝品展覧會のために発行された「似島獨逸俘虜技術工藝品展覧會目録」の33頁には、ヴォルシュケ料理のスケッチが掲載された【〔図3〕参照】。大戦終結後は、銀座に新規開店した明治屋経営の「カフェー・ユーロップ」のソーセージ製造主任になった。後に軽井沢に自分の店「ヘルマン」を創業した。1932年、アメリカからベーブルース等を含むプロ野球チームが来日した折り、甲子園球場で日本初のホットドッグを販売した。第二次大戦中は同盟国の人間でありながら、長野県野尻湖畔で営業活動を停止されて、いわば幽閉生活を送った。第二次大戦後、戦前に東京の狛江に建てられた牛豚の解体・加工施設の一画を借り受けてハム・ソーセージの本格的な製造を始め、群馬県の養護施設にハム・ソーセージを毎月届ける等の福祉事業にも貢献した【参照:西東秋男『日本食文化人物事典』57頁(筑波書房)】。今日、息子のヘルマン・ヴォルシュケ氏が神奈川県厚木で「ヘルマン」を営業している。東京・狛江の泉龍寺に墓があり、墓碑には「遥かなる祖国ドイツを誇り、第二の故郷日本を愛したヘルマン・ヴォルシュケここに眠る」と記されている。ブランデンブルクのラウノ(Rauno)出身。(4099:大阪→似島)
167) Wolter(ヴォルター),Otto(?-?):第3海兵大隊第2中隊・上等歩兵。板東時代、1918年6月25、27、28日の三日間上演された、シェイクスピア作の喜劇『じゃじゃ馬馴らし』にグルミオ役で出演した。ヴィッテンベルク(Wittenberg)出身。(2110:丸亀→板東)
168) Worms(ヴォルムス),Ernst(1887-1945):海軍野戦砲兵隊・軍曹。板東時代、1917年5月に松山収容所からの人員を加えて拡大した「エンゲル・オーケストラ」の団員で、トロンボーン及びコントラバスを担当した。また収容所第7棟の3室で理髪業を営んだ。ザクセンのツァイト(Zeit)出身。(3172:松山→板東)
169) Woerz(ヴェルツ),David(1894-1943):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。1919年10月24日に開催された「スポーツ週間」のBクラス80mハードルに出場し、12.8秒のタイムで第2位になった。ヴュルテンベルクのガイスリンゲン(Geislingen)出身。(815:久留米)
170) Woserau(ヴォーゼラウ),Arthur(?-?):国民軍・卒。1915年9月20日、青島から大阪収容所に移送された。ベルリン(Berlin)出身。(4708:大阪→似島)
171) Wössner(ヴェスナー),Albert(?-?):第3海兵大隊第5中隊・後備軍曹。[巡査]。妻ベルタ(Berta)は息子(12歳以下)と二人青島に留まった。自分の四阿(あずまや)の前に立つヴェスナーの写真が現存し、資料に紹介されている【『特別資料展「ドイツ兵の見たNARASHINO ―1915-1920 習志野俘虜収容所」展示品図録』87頁】。大戦終結後は、特別事情を有することから青島居住を希望した【『俘虜ニ関スル書類』より】。ヴュルテンブルクのロムバッハ(Lombach)出身。(1803:静岡→習志野)
172) Wostmann(ヴォストマン),Hermann(?-?):砲艦ヤーグアル乗員・1等軍楽兵曹。習志野時代、収容所における1915年12月25日のクリスマス・コンサートではクーロ(Kuhlo)中佐のピアノとベーロウ(Below)予備少尉のチェロに合わせて、メンデルスゾーンの「ピアノ三重奏曲第一番」からのアレグロとアンダンテを、さらに「ジョスランの子守唄」はゼーバッハ(Seebach)、ハイメンダール(Heimendahl)両少尉のピアノに合わせてヴァイオリン演奏した。習志野弦楽四重奏団の一員で、第二ヴァイオリンを担当した。他の三人はミリエス(Milies;第一ヴァイオリン)、ハルツェンブッシュ(Hartzenbusch;ヴィオラ)及びテーン(Theen;チェロ)である。1919年10月1日、第2回「芸術家コンサート」がヴォストマン氏のためにと銘打たれて開催された。また同年10月5日に開催された「マルフケのための謝恩の夕べ」では、終了の音楽としてヴェーデル(Wedel)少佐作曲の「大分行進曲」を指揮・演奏した。ブランデンブルク(Brandenburg)出身。(303:東京→習志野)
173) Wroblewsky(ブロブレフスキー),Walter(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。1916年10月2日、名古屋の「いとう呉服展」(現松坂屋)からブロブレフスキー、プレッチュ(Pretzsch)及びシューマン(Schumann)の3人を、洋楽教授として雇用する旨の申請書が提出された。労働条件は日曜を除く毎日午前9時から午後4時までで、給与は1ヶ月20円である。また、1918年7月6日付けで、クリューゼ(Krüsel)とともに名古屋楽器製造合資会社から労役申請があった【校條「名古屋俘虜収容所 覚書V」所載:『「青島戦ドイツ兵俘虜収容所」研究』第6号、21頁】。ベルリン(Berlin)出身。(2749:名古屋)
174) Wulff(ヴルフ),Andreas(?-?):第3海兵大隊第4中隊・後備2等歩兵。1919年12月のクリスマスは、クルーゲ(Kluge)、マル(Marr)及びヘルビヒ(Helbig)の四人で過ごした。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。ハンブルク(Hamburg)出身。(3789:熊本→久留米)
175) Wunderlich(ヴンダーリヒ),Alexander(?-?):海軍東アジア分遣隊・後備副曹長。[ベンク・ウント・クレッチュマー商会青島支店]。青島時代は皇太子街に住んでいた。松山時代(大林寺収容)の1916年9月19日、ヴンダーリヒから上海に居住するツィンマーマン(Otto Zimmermann)の妻に宛てた小包の二重底に、6名の信書が隠されていたことが発覚し、重謹慎20日の処罰を受けた。他の5名はゲルビヒ(Gerbig)、イェシュケ(Jeschke)、マイアー(Otto Meyer)、シャイダー(Scheider)、ツンマーマン(Otto Zimmermann)である。なお、松山時代には大林寺の収容所講習会で英語の講師を務めた。板東時代、1917年5月に松山俘虜収容所からの人員を加えて拡大した「エンゲル・オーケストラ」の応援で、ピアノを担当した。また板東では、収容所内のタパタオでローデ(Rode)と共同で薬局を営んだ。1918年10月23日には、マイヤー・フェルスター作の戯曲『アルト・ハイデルベルク』上演に際して演出を担当し、1919年3月5日には「ラジウムと放射能」の題で講演した。ノルトライン=ヴェストファーレンのイーゼルローン(Iserlohn)出身。(3175:松山→板東)
176) Wunschel(ヴンシェル),Hans(1893-1968):海軍膠州砲兵隊第3中隊・1等砲兵。グロースヴェンデルン(Grosswendern)出身。(1799:静岡→習志野)
177) Wunschhof(ヴンシュホーフ),Otto(?-?):第3海兵大隊第7中隊・上等歩兵。[ジータス、プラムベック青島支店]。青島時代はホーエンツォレルン街に住んでいた。東プロイセンのアンガーブルク(Angerburg)出身。(2118:丸亀→板東)
178) Wüst(ビュスト),Walter(1892-1961):海軍東アジア分遣隊第3中隊・2等砲兵。テューリンゲンのアルンシュタット(Arnstadt)出身。(294:東京→習志野)
179) Wuttka(ヴトカ),Richard(?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・2等砲兵。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に際して、美術の工芸木工部門でシュミット(Ambrosius Schmidt)と共同で、鳥籠1点を出品した。上部シュレージエンのブランデ(Brande)出身。(4100:大阪→似島)
180) Wutz(ヴッツ),Josef(1885-1941):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。1915年7月11日福岡から久留米へ収容所換えになった。解放後は中国へ赴きエルゼ(Else X)と結婚した。1939年クンスト・ウント・アルバース(Kunst & Albers)商会天津支店に勤務した。オーバープファルツのティーフェンバッハ(Tiefenbach)出身。(1689:福岡→久留米)