1)     Zabel(ツァーベル),Adolf?-?):海軍膠州砲兵隊2等砲兵。1916925日福岡から青野原へ収容所換えになった。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。ブレーメン(Bremen)出身。(1696:福岡青野原)

2)     Zach(ツァッハ),Georg1893-1964):巡洋艦グナイゼナウ乗員・2等焚火兵。病気のため残留していた東カロリン群島のポナペ島で逮捕された。19141129日横須賀に上陸後、リュールス(Lührs)とともに海軍により護送されて東京収容所に送られた【『戦時書類』巻58より】。大戦終結して解放後は、蘭領印度に渡った。シュナイテンバッハ(Schneitenbach)出身。(87:東京習志野)

3)     Zahn(ツァーン),Julius?-?):海軍膠州砲兵隊第1中隊・予備伍長。大阪時代の1916年(大正533日付け)にドイツに宛てて出した手紙が郵趣家大西二郎氏の元に所蔵され、『大阪俘虜収容所の研究 大正区にあった第一次大戦下のドイツ兵収容所317頁に全文が掲載されている。シュレージエンのヤゥアー(Jauer)(4112:大阪→似島)

4)     Zarges(ツァルゲス),August1892-1957):海軍膠州砲兵隊・2等砲兵。ヴェストファーレンのプレッテンベルク(Plettenberg)出身。(1694:姫路青野原)

5)     Zeffler(ツェフラー),Albert?-1919):海軍膠州砲兵隊第2中隊・砲兵軍曹長。19161020日福岡から大阪へ収容所換えになった。1919327日、似島で死亡。シュレージエンのシュトリーガウ(Striegau)出身。(1692:福岡大阪似島)

6)     Zeiss(ツァイス),Eduard?-?:海軍野戦砲兵隊・予備副曹長。青島への応召前は、東京で商人として従事していた。熊本時代の1915124日、阿弥陀寺に収容されていたツァイスは、ブッシュ(Busch)、フリッケ(Fricke)及びラッペンエッカー(Rappenecker)の四人で収容所から脱走した。夜の内に海岸へ20キロの地点まで進んだ。翌朝早くに同罪となることを恐れたシューマン(Paul Schumann)の報告で脱走が分かり、四人はボートで海に漕ぎ出す寸前で警察官に逮捕された。荒縄で繋がって縛られて収容所に連れ戻され、やがて軍法会議で一年の禁錮に処せられた。拘禁中は赤茶色の囚人服を着せられた。26日、禁錮1年の刑を受けたが、恩赦によって出獄した。大正天皇の即位による恩赦で1222日に(クリスマスとの説もある)に釈放されて久留米収容所に送られた【アドルフ・メラー『日本の収容所からの脱走の企て』(Meller,Adolf:Fluchtversuche von Tsingtau-Verteidigern aus japanischem Gewahrsam im Ersten Weltkrieg)より】。久留米時代、191816日の収容所コンサート「リヒャルト・ワーグナーの夕べ」等で指揮者として活躍した。またヘルトリング及びフォークトとともに収容所の音楽教育にも携わった。19189月頃、187名が他の収容所に移って16号棟が空き、ツァイスはシュナック(Schnack)及びエーリヒ・フィッシャー(Erich Fischer)とともに町でピアノを借りて練習した【『ドイツ兵捕虜と収容生活―久留米俘虜収容所W―』(200737頁】。また同書153頁には、ツァイスがドイツの友人に宛てた手紙が紹介されている。演劇活動では、19191217日から18日にかけて、久留米俘虜収容所最後の芝居となったイプセン作の『国民の敵』等の演出をするとともに、5演目に出演した。1954116日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。アウグスブルク(Augsburg)出身。(3826:熊本久留米)

7)     Zenkert(ツェンケルト),Stefan?-?:第3海兵大隊第3中隊・2等歩兵。1914928日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米俘虜収容所に送られた【『欧受大日記』大正三年十一月上より】。ヴュルテンベルクのラウデンバッハ(Laudenbach)出身。(850:久留米)

8)     Zieger(ツィーガー),Albert?-?:第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。1914928日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米俘虜収容所に送られた【『欧受大日記』大正三年十一月上より】。ライプチヒ(Leipzig)出身。(841:久留米)

9)     Zientek(ツィーンテク),Hipolit?-?:第3海兵大隊工兵中隊・2等工兵。1914928日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米俘虜収容所に送られた【『欧受大日記』大正三年十一月上より】。191887日久留米から板東へ収容所換えになった。ポーゼンのヤロチン(Jarotschin)郡グラープ(Grab)出身。(851:久留米板東)

10)    Ziercke(ツィールケ),Fritz?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。松山時代(公会堂収容)の1915108日、婦女に戯れる目的で脱柵した科で、翌9日に重営倉30日に処せられた。ハンブルク(Hamburg)出身。(3178:松山板東)

11)    Ziesel(ツィーゼル),Wilhelm1886-?:海軍膠州砲兵隊第5中隊・予備副兵曹。久留米時代には演劇活動で、ドレディ作の喜劇『お似合いの燕尾服』に出演した。『ドイツ兵捕虜と収容生活―久留米俘虜収容所W―』(2007123頁には、読書をしているツィーゼルの写真(久留米時代の1916927日)が掲載されている。191885日久留米から名古屋へ収容所換えになった。解放後は中国へ渡った。1920121日除隊し、同年228日付けで予備役少尉になった。1925年に中国ジーメンス漢口支店に勤務、1939年時点で妻マリーア(Maria)と同地に住んでいた。ケルン(Köln)出身。(3830:熊本久留米名古屋)

12)    Zillig(ツィリッヒ),Otto?-?):第3海兵大隊・副曹長。青島時代はダンチヒ街に住んでいた。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。シュマレミンケン(Schmallemingken)出身。(3825:熊本久留米)

13)    Zimmerツィンマー,Karl?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。〔湛山堡塁〕。[ディーデリヒセン上海支店]。戦争の当初はラーン(Laan)とともにビスマルク兵営で、本部警備隊に食事やコーヒーを運ぶ任務に就いていた。その後湛山堡塁に移った。板東時代の1919417日に開催された21キロの競歩大会で(当時26歳)、2時間3316秒で39位になった【『バラッケ』第44月号81頁】。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ツェルフェルト(Zerfeld)出身。3180:松山板東)

14)    Zimmermann(ツィンマーマン),Ernst?-?):第3海兵大隊第7中隊・上等歩兵。板東時代、19186252728日の三日間上演された、シェイクスピア作の喜劇『じゃじゃ馬馴らし』にじゃじゃ馬役で出演した。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。シュタスフルト(Stassfurt)出身。(2133:丸亀板東)

15)    Zimmermannツィンマーマン,Fritz1884-?):3海兵大隊第7中隊・予備陸軍少尉。[アルンホルト=カルベルク通州支店]。ラインラントのオーバーハウゼン(Oberhausen4621大阪似島

16)    Zimmermann(ツィンマーマン),Georg1892-1931):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。1892117日、使用人の子としてザールブリュッケンに生れた。19148月上記中隊に入隊した【シュミット】。ザールブリュッケン(Saarbrücken)出身。(2132:丸亀板東)

17)    Zimmermann(ツィンマーマン),Heinrich1893-?):3海兵大隊4中隊・2等歩兵。送還船の豊福丸船内で発行された新聞『帰国航』の最終号に、次の詩を寄せて幾分切ない雰囲気を漂わせた。「我らの誇れる旗が降ろされるまで、己が持ち場で耐え抜いた我々を、運命はいまや東へ西へと散り散りにする」【メッテンライター『極東で俘虜となる』77頁】。バーデンのネッカルゲミュント(Neckargemünd)出身。(2765:名古屋)

18)    Zimmermann(ツィンマーマン),Joseph?-?):3海兵大隊第3中隊・2等歩兵。1917524日、情報局から各収容所への製針業に従事していて労役希望の照会に際して、久留米ではツィンマーマン他3名を届け出た。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ラインラントのデューレン(Düren)出身。(845:久留米)

19)    Zimmermann(ツィンマーマン),Julius?-?):海軍砲兵中隊・2等信号兵曹。[商船船長]。習志野時代、クリューガー(Karl Krüger)と同室だった。小柄でずんぐり太っていた。クリューガーによると、両手をいつもポケットに入れて歩き、人をからかうのが好きだった。ニーダーザクセンのオスト=グローセフェーン(Ost-Grossefehn)出身。(312東京習志野

20)    Zimmermann(ツィンマーマン),Kurt1891-1983):第3海兵大隊第5中隊・2等歩兵。板東時代、19175月に松山俘虜収容所からの人員を加えて拡大した「エンゲル・オーケストラ」の団員で、テノール・ホルンを担当した。ドイツに帰国後の1922 年、エマ(Emma Hanke)と結婚して息子二人をもうけた。20036月、ブラウンシュヴァイクで開催された「第2回ベートーヴェン『第九』里帰り公演」に際して、息子の妻ヴァルトルート・ツィンマーマンから、軍隊手帳と手書きの絵葉書が鳴門市ドイツ館に寄贈された。ザクセンのヴルツェン(Wurzen)出身。(3177:松山板東)

21)    Zimmermannツィンマーマン,Dr.Manfred?-?:第3海兵大隊第4中隊・予備陸軍中尉。青島時代はディーデリヒス通に住んでいた。191887日久留米から板東へ収容所換えになった。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。出身地不明(『俘虜名簿』では青島)。(3822:熊本久留米板東)

22)    Zimmermannツィンマーマン,Max?-?:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。本名はヤン・パホルチック(Jan Pacholczyk)でユダヤ系ポーランド人。22歳の時スターコンチノクの歩兵第45連隊に入隊するが1ヶ月後に脱走する。その後フランスのパリで約一年間指物師の修業をする。再びロシアに戻り、シベリア、トルキスタン、満州を経て中国を放浪する。1914年夏、青島に来た。病気と貧困に耐えられず、ちょうど募集中の青島守備軍に国籍、居住地を偽って入隊する。病気のため衛戍病院送りとなり後方勤務となるが、青島陥落で俘虜となり日本に送られた」【『「第九」の里 ドイツ村』134頁】。1916109日、トロイケ(Treuke)とともに大阪から丸亀に移された。板東では後に、トロイケ、コッホ(Lambert Koch)、ヘルトレ(Haertle、ヴァルシェフスキー(Waluschewski)等の反ドイツ感情の強いポーランド人、ロシア系ユダヤ人と一緒に成就院分置所に隔離収容された。後に板東で宣誓解放された。ロシア領ポーランドのガリチア出身。(『俘虜名簿』では、ドレスデン近郊のグリンメンハウゼン(Grimmenhausen))。4116:大阪丸亀板東)

23)    Zimmermann(ツィンマーマン),Otto Johann Albert1885-?):第3海兵大隊第4中隊・副曹長。松山時代(大林寺収容)の1916919日、ヴンダーリヒ(Wunderlich)から上海に居住するツィンマーマンの妻に宛てた小包の二重底に、6名の信書が隠されていたことが発覚し、ツィンマーマンは重謹慎15日の処罰を受けた。他の4名はゲルビヒ(Gerbig)、イェシュケ(Jeschke)、マイアー(Otto Meyer)、シャイダー(Scheider)である。ポッメルンのポイシン(Poissin)出身。(3176:松山板東)

24)    Zimmermann(ツィンマーマン),Peter?-?):海軍東アジア分遣隊第3中隊・2等歩兵。1915711日福岡から久留米へ収容所換えになった。久留米時代、1918916日から日本足袋株式会社に、木綿織物の労役で出向いた。労働時間18時間、賃金は1ヶ月24円(内4円は国庫納入)であった【『ドイツ軍兵士と久留米』24頁】。ミュンヘンのグラートバハ(Gladbach)出身。(1701:福岡久留米)

25)    Zimmermannツィンマーマン,Wilhelm1893-?):海軍膠州砲兵隊第4中隊・2等砲兵。ライン河畔のグレッフェルン(Greffern)出身。1809静岡習志野

26)    Zinck(ツィンク),Walther?-?):海軍東アジア分遣隊第2中隊・予備伍長。1915920日福岡から名古屋へ収容所換えになった。ローマン(Lohmann)の遺品中に、ツィンクがアルトマン(Altmann)及びローマンの三人で、名古屋収容所の建物の窓辺で撮った写真が現存している【ローマンの項参照】。ライプチヒ(Leipzig出身。(1697:福岡名古屋)

27)    Zipp(ツィップ),Michel1892-1961):海軍東アジア分遣隊第2中隊・2等歩兵。レーゲルスフルスト(Legelshurst)出身。(1698:姫路青野原)

28)    Zöffel(ツェッフェル),Werner?-?):海軍東アジア分遣隊第3中隊・上等歩兵。1915711日福岡から久留米へ収容所換えになった。久留米時代、1918916日から日本足袋株式会社に、木綿織物の労役で出向いた。労働時間18時間、賃金は1ヶ月24円(内4円は国庫納入)であった【『ドイツ軍兵士と久留米』24頁】。ザクセンのクリミチャウ(Crimmitschau)出身。(1699:福岡久留米)

29)    Zoellnerツェルナー,Hermann1891-?):第3海兵大隊第2中隊・予備上等歩兵。1914928日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米俘虜収容所に送られた【『欧受大日記』大正三年十一月上より】。1915102日、アール(Ahl)、ルント(Lund)、ズィン(Sinn)の4名で脱走したが、3名は同日捕まり、ズィンも5日に捕まった。ブランデンブルクのノイルッピン(Neu-Ruppin)出身。(840:久留米)

30)    Zoepke(ツェプケ),Gustav1872-?):海軍経理監部1等秘書官。[徳華高等学堂事務局長]。青島時代はイレーネ街に住んでいた。妻ミンナ(Minna)はこども二人と大戦終結まで上海で暮らした。キール(Kiel)出身。(852:久留米)

31)    Zorn(ツォルン),Franz?-?:海軍砲兵中隊・2等砲兵。1918322日福岡から習志野へ収容所換えになった。1919829日付けの『東京日々新聞』によれば、千葉県安房郡勝山町の房総練乳勝山工場へ毎週火曜と木曜の週二回出張して、コンデンスミルクの製造を指導した【『ドイツ兵士の見たNARASHINO33頁】。ザーレ河畔のハレ(Halle)出身。(1691:福岡習志野)

32)    Zorn(ツォルン),Max?-?):第3海兵大隊第3中隊・2等歩兵。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ウンター=ヴィッティッヒハウゼン(Unter-Wittighausen)出身。(846:久留米)

33)    Zorngiebel(ツォルンギーベル),Theodor1891-1974):海軍東アジア分遣隊第3中隊・上等歩兵。[指物師]。1915711日福岡から久留米へ収容所換えになった。1919420日に行われた「久留米体操クラブ」の5種競技(投擲用ボール投げ、石投げ(15kg)、幅跳び、棒高跳び、100m競争)では、75点を獲得して上級の部の第5位になった。バーデンのヴァルドゥルン(Waldürn)出身。(1700:福岡久留米)

34)    Zug(ツーク),Kurt?-?):3海兵大隊6中隊・2等歩兵。[天津・テルゲシュレーダー商会]。ライプチヒ(Leipzig)出身。(3179:松山板東)

35)    Zulliani(ツリアーニ),Pietro1891-1966):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・3等水兵。1916109日、デスコヴィック(Descovvick)等12名と青野原から丸亀に移送された。板東収容所へ移送後まもなくの1917622日、イタリアの連合国加盟により宣誓解放された。高木大尉以下下士13名の付き添いの下、小松島港から徳島丸(共同丸?)で神戸に着き、同夜は栄町の「恵比須屋旅館」に投宿した。大正6624日付『神戸新聞』には、その折の高木大尉を囲む記念写真、旅館でくつろぐ13名の解放俘虜の写真が掲載された。1917930日付けで、オーストリア=ハンガリー二重帝国海軍から逃亡兵として除隊処分になった。イストリアのグラード(Grado)出身。(2455:姫路青野原丸亀板東)

36)    Zwanck(ツヴァンク),Otto1890-1978:海軍東アジア分遣隊第3中隊・予備伍長。習志野時代、191935日に開催された「朗読の夕べ」で、ドイツロマン派の詩人シャミッソーの詩「太陽が一日をもたらす」を朗読した。ハンブルク(Hamburg)出身。(310:東京習志野)