シベリアの聖書
小阪清行
 
 ほぼ半世紀前、西南ドイツのテュービンゲン大学で勉強していた僕はSMD(Studentenmission in Deutschland)というグループに属していた。プロテスタント学生たちの集まりで、ドイツ中の大学に同じような組織が張り巡らされていた。Missionというからには伝道活動もやる訳だが、僕が知る限り非キリスト者への働きかけは、学生食堂でキリスト教関連の書籍を販売するくらいだった。
 僕がそのグループに出入りするようになった経緯はこうである。
 ある日、学生食堂でSMDの書籍コーナーの前を通りかかったとき、留学生向け語学コースで顔見知りだったアメリカ人女学生から声をかけられた。今晩シュティフト(神学寮)で留学生の集まりがあるが、来ないかと。
 もともと僕がテュービンゲンを留学先に選んだのはヘルダーリンについて勉強したかったためだった。そのヘルダーリンが、この神学寮でヘーゲルおよびシェリングと同室だったというのは有名な話である。(百人くらいしか収容できないこの寮で歴史に残る三人が同室だったとは、何という奇跡だろう。)僕はテュービンゲンに着いたその日に、シュティフトの周辺をうろついてみたが、中庭までは入れても、建物の内部まで入って行く度胸はなかった。建物の内部どころか、部屋の中にまで入れる機会はそうしょっちゅうはなかろう、とまず思った。クリスチャン学生のグループには、ほとんど興味はなかった。
 その集まりは六・七人の小さな聖書研究会で、キムという韓国人の部屋で行われていた。彼は三十歳前後の牧師で、いかにも人の良さそうな顔をしていた。「お国では、われわれの同胞がご迷惑をかけています」というようなことを言われて面食らった。歴史を振り返れば、謝罪しなければならないのは、どう考えてもわれわれ日本人だった。
 留学生の集まりという話だったが、一人だけドイツ人がいた。ヘルムートという牧師志望の神学生で、お姉さんが日本の川崎で宣教師をしていると言う。ヘルマン・ヘッセ(彼の祖父と両親も宣教師だった)が生まれ育ったカルフの隣にバート・リーベンツェルという小さな町がある。このシュヴァルツヴァルトの美しい保養地を本拠地としているのがリーベンツェラー・ミスィオーンという宣教団であって、彼女はそこから派遣されているそうだ。そもそもこの宣教団結成の歴史的背景には、ルター派を中心とした教会の世俗化に抵抗する自由教会運動があった。そしてこの運動には敬虔主義が底流していた。昔からテュービンゲン周辺の西南ドイツは、敬虔主義が特に盛んで、ヘルダーリンもそういう環境で育っていた。
 敬虔主義とは何なのか。ドイツ文学史を少しでも囓った者なら誰でも知っていることだが ― 病魔に襲われた十九歳のゲーテは、実家で療養中に母親の友人ズザンナ・フォン・クレッテンベルク嬢という敬虔主義の女性を通して、初めて霊的な世界に触れた。このことがゲーテの宗教観に大きな影響を与え、その体験から珠玉の小品『美しき魂の告白』が誕生したのだった。
 
 SMDはほぼ毎日、大学図書館の裏にあるバプティスト教会の集会室を借りて祈祷会を行っていた。また数ヶ月に一度、週末にシュヴァルツヴァルトの休暇施設などで合宿を行っていた。クリスチャンファミリーで育った品の良い学生たちの集まりだった。そんな学生たちに対して、ひねくれ者の僕は少しだけ反発のようなものを覚えていた。内村鑑三の本を通してキリスト教に接していた僕には、知らず知らずのうちに「外国人宣教師」的なもの(欧米以外の文化を下にみる傾向)への嫌悪が染みこんでいたに違いない。
 しかし、中にはそんな反発を全く感じさせない学生もいた。その数少ない学生の一人がアニーという幾分顔つきが暗いが、美しい物静かな医学生だった。近づくと壊れて、あるいは穢れてしまいそうなほどに純粋で、気安く話しかけることなど思いも及ばない。そんな雰囲気が漂っていた。合宿では、神学部教授や牧師の講演、テーマを決めての討論会、レクリエーションなど様々なプログラムが組まれていた。ドイツ人は一般に議論好きで雄弁な人間も多いが、アニーはいつもジッと黙って聞き入るばかりだった。
 合宿での昼食後、一人で森の小径を散歩したことがあった。そのときたまたまアニーに出くわした。連れがいたが、それがイングリットというアニーとは全くミスマッチな女子学生だったので少なからず驚いた。イングリットはコケティッシュな感じがあり、よく喋べる女の子だった。彼女の方から僕に話しかけてきて、カメラを持った僕に二人を撮ってくれという。そのあと、アニーと僕を撮ってあげると言って、有無を言わさず僕のカメラを取り上げた。その時の写真が長く僕のアルバムに貼ってあったが、今は剥がされて、その部分は空白になっている。
 アニーはその約十年後、留学生仲間だった小川修さんと結婚した。
 小川さんは東大法学部を出て富士銀行に勤めていたが、退職して神学の勉強に打ち込んでいた人だ。なぜ出世街道から離れたのか ― 結婚直前に突然婚約解消という出来事があったとは聞いているが、それと方向転換との関係の有無については、僕は知らない。そもそも小川さんは銀行員をやるようなタイプではなかった。母子家庭だったから、母親に楽をさせようと思って、経済的に安定したコースを選んでいた可能性はある。
 世界を観る目が幾分シニカルに感じられるときもあったが、ルーテル派の牧師でありフランシスコ会士でもある信仰上の恩師について語るときは、一つ一つの言葉に畏敬の念が感じられた。
 彼の専門はバルト神学で、彼の部屋で留学生仲間数人と『教会教義学』の読書会をやってもらったことがある。一切ブレがなく常にすべてが一点に集中している、そんな印象を持った ― バルトに関して、そして小川さんに関しても。忘れられない想い出だ。
 彼は僕よりもかなり年上だったが、テュービンゲンでは僕が半年先輩だったので、彼をSMDに誘ったのは僕だった。結果的に、彼をアニーに引き合わせたのは僕だということになる。
 「アニーって娘は凄いね」
 「ドイツには今もあんな娘がいるんだねえ。まだまだ捨てたもんじゃないね」
 そんな言葉を、軽い噂話のような調子で、何度か交わした記憶があるにはあったが、彼がアニーと結婚するなどとはもちろん夢想だにしなかった。
 二人の結婚については、彼からの電話で知った。しかも同時にその時、アニーの死についても聞かされた。結婚の経緯については聞かなかったが、ともかく結婚後二人はしばらく日本に住んでいた。しかし、アニーの精神状態が尋常でないので、ドイツに戻って、デュッセルドルフの日本人学校で副校長をしながら、彼女の面倒をみていたが、ある日行方不明になったまま半年が経った。結局アニーは白骨化した状態で、ライン川の河原で発見された。
 アニーの家庭の事情は極めて複雑で、家系的に何人も精神障害者がいるとのことだった。
 日常会話のような淡々とした話し振りだった。何を話すときも、彼はいつもそうだった。しかしそこに一種独特の差し込んでくるものがあった。
 彼からの電話のあと数日間、心にぽっかり穴が空いたような虚無感に襲われた。
 テュービンゲン時代のアニーの写真は、恐らく小川さんも持っていないだろうと思って、例の散歩のときの写真を小川さんに郵送した。田舎大学の教師になって那須の山奥に籠もった彼とは、年に数回メールの遣り取りがあり、まれに電話で話したこともあったが、2011年に癌で亡くなられた。『小川修パウロ書簡講義録』全十巻(同志社神学部大学院での講義録)が残されている。
 
 テュービンゲンでの二年目。いつの間にか、僕の興味は文学から宗教に移っていた。初級ラテン語クラスに参加したり、神学部のプロゼミに入ってルターの勉強をやったりしていた。ちょうどそんなとき、当時まだ共産主義国だった東ドイツのヴィッテンベルク(ルター・シュタット)から、一人の日本人が通訳を募集にやってきた。三井系のエンジニアリング会社がヴィッテンベルクでアンモニアプラントを建設していると言うのである。三百人ほどの日本人が働いているから、何人もの通訳が必要だ、とのことだった。
 色々考えた挙げ句、東独に行くことにした。それを友人たちに告げると、ヘルムートが、東独に行くんだったら是非ゲスニッツという町のディッテル氏を訪問してくれ、と言う。日本で宣教師をしている彼の姉さんの友だちなのだそうだ。そう言って住所を渡された。
 一・二ヶ月経ってプラント現場での仕事に慣れてくると、週末は暇だった。給料は日本円の他に東マルクも支給されていたが、共産圏の田舎町に日本人が買いたい物などあるはずもなく、多くの日本人にとって、東マルクの使い道はヴィッテンベルクの酒場でビールを飲むくらいだった。
 幸いにして僕の場合、旅行するのに言葉の障害がなかった。ディッテル氏に予め手紙を出して、日にちを決めて訪問することにした。
 ヴィッテンベルクからゲスニッツまでは結構な距離だった。しかも鉄路は、日本では子供時代以来見たことも乗ったこともない蒸気機関車だった。片道4・5時間もかかっただろうか。
 ゲスニッツは人口五千に満たない辺鄙な田舎町だった。東ドイツはどこでもそうだが、町全体が煤を帯びて灰色である。西ドイツを覆っていた溌剌とした生気はほとんど感じられず、重苦しい空気が澱んでいた。
 しかしディッテル家の人間は違っていた。ディッテル氏は四十代半ば。ベレー帽が似合う頑強な体格の人物で、子供が六人いた。一番上は僕とあまり変わらない年頃の娘さん。その下に男の子が三人。そのまた下に、十五歳くらいのルートという女の子と、フランクという十二歳の男の子。ルートは、一瞬息が止まりそうになるほどの美少女で、フランクも「ヴェニスのタジオ」並みの美少年だった。下の二人は母親似だったかもしれない。
 ともかく明るい家庭だった。ディッテル氏は、ヘルムートのお姉さんとは直接会ったことはなくて、誰かの紹介で文通していたようだ。言ってみれば僕は彼にとって、単なる「文通相手の弟の友人」に過ぎなかった訳だが、下にも置かないもてなしだった。意地悪く考えればその歓待の背後に、(近寄ってくる東ドイツ人にしばしば感じたことだが)僕が当時の東ドイツでは珍しい西側の人間であったことや、ルターを勉強している「奇特な」日本人だったことが、多少は関係していた可能性がなくもなかったろう。しかしそんな皮相な見方を吹き消すだけの自然さと真実が、ディッテル家にはあった。
 ディッテル氏は「Sie(あなた)はやめて、互いにdu(親しい者同士での呼称)を使おう。それから『ディッテルさん』もよして、パウル=ゲルハルト(ファーストネーム)と呼んでくれ」と言った。
 パウル=ゲルハルトの当時の職業はトラック運転手だったが、二十数年後にベルリンの壁が崩壊した後には、ゲスニッツの町長に選ばれた。この劇的変化が、社会体制と彼の信仰とに深く関係していたのは、言うまでもない。
 最初の訪問で記憶に残っていることがある。次女ルートはクラスでの成績がトップだったにもかかわらず、上の学校に進学できないという。東ドイツでは十四・五歳で一般の生徒はユーゲント・ヴァイエ(成人式)という儀式に参加する。その際、「唯物論的な世界観を受け入れる」という条項の含まれた書類に署名を求められる。ルートはそれ以前に教会で堅信礼を受けており、自分の信仰と矛盾するゆえに、自ら署名を拒否したとのことだった。政府は、公然とは教会に弾圧を加えないものの、反体制的な態度を見せるとたちまち牙を剥いて、締め付けを強めるようだった。
 しかしルートにも、一家にもそこからくる暗さは微塵も感じられなかった。家長であるパウル=ゲルハルトへの信頼がそうさせていたのであろう。最初の訪問のときには、僕の歓迎会のつもりだったのか、近くのアルテンブルクから牧師夫妻も招かれていた。常に冗談を交えて場を和ませる愉快な好人物だった。
 約一年後、テュービンゲンに戻る途中、ゲスニッツに立ち寄って一家に別れを告げた。数回の訪問に過ぎなかったが、涙を流すほど別れを惜しんでくれた。餞別にルター訳の新約聖書と、アダルベルト・シュティフターのアンソロジーを貰った。
 
 数週間テュービンゲンに滞在して帰国の途についた。羽田に着いた翌日、テュービンゲンで勉強を続けていた小川さんの依頼で、東京の大塚に住む彼のご母堂を訪問し、ドイツでのご子息の様子をお伝えした。小川さんは、教会関係の奨学金を得てアメリカとドイツで留学生活を続けていたので、日本には五年以上帰っていなかった。ご母堂はもちろんそんな一人息子の消息を喜んでくれた。
 またその足で、川崎で宣教師をしているヘルムートのお姉さんも訪問した。約三年間の滞在でドイツ語に慣れた僕の耳には、在日十年を越える彼女のドイツ語はもどかしいほど悠長で、妙なところで東西の「時間差」を感じさせられた。もちろんヘルムートと彼のガールフレンド(方言丸出しの医学生アグネス。後に結婚)のこと、パウル=ゲルハルトとその家族のことなど、話は尽きなかった。
 帰国後もパウル=ゲルハルトとの文通は、彼の死まで四十年以上続いた。彼の手紙は常に「君に神様の豊かなご加護があるように」で締めくくられていたが、僕はそれをクリスチャンの単なる決まり文句としか感じていなかった。僕から彼への手紙には、一度も「神」という言葉は使ったことはなかった。
 彼の死の数年前、末っ子のフランクが高校生の息子と娘を連れて丸亀の僕の家を訪問した。その頃までには、貧しかった旧東ドイツもそこそこ経済力をつけ、外国訪問もさほど難しくなくなっていた。「ヴェニスのタジオ」も、今や離婚という嵐の洗礼を受け、やや禿げかかった四十過ぎのオヤジさんになっていた。アルバムを持ち出して、彼の子供たちに「ほらこれが、君たちのお父さんが十二歳だったときの写真だよ」と言って、「爛漫」の一升瓶を抱えて微笑むあどけない父親を見せた。飲み助の多いプラント現場の売店で買って、お土産として持参したものだった。場が和んだ。三人は、四・五日わが家に滞在した。
 息子のニコと娘のカロリーンは、両親の離婚後は、母親とその再婚相手と一緒に暮らしていた。肩身の狭い思いをしているのだろう。カロリーンは、ドイツ人にしては随分引っ込み思案でおどおどしたところがある。そんな妹を兄のニコが温かくかばってやっているのが、傍目にもいじらしかった。二人を見守るフランクの目も優しかった。
 現在、パウル=ゲルハルトに代わって、フランクが僕の文通相手、いわゆるメル友である。父親と違って、キリスト教に対する敬意を失ってはいないものの、教会との接触はない。信仰を持たないSPDの党員、つまり社会民主主義者である。
 つい先日、フランクが兄弟姉妹とその家族の写真を送ってきた。毎年揃ってハイキングのようなことをやっているらしい。六人の兄弟姉妹が全員結婚していて子供もいる。大家族である。
 その写真を見ながら、「これを見れば、きっと君たちのお父さんパウル=ゲルハルトも・・・」と書こうとしたとき、一瞬、ゲルハルトのスペルが、Gerhardだったのか、tが入ったGerhardtだったのか、忘れて出てこなかった。無駄だろうとは思ったが、試みにPaul-Gerhard Dittelと検索エンジンに入れて検索してみた。するとパウル=ゲルハルトの大きな顔写真入りで、「ディッテルは如何に信仰を再発見したか」というページにヒットした。
 彼の過去については折に触れて彼自身からある程度聞いてはいた ― 「ヒトラーユーゲントへの参加」「シベリア抑留」「収容所での日本人捕虜との交流」など。実際に読んでみると、知らないことがたくさんあった。
 いい記事だと思ったので、以下に訳しておきたい。死の一年半前にカトリーン・ラングハンスという女性記者がパウル=ゲルハルトにインタビューして、彼女が纏めた形になっている。サイトは、プロテスタント教会の連盟のような組織によって管理されているようだ。当然だが記者もクリスチャンだろうと推察される。
 なお、この記事には4枚の写真が挿入されているが、都合で割愛する。
 
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ディッテルは如何に信仰を再発見したか
 
 パウル=ゲルハルト・ディッテル氏が、かつてブーヘンヴァルト強制収容所だった場所で、幾百もの人間が死んでいくのを目撃したとき、彼の神への信仰は地に埋められてしまいました。しかし何年も後に、彼はシベリアのステップで一枚の紙切れに神を再発見したのです。これは、自分の身体で戦争の結果を体感した一人の男性の物語です。
                   2013年1月11日 カトリーン・ラングハンス
 
 皺だらけだが親しみのある丸顔のパウル=ゲルハルト・ディッテル(85歳)は、テューリンゲン州ゲスニッツの自宅の居間に座して、若い頃の記憶を掘り起こそうとしている。彼が如何に自身の信仰を再発見したかを理解するためには、彼がどんな風にそれを失ったのかを理解しておかなくてはならない。
 1933年、ゲッベルスの発案で大量かつ安価に製造された「国民ラジオ」から、大声でがなるヒトラーの演説が流されていたとき、ディッテルは6歳だった。友人たちに囲まれて遊び盛りだった彼は、後にヒトラーユーゲントの機械部門で、自動車の組み立て作業をやるようになった。彼の両親は時流に批判的な告白教会のメンバーだった。キリスト教的な教育を施され、祈りもし、礼拝にも参加していた。しかし家庭内で政治について話すことは滅多になかった。
 
ディッテルは戦争で兄を失った
 若い大人たちは全員戦争にとられていたので、ディッテルは16歳でヒトラーユーゲントのゲスニッツ駐屯地のリーダーに昇格した。毎日彼は、三百人の少年たちに、駆け足、匍匐前進、跳躍などをさせて、接近戦の訓練を施していた。
 15歳で少年たちを前線に送り出さなければならないという考えが彼の心を締め付けたが、しかし前線はすでにゲスニッツに迫ってきており、彼の家族をも脅かしていた。
 前線で戦っている兄からのハガキを読んだとき、戦争の無意味さがディッテルの心を鷲づかみにした。そこには「死んで墓場に行こうとも、僕たちは可能な限り持ち堪えたいと願っています」と書かれていた。その数日後に兄は斃れ、そしてそのまた数日後に戦争は終わった。
 1945年8月2日、ポツダム協定に基づいてソビエト連邦が東部ドイツを占領した。しばらくして銃を持った二人のソ連兵がディッテル家の庭先に立ち、尋問を受けろ、と告げた。父親は黙っていた。母親は泣いていた。「毛布を持たせても構わないか、何か食べ物を持って行かせてもいいか」と、彼女は訊いたが、二人の兵士は、すぐに帰ってこられるから、と請け合った。その「すぐ」が4年になった。
 
 ディッテルはアルテンブルク(訳注:ゲスニッツから約10km。人口約4万)の獄舎に入れられ、ライ麦コーヒーの袋詰め作業をさせられていた。袋にシールを貼り付ける作業である。彼はこのシールの裏に、衣類や食料など、家族に差し入れてもらいたい物について、数行のメモに書きつけて、床屋の女性に頼んで両親に渡してもらっていた。彼女はそのメモをブラジャーの中に隠して持ち出していた。以下は、ディッテルが4年間収容される前に、最後に家族に渡った便りである。
 
ソ連軍事調査部の牢室より、1945年9月16日
 愛するお父さん、お母さん、兄弟たちへ
 送ってくれた愛の贈り物に対して、どんな言葉でもってしても感謝の気持ちを十分に言い表すことはできません。ここでの食事は、辛うじて飢え死にしないですむ程度です。朝はパン一切れ、昼は一杯のスープ、夜はまたパン一切れだけ。ポテトパンケーキ、茹でたジャガイモ、団子など、要するに噛み砕くことができるものなら何でも結構です。果物もありがたいです。ですが、バターやソーセージなどを無理して入手するようなことだけはしないでください。どうか2週間に一度、パンツ一着、シャツ一着、ポロシャツ一着、ソックス一足、ハンカチ二枚をお願いします。それ以外はこの状況下としては、まずまず足りています。そちらも皆さんそうであれば良いと願っています。僕がこのような手紙を書いていることは誰にも口外しないでください。生活はとても退屈で、ただただ次の食事を待つばかりです。
 
 ディッテルはアルテンブルクの獄舎で6週間判決を待った。捕虜のある者たちは、自分の長靴を磨かされたが、彼らは翌日全員銃殺された。ディッテルは、自分の靴を磨かなくてよかったことを喜んだ。一人の将校が4週間に渡って彼を尋問した。ときに12時間ぶっ続けで。ロシア語なので調書は読めなかったが、書かれている内容について口頭で次のように告げられた、「パウル=ゲルハルト・ディッテルは如何なる犯罪も犯してはいないが、ドイツ東部の再建を妨げることのなきよう、収容所に送られる」と。
 
かつての強制収容所で人骨を掘り起こす
 彼は、かつては強制収容所として使われ、今は特殊収容所となっているブーヘンヴァルトへ移送された。ディッテルは裸になりシャワーを浴びなければならなかった。彼は不安を覚え、「今度はわれわれをユダヤ人のようにガスで殺すのか」と咄嗟に考えた。しかしシャワーのヘッドから流れ出したのは水だった。その後、被収容者たちは収容所の片付け作業を命じられた。ディッテルは人骨を掘り起こして、骨壺に詰める作業をやらされた。
 「なぜ神の前でこのような残虐行為が起こり得るのか」と彼は自分に問い続けた。彼には考える時間が十分あった。収容所の片づけが終わると、することは何もなかったからだ。トランプをやり、手持ち無沙汰に堪え、毎日点呼に何時間もかけ、第三帝国時代にここに収容されていた人間たちのことを思い、そして今、自分の目の前で仲間が死んでいくのを見ていた。毎日数人が体力尽きて倒れ込んだ。そして餓死していった。ディッテルは問うた、「なぜ神はこんなことを許しておかれるのか」と。
 慰めのない日々だった。300gのパンと水のようなスープ一杯。外界との接触は一切なし。収容所長のアレクサンダー・アゴファノフは、若者たちに文化的なことをやるよう求めた。それ以降ディッテルは、芝居をやり、アクロバット的組立体操で筋肉を鍛えた。それによって一日にスープを一杯余計にもらい、平服を着ることも許されるようになった。彼は、かつてフランスのレジスタンスのメンバーが被っていたベレー帽が大いに気に入った。今日に至るまで、その頃のことを忘れないように、彼は同じ形のベレー帽を被っている。
 
方向転換 シベリアのステップで聖書の一ページを見つける
 シベリアに連行された日、1080名の捕虜たちは、日時も行き先も事前には全く告げられていなかった。突然彼らは貨物列車に詰め込まれた。あたかも家畜のように一両に60人ずつ。靴箱ほどの小さな格子付きの窓があり、それが唯一の明かり取りで、床に開けられた穴が便器だった。二日に一度ドアが開けられ、一人につき二切れのパン、塩漬けのニシン、それにコップ半分の水が与えられた。
 喉の渇きは堪えがたいものだった。6週間後にシベリアの収容所(訳注: カザフスタンのカラガンダ。フランクからの情報による)に着いたとき、ディッテルは水を一気に13,5リットルも飲んだ。食べものは僅かしかなかった。しかし、彼の心を苛んだのは、彼自身の空腹よりも、住民(訳注: スターリンのドイツ人隔離政策により、当時カラガンダ住民の約七割がドイツ人)の方がもっと僅かな食料しか得ていないという事実だった ― 「神様、あなたは何故こんなことを見過ごすことができるのですか」。ディッテルたちは丸太小屋、学校、公会堂、道路などの建設に駆り出された。夏には30度の酷暑に汗をかき、冬には-15度以下の寒さに凍えた。収容所から現場まで、毎日8kmから15km歩かなくてはならなかった。帰路、彼は歩きながら眠ってしまうことさえあった。
 ディッテルが信仰を再び見出した日、彼は長い労働を終えて収容所へと行進していた。暖かい日で、ディッテルは疲れ果て、眠気を催していた。そのとき風が吹いて砂ぼこりが立ち、一枚の紙が飛んできて足元でがさついた。彼は一瞬、誰かが貴重な紙をゴミとして捨てたことに怒りを覚えたが、拾い上げてみるとロマ書だった。しかもそれは、彼自身が選び出した堅信礼聖句の含まれたページだった。「神を愛する者、すなはち御旨によりて召されたる者の爲には、凡てのこと相働きて益となるを我らは知る」。彼は激しい感動を覚えた。「なんと長い間、『信じる』ということを忘れていたことだろう!」彼は思った、「これは『しるし』なのだ。お父さんとお母さんの待つ家に、必ず帰り着けるという神様からの『しるし』なのだ」。
 この晩、夕食のときに彼は手を組み合わせて、長い間止めていた食前の祈りを再開した。目を閉じて、かつて両親と共に唱えた言葉を心の中でつぶやいた。「父なる神よ、この糧をわれらの力となし、汝をほめたたえさせ給え」。周囲への気まずい思いがあり、彼の心臓は激しく打っていた。目を開けると、何人かはクスクス笑い、他の者たちは嗤っていた。顎ひげの男が彼の後ろから近づいてきて、肩に手を置いた。そして言った、「君、君は僕たちに再び勇気をくれたよ。明日は一緒に祈ろう」。
 
懐かしい故郷へ
 翌日ディッテルは顎ひげの男のバラックに行き、その日から再び規則正しく神との対話を始めた。いつか両親に会えるという確信が、彼に力を与えた。勇気が失せそうになったときには、「最後には凡てのことが益となる」と自分に言い聞かせた。彼の後の生涯においても、シベリアのステップで見出したこの言葉を彼は決して忘れなかった。この言葉はいわば彼の人生の赤い糸(訳注:日本語とは違って「基本理念」のような意味)となった。
 4年にわたる収容所生活の後、1949年の冬にディッテルは解放された。「ゲスニッツの家に戻るか、あるいは資本主義の西側に行くか」二つの選択肢があった(訳注:当時は東ドイツ建国の直後で、壁は出来ておらず、東西間の往来はまだかなり自由だった)。躊躇なく「故郷に帰ります」と答えた。12月3日に彼はライプツィヒからゲスニッツへの列車に乗っていた。両親が待っている家まで、後たった45分の隔たりだった。1分毎に彼の感情は高まっていった ― まるでラヴェルのボレロのように。5年前に別れたときと全く同じように、二人は目に涙を浮かべて立っていた。しかし、今は喜びの涙だった。
 
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 唐突だが、以下は遠藤周作の「真昼の悪魔」という小説の一節である。悪事・不品行を平気で行う若い女医に向かって放たれた外国人神父の言葉 ― 。
 神父は、「あなたがそんなことをやるのは、ただ現代の人間なだけ」なのだと言った後、こう続ける。
 「神をすっかり失った今の時代の人間ということですよ。神を失ってしまえばね、人間誰でもあなたと同じようになります。あなたと同じような心でもその人たちが普通の生活をしているのは社会の罰がおそろしいからだけです」
 キリスト教と出会って50年以上経つ今も、僕は「神」という言葉を使うことに躊躇を覚える。遠藤の「神」にほとんど抵抗を感じないのは、恐らく彼が普通とは全く違う使い方をしているからだろうと思っている。
 で、その「『神』をすっかり失った」状態に長らく僕はいた。何をする気力もなく、本を読む気持ちも失せ、砂を噛むような日々。寝っ転がってテレビでニュース番組を見たり、DVDを眺め筋を追うのが精一杯。ホアキン・フェニックスがイエスを演じる『マグダラのマリア』、AV女優紗倉まなの小説を映画化した『最低。』、取るに足らない韓流ドラマの数々・・・。肉慾に振り回される自堕落な生活を送りながら、悪魔に取り憑かれた女医の心と重なる自分の心を持て余していた。
 そんなとき、ふと、シュティフターの『森の小径』をもう一度読みたいと思った。去年、終活の一環として、ほとんどすべての本を古本屋に引き取ってもらっていたが、残した僅かな本の中に、東ドイツで買ったシュティフターの『習作集』二巻が含まれていた。東独のものは西と較べると何もかも品質が落ちる。書籍の場合も、紙質や装丁が悪いうえに、顔を近づけると、ときに糊の臭いがツンと鼻を刺す。それでもこの本には愛着があった。
 大学二年生の独文講読の授業で、テキストとして使われたのが『習作集』の中の一編『森の小径』だった。耳の穴から黒い毛がたくさん伸びた老教授の授業で、文法的に正確に訳していく地味な授業だった。しかし『森の小径』の情景は、長く深く僕の心に留まった。
 ティブリウスという若い大金持ちの物語である。奇妙な育て方をされた彼は、心の捻れた変人として、一人豪邸に閉じ籠もって悶々とした日々を送っている。病を得て、湯治場に行く。森を散策する日々であったが、ある日道に迷ってしまう。そして森の中でマリアというイチゴ摘みをしている少女に出会う。彼女は父親と二人で、森の中で自給自足の暮らしをしていた。その後しばしば彼女の家を訪れるようになり、二人の偽りのない心と、大地の自然に触れることによって、体の病も心も癒されていく。そして最後に二人は結ばれる、という一見少女マンガのような話である。
 シュティフターの代表作『晩夏』に関しては、その退屈さゆえに「通読した者にはポーランドの王冠を進呈しよう」と酷評した作家(ヘッベル)もいれば、「繰り返し読むに値する優れた散文」と激賞する哲学者(ニーチェ)もいる。これは恐らくシュティフターの作品全体についての評価でもあるだろう。『森の小径』以外は、ほんの数編しか読んだことのない僕だが、この作品だけに関して言えば、「繰り返し読」み返してきた。
 シュティフターと言えば必ず引用される文章がある。『石さまざま』という秀作の序文である。パウル=ゲルハルトからもらったアンソロジーも、この序文が劈頭を飾っている。
 「風のそよぎ、水のせせらぎ、穀物の生長、海のうねり、大地の緑、空の輝き、星のまたたきなど、これらを私は偉大と考える。壮麗におしよせてくる雷雨、家々をひきさく稲妻、大波を打ちあげるあらし、火を噴く山、国々を埋める地震など、これらを私は先に述べた現象より偉大とは思わない。いや、むしろ小さいものと考える。なぜなら、それらも、はるかに高い諸法則の作用にすぎないからである。」
 小さな日常に注がれる愛情。身近な事象の背後にある「高い法則」への揺るぎない信頼。これがシュティフターのすべてと言えるかもしれない。
 
 パウル=ゲルハルトの記事に出会ったとき、僕はちょうど『森の小径』を読み始めたところだった(たぶん五度目)。パウル=ゲルハルトが別れに際して、あのアンソロジーを僕に与えたということは、彼自身がこの作家の愛読者だったに違いない。
 共時的と言うべきか、まさしく時を同じくして、シュティフターの『森の小径』と、パウル=ゲルハルトの生涯に再会した。この偶然に僕は『しるし』のようなものを感じて嬉しくなった。
 両者に共通しているのは、ある存在への「信」の喪失・欠如とその回復だろう。パウル=ゲルハルトはシベリアで神への信を再発見し、ティブリウスは少女マリアと大自然を通して「より高い法則」を見出した。
 何かを見失っていた僕も、自分の中に「悍ましい部分」以外に、まだ「愛しい部分」が残っていることを「再発見」した。少なくとも前者が全体ではないことに気づいた。そして、小川さんの言葉を借りれば、「まだまだ捨てたもんじゃない」と思った。
 七十の下り坂を ― 火野正平のように「人生下り坂最高!」とまではいかずとも ― 少しだけ明るい気持ちで下って行けそうに思った。