『青島から来た兵士たち ―― 第一次大戦とドイツ兵俘虜の実像』
 
瀬戸武彦 著
(↓) 『青島から来た兵士たち』の表紙
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2006年6月9日発行の「同学社」書籍より抜粋。同社の許可を得て転載。
 ※ 以下は、赤垣洋氏が入力し、旧「チンタオ・ドイツ兵俘虜研究会」のHPに掲載していた記事です。この旧HPは現在復活しており、このURL→(http://www.niji.jp/home/akagaki/index0.html)で閲覧が可能ですが、多少アクセスが難しいため、新HP(当HP)にコピーいたしました。
 
第T部 ドイツと青島
第U部 日独戦争
第V部 日本による占領・統治時代の青島
第W部 帰国後の俘虜の動静
 
 
 
第T部 ドイツと青島
 
ドイツによる青島占領
 
【外国の餌食】
 
19世紀中頃から、欧州列強諸国は中国の領土割譲を目指して、虎視眈々と狙っていた。第一次阿片戦争(1840−42年)の結果結ばれた南京条約では、広州、福州、厦門、寧波、上海の 五港が開港され、香港がイギリスに割譲された。第二次阿片戦争(1856−60年)中に結ばれた天津条約で清国は、牛荘(営口)、登川(芝罘)、漢口、九江、鎮江、台南、淡水、潮川(仙頭)、 瓊州、南京、天津の11の港の開港を余儀なくされた。更に第二次阿片戦争以後の北京条約(1860年)では、イギリスは九龍半島市街地を割譲させ、ロシアはウスリー江東岸を割譲させて、 翌年にはウラジオストックを建設した。このように、中国は列強諸国の餌食さながらの状態にあった。
 
欧米列強の極東に向けられた眼は、実は日本にも及んでいたことは歴史で学ぶところである。安政五年 (1858年)、アメリカとの間で結ばれた日米通商修好条約で、日本は神奈川(横浜)、 長崎、函館、やがて新潟、兵庫(神戸)の開港を約束することになった。文久二年 (1862年)8月21日、薩摩の島津久光の行列を横切ったことでイギリス人三名が殺傷された事件、 いわゆる生麦事件では、イギリスが報復として軍艦から大砲で薩摩を攻撃したが、まかり間違えば、鹿児島の一部が占領されかねなかったとも言われている。
 
【遅れたドイツ】
 
植民地獲得競争に遅れをとったドイツは、明治4年 (1871年) にドイツ帝国が成立すると、直ちに植民地の獲得に乗り出した。その結果、明治17年(1884年)に南西アフリカを、 明治19年(1886年)には東アフリカを保護領として獲得した。しかし、アフリカの植民地は、ドイツにとっては必ずしも望ましい土地ではなかった。特に南西アフリカでは、やがて大規模な 反乱が起こって、凄惨な戦闘が繰り広げられ、また原住民を教育しての植民地経営も思うようには行かなかったのである。是が非でも中国にドイツの拠点を築きたい、市場規模からいっても中国は 比較にならない、これがドイツの念願であった。明治18年(1885年)、南太平洋のマーシャル群島を獲等したのを手始めに、やがてスペインからカロリン諸島、マリアナ諸島等を二千万マルク で買い取った。南太平洋ではグアム島を除くほぼ全ての島を手中にした。いわば中国進出への第一歩だったといえる。しかし通常の手立てでは、中国の領土を手に入れることは出来ない。 イギリス、フランス、ロシアなどが領土を手に入れた背景は、紛争や戦争などの軍事的行動の結果だった。
 
明治28年(1895年)の時点ですでにドイツは、将来中国に設けるべきドイツ東アジア艦隊の基地として、三都湾、膠州湾、舟山島、厦門、膨湖諸島、香港に近い大鵬島の六ヶ所を挙げ、 その中でも膠州湾が最適であるとの考えを抱いていた。それに関与したのは、幕末に日本を訪問し、九州地方の地下資源などの調査も行った地質学者リヒトホーフエン男爵だった。
 
【宣教師殺害事件】
 
明治30年(1897年)11月14日、山東省曹州府鉅野県張家荘という、山東省でも地の利の悪い辺鄙な村にあった教会堂で、ドイツ人宣教師2名が殺害される事件が起こった。 ドイツにとって格好の口実が出来たことになる。二週間後には早くも、ディーデリヒス中将率いるドイツ東洋艦隊の軍艦三隻が青島沖に現れて、やがて膠州湾内に入り込んだ。中国の新聞によれば、 次のような推測もおこなわれた。
 
 「…しかし今回の迅速さは、余りに素早すぎる嫌いがある。最も不可解なのは先日ドイツ政府が東洋海上にいるドイツの軍艦を日本に集結させるべし、との皇帝の命令を下し、ドイツ東洋艦隊司令官が全軍艦を横浜に集結させたことだ。
 ドイツ政府のこの行動は特に不可解だ。というのも数日を経ずして膠州湾を占拠する事件が起こったのだ。どうしてドイツ人は山東でキリスト教徒迫害事件が起こり、軍事行動を起こすことになると予測できたのだろうか」    
                (『申報』、1897年11月21日)
 
青島には当時、約2000の清国兵が駐留し、大小五つの兵営があった。列強の軍艦が頻繁に出没していたことから、清国側も警備を強化していたのであった。しかし清国の軍隊はドイツの艦船が湾内に 入ることも、上陸も阻止しなかった。寧ろ誤解から、歓迎の意を表しようとさえしたのである。つまり、儀礼訪問のためにドイツの艦船が訪れたと誤解したのだ。ドイツ軍の軍艦もそのように錯覚させる 行動を見せた。軍艦から続々とドイツ兵が上陸しても、清国兵たちは何の警戒心も見せなかった。町を一望し、万一攻撃する場合には格好と思われる場所に集結すると、ディーデリヒス司令官は清国の 章高元司令官に対して、三時間以内に武器を放棄して15キロ先の町滄口まで退却することを要求した。これに対して清国兵は、なすすべもなく要求に従わざるを得なかったのである。
 
【山東半島】
 
ドイツが欲しがった膠州湾や青島がある山東半島とは、どんなところだったのだろう。山東半島の風土や歴史について若干紹介しよう。孔子の生地曲阜や名山で知られる泰山を有する山東省は、中国でも 早くから文明・文化が開けたところである。
 
山東半島の気候は比較的温暖で、養蚕が行われ白菜、落花生等の農産物に富み、大規模な塩田で知られた膠州湾の後背地は、石炭を始めとする鉱物資源も豊かだった。青島の緯度は日本に当てはめると、 茨城県の水戸市とほぼ同じである。明治42年(1909年)から大正3年(1913年)の五年間の統計では、平均すると最高気温は7月が29度6分、8月は32度1分、9月が28度2分、最低気温 は12月が零下8度2分、1月で零下11度9分、2月は零下10度1分となっている。最低気温はかなり低いが、中国の中では気候の面で比較的恵まれているといえよう。
 
(↓) 1898年3月頃の青島。左は青島の中国人集落。右は清国の兵営
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【労 山】
 
古くから道教の霊山として知られ、秦の始皇帝や漢の武帝、さらに唐の詩人李白も登ったとされる名山でもある。やがてドイツ人によって「山東のアルプス」とも称されたように、風光明媚な景勝地も多い。 ドイツ時代にはこの山に至る丘陵部に、保養所や別荘が1建てられたのもその証である。
 
【倭 寇】
 
明の時代、山東半島の沿岸部一帯は絶えず倭冠の侵攻を受けていた。その防御の施設が半島のあちらこちらにあった。半島先端部の近くには狼煙台が設置され、「煙台」という名の地名も残っている。 ドイツ時代にプリンツ・ハインリヒ山と呼ばれた青島近郊の浮山の麓の浮山所は、かっては倭寇防御の基地があったところである。清朝時代になると倭寇の襲来はなくなり、青島を始めとする沿岸部の集落は、 再び鄙びた漁村に戻っていった。
 
【膠州湾】
 
膠州湾の湾口はそれほど広くはないが、入り江は深く、湾に入ると大きく広がっている。軍港・給炭港としては絶好の条件である。湾の奥には広大な塩田が開けていて、更にその奥には膠州の町がある。 湾の名称もその町の名に由来する。ドイツは明治18年(1895年)頃から2年をかけて中国沿岸の測量、更には一級の測量技師を派遣して膠州湾口の水深の測量も行っていた。不凍港を欲しがっていた ロシアも、一時期は膠州湾に狙いを付けていたが、ドイツほどには執着しなかった。
 
(↓) 山東省略図(1905年当時)
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【青島の名称の由来】
 
青島の名は、沖合いに小さな島「青島」があることに由来する。中国では、島に面する海岸部近くの集落にその島の名が付けられることがある。ドイツ時代に青島で最も活気のあった中国人商店街区は大飽島 と呼ばれたが、その街区の対岸の膠州湾には同名の島、つまり大飽島がある。「ターパオタオ」と発音するのがより中国語発音に近いのであろうが、日本人は「タパトー」ないしは「タパタオ」と発音したよう である。後に板東収容所内にドイツ人俘虜による商工業街区が設けられたが、それを俘虜たちは「タパタオ」もしくは「ターパオタオ」と呼んだ。因みに「鮑」の字は、日本では「アワビ」を意味するが、この場合の 「鮑」は、鱸の類の大きな魚を煮汁に漬け込んで、紙などに包んで売られていたことから名づけられた。
 
(↓) ドイツ時代の青島及び大鮑島
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(↓) 青島市街図(1908年当時)
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ドイツによる青島の建設
 
【九九ヵ年の租借】
 
明治31年(1898年)3月6日、ドイツと清国の間で独清条約が締結された。その主たる内容は宣教師二名殺害への賠償金の他に、青島周辺並びに膠州湾一帯551平方キロを99ヵ年租借、青島・済南間 430キロ、及び張店から博山までの支線40キロの鉄道敷設権、沿線15キロ以内での鉱山採掘権等の取得だった。賠償金以外のものこそがドイツにとっては、喉から手が出るほどに欲しかった利権だった。 この99ヵ年の租借という妙案は、ドイツが初めて考え出したものである。この妙案をやがて他の列強が模倣することになった。
 
ドイツは総督府を置くとともに、海軍に所属する海兵隊と砲兵隊合わせて約1500の兵員を駐屯させ、やがて市街地の形成に取り掛かった。ドイツ占領時の青島は、清国の兵営こそ小さなものを含めて五つほど あったが、実質的には二千人ほどがほそぼそと暮らす小さな村に過ぎなかった。住民たちは専ら漁業を営んでいたが、それは畑となる耕作地が乏しかったことと、そもそも山東半島には満州族が多く、女性は纏足 をしていたために畑仕事をすることが出来なかったからである。周辺の山の多くは、住民が木を切って薪にするために禿山同然の状態で、勢い土地も肥沃ではなかった。
 
兵営以外の主な建物としては、18世紀末の明の時代に建立された道教の寺院天后宮と、清朝時代の軍役所にあたる鎮守府衙門、衙門防備のために清朝末期に築かれた衙門砲台と灰泉角砲台ぐらいであった。 今日でも有名な青島桟橋はまだ建設の途中段階だった。天后宮は青島に留まらず、膠州湾一帯のところどころに建てられていた。水の女神を祭るとも言われる天后宮は、漁民たちの守り神でもあった。後に日独戦争 によるドイツ兵俘虜が、日本に移送されるために輸送船に乗り込んだ沙子口にも天后宮があった。
 
(↓) 鎮守府衙門
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(↓) 道教の寺院天后宮
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(↓) 壁に描かれた巨大な怪物「ドン」
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鎮守府衙門の正面に対峙する大きな土壁の壁面には、「ドン」と呼ばれる巨大な怪物が描かれていた。頭は獅子で、全身はワニのような鱗で被われ、尻尾は牛というその怪物は、昇りつつある太陽に向かって口を開けている。 太陽を飲み込もうとしているのである。それは食欲を意味する魔物で、この門を出入りする役人が、賄賂を受け取らないように戒めたものであると言われている。その壁はとうの昔に取り払われてしまったが、孔子の生地 である山東省曲阜の孔子廟には、同じような壁が今日も残されている。
 
【植林の開始】
 
市街地建設に当たって総督府は、中国人の民家をことごとく壊して焼き払った。当時の中国は衛生状態が極めて悪かったので、疫病の蔓延を恐れたからである。明治31年(1898年)10月からの1年半で、38名の 将兵がコレラや疫痢、赤痢などの伝染病で死亡している。水質の悪さが最大の原因だった。総督府の衛戊病院が完成するまでは、重病人や手術を要するけが人は、遠く横浜のドイツ海軍病院まで搬送された。横浜にドイツ 海軍病院があつたことは、今日ほとんど知られていない。明治11年(1878年)に横浜市街の山手居留地、今日は外人墓地として知られる辺りに開設され、33年間存続した。治外法権時代にドイツが獲得した利権で、 郵便事業も独自に行っていた。ドイツ人以外の英米の将兵や民間人も治療し、受け入れた患者数は3357名に達した。医学の先進国であつた当時のドイツを偲ばせる。総督府衛戊病院が建設された後、明治44年(1911年) 12月31日に閉鎖された。
 
鎮守府衙門と天后宮の二つの建物を残して一帯が更地になると、ドイツは市街地の建設にとりかかる。しかし真っ先に行ったことは、青島及びその周辺で植林を開始したことであつた。林学の発祥地ドイツの面目躍如と言える。 飲み水の確保が急務だつたからであろう。総督府の設立と同時に山林局を設けて、「林業に関する総督府告示」を発布している。中国人に対しては木の枝一本の伐採をも禁じ、違反すれば厳罰で臨んだ。なお、青島における林業 については、別の項目で記すことにする。
 
新市街地の名称として、正式に青島の名が用いられるようになったのは、明治32年(1899年)10月12日、皇帝の裁可を受けて時のテイルピッツ海軍大臣が布告したことによる。それまでも一帯を「チンタオ」と呼んで いたことは、独清条約締結後まもない明治31年(1898年)3月末、山東省を訪れた紀行作家ヘッセ=ヴァルテックが『1898年の山東省とドイツ租借地』の書物の中で、「チンタオ」の言葉を用いていることからも明ら かである。
 
【青島桟橋】
 
青島の桟橋は明治24年(1891年)に清朝政府によって、軍需物資を供給するために建設が始まり、翌年に一応の完成を見た。その時の責任者は直隷総督兼北洋大臣の李鴻章であった。やがて数年後に起きた日清戦争では、 終結後に清国全権として下関で伊藤博文と交渉に臨む人物である。青島桟橋はドイツによる占領時代、長さ400メートルへの延長工事が行われ、ほぼ今日の姿になり、青島第一の名所になっている。
 
(↓) 青島桟橋
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【ディーデリヒス記念碑】
 
明治31年(1898年)、ドイツは青島占領を記念して巨大な記念碑を、青島市街ディーデリヒス山の中腹に築造した。岩盤を削り、そこに石のプレートを嵌め込んで造ったものと思われる。高さはおよそ10メートルで、 中央部には羽をひろげた大鷲が描かれ、その足元に斜めに文字が彫られた。またその脇には、中国語による説明文も彫られている。やがて16年後、日本軍が青島を占領するとこの鷲の頭の部分から真下に、「大正三年十一月七日」 の九文字が刻まれた。
 
この記念碑は日本軍による青島占領終結の時点で、岩山から剥がされて日本に運び去られたとの説がある。平成16年(2004年)の夏頃にこの記念碑の行方をめぐって、日本、ドイツ、中国の研究者の間で様々な推測がインター ネット上を飛び交った。結局のところ分からないままであるが、意外な場所から思いがけずにその一部が出てくることがあるかもしれない。
 
(↓) ディーデリヒス記念碑
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【義和団事件(義和団の乱)】
 
青島市街の建設は順調だったが、鉄道の敷設は必ずしも順調ではなかった。その理由は、農民側の反発と、明治33年(1900年)頃から山東省を中心に吹き荒れた義和団による妨害である。鉄道線路によって畑が分断されると、 水脈が絶たれることを農民たちは最も恐れた。先祖の墓地を移転しなければならないことも反感を生んだが、風水を守る習慣が農民たちに根付いていたからであった。こうした出来事から、青島の要塞都市化がいよいよ進むことに なった。
 
拳匪とも、大刀会とも言われた武装集団による義和団事件は、やがて「扶消滅洋」を掲げる政治的な勢力となり、清国政府の後押しによる排外運動になった。山東省に発した騒動は天津からやがて首都北京に移り、いわゆる北清事変 と呼ばれる騒乱状態が生じた。日本を含む列強八カ国の北京進駐は、映画『北京の五五日』としても知られている。その折、黄河河口の清国要塞、大沽砲台の攻撃を指揮した連合国軍指揮官は、シベリア単騎横断で名を馳せた福島安 正少将だった。
 
義和団事件から北清事変に至る過程では、ドイツの北京駐在公使が殺害される事態が起きた。ドイツは70歳の老伯爵ヴァルダーゼ一元帥を艦隊司令官とする大軍を中国に派遣した。ヴァルダーゼーは列強連合軍の総司令官にも就任 して、北京での清国軍制圧に成功を収めた。帰国の折りには日本を親善訪問し、福島安正少将が出迎えるなど、日本側は朝野を挙げての大歓迎をした。福島安正は後に、日独戦争が始まる直前の大正3年(1914年)8月1日 、青島にマイアー=ヴァルデック総督を訪問する。この時福島安正は関東都督府長官陸軍大将であった。少佐時代に駐独大使館付武官を勤めた福島安正大将の訪問を、ドイツ総督府は断ることが出来なかったのであろう。日本の参 戦が予想された時点での福島大将の訪問は、明らかにドイツ軍偵察の意図があったと思われる。福島安正はその生涯をほぼ情報活動に従事した軍人だったのである。後にあるドイツ兵俘虜は、この福島大将の青島訪問を卑劣な行為 だったとも断じている。
 
【山東における謎の 「日月印」】
 
「日月印」 という言葉は、ほとんどの読者にとつて全く馴染みがないであろう。切手の消印に関心を抱く、フィラテリストと呼ばれるごく一部の人間だけが興味を寄せる問題といえる。しかし、切手に押される消印は単に好事家だけ 、あるいは郵便史だけの問題ではなく、政治史的な意味ももっている。ある場所から切手を貼った葉書や封書が届けば、その切手を発行する国家がその地を支配していることを明白に語ることになろう。つまり、通貨よりも実効支配を 示す力があるといえる。アメリカからの返還以前、沖縄では日本政府ではなく、琉球政府が発行するドル、セントの切手が発行されていたことがなによりの証である。
 
さて、青島を占領するやドイツは直ちに郵便取扱所を開設した。総督府の発足よりも早い明治三一年(1898年)一月二六日のことである。当時の清国においては、近代的な郵便制度が十分に確立していなかつたこともあるが、上海 で使用していたドイツの切手を持ち込んだのである。ドイツの切手を貼った郵便物が世界中に発送されることによって、青島がドイツの支配にあることがいち早く知らされた。後に日本軍がドイツの膠州湾租借地を攻撃したときも、野 戦郵便局は進撃する軍とともに移動して、何万通もの葉書を発送したのである。
 
話を山東の「日月印」に戻そう。義和団事件もほぼ収束した明治三五年(1902年)から翌年にかけて、山東省のドイツ租借地周辺の一四ヶ所の清国の郵便局で、消印に謎の「日月印」を押されたものが出没した。太陽を表している と思われる丸の中に点がある絵文字と、三日月の形をした絵文字である。「日」と「月」の漢字を意味していると考えられている。この「日月印」が何を意味するのかは、今日においても謎のままである。「日」と「月」を組み合わせ て「明」の字になることから、明朝の復興を意図するとの説もある。しかし、当時の清国の官吏や一般民衆は「扶清滅洋」を掲げていたので、ただちには肯定できない面がある。一四ケ所の郵便局を置く都市は、ドイツの利権や利害と 絡むか、ドイツ人に対する暴動事件が起きたところがほとんどである。反ドイツの暗号との見方もあるが、謎のままで解決をみていない。
 
郵便の問題に関して多少拘泥したのは、後に日本の俘虜収容所からドイツ兵俘虜たちが夥しい数の郵便物を故国や他の収容所へ書き送っているからである。また、ドイツ兵俘虜や俘虜収容所の研究が、そもそも郵便に関する研究から出 発したといえるからでもある。このことについては後に詳述したい。
 
【軍備】
 
ドイツの膠州湾獲得の第一目的は勿論軍事上にあり、東洋におけるドイツの拠点を築くことにあつた。一方貿易港を持ち、経済上の利益を上げることもそれに劣らず重きが置かれた。いくつかの候補地から膠州湾が選ばれたことは、 既に触れたように後背地に有望な鉱山があったことが挙げられる。しかし経済上の権益を守るためにも軍事力的裏付けは当然であつた。膠州湾租借地はアフリカ等の植民地、保護領とは違って植民省ではなく、海軍省管轄に置かれた のは特別な意味があつたからであろう。本国政府から毎年巨額の軍事費が注ぎ込まれ、青島は一面要塞都市と思われるほどでもあつた。大正三年(1914年)の時点での青島ドイツ軍の規模を、『日獨戦史』から記してみる。 但し、部隊名については、この書物の名称ではなく、後に一般的に使用される名称に変えてある。
 
青島駐屯部隊は、将校以下2180名で、その内訳は次の通りである。
第三海兵大隊(本隊並びに歩兵四中隊、騎兵一中隊、機関銃隊)・・1180名。
海軍野砲兵中隊・・約100名。前記大隊に属する。
海軍工兵中隊・・約150名。前記大隊に属する。
海軍膠州砲兵隊(本隊並びに四中隊)・・750名。
 
右記以外に、海軍東アジア分遣隊 (総員約460名)が北京及び天津とその周辺に駐屯していた。このように部隊名には海軍の名が付けられているが、実はその実態は陸軍といえるものである。純粋な海軍部隊は、海軍膠州砲兵隊 のみといえる。
 
軍事施設としてはビスマルク、モルトケ、イルチスの三つの兵営が先ず挙げられるが、各所に砲台が築かれた。ドイツによる占領以前からあつた衙門、台西鎮、灰泉角(会前岬)の三砲台に加えて、ビスマルク山、モルトケ山、 イルチス山にはいくつかの砲台が据えられ、更に浮山、台東鎮、海泊河口左岸とやがては続々と砲台が築かれた。
 
ドイツ東洋艦隊に所属する艦船としては、巡洋艦「シヤルンホルスト」と「グナイゼナウ」、軽巡洋艦として「エムデン」、「ニュルンベルク」、「ライプチヒ」の三艦が配備され、南太平洋のドイツ植民地との間を往来していた。
 
これほどの軍備を保持していても、日本との戦争では実質一ヵ月半で降伏することになつった。海軍省膠州課長で日独戦争勃発とともに、総督府の情報部長に就いたフォラートゥン大佐は、「青島の建設はヨーロッパの国との紛争 及び中国の内乱を想定して築かれたもので、日本を想定していなかった」と述べている。
 
(↓) 灰泉角砲台
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【港湾施設】
 
青島港の建設は、ドイツ膠州湾租借地の根幹であり、生命そのものであるともいえた。明治32年(1899年)の着工から明治40年(1907年)の完成にいたるまでに、5000万マルクが投資された。その額は山東経営総経費 の約四分の一である。
 
港には大港と小港の二つがあつた。大港の第一埠頭と第二埠頭を合わせて、6000トン級の船一二隻の係留が可能で、第三埠頭には石油貯蔵庫と海軍工廠が設けられた。また各埠頭には鉄道の引込み線が敷設されてもいた。小港は専 ら中国人のジャンク船の出入りに使用された。
 
【林 業】
 
青島市街地や周辺の地域に、アカシア、赤松、黒松、落葉松、桜等、650種に及ぶ数百万本の樹木が世界中から集められて移植された。特に日本からは数十種類の桜数万本が運ばれて植えられた。植林の総面積は1240ヘクタール に及んだ。異様なほどの情熱で植林を行った背景には、各所に点在する砲台を隠すためであつた、とのうがった見方もある。しかし、山林局内には農事試験場を併設して、土壌・肥料の改良から作物の品種改良も行い、技術者たちは 後述する徳華(独中)高等専門学校の農林科で、中国人生徒の指導にも当つった。ドイツが植林事業に投資した額は230万マルクであつた。
 
こうして青島は緑豊かな、一種理想的なドイツの町となり、「東洋の真珠」とも、「小ベルリン」とも称された。また青島のヴィクトリア湾沿いの海水浴場は、ドイツ人からは「極東のオーステンデ(ベルギーの海水浴場)」と、また 最大の利用客であつたイギリス人からは 「中国のブライトン(イギリスの海水浴場)とも喩えられた。青島は緑美しいドイツ風の町だった。お雇い医師のエルヴィン・ベルツは、明治36年(1903年)7月(15日から17日)の 日記にこう記している。
 
「東アジアを旅行するものは初めて青島を見てびっくりする。感じのよい、絵のような形の湾内に位置を占め、灰色、赤、緑と色とりどりの山のふもとに沿って、一見乱雑なように建ってはいるが、清らかな美しい都会で、家屋も多く は別荘風のものである」
 
【地名も変遷】
(参考) http://grosslehrer.web.fc2.com/tsingtau_strassennamen.htm
 
青島市街の街路や兵営には、ドイツの都市、王侯貴族、青島建設に功績のあつた将軍・学者の名が付けられ、市内の丘や周辺の山々にもドイツ語名が付けられた。例えばビスマルク兵営、モルトケ兵営、ベルリン街、ハインリヒ皇子 街、イレーネ街、テイルビッツ街、ディーデリヒス山等である。そしてやがて日本軍による占領・統治後、これらの名称は全て日本語名になつた。例えば前記の兵営や地名は、万年兵営、若鶴兵営、麻布町、佐賀町、久留米町、忠海 町、神尾山という風に改められた。中国に返還後はこれらの地名は当然中国名になるなど、青島及びその周辺の地名は、ドイツ語、日本語、中国語の地名と支配国によって変遷した。青島の名称の由来となった島「青島」も、「アル コナ島」、「加藤島」と変遷し、今日は「小青島」と呼ばれている。
 
【ガイドブックも】
 
青島の建造物や周辺の名所・旧跡を辿る案内書、ガイドブックも発行された。ドイツ語版だけではなく、英語版も出版されて版を重ねたことは、ドイツ人にとっても、またイギリス人を始めとする欧米人にも、青島がどれほど気に入ら れていたかを物語っている。そのガイドブックは、今日風に言えば、さながら「青島の歩きかた」と言えるもので、青島駅や青島桟橋を出発点にして、徒歩で何分、距離は何キロ、途中にはどんな建物があるのか、どこで道を曲がるか を、写真百枚以上を挿入して懇切丁寧に説明している。青島やその周辺に限らず、山東鉄道沿線の旅行案内にもなっている。
 
(↓) 青島桟橋
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【煙突掃除】
 
青島市街地で家屋を建てる場合にほ、細かい規定・規則があつた。その詳細は措くとして、煙突掃除はドイツの家屋では必要不可欠だつた。青島でも明治38年(1905年)に『青島官報』で公布された「煙突掃除強制に関する規則 施行細目」で、煙突掃除人の年齢、経験、親方の証明書等の資格から、試験科目に至るまでの細かい規則があった。ドイツ本国と全く同じであつた。青島市内を、黒い服を着て黒いシルクハットを被った煙突掃除人が歩き回っていた、 と想像すると愉快である。
 
【海 運】
 
歴史的にドイツの海運業は、ハンザ都市の物資を運ぶことで中世以来発展してきたが、近世はオランダ、イギリスに押されぎみだつた。しかし1847年ハンブルクにハンブルク・アメリカ汽船が設立されるとにわかに活気づいた。 ハンブルク・アメリカ汽船会社と北ドイツ・ロイド汽船の二つの船会社は、20世紀初頭には世界有数の会社になっていた。
 
特にハンブルク・アメリカ汽船会社は、第一次大戦直前には世界最大の汽船会社となり、所有船舶の数は206隻、総トン数は136万トンであつた。アジア地域では不定期欧州航路を就航させていたほか、定期近海航路としては 上海を起点として、青島、芝罘、大連、天津を結んでいた。第一次大戦中には、所有する船舶の多くが軍艦に転用され、大戦終結後の大正8年(1919年)には、その所有する船舶は5隻、4000トンにまで減少した。
 
【ドイツ・アジア銀行】
 
明治22年(1889年)5月に設立され、建物は明治22年(1889年)から明治24年(1901年)にかけて建てられた。資本金は750万上海両。ドイツ銀行、メンデルスゾーン銀行、北ドイツ銀行、バイエルン抵当銀行等 の13銀行・企業が出資した。本店は上海にあり、青島と山東省の省都済南に支店を置いた。後には横浜、神戸にも支店を構えるなど13支店を有した。
 
【山東鉄道会社】
 
山東鉄道会社は、明治32年(1899年)6月1日、ドイツ・アジア銀行など14の銀行、企業が計5400万マルクを出資して設立された民間会社である。ドイツが青島に投資した施設としては、大港とならぶ大規模な事業であつた。 起工式は明治32年(1899年)9月28日に、ドイツ皇弟ハインリヒの鍬入れで行われ、明治37年(1904年)6月1日に青島・済南間430キロと張店・博山間の支線40キロの開通式が行われた。鉄道敷設に従事した 中国人労働者は、1日2万人から2万5000人だった。ドイツ人社員は僅か61名で、中国人を多数雇い、会社内に鉄道学校を設けて、中国人鉄道員の養成を行った。
 
【山東鉱山会社】
 
明治34年(1901年)10月10日、前記山東鉄道会社と同じ銀行・企業グループにより資本金1200万マルクで設立された。山東鉄道会社の兄弟会社といえる。ドイツ人社員数は71名で、坑内外で働く中国人の数は 2330名に及んだ。坊子竪坑を含む三つの竪坑を切り開いて石炭を掘り出し、それを山東鉄道で輸出尉や家庭燃料用として青島に運んだ。経営状態は必ずしも良くはなかつた。例えば坊子炭鉱の採炭量は、明治44年(1911年) では53万3000トンであつたものが、大正2年(1913三年)には19万9000トンに落ち込んでいる。やがて採算の取れないいくつかの鉱山は、後に中国に返還された。やがて製鉄所の建設を計画し、大正3年 (1914年)6月、着工に取り掛かつたところで日独戦争となつて頓挫した。
 
 
ドイツ時代にどのような建物があつたか、主な建造物について記してみよう。
 
【総督府】
 
総督山に明治36年(1903年)から明治39年(1906年) にかけて建てられた。地下室から三階にかけて150余の室があり、建造費約85万マルクだった。日本の占領・統治時代は守備軍司令部となった。
 
【総督官邸】
 
ディーデリヒス山に明治38年(1905年)から明治40年(1907年)かけて建てられた。花崗岩を用いた高さ30メートル、建築面積4080平方メートル、建造費約100万マルクであつた。豪華絢爛、贅を尽くした 建築で、下水管には銅を用いるなど、庭園を含めた周辺設備を合わせると350万マルクにも達したと言われる。そのためトゥルッペル総督は本国の議会で批判を招き、年俸5万マルクが4万マルクに減俸され、トゥルツペル総督 はそれを不服として辞任した。日本の占領・統治時代は守備軍司令官官邸として使われた。なお、ディーデリヒス山は神尾山となった。
 
(↓) 総督官邸
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(↓) 郵便局
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【郵政局】
 
明治34年(1901年)、プリンツ・ハインリヒ街とアルベルト街が交差する角に、石造り三階で建てられた。ドイツ時代の建造物では比較的早くに建設された。郵便業務の重要性を示すものである。租借地内のドイツの郵便 局としては、郵政局内の青島郵便局の他に、青島大飽島、青島大港、台東鎮及び膠州、高密、李村、沙子口、四方、槍口、労山保養所、塔埠頭に設けられた。なお、中国には青島の他に上海、北京、天津、煙台、済南、漢口、南京、 鎮江、福州、廣門、仙頭、広州の広範囲にドイツの郵便局が設置された。膠州湾租借地は海軍省の直轄地であったが、郵便事業だけは逓信省の管轄下にあった。
 
【総督府衛成病院】
 
総督府のある総督山北東の敷地約6万6000平方メートル(約2万坪)の広大な土地に、明治31年(1898年)起工し、300万マルクの巨費を投じて明治35年(1902年)に完成した。小児病棟、婦人病棟、結核病棟、 精神科病棟等を含む15棟から成り、ベッド数は150床だった。医師の数は院長を含めて6名、いずれも海軍軍医であった。後に李村、四方、即墨、膠州等に診療所を設けて出張診療も行った。日露戦争当時、約200名の ロシア軍負傷兵が旅順から逃げ延びて、ここで治療を受けたとも言われる。
 
【ビスマルク兵営】
 
明治36年(1903年)、ビスマルク山の西南の麓に建設費約75万マルクで建てられた。花崗岩の石造り三階建てで、コの字形の配置をしていた。騎兵中隊を除く第三大海兵大隊の兵営として用いられた。日独戦争時には ドイツ総督府の参謀本部が置かれた。日本による占領・統治時代は万年兵営と呼ばれ、ビスマルク山も万年山と改称された。
 
【モルトケ兵営】
 
モルトケ山の東、プリンツ・ハインリヒ山の麓に、建設費約50万マルクで建てられた。騎兵中隊、機関銃隊、工兵中隊、海軍野戦砲兵隊の兵営だった。日独戦争終結の開城交渉が行われ、日本による占領・統治時代は若鶴兵営 と呼ばれ、兵営内に青島俘虜収容所が設置された。またモルトケ山も若鶴山と改称された。
 
【イルチス兵営】
 
イルチス山の西南の麓に、明治32年(1899年)から明治34年(1901年)に建てられた。建設費は約95万マルクであつた。ヴェランダ風のテラスを持つ二階建てで、夏の熱さを凌ぐための構造であつた。 海軍膠州砲兵隊の兵営だつた。日本による占領・統治時代は旭兵営と呼ばれ、イルチス山も旭山と改称された。
 
(↓) ビスマルク兵営
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(↓) イルチス兵営
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【カトリック教会天主堂】
 
明治35年(1902年)に完成したスタイル派神言会のカトリック教会。明治30年(1897年)に曹州府で宣教師殺害事件が起り、それをきっかけにしてドイツは膠州湾占拠を実行した。殺害された宣教師こそ スタイル派の伝道師であった。ベルリン街とルイトボルト街が交差する場所に、威風堂々と建つ、広壮にしてかつ壮麗な建造物である。それらはドイツ政府が建造して、教会に与えたものである。?州府に本部を持つ.ドイツ 海外女子学校、高等女子学校を併設し、敷地面積は3000平方フィートであった。
 
【プリンツ・ハインリヒ・ホテル】
 
青島のヴィルヘルム皇帝滴岸通りに明指32年(1899年)に建設された。同ホテルの名は青島と格別にゆかりのあるドイツ皇帝の弟ハインリヒ皇子に因み、青島随一の豪華なホテルであつた。花崗岩を用いた二階建ての 白亜のホテルは、その豪華さで東京の帝国ホテル、横浜のグランドホテルと比べても遜色ないと言われた。部屋数は大小80室で、他にヴェランダ、テラス、婦人室、倶楽部室、読書室、控室があり、また舞台を備えたホール があつた。一ヶ月の滞在費100ドル(約160万円) から150ドル(240万円)だった。パーティー、舞踏会が繰り広げられ、演奏会や演劇もしばしば開催された。この豪華なホテルも日独戦争中は臨時野戦病院に 充てられた。
 
(↓) カトリック教会天主堂
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(↓) プリンツ・ハインリヒ・ホテル
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【メクレンブルクハウス(柳樹台保養所)】
 
労山中腹、標高460メートルの柳樹台に建てられたメクレンブルクハウスは、ドイツ本国の東アジア救済会及慈善彩票会の寄付により建設され、明治37年(1904年)に開業した。名前の由来は、最高額寄付者 メクレンブルク公爵による。元来はドイツ人官吏、軍人の保養施設及び療養施設として建てられたが、余裕のあるときは、ドイツ人以外の外国人にもその利用が開放された。山腹には総督の別荘もあつた。近くには 九水及び北九水の景勝地もあり、秦の始皇帝、漢の武帝、詩仙李白も登った労山は、山東では泰山に並ぶ名山として古くから知られていた山である。
 
【ゲルマニア麦酒会社】
 
いわゆる青島麦酒会社は、明治37年(1904年)にドイツ人の他英米仏の民間人による資本金40万マルクで設立された。資本提供者のほとんどはもちろんドイツ人だった。設立以前、ビールは日本及びドイツ本国 から輸入されていたが、ビールの需要は青島に留まらず、中国本土でも高まっていた。明治38年(1905年)からゲルマニアの銘柄名で販売された。北京、天津、上海、香港と、その販路はたちまちにして拡大し、 明治44年(1911年)には輸出量は3万2000ガロンに達した。しかし、原料がドイツ本国からの輸入であったことと、中ビン1本(330ミリリットル)が20ペニヒで日本製ビールより高価だったことから、 日本製に対抗するまでには至らなかった。
 
(↓) 労山と北九水
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(↓) ゲルマニア麥酒会社
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【徳華(独中)高等専門学校】
 
明治42年(1909年)10月25日、中国人子弟のために設立された。創設費は64万マルクで、その内訳はドイツ政府60万マルク、清国政府4万マルクだつた。予科は修学年限5年で、中等・高等を折衷した学科であつた。 ここではドイツ語の履修に重点が置かれた。その理由の一つは、更に本格的に学ぶためには日本留学が必要であり、ドイツ語はその上でも不可欠だつたからである。本科は法政、医科、農林科、工科の四学科に分かれ、 修学年限は法政と農林が3年、医科と工科は4年であつた。学院内には図書館、博物館、翻訳局等の設備があり、図書館には独、考仏等の洋書5000冊、漢書8000冊が所蔵され、博物館には標本、模型その他最新の器具、 機械が備えられていた。その所有する書籍や実験設備は、日本の大学にも引けをとらないものだった。入学者は増加の一途をたどり、大正2年(1913年)9月末の在籍者は予科が301名、本科は67名、 大正3年(1914年)には予科生500名を数えるに至った。第一次大戦終結後に結ばれたヴェルサイユ条約では、青島のドイツの官有財産は日本の所有するところとなつたが、徳華高等専門学校の蔵書はいわゆる「歯獲書籍」 として日本に送られ、当時の大学や高等学校等に寄贈された。先頃、愛媛大学(前身は旧制松山高等学校)、山形大学(同じく旧制山形高等学校)の図書館で、大量の「青島守備軍寄贈」の印が押された書籍が発見された。 それこそすなわち歯獲書籍2万6260冊の一部である。
 
(↓) 鹵獲書籍
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【屠畜場】
 
官営の施設で明治37年(1904年)に起工し、2年後に完成した。建築費85万マルクを要した東洋一の設備だった。5300坪余の広大な敷地には、検査場、処理場、厩舎、消毒室、冷蔵庫のほかに研究室もあった。 冬季における輸出用の一日あたりの処理数は400頭、明治40年(1907年)の輸出額は約6万5000マルクだったのが、大正2年(1913年)には22万6000マルクと3倍強に達し、総督府における重要な 財源となりつつあつた。
 
【青島の文化生活】
 
明治43年(1910年)には欧米人約1500名が暮らし、10以上の様々な文化サークルが生れて、音楽会や講演会を楽しんでいた。音楽は第三海兵大隊や海軍膠州砲兵隊の軍楽隊によって、クラシック音楽から ジャズに至るまで演奏された。秋期、冬期には演劇、芸術・科学講演会も頻繁に開かれた。やがてドイツ人たちが俘虜として日本の収容所に収容された際、様々な講習会が行われた背景には、こうした青島での生活が あったからと思われる。退屈が最大の敵であつたともいわれる収容所生活では、とり分け音楽と演劇が俘虜にとっては最大の娯楽であつた。
 
後に日本人が住むことになつた青島は、その町並みだけではなく、生活そのものが西洋風の趣があったと言われる。指揮者石丸寛(大正11年〜平成10年、1922〜1998)、ミリオンセラーともなった世界的なヒット曲 「上を向いて歩こう」の作曲者中村八大(昭和6年〜平成4年、1931〜1992)は、青島で少年時代や青春時代を送った。彼らの音楽基盤は、日本内地とは一味違った青島での生活にあったと言えるかもしれない。
 
アウグステ・ヴィクトリア湾沿いにあつた広大な練兵場は、競馬やスポーツフェスティヴアルにも利用された。日独戦争後、俘虜として日本に送られ、やがて収容所が統合されて運動場が確保されると、サッカーやテニスの競技に 限らず、組み体操やレスリングなどが行われたが、その下地も青島の練兵場にあった。
 
【高橋写真館】
 
青島が町としての体裁を整えると、ドイツ本国から徐々に職人や商人がやってきた。そんな中で、写真館だけはどういうわけか、日本人経営の高橋写真館が隆盛を極めた。青島勤務のドイツ人将兵は必ずと言っていいほどに、 この写真館でスナップ写真を撮ってもらったという。青島を訪れるドイツ人旅行者たちもここで記念写真を撮り、また高橋写真館が発行した青島市街や青島周辺の名所・旧跡の絵葉書を買い求めた。技量が優れていたのと、 会話術が巧みだったとは、やがて日本の俘虜となった人物の報告が語るところである。しかし日本が占領・統治すると、高橋写真館にとつて代わったのが三船写真館で、日本軍御用達の写真館ともなった。世界的俳優で知られた 三船敏郎はその写真館主三船秋香の息子で、大正9年に青島で生れた。
 
【青島の人口】
 
大正2年(1913年)8月1日発行の『膠州湾総督府官報』の統計に依拠した『山東及膠州湾』によれば、青島の人口は、5万5708人で、その内訳はドイツ人1855人、その他の欧米人124人、日本人327人、 中国人5万3212人と記されている。ドイツ人の数は当然ながら、兵営等にいる軍人・兵士は含まない、住民の数であろう。従って、軍人・兵士を含むドイツ人は、4000人以上と考えるべきである。ところで中国人を除くと、 ドイツ人についで日本人が多かったことは、青島が早くから日本人の関心を引き寄せていたことをうかがわせる。その一例として、明治25年(1892年)には、青島と山東半島を挟んで反対側の港町龍口に店を出していた 岩城商店があった。この会社は、日独戦争開戦以前から膠州湾で海運業を営んでいた唯一の日本人海運業者である。青島、威海衛、芝宋、大連間を週に一度回航する定期船と、南洋、香港、朝鮮、ウラジオストックを回航する 不定期船を所有していた。
 
【歴代膠州総督】
 
初代総督:カール・ローゼンダール (Carl Rosendahl 1852〜1917)
 
1898年1月4日、海軍大佐として膠州湾占領地区の守備に当たる膠州海兵隊司令官に任ぜられる。着任までの代理はトルッペル海軍中佐が 当たつた。4月16日初代膠州総督に就任し、1899年3月16日、第二代総督イェシュケと交代した。
 
第二代総督:パウル・イェシュケ(Paul Jaeschke 1851〜1901)
 
1899年3月16日に、ローゼンダールの後を襲って第二代総督に就任した。1899年の義和団事件勃発に際して、アンツアー司教が初めて軍隊の出動を要請した時の総督。1901年1月27日、青島で死去した。
 
第三代総督:オスカル・フォン・トゥルッペル(Oskar von Truppel 1854〜1931)
 
1898年1月26日、2隻の輸送船で歩兵1155名、砲兵303名を率いて青島に上陸し、2月11日それまでの暫定司令官と交代して海兵隊司令官となり、また民政の執政官にもなつた。4月16日、ローゼンダール 大佐に替わつた。1901年2月20日第三代膠州総督に就任し、1911年まで10年間その任にあつた。青島経営に費用がかかり過ぎるのと、華美を尽くした総督邸建設の非難を本国の議会で浴び、やがて年俸を5万マルク から4万マルクに減額され、それを不満として辞任した。その折りの参謀長はマイアー=ヴァルデック海軍大佐だつた。後に大将となり、『青島の陥落』(1914年)の著作を遺した。
 
第四代総督:アルフレート・マイアー=ヴァルデック(Alfred Meyer-Waldeck 1864〜1928)
 
1864年11月27日、ロシアのサンクトペテルブルクに生まれた。父親はサンクトペテルブルク大学のドイツ文学教授だつた。10歳の時父親は退職し、一家はハイデルベルクに移り住んだ。大学で一年間歴史学を学んだ後 海軍に入り、1908年に青島に赴任して、1911年まで総督府参謀長を務めた。同年8月19日、トゥルツペル総督の後任として第四代膠州総督に就任、植民地加俸、交際費等を含めた年俸は5万マルクだった。 身長190センチの長躯で胸幅厚く、白髪まじりの山羊髭をたくわえた風貌はロシアの将軍を思わせた。
 
 
第U部 日独戦争
 
【青島へ侵攻】
 
日本は陸海軍合わせて7万余の大軍を山東半島に向けて派遣した。海軍は3つの艦隊、大小合わせて47隻の軍艦を派遣した。ドイツ軍には、援軍として加わつたオーストリア=ハンガリー二重帝国の巡洋艦を加えても、 僅か数隻しかなかった。しかし、青島を防御するドイツ軍の攻撃に直接関わつたのは陸軍である。陸軍は、福岡県の久留米に司令部を置く、歩兵第一八師団が中心となつて特別に編成された、独立第一八師団が攻撃の主体を担った。 青島(せいとう)攻囲軍と名付けられた独立師団を率いたのは司令官神尾光臣中将である。神尾光臣中将は、『カインの末裔』や『生れ出づる悩み』の作品で知られる、白樺派の小説家有島武郎の義父だった。やがてドイツ軍を降伏 させて東京に凱旋した神尾中将を、有島武郎は妻や子供たちとともに東京駅に出迎えている。実はその日が、ちょうど東京駅開業式の目でもあつた。
 
青島は緑美しい町ではあったが、その周囲には堅固な要塞が数多く設けられ、一種の要塞都市であった。膠州湾内に入ることや、青島の町に直接近づくことは困難だった。そこで日本軍は、山東半島の青島とは反対側の龍口という 港町に部隊を上陸させて、数百キロ先の青島へ進軍したのである。龍口は先に触れたように、日本の海運業者が活動していたので、部隊を上陸させるのにも適していたのであろう。
 
ごく概要だけ、日独両軍の部隊編成について記してみたい。
 
【ドイツ総督府守備軍】
 
膠州総督府参謀本部
総督マイアー=ヴァルデック海軍大佐
副官カイザー陸軍少佐、参謀長ザクサー海軍大佐、参謀べヒトルスハイム海軍大尉、情報部長フォラートゥン海軍大佐(海軍省膠州課長)等。
 
 
第三海兵大隊(2334名)
海軍膠州砲兵隊(1173名)
海軍東アジア分遣隊((421名)
動員国民軍(128名)
巡洋艦皇后エリーザベト(398名)
砲艦ヤーグアル(122名)
その他(248名)
 
なお、( )内の数字は、俘虜4715名の部隊別等の人員数で、青島ドイツ軍の正確な数値ではない。戦死者等が算入されていないし、青島以外で俘虜となった者も含まれているからである。しかし、ある程度ドイツ軍の規模 を想像することが出来るであろう。
 
戦死者やイギリス軍管轄の香港収容所に送られた俘虜もいたことから、ドイツ軍の総勢は5000名余と考えられる。しかしこの5000名余がすべて現役兵ではなかった。予備役、後備役と呼ばれる臨時の応召兵が2000名近く いた。日本を含む東アジアで様々な職業に就いていた人々である。大学で農学やドイツ語、ラテン語を教えていた者もいれば、商社、銀行、郵便局、鉄道会社、鉱山会社などで働いていた人々もいた。商人、職人も数多くいた。 日独戦争の勃発に際して総督府は、大正3年(1914年)8月3日に予備、後備、補充予備を召集する動員令を東アジア一帯に発布したからである。その中には日本から応召した118名も含まれていた。
 
【日本軍の編成部隊】
 
独立第一八師団 (1万5092名)
師団長神尾光臣陸軍中将
参謀長山梨半造陸軍少将
歩兵第二三旅団 (旅団長堀内文次郎少将、歩兵第四六連隊、歩兵第五五連隊)
歩兵第二四旅団 (旅団長山田良水少将、歩兵第四八連隊、歩兵第五六連隊)
歩兵第二九旅団 (旅団長浄法寺五郎少将、歩兵第三四連隊、歩兵第六七連隊)
 
右記以外に、近衛、第一、第三、第一五の各師団のそれぞれ一部(6758名)、その他独立歩兵大隊(2090名)、野戦重砲兵第一、第二(5931名)、独立攻城砲兵四個大隊(2440名)、工兵大隊五個大隊 (3805名)、鉄道大隊(3000名)等の多数の部隊を合わせると、陸軍の総員は5万1880名だった。(『日濁戦史』による)
 
一方海軍はドイツ側が編纂した『青島戦史』によれば、三艦隊合わせて2万5276名と推計されている。青島攻略に従軍した日本陸海軍の兵員の総合計は、実に7万8656名に及ぶ。
 
9月2日に龍口に上陸した日本軍は、じわじわと青島に向かって進軍し、また海軍は青島の沖の艦船から艦砲射撃を行った。戦闘は、9月26日から激しくなり、史上初の航空機による空中戦も数度にわたって行われた。 しかし、多勢に無勢で、さしものドイツ軍も1ヵ月半後の11月7日未明、白旗を掲げて降伏することになる。
 
【一時休戦】
 
戦死者埋葬、負傷者救出のための一時休戦を取り決める会談が大正3年(1914年)10月12日に東呉家村で行われた。ドイツ側の代表はベヒトルスハイム海軍大尉で、胸には日本の旭日章を付けていた。かって伊集院五郎海軍 大将がキール軍港を視察した際に、案内役を果たしたことから授与されたものであった。その折、ドイツ人婦女子等の避難も合意され、15日に避難船が用意された。日本側の代表は山田耕三陸軍大尉で、15日にはドイツ人婦女子 を乗せた避難船に同乗して塔埠頭まで行き、さらに膠州からは山東鉄道で省都済南まで同行した。
 
【プリュショー海軍中尉】
 
唯一保持していた航空機で、日本軍複葉機と空中戦を行ったのはプリュショー海軍中尉で、青島の中国人からは「青島の鳥人」とも「青島の鳥王」とも呼ばれた。プリュショー海軍中尉は大正3年(1914年)2月末、ベルリンの ヨハニスタール飛行場で高度5500メートルの当時の世界最高記録を樹立し、大正3年(1914年)3月上旬に6年振りで青島に赴任したのであった。戦闘の最後には総督の命を受けて、11月6日午前6時、日の出とともに 上海へ向けて青島を脱出した。給油で着陸した江蘇省海州近郊で、中国官憲により機体没収の通告を受けたことから機体を破壊・炎上させ、陸路上海へ向かった。12月5日、上海発サンフランシスコ行きの汽船モンゴリア号に乗船 し、12月8日長崎港に寄港、検査・検閲を受けるが食中毒を装い逃れた。(『青島から飛び出して』170頁)
 
「余が以前から知っている長崎の陸地を船内から眺めた。…青島からの凱旋軍を迎える満艦飾で港も町も飾られていた。船内には青島を退去させられたドイツ人も大勢いた」
 
更に神戸、横浜に寄港し、ホノルルを経由してアメリカ本土に着いた。大正4年(1915年)1月2日サンフランシスコを去り、2月8日ジブラルタルに到着するが、イギリス軍の検問で露見して俘虜となった。イギリスで数ケ所 の収容所を転々とし、やがてダービーに近いロングイートンにあるドニングトン・ホールの将校俘虜収容所に入れられた。月給として210マルク(約60円、今日の物価では約40万)を支給された。
 
大正4年(1915年)7月4日に脱走してオランダの貨物船の救難用ボートに忍び込み、7月13日ベルリンに帰還した。ドイツ皇帝から「鉄十字章功一級」が贈られ、前記著作は70万部のベストセラーとなり、プリユショー中尉 は英雄として称えられた。その後軍籍を離れて民間飛行家となり、昭和6年(1931年)1月28日、アルゼンチンで複葉二人乗りの「チンタオ」号を操縦中に、墜落事故を起こして死亡した。
 
【イギリス軍部隊】
 
日本は日英同盟の誼からドイツの膠州湾租借地を攻撃したが、イギリス革もバーナジスト少将が2000の兵を率いて、青島攻撃に加わった。しかし、イギリス軍の影が薄いのには、一つの理由があつた。夜間の戦闘では、イギリス兵 とドイツ兵との識別が日本側の兵士には付きにくく、日本軍の銃撃を受けて死亡するイギリス兵が出たのである。そこでイギリス軍は後方に退くほかなかった。
 
【佐久間大尉と横綱常陸山】
 
9月18日における白沙河左岸における戦闘では、日独両軍の将校に戦死者が出た。日本側は佐久間善次騎兵大尉で、ドイツ側は元第三近衛騎兵連隊所属の男爵リーデゼール・ツー・アイゼナハ予備少尉である。リーデゼール予備少尉 の戦死はドイツ側にとって衝撃であったが、佐久間大尉の戦死も、時の横綱常陸山に思わぬ余波を与えるなど、日本側にとって大きなニュースとなった。当時の新聞は以下のように伝えている。
 
「京都祇園の東京大相撲20日の千秋楽に、常陸山は梅ヶ谷と取り組み敗れたるが、常陸山が土俵に上がる凡そ20分前、佐久間善次少佐戦死す、との朝日新聞号外場内にて朗読さるゝを聞き大いに驚き悄然として 『佐久間さんとは水戸中学で私の学友でした、此間出征前に返信を戴きました』と語り力なく土俵に上がりたりと」
 
第19代横綱常陸山は、梅ヶ谷とともに「梅・常陸時代」を築いた明治時代を代表する名横綱で、9年の横綱在位期間に8敗しかしなかつた。水戸中学に学んだ当時としてはインテリ力士でもあつた。この出来事は「常陸山の落涙」 として新聞紙上で話題になった。この年を最後に常陸山は引退し、翌大正4年(1915年)、ドイツ兵俘虜慰問のための興行を四国で行った。松山俘虜収容所新聞『陣営の火』第1巻第13号には、常陸山が松山を訪問したことが 記されている。常陸山はかって、ハンブルクで巡業を行ったこともあった。
 
【シラーの詩集と女物のハンカチ】
 
妙に文学っぽいタイトルを掲げたのは、ある従軍記者の戦況報告とも関連するからである。以下は大正3年(1914年)11月2日付 朝日新聞に、「勇敢にして優雅なドイツ青年将校」と題して掲載された従軍記者美土路春泥の戦況 記事である。
 
「敵ながら哀れにも勇ましき物語がある。去る9月18日、我が軍の一部が努山湾に上陸の当時、湾を脚下する巌山の上の監視哨にあって、絶えず我が軍の行動を偵察して居た一隊があった。我が海軍のために撃退されて退却したが、その際遺棄し去った革鞄の中には、控が数通収められて居た。その訳文は、18日ウンチャンに於ける斥候より陸戦隊司令官及びアンデルス枝隊に送りたる報告
 
小王村の北方小高地の麓に強力の歩兵(三中隊以上) 休憩中、…ここより前の報告3隻の外か、2本煙突を有する軍艦みゆ。−フォン・フリーズ少尉署名
 
9時30分、軍隊は撤去す。前進の方向は諸山のため未だ決定せず。
10時5分、多数の人員を載せたる小端艇は、絶えず軍艦及び商船より陸に向かって通行中。−フォン・フリーズ少尉署名」
 
参謀本部が大正5年に編纂した『日濁戦史』は、日独戦争の経緯、経過を詳細に纏めた戦史であるが、その上巻には本文中の随所に挿入された(付記)というドイツ軍側の資料に、このフォン・フリース少尉の名が何度も登場する。 斥候として日本軍の動静を細かく監視して報告していたフォン・フリース少尉の行動は、日本軍にとって脅威であると同時に、一種畏敬の念をもたらしていた。美土路春泥のフォン・フリース少尉に関する報告は更に続く。
 
「これによって始めて敵の将校斥候であつた事が判明するとともに、この大胆な貴族出のフォン・フリーズ少尉なる名は我が軍の人々に刻まれた。(中略)越えて9月27、8日の両日に亘って、我が左翼軍の一部は非常なる苦戦の 末に第一線を占領と同時に、重砲兵陣地なるワルデルゼ一高地もついに陥落して、佐賀山と名を改めた。(中略)10月4日の夜に至って、我が斥候将校はその中から敵のらしい死骸に遭遇して、後日の手懸かりに懐中品と20米 突ばかり離れて飛んで居た革の千切れた背嚢とを携えて帰った。まず改めた認識票には(111.S.B.5K.157)とあったが、名前は判らなかった。」
 
右記引用文中の括弧内に示された(111.S.B.5K.157)は、第3海兵大隊第5中隊157番の意である。春泥の文章は更に続く。
 
 「懐中には(…)命令書が入っていた。その命令書には、《張村附近に退却して、柳樹台及び河東の敵を捜索して、沙子口附近の警戒をなすべし。》署名はアンデルス少佐で、宛名はフォン・フリーズ少尉殿!始めてこの死体は、 勇敢なるかのフォン・フリーズなる事が判明した。我が将兵のことごとく、好個の青年士官のために暗然として征衣の袖を絞った。(中略)更に「ハンタ同盟の日より」と題する軍書と、小型なシルレルの詩集の第3巻、第7巻 とが発見された。朱に染む死体の側に散る詩集、なんという美しい詩的な画題だろう。」
 
感傷の度を強めていった春泥の筆は、以下の文で締めくくられている。
 
 「(・・・)他には女々しい記念は一つもなかつた。ただ哀れに死体の側に咲く撫子の花と、落ちて居た奇麗に畳んだ女持ちの手巾(ハンケチ)とは、更にこの死体の影に潜む短い半生を美わしく想像せしめた。死体は鄭重に葬られた。 祖国の方に頭を向けて、上には新しい墓標に墨色も鮮やかに認識票をそのまま111S.B.5.K157」
 
その後、美土路春泥は軍の検閲を経ないで記事を送ったことから、青島から日本へ退去させられた。春泥美土路昌一は後に朝日新聞社長に就任し、更に全日空社長に就いた人物である。
 
10月18日未明、駆逐艦S90の魚雷をうけて二等海防艦高千穂(3709トン)が沈没したのは、日本軍が一度に受けた被害の中では最大規模だった。乗員総数284名の内、生存者は僅か13名で、艦長伊東祐保大佐以下 271名が海の藻屑となった。
 
【開城交渉と両司令官の会見】
 
11月7日午前6時30分、測候所頂上に白旗が掲げられて、2ヶ月近くに及んだ戦闘に終止符が打たれた。午後4時にはモルトケ兵営で開城交渉が始まった。11月10目午前9時にはモルトケ兵営で、神尾青島攻囲軍司令官と マイアー=ヴァルデック膠州総督の会見が行われた。
 
司令官神尾中将は、日本陸軍がドイツ陸軍より受けたこれまでの指導について謝意を述べたのち、日本の政策上不本意ながら青島を攻撃したこと、日本側に多大の損失が出るほど ドイツ軍の防備が優れていたことを語った。それに対してマイアー=ヴァルデック総督は、日本側の武勇を称えたといわれている。さながら日露戦争での旅順陥落後に行われた、乃木大将とステッセル将軍の水師営での会見を想わせる 。しかし水師営の会見は、僅か10年前の出来事だったのである。
 
会見から4日後の11月14日、マイアー=ヴァルデック総督は俘虜として日本へ移送された。ドイツが軍艦を膠州湾に入れて青島を占拠したのは、1897年11月14日である。奇しくもちょうど17年後の同じ日付であった。
 
青島陥落後、日本軍兵士の間ではドイツの三つの兵営を織り込んだ替え歌が流行った。なお小湛山とは、ドイツの砲台や墜塁がめぐらされていた要塞地域の地名である。
 
ドイツの肝玉小湛山 どうせこうなりゃビスマルク
早く壕内イルチスで 最早日本もモルトケる
 
【日独戦争における戦死者とドイツ軍俘虜】
 
日独戦争での戦死者の数となると、必ずしも明確に示す事は出来ない。特に日本軍の戦死者は文献によって様々である。すでにこの時代から日本軍は、統計上の数字を秘匿する傾向もあつたように思われる。そうした中で、青島に 建立された慰霊碑に祀られた戦没将兵の数が、比較的信頼できる一つの手がかりであろう。それによると、陸軍676名、海軍338名の計1014名となつている。
 
一方ドイツ側の戦死者数について、最近の文献では189名の数が挙がつている。これもなかなか決めがたい面がある。日本の俘虜情報局が大正6年6月に改訂版として発行した『濁逸及喚洪国俘虜名簿』には、巻末に日本軍埋葬戦 病死者として61名、濁逸軍埋葬戦病死者148名の名が記されている。しかし、単純に合計して209名とするわけにはいかない。理由は、日本軍埋葬戦病死者61名の中には、年月の上で最も遅い例としては大正6年 (1917年)5月に大分収容所で死亡した俘虜など、戦争終結後かなりの年月が経ってから、日本国内で死亡した俘虜まで含まれているからである。そこで、前記『俘虜名簿』に記載されて、俘虜と認定された者を戦病死者から 除くことにすると、182名になる。最終的には、どの時点を採用するかで異なるので、決めがたいと言えるであろう。なお、先にも述べた通り「俘虜」と言う言葉は、当時は「捕虜」の代わりに公式用語として使用された。 第二次大戦後に書かれた大岡昇平の作品『俘虜記』には、この俘虜の語が使われている。
 
【第一陣は門司へ】
 
俘虜の第一陣は、日独戦争の最中に門司に送られてきた。9月28日の浮山山中の戦闘で俘虜となった55名である。門司駅頭には神尾光臣司令官夫人を始めとして、第18師団幹部の夫人たちが出迎えて、虜囚の身となつた俘虜 に慰めの言葉を贈ったので、ドイツ人将兵たちは驚いたという。想像もしなかったからであろう。
 
日本の俘虜となったドイツ人将兵、オーストリア=ハンガリー帝国の将兵たちは、捕虜となるとただちに日本へ移送された。膠州湾は自沈したドイツ並びに、オーストリア=ハンガリーの軍艦や、機雷のために使用不可能の状態だった 。そこで俘虜は青島から22キロほど離れた沙子口湾から輸送船で運ばれた。東シナ海から朝鮮半島と済州島の間を通り、対馬の南を通過して玄海灘に入り、2日半をかけて門司港に着いた。福岡、久留米、熊本、大分の九州地方の 収容所に送られる俘虜はそこで下船した。他の俘虜たちは更に瀬戸内海に入り、四国の収容所に送られる者たちは高浜、多度津の港で下船して、松山、丸亀の俘虜収容所に向かった。本州の収容所に送られる者たちは、広島の宇品港 で下船して、鉄道で姫路、大阪、名古屋、静岡、東京へと向かったのである。なお、開設が遅れた徳島収容所に収容される俘虜も当初は大阪に送られた。
 
死者数の確定とは少し違った視点から、つまり俘虜の収容に関する数字を挙げてみよう。この数字の方が、遥かに興味深く、かつ重要な数字である。
 
【俘虜の収容に関する数字】
 
 A)俘虜番号を付された俘虜総数:4715名
 B)青島及びその周辺で死亡した俘虜:7名
 C)大戦終結まで青島俘虜収容所に収容された俘虜:1名
 D)青島俘虜収容所から逃亡した俘虜:1名
 E)南洋群島のヤップ島で宣誓解放された俘虜:9名
 F)南洋群島から日本の俘虜収容所に移送された俘虜:5名
 G)日本国内等(横浜、門司、長崎、奉天)で捕えられた俘虜:4名
 H)青島から日本へ移送された俘虜:4688名
         (A−(B+C+D+E+F+G)=4688)
 I)日本各地の俘虜収容所に収容された俘虜:4697名
                 (F+G+H=4697)
 J)日本の俘虜収容所から海外へ逃亡した俘虜:5名
 K)日本の俘虜収容所に収容後釈放された俘虜:1名
 L)日本の俘虜収容所に収容中に死亡した俘虜:87名(内、自殺した俘虜:2名)
 習志野(31名)、名古屋(12名)、久留米(11名)、似島(9名)、板東(9名)、 青野原(6名)、大分(2名)、福岡(2名)、大阪(1名)、熊本(1名)、静岡(1名)、松山(1名)、丸亀(1名)
 
前記の一覧の中で、分かりにくい用語や疑問に思われる個所について説明しよう。
 
【俘虜番号】
 
日本帝国俘虜情報局が発行した『獨逸及墺洪国俘虜名簿』(以下、『俘虜名簿』と略記)では、4715名の俘虜全員に番号が付けられている。これが俘虜番号である。同姓同名の俘虜もいたが、この数字で区別が出来るので重要な 番号である。例えば、東京収容所に収容された俘虜は1番から315番、久留米収容所の場合は316番から852番、というように1人1人に番号が付けられたのである。
 
日本軍が青島等で俘虜にしたドイツ兵は、実は4715名より76名多かった。総督府衛成病院に収容されていた重傷の俘虜76名が、イギリス軍に引き渡されて大正4年(1915年)2月14日、青島から船でイギリスの香港 収容所に送られたのである。イギリスからの要請によるが、その理由は南方の中国人たちに、ドイツが中国地域での戦闘に破れたことをはっきり示すことだった。やがて香港収容所のドイツ兵俘虜は、更にオーストラリアにあった リヴァプール収容所に移送された。
 
大正6年(1917年)8月14日、中国がドイツに宣戦を布告すると斉斉吟爾(ちちはる)、天津、南京、香港等中国各地10ヶ所に俘虜収容所が開設され、ドイツ人たちはそれらの俘虜収容所に収容された。当時アジアにいた ドイツ人が収容されたのは、日本の収容所だけではなかったのである。
 
【青島俘虜収容所】
 
日本軍はドイツ軍を降伏させて青島市街地に軍隊を入れると、戦乱を逃れてもぬけの殻になつた中国人街に、ドイツ軍将兵を野営させた。やがて、ドイツ総督府の建造になる堂々たる兵営の一つ、モルトケ兵営内に俘虜収容所を設置し た。それが青島俘虜収容所で、俘虜を日本へ送るまでの臨時的な収容所となつた。しかし第一次大戦が終結して、俘虜の解放が行われる最後に至るまで存続したものと思われる。何故なのかは不明であるが、一名だけが最後まで 青島俘虜収容所に容れられていたからである。
 
【南洋諸島】
 
先に述べたように、ドイツが南太平洋に獲得した海外領土で、マーシャル諸島、カロリン諸島、トラック諸島を総称して日本では南洋諸島または南洋群島と呼んでいた。やがては日本が統治することになり、第二次大戦終結まで日本の 信託統治領だった。
 
【宣誓解放】
 
第一次大戦時はたとえ俘虜となっても、当該戦争中を通して、再び軍隊に加わらないことを誠実に宣誓れば、解放しなければならないとする国際条約があった。それは文明国に存続してきた国際慣例と法規とに拠るものであつた。 明治32年(1899年)7月29日に締結されたハーグ条約であるが、日本政府は明治40年(1907年)10月18日にハーグで調印した。それは「陸戦ノ法規慣例二関スル規則」と呼ばれている。
 
その規則の第二章俘虜の項の第10條には、以下の規定が記されている。
「俘虜ハ其ノ本国法律カ之ヲ許ストキハ宣誓ノ後解放セラルルコトアルヘシ」
 
25年ほど後に起きた第二次大戦では考えられないことである。大正6年(1917年)6月改訂の『俘虜名簿』には、41名の宣誓解放者の名が記されている。ドイツが戦争に敗れてエルザス及びロートリングン地方がフランス領 となり、その名もアルサス及びロレーヌとなると、その地方出身者がいち早く収容所から解放された。同様のケースはポーランドや北イタリア出身者、オーストリア=ハンガリー二重帝国のチェコ出身などの俘虜にも見られ、 最終的には250名ほどが宣誓解放された。
 
なお、収容後に釈放された俘虜は、実はロシアの脱走兵だつた。シベリアの兵営を脱走して満州、中国を転々とした後に、飢えと寒さから大正5年(1916年)5月4日、ウラジスラフ・コフラーという名のオーストリア人と 称して青島に流れ落ちてきた。ロシア語以外はろくに話せなかつたが、敵国人として日本の収容所に送られた。収容所に容れられてから、実はロシア人であることを告白して解放を求め、やがて日本駐在のロシア領事に身柄が引き渡 された、という変り種である。
 
【スペイン風邪】
 
スペイン風邪は大正7年(1918年)から翌年にかけて世界的に大流行したインフルエンザである。アメリカの兵営に発したとも、中国から発生したともいわれている。地球上の人間の約半数が罹患したといわれるが、フランス からイギリスに伝播してから、スペイン風邪の名で知られるようになつた。死者は2500万人とも、5000万人ともいわれ、第一次大戦の戦死者約1000万人を遥かに上回った。当時の世界の人口は16億人ほどと推測される ので、想像を絶する規模の死者数といえよう。人口が約5900万人だった日本でも、2500万人の罹患者を出し、38万人余が死亡したとされている。
 
インフルエンザに罹った時は、安静にすることがなにより大事であるが、スペイン風邪が流行した時、安静にしていることが出来なかった人たちがいた。戦場の兵士である。特に前線の兵士に安静などは考えられなかった。 バタバタと兵士が倒れていった。スペイン風邪が戦争の終結を早めたといわれる所以である。
 
日本の収容所に収容されていた俘虜も、スペイン風邪に罹ってベッドに臥せる者が続出した。前記、日本の収容所で死亡した俘虜87名の内、60名近くはスペイン風邪による死亡であつた。死亡者に若い兵士が多かったのは、 治りかけると、ベッドにじっとして寝ていられなかったから、とも言われている。習志野収容所での死者が飛び抜けて多かったのは、東京に近かつたからであろう。近年、このスペイン風邪は鳥インフルエンザではなかったか、 との推測もされている。
 
 
第V部 日本による占領・統治時代の青島
 
 
ドイツ軍の降伏後、青島を占領した日本軍は11月18日、青島市街中のドイツ街路名を全て日本名称に改めて、同日よりただちに実施した。同26日、神尾中将は独立第18師団長を免ぜられて、新たに設置された青島守備軍 司令官に任ぜられ、12月1日占領地に軍政を布いた。
 
日本による占領・統治後のドイツ人はどうなったであろう。その実態を明確に示す資料は多くはない。統計上の数字もはっきりしていないが、いくつかの日本の文献を手がかりにして記してみる。
 
『山東概観』によれば、大正4年(1915年)1月13日に大検挙が行われて、新たに92名の俘虜が出現した。なおも48名の拘留調査対象者がいると記している。この文献では左記の数字を挙げている。
 
男子 137名
その妻 56名
子供 87名
俘虜の妻 102名
その子供 125名
独居婦人 59名
その子供 23名
計  590(戸数は119)
 
上記の男子(成人男子)のほとんどはやがて俘虜として日本へ移送され、大阪俘虜収容所に収容される。カール・ユーハイム等の国民軍の軍籍にあつたことが判明した者たちである。成人男子の内で、その後も青島に残留するのは 1桁台になる。医師1名と学校の教師数名等である。婦女子もやがて主として上海へ移ってゆく。青島のドイツ人学校は大正4年(1915年)3月に再開するが、別の文献の記すところでは、その当時の在籍者は男子49名、 女子37名であつた。大戦終結して俘虜の解放が行われる大正9年(1920年)1月の時点では、青島で暮らすドイツ人は230名ほどになっていた。
 
日本が青島を占領し、軍政を布いた期間、つまり大正3年から大正11年までについての文献は余り多くはない。その後中国に返還されてからも、青島や山東半島及び山東省に関する文献は決して多いとは言えない。しかし、 第二次大戦終了まで、青島を中心に省都済南を始めとする山東省の諸都市に、3万余の邦人が暮らしていた。
 
【歴代青島守備司令官】
 
初代司令官:神尾光臣(1855−1927;安政2年11月11日−昭和2年):
信州諏訪郡岡谷郷に生まれる。幼名信次郎。明治7年10月3日陸軍教導団に入って武学生となり、明治10年の西南戦争には曹長として従軍した。明治12年2月1日陸軍少尉に任ぜられる。以後、清国公使館附武官、近衛歩兵 第3連隊長、第1及第10師団参謀長、歩兵第22旅団長、遼東守備軍参謀長、清国(天津)駐屯軍司令官、関東都督府参謀長、第9及第18師団長を歴任して、独立第18師団長(青島攻囲軍司令長官)となる。陸軍中将。大正3年 11月26日付けで、上記の職を解かれ、青島守備軍司令官に就任(1914年11月から1915年6月)。大正3年12月18日青島から東京駅に凱旋した。その日が東京駅開業式の日であった。大正4年3月24日付けで東京衛戍総 督に転出、大正5年6月24日大将に昇任、7月14日男爵に叙せられ、8月辞職した。次女安子は明治42年3月有島武郎に嫁ぎ三男をもうけたものの、大正6年12月2日27歳で病死した。[『死其前後』(大正6年5月5日 『新公論』第32巻第5号に発表されたが発禁処分を受け、その四日後に5月倍号の付録欄に掲載)は妻安子の病状・病中等を題材にした戯曲である。その後若干の加筆をして『死』と改題され、大正6年10月18日新潮社から 『有島武郎著作集第1輯』に収められた。大正7年10月3日から8日にかけて、島村抱月演出、松井須磨子主演で上演された。
 
第二代司令官:大谷喜久蔵:
福井出身。大正4年5月24日陸軍中将で第2代青島守備軍司令官に就任し(1915年6月から1917年8月)、在任中の大正5年11月16日大将に親任される。その後浦塩派遣軍司令官、連合軍総司令官となり、更に戸山学校 長も歴任し男爵の位を授かった。晩年教育総監にも就いた。陸軍士官学校旧制2期卒。
 
第三代司令官:本郷房太郎:
兵庫出身。明治38年7月18日陸軍省高級副官兼俘虜情報局長官。大正2年5月7日陸軍次官、同3年4月17日第17師団長、同5年8月18日第1師団長、大正6年8月6日第3代青島守備軍司令官(1917年8月から1918 年7月)。大正7年7月2日在任中に大将に親補される。陸軍士官学校旧制3期。
 
第四代司令官:大島健一(1858−1947;安政5年−昭和22年):
岐阜出身。陸士・4期。明治14年(1881年)陸軍士官学校卒業後ドイツに留学した。大正2年8月25日陸軍中将。大正3年4月17日陸軍次官、同5年3月30日第二次大隈内閣陸軍大臣、同7年10月10日第4代青島守備軍司令官(1918年7月から1919年5月)。後に貴族院議員、枢密顧問官に就いた。 息子大島令は第二次大戦開戦前後のドイツ大使を勤めた。
 
第五代司令官:由比光衛(1860−1925;万延元年−大正14年):
万延元年10月15日、土佐郡神田村高神(高知市神田)に生まれる。海南私塾分校(現小津高校)を経て、明治10(1877)年幼年学校に入り、同15年陸軍士官学校、同24年陸軍大学を首席で卒業。日清、北清、日露の各 戦争に参加。明治41年3月9日近衛歩兵第1連隊長、同42年5月20日参謀本部第1部長、大正3年5月11日陸軍大学校長、陸軍中将、同4年1月25日第15師団長、同6年8月6日近衛師団長、同7年8月9日浦塩派遣軍 参謀長、同8年5月28日青島守備軍司令官となる。同8年11月25日陸軍大将。同11年軍事参議官となり、同12年待命、予備役に入る。大正14年9月18日没。第5代青島守備軍司令官(大正8年5月から大正11年12 月まで)。在任中に大将に親任される。陸軍士官学校旧制5期。
 
 
第W部 帰国後の俘虜の動静
 
日本の収容所から解放されると、ほとんどの俘虜は祖国に帰還した。日本に留まった俘虜の数は、正確な数字となると困難であるが、解放当初は、200名以上が日本に残留する道を選んだ。その幾人かについては俘虜群像で 採り上げている。再び青島を始めとして、中国各地に戻った者も僅かながらいた。また、蘭領印度(現インドネシア)に渡った俘虜も200名以上いたことが資料で判明している。しかしそれも解放から数年後までのことで、 その先の状況になると分からないのが実情である。第1次大戦が終結して、日本から多くの俘虜がドイツ、オーストリア、ハンガリー等に帰還したが、ヨーロッパは戦争後の大混乱に陥っていた。大帝国だったドイツ及び オーストリア=ハンガリーの両帝国は瓦解し、領土は縮小し、猛烈なインフレがドイツ、ハンガリーを襲った。帰国した俘虜は生活を立て直すことで精一杯であっただろう。
 
【斎藤茂吉と二人の元俘虜】
 
歌人斎藤茂吉は大正10年(1912年)12月から大正13年(1924年)11月末まで主としてヨーロッパに滞在した。その折に、茂吉は2人の元ドイツ人俘虜に出会っている。
 
その最初は大正13年(1924年)6月2日、オーバーパイエルン地方のガルミッシュ=パルテンキルヒェンの、それも片田舎の、アイプゼーという小さな湖の畔にある店屋での出来事である。散文「蕨」の中には次の一節がある。
 
「この絵葉書などを売る家の主人は、シイボルトの孫だと云った。バグアリア師團の陸軍少佐であるが、戦後ここで店を開いてゐるといふことであった。その主人と話してゐる一人の男は突然『今日は』といった。 この男は俘虜になって久留米に5年もゐたなどといった。」
 
斎藤茂吉の研究家には知られているエピソードである。しかし、この俘虜は果たして誰であろう、などといったことは全く研究・調査の外に置かれていたであろう。ドイツ兵俘虜に関心を寄せ、しかも俘虜全員をくまなく調べられる 資料がない限り、とてもおぼつかないことであるからだ。最近、この人物の特定に迫った調査を、習志野市教育委員会の星昌幸氏が行った。屈指の俘虜研究家星氏の消去法による推論の道筋を示してみよう。
 
『俘虜名簿』に掲載されている4715名の中で、オーバーパイエルン出身者は53名である。その中で久留米収容所にいた者は13名、更にその中でガルミッシュ=パルテンキルヒエン出身に該当する者はただ一人、俘虜番号 3706番のハンス・ザルトリ(Hans Sartori)である。もちろん100パーセント間違いないという訳ではない。この地方出身ではなくて、他の町から移住してきたとか、この近辺に住んでいるのではなくて偶然やって来た、 との異論を唱えることも不可能ではない。しかし、そうした可能性を指摘するよりも、土地の人間と見なすのが素直な受け止め方であろう。また、次の事実も挙げておこう。このザルトリは久留米収容所時代に、バイエルン方言 を用いた戯曲を書いた事で知られる、劇作家ルートヴィヒ・トーマの農民劇『一等車』に出演していることである。バイエルン方言を話せたのである。
 
ところで茂吉は、この俘虜には余り関心がなかったようだ。「シイボルトの孫」の方が医師斎藤茂吉の心に残ったのであろう。歌集「遍歴」には、6月11日の日付で詠まれた次の歌が収められている。
 
 「シイボルトの孫にあたるが湖(うみ)のべの店をひらけり縁(えにし)とやいはむ」
 
茂吉が2人目の元俘虜に会ったのは、それから二週間ほど経ったある日のライプチヒでのことである。「ニイチェの墓を弔う記」には以下の一節がある。
 
「道が分からぬので街頭の巡査にたづねると、その巡査はにこにことして『今日は』とか『兵隊さん』とか、そんなことを日本語で言ふのに驚かされた。その巡査は俘虜になって5年間日本に居たさうである。京都、名古屋、神戸、 福岡を知って居た。『僕は加藤大尉と懇意にしてゐたが、このごろ通信が無いから地震で死んだかも知れませんね』などとも云った。そして僕をFock(フォック)まで連れて行って呉れた」
 
Fock(フォツク)まで茂吉を案内した間に、元俘虜氏は日本のことなどを話題にしたのではと推測されるが、茂吉は何も記していない。俘虜が解放されて帰還したのは大正8年(1919年)末から翌年の初めにかけてである。 それほどの年月が経っているわけではない。茂吉の方にそれ以上の関心がなかったのだ、とするほかないであろう。
 
ところで、この俘虜を特定することはどうだろう。残念ながら先のケースとは違って困難である。収容所名が分からないこともーつであるが、ライプチヒのような大都会には、周辺部の村からも人々が入って来るであろう。ただ この元俘虜は、福岡収容所から名古屋収容所に移された者との推測も成り立つ。元俘虜氏が挙げた4つの地名の内、京都や神戸はドイツ人が知っていても不思議がない地名である。しかし、大正時代に福岡や名古屋は、西洋人に とってどの程度知られていたであろう。住んだことがない限り、俄かには出てこない地名に思われる。在日ドイツ人は、俘虜を除けば極めて少なかった時代である。元俘虜氏が帰国後巡査であったことは、大戦以前から日本に住んで いたのではなくて、青島からの応召兵であることも推測させる。「加藤大尉」なる人物は、収容所の所員であったのかもしれない。ところで福岡から名古屋へ移送された俘虜は194名に及んでいる。相当な数である。星昌幸氏の検索 によれば、ライプチヒ出身者はただ1人。しかし、二人目の元俘虜の人物推定はここまでにしておこう。不確定な要素が多いので、軽々しい判断は出来ないと言えそうだ。
 
【二つの戦友会】
 
かつて日本の俘虜収容所に容れられた人たちの帰国後の動静が表に出てくるのは、二つの「戦友会」とでもいえる会合である。
 
解放から14年ほど経た昭和9年(1934年)、かつての俘虜の1人エドアルト・ライボルトが「板東を偲ぶ会」を結成した。後にフランクフルトで例会を開き、最大時には80人ほどが参集した。しかしこの例会も途絶する運命 にあった。第1次大戦が終結してから20年を経ずして、ドイツは再び世界大戦に突入することになるからである。
 
第2次大戦後の昭和29年(1954年)11月6日には、青島戦闘40周年を記念して、「青島戦友会」がハンブルクで開かれた。これには久留米俘虜収容所の元俘虜を中心に66名が参集した。昭和35年(1960年)頃にも この戦友会は開かれたが、その後の動向は不明である。元俘虜の高齢化が否応なしに訪れてきたことで、開催されなくなったのであろう。