第U部 日独戦争
 
【青島へ侵攻】
 
日本は陸海軍合わせて7万余の大軍を山東半島に向けて派遣した。海軍は3つの艦隊、大小合わせて47隻の軍艦を派遣した。ドイツ軍には、援軍として加わつたオーストリア=ハンガリー二重帝国の巡洋艦を加えても、 僅か数隻しかなかった。しかし、青島を防御するドイツ軍の攻撃に直接関わつたのは陸軍である。陸軍は、福岡県の久留米に司令部を置く、歩兵第一八師団が中心となつて特別に編成された、独立第一八師団が攻撃の主体を担った。 青島(せいとう)攻囲軍と名付けられた独立師団を率いたのは司令官神尾光臣中将である。神尾光臣中将は、『カインの末裔』や『生れ出づる悩み』の作品で知られる、白樺派の小説家有島武郎の義父だった。やがてドイツ軍を降伏 させて東京に凱旋した神尾中将を、有島武郎は妻や子供たちとともに東京駅に出迎えている。実はその日が、ちょうど東京駅開業式の目でもあつた。
 
青島は緑美しい町ではあったが、その周囲には堅固な要塞が数多く設けられ、一種の要塞都市であった。膠州湾内に入ることや、青島の町に直接近づくことは困難だった。そこで日本軍は、山東半島の青島とは反対側の龍口という 港町に部隊を上陸させて、数百キロ先の青島へ進軍したのである。龍口は先に触れたように、日本の海運業者が活動していたので、部隊を上陸させるのにも適していたのであろう。
 
ごく概要だけ、日独両軍の部隊編成について記してみたい。
 
【ドイツ総督府守備軍】
 
膠州総督府参謀本部
総督マイアー=ヴァルデック海軍大佐
副官カイザー陸軍少佐、参謀長ザクサー海軍大佐、参謀べヒトルスハイム海軍大尉、情報部長フォラートゥン海軍大佐(海軍省膠州課長)等。
 
 
第三海兵大隊(2334名)
海軍膠州砲兵隊(1173名)
海軍東アジア分遣隊((421名)
動員国民軍(128名)
巡洋艦皇后エリーザベト(398名)
砲艦ヤーグアル(122名)
その他(248名)
 
なお、( )内の数字は、俘虜4715名の部隊別等の人員数で、青島ドイツ軍の正確な数値ではない。戦死者等が算入されていないし、青島以外で俘虜となった者も含まれているからである。しかし、ある程度ドイツ軍の規模 を想像することが出来るであろう。
 
戦死者やイギリス軍管轄の香港収容所に送られた俘虜もいたことから、ドイツ軍の総勢は5000名余と考えられる。しかしこの5000名余がすべて現役兵ではなかった。予備役、後備役と呼ばれる臨時の応召兵が2000名近く いた。日本を含む東アジアで様々な職業に就いていた人々である。大学で農学やドイツ語、ラテン語を教えていた者もいれば、商社、銀行、郵便局、鉄道会社、鉱山会社などで働いていた人々もいた。商人、職人も数多くいた。 日独戦争の勃発に際して総督府は、大正3年(1914年)8月3日に予備、後備、補充予備を召集する動員令を東アジア一帯に発布したからである。その中には日本から応召した118名も含まれていた。
 
【日本軍の編成部隊】
 
独立第一八師団 (1万5092名)
師団長神尾光臣陸軍中将
参謀長山梨半造陸軍少将
歩兵第二三旅団 (旅団長堀内文次郎少将、歩兵第四六連隊、歩兵第五五連隊)
歩兵第二四旅団 (旅団長山田良水少将、歩兵第四八連隊、歩兵第五六連隊)
歩兵第二九旅団 (旅団長浄法寺五郎少将、歩兵第三四連隊、歩兵第六七連隊)
 
右記以外に、近衛、第一、第三、第一五の各師団のそれぞれ一部(6758名)、その他独立歩兵大隊(2090名)、野戦重砲兵第一、第二(5931名)、独立攻城砲兵四個大隊(2440名)、工兵大隊五個大隊 (3805名)、鉄道大隊(3000名)等の多数の部隊を合わせると、陸軍の総員は5万1880名だった。(『日濁戦史』による)
 
一方海軍はドイツ側が編纂した『青島戦史』によれば、三艦隊合わせて2万5276名と推計されている。青島攻略に従軍した日本陸海軍の兵員の総合計は、実に7万8656名に及ぶ。
 
9月2日に龍口に上陸した日本軍は、じわじわと青島に向かって進軍し、また海軍は青島の沖の艦船から艦砲射撃を行った。戦闘は、9月26日から激しくなり、史上初の航空機による空中戦も数度にわたって行われた。 しかし、多勢に無勢で、さしものドイツ軍も1ヵ月半後の11月7日未明、白旗を掲げて降伏することになる。
 
【一時休戦】
 
戦死者埋葬、負傷者救出のための一時休戦を取り決める会談が大正3年(1914年)10月12日に東呉家村で行われた。ドイツ側の代表はベヒトルスハイム海軍大尉で、胸には日本の旭日章を付けていた。かって伊集院五郎海軍 大将がキール軍港を視察した際に、案内役を果たしたことから授与されたものであった。その折、ドイツ人婦女子等の避難も合意され、15日に避難船が用意された。日本側の代表は山田耕三陸軍大尉で、15日にはドイツ人婦女子 を乗せた避難船に同乗して塔埠頭まで行き、さらに膠州からは山東鉄道で省都済南まで同行した。
 
【プリュショー海軍中尉】
 
唯一保持していた航空機で、日本軍複葉機と空中戦を行ったのはプリュショー海軍中尉で、青島の中国人からは「青島の鳥人」とも「青島の鳥王」とも呼ばれた。プリュショー海軍中尉は大正3年(1914年)2月末、ベルリンの ヨハニスタール飛行場で高度5500メートルの当時の世界最高記録を樹立し、大正3年(1914年)3月上旬に6年振りで青島に赴任したのであった。戦闘の最後には総督の命を受けて、11月6日午前6時、日の出とともに 上海へ向けて青島を脱出した。給油で着陸した江蘇省海州近郊で、中国官憲により機体没収の通告を受けたことから機体を破壊・炎上させ、陸路上海へ向かった。12月5日、上海発サンフランシスコ行きの汽船モンゴリア号に乗船 し、12月8日長崎港に寄港、検査・検閲を受けるが食中毒を装い逃れた。(『青島から飛び出して』170頁)
 
「余が以前から知っている長崎の陸地を船内から眺めた。…青島からの凱旋軍を迎える満艦飾で港も町も飾られていた。船内には青島を退去させられたドイツ人も大勢いた」
 
更に神戸、横浜に寄港し、ホノルルを経由してアメリカ本土に着いた。大正4年(1915年)1月2日サンフランシスコを去り、2月8日ジブラルタルに到着するが、イギリス軍の検問で露見して俘虜となった。イギリスで数ケ所 の収容所を転々とし、やがてダービーに近いロングイートンにあるドニングトン・ホールの将校俘虜収容所に入れられた。月給として210マルク(約60円、今日の物価では約40万)を支給された。
 
大正4年(1915年)7月4日に脱走してオランダの貨物船の救難用ボートに忍び込み、7月13日ベルリンに帰還した。ドイツ皇帝から「鉄十字章功一級」が贈られ、前記著作は70万部のベストセラーとなり、プリユショー中尉 は英雄として称えられた。その後軍籍を離れて民間飛行家となり、昭和6年(1931年)1月28日、アルゼンチンで複葉二人乗りの「チンタオ」号を操縦中に、墜落事故を起こして死亡した。
 
【イギリス軍部隊】
 
日本は日英同盟の誼からドイツの膠州湾租借地を攻撃したが、イギリス革もバーナジスト少将が2000の兵を率いて、青島攻撃に加わった。しかし、イギリス軍の影が薄いのには、一つの理由があつた。夜間の戦闘では、イギリス兵 とドイツ兵との識別が日本側の兵士には付きにくく、日本軍の銃撃を受けて死亡するイギリス兵が出たのである。そこでイギリス軍は後方に退くほかなかった。
 
【佐久間大尉と横綱常陸山】
 
9月18日における白沙河左岸における戦闘では、日独両軍の将校に戦死者が出た。日本側は佐久間善次騎兵大尉で、ドイツ側は元第三近衛騎兵連隊所属の男爵リーデゼール・ツー・アイゼナハ予備少尉である。リーデゼール予備少尉 の戦死はドイツ側にとって衝撃であったが、佐久間大尉の戦死も、時の横綱常陸山に思わぬ余波を与えるなど、日本側にとって大きなニュースとなった。当時の新聞は以下のように伝えている。
 
「京都祇園の東京大相撲20日の千秋楽に、常陸山は梅ヶ谷と取り組み敗れたるが、常陸山が土俵に上がる凡そ20分前、佐久間善次少佐戦死す、との朝日新聞号外場内にて朗読さるゝを聞き大いに驚き悄然として 『佐久間さんとは水戸中学で私の学友でした、此間出征前に返信を戴きました』と語り力なく土俵に上がりたりと」
 
第19代横綱常陸山は、梅ヶ谷とともに「梅・常陸時代」を築いた明治時代を代表する名横綱で、9年の横綱在位期間に8敗しかしなかつた。水戸中学に学んだ当時としてはインテリ力士でもあつた。この出来事は「常陸山の落涙」 として新聞紙上で話題になった。この年を最後に常陸山は引退し、翌大正4年(1915年)、ドイツ兵俘虜慰問のための興行を四国で行った。松山俘虜収容所新聞『陣営の火』第1巻第13号には、常陸山が松山を訪問したことが 記されている。常陸山はかって、ハンブルクで巡業を行ったこともあった。
 
【シラーの詩集と女物のハンカチ】
 
妙に文学っぽいタイトルを掲げたのは、ある従軍記者の戦況報告とも関連するからである。以下は大正3年(1914年)11月2日付 朝日新聞に、「勇敢にして優雅なドイツ青年将校」と題して掲載された従軍記者美土路春泥の戦況 記事である。
 
「敵ながら哀れにも勇ましき物語がある。去る9月18日、我が軍の一部が努山湾に上陸の当時、湾を脚下する巌山の上の監視哨にあって、絶えず我が軍の行動を偵察して居た一隊があった。我が海軍のために撃退されて退却したが、その際遺棄し去った革鞄の中には、控が数通収められて居た。その訳文は、18日ウンチャンに於ける斥候より陸戦隊司令官及びアンデルス枝隊に送りたる報告
 
小王村の北方小高地の麓に強力の歩兵(三中隊以上) 休憩中、…ここより前の報告3隻の外か、2本煙突を有する軍艦みゆ。−フォン・フリーズ少尉署名
 
9時30分、軍隊は撤去す。前進の方向は諸山のため未だ決定せず。
10時5分、多数の人員を載せたる小端艇は、絶えず軍艦及び商船より陸に向かって通行中。−フォン・フリーズ少尉署名」
 
参謀本部が大正5年に編纂した『日濁戦史』は、日独戦争の経緯、経過を詳細に纏めた戦史であるが、その上巻には本文中の随所に挿入された(付記)というドイツ軍側の資料に、このフォン・フリース少尉の名が何度も登場する。 斥候として日本軍の動静を細かく監視して報告していたフォン・フリース少尉の行動は、日本軍にとって脅威であると同時に、一種畏敬の念をもたらしていた。美土路春泥のフォン・フリース少尉に関する報告は更に続く。
 
「これによって始めて敵の将校斥候であつた事が判明するとともに、この大胆な貴族出のフォン・フリーズ少尉なる名は我が軍の人々に刻まれた。(中略)越えて9月27、8日の両日に亘って、我が左翼軍の一部は非常なる苦戦の 末に第一線を占領と同時に、重砲兵陣地なるワルデルゼ一高地もついに陥落して、佐賀山と名を改めた。(中略)10月4日の夜に至って、我が斥候将校はその中から敵のらしい死骸に遭遇して、後日の手懸かりに懐中品と20米 突ばかり離れて飛んで居た革の千切れた背嚢とを携えて帰った。まず改めた認識票には(111.S.B.5K.157)とあったが、名前は判らなかった。」
 
右記引用文中の括弧内に示された(111.S.B.5K.157)は、第3海兵大隊第5中隊157番の意である。春泥の文章は更に続く。
 
 「懐中には(…)命令書が入っていた。その命令書には、《張村附近に退却して、柳樹台及び河東の敵を捜索して、沙子口附近の警戒をなすべし。》署名はアンデルス少佐で、宛名はフォン・フリーズ少尉殿!始めてこの死体は、 勇敢なるかのフォン・フリーズなる事が判明した。我が将兵のことごとく、好個の青年士官のために暗然として征衣の袖を絞った。(中略)更に「ハンタ同盟の日より」と題する軍書と、小型なシルレルの詩集の第3巻、第7巻 とが発見された。朱に染む死体の側に散る詩集、なんという美しい詩的な画題だろう。」
 
感傷の度を強めていった春泥の筆は、以下の文で締めくくられている。
 
 「(・・・)他には女々しい記念は一つもなかつた。ただ哀れに死体の側に咲く撫子の花と、落ちて居た奇麗に畳んだ女持ちの手巾(ハンケチ)とは、更にこの死体の影に潜む短い半生を美わしく想像せしめた。死体は鄭重に葬られた。 祖国の方に頭を向けて、上には新しい墓標に墨色も鮮やかに認識票をそのまま111S.B.5.K157」
 
その後、美土路春泥は軍の検閲を経ないで記事を送ったことから、青島から日本へ退去させられた。春泥美土路昌一は後に朝日新聞社長に就任し、更に全日空社長に就いた人物である。
 
10月18日未明、駆逐艦S90の魚雷をうけて二等海防艦高千穂(3709トン)が沈没したのは、日本軍が一度に受けた被害の中では最大規模だった。乗員総数284名の内、生存者は僅か13名で、艦長伊東祐保大佐以下 271名が海の藻屑となった。
 
【開城交渉と両司令官の会見】
 
11月7日午前6時30分、測候所頂上に白旗が掲げられて、2ヶ月近くに及んだ戦闘に終止符が打たれた。午後4時にはモルトケ兵営で開城交渉が始まった。11月10目午前9時にはモルトケ兵営で、神尾青島攻囲軍司令官と マイアー=ヴァルデック膠州総督の会見が行われた。
 
司令官神尾中将は、日本陸軍がドイツ陸軍より受けたこれまでの指導について謝意を述べたのち、日本の政策上不本意ながら青島を攻撃したこと、日本側に多大の損失が出るほど ドイツ軍の防備が優れていたことを語った。それに対してマイアー=ヴァルデック総督は、日本側の武勇を称えたといわれている。さながら日露戦争での旅順陥落後に行われた、乃木大将とステッセル将軍の水師営での会見を想わせる 。しかし水師営の会見は、僅か10年前の出来事だったのである。
 
会見から4日後の11月14日、マイアー=ヴァルデック総督は俘虜として日本へ移送された。ドイツが軍艦を膠州湾に入れて青島を占拠したのは、1897年11月14日である。奇しくもちょうど17年後の同じ日付であった。
 
青島陥落後、日本軍兵士の間ではドイツの三つの兵営を織り込んだ替え歌が流行った。なお小湛山とは、ドイツの砲台や墜塁がめぐらされていた要塞地域の地名である。
 
ドイツの肝玉小湛山 どうせこうなりゃビスマルク
早く壕内イルチスで 最早日本もモルトケる
 
【日独戦争における戦死者とドイツ軍俘虜】
 
日独戦争での戦死者の数となると、必ずしも明確に示す事は出来ない。特に日本軍の戦死者は文献によって様々である。すでにこの時代から日本軍は、統計上の数字を秘匿する傾向もあつたように思われる。そうした中で、青島に 建立された慰霊碑に祀られた戦没将兵の数が、比較的信頼できる一つの手がかりであろう。それによると、陸軍676名、海軍338名の計1014名となつている。
 
一方ドイツ側の戦死者数について、最近の文献では189名の数が挙がつている。これもなかなか決めがたい面がある。日本の俘虜情報局が大正6年6月に改訂版として発行した『濁逸及喚洪国俘虜名簿』には、巻末に日本軍埋葬戦 病死者として61名、濁逸軍埋葬戦病死者148名の名が記されている。しかし、単純に合計して209名とするわけにはいかない。理由は、日本軍埋葬戦病死者61名の中には、年月の上で最も遅い例としては大正6年 (1917年)5月に大分収容所で死亡した俘虜など、戦争終結後かなりの年月が経ってから、日本国内で死亡した俘虜まで含まれているからである。そこで、前記『俘虜名簿』に記載されて、俘虜と認定された者を戦病死者から 除くことにすると、182名になる。最終的には、どの時点を採用するかで異なるので、決めがたいと言えるであろう。なお、先にも述べた通り「俘虜」と言う言葉は、当時は「捕虜」の代わりに公式用語として使用された。 第二次大戦後に書かれた大岡昇平の作品『俘虜記』には、この俘虜の語が使われている。
 
【第一陣は門司へ】
 
俘虜の第一陣は、日独戦争の最中に門司に送られてきた。9月28日の浮山山中の戦闘で俘虜となった55名である。門司駅頭には神尾光臣司令官夫人を始めとして、第18師団幹部の夫人たちが出迎えて、虜囚の身となつた俘虜 に慰めの言葉を贈ったので、ドイツ人将兵たちは驚いたという。想像もしなかったからであろう。
 
日本の俘虜となったドイツ人将兵、オーストリア=ハンガリー帝国の将兵たちは、捕虜となるとただちに日本へ移送された。膠州湾は自沈したドイツ並びに、オーストリア=ハンガリーの軍艦や、機雷のために使用不可能の状態だった 。そこで俘虜は青島から22キロほど離れた沙子口湾から輸送船で運ばれた。東シナ海から朝鮮半島と済州島の間を通り、対馬の南を通過して玄海灘に入り、2日半をかけて門司港に着いた。福岡、久留米、熊本、大分の九州地方の 収容所に送られる俘虜はそこで下船した。他の俘虜たちは更に瀬戸内海に入り、四国の収容所に送られる者たちは高浜、多度津の港で下船して、松山、丸亀の俘虜収容所に向かった。本州の収容所に送られる者たちは、広島の宇品港 で下船して、鉄道で姫路、大阪、名古屋、静岡、東京へと向かったのである。なお、開設が遅れた徳島収容所に収容される俘虜も当初は大阪に送られた。
 
死者数の確定とは少し違った視点から、つまり俘虜の収容に関する数字を挙げてみよう。この数字の方が、遥かに興味深く、かつ重要な数字である。
 
【俘虜の収容に関する数字】
 
 A)俘虜番号を付された俘虜総数:4715名
 B)青島及びその周辺で死亡した俘虜:7名
 C)大戦終結まで青島俘虜収容所に収容された俘虜:1名
 D)青島俘虜収容所から逃亡した俘虜:1名
 E)南洋群島のヤップ島で宣誓解放された俘虜:9名
 F)南洋群島から日本の俘虜収容所に移送された俘虜:5名
 G)日本国内等(横浜、門司、長崎、奉天)で捕えられた俘虜:4名
 H)青島から日本へ移送された俘虜:4688名
         (A−(B+C+D+E+F+G)=4688)
 I)日本各地の俘虜収容所に収容された俘虜:4697名
                 (F+G+H=4697)
 J)日本の俘虜収容所から海外へ逃亡した俘虜:5名
 K)日本の俘虜収容所に収容後釈放された俘虜:1名
 L)日本の俘虜収容所に収容中に死亡した俘虜:87名(内、自殺した俘虜:2名)
 習志野(31名)、名古屋(12名)、久留米(11名)、似島(9名)、板東(9名)、 青野原(6名)、大分(2名)、福岡(2名)、大阪(1名)、熊本(1名)、静岡(1名)、松山(1名)、丸亀(1名)
 
前記の一覧の中で、分かりにくい用語や疑問に思われる個所について説明しよう。
 
【俘虜番号】
 
日本帝国俘虜情報局が発行した『獨逸及墺洪国俘虜名簿』(以下、『俘虜名簿』と略記)では、4715名の俘虜全員に番号が付けられている。これが俘虜番号である。同姓同名の俘虜もいたが、この数字で区別が出来るので重要な 番号である。例えば、東京収容所に収容された俘虜は1番から315番、久留米収容所の場合は316番から852番、というように1人1人に番号が付けられたのである。
 
日本軍が青島等で俘虜にしたドイツ兵は、実は4715名より76名多かった。総督府衛成病院に収容されていた重傷の俘虜76名が、イギリス軍に引き渡されて大正4年(1915年)2月14日、青島から船でイギリスの香港 収容所に送られたのである。イギリスからの要請によるが、その理由は南方の中国人たちに、ドイツが中国地域での戦闘に破れたことをはっきり示すことだった。やがて香港収容所のドイツ兵俘虜は、更にオーストラリアにあった リヴァプール収容所に移送された。
 
大正6年(1917年)8月14日、中国がドイツに宣戦を布告すると斉斉吟爾(ちちはる)、天津、南京、香港等中国各地10ヶ所に俘虜収容所が開設され、ドイツ人たちはそれらの俘虜収容所に収容された。当時アジアにいた ドイツ人が収容されたのは、日本の収容所だけではなかったのである。
 
【青島俘虜収容所】
 
日本軍はドイツ軍を降伏させて青島市街地に軍隊を入れると、戦乱を逃れてもぬけの殻になつた中国人街に、ドイツ軍将兵を野営させた。やがて、ドイツ総督府の建造になる堂々たる兵営の一つ、モルトケ兵営内に俘虜収容所を設置し た。それが青島俘虜収容所で、俘虜を日本へ送るまでの臨時的な収容所となつた。しかし第一次大戦が終結して、俘虜の解放が行われる最後に至るまで存続したものと思われる。何故なのかは不明であるが、一名だけが最後まで 青島俘虜収容所に容れられていたからである。
 
【南洋諸島】
 
先に述べたように、ドイツが南太平洋に獲得した海外領土で、マーシャル諸島、カロリン諸島、トラック諸島を総称して日本では南洋諸島または南洋群島と呼んでいた。やがては日本が統治することになり、第二次大戦終結まで日本の 信託統治領だった。
 
【宣誓解放】
 
第一次大戦時はたとえ俘虜となっても、当該戦争中を通して、再び軍隊に加わらないことを誠実に宣誓れば、解放しなければならないとする国際条約があった。それは文明国に存続してきた国際慣例と法規とに拠るものであつた。 明治32年(1899年)7月29日に締結されたハーグ条約であるが、日本政府は明治40年(1907年)10月18日にハーグで調印した。それは「陸戦ノ法規慣例二関スル規則」と呼ばれている。
 
その規則の第二章俘虜の項の第10條には、以下の規定が記されている。
「俘虜ハ其ノ本国法律カ之ヲ許ストキハ宣誓ノ後解放セラルルコトアルヘシ」
 
25年ほど後に起きた第二次大戦では考えられないことである。大正6年(1917年)6月改訂の『俘虜名簿』には、41名の宣誓解放者の名が記されている。ドイツが戦争に敗れてエルザス及びロートリングン地方がフランス領 となり、その名もアルサス及びロレーヌとなると、その地方出身者がいち早く収容所から解放された。同様のケースはポーランドや北イタリア出身者、オーストリア=ハンガリー二重帝国のチェコ出身などの俘虜にも見られ、 最終的には250名ほどが宣誓解放された。
 
なお、収容後に釈放された俘虜は、実はロシアの脱走兵だつた。シベリアの兵営を脱走して満州、中国を転々とした後に、飢えと寒さから大正5年(1916年)5月4日、ウラジスラフ・コフラーという名のオーストリア人と 称して青島に流れ落ちてきた。ロシア語以外はろくに話せなかつたが、敵国人として日本の収容所に送られた。収容所に容れられてから、実はロシア人であることを告白して解放を求め、やがて日本駐在のロシア領事に身柄が引き渡 された、という変り種である。
 
【スペイン風邪】
 
スペイン風邪は大正7年(1918年)から翌年にかけて世界的に大流行したインフルエンザである。アメリカの兵営に発したとも、中国から発生したともいわれている。地球上の人間の約半数が罹患したといわれるが、フランス からイギリスに伝播してから、スペイン風邪の名で知られるようになつた。死者は2500万人とも、5000万人ともいわれ、第一次大戦の戦死者約1000万人を遥かに上回った。当時の世界の人口は16億人ほどと推測される ので、想像を絶する規模の死者数といえよう。人口が約5900万人だった日本でも、2500万人の罹患者を出し、38万人余が死亡したとされている。
 
インフルエンザに罹った時は、安静にすることがなにより大事であるが、スペイン風邪が流行した時、安静にしていることが出来なかった人たちがいた。戦場の兵士である。特に前線の兵士に安静などは考えられなかった。 バタバタと兵士が倒れていった。スペイン風邪が戦争の終結を早めたといわれる所以である。
 
日本の収容所に収容されていた俘虜も、スペイン風邪に罹ってベッドに臥せる者が続出した。前記、日本の収容所で死亡した俘虜87名の内、60名近くはスペイン風邪による死亡であつた。死亡者に若い兵士が多かったのは、 治りかけると、ベッドにじっとして寝ていられなかったから、とも言われている。習志野収容所での死者が飛び抜けて多かったのは、東京に近かつたからであろう。近年、このスペイン風邪は鳥インフルエンザではなかったか、 との推測もされている。