第V部 日本による占領・統治時代の青島
 
 
ドイツ軍の降伏後、青島を占領した日本軍は11月18日、青島市街中のドイツ街路名を全て日本名称に改めて、同日よりただちに実施した。同26日、神尾中将は独立第18師団長を免ぜられて、新たに設置された青島守備軍 司令官に任ぜられ、12月1日占領地に軍政を布いた。
 
日本による占領・統治後のドイツ人はどうなったであろう。その実態を明確に示す資料は多くはない。統計上の数字もはっきりしていないが、いくつかの日本の文献を手がかりにして記してみる。
 
『山東概観』によれば、大正4年(1915年)1月13日に大検挙が行われて、新たに92名の俘虜が出現した。なおも48名の拘留調査対象者がいると記している。この文献では左記の数字を挙げている。
 
男子 137名
その妻 56名
子供 87名
俘虜の妻 102名
その子供 125名
独居婦人 59名
その子供 23名
計  590(戸数は119)
 
上記の男子(成人男子)のほとんどはやがて俘虜として日本へ移送され、大阪俘虜収容所に収容される。カール・ユーハイム等の国民軍の軍籍にあつたことが判明した者たちである。成人男子の内で、その後も青島に残留するのは 1桁台になる。医師1名と学校の教師数名等である。婦女子もやがて主として上海へ移ってゆく。青島のドイツ人学校は大正4年(1915年)3月に再開するが、別の文献の記すところでは、その当時の在籍者は男子49名、 女子37名であつた。大戦終結して俘虜の解放が行われる大正9年(1920年)1月の時点では、青島で暮らすドイツ人は230名ほどになっていた。
 
日本が青島を占領し、軍政を布いた期間、つまり大正3年から大正11年までについての文献は余り多くはない。その後中国に返還されてからも、青島や山東半島及び山東省に関する文献は決して多いとは言えない。しかし、 第二次大戦終了まで、青島を中心に省都済南を始めとする山東省の諸都市に、3万余の邦人が暮らしていた。
 
【歴代青島守備司令官】
 
初代司令官:神尾光臣(1855−1927;安政2年11月11日−昭和2年):
信州諏訪郡岡谷郷に生まれる。幼名信次郎。明治7年10月3日陸軍教導団に入って武学生となり、明治10年の西南戦争には曹長として従軍した。明治12年2月1日陸軍少尉に任ぜられる。以後、清国公使館附武官、近衛歩兵 第3連隊長、第1及第10師団参謀長、歩兵第22旅団長、遼東守備軍参謀長、清国(天津)駐屯軍司令官、関東都督府参謀長、第9及第18師団長を歴任して、独立第18師団長(青島攻囲軍司令長官)となる。陸軍中将。大正3年 11月26日付けで、上記の職を解かれ、青島守備軍司令官に就任(1914年11月から1915年6月)。大正3年12月18日青島から東京駅に凱旋した。その日が東京駅開業式の日であった。大正4年3月24日付けで東京衛戍総 督に転出、大正5年6月24日大将に昇任、7月14日男爵に叙せられ、8月辞職した。次女安子は明治42年3月有島武郎に嫁ぎ三男をもうけたものの、大正6年12月2日27歳で病死した。[『死其前後』(大正6年5月5日 『新公論』第32巻第5号に発表されたが発禁処分を受け、その四日後に5月倍号の付録欄に掲載)は妻安子の病状・病中等を題材にした戯曲である。その後若干の加筆をして『死』と改題され、大正6年10月18日新潮社から 『有島武郎著作集第1輯』に収められた。大正7年10月3日から8日にかけて、島村抱月演出、松井須磨子主演で上演された。
 
第二代司令官:大谷喜久蔵:
福井出身。大正4年5月24日陸軍中将で第2代青島守備軍司令官に就任し(1915年6月から1917年8月)、在任中の大正5年11月16日大将に親任される。その後浦塩派遣軍司令官、連合軍総司令官となり、更に戸山学校 長も歴任し男爵の位を授かった。晩年教育総監にも就いた。陸軍士官学校旧制2期卒。
 
第三代司令官:本郷房太郎:
兵庫出身。明治38年7月18日陸軍省高級副官兼俘虜情報局長官。大正2年5月7日陸軍次官、同3年4月17日第17師団長、同5年8月18日第1師団長、大正6年8月6日第3代青島守備軍司令官(1917年8月から1918 年7月)。大正7年7月2日在任中に大将に親補される。陸軍士官学校旧制3期。
 
第四代司令官:大島健一(1858−1947;安政5年−昭和22年):
岐阜出身。陸士・4期。明治14年(1881年)陸軍士官学校卒業後ドイツに留学した。大正2年8月25日陸軍中将。大正3年4月17日陸軍次官、同5年3月30日第二次大隈内閣陸軍大臣、同7年10月10日第4代青島守備軍司令官(1918年7月から1919年5月)。後に貴族院議員、枢密顧問官に就いた。 息子大島令は第二次大戦開戦前後のドイツ大使を勤めた。
 
第五代司令官:由比光衛(1860−1925;万延元年−大正14年):
万延元年10月15日、土佐郡神田村高神(高知市神田)に生まれる。海南私塾分校(現小津高校)を経て、明治10(1877)年幼年学校に入り、同15年陸軍士官学校、同24年陸軍大学を首席で卒業。日清、北清、日露の各 戦争に参加。明治41年3月9日近衛歩兵第1連隊長、同42年5月20日参謀本部第1部長、大正3年5月11日陸軍大学校長、陸軍中将、同4年1月25日第15師団長、同6年8月6日近衛師団長、同7年8月9日浦塩派遣軍 参謀長、同8年5月28日青島守備軍司令官となる。同8年11月25日陸軍大将。同11年軍事参議官となり、同12年待命、予備役に入る。大正14年9月18日没。第5代青島守備軍司令官(大正8年5月から大正11年12 月まで)。在任中に大将に親任される。陸軍士官学校旧制5期。