第W部 帰国後の俘虜の動静
 
日本の収容所から解放されると、ほとんどの俘虜は祖国に帰還した。日本に留まった俘虜の数は、正確な数字となると困難であるが、解放当初は、200名以上が日本に残留する道を選んだ。その幾人かについては俘虜群像で 採り上げている。再び青島を始めとして、中国各地に戻った者も僅かながらいた。また、蘭領印度(現インドネシア)に渡った俘虜も200名以上いたことが資料で判明している。しかしそれも解放から数年後までのことで、 その先の状況になると分からないのが実情である。第1次大戦が終結して、日本から多くの俘虜がドイツ、オーストリア、ハンガリー等に帰還したが、ヨーロッパは戦争後の大混乱に陥っていた。大帝国だったドイツ及び オーストリア=ハンガリーの両帝国は瓦解し、領土は縮小し、猛烈なインフレがドイツ、ハンガリーを襲った。帰国した俘虜は生活を立て直すことで精一杯であっただろう。
 
【斎藤茂吉と二人の元俘虜】
 
歌人斎藤茂吉は大正10年(1912年)12月から大正13年(1924年)11月末まで主としてヨーロッパに滞在した。その折に、茂吉は2人の元ドイツ人俘虜に出会っている。
 
その最初は大正13年(1924年)6月2日、オーバーパイエルン地方のガルミッシュ=パルテンキルヒェンの、それも片田舎の、アイプゼーという小さな湖の畔にある店屋での出来事である。散文「蕨」の中には次の一節がある。
 
「この絵葉書などを売る家の主人は、シイボルトの孫だと云った。バグアリア師團の陸軍少佐であるが、戦後ここで店を開いてゐるといふことであった。その主人と話してゐる一人の男は突然『今日は』といった。 この男は俘虜になって久留米に5年もゐたなどといった。」
 
斎藤茂吉の研究家には知られているエピソードである。しかし、この俘虜は果たして誰であろう、などといったことは全く研究・調査の外に置かれていたであろう。ドイツ兵俘虜に関心を寄せ、しかも俘虜全員をくまなく調べられる 資料がない限り、とてもおぼつかないことであるからだ。最近、この人物の特定に迫った調査を、習志野市教育委員会の星昌幸氏が行った。屈指の俘虜研究家星氏の消去法による推論の道筋を示してみよう。
 
『俘虜名簿』に掲載されている4715名の中で、オーバーパイエルン出身者は53名である。その中で久留米収容所にいた者は13名、更にその中でガルミッシュ=パルテンキルヒエン出身に該当する者はただ一人、俘虜番号 3706番のハンス・ザルトリ(Hans Sartori)である。もちろん100パーセント間違いないという訳ではない。この地方出身ではなくて、他の町から移住してきたとか、この近辺に住んでいるのではなくて偶然やって来た、 との異論を唱えることも不可能ではない。しかし、そうした可能性を指摘するよりも、土地の人間と見なすのが素直な受け止め方であろう。また、次の事実も挙げておこう。このザルトリは久留米収容所時代に、バイエルン方言 を用いた戯曲を書いた事で知られる、劇作家ルートヴィヒ・トーマの農民劇『一等車』に出演していることである。バイエルン方言を話せたのである。
 
ところで茂吉は、この俘虜には余り関心がなかったようだ。「シイボルトの孫」の方が医師斎藤茂吉の心に残ったのであろう。歌集「遍歴」には、6月11日の日付で詠まれた次の歌が収められている。
 
 「シイボルトの孫にあたるが湖(うみ)のべの店をひらけり縁(えにし)とやいはむ」
 
茂吉が2人目の元俘虜に会ったのは、それから二週間ほど経ったある日のライプチヒでのことである。「ニイチェの墓を弔う記」には以下の一節がある。
 
「道が分からぬので街頭の巡査にたづねると、その巡査はにこにことして『今日は』とか『兵隊さん』とか、そんなことを日本語で言ふのに驚かされた。その巡査は俘虜になって5年間日本に居たさうである。京都、名古屋、神戸、 福岡を知って居た。『僕は加藤大尉と懇意にしてゐたが、このごろ通信が無いから地震で死んだかも知れませんね』などとも云った。そして僕をFock(フォック)まで連れて行って呉れた」
 
Fock(フォツク)まで茂吉を案内した間に、元俘虜氏は日本のことなどを話題にしたのではと推測されるが、茂吉は何も記していない。俘虜が解放されて帰還したのは大正8年(1919年)末から翌年の初めにかけてである。 それほどの年月が経っているわけではない。茂吉の方にそれ以上の関心がなかったのだ、とするほかないであろう。
 
ところで、この俘虜を特定することはどうだろう。残念ながら先のケースとは違って困難である。収容所名が分からないこともーつであるが、ライプチヒのような大都会には、周辺部の村からも人々が入って来るであろう。ただ この元俘虜は、福岡収容所から名古屋収容所に移された者との推測も成り立つ。元俘虜氏が挙げた4つの地名の内、京都や神戸はドイツ人が知っていても不思議がない地名である。しかし、大正時代に福岡や名古屋は、西洋人に とってどの程度知られていたであろう。住んだことがない限り、俄かには出てこない地名に思われる。在日ドイツ人は、俘虜を除けば極めて少なかった時代である。元俘虜氏が帰国後巡査であったことは、大戦以前から日本に住んで いたのではなくて、青島からの応召兵であることも推測させる。「加藤大尉」なる人物は、収容所の所員であったのかもしれない。ところで福岡から名古屋へ移送された俘虜は194名に及んでいる。相当な数である。星昌幸氏の検索 によれば、ライプチヒ出身者はただ1人。しかし、二人目の元俘虜の人物推定はここまでにしておこう。不確定な要素が多いので、軽々しい判断は出来ないと言えそうだ。
 
【二つの戦友会】
 
かつて日本の俘虜収容所に容れられた人たちの帰国後の動静が表に出てくるのは、二つの「戦友会」とでもいえる会合である。
 
解放から14年ほど経た昭和9年(1934年)、かつての俘虜の1人エドアルト・ライボルトが「板東を偲ぶ会」を結成した。後にフランクフルトで例会を開き、最大時には80人ほどが参集した。しかしこの例会も途絶する運命 にあった。第1次大戦が終結してから20年を経ずして、ドイツは再び世界大戦に突入することになるからである。
 
第2次大戦後の昭和29年(1954年)11月6日には、青島戦闘40周年を記念して、「青島戦友会」がハンブルクで開かれた。これには久留米俘虜収容所の元俘虜を中心に66名が参集した。昭和35年(1960年)頃にも この戦友会は開かれたが、その後の動向は不明である。元俘虜の高齢化が否応なしに訪れてきたことで、開催されなくなったのであろう。