恩師・三木成夫先生について   2008/05/24 講演要旨
 
〇三木成夫先生の一教え子が三木先生と出会ってどう成長してきたか?
→医療の場でどの様に活かせてきたか?
⇒その教え子が晩年になって振り返ってみた三木先生像
 順老順死の会々長 高野信夫
 
結論:私の医学のバックボーンを形作ってくれた先生だった!!
 
学生時代の多感な時代の真っ最中に、歴史的な物の見方を、自分で考えて行動しながら教えてくれた先生だった。
@医学部1年生の講義。期待していた人体の解剖学の講義に幻滅。秋から組織学を三木先生から学んだ。ダーウィン進化論だけの見方で構成されていた系統発生・個体発生・進化の世界観の中へ、タブー視されていたボルクの胎児化仮説を注入しながら、新たな路線を敷いて、自ら考えた解剖学を講義してくれたのだ。
 期待に胸を脹らませて受けた解剖学の講義は、黒板一面に始めての単語ばかりが羅列して書かれていき、その横にラテン語が並んでいた。失望と共に受験勉強時代に逆戻り・・。
三木先生の講義は『ヒトの構造は全て過去から連綿と続いて現在に至っているのだから、魚類・両生類・ハ虫類の構造が原器になっている。君たちは人体のマクロの解剖が分かったのだから、今度は組織と云うミクロの解剖を通して、系統的な見方を勉強しなさい』と云う言葉で始まった。
三木先生の講義は
@自分で考えながらの講義、
A過去から現在に至るまでの歴史課程を通しての講義、
Bもう一つ云うなら、単に受け継いだ知識を講義するのではなく、自分で考えながら、新たな道を切り開いていく講義だった。
Cゆっくりと時間をかけながらの講義なので、理解しながら聞く事ができたけれど、他人のorアンチの学説や考え方は一切省かれていた。だから高校で生物の講義を受けていない学生には厳しい面を持っていたのではなかろうか?
黒板に描かれたシェーマ(図)は魚類のエラのここがこう変わってきたのだと云う説明図なので、顕微鏡下のそれとは違っている。予習をしてこないと分からないので、誰しもが予習をして来る羽目になった。このお蔭で、殆どのクラスメイトが落ちこぼれずに2年生に進めたと思っている。
医科歯科の解剖学の講義の中では、ヘッケルやボルクの名前も、クラーゲスもゲーテの名前も一切出てこなかったと記憶している @。しかし、芸大の講義の中には、螺旋のクラーゲス、原型のゲーテと云う表現で、二人の名前が頻繁に出ていたのに、ヒトの解剖学の中核となるべき胎児化仮説のボルクの名前は一切出て来なかった。ヘッケルの名前も出なかった。画龍点晴を欠く思いで、芸大での講義を聞いたのだった・・。三木先生は基礎となる解剖学を封印してしまった・・。何故・・?
    @追悼集の級友(広〇君)の文章には、医科歯科の講義の中にも沢山出てきたと書かれているが、私には合点がいかない。記憶がないのだ。ボケの為・・?
最近のクラス会に於いても三木先生の話題が出るのだから、皆に凄いインパクトを与えていた事は事実である。しかし各自一人一人が皆違った印象を語る。それだけ大きな巨象だったから、群もう象を撫でる式になった・・?(山〇君談)
A1963(昭38)ブラジル・アマゾン旅行→1970年アフリカで白子の目撃の後、皮膚の色による人種の起源を勉強するべく、三木先生の内弟子にして貰おうと思って訪ねた。
学部4年生の秋から1年間早稲田の諸君と組んで、ブラジル・アマゾン川を歩いてきた。→このブラジル旅行は私の人生に決定的な役割を果たした。
疑問@皮膚の色による人種の起源、
疑問A私は何故黄色人の日本人に生まれたのか?を持って帰国した。
この二つの疑問の解明に私の人生の全てを費やしてしまった・・。お蔭でバガブンド旅行の味を知って、医学から離れてしまった・・。
1967年インドから始まってヨーロッパ→中近東を1年間放浪。
1970年アフリカ・コンゴ河畔のキッサンガニで黒人の白子に出会った。金髪・碧眼・白い皮膚・おまけにソバカスまである・・。人種の起源には黒人の白子が関与している!! 直感したのだ。だから白人の書いた、この種の本では肝腎の事になるとボカされている、その理由が分かった・・。
外科医になる片手間に、この種の本を読んだ程度では難しい・・。本格的に人種の起源を追求する必要がある。帰国したら三木先生に相談してみようと考えていた。
皮膚の色による人種の起源の追求に、ヒトの進化の中核となるボルクの胎児化仮説ただ一言で注入してくれた。人種の起源の問題は既にボルクの胎児化仮説で解決している・・と云う考えだったのかも知れない・・?黒人の白子を目撃していなかったら、or ボルクの論文を探し出すのに半年かかっていなかったら、ボルクを読んで、「ナルホド・・」と納得して終わっていたかも知れない。
ヒトの形態は胎児化仮説による説明に直ぐに納得したのだが、皮膚の色による人種の進化に関しては、読んだ時点で間違っている事を見抜いていた・・。そして、半年の間読み漁ってきた、いろいろな進化論にボルクの胎児化仮説を織り込んで、自分なりの進化論を構築して行ったのだった・・。
進化は、先ず新しい形質を獲得する方向の進化と獲得した形質を整理・統合する進化を、交互に繰り返す道を歩むと云う結論になった。こうして、ダーウィン等を一つのグループに纏めて成形進化と捉え、ボルク等を幼形進化のグループに入れて、両者が両輪の如く回転しながら進化して進む道を引き出せたのだった・・。
この道は何処へ続くのか?外界の影響からの完全独立を達成する為の道であり、行く着く先は外部環境から全く影響を受けない内部環境の完全独立・・。詰まり独立進化の提唱であった。ヒトが登場するに当たって、この問題の完成はもう一歩のところまで来ている。その残りのもう一歩が大切で、一番大切な時期に差しかかっているのに、現代人は未だ気付いていない・・。
私は1977年、「黒人→白人→黄色人」で、独立進化を提唱したが、単発に終わってしまっている。そして、塩とカタカムナが動き出してから始めて、事の重大さを知ったのだから、現在の学者に気づけ・・と云っても無理だろう・・。
三木先生が教えてくれたのはボルクだけで、ヘッケルについては名前も出なかった。→7年後、「黒人→白人→黄色人」の出版。この時の先生の言葉・・。
『君の本に名前が載ったのでは首が幾らあっても足りない・・』
『君もブラックリストに載ったから注意しなさい』
『できたかぁ。・・・東京芸大は白人の文化を金科玉条にしている学校だから、白人は黒人の白子だと云う本を保健センターに置いておく訳にはいかない。自宅に持って帰るよ』
 
B学位としての副腎皮質ホルモンの勉強
 黒人→白人→黄色人」を出版して、私自身としては、それで学位を取得したと思っていた。皮膚科臨床医として病人に向かっていると、しかし、病人に対しては何の訳にも立たなかった。
一人前の臨床医になる為にはどうするか?一人前の臨床医とは、誇りを持って病人を助ける事のできる医師と云う事だ。習った事を病人に押しつける治療方法ではなく、三木先生の様に自分で考え、自分で本当の医学だと納得できる方法で手助けできる医療を行うと云う事だ。
自問自答を繰り返した挙げ句の結論は、当時盛んに使用されていた副腎皮質ホルモンを解明する事だった。それも、三木先生式に系統発生的な意味での副腎皮質ホルモンの解明だった。
今度の三木先生の答えは明快だった。『Moellendorff Handbuchを読みなさい』 ここから、Rotterの論文(1949)を探し出していなかったら、二冊目の「ヨーガと副腎皮質ホルモン」は完成していなかっただろう。この論文を探し出すのに半年近くかかった・・。
その成果:副腎皮質ホルモンを生物の進化のエネルギーとして捉える事ができたし、副作用と称している作用こそ本作用である事を見抜けたのだった。だからこそ乱りに使用してはならないと云う考えの基に、最小量を最有効に使用する方法を実践してきたのだった。
彼岸から見ると、しかし、副腎皮質ホルモンに捕らわれていて、脱却する事ができなかった・・。反省せよ。
10年くらい前だったか、私達が教科書として使用していた小組織学の最新版にRotterの論文が紹介・引用されているのを見て、ビックリした。その本は、しかし、今はもう売られていない・・。
病因に関しては、三木先生の因・縁・果の概念を採用して、単に縁である細菌やビールス感染を因と間違える事は無かった。だから身体を温めると云う自然方法を採用してきた。もう一つ、アレルギーに関しては、もう少し病因を考察すべきだった・・。
 
C48才での抵抗。Agingの意味・・。
41才で開業。慌ただしさが一段落して考える余裕ができた・・。
医学の世界では病気の解明と白子の研究に大金をかけて研究していたのに、1970年からはそれらは研究費ゼロにして、Aging一本に研究の方針を変えた。Agingを不老不死の医学の研究と捉えると納得できる。何かに惹かれた様に、診療所を一時閉鎖して、何処までAgingの研究が進んでいるかを探しに出かけた。
1987年6月始め、出発する前に芸大の三木先生を訪ねた。それが最後の別れになってしまった。タブー・ブラックリスト・タブーの不老不死のAging・・。
 
意味不明のAGINGと云う現代医学の中へ、タブー視されていたUFOの断片的で,信憑性の乏しい知見を右手に持って、「やぁやぁ遠からん者は・・・」と飛び込めたのも、三木先生と全く同じ姿だった・・。
三木先生はボルクのタブーを右手に持って、無人の荒野を突き進んで行った。私はUFOと云うタブーを右手に持って、不老不死の医学と云うタブーの領域へ船出したのだ。正にドンキホーテーそのものだった・・。
タブーのUFO。それは1947年アメリカ・ロズウェルに落ちたUFO乗員クルーの解剖研究から始まっていた・・。小学5年生くらいの背丈で、頭が大きく、手足が長く、皮膚の色が真っ白(明るい所では金色に輝いて見え、暗い所では灰色と表現される)で、地球のヒトよりも高年齢・高知識を持つUFOクルー。
タブーの内容だから信憑性に問題は有るが、このUFOクルーの研究から始まったのは間違いない・・。
だから、病気の研究をして解決すれば寿命は長くなるし、白子の研究をすれば白人ばかりでなくUFOクルーとも何か関係が得られるかも・・と云う期待で、@病気の解明と共にA白子の研究に多大な研究費を注ぎ込んできたのだ。
→しかし結果は惨敗だった。細胞には寿命があって、病気を克服しただけではUFOクルー程には長生きできない事も分かったし、白子はメラニン色素を作るチロジナーゼ酵素の欠損で起こるのに、UFOクルーは色素細胞自体が存在しない?と云う違いまで分かってしまったのだ。
この結果を踏まえて、1970年からは、この二大研究課題を放り止めて、Agingの研究一本にしたのだ。詰まりAgingとは長い寿命を持たせる為の研究であり、突き詰めれば、不老不死の医学の研究と云う事だった。もう死なないで済む医学と云う意味です。
 その第二歩目は昨200711月京大・生物科学研究所の山中伸弥教授の研究発表で大騒ぎになった。第一歩は既にタブーの世界で1/3だけ完成している。そして彼らは既に次の行程2/3の段階の研究をドンドン進めている。女性の子宮を借りるのではなく、試験管子宮を作って出産させる研究である。しかし最後の3/3の段階の研究は未だその存在さえ知らない・・。
 
D塩とカタカムナ。
AGINGの完成の為には生命エネルギーが必要である。その生命エネルギーの根本のカタカムナと塩のエネルギーを勉強する様にソロッと教えてくれたのも三木先生だった。この当時は、しかし、塩については、未だ微量元素と云う考え方だったらしく、エネルギーと云う概念では無かったと推察している。 
カタカムナについてはどう云う考えであったのか?『宇野多美江さんに三木から教えて貰ったと連絡して、読みなさい』と教えてくれただけで、その後にカタカムナや楢崎こう月氏について話し合う事はなかった・・。
塩については、大島の製塩場まで行って、製塩の方法をツブサに勉強させて貰ったのだが、私も未だ塩が生命エネルギーを持っているとは考えてもいなかった・・。
カタカムナについても、楢崎こう月氏の生き方はすんなりと理解できたのだが、原理まではとても・・。それよりもヒフミの歌は直ぐに覚えられたし、それなりの意味も何とはなく理解できたと思っていた・・。それよりもカタカムナ文字は現代の日本語のひらがなやカタカナよりも進んだ文字で、オーパーツの一つだろうとさえ考えていた。十と円の一部から作られていて、片手で入力できるキーボードが簡単に作れるから・・。
生命エネルギーについて考える様になったのは、不老不死の医学を探しに行って、帰国してからであった。55才の前後3年間に渡って、私はボケていた(認知症)。別に苦しかった訳ではないのだが、とにかく今日何をしたか?何の講演を聞いてきたのか?振り返ってみると何も記憶がなかった・・。逆に講演する時は、固有名詞が全く出てこない事には往生した。大学ノート一面に話の順番に固有名詞を書いておいて、それを見ながら話を進めざるを得なかった。そのお蔭で、間の取り方が分かったのだと思っている。それまでは機関銃の様に撃ちまくっていたから・・。
診療は止めなかった。ボケは確実に進んで行った。私の診療所に置いてある薬の名前が先ず思い出せなくなった。次に当たり前の病気の名前が出なくなった。これらは机の上にズラリと書いた紙があるので何とかなった・・。
ところが、病人がドアを開けて入って来るのを見ていると、フット「この人はここが悪い・・」と分かるのだ。そして坐って話を聞いていると「こうすれば良い・・」と云う治療法が分かるのだから不思議だった。だから診療を続けていた・・。この治療法は克明にカルテに記録しておいた。直ぐに忘れる事を知っていたから・・。
この生命エネルギーにぶち当たって、自分で試しながら1年かかって、やっとだった。何とはなく、薄皮を剥ぐ様に、ボケが治ってきた。途端に今まで分かっていた「ここが悪い・・」「こうすれば良い」と云う感覚が無くなってしまった。慌ててカルテに書いておいた治療法を読み返して驚いた。
@身体を温める事、特に夜間の喉の部分。
A肉食を止めて魚や野菜を主に食べる事。
B塩はNaCl99%以上は止めて、海水から作った塩にせよ、梅干しを食べよ。
の3点に集約されていたのだ。これらは因・縁・果の因に匹敵する内容なので、それからは3点セットで病人を治療する事になった。更に半年かかったけれど、私のボケは完全に元に戻ったのだった。勿論若かった時の、あの頭の回転はなく、年齢相応の状態だったけれど・・。
ここから、この生命エネルギーを沢山摂取していても、若返ると云う訳には行かず、年齢相応に過ごしていく方法だと納得できたのだった。不老不死ではなく、順老順死と云う事に落ち着いたのだ。
寿命までは、寝たきりにもならず、ボケもせずに、元気に生活していて、寿命がきたら倒れて、死を自覚しながら(受け入れて)、1週間くらいで寿命を全うする。順老順死の会の立ち上げであった。@
  @三木先生の死は寿命だったのだろうか?
 
こうして、55才の最後で、燻り続けていた塩とカタカムナのエネルギーに一気に火がついたのです。
@真の医学とは何か?理想とする医療とは・・?
A生命エネルギーの実践から解明へ・・。
B私は何故黄色人である日本人に生まれたのか?の解明へ・・。
C不老不死の医学とは・・?
Dピラミッドの意味・・等。
これら全てをカタカムナの世界から眺める方向に突き進んだのです。
現在の私はこのカタカムナの世界に入り込んでしまっています。いや、入り口から、覗き込んでいるだけかも知れません。理解できる立場になっている事は事実でしょう。この生命エネルギーを使用して、日々の健康と病気の治療に成果を上げていますから・・。
この一つの例として、皆さんに軟膏を差し上げますから、良かったら使用してみて下さい。塩のエネルギーを充分に、いや濃縮して持っている軟膏で、塗布するとその生命エネルギーが身体内に入って、生命エネルギーがアップします。そのアップした生命エネルギーで病気を治します。副腎皮質ホルモンも入っていませんし、副作用はありません。三木先生から教えて頂いた塩とカタカムナの成果です。
 
尚 塩とカタカムナについては、この講演内容を纏めながら、その最後になって、これも三木先生から教えて頂いたのだ・・と云う事に気がついたのです。55才から始まってやっと今になってです。三木先生には、残念ながら、間に合わなかった・・。
私は、やはり、貝になろう・・。[完]