高柳誠 「島」について
 
          英米文学科英米文学コース一年  小阪森人
 
            (全五十五行 十行=原稿用紙一枚)
 
 この詩は、あまり詩に親しみの無い僕にとって、非常に画期的なものであった。先ず、詩としては、かなり長いと思われる一連一連を、ほぼ同じ長さに統一し、外観を無機的なものに見せている、その構成が一風変わっている。次に、その連を構成する文章が、小説的な散文によって、若しくは、漢字交じりのカタカナによって書かれていることも新鮮な印象を与える。他にも、内容的に、僕がこれまで感じたことのない不可解な気分を引き起こす効果をこの詩が秘めていた事も、その理由として挙げられようと思うが、このリポートでは、僕はこの詩の形式、若しくは、文字の性質についてのみ述べようと思う。
 この詩の作者は、(詩人たるもの、全てそうあるべきだと僕は思うが)言葉は勿論、言葉の読みや、文字の形に対しても非常に神経を使う人間だと思われる。例えばそれは、詩の一連一連に付されている数字の形に窺える。若しその文字を、違う形のアラビア数字や、ローマ数字、若しくは、漢数字にしたとすれば、それだけで、作者の意図を歪んで伝えるとまでは言わなくとも、その形の与える、いい意味での数字と日本語の文章とのアンバランス感を、損ねるであろう。またそれは、肌を、「はだ」と読ませず、「はだえ」と読ませるところや、外国のことを、「外(と)つ国(くに)」と表現するところにも窺える。若しこれらを、「はだ」と読ませたり、「外国」などと表現すると、それだけでその一文は文学的生気を失ったものになるであろう。こういったことは、些細なことに思われるかも知れないが、詩や小説においては、非常に重要なことだと思う。萩原朔太郎も、「てふてふ てふてふ」という擬声語(オノマトペ)を、「ちょうちょう ちょうちょう」と読ませてはならないと、どこかの詩の中で述べていた。この場合においては、それを「ちょうちょう ちょうちょう」と読ませることは、全く作者の意図を歪めて伝えてしまうものであろう。このように、詩というものは非常に言葉に繊細さを要するものであり、それが巧みに構成されるときには、読者に非常な感動を与える。
 しかし、哲学の擁護者として、一つ非難めいたことを言うと、詩というものは、普遍的な価値は持ち得ないと僕は考える。というのは、詩というものは言葉の美を追求するものであるということはおそらく言えようが、その詩を構成する言葉というものが、元来普遍的なものではないからである。言葉が人の心に喚起する観念、情というものは、時間的にも空間的にも変化していくものである。若しそうでないとすれば、例えば辞書の改訂の必要性等は皆無に等しいし、それが改訂を重ねられるのは、言葉の喚起する観念、情が変わっている証拠である。よって、この詩がいくら優れているとしても、それはいずれは、それらの変移と共に廃れていくものであろう。そしてそれは、特に言葉の美の上にのみ成り立っている詩(これを決して悪い意味で言っているのではないが)においては、避けられない事態である。しかし、そういう詩というものは、哲学のように普遍的なものを目的としているのではない以上、別にそういった事態を避ける必要は無いし、また、そんなことは畢竟不可能である。確かに、詩というものは、そういったことのみが要素としてあるのではない。人間の深い心理を描くといった内容的なことも、それ(言語の美)に劣らず大切な要素である。例えばこの詩においては、一例として<幼年時代の純真無垢な精神の大切さ>が、その内容的テーマとして考えられるが、それは非常に真を穿ったものと思われる。というのは、幼年時代の性が、今も変わらず自分の中に生きていることが、また、本当の自分は幼年時代にこそあったのではないかと感覚的に感じられ、そのことによって恍惚とすることさえ屡々あるからである。しかし、詩というものはそれを<言葉>によって美的に表現することに、その意義がある。よって、結局は無常の性質を持ったその<言葉>に依存せざるを得ない。そして、このことが僕が、詩や文学が普遍的なものではないと考える主な理由である。
 しかし、以上のことを容れても、この詩は、詩らしからぬ文章表現、若しくは、文章構成、カタカナの与える硬質感の巧みな利用等の持つ画期的性質、また、独特の情を醸し出す効果を持つ自然描写、人間の内面描写など、多くの要素が含まれていて、非常に僕にとっては文学的価値の高いものに思われた。