青島戦当時のドイツ軍の「部隊名・階級名」をめぐって
田村 一郎
(鳴門市ドイツ館)
一.青島戦当時の「部隊名」
1.当時のドイツ軍の実情
「第1次世界大戦」はもちろんヨーロッパが中心だったが、唯一アジアに及んだのが「日独戦争」などとも呼ばれる青島での戦闘である。それは、師弟の間での闘いでもあった。というのも1883(明治16)年以降、日本陸軍の指導はフランスからドイツに代わっていたからである。ドイツ館に「忍耐」というシュテッヘル少佐名の額があるが、この人は開戦の7年前に砲術の指導のために来日している。2年以上にわたるその貢献は大きかったらしく、帰国に際しては天皇がわざわざ宮中に招いてお礼を言っている。青島からのドイツ兵俘虜が門司に着いたとき、侍従が出迎えたりしたのもこうした背景があってのことだったのである。
青島の戦闘をあるドイツ兵は、次のように記している。「戦争が始まった。『日本人の教え子』は、自分の『ドイツの先生』に習ったことを示そうとやってきた。彼らは、合格点をもらおうとやっきだった。日本の教え子は、要塞包囲教程をきちんと字句どおりに守ろうとしたので、すばやく叩きのめす代わりにひどく回りくどい攻め方をした。圧倒的な大砲の量と兵力からすれば、まちがいなく2,3日で決着が付いたろう。おかげでわれわれには、お粗末な防衛施設を改善するための猶予が与えられた」。1)
このような状況もあって日本側は、ドイツ軍と自分たちの戦い方に強い関心を示し、戦闘の翌々年には参謀本部編纂『大正三年 日独戦史 上下』(東京偕行社、1916年)という公的な戦史を出している。またさらにドイツ側の『海軍戦史 1914−1918』(1935年)が出ると、海軍省教育局がいち早く青島の部分を訳し、その年のうちに『青島戦史』(1935年)として出版したのもそのためだろう。
11月7日に休戦が成立し、11月末から12月初めにかけて約4,700名のドイツ兵が日本に送られてきた。その主力はV.S.B.(V.Seebataillon:「第3海兵大隊」と訳しておく)であり、M.A.K.(Matrosen-Artillerie-Detachement Kiautschou:「膠州海軍砲兵大隊」と訳しておく)、O.M.D.(Das Ostasiatische Marinedetachement:「東アジア海軍分遣隊」と訳しておく)がこれを補佐し、さらに戦闘で船を棄てざるを得なかった軍艦の乗組員などもが加わっている。上の2著などでも所によって資料の構成や数字に相違があり、どれを信用してよいのか判らないが、他の資料などとも照らし合わせ
た青島のドイツ軍の構成と人員は、ほぼ次のようになろう。なおInfanterieは「歩兵」と訳すことが多いが、後に述べる理由から「野戦」と訳しておく。
・ドイツ側守備兵総数 4,920名
現役兵 2,710名
在郷軍人 1,424名
国民軍 105名
軍艦等から 681名(ここにはオーストリア艦「カイゼリン・エリーザベト」、ドイツ艦「グナイゼナウ」「イルティス」「ヤーグアル」「エス 90」「チンタオ」「オッテル」などの乗員のほかに、オーストリア軍の北シナ駐屯海兵も含まれていたようである)
・ その部隊別の構成
総督府幕僚(約45名)
V.S.B.(約1,948名)
本部 8名
現役 野戦中隊 4(第1中隊〜第4中隊:各250名ほど)
騎兵野戦中隊 1(第5中隊:約140名)
野戦砲兵中隊 1(約100名)
工兵中隊 1(約120名)
機関銃小隊 2(各40名ほど)
予備役・後備役・国民軍 2(第6中隊・第7中隊に所属:各250名ほど)
M.A.K.(約905名)
本部 5名
現役 砲兵中隊 4(第1中隊〜第4中隊:各180名ほど)
予備役・後備役・国民軍 1(第5中隊:約180名)
O.M.D.(約404名)
本部 4名
現役 野戦中隊 3(第1中隊〜第3中隊:各100名ほど)
砲兵中隊 1(約100名)
軍艦等から(約681名)
その他(弾薬庫、修理,病院など)(約937名(この数字は、上記の人数からの計算上の推測である))
2.「V.S.B.」とは
松山収容所の所内新聞『陣営の火(Lagerfeuer)』は、表向きはチェスなど娯楽的なものを載せたことを盾に5号で発禁になっている。実際はドイツや皇帝を礼賛する記事が、前川所長の癇にさわったのだろう。しかしその後もタイプ印刷で密かに発行が続けられ、板東に移ってから2巻に製本刊行されている。
その非合法時代に、第6中隊長のブッターザック中尉(後に大尉)が、3回にわたって50ページもの長文の「第3海兵大隊史(ここでは冨田弘氏に従い、V.S.B.をこう訳しておく)」を載せている。第14号(1916年4月30日)は「5月1日に寄せて」と題して10ページ、第17号(同年5月21日)には「1852年5月1日から第3海兵大隊設立までのわが海兵隊史の概観」として15ページ、さらに第20号(同年6月11日)では「青島占領から今回の戦争までの活動概観」として25ページが書かれている。2)詳細は冨田氏の『板東俘虜収容所 日独戦争と在日ドイツ俘虜』(法政大学出版局、1991年)の252ページ以下をご覧いただくとして、要点だけを拾っておこう。
1852年5月1日にプロイセンのスヴィーデミュンデで、ドイツ圏最初の海軍野戦部隊が常設された。王は勅令でこれをSeebataillonと名づけたが、Marine-Bataillonと呼ばれた時期もあるらしい。ブッターザックはこの日を、「海兵大隊」創立の日としている。
歴史はさかのぼるが、ドイツ圏で陸戦隊が船に乗って行動するようになったのは、17世紀のブランデンブルク選帝侯の時代かららしい。選帝侯は1682年に「アフリカ商会」を設立し、それを支援するために「海軍中隊」を組織した。これが85年には、「海兵大隊(Marine-Bataillon)」に拡張される。しかし熱心だった選帝侯が没し次王が内政重視に転換したため、「海兵大隊」も1757年には解散せざるをえなくなる。その後100年ほどの空白があるが、ようやく1849年になって「水兵兵団と海兵兵団」として復活する。「海兵兵団」は陸軍と同じく地上補充兵員をあて、軍艦で移動しながらも主として陸戦を任務とした。船のお供をする彼らを、人々は「いるか」と呼びならわした。
1880年代にドイツは南西アフリカと東アフリカに植民地を得たが、それらを警備し、相次ぐ反乱に対応するため「第1海兵大隊(T.S.B.)」と「第2海兵大隊(U.S.B.)」が組織された。「第3海兵大隊」は山東でのドイツ宣教師殺害事件を契機とする膠州湾地域の租借権を守るため、1898年に第1.第2海兵大隊と陸軍から抽出した新大隊として編成された。これに「膠洲海軍砲兵大隊(M.A.K.)」が加わり、「東アジア海軍分遣隊(O.M.D.)」とともに青島の要塞を守ることになる。
なお「M.A.K.」の正式名称は、Matrosen-Artillerie-Detachement
Kiautschouである。Detachementとは、「特別の任務のため臨時に編成された部隊」をいう。別名の「第5海軍砲兵大隊」が示しているとおり、この隊は膠洲地区の警備に当たるため、ドイツ5番目の砲兵大隊として臨時に編成されたものである。「大隊」とされたのは、各約100名の4つの中隊からできていたからである。
「O.M.D.」のDもDetachementで、この隊は中国民衆の反発から不穏だった北京と天津の公使館関係の施設を警備するために派遣された。当初は各約100名の3つの野戦中隊と1つの野砲兵中隊から成っていた。M.A.K.とO.M.D.が「海軍」とされたのは、両隊がV.S.B.とともに「海軍省」の管轄下に置かれていたからである。
3.「海兵隊」とは
世界で最初の「海兵隊」は、イギリスの「ロイヤル・マリーンズ(Royal Marines)」である。独立戦争直前の1775年に、アメリカはこれを真似て「大陸海兵隊(Continental Marines)」を創設する。海軍所属の歩兵部隊として艦上で勤務し、必要に応じて小規模な上陸作戦、陸軍を支援する陸戦に加わった。これが後に、「合衆国海兵隊(United States Marine Corps)」と呼ばれる世界最強の「海兵隊」となる。
帆船から蒸気船への移行、海軍との軋轢などを経ながら、第一次大戦近くではアメリカの海兵隊の任務は,艦上勤務、外国への介入、外国部隊の訓練、陸・空軍への支援、国内外のアメリカ市民の財産の保護、前進基地の防御などと規定されるようになる。ことに強調されたのは、外国への介入と前進基地の防御だった。ことに後者をまっとうするために修得を求められたのは、次のような能力だった。@要塞・砲座・砲床・弾薬庫の構築 A口径8インチ以下の砲の船から砲座への輸送と据え付け B電信電話線・信号・探照灯・測距儀の設置と操作 C港湾防御のための機雷と逆機雷の敷設ならびに魚雷の操作。3)
こうした任務内容と具体的指針は、おそらくドイツのSeebataillon、ことに青島に派遣されたV.S.B.にもそのまま当てはまるものだったろう。『大正3年 日独戦役』中の、次の文章と対比願いたい。「青島駐屯独国軍隊の教育制度は本国において行わるるものに同じきも、ただ地方の情況を参酌して、特別教育を実施しあるを異なりとす。すなわち海軍歩兵大隊の乗馬歩兵中隊は、騎兵勤務のほか輜重の勤務をも演錬し、特に高粱中の捜索・戦闘動作を練習す。また海軍砲兵大隊は、要塞備砲の操砲、弾薬補給および水雷防材の沈設等を練習するのほか、行軍および駐軍における捜索警戒勤務等をも演錬す。しこうしてこれら軍隊は、毎年1回野営を膠洲付近において施行す」4)(とくに判りにくい漢字などは改めた)。
第一次大戦の際にはアメリカは、海兵隊司令官ジョージ・バーネットの努力もあって、1917年6月に陸軍と同じ形で組織された2個連隊6,000人の海兵1個旅団(第4旅団)をフランスに送ることになる。
その後日米開戦に向けてアメリカ海兵隊は強化され、前進基地の防御のほかに日本の保有する前進基地の奪取を主要な任務として「水陸両用作戦」を展開する。それらの成果を経て現在は、アメリカの海兵隊は陸海空軍と並ぶ4軍の一郭を占めるまでになっている。
4.「海軍歩兵」という用語の是非
以前から気にかかってきたのは、「海軍歩兵」という訳語である。上に述べた現在のアメリカ「海兵隊」についても、地上戦闘部隊は「歩兵」と訳されている。例えば沖縄に駐留しているのは「第3海兵師団」という「海兵隊」だが、その中軸の「第4連隊」は「歩兵3個中隊」から成るなどと説明される。
太平洋戦争の際などには、日本でも「海兵隊」のような役割を持つ海軍の部隊があり、「海軍陸戦隊」と呼ばれていたらしい。青島戦当時にもこうした呼び名は使われていたとの説もあるが、『青島戦史』ではV.S.B.を「第3海兵大隊」と訳しているのはよいとしても、その主力は、「歩兵四箇中隊」「乗馬歩兵第五中隊」とされている。O.M.D.つまり「海軍東亜分遣隊」も同様で、その中心は「歩兵中隊(三箇中隊)」などと書かれている。『日独戦史』でも同様で、「第三海軍歩兵大隊」の「歩兵四中隊」「海軍東亜派遣隊」の「歩兵三中隊」などと説明されている。
瀬戸氏や星氏の論文資料などでも「海軍歩兵」が使われているが、「歩兵」はもともとの「徒歩で戦う兵」という語彙からしても、陸上戦闘を任務とする「陸軍兵」をさすのが普通である。したがって海軍に所属する陸上勤務兵については、何らかの工夫が施されるべきではなかろうか。私は基本的には大和啓祐氏の訳語が正しいと思っているが、氏がこだわったのもその点だろう。参考のため、次章に大和氏の未発表の資料をまとめておく。
なお大和氏は長年高知大学でドイツ語を教えておられた方で、早世された豊橋科学技術大学の冨田弘氏に代わってドイツ館の資料研究をされてきた。ことに板東収容所の新聞『ディ・バラッケ』の古い筆記体の現代文字化に努められ、鳴門市による翻訳・刊行を先導されたが、残念ながら2001年に亡くなっている。
煩瑣になるが、ドイツ語から検討してみよう。まずV.S.B.だが、Bataillonは 元になっているフランス語でもドイツ語でも、「3から5つの中隊(Kompanie)から成る大隊」を意味する。英語ではBattalionで「歩兵大隊」と訳している辞書もあるが、これは例外である。それを「歩兵大隊」と訳すは、おそらくSeebataillonとの対応を考えてのことなのだろうが、「歩兵」を加えなければならない理由はないように思う。したがってSeebataillonは、「海軍大隊」あるいは「海兵大隊」と訳すべきだろう。
「歩兵」の原語はInfanterieで、陸戦に当たる歩兵をさすが、海軍所属の兵については工夫があってよいのではなかろうか。英語のInfantryにもfoot soldiersとコメントしている辞書があったが、先に述べたとおり日本でも「海軍陸戦隊」を用いたことがある。こちらにでも、統一した方がよいのではなかろうか。
二.青島戦当時の「階級名」
「階級名」を考える上でなによりも複雑なのは、陸海軍の「階級名」が混在していることである。その第一が、V.S.B.の一番下の階級であるSeesoldatであり、第2が将校などに「海軍」を意味するzur Seeが付くものと付かないものがあることである。
ややショッキングな結論になり、反発を食うかもしれないが、Seesoldatという「階級名」は正規のものではなく「俗称」のようである。徳島大学の川上三郎氏から、Friedagの„Führer durch Herr und Flotte 1914“が便利らしいとの情報を得た。『1914年の陸・海軍についての手引き』とでも訳すのだろうか、手に入れてみると、冒頭から1913年のプロイセン、バイエルンなど各軍の陸軍の定員表が出てくる。「あとがき」によると、「軍隊についての役に立つハンドブック、リファランスブック」などと高い評価を得ているもので、プロイセンやザクセンの国防省も告示などでしばしば引用しているらしい。このような本を使いこなすには、かなりの専門知識が必要なのだろうと半ば諦め放っておいた。今回改めて見直していて、「膠州の防御地域」の「軍事行政」という項目にぶつかった。5)aが「膠洲の守備隊と東アジア海軍分遣隊」であり、bが「在郷兵の基幹部隊」である。aの冒頭に「総督の幕僚」の構成があり、次がV.S.B.である。まず「海軍野戦大隊」とあり、4つの中隊と、中隊編成の2つの機関銃小隊からなると説明されている。その構成は、指揮官(Kommandeur)1名、小・中隊長の大尉(Hauptmann)6名、中尉(Oberleutnant) および少尉(Leutnant)16名、1等軍楽長(Obermusikmeister)または2等軍楽長(Musikmeister)1名、曹長(Feldwebel)5名、副曹長(Vizefeldwebel)11名、軍曹(Sergeant)27名、軍楽隊員(Hoboist)11名を含む伍長(Unteroffizier)76名、軍楽隊員11名を含む1等兵または1等海兵(Gefreiter)161名、軍楽隊員21名を含む2等兵または2等海兵(Gemeiner)760名などと「階級名」と「定員」があげられている。総員は、1,064名である。
驚いたのは「大正6年 俘虜名簿」や「板東案内書」でも「陸海軍階級表」でも最後の階級はSeesoldatとなっているのに、ここでは陸軍と同じGemeinerになっていることである。参考のために、当時の陸海軍の階級をあげておくと、別表のとおりである。いわばV.S.B.では正規には陸軍の階級名が用いられていたのである。となるとSeesoldatは自分たちは「海軍」に所属するという自覚から生まれた隊内での「俗称」ということにでもなるのだろうか。ちなみに、同じくV.S.B.に帰属させられている「乗馬海軍野戦大隊(Berittene Marineinfanterie)」でも少尉と曹長の間に「准尉」に当たると思われる階級がある以外は同じであり、「海軍工兵中隊(Marinepioniere)」も最後の位がPionierとされている以外はまったく同じである。
ただし同じくV.S.B.に所属している「海軍野戦砲兵大隊(Marinefeldartillerie)」は特殊兵科だからだろう、「准尉」に当たる階級を加えたうえ、「曹長」をWachtmeister、「副曹長」をVizewachtmeisterとし、最下級を Feldartilleristとなっておりかなりの違いがある。
なおSeesoldatについて補足しておきたいのは、陸軍の一番下の位であるGemeinerにSoldatという別称があることである。軍隊経験を持つあるドイツ人に尋ねたところ、陸海軍の最下位の階級であるSoldat と Matroseには、「軍隊経験がない」つまり「新兵さん」という意味がこめられているらしい。いわば「修行中(in Ausübung)」ということで、その意味では「ありきたりな兵卒(Gemeiner Soldat)」であり、その段階を終えるとGefreiterつまり「修行を終えた兵卒(Gefreiter Soldat)」となるのである。ある辞書のGefreiterの項に、「新兵期間を終えた兵;元来は立哨勤務を解かれた者の意」というコメントがあり、参考になる(小学館『独和大辞典』)。
もう一つの主力であるM.A.K.であるが、「指揮官としての海軍少佐(Korvettenkapitän als Kommandeur)を頭に、「大尉(Kapitänleutnant)」4名、「中佐(Oberleutnant zur See)」および「少佐(Leutnant zur See)」10名、「甲板中佐(Oberdeckoffizier)」3名、「甲板少佐(Deckoffizier)」5名、「兵曹長(Feldwebel)」4名、「副兵曹長(Vizefeldwebel)」5名、「1等砲兵曹(Oberartilleristenmaat)」31名、「2等砲兵曹(Artilleristenmaat)」48名、「1等海砲兵(Obermatrosenartillerist)」138名、「2等海砲兵(Matrosenartillerist)」521名の、計770名である。ここでは明らかに、海軍系の階級名が用いられている。ちなみに『第九』を指揮したヘルマン・ハンゼンの階級名はOberhoboistenmaatつまり「1等軍楽兵曹」である。
次の将校名にzur Seeが付くケースだが、M.A.K.が海軍系ということが手がかりになる。「大正6年 俘虜名簿」を見ていくと、全国で海軍大佐に当たるKapitän zur Seeはヴァルディック総督を含め4名,海軍大尉のKapitänleutnant は8名、海軍中尉の Oberleutnant zur Seeは12名、海軍少尉のLeutnant zur Seeは9名の、計33名である。
そのうち「司令部」所属が6名、M.A.K.所属が15名、M.K.(海兵中隊)所属が5名、軍艦「ヤーグアル」からが6名で、すべて海軍系である。後1名だけがLandfront.Art.(星氏の訳では「陸正面砲隊」、「陸上前線砲隊」かもしれない)となっており、おそらく陸軍系なのだろうが理由は判らない。
将校以外でも「海軍」と銘記されているものがあるが、板東を例に拾ってみると、海軍1等主計補(Obermarinezahlmeisteraspirant)1名、海軍2等主計補(Marinezahlmeisteraspirant)2名、海軍1等主計書記(Obermarineintendantursekretär)1名、海軍2等書記(Marineschreiber)3名の7名である。「主計」と「書記」が職務で、所属なしが3名、司令部が2名、後がM.A.K.とW.D.(星氏の訳では「工機団」)が一人ずつである。必要な各部署に「主計」「書記」担当として派遣されていたのだろう。
大和氏の第一次大戦時の陸海軍の階級一覧を参考にしながら、V.S.B.とM.S.B.の「階級名」をまとめてみると次のようになろう。なおO.M.D.は服装もV.S.B.と同じであり、こちらに含めることにする。V.S.B.とM.A.K.はそれぞれ、陸軍と海軍と同じ箇所は空欄とし異なる階級名だけを記した。
陸軍 V.S.B. 海軍 M.A.K. 旧日本陸軍・海軍
Generalfeldmarschall
Großadmiral
元帥
General
Admiral 大将
Generalleutnant
Vizeadmiral 中将
Generalmajor
Kontreadmiral 少将
Oberst
Kapitän zur See 大佐
Oberstleutnant
Fregattenkapitän 中佐
Major
Korvettenkapitän 少佐
Hauptmann
Kapitänleutnant 大尉
Oberleutnant
Oberleutnant zur See 中尉
Leutnant
Leutnant zur See
少尉
Feldwebel
Oberbootsmann
Feldwebel 准尉・兵曹長
Feldwebel
Vizefeldwebel
Bootsmann
Vizefeldwebel 曹長・上等兵曹
Sergeant
Oberbootsmannsmaat
Oberartilleristenmaat
軍曹・1等兵曹
Unteroffizier
Bootsmannsmaat
Artilleristenmaat
伍長・2等兵曹
Gefreiter
Obermatrose
Oberartillerist 1等兵・1等水兵
Gemeiner
Gemeiner Matrose
Artillerist 2等兵・2等水兵
(Soldat)
(Seesoldat)
となるとM.A.K.の「1等海砲兵」「2等海砲兵」はよいとしても、やはり気になるのはV.S.B.のGefreiterとGemeinerをどう訳すかである。陸軍と同じく「1等兵」「2等兵」とするのも一方法だろうが、あくまで「海兵大隊」であり、俗称かもしれないにしても Seesoldatという呼び方もあるのだから、大和氏の「1等海兵」「2等海兵」がよいようにも思える。ちなみに現在のアメリカでは、陸軍はPrivate(PV2)と
Private(PV1)、海兵隊はPrivate First ClassとPrivateとし、多少区別している。イギリスでは海兵隊は海軍系の扱いをされているが、海軍では1等水兵と2等水兵を統合してAble Rating とし、海兵隊では2つの階級を統合して Marineとし、やはり区別している。6)
三.服装(軍服)
目下『バールトの楽園』という板東収容所を舞台にした映画作りが進んでいるが、頭を抱えるのが所内でのドイツ兵の服装の多様さである。『バラッケ 第3巻』の第20号に、「われらバンドー人」という所内の人々の所属部隊、年齢、職業、出身地から信仰までを図示した記事がある。そこに、次のような1節がある。「われわれの服装からして、『お揃い』といえるものではない。白、カーキ色、ネーヴィーブルー、フィールドグレーと半ばフィールドグレーの上着、陸軍帽・海軍帽・鉄道員帽、われわれの一団の外観はとても変化に富んでいる。その一部は、われわれに衣服を補給してくれる在庫品の多様性によるものであり、一部は青島で活動していた部隊の多様性によるものである」。7)
もちろん白とネーヴィーブルーというのは水兵服であり、カーキ色とフィールドグレーは陸戦用の服の色である。いろいろな資料を当たったところでは、軍艦の乗員ばかりでなく、「海軍」所属とされていたこともあって、全員に夏冬の海軍服が支給されていたらしい。とくに儀式などの際には、こちらが使われたようである。V.S.B.とO.M.D.は、隊を表す標識など以外はほとんど同じで、陸戦時には夏はカーキ色、冬はフィールドグレーの陸軍風の制服を用いている。M.A.K.も、ほぼ同様だったようである。
帽子も基本的には陸軍帽と海軍帽で、夏用と冬用があり、所属はリボンの文字や徽章で区別されていた。もちろん「鉄道員帽」は、山東鉄道や故郷など民間で使っていたものだろう。俘虜たちは所内ではこれらの衣服を適当に使い分けていたわけで、集合写真などにさまざまな服装が混在しているのはそのためである。
以上、当時のドイツ軍の「部隊名・階級名」について私見をまとめてみた。まだまだ不備だが、シンポジウムの席を含めご高評を願えれば幸いである。
2) „Lagerfeuer. Wöchentliche Blätter für die
deutschen Kriegsgefangenen in
Matsuyama. I.Jahrgang No.1−25“, S.293ff., S.333ff. und S.397ff.
3) 野中郁次郎『アメリカ海兵隊 非営利型組織の自己革新』(中央公論新社、2002年)、12ペ−ジ以下。なお関連文献としては、『アメリカ海兵隊図鑑』(学習研究社、2003年)も参考になる。
4)『大正三年 日独戦史 上』、29―30ページ。
5)
B.Friedag(Hrg.) Führer durch
Heer und Flotte Elfter Jahrgang 1914(Neudruck der zweiten verbesserten Auflage
Berlin(1913). Mit einem Nachwort von J. Olmes),
Osnabrück(Biblio Vlg.), 1993, S.
294ff.
6)各国の「階級名」については、www.google.co.jpの「フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』の軍隊に置ける階級呼称一覧」ほかを参考にした。