東京朝日新聞

 

大正3年11月12日( )東京朝日

●俘虜収容所

  陸軍大臣は、11日告示第16号にて、左記の如く俘虜収容所設置の旨公示せり。

        俘虜収容所を、福岡、熊本、松山、丸亀、姫路、大阪、名古屋、東京に設置す。

日独戦史編纂

  我が参謀本部にては、此頃漸く明治37、8年戦役に関する戦史悉皆の編纂を完了し

 たるを以て、更に大正3年日独戦史編纂を準備しつつあり。之が為め、参謀本部附陸軍

 歩兵大尉岡村寧次氏は、既に資料蒐集の為め派遣せられて青島にあり。其の帰還報告を

 待ちて、直に該要塞戦史に着手すべしと云う。

 

大正3年11月13日( )東京朝日

●南洋俘虜処分

  長崎に到着したる南洋独領地に於ける俘虜中、食料船ブラカット号に乗組みたる軍人

 5名は、目下俘虜とすべきや否やに就き詮議中なるが、結局抑留さるることとなるべく、

 残余の者は日本の地方官憲の手に渡すか、或は中立国の手に引渡し、総て釈放さるべし

 と(佐世保特電)。

●俘虜収容割当

  青島の俘虜は、12日より漸次労山港を発し、内地に輸送さるべく、福岡に収容さる

 べき敵将ワルデック少将も亦14日出発の筈なるが、是等の俘虜は左の如く割当らるる

 由。

                        久留米 500名 △福岡 1000名 △熊本 1000名 △松山、大阪

                        各500名 △東京、名古屋、姫路、丸亀、善通寺 各300名乃至400名

  尚、既報の如く、青島籠城兵数は予想外に少数なれども、7日戦闘に於て捕虜となり

 たる2300名の外、傷病者も尠からず、現に青島の敵病院内に在る傷病兵も亦4、5

 00名を下らずと云う。是等の傷病兵は、当分其儘青島病院に置き、独逸の軍医以下衛

 生隊をして加療せしめたる後、我国に輸送する手筈なりと云う。

 

大正3年11月13日( )東京朝日

●忙しい俘虜収容準備

 ▽到着は何れも20日前後

  青島の俘虜収容に就き指定されたる各地の俘虜収容所にては、目下夫れ夫れ準備に忙

 わしければ、何れも既に大半の準備を終りて、珍客の入来を待ちつつあり。而して其到

 着は、大概来20日前後ならん。

▲ワルデック以下は福岡に収容

 ▽赤十字支部の建物

  ワルデック総督は、福岡赤十字社支部に収容することに確定の旨、10日其筋より通

 達あり。市助役秦伝次郎氏、収容所長久山中佐、赤十字支部員等、是が準備に就き12

 日協議せり。

▲宏荘なる洋館

  収容所たる赤十字支部は、元福岡藩時代台場跡なる洲崎海岸に在り。宏荘なる洋館に

 て、構内瀟洒、眺望絶佳にて、直に玄界洋を望み、西公園は眼下に在り。向側は物産陳

 列所にて、市塵を離れ居れり。総督の居室は楼上を以て充てらるべく、目下第一二師団

 横井一等主計来福、種々の設備を急げり。因に、当地収容の俘虜は、将校20名、下士

 卒以下800名にて、尚、都合に依り増加することあるべし(福岡特電)。

▲東京の俘虜収容所

 ▽場所は白金火薬庫

  東京に収容さるる青島独軍の俘虜収容所の選定は、総て第一師団司令部で取扱う事に

 なって居る。彼等の到着期は来る16日という予定であったが、東京に於ける収容所の

 準備が、到底16日迄には出来そうもなく、又、俘虜の入京も16日後に延引の模様で

 あって、結局来20日頃という見込である。俘虜の人数は、下士以下300名、准士官

 以上15名、都合315名という予定である。収容の場所は、幾多の候補地があって今

 日迄未だ決定を見ないが、先、芝白金の旧火薬庫を修繕して之に充る事に内定して居る。

 此火薬庫は広大な建物で、場所は白金の最高地を占め、構内静閑にして幽邃、樹木欝蒼、

 山あり谷あり、衛生上から見ても適当の収容所であると思う。唯、其建物の修繕に日子

 を要するので、決定次第昼夜兼行で修繕工事を施す積りである。併し、戦争は永引くで

 あろうから、俘虜の収容期も案外長い間に亙ることと思われる。随って、其取扱い方に

 ついても、規則に準じて適当の処置を執らねばならぬ。外出、起臥、食事は勿論、諸般

 の希望もあるであろうが、適宜の方法で処理する筈である(宮地副官談)。

▲名古屋の収容所

 ▽東本願寺別院

  名古屋に収容さるべき俘虜は、将校30名、下士以下500名の予定なるも、12日

 更に陸軍省より、将校10名、下士以下800名を収容すべく電報達したるに就き、差

 当り東本願寺別院1箇所に全部を収容するに決したり。而して将校は、別院内の奥座敷

 に、下士以下は構内各講中の集会所に収容することとしたるが、食事は総て自炊せしむ

 る筈にて、来る23、4日頃到着すべき予定なり。収容所は、12日より夫々設備に着

 手し、同時に俘虜収容係員として歩兵第六連隊附中村中尉、歩兵三三連隊附長中尉、司

 令部附叶谷主計、三三連隊附冨澤軍医、12日任命され、他に下士判任文官3名、通訳

 1名を係員とせり。尤も、今後収容人員の増加に従いて、門前町の本願寺西別院天寧寺

 及梅川町長栄寺等に収容することに決定し居れり(名古屋特電)。

▲松山収容の俘虜

  松山に収容の俘虜は、准士官以下14名、下士卒400名にて、収容所は多分大林寺

 外2、3の寺院なるべく、16日到着の予定なり(松山特電)。

▲丸亀の俘虜

  香川県仲多度郡六郷村塩屋別院外1箇所に収容すべき俘虜308名は、16日来着に

 決し、多度津上陸後直に収容の筈にて、其後、俘虜将校3名を増したり(丸亀特電)。

●粋を利かせよ

 ▽鼻下長の俘虜

  久留米収容所に於ける俘虜後備海軍上等兵ツタイツは、長崎県南高来郡北有馬村吉野

 長八の長女ぬいと同棲したき旨、収容所に願出たり。ぬいが独逸の国籍にあるものなら

 ば陸軍大臣の許可を要し、入籍なき時は衛戍総督の許可にて足るを以て、収容所にては

 長崎県の親許及び戸籍役場に照会したるに、同籍は依然日本にあり。ぬいは嘗て青島に

 在し際、ツタイツに夫婦約束を為したるものにて、収容所にては目下、其許否に就き協

 議中なりと(久留米特電)。

 

大正3年11月16日( )東京朝日

●東京俘虜収容所

 ▽浅草東本願寺内

  東京に於ける俘虜収容所は、最初、芝白金火薬庫跡の予定なりしが、陸軍省にて種々

 調査の結果、浅草東本願寺内に設置する事に決定したり。其収容俘虜数は約300人に

 して、来る19日着京の筈なりと。

 

大正3年11月19日( )東京朝日

●ワ総督と語る

 ▽降伏の不可己を説く

  青島降将ワルデック総督一行を乗せたる御用船薩摩丸は17日午前9時20分、門司

 第2区錨地に投錨す。本船にて護送されたる俘虜は、福岡・熊本の両収容所に送らるべ

 き東亜派遣海兵隊所属将校8名、准士官10名、下士卒207名及海兵大隊所属将校1

 名、准士官20名、下士卒21名と、別にワ総督を始め同幕僚将校13名、下士卒27

 6名にて、其他松山へ収容さるべき歩兵中佐クレーマン外将校9名、下士卒316名な

 り。

 ▲日本は曽遊地

  応て記者は、上甲板を逍遥せるワ総督に刺を通じ、其健康を祝するや、総督は且謝し

 且語って曰く、「今より3年前、貴国に遊びしことあり。貴国の山水は、絵の如くにし

 て明媚なり。今又、戦い敗れて、図らずも貴国に来るの身とはなれり。福岡は未見の地

 なるも、夙に風光の美なるを聞けり。青島守備中は、通信機関を有せざる為め故国の事

 情を審かにするの自由を有せざりしが、是より、貴国新聞紙に依りて欧洲及び祖国の戦

 況を知るを得べし。青島の防備は、之を要塞と云うべからず。単に防備地帯に過ぎざり

 き。されば、実勢力に於ても、僅に3000人の兵士を有せしのみ。3000の兵を以

 て、貴国を敵に相戦わんとすることは、予等の毫も予期せざりし所なり。貴国も亦然り

 しならん。彼我開戦前までは、貴国の商人が青島に在留して完全に業を営み、彼我の利

 益を増したりしに、一朝開戦を宣せらるるに至り、青島の貴国人は悉く引揚げて、彼我

 の利益も、茲に断絶したり。実に、祖国は貴国と開戦するの意思なかりしなり。青島に

 在りし祖国の大型軍艦は、開戦前より外洋に出動して、湾内には貧弱なる小型の艦艇数

 隻を残せしのみ。斯く手薄き防備にて日本軍の精鋭を引受けんとは、返す返すも予期せ

 ざりし所なり。嗚呼、青島の防備地帯は遂に陥落の止むなきに至れり」とて、稍口籠り

 つつ、「若しも英仏連合軍が来りて青島を攻撃したりと仮定せば、そを散々撃破して永

 く守備の任を保持し得べかりしに、勇敢なる日本人なれば、斯く脆くも打落されたり」

 と語り終りて悄然たり。

▲我軍を批評す

 ▽長所を挙げ短所を数う

  ワルデック総督は、更に記者の質問に対し、青島要塞防備の状態及び我軍の戦闘振等

 に関して、次の如き詳細なる談話を為したり。総督曰く、

▲不十分の防備

 「青島にては、我戦闘員は3500名あり、青島平常の守備兵員1800名なりしも、

 事実定員よりは200名の不足あり。応急の必要に依り、16、7歳の自動車運転手其

 他、未だうら若き青年を藉りて戦場に向わしめざるを得ざるに至れり。各砲塁には各2

 00名内外の兵を配置し、之を守備し居たり。大砲の大部分は、団匪事件の際分捕せし

 ものと、他は古き普仏戦争の際戦利品となりし旧式の物のみにて、素より最新の鋭利な

 る武器に敵し得べきものに非ず。只、幾分新式の砲を有せしは灰泉角及びビスマークの

 2砲台のみなりき。砲数60門の大砲と、機関砲凡そ100門に過ぎざるも、此等も、

 殆ど総ては日本軍の猛烈なる射撃に逢い、有効なるものは残り甚だ少く、イルチス砲台

 には砲        兵60名ありしが、日本軍が我れより砲火を浴せ掛る中を、恰も無人の境を行

 くが如く突進し来れるに対しては、援兵を急派せんとするも能わず。日本兵は、塹壕を

 開鑿するや、巧に我れの射撃を避けながら行動を続けたるが、我軍に於ては、之を如何

 とも為す能わざりき。ビスマーク、モルトケの諸砲台亦全く猛烈なる日本軍の突貫に奪

 取され、我軍は砲弾全く尽き、之れ以上の戦争は全く無意味なるを悟らしむるに至れり。

▲日本軍の砲撃

  日本軍の勇敢に奮闘するだけ、従って其損害も莫大なるべく、予は之を凡そ5、60

 00を推定したり。然るに其実1700の死傷に過ぎざりしは、今更ながら戦闘の巧な

 るに驚かざるを得ず。然れども、青島要塞はアントワープの如く理想的の築城に非ず。

 極言すれば、1の防御地帯に過ぎず、独逸の意向は英・仏・露を東支那に於る仮装敵と

 したるにありて、親交ある日本兵と兵火相見ゆるの不幸なる運命の巡環を見んとは、思

 い設けざりしなり。日本海軍の射撃は、青島防備軍に大なる苦痛を与うる程には非ざり

 しが、彼の灰泉角砲塁を襲いし海軍の一弾は、13名の死者と3名の重傷者を出せり。

 日本陸軍砲兵の猛烈なる射撃は、イルチス、ビスマーク及び小湛山砲塁に雨霰の如く注

 がれたるが、其最も砲火を受けたるは中央と台東諸砲塁にて、殊に中央砲塁の損害著る

 しく、1砲塁にて100の砲弾を受けたるものあり。されば、守備兵は穴倉中に隠れた

 るのみにて、如何にしても出る能わざりき。英艦トライアンフ号の我が軍に対する射撃

 は、日本軍と比較し、技倆の上に頗る間隔あり。

▲日本皇帝の恩命

  エス90号艇は、一夜日本軍艦高千穂に水雷を発射して沈没せしめ、厳重なる日本艦

 隊の封鎖線を破り突出するの奇功を奏したり。同艇長グルナーは、予て何時かは日本の

 大軍艦を撃沈するの時あるべしと放言し居たるが、果して彼れは勇猛なる欲望を満足す

 るの日を作り出せり。予は、日本皇帝陛下より帯剣の恩命に接したるを光栄とし、深く

 感謝するものなり。開城共に青島に於ける総ての財産は日本軍に引渡さるるに至りたる

 が、カイゼリン・エリサベット外数艦は引揚げられざるまでに沈没し、陸上の諸営造物

 も破壊し、無線電信は5日迄は使用し居たるも砲撃の為め破壊され、全く外部との通信

 の自由を失うに至れり。青島は、籠城の際、50人の婦人、78人の小児及び300人

 の商人        ありしが、婦人は今迄の夫及び兄弟が籠城して戦闘の苦痛を嘗むるに当り、之

 れを捨て去るに忍びずとて、病院の看護婦となり、雄々しき働きを為し、商人は、青島

 に於ける自己財産の保護の為め其地に残れり。

▲日本歩兵の射撃

  予をして忌憚なく日本軍の批評を試むるの自由を与えしむるならば、日本軍を通じ、

 大砲の射撃と斥候の明敏と、又、曩に語りし如く塹壕の穿ち方の巧妙なるをば激賞する

 に躊躇せざれど、歩兵の小銃射撃には幾分の遺憾なき能わず。之れ恐らく日本軍の短所

 なるべきが、日本軍の疾風の如き突貫は、真に世界に其比を見ざる所なるべし。日本軍

 の、我等俘虜に対する厚意は、軍人たるの名誉を保持せしむるに努め、是れ以上を望む

 べからざる寛大を以てせらるるは、感泣に堪えず、神尾将軍の寛厚なる態度は、敬虔の

 念湧くを禁ずる能わざりき」云々。

▲上陸前後の一行

 ▽捕虜として収容の申渡

 ▲上陸と乗車

  応て、総督は海軍大佐の軍服を捨てて、赤革の靴に赤革の脚袢を穿ち、赤革の手袋を

 着け、其参謀長たりしポルレルツーム大佐、墺国カイゼリン・エリザベット艦長マコビ

 ック大佐、独逸国ウィルヘルム艦長サックセル大佐、同副長メンチン中佐、トリック海

 軍少佐、ジベル陸軍少佐、カイゼル陸軍少佐、男爵フォン・ヘンライン海軍大尉及び我

 満鉄東京支店在勤中青島に召集されたる総督の秘書役ドクトル・ホップ等と共に、艪部

 上甲板に出で約20分許り、捕虜収容所附山本中尉の通訳にて、福岡収容所長久山中佐、

 熊本収容所長渡辺大尉等と立会い、銃剣附の我兵厳戒の下に、捕虜として収容すべき申

 渡を受く。之より上陸の用意なるや、捕虜は2隻の達磨船にて上陸し、総督以下幕僚は

 最後の上陸し、特に停車場楼上の貴賓室に導かれ、午餐には例の20銭のサンドウィッ

 チを取らせ、発車間際に乗車せしめたるが、将校乗用車は総て二等の定めなるも、之亦、

 一・二等合同車の一等室に総督と参謀長等2、3人を入れ、夫に久山福岡収容所長と山

 本中尉等搭乗し、入口には銃剣厳しき我衛兵立ち、0時50分発車にて福岡に送られた

 り。沿線の見物人は、遉に夥し(門司特電)。

▲収容所に入る

  ワルデック総督を乗せたる列車は、17日午後4時7分博多着、是より先、停車場は

 警戒厳重を極めたり。渡辺警察部長は数十名の警官を督し、福岡憲兵連隊と協力して取

 締に任じたり。応てワルデック総督は、久山収容所長、通訳等の先導にて下車、前後に

 衛兵を附せられ、特別差廻しの自動車にて、収容所たる赤十字福岡支部に入れり(博多

 特電)。

▲収容後のワ総督

 ▽設備に満足を表す

  ワ総督は、17日収容所の一室に入るや、卓上の菊花を見て、さても綺麗なる花よ、

 と言いながら、暫し久山所長、山本中尉と会談の後、各室を一覧し、寝台にある2枚続

 きの毛布2枚を指し、夜具は之にて十分なれど、此処に備えある箪笥は余り立派過ぎる

 のみならず、多少什器も携え居れば、悪くても宜しければ、今少し大なるものと取換え

 られたしと要求し、居室より博多湾、那珂川等の明媚なる光景を眺め居る折柄、入来り

 しボーイを顧みて、私の世話をして呉れる人か、宜しく頼むと愛嬌を振撒き、久山、山

 本氏等に対しても一々挙手の敬礼を為し、態度慇懃なり。又、将校の収容されたる物産

 陳列所に赴きて各室を一巡し、日本政府の鄭重なる取扱に、非常の感謝と満足を表せり

 と。尚、総督の帯剣は黒革包の鞘にて、鐺に金具を嵌め柄にはライオンの浮彫あり、金

 具は総て蔦模様にて、中には指揮刀作りの刃の附かざるもの、切先より柄元に至るまで

 刀身、帆掛船と錨とを交互して両面に彫刻あり、籠城数月の辛労に、自然手入も行届か

 ざりしものか、柄元に少しく錆の附き居れり(福岡特電)。

●日軍誘致の苦肉策

 ▽我股を刺し捕虜となる −17日芝罘特派員発−

  総攻撃前の斥候戦にて、独逸の歩兵下士ウヰルヘルムと云うもの、股に銃創を負い捕

 虜となり、即墨に後送されしが、頻に各砲台の状況を語り、突撃侵入の捷径等を物語り、

 何故日本軍は河泊河以北に躊躇し居るか、などと怪しき口吻多かりしより、詳細取調の

 結果、同人は日本軍を誘引せん為め、自ら吾れと我股を剣にて刺し、故意に捕虜となり

 たる事判明し、相当の処分を受けたるが、其祖国の為に斯かる献身的行動を執りしを、

 今尚我軍中に伝え、敵ながら天晴の者と賞讃し居れり。

●俘虜東京着決定

  東京に収容さる可き青島の俘虜将校11名、下士以下323名は、22日午後3時5

 7分品川駅着列車にて入京、直に浅草東本願寺内に収容さる。

●俘虜宇品着

  欧羅巴丸、13日午前7時、俘虜43名兵卒50名を乗せ入港。19日午後4時、一

 部上陸、宇品駅より乗車。残部は20日上陸すべし、と。行先は、姫路、名古屋、東京

 へ三分する由(宇品電報)。

 

大正3年11月20日( )東京朝日

●宇品に到着せし俘虜

 ▽例のクーロー中佐もあり

  陸軍御用船欧羅巴丸は、俘虜943名を載せ、輸送指揮官白河歩兵中尉以下護送隊監

 視の下に18日午前6時宇品に入港せり。俘虜は、将校39名、下士卒904名、内墺

 国軍艦カイゼリン・エリザベット号乗組員将校4名、下士卒226名あり。独兵は、重

 に台東鎮砲台及青島市街の防禦線守備に任じ居たる将卒なり。俘虜将校中に、例のクー

 ロー中佐あり。元、天津守備隊司令官なりしが、開戦と共に守備隊を率い、青島に来り

 勇敢に奮闘せし1人にて、10月2日夜、四方山陣地に拠る我中央隊の全面に、3個中

 隊を提げて夜襲せる勇将なり。

▲一行中に文学博士

  又、騎兵少尉オットライメルスは、横浜野毛町に3年ほど商業を営み居たるものにて、

 日本語に達す。又、参謀附通訳・文学博士ユーテーブシャールは、本年8月まで3年余、

 大阪高等医学校にて教鞭を執り居たるも、暑中休暇の際、九州地方を旅行中、日独国交

 断絶せしより、8月2日青島に向い、ワ総督の通訳を為し居たる者にて、大阪には知人

 多しと語れり。彼等は一般に、欧洲戦乱の状況如何にやと気遣い居るものの如く、頻り

 に英字新聞を見度しと希望し、逢う人毎に、英字新聞を送り呉れよと依頼し、尚19日

 午後、将校13名、下士卒300名上陸下車して輸送せらるる筈なるが、此俘虜は姫路

 に収容することとなれり。因みに、残りは20日、2回に上陸せしめ東京・名古屋の2

 箇所に収容する由なるも、人員分配は未だ不明なり(広島特電)。

▲クーロー中佐は名古屋収容か

 ▽警護兵宇品に出張

  名古屋に収容さるべき俘虜は、中佐1名、大尉3名、中尉5名、少尉3名、准士官6

 名、下士以下301名と決定し、来る21日午後3時53分名古屋着の汽車にて到着の

 事に確定したるに就き、途中警護の為、18日夜、歩兵第六連隊より大尉1名、少尉1

 名、軍医1名、下士以下29名は宇品に出張したり。収容所の設備は既に整いて、将校

 は別院古御殿に接続せる奥座敷、其他は境内23の各講中集会所に収容し、医務室は太

 鼓廊下の寺務所に設くる事となり、浴室・洗面所等を新設したるが、収容俘虜中の中佐

 1名は、特に新御殿の座敷を以て其居室に充つる事となり、19日更に設備に着手した

 り。而して、右収容さるべき中佐は、青島籠城中、勇敢に奮戦して四方山の陣地に戦い、

 中央部        隊の前面に夜襲を試みたるクーロー中佐なるべしと言えり(名古屋電話)。

▲侮辱俘虜処罰

 ▽重謹慎仰付らる

  久留米俘虜収容所の俘虜中尉グラボーが衛兵に対する侮辱事件は、取調の結果、18

 日重謹慎15日に処せられたり。彼は取調を受くるに至るや、悔悟して2回謝罪の意を

 表明せる書信を、樫村所長に差出したり(久留米特電)。

                        写真:ワ総督来る

                            右より3人目ワルデック大佐(17日午前10時

                門司碇泊薩摩丸甲板上にて)

                            (ワルデックの署名)

                        写真:東京俘虜収容所

                            浅草本願寺内俘虜の居室と浴室

●日独学者の奇縁

 ▽在墺藤井文学士、母堂の死の通知

  兵庫県宍粟郡河東村の内、須賀澤村願壽寺僧侶、文学士藤井慶乗氏は、宗教哲学研究

 の為め、雄々しくも唯一人、我敵国たる墺国に踏止まれるが、同氏の母堂ふぢえ子は、

 本月4日午後2時、病気危篤に陥りし時、偶然にも氏が欧洲大戦乱前墺国より発送した

 る書信、90余日を経過して到着したるより、直に瀕死の母堂に此旨を伝えて内容を読

 み聞かせしに、血の気失せたる顔に、いと喜ばしげなる微笑を見せたる儘、68歳を以

 て永眠せり。

  然るに、母堂の訃を氏に伝うる術なく、一同如何せんと苦心せる折柄、独逸人医学博

 士シュミッチ氏が、日本美術及仏教研究の為、京都の都ホテルに滞在中なる記事、本紙

 に見えたるを、氏の実姉きくえ子が思い出で、之を頼りに、去る15日、都ホテルにシ

 博士を訪いたり。茲に奇なるは、此シュミッチ博士が来朝せし動機は、博士が維也納に

 在りし当時、藤井文学士、亦恰も維也納大学に在学中にして、博士の依頼に応じ、昨年

 12月まで日本語を教えたり。夫より博士は、愈、日本来遊の決心を為せしかば、氏は

 博士の為に高楠順次郎博士、塚本京都府内務部長、釜尾奈良駅長等へ紹介状を認め、遂

 に本年3月博士の来朝となりしなり。而して、博士は来月初旬、横浜出帆、米国を経て

 一先ず        帰国せんと為し居る折柄なれば、今、懐しき日本語教師の実姉の来訪を受けて、

 心行くまで物語りを為し、母堂の訃は、墺国と通信の便利ある瑞西国の博士数名に宛て、

 藤井氏に伝うべき書信を発送し、尚届くるものあらば、とのことに、きくえ子は母堂の

 遺髪並に遺骨を納めたる小箱、母堂病臥中の写真、葬儀の写真其他数点を託し、名残惜

 しくも袂を別ちて帰宅せりと(神戸電話)。

 

大正3年11月23日( )東京朝日

●俘虜着京す

 ▽黒山の如き見物人

  青島の俘虜クーロー中佐以下3百数十名は、予定の如く昨日午後4時57分品川駅に

 到着し、1個小隊の我が兵に護衛され、7両のボギー車に分乗し、新橋より上野を経て

 浅草東本願寺に入り、人員点呼の後、収容所に収容されたるが、品川より本願寺に至る

 沿道は非常の見物人にて、殊に浅草七軒町署にては、石川署長を始め非番巡査総出にて、

 象潟、日本堤、南元町署の各組合署よりも応援を受け、警戒取締に従事したり。

●グ中尉移さる

  久留米衛兵侮辱事件にて、去18日より重謹慎15日に処せられたる俘虜グラボー中

 尉は、一両日中に、他の将校2名と共に、梅林寺より篠山町将校収容所に移さるる筈な

 るが、同中尉は大学出身にて、他の将校は平将校なるより、倨傲の彼は同居を欲せずと

 云えり。又、篠山町収容所の俘虜アンデルス少佐以下の俘虜は、極めて柔順にして、将

 校等は篠山城頭に登り、筑後平野を展望して其絶景に憧憬し、又、篠山神社境内にある

 28珊の榴霰弾を見て、アレダ、アレダ、青島の要塞上に唸った時の恐ろしさが思い出

 される、といって首をすくめたり(久留米特電)。

 

大正3年11月24日( )東京朝日

●時雨るる中を収容所へ

 ▽本願寺を囲む大雑踏

  好奇心に駆られた市民は、22日朝早くから浅草本願寺界隈に詰め掛けた。人混みし

 ない中にと、午前中から弁当持で出掛けて新聞紙を敷いて坐って居る連中も、少くはな

 かった。収容所長西郷中佐以下は、前夜から徹夜で準備して居たが、時計の針ばかり睨

 めて、手と足を取り違えそうに忙しい思いをして居る。空が曇ったと思う中に、4時頃

 ボツボツと降って来たが、群衆は仮令ズブ濡れになっても、今日の此珍客の顔を見ない

 中はと落着いて居る。灯の点いた5時頃から門内の出入を禁じたが、正門の内も外も、

 爪も立たぬ程押し詰まった群衆は、鯨波を作って押し合って居る。此雑踏の中に、正門

 前の溝の中に、5、600もあろうと思う群衆は、将棋倒しになって転げ落ちた。左右

 する中        に、俘虜を乗せた7台の電車が、上野を廻って門跡に停ったのは、6時10分

 前である。霽れそうであった雨は本降になって、日は全く落て居た。暗い中に立ち並ん

 だ群衆の前には、警官、憲兵、衛兵、寺院の誰彼等の提灯が、垣を作って居る。班々に

 分けられた俘虜が、少し宛、間を置いて電車を出ると、群衆は「萬歳々々」を高唱して、

 又揉み合った。雑踏を制する巡査と憲兵の叱声、押されて苦しむ群衆の悲鳴、其中に土

 砂降りの雨が流れて居る、物凄い光景が永く続いた。塚本大尉、羽生中尉等輸送官の凛

 とした威容の後から、将校の一隊が真先に中庭に入った。6尺豊の雲突くばかりのクー

 ロー中佐の姿も、其中に見えた。将校の一隊が収容所の方に廻って行った後で、300

 名の下士卒が本堂の中に入られた。頭からズブ濡れになって、黙々と屠所の羊のように

 跟いて来る彼等の姿を見ると、敵乍ら一掬同情の涙が湧いて来る。人員点呼に30分ば

 かり暇取ってから、西郷中佐の訓示がある。「戦争は政治的関係で、人民其者に対して

 は、何等の敵意がない」と云うような、同情の厚い文明的の言葉である。愈、室割の出

 来て居る収容所に、労れた腰を下したのが7時過ぎ、直に最初の晩餐の御馳走が室々に

 運ばれた。料理は平河町の宝亭の調理で、クーロー大佐はコドレッドデボルクと云う牛

 肉、馬鈴薯、人参の蓋物が1皿、スープ1皿、それにパンと紅茶、下士卒は牛肉、馬鈴

 薯、青菜等の料理が1皿にパンと紅茶で、久し振で食う母国風の料理に舌鼓を打った。

 それから風呂に入って、9時に消燈、将校は寝台に、思い思いに床に就いて、収容所第

 一夜の夢に入った。

                        写真:入京せる俘虜

▲俘虜生活と彼等の満足

 ▽収容後の本願寺

  22日夜、浅草東本願寺に収容されたクーロー中佐以下311名の青島俘虜は、異郷

 の空ながらも此処暫時の仮の宿に落着いた。一夜の夢、明くれば好晴の23日午前6時

 半、一声の起床喇叭に破られて、夫々洗面を終ると、下士以上には1杯ずつの紅茶、兵

 卒には温かい番茶が出て、8時には朝の料理が食卓に並べられた。今後半箇年なり1年

 なり、欧洲戦乱の終息する迄は、斯くの如くにして望郷の切なき思い出の内に、俘虜生

 活を送るのであるが、俘虜収容所長たる西郷中佐は、俘虜の生活振りに関して、右の如

 く語った。「俘虜一同の我が命令に服従する事は、実に想像以上で、殊に上官たるクー

 ロー中佐の威望は頗る高く、如何なる事をも殆ど絶対に服従して居るのは、流石に軍国

 主義の国民と思われた。又、兵卒一同の動作が、如何にもテキパキして組織的なのは大

 に注目を惹いた。当収容所の設備、待遇、食事万般に対しては、一同至極満足の意を表

 し、クーロー中佐の如き、到着と同時に各室を見廻った上、自分に向って真心から、我

 待遇の完備と温情とを感謝して居た。尚、上京の途中、戦地からの病勢が募って、広島

 の衛戍病院に入院した2名の兵卒の中、1人は急性気管支炎、1人はマラリア熱の為に、

 22日遂に死亡したとの報知があったので、クーロー中佐の来着を待って其旨を伝える

 と、同中佐は殆ど涙を落さんばかりに悲しみ、どうせ死ぬ者なら無理に隊と別れさせず

 に、当地迄同行するのであった、とて、真に感慨に堪えざるものの如くであった。俘虜

 将校の民間居住、自由外出等は当人等の希望に依って時宜に許可する事になって居るが、 

 着京早々故、未だ何等の申出がない。又、新聞、雑誌及び書籍等は、クーロー中佐は到

 着と同時に閲覧の希望を申出で、勿論差支無い事であるから、目下、参謀通訳たるユー

 ベルシャール博士が、其選定の任に当って居る。俘虜の居室内には、10箇の瓦斯スト

 ーブを設けてあるから、寧ろ暖か過る迄で、下士以上に対しては、室内用の為にスリッ

 パを支給する事になって居る」

 

大正3年11月26日( )東京朝日

●俘虜の待遇と賠償

 ▽追て作業練兵を許す =西郷収容所長談=

  浅草東本願寺に収容中なる独逸俘虜311名は、クーロー中佐以下孰れも、収容所内

 諸設備の完全せると、我が待遇の親切なるとに感激し居れるが、右待遇給与の規定に関

 し、俘虜収容所長西郷中佐は、左の如く語れり。「俘虜の月給は、クーロー中佐の18

 3円を筆頭として、中尉47円、少尉40円、准士官日給40銭、下士以下は日給30

 銭の規定なるが、右は孰れも我国軍人の各官等に準拠せるものにて、佐官・尉官等は、

 当該官等中の第3等級を以て標準となしたるなり。之れは、日露戦争の当時、露国俘虜

 待遇法と何等異なる所なく、孰れも俘虜を遇するに、飽迄武人の面目を保たしむるを目

 的とせる俘虜取扱規定に拠れるものなり。尚、右月給中、将校以上の者は該月給の範囲

 内にて衣食住其他一切の費用を自弁するの義務を有し、下士以下は各給料の範囲内を以

 て当方にて一切の賄をなし与え、衣食以外の間食又は嗜好品たる蜜柑、ビスケット、コ

 ーヒー、煙草等は、希望に依り適宜現品にて支給する規定なり。以上の如き俘虜収容待

 遇に要する一切の費用は、平和克復後、即ち欧洲戦乱終息の後に於て独逸政府之が賠償

 の義務を有する事勿論にして、償金還附時期の、戦後1年の後なりや将た2年の後なり

 や不明なるも、戦敗結果疲弊せる独逸が、一時に償金還附をなし能わざるの節は、一定

 の期間を約して漸時に賠償の義務を果す事となる可し。次に、一般俘虜は、彼我相互の

 便宜上、着衣の裁縫、食事の調理等は自分にてなし度しとの希望なれども、目下の所場

 所設備等の選定雖かしければ、未だ許可するに至らず。追って簡単なる諸作業又は或範

 囲内の練兵等を許可する事となる可く、其他には義務的の労働作業等は一切成さしめざ

 る規定なり」

●各地俘虜消息

 ▲厳格と気儘

  丸亀収容の俘虜は、他の収容地の如く雑然なる混合のものでなく、海兵第三大隊の第

 二中隊と第七中隊の2個中隊なるより、取扱上頗る便利にて、西本願寺本堂に第二中隊、

 庫裡に第七中隊を入れ、各特務曹長を其班長とし、全然兵営にあると同様、厳重に取締

 を為し居れり。第二中隊は、現役兵のみにて編成され、規律厳格、決して不服がましき

 事も申立てざれど、第七中隊の方は予・後備のみにて、帝大の講師も居れば神戸・横浜

 辺の大商店の主人も居り、日本人を妻にして居たる者も少からず。到着早々、200円、

 300円とドシドシ為替を受取ると云う有様なれば、収容所の食物が悪いとか、運動が

 不足だとか、随分勝手な注文を並ぶる者多し(丸亀特電)。

 ▲師団長と総督

  来福中、柴第一五師団長は、24日午前岡本参謀長を従え赤十字支部にワルデック総

 督を訪い、設備不完全にて不自由ならんとの意を述べ、同情的挨拶を為したるに、ワ総

 督は、日本政府の好遇を謝し師団長の温情を感謝する旨、答えたり。師団長は更に、物

 産陳列所内の俘虜将校を訪い、尚、柳町の下士卒収容所に到り、仔細に彼等の生活状態

 を視察したり(福岡特電)。

 ▲佩剣の取上げ

  松山俘虜収容所にては、一両日前、所長の前川中佐より、将校一同に佩剣の取上げを

 申渡し、武人にして其帯剣を手放す苦衷に同情を表する旨を述べたるに、俘虜の方にて

 は一向平気にて、無雑作に放し除けたり(松山特電)。

 ●俘虜へ慰問品

  俘虜慰問の為め、24日浅草区北松山町28生花宗匠西村泰へ同猟女は、生花一対を、

 下谷区上野桜木町ウォッヘ雑誌社は「ウォッヘ」14冊を、又、本郷区駒込町18セル

 レ・シーレンはマンドリン1個を寄贈したり。

 

大正3年11月28日( )東京朝日

●独逸将校婦人気質

 ▽侘住居の総督夫人 26日北京特派員発

  ワルデック夫人は、一男二女を抱きながら、福岡収容所にあるビウレンザラウ中尉の

 北京留守宅に侘住居を為し居れり。他の俘虜将校の妻女等も、日本に行きて恥を晒らす

 より、寧ろ北京に止まりて夫の帰りを待たんと語り居れり。

                        写真:俘虜の運動(浅草本願寺内)

 

大正3年11月30日( )東京朝日

●俘虜の鬼ごっこ

 ▽独逸婦人の花が一層望ましい

  数日前から運動を許可された浅草本願寺内収容の俘虜300名は、クーロー中佐指揮

 の下に、昨日も午前7時半から1時間半、同寺の中庭で運動を試みた。風は無いけれど、

 灰色の雲空を蔽うて、寒さは殊に厳しい。常には絶えない参詣人も、此時許りは、本堂

 若くは門外に追遣られて、10数名の衛兵と8、9名の巡査が居るのみである。定刻、

 寺倉中尉に案内されたクーロー中佐以下の俘虜は、8小隊に分れて堂々と門内に乗込む

 と、等しく両3名の将校、下士指揮の下に、アイン、ツワイ、ツワイと云い乍ら、駆足

 を始めたので、今迄本堂前に豆を拾って居た多くの鳩は、吃驚してバタバタ空に飛上る。

 駆足が10分で済むと、今度は水兵と海軍歩兵の二手に分れて、水兵の方は遊戯だ。蘇

 鉄の花壇を中心にして、西洋鬼ごっこをやるのもあれば、門と本堂間の短距離競争を始

 めて居る隊もある。日本式の鬼ごっこは、大勢で手を繋いで輪を作り、中に目隠しした

 2人が、「由良さんこっち」を「ヤコブヒーヤ」と云って、子供のように騒いで居る。

 彼方で馬飛びをやるかと思えば、此方では陣取見たいな遊びもあって、無邪気なのか厚

 皮なのか、兎も角、嬉々として面白そうである。海軍歩兵の方は、其間、鹿爪らしい瑞

 典式の体操で、早足の稽古もあれば四肢の運動もある。何れも各隊の士官監督の上であ

 る。8時になると、歩兵と水兵が入替って、遊戯と体操とになる。此間、カーキ色の帽

 子に鼠の外套を被ったクーロー中佐は、赭顔に笑を湛えつつ、庭中を逍遥し、時々寺倉

 中尉を捉えて何事か話かけて居たが、今迄本堂の節穴等から覗いて居った善男善女は、

 一様に廊下に出張って「今から説教が始まりますよ」と呼ばれても、説教所ではないよ

 うに、がやがやと見惚れて居た。斯くて午前正9時、中佐の一令と共に、一同は夫々隊

 を作って収容所に送られたが、俘虜の動作に就いて寺倉中尉の語る処に依ると、一体に

 命令をよく遵奉して、決して違背しないが、卒の上官に対する挙止の謹厳なるに似ず、

 上官の卒に対する態度は余りに鷹揚に過ぐるように思う。猶、彼等が故郷へ送る手紙を

 見るに、一様に「我等は、俘虜として最上の待遇を受けつつあり」と云うような文句を

 かいて居るが、日本の或婦人から花を贈って来たのに対しては、「若し独逸婦人の手よ

 り贈られしならば、如何ばかり楽しかりしならん」等、朧を得て蜀を望む如き口吻を漏

 らすものもある、と云う事である。

                        写真:俘虜の生活(理髪と洗濯)

 

大正4年1月6日( )東京朝日

●不応召の独人自殺

 ▽伊豆田方郡の山中にて

  「我れは日本を愛する者也。独逸の未来は滅亡なり」

  伊豆国田方郡内浦村三津海岸三津ホテル滞在中の英人及び諾威人某の2名が、散歩の

 為め4日午前10時頃、同地の海抜1200尺の大平山に登山したるに、絶頂より約3

 間許り下方の断崖に、1名の外人短銃自殺を遂げ居たるを発見し、所轄三島警察署より

 笹間署長以下臨検せしに、此者はオーシン・ネルソン(24)と云う独逸人にて、旧臘15

 日迄同ホテルに滞在し居たるが、支払に窮し、ホテルの主婦に宛て自殺する旨の遺書を

 残し、同夜飄然行方不明となり、其筋にても捜索中の者と判明し、屍体は村吏に引渡さ

 る。尚、探聞する所によれば、同人は、昨年日独国交破るるや、本国より青島守備隊に

 参加すべき旨の召集状を受たるも、平素日本を愛する所より其召集に応ぜず、当時横浜

 の勤務先を出奔し、同ホテルに来り潜伏し居たるものにて、最初より死を決し居りしも

 のの如く、懐中無一物なるにも拘わらず贅沢に暮し居たり。同人は自殺に先立ち、独逸

 語にて、同村三津小学校関校長に宛て「予は、我本国と我愛する貴国と戦端を交うるを

 欲せず。況や、既に成算なき欧洲戦争の如き、応て来るべき独逸の滅亡を語るものなり。

 我、生きて槿花一朝の夢を見んより、寧ろ死して安きに就かん。請う、我亡き骸は、其

 儘に放任し置かれよ、親愛なる君」との意味を認め送れり(沼津電話)。

 ▲三津ホテルの監督人

  右自殺独逸人の身元につき、横浜居留地を探索せしに、同人はシー・オー・ネルゾン

 (24)と称し、昨年5月中、横浜に渡来せるものにて、其当時、同人は本国に於て失職し、

 本邦に来りて就職の目的を有し、上陸後山下町133リヒテルホテルに投宿して、爾来

 相当の雇われ口を捜し居たれど、思わしからず。徒らに日を過ごす中、欧洲大乱の勃発

 となりて、益、困難に陥りたる折柄、リヒテルホテルの主婦ゼー・リヒテル女が、内浦

 村に三津ホテルを経営し居り、同所の監督人を要する事となりたるより、去9月17日、

 ネルゾンをば此方に使用するの相談を取極め、即日同地に出発せしめたり。斯くて今日

 迄、同人は三津ホテルに在りしものなるが、自殺の原因は判明せず。唯、同人は至極小

 胆者なりしといえば、祖国の大変と自己の窮迫せる境遇を悲しみ、今回の如き始末に及

 びたるにあらずやという。

●俘虜将校夫人の述懐

 ▽日本兵を看護しました

  久留米の俘虜中尉ホーヘンベルヒ男夫人は、良人に面会のため久留米に来り、米国宣

 教師の許に滞在中なるが、記者に語りて曰く、「私は、良人と共に青島に住って居りま

 した。開戦と共に、良人は機関砲隊長として、私は看護婦として籠城しました。病院で

 は、36名の敵味方の負傷兵を看護しました。内26名は日本兵でした。日本兵は洋食

 を食べないので困りましたが、2、3日後に日本料理の出来るコックが来たので、悦ん

 で居ました。俘虜の自由外出が取消されたのは、何う云う訳でしょうか。私は、同棲は

 許されずとも此地に止まって、良人の解放を待つ積りです。」(久留米特電)

 

大正4年1月17日( )東京朝日

●握手やら接吻やら

 ▽俘虜夫妻の会見

  独逸俘虜男爵ホーヘンヘルス夫人は、旧臘30日久留米に来り、米国宣教師リールセ

 ン方に滞在し、許可を得て15日午後2時半より、香霞園に至り、山本中尉監視の下に

 良人男爵に面会せるが、何しろ来着以来半月間も待侘び煩悶したる上、面会が唯1回に

 限られし事とて、互に握手やら接吻やら、2時間に亙り蜜の如き談話を続け、一夕食を

 共にしたる上、立別れたるが、収容所の門の内外にて、尚も名残を惜み、漸く袂を別て

 り。夫人は小頭町に家を借り、良人の帰国する迄は久留米に滞在する由なり(久留米特

 電)。

 

大正4年1月18日( )東京朝日

●俘虜の青島籠城誌

 ▽名古屋収容所に在る某俘虜義勇兵の手記

  斯の一篇は、昨年8月迄我が国に在住して商業に従事し居り、日独開戦と共に、義勇

 兵として青島籠城軍に参加せし某俘虜の手記を訳せしものなり。

 

  昨夏8月、祖国の召集令に応じて奮い起ちし吾等は、一斉に青島を指して、懐しき日

 本の国土を離れたり。されど、此の時、誰か此の親愛なる友邦の人々を敵手として、砲

 火の間に相見ゆるを予期せんや、真に吾等は数週日の後、吾等の戦うべき敵が勇敢なる

 日本軍なりと聞きて、一同驚愕の眼を瞠らざるを得ざりき。

  往年、西伯利亜鉄道の開通すると共に、従来米国若くは印度を経由してのみ、我が欧

 洲の奥に入るを得たりし日本人は、極めて短時間に吾等の祖国を訪問するを得るに至り、

 爾後、益、祖国の文華が日本に紹介せらるるを見て、吾等は愈両者の親善なる可きを予

 想し、満腔の祝福を捧げたるものなり。然も、此祝福は徒爾ならずして日独の関係益密

 接の度を加えたりしに、計らざりき、突如として起りし戦乱の余波は、遂に日本を駆っ

 て、日英同盟の義務上吾等と砲火の間に相見ゆるの余儀なきに至らしめたり。日本人は、

 果してよく、吾等独逸人が膠州湾及び青島を重要視せる所以を知れりや。単に他列国の

 それと等しき租借地としてか、将又、単に1つの商港とし若くは独逸東洋艦隊の根拠地

 としてか…。乞う、皮相なる観察を止めよ。青島は、唯青島を実地に目撃せし独逸人に

 依ってのみ、其の真価を知るを得ん。吾等の、他の殖民地に於る独逸人等が、常に歩に

 歩、其の地の土民に同化されつつある一反し、我が青島は、純独逸族の団結にして、実

 に儼乎たる独逸帝国の一部分を形成せるものなり。試みに、18年前の既往に遡りて、

 当時の青島を見よ。寂寥たる海面、汚穢なる支那家屋等、真に見る影も無き1小村落に

 過ぎざりしに非ずや。然も、今や其の小村落は変じて、殷賑極まり無き純日耳曼市街と

 化したり。而して、東西建築術の粋を集めし大廈高楼、坦々砥の如き街路、到る処鬱々

 たる緑樹、有名なる山東の大雨にすら些の痛痒を感ぜざる大下水、更に更に幾多の大小

 船舶を碇泊せしめ得べき宏大なる港湾の設備等、整斉にして美観を極むるが、我が青島

 は、吾等独逸人が18年間の熱心なる努力の賜物として、永遠に無限の光輝を放つ可か

 りしなり。

  然るに、今次戦乱の余波は、遂に此の美わしの青島を、惨憺たる砲火の下に置くの止

 む無きに至らしめたり。然も、此の青島を守備す可き現役兵は僅かに2000名にして、

 天津・北京等に於ける東亜派遣兵を合するも、尚2400に充たず。茲に於てか、吾等

 独逸人は商人、技師たるを問わず、又、遊覧者、宗教家、鉱山家、教師たるを問わず、

 或は瓜哇より、或は印度より、又、日本より、支那より、西伯利亜より、先を争うて、

 此の東亜の独逸根拠地に参集し、以て祖国の難に当る可く期したるなり。然も、此の無

 援の孤城、陸上正面には開放せられたる5個の小要塞を有し、海上正面は旧式の砲を以

 て僅に守らるるのみ。加うるに、其の守備に当る可き人員は、病院勤務者、政府官吏、

 郵便局        員、警吏の類まで算入するも、尚且4000人に過ざるに反し、敵は近く強露

 と闘いて大に捷ち、其の海陸の兵力は彼の仏国にも優る日本なるに於て、吾等が勝利の

 欲望は、絶対的に望み得可からざりしにも拘らず、全青島の防禦者は、無上の感奮と喜

 悦とを以て最後の一弾を射尽す迄、共同一致の防禦戦を試みたる後、静かに開城するこ

 とに決心せり。

  斯て、諸方より各個に馳せ参じたる吾等は、直に中隊に編入せられしが、8月の空は

 尚甚だ暑かりし為め、何れもカーキー色の軍服を纏いて、陸軍式の訓練を受けたり。朝

 は毎日午前4時に起き出で、灌水浴又は洗面をなしたる後、4時半に珈琲と麺麭との簡

 単なる朝食をとり、全員5時に整列して、正午迄諸種の勤務演習に従い、昼食後暫時休

 憩したるのみにて、又再び日没に至る迄演習に熱中し、以て敵手たる百練鉄の如き日本

 兵に対し十分なる戦闘能力ある軍隊を作る可く努力を怠らざりき。斯るうちに、幾日は

 事も無く暮れて、8月15日、日本の独逸に対する要求を、一種の大なる驚駭のうちに

 受領したるが、最初召集に応ずるも、戦闘に従事するが如き事は無かる可しと予期した

 りし吾        等の運命は、茲に於て全く定まりたり。それより間もなく、日本艦隊の青島封

 鎖宣言ありて、大港は連日早暁より日本軍艦の砲撃を受け初めたり。然も此島は、従来

 全くの無防備にて、唯僅少なる吾が海兵が、煙突を横倒しにしたる擬砲の放列を敷きて

 占拠せしに過ぎざりしが、同月27日に至り、早朝より例の如く砲撃を試みたる後、日

 本水雷艇は同島の周囲に驀進し来り、午前10時より10時半迄の間に於て、遂に島上

 に日章旗を樹立したり。

  更に同日午後、我が砲兵の或1中隊は、白昼大胆にも我が砲門の真近に侵入し居りし

 日本水雷艇を発見して、砲火を与えたり。斯るうちにも敵艦隊の破壊勤務(掃海作業?)

 は続行せられ、同月30日夜、灰泉角の前方に横われる暗礁を破壊せるを見たり。又、

 同日午前、日本砲艦と駆逐艦の猛撃に逢いて破壊し、我が兵卒が遺棄せし、或る小船体

 は、夜に入りて勇敢なる4名の日本水兵の為めに捕獲せられたり。9月5日、初めて日

 本海軍の飛行機、青島の上に現れて爆弾を投下せしも、何等の効果無かりき。其後、我

 等は日本の新聞に、日本飛行機の屡繰返せし高価なる青島訪問が、青島住民に大狼狽を

 来さしめ、且大に守備兵の士気を沮喪せしめたる如く記載しあるを見たるも、此は決し

 て真実に非ず。我等軍人は常に青島の外に在り、又、普通住民、小児等は市外に在りし

 も、爆弾は砲兵材料廠に於て1人の海兵の両脚を引裂きたる外、我等の同胞に損傷を与

 えず。2、3の支那人が死傷せしのみ。材料の被害も亦、極めて僅少なりき。されど、

 イルチスに於ける哨舎のみは、手酷き損害を受けたり。当時日本の飛行家は、独逸国旗

 の破片を機上より望見せしならん。

  9月上旬、愈日本陸軍上陸の報を得たるが、此の日本軍は、折柄の大雨の為め前進に

 非常の困難を感じたるものの如し。同月16日、初めて山東に於ける陸戦の端を開き、

 少数の独逸兵、約40名より成る日本騎兵斥候と衝突して是れを退却せしめたり。又、

 同日他の日本斥候は、沙子口(?)に放火して、支那人の家屋を焼棄したり。其の後、

 各所に於て小戦闘行われたるも、記述すべきものなし。唯ワーリーの前哨戦に於て、我

 が軍は最初の戦死将校を出したり。兎角するうちに、山東の各地に上陸せし日英の部隊

 は、漸く前進し来り、19日、守備地区内の緊要なる道路の咽喉部を占領せり。斯くし

 て、青島の包囲は益緊縮し来り、9月の終りに至りて、我が部隊は沙子口シュウロウチ

 ンより撃退せられ、又、浮山に在る展望台は、27日日本軍に占領せられて、守備兵6

 0名戦死し、48名は俘虜となり、1軍曹及び11名の兵は、退却して青島附近に到着

 したり。同夜、更に優勢なる日本軍の1部隊は、ツァンカオエル高地附近の我が陣地を

 突破し、翌朝、李村及びチャンツイの線にて激戦行われしが、我軍は優勢なる敵の為め

 に、張村河の後方に圧迫せられしより、軍艦S・M・S号は内湾に現れて敵の側背を猛

 射し、尚墺艦カイゼリン・エリザベート号も、翌朝に至る迄、此の戦闘に参加したり。

 28日朝より海上正面の攻撃、俄に急を加え、日本軍艦周防及び英艦トリオンプ号は、

 港外近く迫りて我が陣地を猛撃し、殊に周防は30.5珊の榴弾を以て我等を威嚇した

 り。

  10月2日、我軍の総予備隊は左翼に進出して敢然攻勢に転じ、1部隊は日本軍の陣

 地を突破したるも、他の1部隊は有力なる敵に会して撃退せられたり。爾後、激烈なる

 攻撃は日毎に日本艦隊より行われたるも、何等著しき損害を被らず。同時に我が軍は、

 敵の前進を防遏する為め、屡、大小の歩兵斥候を放って敵状を偵察すると共に、敵の工

 事を妨害したり。9月18日、水雷駆逐艦S90号は日本軍艦高千穂を襲いて、是を撃

 沈したるが、此の時の攻撃目標は高千穂に非ず英艦トリオンプなりしものにして、其の

 前日迄常にト号が同航路に出没しつつあるを認め居りしより、同夜もト号が同所の哨戒

 に任じ居るものと思いて攻撃を加えし処、ト号は其の前日、我が海岸砲の為めに激しく

 砲撃せられし結果にや、何時の間にか退却交代して高千穂が哨戒の任に当り居り、ト号

 の身代りに立ちしものならんと察せらる。S90号はそれより、青島・上海間に擱坐す

 る目的を以て敵の封鎖線を逸脱し、而して目的の如く自爆を遂げたり。乗員は悉く支那

 内地に走りて、目下南京に拘禁せられつつありとか。其の後数日の事なりき。我が軍の

 飛行機が日本軍の上を飛びし処、日本飛行機は忽ち猛烈に追躡し来りて、全青島住民の

 胆を冷させしが、日本飛行機は、我が飛行機の降下を抑制する為め、早く青島市街の上

 に達せんと思いしものにや、我が飛行機が1900米突の高空を翔りつつあるに対し、

 日本飛行機は約1600米突の高度の儘追い来りしより、我が飛行機の操縦者たる海軍

 将校ブリュウショウは、足に舵機を結着し、足にて巧に機を操りつつ銃を執りて、3度

 まで日本飛行機を狙撃せしも中らず。其のうちに彼の身も亦危険に瀕せしより、急遽青

 島の上空に帰来するや、大胆にも空中滑走を以て、殆ど直下的に下降し初め、1900

 米突の上空より、僅に4分間にて降下着陸せり。

  兎角するうちにも、我が防禦線以外の地区に於て、日本軍は漸次攻撃作業を進めつつ、

 日一日、吾等に近付き来り。其の野砲兵は、毎日陣地を変換して、我が軍の堡塁を猛射

 し、重砲も亦程無く是れに参加したり。食料の欠乏は漸く加わり来りしも、未だ吾等の

 食事には変化を来す事なく、1個1銭の卵が10銭となりしのみ。麦酒会社は、開城の

 前日なる11月6日迄製造を継続し、新しき牛乳、新しき牛酪、牛・豚肉並に其日に作

 られたる麺麭は、日々我等の口に供給せられたり。又、野菜は欠乏を感ぜしも、鑵詰は

 極めて豊富なりき。敵の海軍は、10月末日に到る迄の間に、多大の損害を我が陣地に

 与えたり。其うち、周防、石見は、実に50回に亙りて我等を射撃し、1弾は1砲門前

 5尺の地に落下して砲座を破壊したり。其後、再び周防、丹後、沖ノ島、英艦トリオン

 プは、一斉に砲撃を開始し、約270発を発射せしも、人員の負傷なく、砲及び壕内に

 吊るし2個の弾薬盒を破壊せしのみ。吾等は、此の高価なる弾丸の値に比し、損害の軽

 微なりしを喜び合いたり。

  11月に入りて、敵軍の攻撃は、海陸共に一層激甚を加え、卓越せる敵砲兵の間断な

 き砲撃の為めに、我軍の前哨抵抗線、掩蔽部、銃眼等の凡ては破砕せられ、吾等は防禦

 工事を中止し、散兵壕に隠れたる儘一歩も出ずる能わざりき。而して、此の砲弾の掩護

 の下に、日本軍は続々防禦首線近く進出するを得、且我が軍の主要妨害物を歩一歩破壊

 して、迫撃し来れり。勿論、吾等の砲兵も亦応戦に力め、野砲、重砲共に、11月7日

 の朝、敵の総突撃を受くる迄に、1弾も余さず打ち尽したり。尚、是と同時に海上方面

 よりする敵砲火も亦、陸上正面の攻撃点に集中せられたるが為め、海岸防禦の砲台も、

 陸上正面を援助するの止む無きに至れり。水道十分ならざる為め、吾等は多くの井戸を

 使用せざる能わざりき。11月3日、発電所に砲撃を受け、同時に砲弾は市街にも落下

 して、2、3の人家を破壊したり。勿論、日本軍は全攻撃戦を通じて、完備せる通報機

 関及報告集収組織に依り、多大の利益を得たる者の如く、我軍は能う限り是を制限せん

 としたるも、尚青島に在住する夥しき支那人等は、日本軍に取り満足なる諜報機関とな

 りて働きたりと思わる。11月6日夜、我中央の歩兵防禦工事は、大撃破を蒙り、防禦

 首線の前面に伏しつつ、今や総突撃に移らんと蠢動し居れる日本兵を認め得る迄に破壊

 せられたるが、果して間もなく機敏なる彼等は突撃を開始し、7日午前5時に至る迄の

 間に於て、中央なる歩兵防禦工事及びイルチス、ビスマルク諸砲台は占領せられ、日本

 兵は直に青島市街に侵入し得るに到れり。斯くして吾等は、今や防禦す可き凡ての方法

 を尽し、而も砲兵は最早や撃ち出す可き弾丸の1つをも有せざるを報告し来り、且、青

 島は事実上日本軍の掌裡に落ちたるを以て、総督は最後の白旗を掲揚す可く命令せしが、

 是れ実に11月7日午前6時24分に於ける瞬間なりき。

  嗚呼、斯くの如くにして遂に、我が美わしの青島は敵手に委ねられたり。されど、弱

 勢なる吾等の兵力と防備を以てし、而も尚、曽て我が陸軍当局者が考定せしよりも6週

 間長く防戦を持続し得たる吾等の勇敢と堅忍とは、同胞の感謝に値す可きものなりと信

 ず。何となれば、吾等は僅々3000人を越ゆる事幾何も無き弱勢を以て、少くも36

 000を下らざる敵の優勢とよく対峙し得たればなり(名古屋特信)。

 

大正4年1月21日( )東京朝日

●俘虜待遇に関する御親電

  伊太利ローマの新聞の所報によれば、我天皇陛下より羅馬法王に宛て、俘虜待遇に関

 する御親電を発せられし趣、前号路透特電に見えたるが、右に付、我社の洩れ承わる所

 を報ぜんに、初め羅馬法王は、欧洲戦乱の継続に伴い、各交戦国に於ける俘虜益多く、

 其待遇上に就ても種々の噂を生じたれば、此際、双方戦闘に堪えざる俘虜だけにても交

 換をなすを穏当なりと認め、法王より各交戦国元首に宛てて右の主旨に基きたる俘虜交

 換の儀を勧告せる電報を発したり。該電報は数日前、我宮中にも達したるやにて、畏き

 辺りにても其意を諒とせられしが、現在日本の俘虜として敵国に在る者1人もなく、随

 って交換の必要を見ざるにより、路透所報の如く、単に日本に於ける敵国俘虜が申分な

 き待遇を受け居る旨、御返電ありたる次第ならんと。

 

大正4年1月26日( )東京朝日

●官費送還独人

  支那各地に在り官費にて本国に送らるる独逸人、男29名・女49名の外、墺地利人

 3名は、マンチュリヤ号にて24日夜着、本日午前10時横浜に向け出帆せるが、9名

 の外は皆小児と女のみ中にワルデック総督の秘書及東京シーメンス商会に赴くべき婦人

 あり。何れも、一切上陸は許されず(25日長崎特電)。

●俘虜5名逃走

  熊本市細工町阿弥陀寺収容中の俘虜5名は、逃走し行方不明なるが、其中1名は上海

 にて医師を開業し居たるラベロックという者なれば、30日横浜出帆の満洲号にて俘虜

 の家族を送るとのことを知りて逃走せしものならんと(熊本特電)。

 

大正4年1月27日( )東京朝日

●執拗い日本憎悪

 ▽混血独人の追放

  25日横浜に入港せる郵船鹿島丸にて、独逸国を追放され仏国馬耳塞を経過し来れる

 混血独人カール橋爪氏というあり。氏は長崎の生れにして、父は同市に於て商業を営め

 る独逸人、又、母は出島生れの日本人なるが、今より10年前、機械学研究の為め独逸

 ミュンヘンに留学中、墺洪国人ベラなる婦人と結婚し、夫婦の間に一子をさえ挙げたる

 が、昨年8月、日独国交断絶し、愈開戦となりし際も、父は独逸人なる上、妻も亦独逸

 の同盟国人たる関係上、独国に残留するも差支なからんと思惟し、敢て帰国せざりし処、

 独逸官憲は、日本人の血を享けし同人を容赦することなく、直に捕えて拘禁したるを、

 米国大使の斡旋に依り漸く釈放され仏国に出でて帰朝したるものなりという。此一例、

 如何に独逸国人が日本に向って憎悪の念強きかを証するに足るべし。

●化の皮を剥れた

 ▽新俘虜等来る

  原田汽船会社の寧静丸は、159名の新旧俘虜を乗せて25日午前9時、青島より門

 司に寄港し、同午後4時大阪に向け解纜せり。記者は俘虜を船中に見たるが、服装年齢

 等も雑多にして、海軍服を着けたる者、私服を着けし者等混じ居りしが、私服の者は即

 ち、今回化の皮を剥れたる新俘虜にて、其数86名あり。一行中の曹長シスペルは、横

 浜121番に住み商業に従事せし由、日本語に巧なり。青島出発の際、彼等の家族、哀

 別離苦、他所の見る目も憐にて、彼等は互に悲気なる歌を唄い、手巾、帽子を振り、船

 影の波間に隠れ行く迄別れを惜みたり(門司特電)。

●逃走俘虜捕る

  既報の逃走俘虜は、熊本県飽託郡松尾村近津(百貫近傍)有明海岸に繋留しある漁船

 を盗み、之に乗込み島原に渡航せんとしつつある逮捕せるが、第二三連隊の営倉に入れ

 軍法会議に廻されたりと(熊本特電)。

 

大正4年1月28日( )東京朝日

●新俘虜の大阪入り

  新に青島より送附の俘虜を載せた寧静丸は、予定の時刻よりも少し早く、27日朝の

 9時、大阪築港に入港、大桟橋の南側に繋船した。木津川俘虜収容所長菅沼中佐以下は

 115名の健康俘虜を、大阪衛戍病院の篠崎軍医以下は44名の傷病俘虜を、受取の為

 同船に来り、青島から護送の園田歩兵中尉と夫々授受の手続を済した。

  化て居た俘虜だと云うので、夥しい見物人が桟橋に押掛て、思い思いに評し合って居

 る。俘虜の服装は区々になって居た。化て居たのは、悉くモルトケ仮バラックに入れて、

 形体を整える為、皆平服を脱して、バラック内に残って居た軍服を着せて見たが、例の

 麦酒樽の様な便腹をした大きい先生が多く、折角軍服を着けても釦が掛らなかったり、

 脇の下が綻びたりして、却て見苦しいので、其様なのは身に合った平服を着せた。荷物

 は、何れも可なり沢山持って居た。中には大トランクの3つも4つも持って居たのもあ

 るけれども、雑嚢1つと云う惨めなのもあった。

  汽船の整理が済む迄、狭い甲板の中に立って港内の景色を眺めたりして居たが、ポケ

 ットから堅パンを出して食ったり、乏しい煙草を分けて喫んだりして居た。商人が多い

 だけに、何れも柔順しい。検挙の時に様々は喜劇・悲劇が演ぜられたことは、青島戦報

 や門司電報で既に報ぜられたが、攻囲軍司令部に居て始終通訳をして居た山田大尉の如

 きは、一番克く在島の独人に知られて居た。それが、現に検挙の前夜迄はプリンツ・ハ

 インリッヒホテルで、多くの独人を相手に話したり飲んだりして居た其の翌日に、検挙

 されてモルトケバラックで審問開始となると、誰も彼も、山田大尉、山田大尉と、懐し

 そうに呼んで、昨夜は失礼、大変なことになりました、此場は是非許して貰うようにし

 て下さい、斯うした妻がある、子がある、財産がある、と口々に口説き立てるには、大

 尉も大分困ったそうだ。一行中に、リスフェルドと云うのが居る。横浜に居て日本語が

 出来ると云うので、一行中の上官ハンス中佐の通訳兼副官と云ったような役廻りをして

 居たと聞いたので、感想を聞いて見たが、それには答えないで、是から自分逹の収容さ

 れる場所は風景が好いか、建物は新しいか、お寺か、暖炉があるか、先着の同胞は何程

 居るか、と如何にも気掛りそうに尋ねて居た。

  ハンス中佐は、陥落の際ビスマルク砲台上に白旗を掲げて置いて、総督府の横にある

 自宅に帰って平服に着代え、日本軍が疾風の如き勢いで市内に突入して来るのを、垣の

 内から悠悠見て居たそうだ。左の頬に古い刀痕のある、男らしい男である。11時、将

 校3名と兵卒41名の傷病者は、桟橋に乗り入れた2輌の電車に分乗して、島町の衛戍

 病院に入った。電車が動き出すと、又、船の上に居る健康者は、左舷に並んで帽子を振

 り、手を振り、声を掛けて別れを告げた。将校には随分な重傷者が居た。それが、日本

 の兵に抱かれて船から降りて電車に乗るのを見て、見物人の中には、あれも祖国の為に

 戦った豪者だと、憐みの声を放って居たのがあった。11時40分、健康者の内、将校

 はランチ、他は艀に乗せられて木津川収容所に入った(大阪電話)。

●俘虜の独帝誕辰祝賀

  27日は独帝誕生の日とて、福岡俘虜収容所にては午前10時半より祝賀式を行い、

 ワルデック総督以下幕僚参列、国歌「ラインの守り」其他数曲を合唱し、ワ総督の挨拶

 あり。夜に入りて祝杯を挙げ、収容所よりは将校に対し若干の麦酒を贈り、将校よりは、

 お頭付の魚の意味にて鯡の請求ありしも、鯡なき為め鰛を与えたるに、満足の意を表し

 たり。尚、日本、支那、麻尼拉等の在留独人より寄贈の金員は、1円宛全員に分配され

 たり。独逸海相の愛嬢なる俘虜ザルデン海軍大尉の夫人は、同日洲崎収容所にて夫に面

 会し、午後4時より熊本に向いコップ夫人其他を訪問の筈なり(福岡特電)。

 

大正4年1月29日( )東京朝日

●青島避難独人暴言 27日路透社桑港発

  青島の独逸避難民は桑港に到着したるが、彼等は、日本軍隊が掠奪を行い暴行ありし

 由を述べ、婦人、小児に其捕虜と為れる父兄に面会を許さざりしと語れり。されど、曽

 て東京に教鞭を執り青島にて捕えられたるベルリナー氏の義姉なるシーレンフライド嬢

 は、ベルリナー氏が日本軍の為め鄭重なる待遇を受けたり、と称せり。避難民の謂う所

 は、一般に信ぜられず。

●俘虜就役協議

  俘虜情報局員たる立花陸軍省参事官は、28日、江木内閣書記官長を永田町首相官邸

 に訪問、各地に収容せる独逸俘虜取締並に労役従事に関し協議せり。

●勇侠なる日本兵よ

 ▽独逸婦人の感嘆 =27日紐育特派員発=

  山東省より避難せる独逸婦人及小児82名、本国へ帰還の途次、紐育に到着したるが、

 何れも辞を尽して日本軍隊の勇侠なるを賞揚し、1人の婦人は「日本の士卒は最も勇侠

 にして、我等婦人を遇するに礼儀正しく、思い遣り深かりし。青島陥落するや、日本軍

 隊は、先ず我等の為めに多大の米、肉及び麺麭を注文して、数日間の食物なく過ごし居

 たる我等に送り来れり」と語れり。

 

大正4年1月30日( )東京朝日

●俘虜4千7百

  29日、俘虜情報局の調査に拠れば、目下内地に収容せる独逸の俘虜は、将校以下4

 620人にして、青島に於て此程検挙し収容せるもの将校2名、下士卒約100名なる

 が、此内英国政府の要請に依り、来る10日香港に送らるるは、前記将校2名と下士卒

 75名なりと。内地各収容所の現在数、左の如し。

         地名  将校・同相当官  准士官・下士卒  合  計

        東 京      15      299    314

        静 岡       7      100    107

        名古屋      12      299    309

        大 阪      28      417    445

        姫 路       8      315    323

        徳 島       5      201    206

        丸 亀       7      317    324

        松 山      15      400    415

        大 分      13      128    141

        福 岡      35      814    849

        久留米      29      507    536

        熊 本      45      606    651

        合 計     219     4,401  4,620

 

大正4年2月7日( )東京朝日

●俘虜救恤金送附

 ▽独逸海軍省より

  此程、独逸海軍省より我俘虜情報局に宛て、目下我国に収容しある青島俘虜救恤金と

 して7万5千馬克(3万7千8百円)を送附し来れるが、6日、其配分方を、左記標準

 に依りて給与する事に決定したり。尚、傷病者には、右の外に特別手当を給せり。但し、

 士官以上は日本将校と同一の俸給を受け居れば、之を支給せずと。

        △准士官 2円(月額) △下士 1円50銭(同) △兵卒 1円20銭(同)

 

大正4年2月13日( )東京朝日

●俘虜為替取扱開始

  今回独逸俘虜に対し、和蘭国を仲介して為替の取扱を開始することとなり、12日、

 逓信官署に対し其取扱方を公達せられたるが、在独本邦人に対する為替も、瑞西国の仲

 介に依り取扱うこととなり居れり。

 

大正4年2月17日( )東京朝日

●独探行為の一班

 ▽5外人の性行

  既記横浜より退去を命ぜられたる5外人の性行、左の如し。

            ボーデン 独和銀行の支配人ボーデンは、日独開戦後も依然独逸と気脈を通じ居たる

のみならず、曩に南洋より独逸俘虜廻送されし際も、此等と密に交通して、独逸本国に

有利なる通信を為したる形跡あり。

            クンツェ は一昨年8月、横浜に来り山手町ブラッフホテルに宿泊し、爾来上海の徳

文社と独逸なるキョルニッシェ新聞との通信を為し、昨年春頃よりヘラルド社の中にあ

る日独郵報に雇われたるが、ヘラルド主筆オストワルドが退去を命ぜられ、同紙も日独

郵報も共に廃刊となりたれば、自然衣食の道にも窮し、根岸鷺山の日本家屋(家賃7円)

に独身暮らしを為し居たり。昨今、上海の独紙に通信して、独逸の為有利なる報道を為

しつつありたり。此奴は嘗て、仙台第二高等学校の教師を為し居たることあり、日本語

と日本字に巧にて、又同人が嚮に伯林の高等学校に教鞭を執りし当時、日本の女を娶り、

今尚伯林に残しありとの噂あり。

            アイエルベルヒ は、横浜キリンビールの醸造技師長なるが、明治39年以来勤続し

て今日に至りしものにて、日露戦争当時も露探の嫌疑を受けたる男なり。昨年9月末、

本国独逸に行くと称して、取敢ず米国に向って出発せしも、戦乱のため目的を達し得ず

して、去月中旬帰り来りしが、其行動、独探の臭味確実なりしと。

            スラーク は元、青島に於ける運送船の技師長を勤め、昨年8月中、横浜山手のオス

ボンハウスに投宿し、昼間殊に人目に触れる時間内には外出せざるため、附近の者等は

常に、スラークと同人の愛犬クロとは、絶えて谷戸橋を渡らず、との噂立ちたる程なり

しが、常に日英離間策の通信を為し、挙動頗る不審なりき。

            ポール は英国人なるも、元ヘラルドの主筆オストワルドと提携し居たるものにて、

オストワルドの退去の結果、ヘラルド廃刊の悲運に立至りしを、日本官憲の不法命令と

称し、本国に向て盛に日英離間策を講じつつありしという。

 

大正4年2月21日( )東京朝日

●俘虜の手紙を教科書に

 ▽却々名文家が居る

  東京、久留米を初め10数箇所の収容所に収容されて居るワルデック、クーロー以下

 の俘虜に、階級に応じ我陸海軍人と同様の月俸を給せられて居るばかりでなく、用意の

 懐金と、故国から瑞西を経ての送金とによって、頗る裕福な生活をやって居る。名は俘

 虜であっても、実は賓客と異らない。恁う生活が安全に保証されて居る渠等は、更に、

 故国に於ける骨肉と安否の消息を通ずることさえ許されたので、愈満足して、便船毎に

 各自幾通かの手紙を認めて居る。是等の手紙は一々検閲を済ませた上、瑞西ゼネヴァを

 経て故国に送らるる手続になって居るのである。件の手紙の中、上長官以上のものは概

 して名文揃いであるが、殊にワルデック総督のものは放胆、クーロー中佐のものは流麗

 で、両人の性格を遺憾なく示して居ると云われる。されば、某師団語学教師などは、ク

 ーロー中佐の手紙を印刷に付し、模範的独逸文として科外教科書に充てて居るそうであ

 る。渠等消息に対する返簡も、近頃便船毎に情報局に到着するに到ったが、何れも申合

 せたように、父兄からの消息に添えて、母姉から「体を丈夫にしてくれ、金が要るなら

 送って上げる」と、なおなお書があるのは、東も西も異ならぬ人情と、検閲係は同情の

 感に打たれるそうだ。

 

大正4年2月22日( )東京朝日

●拘禁せられし独逸の6巨商

        =21日青島特派員発=

  青島開城の初め、ワルデックは、大商人が俘虜となり、為めに独支貿易を阻害せんこ

 とを恐れ、一流の商人は皆軍務に服せずと称し居りしも、調査の結果、何れも籠城し我

 軍に敵せること判明せるに依り、19日軍司令部は、疾風迅雷の如く大商店を捜査し、

 輸出入貿易商デイドリヒゼン支配人テンステル、貿易商シワルツコッフ支配人シュワッ

 フ、漢米ライン支配人ニコライ、麦稈、真田其他の大貿易商に兼ねて東洋汽船代理店た

 るザイテルベラ支配人ザイデル、麦稈其他の貿易商にて神戸・横浜にも支店あるノイン

 クラ支配人(10年余も日本に居た人)、貿易商にて北独逸ロイド代理店メルチアス支

 配人ライメルスの6名に対し、之を俘虜として収容するを宣告し、直にモルトケ兵営に

 護送せり。是迄検挙頻に行われしも、最早露顕せざるべしと信じ居たる者共なれば、何

 れも恐愕措く能わざりしと。是等は皆、青島第一流の紳士、第一流の貿易商なるを以て、

 是等の収容に依り、青島に於ける独逸の貿易、自然的に覆れり。

●アルサス気質

 ▽他の俘虜と争論

  当市元柳町に収容中の独逸俘虜中に、アルサス、ローレン出身の者50余名あり、彼

 等は平生、他の俘虜と仲悪く、殊に俘虜となりてより互に仏語にて談笑し居れば、非常

 に他の俘虜の感情を害し、遂に18日、収容所内にて争論を始め、入り乱れて格闘し、

 収容所員の手にて漸く取鎮めたるが、尚取調中なりと(福岡特電)。

●芸人と俘虜と

 ▽日本丸の乗客

  桑博出演の桜踊美人連は、21日日本丸にて横浜を出発の噂ありしも、一行は出帆ま

 で其姿を見せざりき。同船一等船客中には、浪花節の妻川小勇あり、同人は加州興業会

 社の招聘に依り渡米するものにて、約半箇年、彼地各州を巡業を為す由。又、今回英国

 に留学を命ぜられし海軍機関中佐大内愛七、同少佐安東良の両氏あり。此外、横浜山手

 町オスボンハウスに滞宿中、挙動不審にて退去を命ぜられし独人スラーブも前夜中乗込

 み、21日朝乗船せる南洋独逸非戦闘員俘虜カール・ウヰルヘルム・ショップと共に、

 旅情を慰めつつ米国に向いたり。御用船解役後、第2次の米国航路に就ける同船は、貨

 客満載にて頗る成績優良なりき。

 

大正4年2月26日( )東京朝日

●姫路俘虜逃走を企つ

 ▽神戸海上にて捕わる

  24日午後3時頃、神戸水上署の巡査が、同港碇泊の太平洋汽船モンゴリア号を点検

 しての帰途、同じく陸地に向け、3人の外人を乗せたる艀船に出会いたれば、直に船を

 近づけ臨検したるに、墺国人アレッシ(24)、同ヤーン(22)、同クップスキー(22)という

 姫路収容の俘虜にて、23日午前9時頃、収容所監視の目を偸みて、大胆にも逃亡を企

 て、徒歩にて神戸に来り、24日午後1時頃、港内碇泊のモンゴリア号に乗込まんとせ

 しも、乗船切符を有せざるため乗船を拒まれ、己むなく陸地に帰らんとしたる所を、水

 上署の手に捕われたるなり。アレッシ、ヤーンの2人は懐中無一文にて、唯クップスキ

 ーは、僅に1円50銭を所持し居たり。水上署にては、直に姫路収容所に通知し、25

 日同収容所に引渡す筈なり(神戸電話)。

 

大正4年2月27日( )東京朝日

俘虜を記念碑工事に使用

 ▽元寇防塁の遺跡

  地方有志発起に係る筑前絲島郡今津に於ける元寇防塁遺跡記念碑建設は、近日起工の

 筈なるが、之が工事に関し、福岡収容中の俘虜を使用する事に就き、愈、陸軍省の許可

 ありたれば、委細案を具え、改めて申請の筈なるが、毎日150名位の俘虜を北筑軌道

 にて約3里半の今津に運搬し、其賃金を1日10銭内外ならんと。元寇遺跡に独逸俘虜

 を使役するは一奇と云うべし。尚、右記念碑は伊東忠太工学博士が、無報酬にて設計を

 為すべしと(福岡特電)。

 

大正4年4月20日( )東京朝日

●俘虜のお花見

 ▽非難の声高し

  久留米俘虜収容所の俘虜将校20余名が、数日前三井郡草野町発心山に花見に行き、

 飲食店にて日本酒を呷り、見物人と日本酒の盃を交換し、且、道すがら地形、人物等を

 撮影したるに対し、非難攻撃の声高まり、九州の3収容所中、最も不仕鱈なりとて攻撃

 に堪えず。18日、樫村所長は、各新聞記者を招き弁解を新聞紙上に掲載せるより、地

 方人は益憤慨し居れり(久留米特電)。

 

大正4年6月3日( )東京朝日

●墺国俘虜と為替

  武富逓相は2日、告示第402号を以て、自今瑞西郵政庁の媒介に依り、在本邦墺地

 利人俘虜が其本国に宛て差出す通常郵便為替の取扱を開始す、其の為め為替金額を表示

 すべき代幣為替1口の最高額は1000法なる旨、公示せり。

 

大正4年6月16日( )東京朝日

●俘虜恤兵月額

  曩に本邦収容の独墺俘虜に対し、クルップ会社より7万2千馬克を寄贈せしを始めと

 し、煙草、書籍等慰問品山積の状態なるが、今回シーメンス・シュッケルト会社及実業

 家、工業家等相諮り、俘虜として日本にある限り、毎月1万2千円宛送附すべき旨、申

 越したりと。

 

大正4年7月7日( )東京朝日

●逃走俘虜判決

  去月18日夜、木津川の大阪俘虜収容所を逃走し、翌夜築港にて取押えられ堀川分監

 に収監中の独逸俘虜海軍二等砲兵フリードリッヒ・ポスピッヒ(22)、同海軍野砲兵二等

 卒ヘルマン・ブェルシュケ(21)、海軍二等砲兵ルードウッヒ・リープマン(21)の3名は、

 5日第四師管軍法会議にて審理の末、ピッヒは首魁と認められ禁錮2年半、ブェルシュ

 ケ、リープマンの2人は各2年の宣告を受け、護送馬車にて大阪監獄に送らる。若し刑

 期中戦争終了し、俘虜を独逸に引渡す事となりたる際は、其儘釈放する筈なり(大阪電

 話)。

 

大正4年7月23日( )東京朝日

●俘虜の感激

 ▽御礼の言上を願う

  名古屋俘虜収容所にては21日、俘虜一同を集め、過般、俘虜の戦傷者に対し皇后陛

 下より義眼、義手足を御下賜の旨を伝えたる所、一同大に感激し、収容者中の上長官た

 る海兵大隊長ゲッシンゲル中佐の名を以て御礼状を皇后陛下に奉りたしとの願出ありた

 るも、そは我国には、普通の臣下より文書を奉進すべき手続無きより、陸軍大臣を経て

 其旨を言上することとしたり。

 

大正4年8月27日( )東京朝日

●収容換の俘虜

  来月上旬、東京及福岡俘虜収容所より習志野原俘虜収容所に収容換さるべき独逸将

 校・下士卒は、総計409人にて、其内訳左の如し。

             将 校  准士官 下 士  兵 卒  合 計

        東 京  15   16  53  230  314

        福 岡        2  37   56   95

        各 計  15   18  90  286  409

 

大正4年9月4日( )東京朝日

●俘虜の製作品展覧会

  久留米俘虜収容所の俘虜は、2日午後2時より5時半まで、所内に於て製作品展覧会

 を催したり。彼等は日常生活の単調に倦みたると、一は所持金の無き俘虜には製作品を

 売りて小遣銭を得んが為に、思い立ちたるものにして、会場は所内北側空地に形許りの

 緑門を設け、入場者(全部俘虜)より入場料を徴したるが、此入場料は俘虜等の慈善的

 費用に充つることとなりたり。出品は絵画、彫刻、ヴァイオリン、椅子其他10数点に

 して、ヴァイオリンは頗る巧に出来居たり。入場者は俘虜に限られたるも、何分130

 0余名の俘虜のこととて、狭き会場は大賑いを呈したり(久留米特電)。

 

大正4年9月7日( )東京朝日

●浅草本願寺より習志野へ

 ▽独逸俘虜の嬉し顔/トランプとビール

  青島戦敗軍の将卒318名は、昨年11月22日以来浅草本願寺内に収容され居るも

 のの、午前・午後各1時間宛、寺の構内にてフットボールを遣らさるる外は、一切外出

 を許されなかったから、朝5時半の起床より夜8時半の就床迄、ビールを飲み、トラン

 プを弄ぶ外は、多くの慰安も無いとて、彼等一同は「退屈で遣り切れぬ」と日課の様に

 口吟んだのが、愈7日には千葉県習志野練兵場高津哨舎の隣接したバラック式新築平家

 建の家屋に転居すると云うのだから、俘虜一同の喜びは非常なもので、雀躍りしつつ出

 発を楽しんで居る。全員318名中の4名は、病気故に衛戍病院に入院中であるが、是

 以外は孰れも壮健であると共に、彼等は口を揃えて「故国が敗軍とあらば、吾々も左様

 に呑気にしては居られんが、何! 形勢甚だ有望だから、安心して終戦の日を待って居

 る」と称し、悲観論者は1人も居らぬ。

  7日には、314名の俘虜は隊伍を整え本願寺を発し、徒歩にて市中を練って両国駅

 に、是より買切の列車に乗じ、当方より西郷中佐、原田中佐及び羽生中尉が附添いの上

 出発す可く、津田沼駅で下車した上、再び徒歩にて1里を歩み、習志野に向うのである。

 荷物は、特に大きなのは昨日より送り出し、小荷物は各自に携帯せしめる筈である。

●俘虜頭株の取調

 ▽各収容所より召喚/140万円問題

  今回、河内旅団長審問主任となり、青島軍司令部参謀香椎中佐、陸軍大学校教官軍務 

 局員上田少佐、青島攻囲軍国際法顧問たりし兵頭三郎氏等審問委員となり、3日、ワル

 デックの参謀長ザックサー少佐以下、久留米、姫路、大阪の各収容所に在りし要路独逸

 将校12名を福岡に召集し、厳重取調中なるが、審問の重なる目的は、青島落城間際に

 於いて、ワルデック総督が軍用公金140万円を私有金に書替え、各自に分配占有せし

 ことに関連せりと伝えらる。幕僚将校の外、会計事務に携わりしものは、兵卒と雖も取

 調を受けつつあり(福岡特電)。

●俘虜少尉3名護送

  久留米俘虜収容所の俘虜少尉ベースター、シュケイデイネ、フォンライス3名は、去

 る3日朝、福岡に護送されたり。是は、福岡に於ける俘虜ワルデック総督等の公金隠匿

 事件関係者として取調を受くるに至れる為めなり。同収容所の他の俘虜は、未だ審問の

 始まれるを知らず、右3名が夜半、何処へ何の為めに連行かれしやを不思議に感じ居れ

 り。同所にては、俘虜将校90名ある上、何時取調を受くるやも計り難ければとて夫々

 注意を為し居れり(久留米特電)。

 

大正4年9月8日( )東京朝日

●俘虜移送

 ▽300余名の一隊/習志野へ出発す

  昨年11月22日、浅草本願寺に収容されてより280余日を、外出も許されず退屈

 に暮らしていた青島の俘虜314名は、既記の如く、昨7日午前5時20分、両国駅発

 臨時列車で、習志野の新収容所に送られた。

  此日、一同は勇み立ちて、午前2時と云う真夜中に起床して、前夜から与えられた弁

 当や日用品抔を雑嚢に収め、身支度に取蒐りながら「習志野は新築だ」「蚤が居ない」

 など語り合って大喜び、中には余りの嬉しさに一睡も為ず、或は靴穿の儘寝込んだ者も

 あったと云う。応て3時を報ずるや、クウロウ中佐以下カーキ色の詰襟や水兵服を着け、

 雑嚢、風呂敷包等を携えた頗る珍妙な一隊は、西郷中佐、羽生中尉等に引率され、憲兵

 3名を先頭とし、外8名の憲兵、21名の衛兵に衛られて、本願寺表門を出で、左りに

 徒歩で駒形町から厩橋、外手町、亀澤町と、電車線路に沿うて、3時50分両国駅に到

 着するや、直ぐ様別仕立の列車に乗込み、さも愉快そうに談笑して居たが、定刻5時2

 0分と云うに、汽笛一声、汽車は津田沼に向け出発した。警視庁では万一を慮かり、所

 轄署に命じて両国駅及沿道両側に正服巡査を疎に配置して警戒させて居たが、出発が予

 想外に早かった為め、流石物見高い東京人も、出し抜かれた物か、殆ど見物人さえ無か

 った。

  記者は、更に逆戻りして出発後の本願寺を訪えば、吉井軍曹は10数名の兵卒を督励

 して、掃除やら跡片付けに忙殺されて居たが、9日には愈全部本願寺へ引渡しを了する

 予定との事である。

 ▲習志野に到着/一同大満足

  浅草本願寺より移送の俘虜314名は、7日午前6時12分津田沼着、降車し隊伍を

 整え、1里余徒歩にて、同7時40分習志野原練兵場高津廠舎に隣接したる新築収容所

 に到着し、俘虜将校は正門右方の将校室に、準士官以下兵卒中の欧露派遣隊は1号室、

 水兵は2号室、海軍砲兵中隊は3号室に、4号室の半は下士室、半は講堂に充て、直に

 収容済となり、東京より護送し来りたる衛兵は、佐倉歩兵第五七連隊より派遣されたる

 衛兵と交代を為し帰京し、今後の衛兵は佐倉連隊が1週間交代にて司令以下32名にて

 行う事となれり。目下の衛兵司令官は、同連隊歩兵中尉船橋武男氏なり。

  俘虜一行は、能く規律を守り愉快気に津田沼町を離れ、同町字大久保の部落に到るや、

 畑一面に開けたる景色を欣び、先頭の俘虜兵卒は軍歌の合唱を初めたり。クーロー中佐

 は西郷中佐と並び、始終何事か談笑し、一行が幕張町実籾地先に差掛りたる時、路傍に

 5歳位の児童が、玩具の軍帽と同じ洋刀を佩し居るを見て、剛健なる小日本兵よ、と打

 ち微笑めり。

  俘虜等は到着後、収容所の新築清潔なるを見て大に喜び、収容所に入るや直に運動場

 に飛出し、鍬を手にし地均しを為したる者もあり。

  収容所は総坪数1万2千坪、建坪1千3百坪、経費4万5千円にて、内容は、煉瓦又

 は「タタキ」にし、医務室、厨房及浴室2、洗面所2、酒保1、厠2、物置場其他孰も

 完備し、殊に用水及飲料水は、東京の水道と些の異りなく、鉄管にて四方に通じ居れり。

 又、周囲には鉄条網を二重に張り、堅固なるものなり。正門附近には千葉県警察部に於

 て巡査駐在所を設くることとなり、目下建築及電話の架設に努め居れり。

  俘虜一同は、本願寺に収容中、郊外散歩一切厳禁され居たるも、他の収容所に在る俘

 虜が海水浴及散歩を為したりと通信し来りたるより、内心不審に思い居たる模様なるが、

 今後引率して海水浴又は散歩を許すかは目下の処未定にて、衛戍司令官永沼陸軍少尉が

 陸軍省幹部と協議の上ならでは決定せず。

  尚、近く福岡俘虜収容所より約100名、習志野収容所に移送さるる筈なり(千葉電

 話)。

        写真:独逸俘虜の移転 昨日払暁、両国駅発臨時列車にて習志野へ向う。

 

大正4年9月11日( )東京朝日

●習志野俘虜近状

  習志野俘虜収容所内に於ける俘虜の近況を聞くに、本願寺は狭く、運動出来ず、加う

 るに毎日見物の弥次連押寄せ閉口の態なりしが、習志野は之れに反し、広大なる運動場

 より、且見物人尠きより、大に喜び、起床後直に運動場に飛出し、東京より携え来りた

 るフットボールの遊戯を為し、又、音楽に趣味を有せる連中は、木片、竹、其他の天然

 植物にて楽器を造り、毎日音楽の稽古を為し、無聊を慰め居れり。西郷中佐以下係員の

 最も苦心せるは、俘虜が性慾の衝動に堪え得ず、逃走して目的を達せんと図る者出でざ

 るやの一事なり。幸いにして昨年11月、本願寺に収容してより、未だ1人の逃走者も

 出さずと雖も、不断の注意を払い居れり。千葉署よりは山下警部補以下巡査10名、正

 門附近の巡査駐在所詰となり、劣情を挑発するが如き服装を為せる女に対しては、附近

 に立寄る事を絶対に禁じ居れり。

 

大正4年9月12日( )東京朝日

  7日、大阪衛戍病院で死亡した独逸俘虜青島第三海軍大隊歩兵軍曹ヘルマン・ゴル(3

 0年)の死体は、在阪俘虜一同の願出により、8日午後、牧田衛戍病院長の執刀で解剖

 に附し、9日午後2時過から真田山の陸軍墓地に埋葬した。

                        写真:大阪で死んだ俘虜の葬式

 

大正4年9月15日( )東京朝日

●移送俘虜通過

  福岡収容所の俘虜、准士官・下士卒93名は、森山歩兵中尉外9名の兵士に護送され、

 習志野に編入さるべく、13日朝、福岡より門司に着し、同午後1時15分下関発列車

 にて出発せり(門司電話)。

●俘虜取締旅費

  習志野に於ける俘虜取締の為め配置せられたる巡査には、左の区別に依り宿料並に月

 額旅費を支給する事となり、昨14日訓令第28号に依り布令せられたるが、本令は直

 に施行せらるべく、支給の方法は、明治30年12月発布せられたる千葉訓令第101

 号「警部補巡査受持区内巡回宿泊料月額支給規則」並に明治43年4月県令第38号「警

 部補巡査給与規則」を準用する由。

                          1 宿料   1箇月2円

                          2 月額旅費 巡査部長6円、巡査4円50銭

  同時に、千葉警察署勤務の警部補にして、千葉町より俘虜収容所所在町村への出張に

 対する旅費は、単に宿泊料30銭を支給し、鉄道賃、車馬賃及日当を支給せざる事、及

 俘虜取締の為め配置せられたる国庫支弁巡査の給与に関しては、特に定められたるもの

 の外、総て県費支弁の巡査の給与に関する規定を準用する旨、布令せられたり。

 

大正4年10月4日( )東京朝日

●俘虜4名脱柵

 ▽1名踪跡不明

  久留米俘虜収容所の俘虜曹長ユーゴータウヂン、上等兵ヘルマン・ツォルナン、同ハ

 インリッヒ・アール、兵卒ビールロントの4名は、2日夜10時、軍服の儘、脱柵して

 遁走せり。内、上等兵以下3名は、佐賀県下東尾分署の手にて取押えたるが、曹長の踪

 跡は不明なり(久留米特電)。

 

大正4年10月7日( )東京朝日

●俘虜不穏

 ▽着剣の兵士100名、収容所に繰込む

  久留米収容所の俘虜兵卒数百名は、4日夜9時、点呼の際点呼に応ぜず、各室とも軍

 歌を高唱し、係官の之を制するも聞入れず、俘虜将校をして静止せしめんとしたるも、

 是亦応ぜず。形勢愈不穏なるより、真崎所長は決心する所あり。衛戍司令官の指揮を仰

 ぎ、歩兵第四八連隊より約100名の兵士に出動を求め、兵士は銃に着剣し実弾を装填

 して、物々しく収容所に繰込み、不穏の挙動あらば武力に拠り鎮撫せしめんとしたるよ

 り、俘虜等は漸く鎮静したり。原因は、其日真崎所長が俘虜に対し、今後取締を厳重に

 すべしと命令し、衛兵が1俘虜(兵卒)の命令を肯かざりしを以て、之を強く責めたれ

 ば、彼等は忽ち一致して不穏の挙動に出んとしたるものなりと。

  因に、去る2日夜逃走したる4名の俘虜中、3名は逮捕せられ、残り1名海軍副曹長

 フーゴーツウジンのみ行方不明の所、5日朝、収容所より約10町許りの騎兵隊に到り、

 救いを求めたる為、直に収容所に入れられたるが、同人は頻に謝罪し居れり。門司に行

 く積りにて、鳥栖駅迄行く途中、溝の中に落ち泥塗れとなり、翌3日朝には田代駅附近

 の山に入りて、鉄道線路を辿り、博多に到り見物の上、箱崎に出で多々良川の鉄橋迄到

 りしが、所詮逃げ遂げることむつかしと思い、夫より引返したるものなりと。尚、取調

 の上、軍法会議に附せらるる筈(久留米特電)。

 

大正4年11月23日( )東京朝日

●福岡収容の俘虜5名逃走す

 ▽所長等引責辞職

  福岡俘虜収容所の俘虜陸軍少佐ザクセー、中尉ケンペー、中尉エンクステルン、海軍

 中尉ストレーラ、少尉モットデーの5名が、10日より20日の午後迄の間に、個々別々

 に逃走したること、20日午後に至り漸く発見し、捜査中の所、21日朝、朝鮮・京城

 にてモットデーに酷似せる者を逮捕せし旨、総督府より福岡県警察部に打電あり。其申

 立に依れば、同人はフランク・ダブル・ミラーと称し、去15日カナヂアン丸にて長崎

 に上陸、3日間滞在後天津に向う途中なりと云えり。依りて長崎県に照会せしが、去る

 事実なし。然るに20日午前2時、背広服を着し、博多駅より門司に向いし1外人あり、

 其容貌モットデーに酷似せるようなれば、総督府にて取調の結果、彼等の逃走が共謀な

 るや単独なるや、其他の模様判明すべし。尚、本事件に就き、久山俘虜収容所長以下は、

 引責辞表を提出せり(福岡特電)。

▲同別報

  脱走独逸俘虜嫌疑者は、厳重取調中なるが、絶対に口を緘みて何事も語らざるも、同

 人の着せる衣服には、明かに独逸将校の肩章をむしり取りたる形跡あり。其筋にては、

 逃走俘虜に相違なき見込にて、福岡収容所に照会し、同所より鈴木少尉来京し、同人の

 首実検を為す筈(22日京城特派員発)。

▲逃走の径路、巧妙を極む

  巧に当地警察を欺き、湖南丸にて天津へ廻るべき予定を、秒時の間に変更し、連絡船

 に乗込み、20日午前10時10分釜山に向い、ミーラーと仮名せし贋米人あり、其際

 彼が仮名を認めて警官に渡せる名刺の筆跡が、福岡収容所より来れる我が将校の鑑定に

 て、逃走俘虜に相違なきこと判明し、早速釜山憲兵隊に取押え方を依頼したり。彼が、

 20日午前10時10分下関より乗船せる間際には、朝鮮13道の警務を監視せる警務

 総長立花小一郎中将あり、又向井少将あり。外に船内警戒として、内地及朝鮮の和服巡

 査各1名乗組み居たるも、彼を怪しき奴なりとは少しも気付かず、彼は下甲板の1等6

 号室に在り、出でてはサルンに掲げたる朝鮮・満洲・西伯利亜交通地図を見て、何か頻

 に研究するものの如く、斯くて夜10時釜山に上陸したるが、彼は直に急行列車に乗り

 て車室を閉したるが、夜11時頃、取押え方依頼の電報に接して憲兵乗車したるも、彼

 は扉を堅く内より閉ざして開かれざるより、京城迄同車して取押えたり。何れ、近日内

 地へ護送せらるべし(下関特電)。

 

大正4年11月24日( )東京朝日

●俘虜自白

 ▽福岡へ護送

  京城にて逮捕されたる俘虜将校は、飽く迄米国人なりと詐称し居たるも、取調厳重の

 為め、遂に自白したり。彼は係官に対し豪語して曰く、戦争は今後尚3年間継続すべし、

 独逸は本年埃及を略し、明年莫斯科を、明後年仏国を、其翌年露都を陥落すべき事は、

 独逸将校の総てが確信する所にして、予は此3年間、空しく俘虜たるに忍びず。加うる

 に、北京には最愛の妻子あれば、遂に逃走を企てしなりと。尚、彼は涙を流して曰く、

 曩に米人と称せしは独逸軍人の名誉を穢すものなれば、取消され度しと請えり。彼は、

 独逸陸軍中尉フリードリッヒ・マッテ(43)と言い、22日夜、憲兵2名附添い釜山に護

 送され、茲にて内地官憲に引渡す筈(22日、京城特派員発)。

▲逃走俘虜着す

 ▽取調頗る困難

  京城にて逮捕されたる独逸俘虜は、鈴木少尉に護られて、23日午前6時25分、関

 釜連絡船に乗込み、午後10時福岡収容所に帰着せり。逃亡俘虜95名及び通訳ワック

 セ博士は、22日午後より長久保福岡憲兵分隊長、徹宵取調中なるも、未だ事実の真相

 を吐くに至らず、係官は取調に困難を感ぜり。尚、逃走俘虜の着せし背広服の出所に就

 き、厳重調査せるが、余程前より計画せるものにて、監督の目を偸み巧に行李中に隠匿

 し居りしものなりと(福岡特電)。

 

大正4年11月25日( )東京朝日

●傲慢不遜なる逃走俘虜

 ▽福岡に到着す

  京城にて取押えられたる福岡収容所の脱走俘虜、海軍予備少尉モッデーは、福岡収容

 所の鈴木少尉並に2名の憲兵警護の下に、22日朝釜山より壱岐丸に乗船し、同午後5

 時50分下関鉄道桟橋に着したるが、彼は横柄にして、毫も謹慎の模様なく、却て両眼

 を怒らして茂手木通訳に向い「汝の為に斯る憂目に会いたり。若し彼の時、朝鮮に向わ

 ずして神戸に向えば宜かりしに」と怨言を放ち、且、「山陽ホテルに寄らずして、直に

 神戸に行きしものなりとせば、如何なる取調べを為せしか」と、臆面もなく問い掛けた

 れど、通訳は聊か怒気を含んで故らに黙せり。而してモッデーは、鈴木少尉に引立てら

 れ、午後6時15分下関発関門連絡船にて門司に護送され、同7時20分門司発列車に

 て福岡収容所に着したるが、同人は懐中に170円余を所持し居れり(下関特電)。

 ▲一等客の取扱

  京城にて取押えられたる俘虜モッデーは、京城より福岡に至るまでの汽車、汽船とも

 総て一等客の取扱を受け、関釜連絡船中の食事も、他の一等船客と同様の待遇に浴し、

 朝鮮総督より護送の憲兵も、福岡収容所の鈴木中尉も、船身中等級を同じくしたりと。

 而して、俘虜の携帯せし赤皮の小さき手提鞄には、1箇の鍵と独逸将校用の両眼鏡、歯

 磨容器等を入れありたり(門司特電)。

▲ワ総督の取調

 ▽不関焉の態度

  逃亡俘虜将校モッデーは、23日午後11時博多駅着、直に憲兵分隊に護送、取調を

 受けたり。彼は20日未明、単独にて塀を乗越え、歩哨の目を忍び、博多駅より乗車し

 奉天に往かんとしたりと云う外、未だ何事も自白せず。今回の逃亡事件に就き、ワルデ

 ックが如何なる態度なるかを確むべく、河内第三五旅団は、23日同司令部にて総督と

 会見の上、逃走俘虜中総督の副官たる憲兵中尉の姿見えざるに気付かざりしは如何、と

 詰りたるに、総督は曰く、彼は常に病身なれば、多分病臥せるものと思い居りしなり、

 さらば薬を服せりや否やは直に分る筈なるが如何、総督曰く、彼は大概の病気は服薬せ

 ず臥床せるが常なり、斯く逃走せしは若き者の常として、故郷を慕う余りならん、と事

 もなげに言いたり。今後、総督に対して嫌疑者として取調を続行するや否やは未定なる

 が、又、他の4名の逃走俘虜は、多分支那の中立地帯に逃れしものなるべく、捜査につ

 きては絶望せるものの如し(福岡特電)。

▲ケ中尉の所在

 ▽上海に在りと其妻から来書

  久留米俘虜収容所の将校俘虜クールーの許へ、5、6日前、上海の妻より来書あり、

 あなたの友人ケー君、当所に到着したり、とあり。ケーとは、福岡収容所を逃走せる5

 名の俘虜将校の1人、中尉ケンペーなる事を、久留米収容の俘虜等は早くも察せり。右

 の手紙は、久留米収容所の蒲原中尉が検閲せしも、未だ福岡収容所より俘虜逃走の通知

 なかりしより、何事も気付かず、書状はクールーに渡せしより、俘虜の方が先きに、福

 岡に於ける俘虜逃走を知りしなり。尚、福岡収容所より逃走を通知せる前日頃、久留米

 収容所の笠間通訳は、俘虜将校等が怪しき事を立談し居るを小耳に挾みて、取調べ居り

 しに、福岡より逃走の通知に接し、さてこそ右の将校連の言と思い合すに至れり。而し

 て、ケンペーは無事上海の中立地帯に逃込み得たるは久留米俘虜将校の確信して疑わざ

 る所、ケンペーが中立地帯に逃込みたる為め、再び日本の手に入らず、従来各地収容所

 にて、俘虜の書信の検閲其他を厳重にして、日本の状況が独逸本国に知れざるよう努め

 来りし大苦心も、悉く水泡に帰したる訳なり(久留米特電)。

 

大正4年11月26日( )東京朝日

●久山中佐の進退伺い

 ▽俘虜逃走事件と当局の責任問題

  福岡俘虜収容所に於ける俘虜、陸軍少佐ザクセー以下5将校の逃亡事件は、同収容所

 当局の責任は元より、延いて帝国陸軍の威信にも関する重大問題なるを以て、其筋にて

 は極力之が捜査に腐心し居れるが、少尉モットデーが京城に於て捕縛せられたる外、其

 他の4名は今以て縛に就かず、早くも中立国に逃走したりとも伝えらる。之に付、陸軍

 俘虜情報局の篠崎少佐は語る。「当情報局には、ザクセー以下5名の将校が逃亡したと

 云う報告があった丈けで、今以て詳細の情報に接せず。モットデーが捕えられたと云う

 事も、却て新聞に依って承知した位であるから、立入った御話は出来ないが、福岡の収

 容所は、現在設けてある11箇所の収容所中でも最も責任の重い、将校丈けでもワルデ

 ック総督以下50余人も居るので、所長久山中佐以下各所員共、特に細心の注意を以て

 警戒の任に当って居ったと聞いて居たのに、一度ならず二度ならず、僅か数日の間に5

 人迄も逃亡者を出したと云う事は、誠に遺憾に堪えぬ次第である。世間では、当局の俘

 虜に対する態度に就て、何か誤解して居る向もある様であるが、決して其様な事はない。

 我々は、攻略もなく情実も無く、国法の定むる処に依って取締をして居るのであるが、

 俘虜にも俘虜の自由があり、夫れを越えて迄取締ると云う事は出来ないので、日露戦争

 の如きも、或る露国の将校が数回逃走した話もある。然し、此れとて、外面の取締を厳

 重にして置けば左る心配も起らぬのであるから、此上とも気を着け、今後を戒めたいと

 思って居ます。又、久山所長からは、既に衛戍司令官の手を経て本省の方へ、進退伺い

 が出て居るそうですから、同収容所の責任に就ては、其の内相当の処置があるらしいと

 思います」云々。

 

大正4年11月27日( )東京朝日

●見す見す俘虜を逃がした

 ▽八幡丸船長の談

  久留米俘虜収容所より逃走せる俘虜将校の一人にてワルデックの副官、ケンペー中尉

 が上海に逃走当時、八幡丸の食堂に相隣して常に会食したる草野同船長は、昨日記者に

 向いて「去13日、本船が門司を出帆する刹那、一見英米、仏人と思われざる1外人、

 一等船客として乗船し来り。切符を見れば、国籍は諾威にて名はニールセンとあり。ス

 カンヂナビヤ地方にはニールセンなる名多きを以て、別段意に留めざりしが、同人は食

 堂其他では常に沈黙を守り居り、何となく不思議とは思いつつも、逃走俘虜とは心付か

 ず、上海に至りて復航後、門司に帰り、初めて俘虜将校の逃走ありと聞き、其写真を見

 たる時、之だ之だと、思わず叫びたるが、みすみす3日間、航海中食膳を共にし、マン

 マと逃走せしめたのは、知らざりしとは云うものの、実に遺憾千万なり」と語れり(神

 戸電話)。

 

大正4年12月1日( )東京朝日

●逃走俘虜取調終了

 ▽従犯者の自白

  福岡憲兵隊に於ける逃亡俘虜取調は、28日を以て終了し、永久保分隊長、29日小

 倉憲兵隊本部及び第一二師団司令部に到り報告する所あり。30日、福岡収容所にて久

 山所長と会見、俘虜押送に就き打合せを為せり。取調の内容は秘密に附せるが、モッデ

 ーは飽迄単独逃走の外自白せざるも、他の俘虜を逃せしことを知り居りしことは疑いな

 く、ハック博士は、モッデーの逃走補助に関し一部の自白を為したるものの如し。従っ

 て、モッデー、ハック及従卒5名中2、3人は、逃走罪として軍法会議に附せらるべく、

 今、明日中、小倉に護送の筈なるが、場合に依り、護送前法官部より判士の来福を見る

 べしと(30日、福岡特電)。

 

大正4年12月13日( )東京朝日

●逃走俘虜収監

 ▽罪状決定す

  福岡陸軍法官部にて予審中なりし逃走俘虜モッデー少尉、某中尉、ザクセイ少佐の従

 卒の、都合3名は、取調終了の結果、愈罪状決定し、小倉陸軍衛戍監獄に護送さるる事

 となり、11日午後、小倉に到着。直に第一二師団衛戍監獄に収監され、更に福岡監獄

 小倉分監に移送されたり(門司特電)。

 ▲取調中の俘虜

  逃走俘虜モッデー少尉外2名は、人見理事長、久保憲兵分隊長取調の結果、罪状判明

 し、11日午後、小倉軍法会議に送られたり。目下憲兵隊の取調中のものは、柳町収容

 所に拘禁せる従卒2名と、二四連隊の営倉に拘禁の従卒1名にて、尚お今回検挙されし

 は将校3名にて、11日はウワッグナー大尉に対し、書籍の出所等に就き審問を開始し

 たり(門司特電)。

▲再び大捜索

 ▽ネ中尉の護送

  久山福岡収容所長は、12日午前より、森山・川村両中尉以下収容所員を督し、洲崎

 裏町将校俘虜収容所に到り、再び室内大捜索を為し、私服外套2着、        レーンコート2

 枚及び軍帽を鳥打帽に擬したるもの30個、其他逃走に便宜なるものを取上げたり。右

 は、各地に於ける俘虜将校夫人家宅捜索及同将校訊問の結果、機会あらば彼等の間に逃

 走計画あること疑いなき事実となれるを以て、予め之を防がん為なりと。尚、11日モ

 ッデーの護送に引続き、ネッカー中尉も犯罪明白となり、小倉に護送せり(福岡特電)。

●俘虜の妻退去

  久留米に収容中なる俘虜将校の妻ホフエン・フェルスは、此程久留米に来りしも、挙

 動怪しき点あるを以て、刑事1名尾行せるが、愈上海に去るべく、神戸より12日午前、

 筑後丸にて門司に寄港し、午後出発せり(門司特電)。

 

大正4年12月15日( )東京朝日

●俘虜を逃した責任者処罰

 ▽久山所長は重謹慎

  俘虜逃亡責任者たる久山収容所長以下に対し、12日夫々処分ありたり。久山所長は

 重謹慎20日、森山中尉、鈴木少尉、十中元雄は各重謹慎又は軽謹慎、点呼を粗漏にせ

 し西久保軍曹は重営倉20日(但し禁足に代ゆ)に処せられ、久山所長は12日来、引

 籠りて面会を謝絶せり。其代理として、第二四連隊第一大隊長奥島少佐、臨時収容所長

 を命ぜらる。森山中尉、鈴木少尉等は、処分中、平時の如く執務差支えなしと命ぜらる。

 此処分遷延は、河内第三五旅団長上京不在なりし為めにて、11日其帰来を待ち、12

 日処分せしものなり(福岡特電)。

 

大正5年1月6日( )東京朝日

●逃走俘虜逮捕

  久留米俘虜収容所より、去る2日夜逃走せる俘虜重砲兵輸卒レトベルントザック(22)

 は、3日夜零時半、久留米市日吉町にて憲兵隊の手に逮捕されたり。彼は、2日夜10

 時、巡査派出所前の溝を伝い3人の巡査が監視せる前を免れ、翌日久留米市附近の田の

 藁の中に潜伏し、缶詰・パン抔を食して、夜に入り久留米市に出で、同駅より乗車せん

 とせる所を取押えられたるなりと(久留米特電)。

 

大正5年2月15日( )東京朝日

●逃走俘虜就縛

 ▽山中に迷入りて

  11日夜、塩谷収容所を脱走したる俘虜2名は、14日午後7時、三豊郡辻村にて、

 青年会員及び消防組の手に取押えられたり。是より先、13日午前、三豊郡託間村より

 仁尾村に越えんとする山中にて、外国人に出会いたるものあり、更に午後7時、小学校

 児童が途上に於て発見したれば、歩兵第一二連隊より兵士1個中隊出動して是を包囲せ

 しが、同夜より14日朝に亙り、厳重なる捜査を巧に脱出して、更に南方約2里の辻村

 に忍び入りたるを、遂に取押えたるものなり。俘虜は、何処よりか便船を求めんとした

 るも、地理不案内の為め、山間に迷い入りたるものならんと(丸亀電話)。

 

大正5年3月26日( )東京朝日

●父は独逸新海相/娘は福岡の俘虜夫人

  20年間の久しき間、独逸海相の椅子を占めていたフォン・チルピッツ氏が辞職した

 に就いて、之に代って軍国多事の独逸海軍主権を握り海相となったのは、フォン・カペ

 ン提督である。此報が、思い掛けない東洋の涯、日本九州の一角、福岡市外に居住する

 年若き婦人を、如何にか喜ばしめたであろう。此の婦人こそ誰あろう、独逸新海相の、

 天にも地にも懸け替えない一人の愛娘であって、目下福岡俘虜収容所の独逸フォン・ザ

 ルデルンの妻イルマ(29)である。イルマは、新海相フォン・カペン大将が32歳の時、

 初めて夫婦の間に挙げた一人娘で、当年61歳の新海相に取っては、実に眼に入れても

 厭わぬ程の愛娘であった。

  愛娘イルマは、天の成せる麗容益美しく、社交界の花との評判愈高くなるに附け、此

 の花を手折り、併せて将軍の権勢にあやかろうとする陸海軍士官又は貴族の子弟等が、

 続々イルマに向け結婚を申し込んだ。然し、カペン提督は深く考える処があって、中々

 許さぬ。斯くてイルマが19歳の春、提督は引手余多の青年の中から、1人の海軍将校

 に目星を附け、此の将校は遂に恋と権勢との最後の勝利者として白羽の矢が立った。夫

 れは誰あろう、目下福岡須崎裏町の収容所内に囚われの身の哀れを喞つ海軍大尉フォ

 ン・ザルデルンであった。当時ザルデルンは、貴族の家に生れ海軍中尉にて海軍大学を

 優秀の成績を以て卒業し、海軍省出仕参謀として、未来に輝く光明有望の海軍士官であ

 った。イルマは斯くてフォン・ザルデルン夫人となり、人の羨む新生活に入り、間もな

 く父は大将となり、夫は大尉となり、9歳と5歳の2人の児まで挙げ、一門の栄達、其

 身の幸福、実に此に越す者はなかった。

  間もなく夫は青島に赴き、ワ総督の副官となる事となり、自身も二児と共に青島に来

 たが、我軍の為、青島は陥落し、夫は悲しくも俘虜となり敵国に囚われの運命となった。

 イルマは悲嘆の涙に暮れ、二児を抱いて悲しい運命に弄ばるる身となった。父大将は頻

 に帰国を勧めたが、イルマは断然志を決して、遠く敵国たる我日本に来り、夫が収容さ

 れた福岡市外住吉町蓑島、深野前県知事の別邸を借受け、淋しい淋しい生活を続けた。

 夫れにしても、1週1日夫への面会が切めてもの楽しみで、平和克復になる日を待つ甲

 斐もなく、戦雲は益濃かとなり、何時戦争が終えるか判らず、且昨年11月には俘虜将

 校5名逃亡事件に当りイルマが手引したとの嫌疑を受け、剰え家宅捜索も行われ、且日

 本の人々からは、夫れ間諜よ、犬よと罵られ、加之に1週1日の面会さえ礑と中止され

 て、茲に5箇月、恋しい夫の顔も見ず、只同じ福岡の空に住むのと、那珂川の流れの上

 と下とに居るのを切めてもの心安めに、雨の日、風の日、夫の果敢ない身の上を思い悩

 んで居るが、突然前記のように、父大将が軍国の海軍大臣となった事を新聞に依って知

 り、大に喜んで、早速此旨を俘虜の夫に手紙で云い送り、且祝杯を挙げ、故国の父に向

 け祝文を送り、尚1日も早く平和克復となり、晴れて夫婦が故国に帰れるよう願います

 と、父に当てて手紙を出した。さるにても、父は時めく海軍大将にて、軍国の海軍大臣、

 娘は敵国の囚われとなった悲しい俘虜の妻、戦さの慣わしとは云え、悲しい対照ではあ

 る(福岡特信)。

 

大正5年3月29日( )東京朝日

●大阪俘虜収容所焼く

 ▽15棟の建物全焼す/俘虜中に軽傷者6名

  28日午前8時35分、大阪西区木津川尻南恩加島町なる独逸俘虜収容所内、東北隅

 の空舎より発火し、熾に燃え上りたり。斯くと急報に接し、収容所よりは武官総出、西

 署亦数十名の応援隊を出し、陸軍より、先ず歩兵三七連隊、野砲兵第四連隊の各1部隊

 及師団司令部よりは檜樫副官、憲兵隊は境野隊長以下、殆ど全部現場に駈付け、消防に

 尽力し、軈て警察本部よりの蒸気喞筒も駆付け、漸く10時5分鎮火するに至りたり。

  焼失せるは、西門より左手に建て列ねられたる空舎7棟、准士官将校室4棟、廠舎1

 棟、職員室1棟、半焼1棟、総計15棟にして(1棟60坪)にして、他の35棟は幸

 いに惨火を免れたり。現収容俘虜の総員は510名(内、約10名は衛戍病院入院中)

 なるが、一同消防運搬等に奔走したる為め、6名の軽傷者を出せり。

  同収容所は大阪府の所属建物にして、総敷地坪数8325坪の外廊に、高さ10尺の

 木柵を廻らし、構内の建造物は、木造切妻形建物、現在俘虜の収容室に充て居れるもの

 50棟、此建坪3000坪、同別館1棟、此建坪10坪、事務室、休憩室1棟、此建坪

 10坪の外、洗濯場、浴場、門衛詰所、面会所、看護人控所等13棟を加えて、総建坪

 3462坪5合、総工費10万4873円を要せしもの。大正3年11月25日、第四

 師団よりの交渉に依り、参事会の決議を経て、同月27日以降、之を陸軍省に貸付け、

 現在の俘虜を収容し来れるものなるが、別に保険等に附し居らざることとて、損害額は

 大なるものの如く、而して発火と共に収容俘虜の全員は、掛官の周到なる措置の下に、

 同構内の広場に整列避難せしめたり。出火の原因は、憲兵隊に於て厳重取調中なり(大

 阪電話)。

●独探か

 ▽煙突の上から砲兵工廠撮影

  去る22日午後3時頃、黒地の洋服を着けたる34、5歳位の1人の怪漢が、砲兵工

 廠附近の湯屋の煙突高さ7丈2尺に上り、ポケットより小形の写真機を取出して、砲兵

 工廠の内部を撮影したる事を、其後に至りて所轄富坂署が探知し、直に警視庁捜索課へ

 報告し、警視庁の推定する所に依れば、右写真撮影の目的は、独逸人より依頼されたる

 ものにて、右写真を獲たる上は、其写真に就て砲兵工廠の組織及び内部に通ぜる者に説

 明を求め、是れに依って小銃、火薬、砲具等の所蔵しある倉庫を破壊し、近頃盛んに噂

 されつつある露国其の他連合国より注文ありと云う銃砲火薬の供給に齟齬を来さしめ、

 我砲兵工廠の兵器製造力を減殺せしめんとするにありたるものの如く、犯人は其の当時、

 既に富坂署に於て捕われたるも、警視庁及び築地署にては、尚関係外人に就て大活動を

 為しつつありという。

 

大正5年7月19日( )東京朝日

●俘虜の大暴行

 ▽軍医重傷を負う

  習志野俘虜収容所俘虜数名が、18日午前7時頃、待遇上の事より、折柄巡廻したる

 千葉鉄道連隊附二等軍医冨澤禎重郎氏に喰って掛り、果は暴行に及びしより、同軍医も

 之に応戦し、大格闘を為したる結果、同軍医は身体数箇所に重軽傷を負いたり。同収容

 所にては、目下暴行俘虜の取調を為しつつあるが、絶対秘密に附し居り、詳細判明せず

(千葉特電)。

 

大正5年7月23日( )東京朝日

●俘虜逃走は狂言

 =所長の命令で理髪師が手引=

        福岡県警察部の抗議

  久留米俘虜収容所の俘虜フーゴータウンジェン(38)、ウィルヘルム(25)の2名が、去

 る19日逃走したる裏面には、頗る奇怪なる狂言仕組まれあること発見されたり。右2

 名の俘虜を逃走せしめたるは久留米市三本松の小林實次(40)という俘虜の理髪請負人が

 誘出したるものにて、而も同人は正木俘虜収容所長の命令に依って為したるものにて、

 同所長は予てより、俘虜が逃亡せんとする模様あるを知り、寧ろ之を誘き出し、直に引

 捕えて営倉に入れて懲さんとせしものなりと。然るに、福岡県警察部保安課にては、之

 を非なりとし、竹下課長は正木所長に面接し、論ずる所ありしが、所長は去1月中、俘

 虜将校2名、所長の命に背きしより、之を懲したるに、或者は強硬なる反抗の態度を示

 し、手に負えず。軍隊の権威を傷くる恐あるより、柴師団長の同意を得て、今回の事を

 為すに至りしものの由。而して柴師団長は、19日、所長と保安課長との論争を知り、

 事態容易ならずとし、直に大久保副官を収容所に遣わして、次の企てを中止するよう厳

 命せりと。尚、所長より福岡県保安課に対し電話を以て、逃走の企てあるも、収容所に

 ては之を囲の外にて逮捕する積りなれば、警察にて大目に見て置かれたしと交渉せしは

 事実にて、保安課は事の意外に驚き、警察としては、犯人を発見せる以上、之を取押う

 べく、之に応じ難し、との答えを為し、久留米署より正木所長に交渉に及びたるものな

 りと(久留米特電)。

▲懲戒の手段に行った

 ▽正木所長の弁明

  右に就き、正木所長は曰く。「俘虜は傲傲にして自尊心強く、日本軍隊を侮辱するの

 傾向あり。国家の権威を保持する上に甚だ遺憾なるを以て、彼等の中に3、4組逃走の

 兆あるを知り、彼等に最も接近せる理髪師小林をして密偵せしめたるに、事の結果は逃

 走の手引を為したる如くなるも、実は手引や逃走の教唆にあらずして、俘虜を懲戒する

 の手段に過ぎず。此手段たるや、多少奇矯に似たるも、大演習前に手酷く彼等を懲しめ

 置くの必要より為したるものなり。彼等も、今は逃走の不可能を自覚したるものの如く、

 目下厳重取調中なり」云々(久留米特電)。

▲福岡の俘虜は我儘だ

  俘虜情報局長 菊池少将談

  右に就き、陸軍俘虜情報局長菊池少将は語る。「自分は俘虜情報に関する意外の事は

 一切関係せざるも、其件に就ては、尚慎重に取調べを要すべき事情存する旨の報告書が、

 陸軍省に到着して居たのを、数日前に見た。元来、久留米の俘虜将校中には我儘者頗る

 多く、到底普通人の手際を以てしては制御する能わざるを以て、特に厳格なる正木を所

 長に選んだのであるが、赴任以来成績非常に良好である。然るに、俘虜側では余り喜ば

 ず、且、其他にも往々誤解を抱く者もあって、或は夫等の関係より斯かる噂を産みしも

 のには非ずやとも察せらる。兎に角、自分は正木が左様な所為があったものとは信じな

 い。」

 

大正5年8月25日( )東京朝日

●判決に呆れる

 ▽俘虜逃亡事件

  久留米俘虜収容所の俘虜フーゴータウヂン、ウィルヘルム2名の共謀逃走及び日本人

 の手引事件は、其後審理中の所、3、4日前結了し、23日判決言渡しあり。俘虜2名

 及日本人1名に対し、免訴としたり。従って、責任者たる正木同所長も、何等咎なく、

 何れも呆れ返り居たり(久留米特電)。

 

大正5年9月2日( )東京朝日

●陸軍俘虜情報局全焼す

  大祭日深更の出火

  1日午前1時頃、麹町区永田町陸軍省本館左側裏手なる西洋館階上の俘虜情報局より

 発火せるを、警邏中の小使が発見して急報したるより、当夜の宿直将校銃砲課大町大尉、

 石井、牧野属官等は、直に現場に馳せ付け、書類を持出さんとしたるも、此時火は、既

 に2階なる情報局室内に燃広がりて殆ど施すに術なく、見す見す重要書類全部を烏有に

 帰せり。出火と共に、警視庁消防本部を始め、麹町第三消防、愛宕第二消防、坂本第一

 消防等より、蒸気喞筒出動し、又近衛衛戍諸兵、歩兵一二連隊より多数の兵士出動した

 るが、附近には宮城あり、東京衛戍総督府、参謀本部、東京衛戍病院、兵器本廠等の枢

 要官衙あり。殊に同所の四囲、悉く建物に接し居るより、消防隊は必死となりて軍隊と

 協力し、消防に尽したる結果、漸く同局と階下なる将校食堂を半焼したるのみにて、同

 1時半、辛うじて消止めたり。

 ▼原因全く不明

  焼失せる建物は、間口8間、奥行4間、32坪の総二階建西洋館にて、二階は俘虜情

 報局に於て使用し、階下は将校食堂として使用し居たるものにて、原因に就ては、目下

 同省に於て極力調査中なるが、同所は去る30日掃除して以来、厳重に鍵をかけ人の出

 入を禁じ居たる処にて、全然火気なき場所なれば、放火に非ずやとの疑いあるも、さる

 形跡もなく、或は漏電の結果ならんかと、目下各方面に亙り十分に調査中なり。

▲不思議な火事だ

 ▽大町当直将校談

  同夜当直たりし、銃砲課の大町大尉は曰く。「出火を発見したのは午前1時少し過ぎ

 であった。小使が例の通り、午前1時の時計を合図に、玄関から二階を警邏し、騎兵課

 の前迄行くと、情報局から火が出たと云うので、直馳せ付けた処が、既に二階は一面の

 火で、書類など出そうとしたが、殆ど如何ともする事が出来なかった。陸軍省では1時

 間毎に省内全部を警邏する事になって居て、12時の時も小使が廻ったが、何の異状も

 なかったので、12時と1時の警邏の間に火が発した訳であるが、同所は去る30日の

 午後3時半頃掃除をして、厳重に鍵をかけ、其後絶対に使用せず、人の出入もしなかっ

 た処で、火気のある筈はないから、如何にして火を発したか、実に疑問である。厳重に

 取調べた結果、放火の形跡もないので、或は漏電ではないかとの説もあるので、目下専

 門家が研究して居るが、実に不可思議千万である」云々。

 

大正5年10月19日( )東京朝日

●福岡の俘虜収容所撤廃す

  福岡俘虜収容所は20日限り撤廃するに決し、俘虜319名は、18日大分収容所に

 69名、19日大阪へ37名、姫路へ74名、20日名古屋へ70名、東京へ69名を

 分送する事となれり(福岡特電)。

 

大正5年10月20日( )東京朝日

●福岡の俘虜転送

 ▽将校と准士官は残留

  来る11月、福岡県下に於て陸軍特別大演習挙行に付き、天皇陛下には行幸親しく御

 統裁遊ばさるるにより、同地に収容中なる独逸俘虜300余名は、習志野(東京管轄)、

 大阪、青野原(姫路管轄)、名古屋、大分の5収容所に、各6、70名宛転送する事に

 決し、福岡俘虜収容所には将校並に准士官のみ収容することとなりたるを以て、俘虜将

 校1名、下士卒69名は、来る22日午前7時10分東京駅着、習志野俘虜収容所へ転

 送せらるる由。

 

大正5年10月23日( )東京朝日

●独俘虜習志野輸送

  来る11月、福岡県下に於て陸軍大演習挙行に付、目下同地俘虜収容所に収容中なる

 独逸俘虜は、今回全部習志野、大阪、名古屋、青野原、大分の5箇所に、6、70名宛

 に分ち移転せしむる事と為り、内、習志野へ輸送の俘虜69名は、我将校1名指揮の下

 に、22日午前7時5分東京駅着汽車にて東上し、直に両国駅発車、習志野同収容所に

 輸送したり。

 

大正5年11月25日( )東京朝日

●丸亀の独逸俘虜2名逃亡

 ▽営倉入を望んでの所為か

  丸亀俘虜収容所収容の独逸人海軍歩兵卒ボシート(24)、同ヂラート(25)の2人は、2

 3日午後6時頃、夕食後収容所の東隅にある銃砲火薬貯蔵所の板塀と格子を押破り、何

 処ともなく逃走せるを、凡そ25分を経て発見し、丸亀砲兵第12連隊より凡そ100

 余名を三方に分ち捜査に出動すると共に、丸亀憲兵分遣所、丸亀警察署、消防夫等、非

 常線を張り厳探中なるが、ボシートは常に俘虜仲間より指弾され、殆ど絶交され居る為

 め隔離されん事を望み、故意に犯則の行為を為して、去15日頃迄重営倉に監禁され居

 たる者にして、許さるる際にも、今少し営倉に止め置かれたしと言い居たれば、今回も 

 営倉入を思いての芝居ならんと推測さる(丸亀特電)。

 

大正5年12月25日( )東京朝日

●大陽気の独逸俘虜

  講和風は吹く、降誕祭にはなる

        音楽会やら贈物やらで大納り

  習志野の収容所では、24日の定日降誕祭を催した。待ちに待った事とて、青島籠城

 の勇士クーロー中佐以下476名の将卒は、数日前から種々の趣向を凝らし、各室には

 蝋燭や林檎の飾物を吊した麗わしいクリスマス樹を飾り、天井には、暇に任せて作った

 金紙・銀紙や五彩の紙片をつづったモール装飾を蜘蛛手に張り、夫に国旗を吊る下げて、

 壁には思い思いに聖像を掲げて居る。午前中は、何れも子供の様に嬉々として会談し、

 宵の贈物の趣向や品定めに余念なく、其内にも運動場に飛出して蹴球を始める。

  収容所でも、宗教的の祭と云うので、出来るだけ寛大の処置を執る事とし、献立など

 も思い切って御馳走する。俘虜も酒保に飛込んで、上戸党は麦酒を飲む、下戸は果物や

 菓子を頬張ると云った風の無礼講だ。5時から一同は、原田中尉立会で、祭場に充て事

 務所裏の広庭に集る。中央の卓には聖像の写真を飾り、2基の燭台を立て、俘虜中の宣

 教師フヰッシャーが司会者の格で祈祷を捧げ、クーロー中佐以下の厳格な拝礼があって、

 式は終った。

  夕食後からは、いよいよ歓楽境の幕が断たれた。先ず、お互同志の贈物の交換が始ま

 る。贈物は総て新聞紙で密封してあるが、中には随分巫座戯たのがあって、木細工の便

 所が出たりする。凝ったのは、箱根名物の寄木細工の様な煙草入などもある。祭典後は、

 各自の室に集まって、煙草函で巧に作ったヴァイオリンを弾いて、讃美歌を合唱したり

 して、8時半の消燈まで一夜を無邪気に楽しんだ。

  尚、当直将校原田中尉曰く。「宗教上の事でもあり、1年1度の祝日であるから、収

 容所としても十分の満足を与えて遣りたいが、又一方から云えば俘虜であるから、そう

 無暗の事をさせる事も出来ず、此点に就ては所員も非常に苦心して居る。」(船橋電話)。

▼後押附で贈物を運込む

 ▽税関の様な騒ぎの丸亀収容所

  クリスマスには、丸亀の俘虜収容所では24日から26日の夜まで3日間をブッ通し

 て、能う限りの自由歓楽を為さしめる筈で、目下決定して居るのは、昼間の角力=是は、

 拳闘と柔道とを折衷したようなもの=と、お次が体操、26日の夜は音楽堂代用の入浴

 場で、お得意の大音楽会を開く筈である。此音楽は、毎週定日に練習合唱を許して居る

 ので、目下同所内にはピアノ2台、セロ1個、オルガン2台、ヴァイオリン10余挺、

 マンドリン数個、横笛2本なとと云う所で、先ずオーケストラを形造って居る。此他に

 オペラや独唱や合唱等も、何れも許可を願出て来る筈だ。夫れから、当日聖壇に飾るべ

 き例のクリスマスツリー6本は、先日東京の基督協会より、仙台市近郊から伐出した樅

 木を寄贈して来た。クリスマスにはお添物の贈答品は、何故か、本年は非常に増加して、

 去る20日頃からは毎日平均百三、四十個宛の小包郵便が、丸亀郵便局より、集配人の

 後押付で箱車3、4台で送り込まれるので、此頃の収容所事務所内は、宛然税関の倉庫

 のような光景である。係の事務員は、霜風寒い夜の9時頃迄も、検閲と整理に忙殺され

 て居る。発送者の最も多いのは、上海が1番で、独逸本国からも随分送って来るが、何

 分長途の為、包装も中味も壊われたり減ったりして、菓子等は3分の1しか本人の手に

 渡らないと云う始末であるが、食料の欠乏等と伝えらるるけれども、ハムだの洋酒だの

 チョコレートなど、食料品を随分豊富に送って来る。俘虜中のチッテルとグラスマンと

 の両名は、大阪朝日新聞を購読して居るので、講和提議の号外が来ると、忽ち独逸語に

 翻訳して大型の洋紙に大書して掲示したのだから、暫らくは拍手喝采の大騒ぎだったそ

 うだ(丸亀特電)。

▼当夜は無礼講

 ▽静岡の俘虜

  静岡俘虜収容所俘虜が囚われの身となりてより3度目の基督降誕祭は、24日午後5

 時より挙行された。一同は、第一俘虜収容所と同一構内の赤十字支部階上に集まり、祭

 壇を設け、クリスマストリーや金銀のボール紙やモール紐で装飾美々しく、斯くて様々

 の贈物等を備え、故参准士官が開会の辞を述べ、マチヤス大尉が祈祷を捧げたる後、「静

 かなる夜」の一同合唱ありたる後、横浜シーメンス商会其他各方面よりの寄贈品を各自

 に分配し、当夜のみは無礼講とし、無邪気なる賑いに、午後9時頃、打寛いで歓談に送

 った(静岡電話)。

 

大正6年1月29日( )東京朝日

●傷病独兵送還

 ▽俘虜交換に非ず

  独兵俘虜交換の説、世上に伝えらるるも、右は俘虜交換に非ずして、傷病兵送還なり

 と云う。日本兵にて独逸に俘虜となり居る者無きを以て、日独間の俘虜交換と云うが如

 き個とは、其意味を為さざるが、目下我国に4000有余の独逸兵を俘虜として抑留し

 居るは、其目的、敵の戦闘力を減殺するに在りて、之に要する給養費は、国際法上の当

 然の権利として、後日敵国に対し要求し得べき性質のものに非ざれば、再び敵の戦闘力

 を増大するの虞なき傷病者は、此際之を送還するを可なりとし、政府に於ては目下右に

 関する手続中なりと云う。斯かる傷病俘虜を独逸に送還するに就ては、米国を経由する

 を便とするものあるを以て、目下外務省より米国政府に対し、之が交渉を為し居る模様

 なるが、送還の範囲其他詳細の事項は、陸軍省に於て調査中なりと。因に、英・露・仏

 等の諸国は、従来常に独・墺等の敵国と傷病者の交換を為し居れるが、今回我国が傷病

 俘虜を送還せんとするも、全く之と同一の意味に過ぎずとの事なり。

 

大正6年4月8日( )東京朝日

●俘虜暴る

 ▽伊国種・仏国種、移送を拒む

  俘虜収容所の独逸俘虜320余名は、7日午前7時同所発、天竜川丸にて徳島県板東

 収容所に移送さるる筈なりしに、当時収容分署に隔離収容中なりし伊国種とアルサス・

 ローレン州種の17名は、移転後独逸種の俘虜に虐待さるるを恐れ、出発を拒み、床に

 仰向に倒れて動かず、強いて引立てんとすれば、懐中よりナイフを取出し自殺せんと立

 騒ぎ、遂に丸亀歩兵第一二連隊長、納富収容所長、辻憲兵分隊長指揮の下に、訓戒せん

 とするも頑として聞入れず。因って彼等を捕縛せんとするや、彼等は空拳を振って抵抗

 し、伊国及び仏国国歌を悲壮なる声にて絶叫し、極力抵抗するより、7名は遂に捕縛し

 て、大八車に1名宛縛り付け、武装兵護送の下に多度津港に行き、残り10名は連隊長、

 収容所長の訓戒に、漸く鎮静し、多数の兵士に警護され何れも悲壮の顔色にて、徒歩多

 度津に向えり。此の騒ぎの為め、同所附近は群衆にて雑踏混雑を極めたり(丸亀特電)。

 

大正6年4月11日( )東京朝日

●独逸俘虜大尉の夫人殺害さる

 ▽夫大尉も悲みの極、自殺す

 ▽犯人は出入のパン行商人

  福岡市外簑島に仮寓し居たる福岡俘虜収容所俘虜独逸海軍大尉にて、ワルデック総督

 の副官たるフォン・ザルデルン夫人イルマ(30)は、去2月25日午前2時頃、何者にか

 惨殺されたり。越えて3月1日午前1時、ザルデルン大尉は収容所に於て縊死を遂げた

 り。此事件は、当時其筋より記事掲載差止の命令ありたるものにて、8日犯人たる佐賀

 県佐賀郡兵庫村田中徳一(26)が逮捕さるると同時に、之れが解除となりたれば、其顛末

 を詳記すべし。

▲深夜に起りし大惨劇

 ▽電燈線で絞殺/猛烈に抵抗す

  福岡市外簑島の片辺り、新柳町遊廓を前に控えたる那珂河畔に、閑静なる1つの別荘

 あり。是ぞ、軍国多事の独逸海軍中主要の位地にあるフォン・カペレ大将最愛の一人娘

 にして、青島戦後捕われて福岡俘虜収容所に入れるワルデック総督の副官フォン・ザル

 デルンの妻イルマ(30)にして、夫の身を気遣う余り、遥々敵国の日本に渡来し、此処に

 住居を定め、切めてもの心やりに時々収容所に夫を尋ねなどして居たり。然るに、去る

 2月25日午前1時頃、1人の兇賊右別荘の裏手なる那珂川に添える植込を破りて、庭

 園を横切り、裏の方に面せる八畳の室の雨戸を破りて忍び入り、先ず其処に据付けある

 電燈のスイッチを捻り点燈し(イルマは寝臥前、必ず消燈するを常とせり)、次なる四

 畳半のイルマの寝室に至り、何物かを窃取せんと探りいたるを、イルマが目を覚まして

 感知し、大声にて「何者ぞ」といいしより、賊は矢庭に懐中せる刃物を取出しイルマの

 右顎下を刺し、次で顔面に2、3箇所負傷せしめたれば、イルマはアッと悲鳴を揚げた

 り。賊は其の声に驚いて、咄嗟電燈線の紐を引きちぎり、絞殺したるものの如く、死体

 には血痕班々たり。頭部に5、6箇所の擦過傷あり、両手の指にも各刀痕を印し、掛時

 計は横に曲りて午前零時25分を示せる儘休止しいたるを見ても、如何にイルマが猛烈

 に抵抗したるかを想像し得べし。尚、イルマの死体は寝衣を胸の上まで捲くり上げ、股

 間には血に染みたる指紋の残れるを見る。思うに賊は、兇行半にしてイルマの倒れるを

 見、姦せんとして果さざりしものか。

                          写真:惨殺されしイルマ夫人

  当夜イルマは、翌25日早朝久留米市に所用ありて出発せんとし、掃除女大神いそ(25)

 に早起をするようにと命じ、掃除は自分が出発後にせよと、手提鞄に23日銀行より受

 取りたる200余円の紙幣を入れ、其の外に色々旅行の用意をなして、就寝したるは午

 後11時前後なれば、賊の入りし時は未だ熟睡し居らず、賊が鞄に手をかけしを見て、

 例の独逸人気質を出し、生命を賭して争いしものならんとのことなるが、不思議にも、

 イルマの次男ピタ・フォルスト(6才)は次の六畳に臥し居り、又厨丁北條歌三郎(41)、

 妻てる(30)は、5、6間を隔たりたる庭園内の小家屋に臥しいたるも、斯る椿事は少し

 も心づかざりき。賊は右現金入鞄の外に、イルマの腕時計(六角形銀側)をも奪い逃走

 したるものなるが、現場には兇行用の短刀の刃先の薄き切片がありしのみにて、何一物

 も証拠となるべき品はなかりき。

  さて、翌朝5時半頃に早起をなしたる掃除女の大神いそ、此の大惨事を発見し、腰を

 抜かさんばかりに驚いて、早速其筋に急報したれば、福岡地方裁判所川上検事、福岡警

 察署長以下急行、詳細なる取調を行いたり。而して、福岡俘虜収容所に於て此の変報を

 得ると同時に、所長以下現場に出張、俘虜情報局に打電すると同時に、同邸附近その他

 を厳重に警戒し、尚収容所にある夫ザルデルン大尉にも報を伝えて、その状況を見せし

 めたるが、大尉は驚駭すること一方ならず、血に染みて惨たらしき死態せる愛妻の遺骸

 に取り縋りて号泣し、又いたいけなるピタも声を挙げて泣き叫び、果は父の側を離れじ

 とて地だんだを踏み、茲に悲劇を見せたるが、ザルデルンは俘虜の身とて、無心の小児

 が哀訴を汲むにも汲まれず、涙乍らに宥めすかして、同夜松山市より帰来したる家庭教

 師アンナユックに託し、久留米に送れり。因に、長男セルビ(8才)は、昨年独逸本国に

 帰りたりと(福岡特電)。

▲大尉昏倒す

 ▽亡妻の葬儀に

  イルマの死体は、26日福岡俘虜収容所内ザック大佐、久留米俘虜収容所のアンデル

 ス少佐夫人外2名の立会にて九大医科大学に於て高山博士執刀の下に解剖に付し、血痕

 附着せる襖、敷物其の他の備品一切をも同大学に搬入し、科学的研究を行い、27日葬

 儀を執行したるが、ワルデック総督以下俘虜将校、江口収容所長以下所員一同会葬、ザ

 ルデルンは、ウイワトマン、クンエット両海軍大尉に扶けられ葬儀に列せしも、泣いて

 一歩も進む能わず、一時昏倒したる程にて、人皆な同情の涙を濺げり。途中人目を避く

 る為め、大八車にて大学附属火葬場に送り、一片の煙となせり(福岡特電)。

▲海相の娘

 ▽美人なれど品行修らず

  イルマ夫人は、独逸海軍大臣フォン・カペレ大将の愛嬢にて、ザルデルン大尉が中尉

 にて海軍大学を卒業せし時、父の眼識に適い、イルマ19歳にて結婚せしものなり。長

 男セルビ(8才)は昨年独逸本国に帰し、ピタ1人を伴い、平和克復の日を待ち侘び居た

 り。一昨年11月、俘虜将校逃亡の事ありし際は、イルマ夫人の手引なりとの嫌疑を受

 けし事あり。それが為め、1週1度、収容所に良人を訪ねて面会する事も許されざる事

 となり居たり。彼女は背高く、すらりとした美人なるも、やや驕慢の風ありて、雇人や

 附近の人より善く云われず、素行修まらずとの評判あり。嘗てシーメンス商会門司支店

 長フロイデン・スタインとの間に、面白からぬ噂を伝えられし事あり。尚、ザルデルン

 大尉の言う所によれば、イルマの1箇月の生活費400円なるが、米独国交断絶の為め、

 一時本国よりの送金杜絶し、此程に至り2箇月分一時に送金し来りし故、多少の金は所

 持し居たりし筈なりと(福岡特電)。

▲愛妻の跡を追うて

 ◇ザルデルン大尉縊死す/結婚当時の約束を守りて

  夫人惨殺以来、明け暮れ悲嘆の裡に打沈み居りし福岡俘虜収容所内に在る夫大尉ザル

 デルンは、日夜涕泣して飲食を断ち、強度の憂欝性に陥りしより、ワルデック総督は万

 一の変あらんことを虞たると、一つには慰安の心持にて、物産陳列館内に在りしを、特

 に赤十字支部の自分の部屋より二つ目の部屋に移し、暗に監視し居たるが、27日イル

 マの葬式に列して後は、殆ど喪心絶望の状態となり、深き沈黙に耽りて何人とも語を交

 えず、3月1日午前1時に至り、部屋の扉の上部に在る蝶番に、イルマが絞殺されしと

 同様、電燈線の紐を懸け、4通の遺書を卓上に列べ、軍服を正しく片付け帯剣を其上に

 置きて、縊死を遂げたり。翌朝に至り、此事を発見したる収容所内は大騒ぎとなり、取

 敢ず収容所に於て葬式を挙げ、遺骸は大学附属火葬場に送り、イルマを火葬に附したる

 と同竃にて荼毘に附したり(福岡特電)。

▲遺書

 ▽日本に感謝す

  ザルデルン大尉の残せし4通の遺書の内容、左の如し。

  (1)義父カペレ大将に宛たるもの、其文の大意は、

         一 今回イルマが横死したること

         一 日本官憲の取扱の親切丁寧なりしこと

         一 犯人は恐らく○国人ならんと推定せること

         一 自分の自殺は、イルマと結婚当時、一人が死なば他の一人も直に後を追

       うて死すべきことを神に誓いし為、其約束を実行すると云うこと       

  (2)ザクサー大佐に宛たるもの

  (3)フロイデン・スタインに宛たるもの

       何れも、生前に於ける親厚なる同情と好意を謝す。

  (4)2人の遺児に宛たるもの

           遺産分配のこと、成長するに従い学問を励み、国家に尽すべきこと。                          写真:愛妻の跡を追うて自殺せるザルデルン大尉

▲犯人逮捕の前後

 △小倉市で活動見物の帰途捕縛/質屋にありし金指環が手蒐り

  独逸俘虜大尉フォン・ザルデルン夫人イルマ(30)を殺害せし犯人は、福岡県警察部に

 て極力捜索中なりしが、事件発生後42日目の去8日午前1時、小倉市に於て遂に逮捕

 されたるが、右犯人は佐賀県佐賀郡兵庫村田中徳一(26)にて、福岡署の中島刑事部長、

 保安課平刑事部長等は、同人が市内にて活動写真を見物し帰る途中を擁して、8日午前

 1時、之を逮捕し9時17分小倉駅発11時6分博多駅着、福岡署に護送され、一応取

 調の上、午後4時、福岡地方裁判所の拘留監に収監され、引続き現場取調の為、看守3

 名附添いイルマの居宅に赴き、阿部検事正、吉村予審判事等も臨検せり。今、同人の自

 白に依り、其前後の模様を記さんに、兇行以前同人は、福岡市箕子町パン商森田方の配

 達となりて、市内を徘徊し窃盗の目的にてイルマの動静を知るべく、市内箕島停留所附

 近の橋本屋旅人宿に投宿し、2、3日滞在し、兇行後、血痕点々たる身体を那珂川にて

 洗い、血痕附着の衣類を新聞紙に包み箕島橋を渡り、新柳町の本通に出で、橋本屋に帰

 り、兇行用の短刀は、同家二階より那珂川に投げ捨てたり。而して25日は平然として

 同家に滞在し、26日は大胆にも新柳町大福楼に登楼し、娼妓小米(21)を敵娼とし、3

 円余の遊興を為し、越えて27日、市内某旅館に宿泊したる後、厳重なる捜査線も物と

 もせず、悠々小倉市に逃れ、同市鳥町三丁目斎田方へ、洋服商某と偽名して泊り込み、

 二日市町・小倉間を往来して宗像郡津屋崎町にて屡遊興せり。逮捕当時、血痕附着の衣

 類を常に手提鞄に入れ寸時も身を放さず、又、兇行の際同人はイルマ夫人に短刀を奪わ

 れ、左の胸と腋下及右手に負傷せるが、小倉にて右手に繃帯せる儘を写真に撮れるもの

 を所持せり。逮捕に至りし端緒は、全県下の質商を取調べたる結果、小倉市の質商納家

 某方にイルマの指環・金時計ありしより、犯人は小倉市に潜伏するものと目星を附くる

 に至りたるものなりと(福岡特電)。

                          図:惨劇のありし現場

▲ワルデックの感謝

  江口収容所長曰く。「今度の事件が国際関係に累を及ぼすことは勿論、内外平和克復

 後、俘虜が帰国する迄に逮捕を見ざる時は、警察の威信にも関し、国際上に非常な関係

 を来すやも測られなかったのである。此際、警察の努力に対し、深甚の敬意を払わねば

 ならぬ。俘虜は、復活祭当日に此吉報に接したので、宗教上から見て、何かの因縁でイ

 ルマとザルデルンの霊が復活したのではあるまいか、と云って居る。猶、平素無言のワ

 ルデックも此報を聞き、日本警察の機敏を称え、大に感謝しますと、大層嬉しがって居

 たそうである(福岡特電)。

 

大正6年5月23日( )東京朝日

●俘虜大尉夫人殺しの裁判

 ▽被告死を覚悟

  去2月25日、福岡市外簑島に於て、独逸俘虜大尉フォン・ザルデルン夫人イルマを

 殺害せし、佐賀県佐賀郡兵庫村田中徳一(26)に対する強盗殺人被告事件は、22日福岡

 地方裁判所に於て野瀬裁判長、岡林検事の係にて公判開廷あり。弁護士は、岩永、塩田、

 山下、鬼塚4氏にして、傍聴席は早朝より満員となり、三原第三五旅団長、江口俘虜収

 容所長、高山九大医学博士、荒木憲兵分隊長等も、特に傍聴せり。午前9時、被告徳一

 は、4名の看守に警戒され、悄然として被告席に着き、予審決定に基ける検事の公訴事

 実に相違なきやとの裁判長の問に対し、イルマを殺して金品を奪い取しこと其外、大体

 は之を認むるも、2月16日白鞘の匕首を買求めしは、外に必要なりし為にて、窃盗を

 為さん為の用意にあらざる旨を述べ、イルマ宅に忍び入りしは、独逸俘虜なることを知

 らず、金銭に窮し24日簑島辺にて窃盗を為さんものと思い、偶然忍び入りしものにて、

 イルマに発見され衾にて押え付けられし為、苦紛れに下よりイルマを刺したり。其時イ

 ルマが悲鳴を揚げしを聞き、自分も一時気が遠くなりし為、詳細記憶せざりしが、隣室

 にも人の声あるを聞けり。夫より咽喉を扼し、又、電燈の紐にて締殺せし前後のことは、

 夢中なり。イルマの絶息せるを見て、折鞄、プラチナ製指環等を奪い去りたり、と、予

 審決定の事実を殆ど認め、裁判長より、斯の如き罪悪を犯し、被告は何と考え居るや、

 との問に対し、「到底、極楽往生することは出来ませぬ。ザルデルンの自殺も、自分が

 殺せしも同様なれば、迚も此世に活き居ることは出来ませぬ。」と述べたり。夫より証

 拠調を終り、山下弁護士より、イルマ宅に実地検証を求めしも、合議の上、必要なしと

 却下され、岡村検事の論告あり。被害者夫妻の境遇に同情すべきを述べ、被告の残忍な

 るを詰り、死刑を求め、夫より各弁護士の弁論あり、何れも有期懲役の判決を希望した

 るが、裁判長は、来る26日午前10時判決を言渡すべしと宣し、正午閉廷せり(福岡

 特電)。

 

大正6年5月27日(日)東京朝日

●イルマ殺しは死刑

 ▽昨日判決言渡

  イルマ夫人殺し犯人田中徳一に対する強盗殺人被告事件は、26日福岡地方裁判所に

 於て判決言渡しあり。三原第三五旅団長を始め傍聴席は相不変満員にて、午前10時、

 被告徳一は特に看守長以下4名の看守に依り厳重に警衛され、極めて静穏なる態度にて

 被告席に着けり。野瀬裁判長は厳粛なる語調を以て、「被告徳一を死刑に処す」と言渡

 せり。此時徳一は顔を挙げ、恐ろし気なる眼光を放って裁判長を一瞥せしのみ。何等悪

 怯れたる挙動もなく、従容として退出せり。徳一は既に覚悟を極め居る由なるも、尚一

 縷の望みを抱き控訴すべし(福岡特電)。

▲判決と俘虜

  福岡俘虜収容所俘虜ザクサー大佐は、イルマ殺し田中徳一の判決結果を知るべく申出

 でたるに依り、江口同所長より死刑の宣告ありし旨伝えしに、同大佐は公判の大意を一

 般俘虜に説明し、大に満足の意を表せりと(福岡特電)。

 

大正6年6月20日( )東京朝日

●俘虜釈放

 ▽伊国人13名

  徳島県板野郡板東俘虜収容所に収容中の俘虜、伊太利人13名は、何れも伊国トリエ

 ストの漁夫・船夫なるが、墺国の為め出征を余儀なくせられ、墺国軍艦マリア・ヨセフ

 に乗組み居り、結局我国に俘虜となりしものにして、伊太利が連合国側に与し独逸に宣

 戦したるを以て、今回釈放する事となり、島木大尉引率の上、23日午前6時、徳島よ

 り神戸に到着、栄町六丁目戎屋旅館に休憩の上、午前10時より更に島木大尉引率して

 伊太利領事館に赴きたるが、途中俘虜一同は嬉々として、収容所にて作製したる伊太利

 国旗を振翳して軍歌を高唱しつつ練歩き、領事館前に至るや片言交りに日本万歳を三唱

 し、夫より領事館に入り、東京大使館より来神せる一等書記官フェランテ氏に引渡され

 たるが、何れも戎屋旅館に滞在、来月7日神戸出帆の仏蘭西メールボートス号にて本国

 へ送還さるる筈(神戸特電)。

 

大正6年8月1日(水)東京朝日

●逃走俘虜捕わる

  静岡俘虜収容所を30日未明逃走したる独逸ウィルヘルム・シューベルト(24)は、3

 0日夜11時、庵原郡江尻町大正橋を通行し居りしを取押え、即決にて重営倉30日に

 処したりと。

 

大正6年11月26日(月)東京朝日

●先帝御駐蹕記念の碑

 ▽習志野原に昨日除幕式

  千葉県下習志野原は、畏くも明治天皇陛下の御命名で、陸軍の演習地としては由緒あ

 る場所で、曽ては大西郷が東京から先帝の御乗馬の口を取って行幸あり、初めて此処で

 練兵を御覧になったと云う記念の地である。今回、陸軍では此記念の地に「明治天皇駐

 蹕之処」と云う記念碑を建設して、25日除幕式を挙行した。建碑の場所は、習志野の

 騎兵学校の裏手に当り、佐倉街道の西に接し、記念碑を囲んで青竹が結われて居る。此

 日、東京からは大島陸相、由比、河合両師団長以下の将星数十名及び折原千葉県知事以

 下関係各郡町村長等の参列員は、騎兵学校に参集し、10時半式場に臨み、今井東京経

 理部長の建碑概況の報告あり。次いで除幕式は、由比近衛師団長の司宰に依って行われ、

 山県元帥の揮毫に成れる「明治天皇駐蹕之処」と刻める碑面が現れた。記念碑は、高さ

 1丈2尺、幅4尺乃至5尺の仙台石にて作られ、裏面には大島陸相の碑文が刻まれて居

 る。除幕式に次いで陸相の式辞あり、一同退場、再び騎兵学校にて休憩し、11時半か

 ら将校集会所で開かれた午餐会に臨み、各将軍連は習志野に関する追懐談を交わし、先

 帝の遺徳を仰いで2時前後に散会した。

 

大正7年3月24日( )東京朝日

●重い夢を載た俘虜列車

 ▽ワ総督は寝た儘大阪着/東京着は明朝3時

  福岡から習志野に移されるワルデック総督以下70名の独逸俘虜を載せた丑号貨物列

 車に連結した3両のボギー車は、一等室に総督以下17名の上長官、二等車に19名の

 将校、下士以下40名は三等車に楽々と乗せられて居る。監視に着いて来た柴田中尉以

 下17名の下士卒の、前後の車掌室に陣取って、着く駅毎に数名の歩哨が各所の入口に

 立つ。総督等の乗った一等車には、流石に一人の歩哨も立たず、プラットホームに警戒

 に出て居る憲兵すらも立寄らぬようにして、寛大の態度を示して居る。

  斯くて、列車が姫路駅に着いたのは23日午後5時20分で、20分間の停車の間に、

 駅前の弁当屋「まねき」から茶を運ばせて水筒に詰め込むもの、弁当を食うもの、中に

 は歩廊に降り立って珍しそうに眺めて居るものもある。福岡を出る時、習志野へ着く迄

 の食糧や必要品はドッサリ積り込んで来たのだが、将校連は贅沢なもので、神戸で又何

 かと仕込み入れた。駅で日本人に覗かれるのを厭がって、駅に前面した室は悉く鎧戸を

 下してに居る。

  大阪へ着いたのは午後11時45分。車室の中ではもう皆眠って居る。一等室の中を

 覗くと、真中にワ総督はクの字なりに身を曲げて、窮屈そうに眠って、重たそうに掛っ

 た毛布が、半ばズリ落ちて居る。「何しろ長い汽車の旅に、駅に着いても散歩も出来な

 いのですから、非常に苦痛がって居ます」と柴田中尉は語った。12時5分、重苦しい

 夢を乗せた汽車は、習志野に向って出発した。品川駅着は25日午前3時の予定で、夫

 より山の手線に依り千住に出で、千葉県幕張駅に下車する筈である(大阪電話)。

 

大正7年3月25日( )東京朝日

●俘虜列車、今暁品川通過

 ▽物々しく光る憲兵の眼/到る処で連結替え

  習志野に移送さるべきワルデック総督以下70余名の独俘虜を乗せた3両の軍用ボギ

 ー車は、下関発の其名に相応わしい丑号貨物車に長途を揺れながら、今暁3時20分と

 云うに、漸と品川駅に着いた。是より先、麹町憲兵分隊から出張した坂部曹長の率いる

 憲兵の一隊は、一斉に眼を光らし、佩剣の柄を握ってヒッソリ閑と沈み返った歩廊の要

 所要所を物々し気に固める。一方、前後の車室に陣取った福岡からの柴田中尉以下14

 名の将卒も、各車の入口に現れて警戒の部署についたが、長い楚囚の旅に疲れ切った俘

 虜の面々は、おん大のワ総督初め、何れも毛布にくるまった儘、静とシートの上に畏ま

 って居る。中には横になって、未だ覚め切らぬ夢路を辿って居る者もあった。

  此間に彼等の乗った車両は、田端行の705号の貨物列車に連結し換えられ、停車約

 20分の後、山の手線で迂回して田端に向け発車したが、着は4時48分田端駅着。此

 処で更に911号貨物列車に連結し、同5時5分出発、南千住を経て9時6分亀戸着、

 71号貨車に継ぎ替えて同50分出発し、房総本線で幕張に着くのは11時15分の予

 定である。

 

大正7年3月26日(火)東京朝日

●首垂れたワ総督

  習志野へ着た独逸俘虜

 ▽先入の連中とウラーの交換/持て来た荷物が貨車に5両

  ワルデック総督以下、将校30名・下士卒76名の一行──所謂青島独軍の総本部を

 福岡から迎える25日の習志野俘虜収容所は、朝から準備に忙しい。此収容所は、先般

 来お隣に改築中の新バラックが出来上ったので、24日スッカリお引越が済んだのだ。

 11時、黒い貨車を先頭にした捕虜列車が丘を繞って視線に入って来た。プラットフォ

 ームには、1師団2旅団の副官連や収容所の田中中尉が迎える。下士卒連を先頭にして、

 護衛司令官の一令に下車する。手荷物はお国振りのヴァイオリンやマンドリンの外に、

 兵卒連でも立派なトランクの2個位は提げたのもあるが、毛布と共に縞の日本蒲団を、

 堂々と革の紐に巻いて手に提げた大愛嬌の将校もあった。ワ総督はと見れば、4日の旅

 も頑丈な身体には何の疲労も与えぬと見え、顎髯美しく、赭ら顔が愈赭く、肥満して、

 制服の上にカーキーの上衣を重ね、紺羅紗の長マントを着流し、赤革のゲートルの扮装

 で、悠々と降り立った。写真班が頻りにワ総督を撮ろうとすれば、将校連は一斉に総督

 を中に取り込んで撮らせまいと庇う。ワ総督は淋しい笑いを漏らして、両手をポケット

 に首垂れて居たのは、流石に捕虜の哀れをひしひしと感じたのであったろう。軈て11

 時半、一行は5台の荷馬車に手荷物を満載し、習志野の塵の田舎道を、徒歩で隊を組ん

 で収容所に向った。ワ総督とザクサー参謀長だけは、俥に乗って後に続いた。斯くて零

 時40分、一行が収容所に着くと、所内の俘虜連中一斉にウラーを叫んで迎えり。総督

 は、クーロー中佐と堅い握手を取交わした。是で、習志野収容所の捕虜は、総計578

 名となった。因に、一行が福岡の俘虜生活中買込んだ品は、貨車5両に満載されていた

(習志野電話)。

 

大正7年3月27日(水)東京朝日

●飽迄も独逸式を発揮する

  ワルデック以下の俘虜

 ▽官給のパンさえ喰い残して蓄える/賄方は予算が余って、却て面喰う

  青島の俘虜総督ワルデックも「何うか何時迄も、此美しい博多湾を眺めて居たい」と

 洩らしたそうだが、遂に習志野に移されて了った。併し、所謂転んでも只は起きない独

 逸魂が、幾多の話柄を福岡へ置土産して行った。去る21日正午、博多駅頭にワルデッ

 ク以下「左様なら、福岡」と別れを告げた最後迄見送った連中は、一斉に「流石に独逸

 人だ」と云ってあきれ返った顔を並べた。それは、お荷物の貨車5両という掉尾の独逸

 式だった。5両の貨車は大袈裟だが、彼等が出発した後の福岡収容所には、塵一つさえ

 残らなかったのだ。腐った古畳でも板片でも紐片でも、凡そ私有物と名の付くものは1

 つでも無駄に捨てた者はなく、護衛の兵隊連も、時々成程と感心させられる事があった

 そうだ。例えば、パンの食残しはチャンと貯えておいて、次の食事に食べる。斯んな風

 だから、賄方は時々予算が余って仕方が無いから、其剰余金で御馳走を振舞う事にした

 そうだ。

  俘虜の中には、此儘日本に土着して商売を始め様というのもある。俘虜中第一の音楽

 家は、元上海音楽学校教授で予備下士のミリエス君だが、此の男等は、朝から晩迄楽譜

 と首っ引きで、バラックの中から流るる如な絃の音を湛わせている。日本語に熱心なウ

 ーグマン少尉は美術批評家で、殊に東洋美術通として独逸有数の人だそうだが、村田商

 会と特約して、広重や歌麿の版画蒐集に浮身をやつして居るそうだ。尚、ワ総督を迎え

 た習志野では、春が来たからとて、俘虜連はあづま屋を作るやら、毛氈花壇を作るやら、

 大分浮き浮きしている。「君等は何時帰れると思うか」と護衛将校が尋ねると、皆大抵

「2年後だ」という事に一致しているそうだ。

 

大正7年6月24日( )東京朝日

●自殺と見せ掛て逃走

 ▽俘虜の奸策/直に捕縛

  板東俘虜収容所の独逸俘虜兵フッヒ(34)が溜池に投身したる形跡ありしも、死体を発

 見せず捜索中なりしが、同人は全く身投げしたるものの如く見せかけ逃走したるものに

 して、板野郡北灘村に到り、民家に入り食事を為し居るところを取押えられ、直に収容

 所に引戻されたり(徳島特電)。

 

大正7年12月12日(木)東京朝日

●俘虜生活の終り

  休戦条約の1箇月は過ぎた

        =釈放から帰還まで= 白石少佐其他の消息

  去月11日に調印された対独休戦条約の第2項によると、抑留されている連合国の非

 戦闘員は、交換条件に依らないで、最大限1箇月内に帰還せしめねばならぬ。即ち、そ

 の最大限たる1箇月は昨日経過したわけであるから、久しく敵国の収容所で俘虜生活の

 苦しみを嘗めた我が同胞も、既に釈放された筈である。その同胞俘虜のうち、戦闘員と

 しては103名あって、常陸丸乗員98名のほか商船乗員が2名、乗客なる海軍少佐白

 石研吉氏、陸上露国義勇兵並に病死した常陸丸の事務長楠川正敏氏の遺骨であるが、非

 戦闘員としては常陸丸の乗客なる大藤、小長井の両氏があり、この他に開戦当時独逸に

 在って非戦闘員並に抑留収容されたものが約29名。その氏名は明かでないが、何れも

 適法の手続きを終るべきであるし、条約の第1項によると、連合側一切の俘虜は、即時

 これを帰還せしめるとあるから、すべて今や懐しき故国の空を望んで、一日千秋の思い

 更に新なるものがあろう。そして、是等の同胞俘虜中、抑留者以外は総て、一旦倫敦に

 集合し、大使館若くは総領事の手で形式的に氏名、原籍及び俘虜として収容された年月

 日等を調べられた上、日本郵船会社の欧洲定期船便で、我が帝土へ送られ、神戸到着と

 共に、一行中の白石少佐は、軍律に従ってすぐ所属鎮守府の軍法会議に附せられ、常陸

 丸便乗後拿捕撃沈され敵国に収容された前後の顛末を訊問される筈であるが、その他の

 乗員、上級士官に対しては、常陸丸がウォルフ号に抵抗して砲戦を交えたところから、

 敵の独逸では戦闘員の扱いをしていたが、我が国内法には何等の規定がないので、先ず

 同船の遭難海路に就て、逓信省所管上長から一応形式的の調査審問を受けるに過ぎまい。

 また、常陸丸乗員以外、英船デー号に乗組んでいた下村林蔵(佐賀県人)同じくウィン

 スロー号の村上安之助(広島県人)及び露国義勇兵として東部戦場に奮戦中俘虜となっ

 た神保清(青森県人)の3氏に就ては、前後の事情が判らぬので、帰還と共に、其筋の

 十分な訊問調査を受けることになる。

  尚、日本に収容された敵国俘虜は、ワルデック旧青島総督及び幕僚以下、総て472

 2名であったが、前後4年間に死亡者が47名、逃亡者が6名あり、その後審問の結果、

 公然釈放したものが33名以上あって、現在は4637名になっているが、是等は休戦

 条約の第1項により、講和準備会議に相当対償交換条件が提義され、その条約が締結さ

 れた後でなければ釈放されない筈である。

 

大正7年12月25日(水)東京朝日

●日本で1000万人

  流行性感冒の患者

        一番多かったのは熊本県/11月から死亡者が増す

 ◇昨今流行の激しい地方

  内務省衛生局では、今秋来全国に亙りて流行し猛威を逞しうしつつある流行性感冒に

 関する詳細なる沿革史を造るべく、目下防疫課の加藤技師の手にて各種の統計やら調査

 を纏め、近く完成の運びに至ると云うことであるが、今各府県から同技師の許に届いて

 居る報告を概観すると、何れも初発以来10万を以て数えなければならぬ程の患者を出

 し、極大体の数字であるが、今月中旬までの総患者数は1000万に近い。そして、平

 均100人に就き0.50乃至1パーセントの死亡率を出して居る。流行の終末期に近

 づく程、悪性の度を増し、10月より11月、11月より12月に入ってから死亡者の

 数が増して来た。死亡者の大部分は急性肺炎を併発して斃れるので、肺炎に変症した患

 者は50乃至60パーセントの死亡率となって居る。現時にありては市街地より山間に、

 南部より北部にその流行区域が移り行きつつあって、昨今は山形、盛岡、秋田、青森、

 北海道が盛に襲われつつある。東京府内丈けでも10月28日以来平均毎日200名以

 上の死亡者を出し、今は稍下火になって居るが、初発以来の死亡者は4000人を以て

 数えることが出来る。

  今、各府県に就て見ると、一番多いのは熊本で、初発以来11月20日までの患者数

 55万余、死亡者3000余人。香川が罹病者52万、死亡者4214人。山口が患者

 38万人、死亡者2752人で、是等の各県は何れも流行の真先に襲われた地方である。

 次に、新潟は初発以来12月6日まで31万余の患者の内2300人の死亡者、群馬は

 患者26万9000余人中1300余人の死亡者、秋田は14万7000余人の患者中

 476人の死亡者、と云う驚くべき数字を示して居る。その襲うべき所は、貴賎老幼男

 女の別なく、社会の凡ゆる階級を通じて居るが、5歳以下の幼児、妊婦等に比較的死亡

 率が多いと云うことである。

  名士の此の病気で斃れたる者も頗る多く、土方久元伯、島村抱月氏、多田好間翁、最

 近では大内青巒居士、中島力造博士、芳賀石雄博士等があり、又大関高師、山川一高、

 中村高蚕教授等も、この病の為めに故人となった。

 

大正8年1月4日( )東京朝日

習志野俘虜収容所長

 西郷大佐逝去

 ◇南洲翁の長男/昨春来の肺炎にて

  習志野俘虜収容所長陸軍歩兵大佐正四位勲三等功五級侯爵西郷寅太郎(54)氏は、昨春

 来肺炎に罹り、曽根主治医を初め高木、入澤両博士の診療を受け、麻布市兵衛町2ノ8

 8の自邸に静養中の処、昨3日午前11時、病革りて遂に逝去せり。

  氏は南洲西郷翁の長男にして、西郷従徳侯の従兄に当り、明治11年4月家督を相続

 し、身を軍籍に置き、独逸に留学し普国陸軍士官学校を卒業し、普国陸軍歩兵少尉に任

 じ、帰朝後陸軍戸山学校射撃科を卒業し、明治25年陸軍少尉に任じ、現官に累進す。

 日清戦役及台湾征討に従軍し、明治35年6月、亡父隆盛の偉勲により華族に列し、侯

 爵を授けられたり。

 侯の病歴

  一時癒ったが昨秋再発

  西郷寅太郎侯の病歴に就き聞く処に依れば、侯は習志野俘虜収容所長として勤務中、

 昨年4月頃感冒に罹り、次で肺炎を併発したるを以て、一時麻布の私邸に帰省して静養

 したるが、夏期に入り殆ど全快したる模様なるより、転地を奨むる者ありしも、職務重

 大なればとて、強いて習志野に帰隊したり。夫れより9月に入りて肺炎再発し、重患に

 陥りたれば、同月下旬、再び私邸に帰り、只管療養中なりしも、病勢は日に険悪に赴き、

 12月上旬に入りて最早や全快の望みなきに至り、曽根主治医の外に入澤博士及び高木

 兼二博士の来診を請いたるも、衰弱益甚だしく、遂に昨日午前11時急変、カンフル食

 塩注射及び酸素吸入を行いたるも効も無く、近親囲繞の裡に逝去せるなり、と。

                        写真:逝去せる西郷寅太郎侯

 

大正8年1月5日( )東京朝日

●西郷侯葬儀

  故西郷侯の葬儀は、6日午後2時青山斎場にて神式を以て挙行する由なるが、是より

 先き病気危篤の趣、天聴に達し、2日附を以て特旨を以て位一級を進められ、従三位に

 叙せらる。

 

大正8年1月7日( )東京朝日

西郷侯葬儀

 会葬者1000名

  陸軍歩兵大佐従三位勲二等功五級侯爵西郷寅太郎氏の葬儀は6日、途中葬列を廃し、

 午後2時青山斎場に於て神式に依り執行。祭主千家尊弘氏は神官を率いて誄詞捧読あり。

 畢って喪主隆輝氏、未亡人のぶ子刀自、其他家族並に西郷従徳侯を初め親戚友人等多数

 の玉串捧進、拝礼あり。会葬者1000名、頗る盛儀を極めたり。

 

大正8年1月16日( )東京朝日

陸軍佐官異動(15日)

    (前略)

     大阪砲兵工廠宇治火薬製造所長砲大佐  山 崎 友 造

     習志野俘虜収容所長被仰付

         大阪砲兵工廠火具製造所長砲中佐    相 浦 民 雄

     補大阪砲兵工廠宇治火薬製造所長

        (後略)

 

大正8年2月3日( )東京朝日

◇南洲翁未亡人の侘住居

  寅太郎侯が亡くなってから、火の消えたように淋しい西郷家

  この春の松もまだ門に緑に匂う6日の午下り、習志野俘虜収容所長であった西郷寅太

 郎侯の葬儀は、麻布市兵衛町の狭い通りを淋しく練った。薬の香の絶えぬ信子夫人の室

 には、遺児の八男四女の夥しい群が、団欒の袖も重げに声を呑んだ。侯が臨終の枕辺に

 も、其葬りの日にも、母堂いと子老刀自の姿は遂に見えなかった。乃夫南洲翁の世嗣と

 して、侯はあまりにも不遇の裡に死んだ。乃父の名を維持せんとする痩我慢と、生活に

 闘う苦悩とに、侯の健康は尠からず損られて、死に先立つ数箇月、習志野に病を得て帰

 ってからは侯の病耳に入るものは、生活の苦しい呻きばかりであった。夫人の生家なる

 園田實徳氏が存命の折には、生活の補いにかなりな情を受けたが、園田氏没後は芝巴町

 の宏壮な邸をも売払って赤坂氷川町に移り住む様になってから、侯には無論大打撃とな

 った。然に侯は、名門出の鷹揚な生育から計数に暗く、毎月600円も要という生計費

 は、侯が華族として世襲財産の利子と陸軍大佐の給料とに、到底償い得なかった。活計

 嵩んで、市兵衛町の邸宅は、既に3万余円の抵当にさえ入ったと伝えられた。侯の邸宅

 が売物に出た時、侯は「私の存命中は、決して他人に渡したくない」と病床に叫んだ相

 だが、一頃、令息・令嬢達のお附女中の10人も、8人、6人と減されて、今、僅に2

 人ばかりが淋しく残って居る。侯は、生前いと子母堂に対する孝養は真に深甚なもので、

 侯が病いの床に就く間もなく、苟めにも生活の上から耳に入る老体の心苦労を思い遣り、

 麻布新龍土町の令弟・午次郎氏の許に移らしめた。南洲翁が城山の露と消えて40余年

 の、気骨の折れた越し方も、明けて77の高齢ながら兎角幾年つづきの病躯に悩まされ

 て、明るい春を侘がてに暮して居るが、侯が臨終の際にも会わず、別れ別れに可愛かる

 べき孫の笑顔も知らず、昨今の寒さにいとど重りゆく僂麻窒斯に悩んで居る。

                        写真:南洲翁未亡人いと子刀自

 

大正8年5月19日(月)東京朝日

講和条約調印を控えて

 ワルデック総督を訪う

  習志野の草分クーロー老中佐曰く

   「15章8万語。余りに苛酷ならずや。今や独逸は滅亡あるのみ」

◇ルンプ君等、若い文学者の群れの太平楽

  講和会議の一難問題となった青島の処分も、遂に当然我が日本の手を経ることとなっ

 て、今は一切独逸の調印を待つばかり、習志野俘虜収容所の柵を囲む麦の穂も、菜種の

 茎も雑草も、平和の色の緑に延た。ワルデック総督に敬意を表すべく、津田沼駅から赤

 土の凸凹路を辿って面会を求めたが、逢いたくないという。総督は収容所の一隅、質素

 な建物の2室に住って、白服すがすがしい巨大な姿は、小さな高窓の紗越しに見えるが、

 平生からの寡言瞑想に室外へも余り出ず、所員とも用誤のほか語ることはなく、逢えば

 ただニコニコと英雄の胸中を示している。頗る健康で、世界感冒の盛んな頃、唯一日発

 熱しただけで、体量も最近25貫を超えた。

  去って一隅の花園に、静かな土いじりに余念もないクーロー老中佐──ワルデック総

 督が福岡から移される迄は、収容所中の最上級官で、ここの草分けともいおうか──に

 握手を求め、徐ろに感想を叩くと、「青島の処分、それは日本にとって重大問題に違い

 なかろうが、それよりも第一独逸があの講和条件に調印するかどうか、15章8万語、

 いかに最後は敗れたとはいえ、余りに苛酷に過ぎる。あれでは独逸の国家が亡びてしま

 う。国民は死ぬよりほかはない。連合国がどうしても修正を肯じなければ、独逸は再び

 干戈を執って起つ迄のことである。英米仏、皆最近著しく社会主義的、民主主義的にな

 って来たから、講和問題は決して単純に終らぬと信じている。」と、温顔に微笑を浮べ

 つつ、其説く処はさすがに古武士の面影がある。「俘虜生活は勿論不快だが、然し日本

 に収容されて此優遇を受けていることは、感謝の外はない」と、なかなか愛想がいい。

 クーロー中佐はこう語ったが、一般将校中知識階級に属するものの感想としては「旧い

 独逸はもう亡びた。吾々はこれから、新しい独逸を造らなければならぬ」というに一致

 して、再び戦争など起らぬと信じているらしい。下士達は唯、いつ国へ帰れるかという

 事ばかり所員に訊くという。

  将校、下士のうちにはラウベと称する小舎を自費で建て、そこに起臥しているものが

 20余名もいるが、その1つに住むウェークマン少尉は文学士で、今、日本と支那との

 美術に関する研究を執筆中で、帰国の上これを博士論文に提出すべく、畳表で掩うた壁

 間には歌麿の浮世絵など一杯に張られ、書棚には日本文の書籍もつまっている。「私の

 研究は、主に藤原・足利時代ですが、ここでは写真しか見られないので、自由になった

 ら本物をたくさん見たいと思う」と語る。2人の客は、スクリバ君とルンプ君。ス君は、

 我が大学教授を父とした青年、ル君は古くから我が文壇に知己が多く、徳川時代の文学

 には最も造詣が深い。「ここの生活は退屈そのものです」とルンプ君は青い眼を輝かし

 て、「早く東京へ行って酒が飲みたい。近頃は、日本の俗謡と歴史を研究しているが」

 と破顔一笑、「飛んで行きたい主のそば、ですよ」。本国の政変に就て感想を叩くと、静

 かにシガーの煙を吹いて、「東京の芝居は、今どうですか。梅蘭芳も見たかった」と顧

 みて他を言う。

  俘虜は初め918名あったが、世界感冒のために30人ばかりは異郷の土となった。

 然し、一般健康は、収容当時平均体量18貫280匁であったが、最近の検査によると

 19貫415匁になった。下士以下でも平均3000カロリーの栄養を拠り、蹴球、テ

 ニス、拳球、クリケットと、運動も十分だから、皆血色がいい。唯、参謀長のザクサー

 大佐は、前頭竇に膿を持って、2週間前大学病院に入り岡田博士の手術を受けたが、こ

 れも経過は頗る良好である。

                写真:習志野の俘虜生活

                   上 小舎前のクーロー中佐(右)

                   下 室内の団欒(向って右よりウェークマン少尉、スクリバ君、

             ルンプ君)

 

大正8年5月26日(月)東京朝日

 =空家の独逸大使館=

   いつ主人を迎える

        繁るがままの雑草中に留守居する8家族

      瑞典公使から貰う給料/本国以上に生活が困難

  もう足掛6年にもなる。大正3年の8月23日の午砲を合図に、三宅坂上の独逸大使

 館の鉄門がピタリと鎖されてから──昨今、主ない建物はその長年を空洞として、ただ

 心憎い程傲然と、繁りに茂った樹立の間から、雨露に曝されて陰鬱の面影を覗かせて居

 る。

  裏の小門を入ると、左手の留守居の者の長屋の1棟、ズウと奥には会計を承る日本人

 の住居、それでも凡て8つの家族は住んで居る。どの建物もどの入口も、赤錆の錠が頑

 固に眼に着いて、雑草の庭内そこここに顔を出して、灰色に塗られた板庇などが、壊滅

 の悲哀を自から物語って居る。

 「なァに、貴方。いつ戦争の結着がついてこの門が開くようになるのやら、見当が着き

 ませんぜ」、新聞を克明に読みながら縁先に腰掛けた館員の一人は、淋しく笑った。「私

 の外に、庭造りや掃除の者や役所留守や、8人住んでますが、皆あれからジッとして動

 かないんで、仕事も為ないで暮らして行ける様なもんですが、多少は世間様に対して気

 も咎めますぜ。6年前──8月29日に大使が出て行ってから、給料は米国大使館へ月々

 貰いに行きましたが、参戦してから瑞典公使館に換えられました。所が、物価騰貴で困

 りましたぜ。本国が食糧問題で苦んで居るだろうが、私共も困って、誰に話そう事も出

 来ませんでしたが、瑞西のサリス公使が「米騒動の新聞、いろいろ見た」と云って、2

 割の手当を附けて呉れました。大使が引揚の時、自動車は大急ぎ売払ったが、部屋の飾

 りや道具や、当時の儘であります。風は時折入れますが、立派な窓掛や絨氈抔もボロボ

 ロですぜ。修繕費は何万円でしょう。いつか暴風雨のあった翌日、サリス公使が見廻り

 に来て「修繕しろ」といいましたが、手が届きませんね。立派なピアノが据付のまま汚

 くなってます。一体、あの大使は日本に4年も居たが没趣味で、日本物は嫌いで、骨董

 なんか金目の物は1つだって残しませんが、庭木を投て置いた奴が、ノメノメとあの通

 り延びましたさ…。やれ化物が出るとか何とか、噂が立っていますが、へへ。」と笑う。

「近頃奥庭に人気が無いので、犬共がのさばりもぐり込みまして、ハァ警視庁からは時に

 見えますが、いや戦争も長うがしたな」。

 

大正8年5月27日( )東京朝日

 50万円を立替えて俘虜の世話焼き

  5年の間居食同様の惨なシーメンス商会

        独逸が償金を払わなければ日本へ没収される運命

  日本の要求通りに償金を払い得ない場合には、愈近く発布さるる対敵財産管理令の痛

 棒を喰わして、内地に在る独逸人の所有財産は没収するという手筈になるが、権兵衛内

 閣瓦解の源を作した彼のシーメンス商会などは、日本大蔵省が取立帳の1つに記入さる

 る訳合となろうが、築地明石町の同会社は甚だ落莫の姿で、独逸人として重役のドリン

 ケン氏外社員14名ばかり。

  館員は語る。「戦前は50名近くも社員が勤めて居たが、日本との戦争が開始される

 と共に事業が中止されて仕事が全く無く、人員は減らして安閑無為の生活をして居る。

 所が、独逸の実業団体からこの商会に、義金の伝送方や種々の世話を依頼して来た。独

 逸の俘虜は日本の軍人と相当の給料をば陸軍省から立替支給されて居るが、本国よりは

 ズッと安く、且物価が高くなって、俘虜は零して居た矢先だから、尠からず欣んだ。実

 業団体から毎月9600円程を送って来る。私の方ではその都度、農商務省ろ陸軍省の

 特許を得て俘虜に渡すが、無論本国からは金額だけの簡単な数字だけで、通信といえば

 直接には是ばかりである。いつか、英国の検閲官の手で、何か軍機上の暗号数字でない

 かと、面倒を惹起した事もあった。私の方では、幸い銀行の預金から通知額丈を引出し

 ては習志野へ送るけれども、立替額今日迄50万円に上って居る。減る一方で、第百は

 全部払戻し、三井も住友も払戻し、今では三菱銀行1箇所となった。私共の維持生活費

 も、斯くして居喰いの有様で心細い次第であるが、私共は俘虜の申込で、主に肉類、コ

 コア等を購めて送って居る。兎まれ、本国の様子は判らぬが、孰れは戦後再び日本との

 取引を依然とやることは、本社の考えである。この財産を没収されるとしても、5万坪

 の地上建物共に10万や20万程のものであろうが、その暁は、責任は本国政府に帰す

 るらしいから、心配はあるまい。ただ徒然に困るのである。」

 

大正8年6月3日(火)東京朝日

真先に解放される独逸俘虜の喜び

 仏国民となるア、ロ両州の出身121名

  一先習志野に集合して来月10日頃出帆帰還す

  独逸俘虜中アルサス、ローレン出身者は、講和条約成立次第、直に解放帰国せしむる

 こととなり、各収容所にある者を一先習志野に集合せしむる筈なるが、広島県似島収容

 所のベルシァンヂレン外17名は、何れも水兵服を私服に着更え、岡田軍曹外兵士2名

 附添い、2日午後2時40分広島発列車にて東上し、又久留米収容所の28名も同日午

 後、本村中尉引率、出発せりとのことなるが、板東収容所の29名は、既に2日午前1

 0時30分東京駅に着し、もはや窮屈なる思いもなく大手を拡げて両国駅まで徒歩し、

 先発として習志野に到着せり。

  右に就き、陸軍省当局は語る。「現在アルサス、ローレン出身俘虜は、習志野37名、

 名古屋12名、板東29名、広島15名、久留米28名の、全部で121名居る。ハイ

 ンリッヒ・ワルテルと呼ぶ下士の外は、主に兵卒である。当局では嘗て伊太利出身兵1

 7名とチェック・スロヴァク兵25名を帰還せしめた外に、仏軍に従軍する条件で既に

 2回に亙ってアルサス、ローレン兵を解放している。今、講和成立後、アルサス、ロー

 レン方面は当然仏領に帰するという見込から、仏国大使が同方面の俘虜を解放して呉れ

 と頼んで来たので、全部還すことにしたのである。で、2日から4日までの間に、各収

 容所を出発せしめて、全部習志野へ集め、其処で今後仏蘭西国民になるという条件の下

 に仏国大使に引渡し、来月10日頃横浜発の仏国船で出帆の予定である。彼等は仏国兵

 になれるといって大変な悦びようだ。中には全然仏語の出来ない連中もあるが、帰着す

 るまでに相当仏語を話すことの出来るようにと、既に勉強している向もある。尚、此次

 は波蘭人13名が還る筈だ。」

 

大正8年6月4日(水)東京朝日

解放俘虜の東京着

 すぐ習志野へ

  アルサス、ローレンが元通り仏国の領有に帰した結果、両州出身の在留独逸俘虜12

 0余名は、仏国大使の斡旋で近く解放される事となり、全国各地に分散している両州出

 身者を一先ず習志野へ集合せしめる事となり、広島県似島収容所に居ったベルシァンヂ

 レン外15名は、3日午前7時10分東京駅着、直に習志野に向け発足したが、一行は

 皆、支那内地から召集された予・後備兵なので、35歳から50歳位まであり、服装も

 背広や軍服が夏冬取り取りのがあり、東京駅から両国迄の大通りは、此の異様の珍客を

 迎えて人目を惹いた。一行は皆、東京が初めてであるので、見るもの聞くもの珍らしく、

 各所絵葉書や土産物などしこたま仕込で、携帯の雑嚢を大きくした。

 

大正8年7月10日( )東京朝日

解放された俘虜

 喜び勇んで昨日横浜へ

  習志野に収容中なりし独逸俘虜中、アルサス、ローレン人は、平和克復と共に、愈本

 国に送還せらるる事となり、フェッス曹長以下下士官5名、卒119名は、鈴木中尉に

 引率され9日未明習志野を発し、同9時10分両国駅着。徒歩にて東京駅に到り、午後

 零時十分発列車にて横浜に向い、仏国大使館員に引渡されたり。今朝8時解纜の仏国汽

 船エム・エム・ネラ号にて出発の筈なるが、尚捕虜中希望により日本に残留する者も若

 干あるべしと、東京駅待合室にて休憩中のフェッス曹長は、喜びの色を満面に現して語

 る。「随分長い間厄介になりました。潰滅の本国へ帰るのですが、妻子の顔が見られる

 のを思えば、嬉しくって堪りません。」

 

大正8年7月25日( )東京朝日

 加藤ドクトルがパン屋を開業

  独逸の俘虜を雇って大森に製造所を設く

◇中産以下に安く売る

  平民病院、平民食堂、平民法律相談所と、平民の文字で知られた平民病院長加藤時次

 郎氏は、更に麺麭の実費販売をして、幾分でも中流階級乃至労働者に生活の負担を軽く

 させようと、府下大井町字倉田に250坪許りの地を選んで、23日麺麭製造所の上棟

 式をやった。竣工は9月末頃になるとの事だが、資本金は3万円位で、其職工は、過般

 解放されて困って居る独逸俘虜を使って、一面彼等の生活難を救ってやるという。今、

 市中で売っている麺麭は1斤14、5銭以上しているが、此処でいよいよ製造するよう

 になれば、1斤6、7銭くらいで出来ようという話である。

 

大正8年9月3日( )東京朝日

5年越の独逸俘虜が、愈翼を伸す時期

 釈放委員会に列席する在仏国の永井大佐

  抜目のない彼等が東洋方面での活躍振りが見物

  巴里来電に依れば、独逸俘虜の送還は、講和条約の批准済みになる前に始めらるる事

 に決められたという事だ。而して、日本からは仏国大使館附武官永井大佐と重光氏とが

 委員となって、此俘虜解放委員会に列席する、とある。愈此事が実行されるとすれば、

 習志野に居るワルデック将軍以下4000の青島籠城軍も、遠からず思い思いに自由の

 天地に翼を伸ばして、大正3年以来5年越しの隔離生活から放たれる訳だ。尤も、根が

 抜目の無い独逸人の事だから、中には俘虜生活の5年間をけつくよい機会として、日本

 語や支那語をみっちり勉強した連中もあり、解放と同時に東洋方面で活躍すべし。一日

 千秋で待ちあぐむ手合もあるとのこと。殊に、戦前の青島に大商店を経営して居た貿易

 商、漢米ライン支配人ニコライ、北独逸ロイド代理店支配人ライメルス其他6名の支配

 人等、斯界に堂々たる実業家も交っているから、釈放後の彼等が活躍振りは、多少の興

 味ある見物であろう。

  竹上俘虜情報局長は右に付き、「まだ陸軍省には何も電報が無くて、何うなる事か一

 向判らないが、俘虜釈放という事もまだまだ幾多の折衝を経た上の事で、近く夫が実現

 されるという話は、まだ聞かない」という事であった。

 

大正8年11月7日( )東京朝日

瑞西公使に引渡す独逸俘虜

 500名ぐらいは日本に残留

  講和条約が愈来11日を以て効力を生ずる事となり、従って我国に収容された独逸俘

 虜4406名は、5年振り自由の天地に解放される事となった。右に就き、陸軍省に於

 ては、昨日、習志野、名古屋、青野原、板東、似島、久留米6収容所長を招集し、午前

 9時から同省会議室に於て俘虜送還準備委員会を開会、菅野軍務局長、畑軍事課長、篠

 崎事務官、岡部外務書記官列席、送還に関する諸般の協議を為し、正午、一同陸軍大臣

 に招待されて午餐の饗応を受け、午後再開。同4時、散会した。会議は今日午後を以て

 全部終了、明日頃独逸政府の委任を受けて居る瑞西公使と折衝し、便船あり次第に送還

 の運びとなった。送還船が、先ず何れの航路に依るやも瑞西公使の意見を俟つ筈だが、

 内約500名位は日本内地に残留して、諸会社に雇われる事を望んで居るそうだ。

 

大正8年11月8日(土)東京朝日

釈放の日の晴衣を良人へ送って

 物価騰貴と憂鬱症に悩された俘虜の妻が、後1月の待遠しさ

   引渡しの世話は瑞西公使

  青島戦以来日本に収容されて居る独逸俘虜約5000は、講和条約の批准も終ったの

 で、近々母国に引揚げることとなり、独逸本国からの依頼に依って瑞西公使が万事万端

 引渡しの世話をする筈である。昨日、代理公使のヂュニー氏を訪うと「彼等は何れも、

 5箇年間の久しき貴国の誠意と厚情とを心から感謝しているが、然し何といっても異郷

 生活、其寂しさは想察に難くない。帰心矢の如きものあるは人情で、釈放の日を一日千

 秋の思いで待ち望んでいる。俘虜釈放に就ては、両3回日本政府とも交渉を重ね、去6

 日の協議で送還方法を略決定したが、汽船会社は何処も船腹大不足で、出帆の日はまだ

 判らないけれども、1箇月以内には何とか運べると思っている」と語った。

  ここに、思いは同じ俘虜の夫人達は、良人が自由の身となるを待ち兼ねて、早くから

 来朝したものが少からず、現に横浜には5家族が、山手居留地から根岸方面にかけて明

 け暮れの侘び住居、彼の領土退去を命ぜられたものの、家族も交って一家団欒の楽しみ

 を待ち焦れつつ、遉に悲喜交々のロマンスも多いが、わけても一斉に影響を蒙りつつあ

 るは、物価騰貴の生活困難である。

  先ず俘虜の家族では、徳島に収容されたマイヤマン、久留米のボルゲ、習志野に居る

 シグネモア、レーデルスタイン、オットライメルスの妹婿なるコッポ等で、コッポを除

 いては悉く皆、夫の友人の家に寄寓して居る。其は生活費の欠乏もあるが、大概は、夫

 を思い自由をあこがれて懊悩の極、憂鬱症に罹った為とはさもあろう。マイヤマン、ボ

 ルゲ両人の妻は、何れも愛児を抱えて、此春迄、夫の収容先に住み、毎週1回の面会日

 に其愛児の顔を見せに通っていたが、其も今は思うに任せず、イリス商会重役ハンセン

 氏の情に引取れてからは、殆ど隔日に手紙に巻き籠める思いの丈けのペンの跡。つい両

 三日前には、解放の日の晴の衣装を小包で夫の許へ送り、「私も出迎えに行きます」と、

 暗愁の顔に喜悦の表情が輝いて来た。近い習志野組の夫人連は、毎週水曜毎に、降って

 も照っても、夫の好物を求めては訪ねてゆくし、横浜在住の他の独人等も、チョイチョ

 イ慰問に行くので、俘虜中の果報者となって居る。

  又、退去独人の家族で、夫の退去先へ追掛けて行った者もあるが、斯う永引くとは夢

 にも思わず、そのうちに貯えが薄くなり、立つにも立たれず、今はやはり友人達の情に

 縋って居るが、彼のホッケスの内縁の妻であった狩野女は「私は永久にホッケスの妻で

 す」とばかり、初めは種々な誘惑の手をふり払って居たが、いつか「敵国人扱いされる

 のが辛さに」と、今は或る若い商館員の奥様となって居る。

 

大正8年11月13日( )東京朝日

5隻の巨船を仕立て、独墺俘虜の帰国

 家族を併せて約5000名

  瑞西公使が熱心な斡旋で川崎汽船が新造船を提供

  習志野、板東、名古屋、青野原、似島、久留米の各地に収容の独墺俘虜4000余名

 は、平和克復と共に全部解放され大部分帰国すべきが、客船不足にて、欧洲航路の如き

 は明春迄総て船室売切れなれば、4000余名の多人数を急速に、而も一時に輸送する

 は容易の業にあらず。駐日瑞西公使、専ら其準備に腐心し居れるが、郵船、商船両会社

 に交渉し、一方、過般来新造大型汽船を有する川崎汽船に之が交渉を開始し、略取定め

 を見るに至り、瑞西公使代理チスマー氏は13日来神、川崎汽船会社と打合す所あり。

 又、俘虜中のサクラー(ワルデック総督参謀長)及パートン両氏は俘虜を代表し、汽船

 検分の為、是亦同日来神し、港内繋留中の9100頓の新造船数隻を実地視察したり。

  右に就き、阿部川崎汽船重役は語る。「送還俘虜数は4000余名、家族を併せて4

 千7、800名となる。チェックの輸送は、同9100頓型の船1隻に1200名を乗

 せたが、俘虜は1000名として5隻の大型船が要る。尚、彼等は独逸直行を希望して

 るが、夫には多量の食糧品、石炭等が必要だから、一寸研究問題だ。尚、本社としては

 船をチャーターの形にしたいのだが、俘虜の意向としては全りお客になって帰りたいら

 しいので、条件が温らない。船は、川崎の丈で来福、喜福、豊福、永福の4隻(重量頓

 9100頓)と国際汽船のマルタ丸(8800頓)になるだろう。又、乗船地は多分、

 神戸、横浜、門司の3箇所になると思う(神戸特電)。

 

大正8年11月14日( )東京朝日

黒表の撤廃に在留独人の喜悦

 横浜に於ける大商館、戦前勢力挽回の確信

  日独の協同と親善を説く

 ◇将来の抬頭振が見物

  対敵取引禁止令発布後4年、手も足も出ぬ不自由な月日を送った敵国人は、横浜丈で

 303人居る。中にも、嘗ては東洋の市場に雄飛した商館17、見る影もなく寂れ返っ

 た今、該法令撤回の噂に、遉、包めぬ喜びの色は見えた。有名な商館は、上海の本店と

 共に独人の金融を支配していた独亜銀行を筆頭に、イリス、ベルグマン、ウィンスレル、

 オットライメルス、レッツ等で、現に独亜銀行管理の財産は、通常預金の約1500万

 円を初め、保護預金162万2千余円と50万円の土地、60万円の建物其他で、雑と

 2000万円に上るという。個人ではレッツが最上であるが、彼等の目前に迷っている

 事は、数年間音信不通であった本国の事情がどうか、将来の経済戦に連合国が尚も執拗

 に圧迫しはせぬか、商売は自由になったと言い条、本国政府の償金支払が済まぬ内は、

 最後の取引は依然我当局の許可を待つ事となり、商機を逸する事はないか抔という点で

 あるが、男性的な独逸魂の彼等は、飽く迄踏留まって戦前の勢力を挽回する確信がある

 らしい。戦前彼等に絶対覇権を握られて居た薬品、機械類、其他工業品市場の今後は、

 大なる見物に違いない。現に、戦前輸入の薬品を山積して居るノーマルデスペンサリー

 の如きは、第一に機を見て抬頭するであろう。

  東洋方面の独逸巨商と称せらるる横浜山下町イリス商会総支配人ポール氏は、禁令撤

 廃に就き語る。「今回、愈、枢密院で撤廃を決議された事は悦ぶべきで、取引禁止後の

 吾々の苦痛は言語の外で、其為没落の悲運を見た者も多いのであるが、再び商業上の自

 由を得たことは、我々のみか、日本としても多大の利益と思う。唯、将来独逸商人が如

 何の方法で商関係を復活するかは公言の限りでないが、少くも戦前の状態──夫よりも

 更に一歩を日独貿易の上に進めたと思う。従来、日独両国商人は、各別の取引をしてい

 たが、今後はお互に協同してやらねば理想的発展は出来ない。又、独逸本国の商人中に

 は封鎖の解くると共に、沢山の資本を持て国外へ出掛ける者が多いに違いないが、日本

 の様に我々に好意を抱く国へは必ずや多数の渡来者があると思う。日独は、斯して益親

 善関係を育てねばならぬ。我々は、戦時中も今も、日本に対し感謝の意を表し、在留者

 の大部分は従前通り日本に留まって平和な生活を送りたいと希望して居る」と、喜びの

 面を輝かした。

 

大正8年12月8日( )東京朝日

お待兼の独逸書

 来春早々沢山来る筈

  戦争の疲弊も見せず相変らず堂々たる体裁

 ◇我が学界も賑わん

  我が学界に渇望されている独逸の書物が、ボツボツ来だした。昨今では金融関係に幾

 分面倒はあるが、其の取引は本国から直接に行われている。丸善の書棚には、既に19

 20年の日附入の独逸書が飾られ、主として医学、化学、工業書類が到着しつつある。

  右に就て丸善の田中洋書主任は語る。「私共の方へは、電報や手紙でどしどし、註文

 を早く呉れと云って、非常に友誼的にやって来ていますが、独逸商人の機敏さがよく窺

 われます。兎に角、対敵取引禁止が解除せられて以来は、全く本国から取り寄せられる

 様になりました。戦時中は英国、和蘭、瑞西等の政府の手を経て来たので十分期待する

 事が出来なかったが、来春早々、戦後第一の註文品が来る訳で、我国の学界も幾分賑う

 事と思います。本の印刷や紙質も、英仏が非常に粗悪になったにも不拘、今迄来た独逸

 書、例えばアショップの病理学の如き、戦前と決して異る所なく完備したもので、戦争

 の疲弊等は見る事が出来ません。が、私共もお客様も、4年間の不便を埋合せる為め、

 便船の出る度に続々註文を出しますから、来春から規則的に沢山輸入せられる様になる

 と、或は印刷や紙質に戦後気分が加わるかも判りませんが、今の所は、全く堂々と立派

 なものです。又、戦争中の出版思想の傾向等に就いては、今後来る書籍を待たなければ

 判らない事です。」

 

大正8年12月21日( )東京朝日

近く帰国する独逸俘虜

 絶対に英領に寄港せず

◇一行は皆貨物扱い

  独逸俘虜全部は、25日神戸出帆のヒマラヤ丸、豊福丸及26日出帆の喜福丸にて、

 夫々帰国の途に就くべく、20日久留米、板東及青野ヶ原収容所から、其準備員64名

 先着、セントラル・ホテル及キリン・ホテルに分宿、荷物の整理等に忙殺されて居る。

 大阪商船神戸同支店船客係は語る。「25日のヒマラヤ丸は1千人程乗せ、蘇士通過、

 漢堡に行きます。必ず英吉利領土に寄港せぬようとの註文ですから、其通りする筈です。

 喜福、豊福の両船は、多分巴奈馬運河を経て帰ることになるでしょう。船室の区別等は

 ありません。船客としては扱わないことになって居りますから。」(神戸電話)

 

大正8年12月25日(木)東京朝日

今日解放される習志野の俘虜

 午前と午後の2回に、将校・下士卒600余名

  ワルデック総督は残留者の処分つき次第に帰国す

  習志野俘虜収容所の独墺俘虜は、愈解放せらるることとなり、今25日午前7時31

 分津田沼駅発の上り列車にて、将校32名、下士以下43名出発し、更に同日午後1時

 31分同駅発の貨物列車にボギー車10両を連結し、将校35名、下士以下540名出

 発する筈なるが、午前7時に出発すべき将卒75名は、日本将校1名附添い8時19分

 両国駅着、夫れより東京駅に到り、午前10時15分同駅発の下関行列車に搭じ、26

 日午後神戸発の便船に乗込む予定なるが、一方午後1時21分発の575名は、日本将

 校5名下士以下2名附添い、亀戸より千住に到り、山の手線を迂廻して神戸に到り、2

 7日同地発の汽船にて帰国の途に就く予定なり。尚、習志野収容所に残留すべき俘虜は、

 ワルデック総督以下170余名あるも、這は解放命令の出でざるが為にあらず。横浜に

 家族を有するもの又は日本の各所に雇傭契約の成れるものなれば、本国に帰還せず日本

 に残留するものにて、ワルデック総督のみは是等俘虜の処分つき次第帰国する由(千葉

 電話)。

支那及び印度へも渡航希望者が多い

 ワ総督の出発は来春早々か

  解放されし独墺俘虜の中、年内に乗船すべき者は全部にて約3000名にして、此の

 内994名は豊福丸(12月26日神戸乗船)、941名は喜福丸(12月27日神戸

 乗船)、爾余は12月28日門司乗船のヒマラヤ丸に収容し、青島(喜福丸丈け)、上海

(ヒマラヤ丸丈け)、新嘉坡、サバング、坡西土に寄港の上、本国に直航する筈なり。右

 の外、東洋に家族を有する者は、明年1、2月頃出帆の汽船に、其家族と共に乗船、帰

 還の予定にて、ワルデック総督以下若干の幹部将校も、該船にて帰還すべし。尚、日本

 領土に居住希望者は約350名内外(内、青島に行く者約150名)あり。支那及び蘭

 領印度に渡航希望者約250名あるが、右に対しては、前者は詮議の上これを許可し、

 明春早々解放し、後者は行先国政府の承認を得たる者に限り、詮議の上其渡航を許可す

 る筈なり。

 

大正8年12月26日( )東京朝日

俘虜、故国に向う

◇習志野の将卒600名

  手造りの土産を抱えて、着古した軍服も懐しく

  過去4年の久しきに亙って習志野の収容所に俘虜生活を送った青島戦の独墺将校・下

 士卒600は、愈彼等が楽しきクリスマスの25日、自由の天地に解放せられる事とな

 った。

  生憎、寒雨に閉じられたが、前日来商人から買集めた土産物や、俘虜生活の徒然の手

 慰みに作った玩具や、杉の荒削りで作った椅子等を大切そうに小腋に抱て、夏中鋤や鍬

 やで耕して麗わしい花を咲かせた花園の末枯も、思い出多いものに見返りつつ、カイゼ

 少佐以下将校32名、下士卒43名は、午前7時31分津田沼発の列車で、同8時19

 分両国駅に着し、ここから隊伍を組んで寒雨を物ともせず、或は談笑し、或は微吟しつ

 つ、心の喜びを隠しもせず、着古した種々雑多な軍服に思い思いの荷物をかついで、両

 国橋を渡り、浅草橋、須田町、小川町と、彼等が玩具の様だと云う美しい日本家屋、街

 衢の様などに最後の興味を感じつつ、東京駅に着き、直に10時15分発の列車で神戸

 に向っ        た。「日本にも少し居て、きれいな景色を見たい」など、記者を顧みながらも、

 心は既に故郷の山河に走って、「あなた方の好意に感謝します。ただ、嬉しいような淋

 しい様な気がするばかりで、何も国へ帰って見ないでは分りません」と語る。一方、後

 に残った575名は、午後1時20分津田沼駅を出発し、亀戸より千住に到り、山の手

 線を迂回して神戸に着し、27日同地解纜の汽船で帰国の途に就く予定である。

日本で唯一の音楽図書館

 南葵音楽堂に開設

  欧洲楽聖手澤の珍書500部が来春到着する

  麻布飯倉、徳川頼倫侯邸内なる南葵文庫附属音楽堂にては、主幹・徳川頼貞氏が、日

 頃熱心蒐集したる内外の音楽書3000部を基礎に、同館地下室を陳列所に充て楽界某

 名士に依頼し整理を為したる上、明春頃より公開して、普く音楽同好の人々の為に閲覧

 せしむる由なるが、是れ我が国唯一の音楽図書館なり。

  尚、右書籍の外、最近英国に註文したる珍書約500部は、来る1月中旬頃到着の予

 定にて、就中、楽聖ハンデルの遺稿、バッファーの室内音楽に関す自筆の遺稿を初め各

 種の珍貴なる楽譜、ベトーヴェンの書翰及同氏が1885年倫敦アルバタホールに於け

 るワグナーの指揮に使用したりと云う因縁ある同氏第九シンフォニーの初版、又ワグナ

 ーとブラウン両人の間に往復したる書翰等、容易に得易からざるもの尠からず。右は一

 昨秋、倫敦市立音楽学校長として有名なるカーミング博士が多年苦心蒐集したる音楽図

 書を、同博士死去と共に競売すべしとの広告ありしを発見して、先年在英中師事したる

 メーラー博士の尽力を請い、巨額の資金を投じ買受けたるものなりと。

 

大正9年1月2日(金)東京朝日

解放俘虜がお芽出度

 長々お世話、と日本人に挨拶

◇神戸から上海に直航

  送還船ヒマラヤ丸で5年振で故国に帰る事となった久留米収容所の俘虜787名は、

 1日早朝、鉄路門司に着いた。税関浜に全部集合の上、150名宛汽艇に乗船、ヒマラ

 ヤ丸に運ばれた。桟橋附近の日本人を捉えて、覚束なき日本語で「お芽出度う。長らく

 御世話になりました」などの愛嬌を振蒔いて居た。午前9時前、全部乗組を了した。ヒ

 マラヤ丸は、船体に故障が出来たので、上海に直航の予定を変更し、一先ず神戸に引返

 し、修繕の上、同港より上海に直航する事となった。因に、久留米収容所の残留俘虜は

 尚130名あるが、彼等は何れも家族を有する関係から、次の便船で帰還するそうであ

 る(門司特電)。

 

大正9年1月5日( )東京朝日

面影変る青島の古戦場に立ちて

 感慨無量の俘虜400

  帰国の途、5箇年振に懐しく、悲しき思い出の土を踏みて

  青島戦の俘虜400名は、愈本国に送還さるべく、其途中、2日夕方青島に入港、3

 日上陸せり。今回送還の俘虜中には、愛せる妻子を此地に残せる者少からず。大桟橋に

 待兼たる妻子は馳せ寄りて、互に相抱きて、感激の余り語を発し得ざる幼児や婦人もあ

 りて、種々の悲喜劇を描き出し、三々五々手を連ねて市中見物を為し、其中にはモルト

 ケ、イルチス、ビスマルクの3砲台附近を、強者共の夢の跡、感慨に堪えざる面持にて、

 低徊去り難きものあり。第一線小堪山、海岸砲塁の辺は、既に当時の面影なく、会戦当

 時は僅に煉瓦工場のみにて一面荒寥たりし税関附近一帯の地が、今や邦人によりて堂々

 たる市街となれるを、驚きの眼にて眺むるあり。政庁の大建築物、総督官邸等は、美観

 昔日に異らざるを名残りなく見廻り、直に自己の店舗に入り、久方振に妻子卓子を囲み

 て、互に5年間の苦しみ悲しみを語り、尽きぬ思いを滞在4日の間に留めつつ、香港に

 向うべし(3日、青島特派員発)。

 

大正9年1月23日( )東京朝日

新独逸大使は講和促進の急先鋒

 四代の内閣に列して重望を担えるゾルフ =梵語学者としても有名

  独逸が戦後第一の使者として我国に派遣する駐日大使ゾルフ氏に就て、長瀬鳳輔氏は

 語る。「1917年の7月、即ち大戦後5年目、彼のベートマンホルウェッヒ内閣倒れ

 て、社会、共和両党より成るミハヰリス内閣組織の当時、官僚派として知られながら内

 閣に列して殖民大臣となったのは、ゾルフ氏其人であった。ミハヰリス内閣は、三日内

 閣の名を残して瓦壊したが、ゾルフは其後任に擬せられた程である。尤も、後継内閣は

 ババリアの中央党首領ヘルトリング氏に依って組織される事になったが、ゾルフ氏は依

 然殖民大臣ととして居据り、而も閣員中の大立物として其名を謳われた。ゾルフ氏が熾

 に講和促進主義を唱えて、窃に米国に妥協的講和を申込んだりしたのも、其時である。

 ヘルトリング内閣亦短命に終り、1918年例の休戦が国内に唱えられ、バーデン公国

 のマックス大公が首相の印綬を帯ぶや、ゾ氏は又其一員に挙げられ、外務大臣兼殖民大

 臣の栄職を占めて、鮮やかな外交振を示した。同内閣は勿論、社会、中央両党が樹立し

 た純然たる民主内閣であって、官僚的色彩を帯びた者は氏一人であった。ウ氏と講和の

 交渉を開始したのも此の内閣であるが、斯かる民主内閣の中にあって、官僚的と目され

 ながら協調を保って行けるという事は、並大抵の手腕ではない。一面に於て国民から如

 何に信望を厚うしているかを、察する事が出来よう。同年11月15日、復もやマック

 ス内閣が仆れて、社会民主党のエベルト内閣が起った時にも、外務と殖民の顕職にあっ

 た。昨年2月、エベルトが大統領となって、シャイデマンが首相となるに及んで、四代

 の間親しんでいた閣員の椅子を退いたが、講和第一の主唱者として、今でも国民から重

 きを置かれている。外交と殖民にかけて手腕のある事は、永い間内閣中主要な椅子を占

 めていたのに徴しても判ろう。

  現在独逸国内の識者が、我日本を如何に重く見ているかは、斯人を以て平和第一の使

 節とせるに依って窺われる。殊にゾ氏は、日独戦に対し、自国政策の過誤を鳴らしてい

 る。今後の両国親善は、其力に俟つものが多かろう。氏は温厚篤実、哲学博士の学位を

 有し、サンスクリットに巧なるは、其手腕と共に名高い。」

                        写真:日本に大使たるべき独逸前殖民大臣ゾルフ氏

 

大正9年1月24日(土)東京朝日

ワ総督 26日、愈釈放さる

  習志野俘虜収容所に残留せるワルデック総督以下99名は、来る26日午前8時、全

 部解放さるることとなれるが、当日は同所に於て解散式を行い、同9時14分津田沼発

 の列車にて一先ず状況することとなるべきが、解散後は各自随意の行動を取るべしと(千

 葉電話)。

愈専管と聞いて喜ぶ青島民の発展振り

 純日本式にどしどし工業地が出来て、人口は増すばかり

  小幡公使の山東還附交渉、公文書として青島に日本専管居留地設置が伝えられる。右

 に就き、同地に協信公司を経営し、最近帰京した藤浪子爵令嗣茂時氏は語る。「戦前、

 独逸経営の頃から見ると、現在は面目一新、人口、地域両方面に、殆ど2倍の発展を見

 た。戦争前、南に独逸人街、中央に支那人街があり、最近邦人が北の台東鎮まで続く一

 大工業地を経営し、落花生油製造会社、東洋、青島各製塩会社、卵■会社、ビール会社、

 鉄工場、石炭会社等が林立して、市街地迄純日本市街を作る。尚、支那街の間にも邦人

 の店舗がどしどし出来て、その発展振りは真に眼覚ましい。

  青島の人口は約7万で、其の内日本人は約3万、日一日と増す一方である。例の居留

 地問題は、昨年8月中頃に起り、市民大会や有志会合が催され、与論が高まって実行運

 動のため数回に亙り陳情委員が状況した。今や該問題は、在■官民全体の一致した要望

 だから、将来有望な青島に於ける邦人の発展の為め、決定の暁、その喜びは思いやられ

 る。」

教会を建ててオイケン老博士

 精神的大活動を開始

  寄稿の論文は既に発送 19日伯林特派員発

  ルドルフ・オイケン博士が、我社の為に起稿せる「日本と独逸」と題する原稿は、既

 に日本に郵送されたるが、該文中博士は、独逸は罪と運命とに依りて大敗せしも、独逸

 の文化と精神とは滅びずとて、現代の欠陥を痛烈に批評し、意義ある人類生活と真目的

 を必要とすと論じ、言々句々、哲人熱血の響あり。博士は又、オイケン教会を建て、本

 部をヱナに置き、時勢に鑑がみ精神的大活動を開始すべき旨発表し、予(特派員)に宛

 し書簡に依れば、或は大学教授を辞するやも知れずと言えり。

 

大正9年1月27日(火)東京朝日

習志野の平和の春に釈放されたワ総督

 俘虜生活5年の追憶に、収容所の広庭を去りかねつつ

◇暫く横浜に滞在して帰国

  楚囚5年の寂しい月日を習志野収容所に黙々と暮した、前の青島総督ワルデック大佐

 の身にも平和の春が来て、26日朝10時、そこの広庭で他の40余名の部下達と共に、

 目出度く釈放された。

  朝7時、神戸まで送還釈放されるセーラー中尉以下将卒54名の俘虜が、当直将校の

 岩崎中尉に引率され、喜び勇んで出て行くのを門前まで見送った総督は、先頃来準備し

 てあった大小数十個のトランク其他の荷物を運送屋の荷馬車に積み込む監督をしたり、

 背の高い老副官と彼方此方をブラついて、一緒に出る部下達が思い思いに立ち騒ぐ様を、

 安心の眼で眺めたりした。茶の中折帽、紺背広の上に青味を帯びた黒の外套を纏い、赤

 靴に茶革のゲートルという軽装をした肥満の総督の赭ら顔は、遉に明く晴かである。9

 時過ぎ、俘虜受領委員とあって宣教師シュレーダー氏が来て、日本側の委員山崎少将と

 会見する間に、全部の荷物を2台の荷馬車に積み終ったワルデック大佐以下40名の俘

 虜は、事務室前の広場に整列して10時を待つ。軈て所長の山崎少将はシュレーダー氏、

 高橋中尉其他所員一同と共に現れて、「諸子が、俘虜としての窮屈な淋しい生活を、5

 年の永い間無事に送られた事は、諸子が非常の忍耐の力に依るもので、之に対して厚く

 敬意を表したい。又、今日非常の健康で諸子を釈放する機会の到来せるを欣幸とする。

 諸子の安全な旅行と、将来の幸福を祈る」と云う意味の別辞を述べて、万歳を三唱する。

 これに対してワ総督は、「永い間、自分等は所長閣下並に閣下の部下の将校其他の官吏

 から、非常に親切な取扱を受け、今日無事故国に帰る事になったことを、深く感謝する」

 と述べ、独逸側のシュレーダー委員は、受領した一同の点呼をした後、「自由は人生に

 最も必要で、諸君は永い間の苦痛を忍耐した結果、今日の自由を得られたのである。今

 後は更に独逸の為め、新勢力を以て努力せられん事を切望する」との訓示があって、釈

 放の儀式は済んだ。

  ワ総督は双頬に微笑を湛えて、所長の甲乙と堅い握手を交える一方、部下達から送る

 別辞の握手敬礼を八方から浴びつつ、泥濘の道を徒歩で津田沼駅に出て、午前11時1

 8分の列車で上京、更に東京駅から横浜に一先ず落ち着いた。横浜で暫く滞在し、来月

 中旬か下旬の便船で帰国する予定だと云う。

                写真:住馴れた廠舎を出ずるワルデック総督(下図はその自署)

 

大正9年3月14日(日)東京朝日

愈帰国するワ総督

 16日東京駅発で/日本は住み好いと言い暮す

  赤坂表町のランド・グラーフ氏邸に寄寓して居る元青島総督ワルデック氏は、愈来る

 16日午前、東京駅発列車で神戸に到り、同地解纜の南海丸で帰国する筈だが、氏の外、

 東京に残留していた少数の俘虜達も、日本で就職する者を除く外、全部同船で帰国の筈

 である。昨日グラーフ氏邸を訪れると夫人が出て「只今ワルデックさんは、好くお寝み

 です。ワ氏は、毎日一度は必ず外出しますが、行先はシーメンス・シュッケルトかイリ

 ス商会であると存じます。故国への土産物は大して支度されて居ないようです。只、日

 本は住み好いと云って居られました」と語った。

 

大正9年3月17日( )東京朝日

「帝政」に微笑して/ワ総督昨朝故国へ

 日本に対する好感を永久に傷けたくない

  青島開城を偲ぶ見送り

  「いろいろお世話になりました」 見送りの誰彼に別れの握手を交わして、永い俘虜

 生活からいよいよ、来る21日神戸解纜の南海丸で帰国の途に着く元青島総督ワルデッ

 ク氏は、16日午前8時、格腹のいい体躯を東京ステーションの一等待合室に現した。

 「本統に日本の人達には、長い間御厄介になりました。日本に対する好感は、永久に傷

 けたくないと思います」と、坪井貴族院議員、長島前代議士などに語る。「私ばかりで

 なく、総ての俘虜に対して与えて下すった日本人の親切は忘れません。本国の家族、同

 僚、政府にも、手紙で知らせて置きました。全く、感謝の外はない」とプラットホーム

 へ出る夥しい見送り人に囲まれて、青島開城当時を思い出してか、あの時よりも大変だ、

 と、愛情の深い目を見張ってギョッとする。

  「日本を去るに際し、別に新しくお話する様なこともない」と、総督は記者の手を握

 って「深い御同情に預りました」。更に近頃の電報を示して「帝政派復活に就ては?」

 と問えば、僅に微笑を洩らすのみ。黙々として語らず、見送りのうちランド・グラーフ、

 ケストネルで前田通訳、湯目二高教授、嘉悦、指原両女史等に対して、再び力強い握手

 を交し、最後部の一等寝台車入口に立ち、茶色の帽子を振つつ「左様なら、皆さん」。

 8時30分である。

 

大正9年3月21日(日)東京朝日

200箱に詰めた前独大使の財産

 ワ総督乗船の南海丸で

  6年振に持主へ帰る/大使館はガラン洞

  6年の間、全く旭の目も見ずに閉じ籠められて居た独逸大使館は、この夏時分遅くも、

 新共和国の大立物たるゾルフ氏が、新駐日大使として来ることになって居るが、永の間

 を噂にされた前大使レックス伯の財産は、我政府の財産管理令の桎梏を免れて居たが、

 元青島のワ総督が、愈近く神戸解纜の南海丸で帰国する其船に、大使の財産全部を取纏

 め、館内の留守居の人達が総掛りの大汗で荷造りをして、漸く独ドレスデンに隠棲して

 居る前大使の許へ送る事になった。何というにも、前大使は支那に5年、波斯に5年と、

 東洋を経廻っただけに、買蒐めた美術品山の如く、荷造りの箱約200個、その中に最

 も高価のものは、世界芸術界の誇りといわるる波斯の真鍮彫刻品で、高さ1丈以上の真

 鍮燈籠や、極めて小さい香炉の彫刻や、同国帝室博物館にも珍稀な逸品が蔵され、中に

 も今日数十万円の価格ありといわれているのは、波斯本場の織物で、窓掛や敷物や、あ

 の広大な数十の室室を飾った一切の織物も、レックス伯の私有物として箱詰めとされ、

 南海丸に托された。斯うして一切の什器を取払った大使の本館跡を昨日覗いて見たが、

 「後任大使は、何万円と投じなければ一切が出来ますまい。」と前田通訳は熟々と首を

 捻って居た。階上の大使の書斎や客間の数々には、大姿見のみ曇れる儘に眼につくが、

 「此処の大椅子に、体量40貫もあった大使がよく腰掛けて居ました。」と前田氏がい

 う隣には、大書棚に6年超しの埃が堆く。戦乱6年間の歴史の1頁を物語って居る。各

 国大・公使館中に最も贅を極めたという階下の大客間は、今猶美々しく、白亜の四壁に

 金色の鏤彫が、薄暗い中にきらきらと光ってる。

  「これには、話がありますぜ。大使が大正3年の6月に手を入れて、大した金を掛け

 たものです。大夜会を開こうと急いで竣成した8月、同時に国交断絶となって其儘です。

 大使は、残念だったといいました。」と案内する。正面を見れば一段と高い、古いが美

 美しいカアテンに囲まれてある帳を開くと、大油絵の金縁美しいカイゼルの肖像である。

 夢と消えた軍国主義の化身は、剣柄を掴んで悠々として居る。塵、金縁の額に同じく堆

 くて、人もなき有様。前大使が荷造りの縄の断片の乱雑な中に、変らぬ姿は本国の乱麻

 の■状も応わしい。

  館員の室々には、往年大独逸の鉄血宰相ビスマークの大像や、モルトケ将軍やカイゼ

 ルの先代一世の像などのみが、寥々たるガラン堂の中に取残されてあるが哀れ深い。取

 残して行った前大使もひどいが、軈てゾルフ共和大使の赴任の日は、忽ちにして取卸さ

 れて、大統領の肖像と変るであろう。

 

大正9年3月23日( )東京朝日

宿を追われた4名の独人親子

 オリエンタルホテルに掲げられた宿泊拒絶の貼紙

  何処へ行っても同じ憂目を見ますと、乳呑児抱えた妻君の涙

  横浜山下町11オリエンタルホテルの玄関大硝子戸に21日朝、突然「独逸人の投宿

 を絶対拒否」と大書して貼り出された。此思い切った貼紙には、平和克復の今日、諸外

 国人は異様の眼を瞠って居る。

  右に就き、同ホテル経営者仏人コッテ氏は、昂然として語る。「去る20日、天津及

 び麻尼拉から着いたドガー・ビーゲルマンと云う親子4人連の客があった。宿帳には特

 に国籍を記さず、単に麻尼拉在住者とのみ認め、宿泊することとなった。所が後で、私

 は独逸人と云うことを知り、直に追出した。今後とも、決して独逸人は泊めぬ。」と云

 う。

  一方、宿を断られたる親子の落着き先なる仏国ホテル(邦人経営)を尋ねると、丁度

 ビーゲルマン夫人が居て、乳呑児を抱えながら、仮令国と国とが犬猿の仲とは言え、平

 和となって迄斯くも敵愾心があるとは思いませんでした。此処許りでなく、何処に行っ

 ても同様の憂目を見せられ、是れ程悲しいことはありません。私等は、戦争前8年程横

 浜に居住した関係上、懐かしさの余り上陸し、当時の友達を尋ぬる為めで、4月1日の

 サイベリヤ丸で米国を経て帰りますのです。併し、此後、長い旅路で悪魔のように睨ま

 れながら行くかと思えば、情のう御座います。」と泣いて語った(横浜電話)。

 

大正9年3月27日( )東京朝日

独逸人結束して外務省へ抗議

 大業な問題になったホテルの貼紙

  敵愾心の強い仏人支配人

◇再三の勧告で漸く撤廃

  横浜山下町のオリエンタルホテルで、去る20日、麻尼拉から来て投宿せる独逸人親

 子4人連れの客に立退きを請い、直に入口の硝子戸に「独逸人投宿お断り」の貼紙をし

 た事は既報の通りだが、横浜在住の独逸人は、其後この事件に憤慨し、一同結束の上、

 瑞典公使を通じ24日、我が外務省に対し「平和克復の今日に於て、尚斯かる侮辱的行

 為を弄するは穏かならず、速かに撤去を命ぜられたし。」との抗議を申込んだので、外

 務省では種々詮議の末、神奈川県警察部に命じてホテルへ貼紙撤廃を交渉せしめたが、

 同ホテル支配人コット氏は仏人で、欧洲大戦起るや本国政府の召集に応じ、帰国してヴ

 ヱルダン戦に参加した勇士で、独軍の残忍行為を目撃して来た事とて、敵愾心なかなか

 強く、容易に撤去に応じないので、警察部にても頗る持余したが、其の後再三の勧告に

 由り、同氏も漸く我官憲の立場を諒とし、昨日遂に問題は貼紙を撤去した。