東京日日新聞

 

大正3年6月30日(火)東京日日

維也納特電(28日発禁転載)

●墺国皇儲同妃暗殺

  墺国皇儲フランツ・フェルディナンド殿下及同妃は、28日朝ボスニアに於て自動車

 に同乗せられ市街を御通行の際、一学生の為拳銃を以て狙撃せられ、両殿下共間もなく

 薨去せられたり。

 

大正3年7月28日(木)東京日日

維也納特電(26日発禁転載)

●墺国宣戦布告

  墺国皇帝フランツ・ヨゼフ陛下は、塞爾維に対して26日宣戦を布告せり。

 

大正3年8月3日(月)東京日日

●独逸の予備軍人青島に向う

 本国から召集電報

  墺塞戦争局面拡大と共に2日、横浜・神戸在住予備後備独逸人に対し、電報にて召集

 令達し、先発として横浜在住独逸人5名は、2日午後9時20分神戸通過青島へ向えり。

 尚、横浜在住同国人30名、神戸在住若干名は、3日夕刻神戸出発の予定なるが、2日

 夜神戸駅に於ける見送り人は頗る多く、在住独逸人の自動車、腕車を駆りて神戸駅に向

 うもの200余名、プラットホームは是等一団の独逸人を以て満たされ、賑いたり。見

 送り人中に婦人頗る多く、在神独逸領事、墺国領事等も見受けたり。下関行列車の着す

 るや、何れも「ホッホ(万歳)」と叫び、車中の独逸人5名はプラットホームにて見送

 りの人々と握手し、7分間停車の後、歓呼の声に送られ西行せるが、一行は門司より乗

 船、青島に向う筈(2日、神戸電話)。

 

大正3年8月15日(土)東京日日

●青島の独兵五千

  7日青島より芝罘を経て今朝入港せる満州丸船長の談に曰く──出発の際、日本汽船

 2隻碇泊せり。其の内、日盛丸は荷役人夫欠乏し、木材の積卸に困却し居り。他の神護

 丸は、独逸政庁の御用船として繋留せるを見たり。米国汽船ハナメタル号の解放と同時

 に御用船となり、之を秘し、陰に芝罘より石炭を積取り、9日青島に入り、今朝上海に

 来れり。6日入港の際、多忙に見えし港口の水雷沈設も、7日迄に終了せる模様なりき。

 独逸人は、欧州の戦争は兎も角成算あるも、東洋に於ては日本最も恐るべしと称し、日

 本に対し進んで敵意を示すことは敢てする模様なく、運輸業に於ても、荷船の取締強硬

 ならず。青島には、義勇兵を加え約五千の兵力あり。支那人は、老幼婦女子の外、一切

 退去を禁ぜられ、日本人は一般に静平にして呑気なりしも、既に海上の交通絶たれ、鉄

 道の通路あるのみなれば、今日は少なからず気遣い居るならん。

 

大正3年8月24日(月)東京日日

●宣戦の大詔下る

 日独の国交、終に断絶す。

  東洋平和の為、誠意を以てしたる帝国政府の勧告的最後通牒に対し、独逸国政府は、

 予想せられたるが如く、回答期限たる23日正午迄、遂に何等の回答を送り来らず。其

 必然の結果として日独両国国交は、該瞬間より断絶し、愈々交戦状態に入れり。大隈首

 相は乃ち参内、以上の経過を奏上、聖鑑を仰ぎたる結果、愈々23日午後6時、官報号

 外を以て左の大詔渙発せられ、尚、同号外を以て大隈首相は、帝国は、本日午後零時よ

 り独逸国と国交断絶して交戦状態に入れる旨を告示したるが、一方外務省より、国交断

 絶後取敢えず書面を以て、東京駐剳各締盟国使臣に、右の趣を通告すると共に、吾が駐

 外使臣に電訓して、各其の駐在国政府に之を通告せしめたるが、東京駐剳独逸大使に対

 しては、同日午後2時10分吉田外務大臣秘書官を同大使館に遣わして、旅行券を交付

 せしめたり。

 

大正3年8月28日(金)東京日日

●青島に集中す可き墺兵

 陸兵八十余名、海兵三百六十余名

  墺匈国は日本に対し国交断絶を通告したれば、在東洋の墺国軍人等は当然、青島に集

 中して日本に抵抗すべきが、陸兵としては、天津・北京間に僅かに八十余名あるのみ。

 是等は7月末、太沽より何所にか出発したるが、多分青島に赴きたるものなるべく、海

 軍としても唯1隻の「カイゼリン・エリザベット」号あるのみにて、其乗組員三百六十

 七名、亦青島の要塞に入るとするも、是等は最初より独逸軍に加わるべきものと看做さ

 れ居るべければ、吾国に取りては何等の痛痒を感ぜざるべし。

●独逸艦隊

  最近の調査に拠れば、目下膠州湾内に在る独逸軍艦は左の如し。

                          巡洋艦コルモラン

                          同ガイル     3000噸級

                          同エムデン

 右の内、エムデンは出港したる形跡あり。

                          砲艦ジアーガー

                          同ラックス

                                   各900噸未満

                          同イルチス

                          同チゲル

                          駆逐艦エム90号

                          同ターク

 又、南洋独領を遊弋中にして所在不明のもの、左の如し。

                          装甲巡洋艦シャルンホルスト(スピー中将旗艦)

                          同グナイゼナウ

                          給炭船1隻

 此の外、ニュールンベルグ及びダンチヒの2隻は、墨国より帰途、前者は布哇より南洋

 に、後者は桑港より南洋に出たるが、其の後何等消息なきも、或いは前者はシャルンホ

 ルスト号と合せるにはあらざるか。外電の報ずる如くんば、濠州艦隊及び英国支那艦隊

 は、之を捜索しつつあるが如し。

 

大正3年9月14日(月)東京日日

●青島の俘虜君

 愈々要塞開城の暁、我軍に降る俘虜の取扱いは何うするか

  陸軍省と海軍省の間に、俘虜情報局設置の協議を重ねている事は、既記の如くである。

 これに就き某陸軍当局は語るよう「俘虜情報局は、早晩設置せねばならぬと思う。野戦

 と違って要塞戦は、開城の時に降服したものは全部俘虜とする訳であるから、比較的俘

 虜が多いものである。而して、青島の要塞には、現在約八千人の将士が居る。これが、

 戦死者を除いた外は全部俘虜になるものと見て差し支えない。情報局は、陸軍の将官若

 しくは大佐が長官となり、其の下に、陸海軍の佐・尉官及び相当文官が事務官、書記官

 となるので、俘虜に関する一般の監督をする者である。

  日露戦役の際は、石本中将が長官で、後に本郷少将−現中将−が任命された。事務官

 には、浅川騎兵中佐−現中将−外数名であった。今度も俘虜に関する規則は、大体に於

 て日露戦役当時のを踏襲するであろうが、一部に多分改正すべき点があるかも知れぬ。

 収容所は何処に出来るかは、情報局が設立された後の事で、まだ決定せぬが、日露戦役

 の際の如く多くはあるまい。

  俘虜と言えば侮蔑するものがあるが、彼等とても祖国の為めに奮戦した勇士である。

 刀折れ弾丸尽きて俘虜となるのだから、相当の敬意を表してやらねばならぬ。従って、

 准士官以上には拘禁せずに民家に居住する事も許されていれば、自由に散歩する事も許

 されている。最もこの場合、恣に他の俘虜を訪問したり、秘密に本国に通信をしないと

 いう宣誓はさせる事になっっている。そうして、身分階級に応じ、本国所属隊に於ける

 被服等の補修費用も給すれば、三食以外に紅茶や菓子等の間食も給し、囚われの身とな

 っているというような悪感を持たせないようにしてやらねばならぬ。日露戦争の時は、

 将校は1日6、70銭、下士卒は30銭位の予算であったが、今日ではなかなかそれで

 は済む        まいと思う。委しくは、情報局が設置されてからでなければ判らぬ」云々。

 

大正3年11月8日(日)東京日日

●総督以下の身の上

 捕虜同様内地に護送されん

  青島陥落に依って当然起る可きは、ワルデック総督以下の身の上なり。右に就き、某

 将校は曰く、彼等は白旗を掲げし以上、当然我が攻囲軍司令官の手に俘虜として取扱わ

 れざるべからず。無論、彼等を如何に遇すべきやは、軍使の協定を経たる上ならでは決

 定されず、今、俄に之を推断する能わざるも、他の捕虜同様内地に護送せらるる事とな

 るべし。而して、名誉ある守将として、我は相当の敬意を表すべきは勿論なるも、平和

 克復の後に於ては、彼等は当然本国の軍法会議に付せらるべく、其結果は、降服の理由

 が判士長以下をして首肯せしむれば兎も角、然らざれば旅順のステッセル将軍の如く、

 或は剥官処分となるやも知るべからず、と。

 

大正3年11月12日(木)東京日日

●俘虜収容所増設

 各収容所長任命

  青島陥落に伴い俘虜となりたるワルデック総督以下独逸将卒は、12日より続々内地

 に後送さるるに付、岡陸相は、左記各地に俘虜収容所を増設せる旨、11日告示したり。

    福岡、熊本、松山、丸亀、姫路、大阪、名古屋、東京

 右と同時に、左の通り、俘虜収容所長の任命ありたり。

        歩兵第1連隊附陸軍歩兵中佐・侯爵 西 郷 寅太郎

                東京俘虜収容所長被仰付

        歩兵第33連隊附陸軍歩兵中佐 村 田 一 郎

                名古屋俘虜収容所長被仰付

        歩兵第24連隊附陸軍歩兵中佐 久 山 又三郎

                福岡俘虜収容所長被仰付

        歩兵第22連隊附陸軍歩兵中佐 前 川 譲 吉

                松山俘虜収容所長被仰付

        歩兵第12連隊附陸軍歩兵中佐 石 井 弥四郎

                丸亀俘虜収容所長被仰付

        歩兵第10連隊附陸軍歩兵中佐 野 口 猪雄次

                姫路俘虜収容所長被仰付

        歩兵第37連隊附陸軍歩兵中佐 菅 沼   采

                大阪俘虜収容所長被仰付

        歩兵第13連隊附陸軍歩兵中佐 松 木 直 亮

                熊本俘虜収容所長被仰付

 

大正3年11月13日(金)東京日日

●青島俘虜の収容

  青島の俘虜は、12日より漸次労山港を発し内地に輸送さるべく、福岡に収容さるべ

 き敵将ワルデック大佐も亦、14日出発の筈なるが、是等の俘虜は、11日発表された

 る各収容所に、左の如く割当らるる由。

   ▲久留米 五百名 ▲福岡 一千名 ▲熊本 一千名 ▲松山、大阪 各五百名

   ▲東京、名古屋、姫路、丸亀、善通寺 各三百名乃至四百名

 にして、尚既報の如く、青島籠城兵数は予想外に少数なれども、7日の戦闘に於て捕虜

 となりたる二千三百名の外、傷病兵も尠からず。現に青島の敵病院内に在る傷病兵も亦、

 四、五百名を下らずと云う。是等の傷病兵は、当分其の儘青島病院に置き、独逸の軍医

 以下衛生隊をして加療せしめたる後、内地に輸送する手筈なりと。

 

大正3年11月16日(月)東京日日

●陥落当日の俘虜来たる

 笑い興じて、敵国に在る色もなく、百鬼夜行の有様でゾロゾロ上陸

  15日午前9時入港の印度丸は、11月7日俘虜となりし海兵大隊将校14名、准士

 官14名、下士440名、海軍砲兵隊将校12名、准士官13名、卒588名、海軍将

 校3名、准士官1名、下士卒143名、合計1215名を積載し来たり、又、福寿丸は

 午後1時俘虜将校11名、下士卒204名を乗せ入港せり。

  此等俘虜中将校17名、卒430名は、午後0時50分久留米に、将校16名、卒5

 51名は午後3時発福岡へ、将校35卒400名は午後7時熊本へ向えり。残余は福寿

 丸にて、午後6時半多度津に上陸、松山に収容の筈。最高級海兵大隊附少佐プレースト

 アンドレープ(45)は、久留米に収容せり。又、飛行将校にしてルムプラー式に搭乗し、

 我軍を悩ましたる陸軍中尉フリードリッヒ・ジューレルス・ヴォヴキー、亦此の中にあ

 り熊本に送られたり。尚おワルデック総督以下690名は、16日午後5時門司着の予

 定にて、総督以下幹部連は福岡に収容し、他は高浜に送らるる由なるが、此の外10日

 我軍の手に受取りたる俘虜千四、五百名ありと。

  一行は大元気にて、皆俘虜となれるを知らざるものの如く、自分の手荷物を縄にて固

 く頸に巻つけたるもの、行李を携えたる者、大風呂敷を背負いたる者、夏服を纏える者、

 破れ外套に包まれたるものなど、千差万別にして百鬼夜行の姿なり。彼等は船中にて、

 ヴァイオリンを弾らし笛を吹き、又はトランプを弄し、頗る元気にて、船中の整理は上

 級の将校1名に命ずれば、温なしく之に服し、多くの手数を要せざりし。斯くて、運輸

 部門司出張所長益田大尉、輸送指揮官山口中尉の指揮により、高級将校アンドレス少佐

 が号令の下に、久留米行と福岡行と、順次一団となり上陸を開始し、収容所を異にする

 者は互に再会を約して堅き握手を交換し、気楽そうに笑い興じつつ、毫も敵国に俘虜た

 るを恥ずるなきは、警護の日本兵も呆れ返れり(15日、下関電報)。

●東京の俘虜収容所は東門跡

 五百畳の大広間を充つ

  東京の俘虜収容所は、曩に築地本願寺との噂あり、後、芝白金火薬庫跡建物又は泉岳

 寺等、種々候補に充てられしも、愈々昨夜、浅草本願寺1箇所に内定し、本日確定の筈

 なり。同寺は、彼の明治二七、八年戦役に於ても支那人の俘虜二百五十名を収容し、当

 時は本堂北裏の2棟五百畳の大広間を以て充てられたれば、今回も多分同2棟なるべく、

 同寺に収容さるべきは士官下士卒等約二百名の予定にて、候補として其の筋の検分あり

 しは1週間以前なりしも、間取等の都合にて交渉を重ねたる為め、確定は本日に延引せ

 し次第なりと。尚、東京の俘虜は2ヵ所に分容するが便なれども、種々の都合上同寺1

 ヵ所と為れる由なり。

 

大正3年11月18日(水)東京日日

●ワルデック総督着す

 昨朝門司入港、福岡に入る/岡陸相より委細奏上す

  ワルデック総督以下俘虜591名を載せたる薩摩丸は、輸送指揮官村上中尉以下下士

 卒20名に護衛せられ、17日午前8時、門司に入港せり。内、将校クレマン少佐以下

 9名、下士卒306名は、同船にて高浜に向い、准士官1名、卒20名は熊本に、将校

 8名、准士官10名、下士卒207名、ワルデック総督一行30名は、午後0時50分

 発福岡に護送せられたり。

△総督歓待を謝す 不自由は覚悟の前なりと

  総督は、門司出発前、福岡より受取の為来門せる久山収容所長と、門司駅楼上ミカド

 ホテル出張所に於て会見したるが、久山所長は総督に対し、武運拙なくして敵国の俘虜

 となれるは誠に同情に堪えず、而して其の間に於る衣食住の不自由は尠からざるべし、

 我等は規則の許す範囲に於て十分歓待する考えなり、遠慮なく申出でられたしとの旨を

 述ぶれば、総督は慇懃に礼を為し、自分は敗軍の将、殊に俘虜の身なれば、金銭の不自

 由は素より覚悟の前なり、衷心より貴官の誠意を感謝す、と答えたり(17日、門司電

 報)。

△総督我が攻撃の真意を訝ると 日本婦人と婚した俘虜

  総督は語りて曰く「英仏露国と東洋に事を醸したる際、根拠地となさんが為め設けた

 る青島が、思いきや日本と交戦するに至りしは、実に意外とす。日本軍には斯く早く陥

 落の余儀なきに至りしも、英仏露ならんには陥落すべきに非ず。青島に在りし大艦は戦

 前出港し、残りしは極めて微弱なる哨艦数隻なれば、日本は此の数隻を圧迫し、海上権

 を支配するを得たり。何を苦しんで、多数の犠牲を払い青島を陥落せしめたるやは、今

 に至るも其の真意を解するに苦しむ」云々。又、参謀長ザクセルは流暢なる日本語にて

 「我等の落付く福岡と云う所は、北条時宗の事蹟にて名高き所なり」と日本通を振廻し、

 受取将校山口中尉と雑話を交換し、軈て一行福岡に向えり。尚お高浜に収容さるべきス

 トルーズルと云えるは、横浜に2箇年滞在し、巧に日本語を語り、出征2箇月前、或る

 日本人の媒介に依り日本婦人と結婚したるものにて、俘虜となり日本に来れるを喜び、

 門司に入港するや「無事門司着、松山に行く、妻に宜しく」との、横浜クーテレッチ商

 会宛の電報を記者に依頼し、松山に妻を呼ぶべきことの許さるるや否や等、問い居たり

(同上)。

△愈々福岡に入る それぞれ収容所へ

  ワルデック総督、参謀長ザクセル大佐以下11名並に下士卒245名は、17日午後

 4時8分、臨時列車にて博多駅に着し、同駅より総督は自動車、将校は電車、下士卒は

 徒歩にて、それぞれ予定の収容所に送られ、総督は洲崎海岸旧台場の赤十字社支部楼上

 浜側の一室を居室に、陸側の一室を寝室に当てたれば、総督は博多湾の風光を座ながら

 に眺むるを得て満足の意を表し居れり(17日、福岡電報)。

  岡陸相よりは、右の趣、大阪大本営なる聖上に奏上したり。

●俘虜の入京は明後二十日

 品川に着して直ぐ浅草本願寺に入る

  青島俘虜三百余名は、愈々明後二十日塚本大尉以下1個小隊の兵士に警固され、品川

 駅に着、直に東本願寺浅草別院に収容さるる筈である。別院にては昨日より、陸軍省御

 用請負師好井松次郎方の人夫七十余名と電気瓦斯工夫三十名とが、陸軍省経理部員の指

 揮の下に、修理に忙殺されて居る。此珍客を迎える部屋は、俗に御殿と称する処で、離

 れの間は将校用とし、床に板を敷き椅子テーブルを設備し、靴のまま出入するように為

 し、大書院三百畳の間と小書院二百畳の間は下士用とし、此処丈けは畳敷の儘で日本式

 の生活をなさしむる由、又、食事は、将校には洋食を仕出屋より取り寄せて給し、下士

 には食料品を与え随意に自炊さする事とする。運動遊戯の器具は、今の処其の準備はな

 いが、追っては相当なものを支給し、且つ折り折り慰安の方法をも取る筈である。尚お、

 俘虜の警固としては、正門及び附近に衛兵を配置する筈なり。

 

大正3年11月20日(金)東京日日

●俘虜、大御心の畏きに感激す

 帯剣許可の光栄を喜ぶ

  御用船賀茂丸にて福岡行の俘虜将校8、下士以下11名、熊本行将校30名、下士以

 下3名を乗せ、19日午前11時下関に入港せり。是等はいずれも午後1時50分門司

 発、収容所に送られたるが、此の内にはシーメンス事件の際、弁護士として法廷に立ち

 し予備少尉フォークあり。又、守備軍の先頭に立ち奮闘したりと云う13歳の少年は、

 頭部を繃帯にて包み居たり。ウィルント大尉は曰く、「余は台東鎮に在り、日本軍の突

 撃を受け白旗を掲ぐるの己むなきに至れり。予は、日本皇帝陛下の厚き大御心により、

 帯剣を許されたるを感謝す」と。一行は門司駅に着するや、いずれも初めて英字新聞を

 求め、独逸は東洋に於て敗れたるも、本国にては一歩も敵兵を入れしめずと大気焔なり

 き。同船にて帰りたる松井少将は曰く、「余は、青島入場式前、戦地を発したるが、青

 島にては独逸店舗既に開かれ、ホテルの如き独人経営の下に、盛んに客を呼び居れるを

 見たり」云々。因みに、門司上陸の俘虜は、之を以て先ず打切り、近く台東丸にて六百

 名許り来れるも、斯は四国、大阪方面に輸送さるべく、青島に残れる負傷俘虜は三、四

 百名の少数なり(19日、下関電話)。

●ワ総督、愛妻への手紙

 収容所到着以来最初の発信/敗竄降服の心中思えば哀れ也

  赤十字社福岡支部楼上に収容せられたるワ総督は、到着以来風光頗る佳なるを喜び、

 時々カイゼル副官を随え構内を散歩し、居室其他の設備に対しても満足の意を表せしが、

 唯、朝夕の涼冷に暖炉が欲しいとの事に、19日朝、其の取付を為せり。

  毎日の日課としては、午前7時頃起床、8時朝飯、午後1時昼食、晩餐は7時半にし

 て、暇には日誌を認め、書見等に耽り居れり。書物の種類は多く、独逸陸軍の法令に関

 するものなりと。

  19日午後1時頃記者が同所を訪いし際、ワ総督は金線入の海軍大佐の通常軍服に軍

 帽を載き丸腰にて、洋杖を携え、副官カイゼル少佐を随え、静かに階段を下り来り、自

 ら俘虜収容所事務所の扉を排して、居合わせたる鈴木少尉に向い開封の書翰を差出して、

 底力のある独逸語にて「是を郵便に出して貰いたい」と言えり。之れぞ、福岡に到着以

 来、北京に在る夫人に宛たる最初の手紙なり。総督は書翰を卓上に差置ける後、言葉を

 和らげ「是は、妻に息子の消息を尋ぬる手紙です」と云いて憮然たりしが、総督は軈て

 莞爾とし、一同に目礼し、副官を指招き室外に出でたり。赤ら顔に丸々と肥り、頬より

 頤に掛けて髭髯白銀の如くなるを交え、童顔にして独逸武人の典型式風貌を有せる総督

 の俤も、此時ばかりは、一脈の温味の自ら通ずるものあるを覚え、思わず一滴の涙を敗

 竄降将の為に注ぎたり(19日、福岡電報)。

●雑記帳

  福岡地方では、俘虜の待遇方に就て物議を醸している。と云うのは、ワルデック総督

 に赤十字支部の貴賓室を其儘使用せしめ、殊に四十三年閑院宮殿下の御用に供したる寝

 台を使用せしむるのは、余りに鄭重過ぎると云うのだ。況んや、将校の食事に洋食屋の

 女ボーイを出入せしむるのは、風紀上宜しくない、又、日本人なら当然戦死すべきもの

 が俘虜となっているのを厚遇するのは、国民教育上から云ってもよくないとすら極言す

 る者がある。

●俘虜は品川より電車で本願寺へ

 明後日の午後着

  浅草東本願寺別院なる俘虜将校11名、下士卒333名は、22日午後3時57分品

 川駅到着の事、既報の如くなるが、下車後直に塚本歩兵少尉指揮の下に1個小隊護衛し、

 借切りのボギー電車数両に分乗して、同午後5時乃至6時頃に、東本願寺東門田原町停

 留場に下車し、御成門より別院前に整列し、人員点呼の上、東京俘虜収容所所長西郷歩

 兵中佐に引継がれ、下士卒は10班に区分して百畳敷の大書院、三百畳敷の大広間に収

 容され、将校11名は五十畳敷の小書院、二階上下の八十畳敷の加番所に収容さるる筈

 なるが、収容所幹部は同中佐以下歩兵中尉2名、一等軍医1名、二等主計1名にて、御

 成門外6箇所に衛兵所を設置して、1個小隊が護衛に任ずる由。一昨日は、同区猿若町

 の憲兵分遣所所長笹岡曹長を初め、警視庁黒瀬方面監察視察に赴き、尚、所轄七軒町署

 にては、場所柄の事とて俘虜見物にて雑沓を極むべきを慮り、警視庁と協議の上、同寺

 中なる長敬寺を出張所と為し、警官十余名をして外部の取締に従事せしむる筈。

 

大正3年11月21日(土)東京日日

●明日入京の俘虜君

 総てに於いて頗る優遇/収容所の用意悉く成る

  青島の俘虜は、愈々明日22日午後3時57分品川着で入京する事は既記の如し。浅

 草東本願寺門跡内の収容所にては、14日より種々設備に掛り、19日までに全部完成

 し、残って居るのは唯後片付けのみである。収容すべき室は凡てで三間あり、五十畳と

 百六十畳と二百二十畳とを、又更に幾個にも仕切をして収容する事になって居る。浴室

 は将校のが3ヶ所、下士以下のが4ヶ所である。

  収容さるる俘虜は、中佐1名、中尉4名、少尉9名、特務曹長10名、下士60名、

 兵卒228名で、都合312名で、彼等の1日分の費用は準士官が40銭、兵卒30銭

 なれば、我国の下士兵卒に比して頗る優遇している。以上の価格で、朝はパン、バタ、

 サンドヰッチ、玉子などを給し、昼はパン、フライ、ビフテキの様なもの、夜食も之れ

 に準じて与える。之に就て俘虜収容所長西郷中佐は曰く、「将校には日本並みに給料を

 払うから、食物は自分等の好きなものを食べても宜い事になって居るが、到着後二、三

 日は事務所で賄ってやる。下士以下には、本月の28、9日頃まで賄い、其れから先は、

 材料を与えて自炊をさせる筈である。青島に来て居る兵隊は、独逸本国に比して多少贅

 沢かは知らんが、独逸本国の兵隊の食物と云ったら、我日本の兵隊の食物に劣って居る

 事数等で、私が明治27年頃独逸の兵営に居た時の兵卒の食物は、3日分の黒パンが一

 度に渡され、それに塩を附けてコーヒーで食うのが朝飯で、昼飯は人参や馬鈴薯や豆な

 どに塩を混じてゴッタ煮にし、其の他牛肉の水煮に塩を附けて食べる夫れ限りで、夜食

 から朝まで辛抱する。併し夫れは20年も前の事で、今は多少改良し居るかも知れぬが、

 夫れにしても苦情など云う謂れはないのである。将校は宣誓した上で自由に外出を許し、

 下士以下は監督に引率されて1週間に2回位散歩などもさせる事になって居る」云々。

 

大正3年11月22日(日)東京日日

●俘虜は本日着京

 品川は午後3時過ぎ/本願寺着は5時

  既記の如く本日午後3時57分を以て品川に着する中佐1名以下将校下士卒312名

 は、同所より電車にて、午後5時浅草本願寺別院に入る可く、同院は昨日中に準備を完

 成したり。彼等到着の上は、寝具としては1人につき毛布6枚宛を与え、ストーブは3

 0人に付1個の割合とし、湯殿は将校用として1個、下士以下用として5個を備え、理

 髪屋、靴屋等は目下選定中なるが、理髪は多分バリカンを与えて彼相互に随時行わしむ

 ることとなる可しと。而        して彼等の取締は、収容所長たる西郷中佐の下に、寺倉中尉

 事務長となり、羽生中尉は通訳主任となり、下士3名・卒25名は衛兵の任務に従う筈

 なりと。

 

大正3年11月23日(月)東京日日

●俘虜君来たる

 品川停車場は空前の大混雑/7台の電車で浅草本願寺へ

  昨日午後3時57分品川駅着、入京すべき青島俘虜軍は、沿道の各駅にて万歳を浴び

 せられつつ、定刻品川駅第3番線に入った。日曜ではあり、品川駅前は早朝から景気付

 いて、午前10時頃には大賑いで、小学生徒の、玩具の背嚢を負い紙旗を樹てた少年軍

 もあった。

△戦場のような品川駅

 赭顔のクーロー中佐

  停車場附近は人の山で、駅前の旅館、飲食店は2階も店も一杯の人、遠くは八ッ山橋

 の上まで密集している。悧巧な見物は入場切符を買って駅内にドンドン入り込むので、

 プラットホームは満々員。午後1時頃には駅前は身動きもならぬ程で、活動写真隊も待

 構えているという騒ぎ、駅員は品川駅開始以来の盛況だと云っていた。午後2時20分

 頃から、憲兵2名宛でプラットホームを見廻り初める。群衆中の外国人の中には、印度

 人が4名いた。又、子供を抱えた若い二人連の外国婦人が、悄然とプラットホームを徘

 徊して、駅夫に廻らぬ日本語で捕虜の到着時間を聞いて居た。其女は独逸将校夫人で、

 他乍ら出迎えにきたといっていた。芝区南佐久間町1の1葉山あき(32)は、コートを着

 てハイカラに結い、7歳許りの雪ちゃんという女の児の手をひき、供の者に菊の花を沢

 山持たせて出迎えた。プラットホームには、古川鉄道院副総裁が、洋杖を持って平服で

 駅員を指揮して居た。高橋新橋駅長も同行して居た。

  汽車がつく。俘虜は6番目に将校車が1台、次にボギー車4台で、一同下車するや整

 列点呼があって、駅前の広場に出る。真先にはクーロー中佐、水色の軍服と長靴に身を

 包んで、白い縁をとった独逸帽を被り剣を携えている。身の丈6尺5寸、赭顔でカイゼ

 ル髯を凛々しくたてて、意気揚々たり。是に続く将校は中尉4名、少尉9名、准士官1

 0名、下士60名、卒が228名の中、1名は死亡し1名は負傷で病院に残り、計30

 9名である。中には、久しく日本の博物館に研究に来て居た予備少尉ドクトル・ヴェー

 クマン氏も軍服姿で、懐し気に居た。之を護衛する我兵は、宇品迄出迎えた一連隊の塚

 本大尉、羽生中尉、吉村中尉外26名の下士以下が警護していた。停車場を出ようとす

 ると、今迄静粛であった群衆中、郵便局側の山の上に居た一団が雪崩をうってきたので、

 警官の力も及ばず改札口の前迄押寄せて一大事となったが、警官が機智を以て、前の群

 衆を座らせた為め、辛うじて収る。斯くて俘虜の一行は、4時40分に7台の連結電車

 を以って本願寺に向う。同駅付近の群衆は実に夥しく、午後9時頃漸く散じた程であっ

 た。尚、品川駅附近の見物人中混雑の為負傷せる人、左の如し。

麻布田島町43 久保田ふじ(53) 右足打撲傷 ▲神田連雀町18 田島次郎(28) 

左足打撲傷

△群衆本願寺の柵を倒す

 規律正しい俘虜隊

  午後4時頃、すでに本願寺境内は俘虜見物の群衆あふるるばかり、立錐の余地も無い。

 警官・憲兵、声を嗄して制すれど、雪崩を打って惣門内に入らんとする群衆、電車通り

 より黒山の如く押寄せ、門の潜り扉は打破られ、柵は忽ちにして押倒さるるという凄じ

 き有様。折からの雨にもめげず、夜に入りて一層雑沓を極む。

  午後6時、門前に鬨の声起り、やがて俘虜将校の一団来る。釈迦堂の玄関先にて、西

 郷中佐以下係の将校出でて、これを迎う。クーロー中佐先ず握手を交換し、二、三語を

 交えて書院玄関から上る。中佐の長靴は、従卒2人がかりにて、ようやく脱ぐ。玄関鴨

 居に届くばかり6尺有余の偉大なる体格は、日本室に入り一層大きく見ゆる。下士以下

 の俘虜君は、4隊に分れて続々到着、品川停車場で貰った菊花を、各胸に差し、頻りに

 その香を嗅いでいるのもいじらしい。羽生中尉が簡単な注意をなし了れば、下士は号令

 をかけて、之を指示された方へ導く。服装こそ様々なれ、其の動作に至りては一糸紊れ

 ず、軍紀整然、無駄口一つ喋る男もいない。

  一同御食堂に入り了るや、西郷中佐独逸語を以て「自分は、収容所長の西郷中佐であ

 る。勇敢なりし諸君を迎うるを光栄とする。卿等が国の隊に在ったと同様、軍紀風紀を

 守られんことを希望する」と、一場の訓示を述べ、それより羽生中尉は、俘虜の古参下

 士を助手として、人名点呼をなす。マトローゼー(水兵)何々、ハイツァー(機関兵)

 何々、と呼べば、溌溂たる元気よき声にて「ヤァ」「ヤァ」と応う。宛ら撃剣の道場の

 ような有様である。約1時間、彼等は靴を下げ、頭陀袋を吊して、殊勝に立って居る。

 中には予備兵らしきもの、大きなトランクを提げ、毛布を腰にブラ下げて居るものもあ

 った。17歳位の美少年も居れば、45、6の髯武者も居る。驚くばかり動作整然、少

 しも騒がしい所は無い。準士官団を1班とし、下士を1班とし、卒を6班に分ち、都合

 8箇班に区分して大書院に導いた。時に7時半、彼等の今晩の御馳走は、ジャパンカツ

 レツとかいうもので、其他に普通より御馳走が余分にある。食卓に就いたのが8時少し

 過ぎであった。

  通訳の羽生中尉は、「軍紀風紀の厳粛なるは、日本兵以上です。下士などが上官に対

 する態度は実に立派なもので、キチンと不動の姿勢を取って口を切る。動作もキビキビ

 して居るし、あれだけの人数が隊伍も紊さず、実にイライものです。日本の見物人が万

 歳を叫んだりワーワー云うはいいが、中には嘲罵を浴せるものがありましたが、こうい

 う事は国家の品位を堕すものであるから、注意して貰いたいものだ」云々。

  斯くて、俘虜が食事を了り入浴し、寝に就いたのが12時近くであった。尚、見物人

 中、本郷区動坂町7田中與作(5 )は、見物の混雑中、門跡門にて電車に衝き当り顔面に

 負傷し、又、深川区御影町18里見謙吉長女あき(14)は、見物に揉まれて人事不省に陥

 ったが、何れも軽傷であった。

△クーロー中佐、我が飛行機に驚く

 ユ参謀通訳中尉は、元大阪高医の教師

  入京せる俘虜中に、予備中尉ユーベンザールというあり。ワルデック参謀通訳にて、

 久しく大阪の高等医学専門学校に教鞭を取っていた。青島に於て日本語の出来る人は此

 の人より外無かった、という程の人であった。だから、ワルデックも重用していた。

  クーロー中佐は皆目日本語を知らず、ユ中尉の通弁によりて記者に語って曰く、「日

 本の攻撃に対して最も驚いたことは、海軍飛行機の威力であある。その爆弾投下に於て、

 飛行機操縦技術に於て、新進の日本が斯く迄勇壮なる活動をしたということは恐るべき

 ものであると思った。殊に操縦振りは頗る巧妙で、小銃弾も殆ど当らなかった。陸軍の

 飛行機が是よりも劣って、銃丸が当ったというのは、勇敢なる低空飛行を行った為めか

 もしれぬが、兎も角海軍の飛行の巧妙なるには驚いた」云々。

△俘虜の待遇は、唯だ聖旨に基く

 西郷収容所長の談

  収容所長西郷中佐は、俘虜取扱方につき語るよう「いろいろ政治上の関係もあるから、

 我々はただ聖旨の存する所に従い、落度の無いように心掛けて居る。独逸軍は、軍紀風

 紀に於て世界の模範たる兵であるから、我々もそれを尊重し、便宜を計り度いと思って

 いる。

  東上の途、2名の俘虜は病気に罹り、軍医の言を肯かず、どうしても隊と離れるのが

 厭だ、と云い張ったが、クーロー中佐が懇々其の不心得を諭し、病気が癒ったら何時で

 も隊へ来い、待って居る、と云って思い止まらせた、それ程に規律ある軍隊である。

  今晩の食事は、着く前に食卓へ並べて直食させたら、混雑も無く宜ろうというのであ

 ったが、私は冷めたいものより出来立の温かいものを食べさしてやり度いと思い、拵え

 て置くのをやめさせ、兵卒の食物は贅沢よりは分量のあるのを選ぶようにしている。

  俘虜の中から日直特務曹長1、日直下士2名を出させ、日本の軍隊同様、風紀軍紀に

 心がけるつもりで、我々の方からも将校1、下士1、衛生軍医或は看護長1を日直とし

 て服務することにしてある。寝台は将校だけであるが、これも皆6尺近くの大男で、日

 本兵並のは1人しか居ない。日本軍隊で使用しているものでは役に立たぬので、各所か

 ら14丈漸く集めた。一般の卒へは、遺憾ながら支給することができない。毛布は1人

 6枚、これに敷布が2枚ずつである。皆、第一師団から持って来たもので、将校には成

 るべく新しいもの、兵卒には成るべく汚れないものを与えた。独逸は零下7度位である

 が、日本は零下3度であるから、そんなに寒いことはなかろうと思う。班の区分は、東

 亜派遣隊、予備兵、ヤーグアー乗組員の3つに分ち、友達同志で暮すように、更にそれ

 を6個に分けたのである」云々。

                  写真:俘虜君の群れ

                      上図円形向って右は、品川駅に着いた水兵の一団

              左は、本願寺玄関前の将校団

                      下図は、品川駅前に並んだ俘虜君

                  漫画:俘虜君と見物人=昨日品川停車場にて

 

大正3年11月24日(火)東京日日

●大モテの俘虜君

 諸方から寄贈物/本願寺近辺は夥しい人

  晩秋の気爽かな好晴の日和と、新嘗祭と、夫れに本願寺報恩講が重なってさらでも賑

 やかな所へ、独逸の珍客到来とあるので、浅草本願寺境内は押返されぬような人出であ

 った。殊に珍客の宿舎なる書院玄関前には、十重二十重に人垣を築いて、身動きも出来

 ぬ始末。食堂の廊下も亦、人の山。果は、其処等の柱へ攀じ登る始末、正門左側の善照

 寺内に設けられた俘虜収容所事務所には、係員全部詰切りで、事務の整理と訪問者の応

 接に忙殺されて居る。

  愛国婦人会から使が来て「俘虜慰問の為、何か食物を寄贈したいが」と申出た。之に

 対して、果物が宜かろう、殊に蜜柑、柿は彼地には無いので、珍らしいと答え返すと、

 九條公爵夫人からは「何か運動器具を寄附したい」と言うて来た。日本橋本銀町の出井

 検校から、生田流三曲合奏を俘虜に聞かしたいと申し込んだので、之をクーロー中佐に

 照会すると、大喜びで「是非願いたい」とのこと故、両三日中に演奏する筈である所へ、

 剣舞の日比野雷風が俘虜の居室を見たいと願い出たが、是は、東京衛戍総督の許可証を

 持参しなければ罷り成らぬと追返された。

  昨日、俘虜はバタの附いたパンと紅茶と鶏卵との朝飯を喫して大満足、俘虜の班長下

 士は、斯様に御馳走を頂戴して有難いが、仲間の中には小食者が居て、あの通りパンを

 残して居ますが、是は不経済故、此次からはパンを切らずに大きい儘で下さい、と申出

 た。その注意の細かいに、係員も一驚を喫した。クーロー中佐は各室を一応検分した上、

 西郷中佐の許へ来て、満足気に幾度も「」を繰返して居た。又、昨朝から収容

 所内に酒保を開始して、取敢ず日本煙草を売って居るが、敷島が一番よく売れる。

△俘虜、散歩の代りに練兵を行る

 クーロー中佐の謹厳/西郷所長の談

  西郷収容所長は語る。「私は、日露の役には満州で俘虜係を行った経験があるが、其

 の時の連中と今度のとは全然違って居て、軍紀が厳粛で服従心の強いのには驚く。殊に

 一同がクーロー中佐を非常に信頼して、其の一令には手足よりも能く動くには、敬服し

 て居る。此の1週間は入浴とか洗濯とか、整理に費やさす積りであるが、是に就てクー

 ロー中佐より、被服の手入等は自分等の手で出来る限りはやり度いというて来て居るの

 で、適当な場所を見つけて、縫工所を設くる考えである。二十九日以後は1週2回、一

 定時間に此処の境内で独逸将校の指揮の下に練兵を行う。夫れは初め散歩の積りであっ

 たのを、捕虜の        方から願い出て来たので許可した。クーロー中佐は『自分は7年前に

 日本に来たが、二度、斯る境遇の下に東京を訪うとは夢にだも思わぬ所で、殊に神尾将

 軍とは北京、天津以来の旧知であったのが、敵味方と立分れて、相闘おうとは…」と云

 って、憮然として居た。尚、貴国とは風俗習慣を異にして居る者共であるから、知らず

 識らずの間に不都合と思わるる事を行るかも図られぬが、宥恕を請うと共に、其折々に

 御注意を賜わりたし』と申出でた。斯く謹厳な態度、独りクーロー中佐のみでなく、下

 級幹部はの下士に至るまでも有って居る」云々。

          写真:俘虜の内と外(浅草門跡)

             当人の俘虜君、室内でにこにこと日誌を繰り広げる(上図 椅子に

         倚るはエーラー少尉)=本願寺御殿正門は見物の群集押すな押すなと

         詰寄れど門堅くして開かず

 

大正3年11月28日(土)東京日日

●俘虜連の運動

 毎朝1時間宛許さる/体操だの鬼ごっこ

  浅草本願寺に収容され居る俘虜には、一昨日より広場に於て、運動を為さしむる事と

 なれり。之れに就て、同事務所にて羽生中尉は語る。「俘虜に運動を、朝7時から8時

 迄の間を許した。クーロー中佐を初め、一同本堂前の広庭に出て、兵卒は下士を教官と

 して体操をして居る。将校は、唯之を見ながら散歩だけである。体操は、日本の兵式体

 操と異り、腕を廻せ、と云えば、勝手に手を振り回して居る。反れ、と号令を掛ければ

 反るだけで、一、二の号令の様な事はない。其後、駈足を為し、最後に鬼ゴッコの如き

 事をして運動して居た。一体に、規律の正しい事には、実に感心する。酒保などで、剰

 銭を誤って多く渡すと、必ず戻して来る。マッチの燃殻でも、決して矢鱈に捨てず、ポ

 ケットなどに入れて、規定の処に捨るようにして居る。勿論、士官から云われて居るの

 であろうが、規律の点に至っては、羨ましい位のものである。収容所が狭いけれど、決

 して苦情を云わぬのは、海兵が多いので軍艦生活に慣れている為でもあろう。本国に手

 紙を出すのを見るに、多くは父母、兄弟妻子に、無事に居る事を知らすのばかりで、情

 婦に宛るようなものは、未だ1通も見当らぬ。ビールを酒保で売らして居るが、茶を飲

 むようにガブガブやるが、酔って乱れる事は更にないのも感心する」云々。

●青島に尚お百名の俘虜あり

 老人と少年許り

  二十七日入港の孟買丸にて、将校4名、軍医1名、下士以下37名凱旋せり。是等の

 凱旋者は、新兵教育の任に当る為め、選抜されたるものなり。尚、青島にては百名の捕

 虜居残り居り、皆老人若くは極めて年若き者にて、次期の便船にて内地に輸送さるべし。

 二十八日入港の郵船薩摩丸に、将校50名、下士卒1000名凱旋すべく、山根東宮武

 官も、同船に乗組み居れり(二十七日、門司電報)。

 

大正3年12月4日(金)東京日日

●俘虜の待遇

 感化の如何を一考せよ

  我が当局者の独逸俘虜を待つ、固より国際的条規に準拠し、文明的慈恵の実を示せる

 に外ならざるべしと雖も、吾輩の聞知する所を以てすれば、其の之を遇するの、或は厚

 きに過ぎざるかの感なき能わず。我国は独逸と戦えども、其個人を敵とするにあらず。

  且つ其の既に剣を棄てて我に降れる上は、此等俘虜に対して深く同情を表し、成るべ

 く慰安を与うべきは、単り条規の定むる所によりて然るのみにあらずして、亦実に我が

 武士道の指示する所たるや、言を俟たず。然れども事には自ら程度の存するあり。程度

 を逸せば、折角の厚遇も、却って嗤笑の種とならざるを得ず。勿論厚遇せられたる俘虜

 の、薄待せられたるものに比して、後日の感情の良好なるべきは疑を容れざるも、而も

 其の決して感謝措く能わざるの真情を本国に帰還せる後に表せざるべきとも、亦睹易き

 道理なりとなさずや。敵国の俘虜は珍客にあらず、何ぞ其の一顰一笑に心を労するを要

 せんや。然るに其の給与の模様を見るに、我が軍隊のそれに比して頗る優待なるが如く、

 吾輩の首肯し能わざる所なきにあらず。これ果して何が故に然る歟。我が政府当局は、

 俘虜によりて我が文明的態度を外国に伝え、因て以て世界の称賛を博せんとするものな

 るか。果して然らば尚お一層之を優待して、彼等を満足せしめざるべからず。俘虜収容

 費は、他日平和克復の後、之を独逸政府に要求するを得べきを以て、其の多きを心配す

 るを要せず。仮令条規以上は独逸政府の承認せざる虞ありとするも、大国の襟度を以て

 すれば、其の損する所の如き、算するに足らざるのみ。然れども斯くの若くすることは、

 寧ろ国家の体面を汚し、顧みて重大なる悪感化を我が国民の精神上に与うものなるを忘

 るべからず。吾輩は俘虜の歓心を得るを以て、不利益なりとなすにあらず。然れども其

 の程度を超えたる厚遇を以て、余りに機嫌取に過ぐとなし、唯国際条規の定むる所によ

 りて、正確に彼等を待遇するを以て充分なりとなし、且つ爾かすることが、最も戦勝国

 たるの威信を明にする所以なりと解するものなり。

  独逸の俘虜は、防禦に最上の努力を試み、終に開城の己むべからずとなせる司令官の

 命によりて、茲に降伏をなせるが故に、之を軍法に照すも、毫も間然する所なかるべし

 と雖も、日本の武士的精神に於ては、大に異れる所なきにあらざるべし。攻守地を代え、

 日本人の拠れる要塞、仮に包囲攻撃せらるることありとせんか、日本軍人は決して手を

 束ねて敵に降ることあらざるべし。国民の期待する所も、亦独逸青島守備軍の最後の行

 動にあらざるべし。戦国の時、城を開きし例あるも、守将は多く自殺して部下の生命に

 代れり。斯くの如きは降伏にあらずして、講和なり。若し夫、数千の兵を擁し、刀折れ

 矢尽くるにあらずして降らんか、これ謂うべからざる恥辱なり。欧洲に於ては然らず。

 幾万の兵を以て、敵に降伏するものあり。此を以て文明的となさば、なすべき理由なき

 にあらずと雖も、こは日本武士の恥辱とし、日本軍人の恥辱とする所ならざるべからず。

 軍人に此の精神あるは、国民一般に此の気魄あるが為なり。国民の此の気魄餒ゆれば、

 軍人の此の精神に変化を来すべく、我が国の精華は、其の色を失わざるを得ざるなり。

 今独逸の俘虜来れるに当り、之に同情するの余り、過度に優遇するの実ありて、而して

 国民親しく之を見聞するに於て、国民の脳裡に感ずる所、果して如何あるべき。之を思

 えば、深き考慮を其の間に致さざるを得ざるなり。俘虜の来るや、到る所群衆山をなし

 て之を観んと犇き、又収容所の門前には、男女老幼、群をなして集まると聞く。好奇心

 の動く所、己むを得ざる所なるべしと雖も、吾輩は聊か我が国民に自尊心の保持を冀望

 せざるを得ざるなり。俘虜は固より之を軽侮すべからず。然れども又珍客として歓迎す

 べき理由あることなし。衆人好奇心に駆られて俘虜のある所に集る。其の態度の如何に

 よりては、彼等に対する軽侮の表明となり、或は自ら辱めて知らざるの行為となるにあ

 らずや。戦勝国民は、敵国の俘虜の為に、業を休みて狂奔するの愚をなすべからざるに

 あらずや。物見高きと云うも、事にぞよれ。俘虜を見物し得たりとて将た何の益かある。

 然り見物せんとするの不可なるにあらず、戦勝国民の自尊心を保つ能わずして、却って

 俘虜の為めに軽侮せらるるの基たらしむこと非とするのみ。

●俘虜収容所増設

  岡陸相は3日、陸軍省告示第19号を以て、静岡、徳島、大分の3箇所に、俘虜収容

 所を設置したる旨告示せり。

●俘虜収容所員任命

  俘虜収容所を静岡、徳島、大分に設置すべき旨、3日陸軍省告示を以て発表ありたる

 により、左の如く職員任命ありたり。

           歩兵第62連隊附陸軍歩兵中佐 松 江 豊 寿

                       徳島俘虜収容所長被仰付

           歩兵第72連隊附陸軍歩兵中佐 鹿 取 彦 猪

                          大分俘虜収容所長被仰付

           歩兵第34連隊附陸軍歩兵少佐 蓮 実 鉄太郎

                          静岡俘虜収容所長被仰付

           歩兵第62連隊附陸軍歩兵中尉 高 木   繁

                          徳島俘虜収容所員被仰付

           歩兵第72連隊附陸軍歩兵少尉 武 藤   章

                          大分俘虜収容所員被仰付

           歩兵第34連隊附陸軍歩兵中尉 渋 谷 安 秋

                          静岡俘虜収容所員被仰付

            徳島衛戍病院附陸軍一等軍医 中 瀬 俊 二

                        徳島俘虜収容所附兼勤被仰付

           歩兵第62連隊附陸軍二等主計 吉 村 豊 松

                        徳島俘虜収容所附兼勤被仰付

歩兵第72連隊附兼第12師団経理部部員陸軍一等主計 斎 藤   隆

                        大分俘虜収容所附兼勤被仰付

            大分衛戍病院附陸軍一等軍医 四野宮 伝 蔵

                        大分俘虜収容所附兼勤被仰付

            静岡衛戍病院附陸軍一等軍医 松 浦 元 舒

                        静岡俘虜収容所附兼勤被仰付

 

大正3年12月14日(月)東京日日

●南洋俘虜の帰国

 島司以下9名だけ/他11名取残さる

  南洋より護送されたマーシャル群島内ポナペ島司ケラー以下19名の非戦闘員俘虜は、

 其の後同市山下町フランスホテル及リヒターホテルに分宿して、帰国旅費の調達中なり

 しが、全部引揚ぐる能わず、ケラー島司以下8名の幹部丈、13日出帆の米船モンゴリ

 ア号にて、米国経由帰国することとなり、午前10時米国副領事キルヂャソフ、同ヒリ

 ギレス、独亜銀行支配人ボーテン氏等に見送られて出発せり。取り残されたる11名は、

 引続き旅費の才覚中なり。

●俘虜そろそろ不平

 向頭の礼を挙手に改む/凱旋の歓迎を憤慨す

  久留米俘虜収容所にては12日より、向頭の礼を挙手の礼に改むべく命じたるに、高

 級将校アンデルス少佐は、向頭の礼は独逸皇帝より独逸軍人に命ぜられたるものなれば、

 挙手の礼を御免蒙りたしとて抗議を申入れたるも、収容所にては聴容れねば、己むなく

 服せるも、彼等は頗る不平の色をなせり。尚、凱旋の歓迎に際し、憤慨の模様なるも努

 めて平気を装い、日本軍は左ほど強きものにあらず、吾等は極て僅少なりしにあらずや、

 と冷笑の目吻を漏し居れり(13日、久留米電報)。

 

大正4年1月30日(土)東京日日

●俘虜4700名

  目下、内地に収容せる独逸俘虜は、将校以下4620人なるが、外に青島に於て此程

 検挙せるものを合し、現在青島に収容せるは将校2名、下士卒約100名にして、此内

 英国政府の要請に依り来月10日香港に送らるるは、前記将校2名と下士卒75名なり

 と云う。内地各収容所の現在数は、左の如し。

                ▲東京314 ▲静岡107 ▲名古屋309 ▲大阪445

                ▲姫路323 ▲徳島206 ▲丸亀324  ▲松山415

                ▲大分141 ▲福岡849 ▲久留米536 ▲熊本651

                ▲合計4620

 

大正4年3月20日(土)東京日日

程の好い日本人 ──我が待遇に大満足の独逸俘虜の手紙

  目下久留米に収容中の独逸の或る俘虜から、故国の友遥かに書き送った手紙の一節を

 掻い摘んで左に−

            僕等は、当地の或る寺院内に起き臥して居る。何も彼も木造りだ。屋根までが、木で

 葺いてある。天井が低くて、時々脳天を打附けようとするには閉口する。部屋には藁

 の蓆(畳)が敷詰めてある。夜分は其上に床を展べて、寝そべるのだ。僕は、晩の9

 時から朝の7時まで、打通しに眠る。よくまあ、こんなに寝られるものだと、自分な

 がら呆れる。

            外出が何より楽しみだが、寒いので大弱りさ。日々、午前には練兵があり、体操やら

 毬投げなどをして遊んで居る。野球がやれぬは一寸残念だ。午後には学科がある。其

 の中には支那語があるので、僕も無論参加して居る(記者曰く、此俘虜先生は、元支

 那の独逸商館員であった)。語学の稽古には、持て来いだ。

            朝飯は、薄いコーヒーか茶に麺麭、僕は此外に毎日林檎を5銭が所買って食う。中食

 も変化があって、却々食える。滋養分にも富んで居るようだが、例の健啖熊の如き独

 逸兵には、何分量が少なくて困る。夕飯も、昼同然である。

            そこで、金のある手合は、日本菓子などを買って補を付けて居る。僕等予備籍にある

 者は、尚此外に、神戸、上海又は天津などから色々の食物を取寄せてはパクつくのが、

 外出に次での楽しみだ。

            酒は麦酒、煙草は馬尼刺だけ。煙草は、高い割には品物が箆棒に悪いけれど、善くし

 たもので、喫めば矢張り旨い。煙草の輸入税は、原価の30割だと。

            兎に角、餓えず凍ず、又、幸に病気もせずピンピンして居るだけは安心して呉れ給え。

            こういう具合に、日本官憲は出来るだけ僕等の待遇を善くしてやろうと心懸けて居る

 らしい。此点に就ては、僕等も全く感謝するよ。是は、日本の文化が進んで居る証拠

 であって、露スキーなどは、差当り此点を見習って然るべしだと考える。

            外方で毬投げなどをして居ると、日本人が集って来て、愉快そうに笑いながら見物を

 して居る。先達、病院を訪ねて往ったが、彼処でも僚友一同不足ない顔附をして居た。

 之を要するに、日本人も却々程の好い国民だ。

 

大正4年6月24日(木)東京日日(房総版)

●習志野へ俘虜の収容所

 浅草其他の俘虜を移す

  日独の俘虜は、東京其他の寺院等に収容されたれど、今度千葉県習志野に一千三百余

 坪の収容所を新築することに決し、陸軍省にては既に22日を以て建築請負人に競争入

 札を命じ、四万三千余円にて近藤某に落札せり。落成の上は、浅草本願寺其の他に在る

 俘虜を同所に移住せしむる由。収容所のみにて一千三百余坪あり。其他、所長員の詰所、

 炊所、物置、附属舎等数百坪に及ぶ筈なれば、随分規模の大なる新築なりと。

 

大正4年7月4日(日)東京日日

●福岡の俘虜移送

  福岡に収容せる俘虜800名中、下士以下400名を、名古屋、姫路、習志野、久留

 米の4箇所に100名宛移送することに決定したるが、久留米のみは6月9日既に移送

 を了りたるも、他の3箇所は目下廠舎建築中にて、7月下旬にあらざれば竣工せざるを

 以て、移転は多分8月上旬ならんと。

 

大正4年7月16日(金)東京日日(房総版)

●捕虜収容所の建物

 後は陸軍実施学校で使う

  習志野に建築する捕虜収容所は、目下請負者近藤組の手に依って、其基礎工事中にて、

 該建築物は永久的にして、捕虜引渡後は同所に移転し来るべき陸軍騎兵実施学校の附属

 建物として使用さるる筈なりと。

 

大正4年8月11日(水)東京日日(房総版)

●習志野に建築せる俘虜収容所

  東京浅草区東本願寺及福岡市に収容せる俘虜約五、六百名を収容すべく、目下習志野

 に収容所の工事中なるが、右建物は間口5間、奥行10間の平家建4棟にて、何れも永

 久的の建築にて、既に七分通り竣工したれば、遅くとも本月中には全部竣成すべしと。

 因に、俘虜引渡し後の該建物は、習志野原に移転し来る陸軍騎兵実施学校の附属舎に充

 つる方針なりと。

 

大正4年8月25日(水)東京日日(房総版)

●捕虜収容所の移転は来月三日

 所長は西郷中佐

  習志野原に建築中の捕虜収容所は、略竣成に付き、来月3日移転するに決し、所長は

 中佐西郷寅太郎氏にして、収容の捕虜は将校14名、下士卒394名なりと。

 

大正4年8月31日(火)東京日日

●独墺俘虜の移送

 習志野に収容す

  目下東京に収容中なる独墺俘虜300余名及び同じく福岡に収容中の100名は、習

 志野に収容する事に決し、先般来、之が廠舎建築中なりしが、此程愈々竣成したるを以

 て、9月3日同地に移送せらるべしと。

 

大正4年9月4日(土)東京日日(房総版)

●捕虜の移転

  習志野に新築の捕虜収容所落成に付き、東京東本願寺に収容され居たる捕虜中70名

 は、3日新収容所に移送されたり。

 

大正4年9月7日(火)東京日日

●俘虜の引っ越し

 本日習志野へ送らる

  昨年11月22日より浅草本願寺内に収容中なる独逸俘虜314名は、愈々本日習志

 野に移送する事に決したり。宿舎は、同練兵場高津廠舎に隣接せる平家建の家屋なり。

 事務所よりは西郷中佐、原田、羽生両中尉以下全部附添い、本願寺より両国駅まで及び

 津田沼駅より習志野まで徒歩にて、汽車は買切り列車なりと。因に、4名は目下病気中

 にて、衛戍病院に入院中なり。

 

大正4年9月8日(水)東京日日

●俘虜、習志野へ移る

 昨暁5時半出発す

  浅草本願寺に収容せる独逸俘虜314名は、既報の如く、昨日午前3時、喇叭を合図

 に本願寺正門前の広場に集合し、西郷中佐の点検後、同30分四列縦隊となり、携帯品

 は荷車2台に積み、原田、羽生両中尉引率の下に、千葉県下習志野に赴くべく、両国停

 車場に向いぬ。途中は、看守の為め猿若町憲兵隊より派遣されたる憲兵15名及び近衛

 歩兵第三連隊より派遣の兵士15名に護られ、本願寺正門より田原町に出で、厩橋を渡

 りて、同4時10分両国停車場に至り、20台の列車に分乗し、茲にて看守兵は、第三

 連隊より来りし21名と交代し、5時20分、習志野に送られたり。斯くて一同は午前

 6時12分津田沼着、約1里半の処を徒歩にて、7時半、漸く新設収容所に入れり。

 

大正4年9月9日(木)東京日日(房総版)

●習志野の俘虜収容所

 衛兵を増し監視を厳にす

  俘虜三百余名の習志野移送は既記の如し。収容所は広原の東南隅にありて、構内一万

 三千余坪にして、建物は間口24四間、奥行4間の建物4棟及事務室1棟、衛兵所、浴

 場、炊事場等の附属建物より成り、クーロー中佐は単独に一室を占め他の将校は1室に

 2、3名、下士以下は雑居なり。而して、収容所の周囲は杭を二重に立て之に針金敷条

 を張り、外部には幅3尺位の塹壕を穿てるも、粗造なるを以て俘虜の脱出取締は極めて

 困難なるべし。依って衛兵を増員し、佐倉歩兵第57連隊より舩橋中尉以下30余名出

 張し、構内6箇所に歩哨        を置き厳重に看視し居れり。又、本県警察部は和田警部補以

 下15名を同所に派遣し、軍隊と協力して取締に任ずる事とし、警察電話を架設せり。

 先年露国俘虜に外出を許可せる為め弊害続出したる経験に鑑み、今回は断然之を許可せ

 ずと。又、機を見るに敏なる商人は、既に俘虜対手の営業を出願せるも、絶対に不許可

 の方針を以て願書を却下し居れり。

 

大正4年9月11日(土)東京日日(房総版)

●習志野へ引移した俘虜連

 収容所附近へ如何わしい風俗の婦人は近寄せぬこと

  習志野に収容せる捕虜に就て、所員は曰く「収容人員は、准士官以上31名、下士卒

 279名である。以前の収容所・本願寺は構内狭隘なるに加えて通行の便好かりし為め、

 日々数千の見物人雲集し来り、種々なる批評を加えたれば、彼等も心中甚だ不快の念に

 駆られつつありしが、当収容所は広漠なる上に運動も自由なり。且、見物人も少きより

 非常に喜び居り。俘虜の嗜好は第一運動、第二音楽で、起床より消燈時間まで盛に運動

 し、暢気に日を送って居る。而して、昨年11月下旬本願寺に収容以来今日に至るまで、

 未だ1人の逃走者を出さざるも、情欲を誘発する動機を与ふる事ありては、或は脱柵逃

 走者を出すやも計り難きに依り、此点には特に周到なる注意を払い、如何わしき服装を

 なせる婦女子は成るべく周囲に近づけざる方針を取って居る。」

  因に収容所長は西郷中佐。所員は歩兵中尉原田武、同羽生能敬、二等主計武田寅蔵、

 軍医吉岡良平、一等計手山崎一郎、一等看護長石田幸之助、歩兵軍曹吉井宗次郎、同小

 川七之助、同島崎清之進、通訳事務嘱託酒山元吉、上等看護卒谷村元吉の諸氏なり。又、

 取締の為め、八日市場署詰警部補山下逸平氏を所長に、以下左記14名の巡査部長、巡

 査を任命し、大海原警察部長は8日同地を視察の結果、収容所附近の民家を借入れ之に

 改修を加へて、事務を執ることとなれり。

        ▲千葉署巡査部長重藤明太郎▲大原分署同稗田隆三▲木更津署巡査飯田謙治   郎▲同淵力▲東金署吉田定吉▲松戸松木司▲大原瀬戸栄治▲八幡青木庄蔵▲       曦小安豊治▲同荒井謙吉▲茂原古谷萬造▲千葉庄司嘉平▲同山田虔雄▲溝口       直蔵

 

大正4年9月15日(水)東京日日(房総版)

●福岡の俘虜到着は本日午後

  福岡の俘虜90名は、13日出発、15日午後津田沼駅に到着、習志野収容所に収容

 の筈なり。

●俘虜取締巡査の手当

  佐柳知事は、俘虜取締の為め配置せる巡査に宿料1ヶ月金2円、月額旅費巡査部長6

 円、巡査4円50銭を支給せる旨、14日訓令を発したり。

 

大正4年9月19日(日)東京日日

●独逸俘虜来る

 青島の富豪ばかり28人

  18日門司に入港せる寧静丸にて、三木中尉監督の下に、独逸俘虜28名青島より到

 着せり。何れも青島の富豪にて、独亜銀行支配人プリフズリツドミユー(41)、巴里洋行

 主人アオグストサツシン(52)も其内にあり。二十日午後、大阪に収容さるべしと(18

 日、門司電報)。

 

大正4年11月2日(火)東京日日(房総版)

●俘虜暴慢

 衛兵に抵抗す

  習志野俘虜収容所に収容中の独逸俘虜・海軍二等焚夫シーモンクラウス(28)は、去月

 30日午後5時半頃、食事上の事より同後備兵ウィルヘルムベーメル(38)と口論の上、

 殴り合いを始めたるを、衛兵が発見し駆着け取り鎮めんとしたるに、両人は衛兵に打っ

 て懸り暴行を働きたるより、数名の衛兵応援して両人を取り押え、西郷所長は一応訊問

 の上、抵抗罪をしてクラウスを重営倉3日、ベーメルを同上5日に処し、両人を大久保

 騎兵第16連隊の営倉に収容せりと。

 

大正4年11月22日(月)東京日日

●将校俘虜5名の逃走

 福岡市の奉祝騒ぎに紛れて

            同僚、情を知りて逃走を援け △点呼の際に空返辞にて応ず △内1名だけ朝鮮にて

捕わる

  福岡市物産陳列所に収容中の独逸俘虜は、海軍少佐フリッツ・ジャックセー、海軍中

 尉ヘルベルト・シウトレー、同海軍少尉ゲルハルト・フォン・ウェーングシュテル、同

 陸軍中尉パウル・ケンペ、予備陸軍少尉フリヰドリッヒ・モッデの5名は、19日、福

 岡市の奉祝騒ぎに紛れ逃走せり。

  収容所にては、平常、俘虜と雖も、将校は相当の待遇を与え、紳士として取扱い、些

 少の事には成る可く干渉せざる方針なりしに、彼等は恩に狎れ、取扱いの寛大なるに乗

 じて、不敵にも今回の逃走を企つるに至りしものの如し。

  当日午後4時頃、収容所員森山中尉が、ジャックセー少佐等に対して届きたる為替金

 を交付せんとし其不在を発見し、直に臨時点呼を行い逃走を確めたるものなるが、他の

 俘虜将校中にも此の逃走を知れる者あるは確なりせば、彼らの逃走が19日中なるに、

 20日午前7時に例日の通り人員点呼を行いしに、其返辞は人員と符合し、ジャックセ

 ー以下現に収容所に在るものの如く装いたるは事実なり。右に付、竹下福岡県保安課長、

 井手福岡警察署長等、21日午後5時、収容所に就て其模様を調ぶる所あり。下関、長

 崎方面に向ってもそれぞれ非常線を張りしが、未だ逮捕するに至らず、内3名は、日本

 服にて巧に変装せるらし(21日、福岡電報)。

▲逃走俘虜朝鮮まで逃ぐ

 昨報下関の怪しき外人は夫れなりし

  昨報、関釜連絡船にて、20日朝下関発朝鮮に向える怪しき外人、自称米国人フラン

 ク・ダヴリュー・ミーラーは、福岡の逃走俘虜なる事判明し、釜山上陸を待って取押え

 んとしたるに、彼は釜山より急行列車に乗じ、京城に向えるより、漸く大邱京城間にて

 憲兵隊の手にて逮捕したりと(21日、下関電報)。

▲地洋丸で逃走は全く風説

 神奈川県警察部の言明

  将校俘虜の逃走に就ては、当局は其の手抜かりの世間に知れるを恐れ、極めて秘密に

 厳探中なるが、昨日午後3時横浜出帆の、桑港に向いし地洋丸にも或は乗込み居らざる

 かと、神奈川県警察部に宛、取調べを命じたりと。之に付、田中神奈川県警察部長は語

 る。「横浜より地洋丸に便乗せる独逸人1名も無く、曾て南洋より追放され来り便船に

 て渡米する筈なりし独逸人すら、船室の都合にて便乗せず」と。又、横浜水上警察署は

 「神戸より同船に乗り込みたる独逸国帰化の米国人及子女同伴の独逸人に対する警戒方

 の依頼を、兵庫県より受け、同船を臨検したり」と。此等の警戒が、陰謀を企てたる独

 逸人数名地洋丸に乗り米国へ向いたり、而も其内には逃走俘虜もあれば無線電信にて取

 調べ中なりとの風説を生みたるが、神奈川県警察部にては、そは全く風説なりと言明せ

 り。

▲取締りの不行届

 当局として実に申訳なし/和田陸軍省副官談

  福岡収容所に於ける独逸俘虜の逃走に就ては、本日(21日)小倉第十二師団長から、

 単に、俘虜5名逃走、目下捜索中なり、とか云う簡単な電報が来た。一体、俘虜の取扱

 は、余り厳しくては成らぬし、又寛大にし過ぎてもならぬので、其辺の手加減が却々難

 かしい。何れにせよ、敵国の俘虜を1人ならず5人までも逃走せしめ、而もその中1人

 が朝鮮に逃げ延びるまで押えなかったと云うに至っては、当局として実に申訳がない。

 此の事件は、取締不行届きの結果たる事は、争う可からざる事実であるから、直接取締

 の任にあるものは、其儘には済まされまい。

 

大正4年11月23日(火)東京日日

●連累俘虜を営倉に送る

 3回に亘りて逃走しいたるを、旬日の後に発見したる迂闊さ

  将校俘虜逃走事件につき、久山収容所長は、21日夜、日本語に巧みなるワルデック

 総督の通訳たるドクトル・フリードリッヒ・ハックス(予備海軍砲兵少尉)及び逃走将

 校の従卒、海軍二等水兵ヨハン・シュレラー、海軍二等水兵ヨハン・パツトン、海軍二

 等砲兵エドワード・マツケーデン、海軍二等歩兵卒パウル・グートシュリッヒ、海軍二

 等水兵ヨハネス・エンガルト並に脱出将校に接近し居たる日本人クック伊藤某の取調を

 行いたり。

  ハックスは、独逸には独逸の忠義ありと、頑として事情の陳述を肯んぜざりしが、彼

 らは脱走の事実を隠蔽庇護せること確実なるを以て、何れも22日、歩兵連隊の営倉に

 送りたり。右の内ドクトル・ハックスの部屋は、脱走将校陸軍中尉ケンペと、板囲い一

 重の隣にて、13日収容所附松尾主計がケンペに対する俸給を交付せんと、物産陳列所

 に赴きたる所、ハックスが代りて面会し、ケンペは病気故、代人として受取らんと云い、

 主計は本人直接にあらざれば交附せずと、ケンペの室に進み入りたるに、寝室の上に、

 面部全体を繃帯にて包み、額には氷嚢を置き、顔の見えざる様にして横たわり居れる者

 がケンペなりと称して、俸給を受取りたり。然るに、其後に至りて、右の繃帯を被りた

 るはケンペにあらず、実は海軍中尉シュトレラーにして、続いて同人も逃走せるものな

 る事判明し、猶、併せてケンペは13日以前既に逃走し居り、予備陸軍少尉モッデが、

 最後の17日逃走せるものにて、即ち前後3回に亘りて脱出せる模様なること発覚せり

(22日、福岡電報)。

▲逃走俘虜の逮捕近からん

 取扱を厳重にせん

  陸軍省内俘虜情報局事務官河西中佐は曰く、「俘虜の逃走騒ぎも度々だが、今度の如

 く、将校ばかり5名も同時に逃げたのは初めてで、誠に困ったものだ。まだ当方へは、

 単に5名逃げたと云うばかりで、其後の公報が来ないから詳細は解らないが、未だ日本

 内地に居るらしいから、近々捕縛することが出来よう。俘虜の逃走したがって居るのは、

 日本に居るのばかりでなく、何処も同じ様だが、過般は墺国第17砲兵連隊のステフラ

 ンカラー少尉は、露国の俘虜収容所ロボリコラエウスキから逃走して、満洲から日本、

 亜米利加、諾威を経て独逸に入り、独逸官憲の保護で維也納に帰着したと云う事を発表

 したのを聞いて居るが、是は取扱が緩やかであった為めなそうだ。日本に居るのも、紳

 士として取扱って居る位で、私有財産などは勿論八釜敷く云わなかったから、金なども

 充分持って居って逃亡を企てたのだろう。今後は取扱いを余程厳重にして、金銭などは

 預かって、入用丈けしか渡さない様にする。兎に角、馬関を通らせたなどは困ったこと

 だ」云々。

▲外部から手引せし者あらん

 収容所長久山中佐談

  久山中佐は語って曰く、「今になって手ぬかりを悔ゆるも及ばず、責任は辞する所に

 あらず。目下の急務としては、1日も早く逮捕するにあり。尚、此度の脱走に就いては、

 所外に気脈を通じて手引を為したるものあるべきは、予と雖も想像に難からざる処なり。

 併し、今日にては何の程度迄調査の歩を進めつつあるかなどの内容は、遺憾ながら語る

 を得ず」云々。同所長以下、引責辞表を提出したりと(22日、福岡電話)。

▲逮捕俘虜の取調

  昨報、朝鮮にて逮捕せし逃走俘虜は、予備陸軍少尉モッデらしく、実地取調の為め、

 22日朝、収容所員鈴木正治は、京城に向け急行せり(22日、福岡電報)。

 

大正4年11月24日(水)東京日日

●逮捕俘虜の護送

 昨夕下関に着し直に福岡へ送る

  京城にて逮捕されたるフリードリッヒモッデ(42)は、鈴木少尉外2名の憲兵に護送さ

 れ、23日午後6時関釜連絡船にて下関着。午後7時20分門司発、福岡に送られたり。

 モッデは薄茶色の夏外套に鳥打帽を戴き、連絡船より桟橋に降りるや、門司並に下関憲

 兵分隊より派遣されたる憲兵7、8名及新聞記者其他多数の見物人に囲繞せられながら、

 微笑を浮かべつつ、襄に朝鮮に渡らんとする際、下関にて取調べを受けたる茂手木通訳

 に向い「君の為めに発見の端緒を作られたるは、頗る遺憾とする所なり」と述べたり。

  鈴木少尉は曰く、「20日の新聞紙にて、怪しき外人朝鮮に渡れりと記載されしより、

 或は逃走俘虜にあらずやと思い、直に大邱憲兵分隊に打電し取調を依頼して、京城にて

 モッデを捕えたるが、彼は飽く迄米国商人なりと言い張り、容易に自白せざりしが、彼

 の携帯物は、現金百七、八十円と行李1個あり。其中には古洋服と鍵10個、望遠鏡、

 警笛等にて、纏える外套が独逸軍人特有のダブル釦なれば、22日に至り遂に俘虜なる

 ことを自白せり。彼は、正式審問の時に非ざれば一切を語らずと口を噤み居れるが、他

 の逃走俘虜の行動に就ても知悉する筈なれば、審問の進むに伴れ、他の逃走俘虜の行動

 も、自ら明かに        なるべし」と(23日、下関電報)。

▲モッデ逃走の顛末を語る

 目的は北京に在る妻子に遭いたさに

  モッデは語る。「20日午前3時頃、収容所裏手の砂山に出で、歩哨の傍を潜り抜け、

 直に停車場にかけつけ、門司までの切符を買い、午前5時発の一番列車に乗込み、更に

 関釜連絡船にて奉天迄の切符を買いしに、茂手木通訳の取調べを受けたる時は、万事休

 すと覚悟せるものの、遁れ得る丈けは遁れ見んと、飽まで米国商人なりと言い張り、無

 事に通過し、釜山上陸後は稍安心と思いしに、遂に発見されたるは遺憾なり。逃走の目

 的は、北京にある妻子に面会せんが為めなり。予は、北京にて10年間毛皮商を営み、

 2歳と7歳の小児あり。聞く所によれば、他にも数名相前後して逃走したりとの事なる

 が、予は全く知        らず。俘虜として既に各地に収容されたる我々独逸人は、斯くまで戦

 争の永びくものとは予想し居らざりき。而も昨今の戦況を聞けば、連合軍側にては持久

 の策を取り居る由なれば、其終結を見るは何日の事やら見当付かず、此の上2年も3年

 も不愉快なる俘虜生活を続くることは、最大苦痛なれば、隙だにあらば逃走せんとする

 も是れ決して無理さらざるべし」云々(23日、下関電報)。

▲ワルデックを取調ぶ

 取締、遽に厳重となる

  第三五旅団長河内少将は、23日午後1時ワルデックを召喚し、赤十字支部収容所よ

 り久山所長附添い電車にて、旅団本部に出頭、約1時間に亘り取調を為したり。又、俘

 虜の取調は、福岡憲兵隊分署に於て、通訳を介して厳重に審問を継続し、22日より2

 3日に亘り、取調ぶる者も調べらるる者も共に一睡もせず、ドクトル・ハックは依然逃

 走将校に関する事実の答弁を拒絶し、又5名の従卒は処罰を覚悟して一言も語らず、未

 だ何らの手懸りをも得ざる模様なり。俘虜収容所にては、俘虜将校逃走に付、将来の取

 締を更に厳重にする事とし、日直将校1名を増加し、朝夕2回精密なる点検を行い、午

 後9時に至らば悉く就寝謹慎せしむる事とし、従来許可したる室内外の遊戯は、今後絶

 対に禁止する事となれり(23日、福岡電報)。

▲警務総長が発見

  朝鮮にて逮捕せし逃走俘虜は、21日夜、南大門駅着列車にて御大典参列より帰任の

 途にありし立花警務総長が、同列車乗客中に怪しき外人あるを発見し、憲兵隊に引渡し

 調査せしめたる所、初めは米国人なりと云い張りしも、遂に包みきれず、独逸俘虜将校

 フリードリッヒ・モッデなることを自白せしより、22日夜、憲兵2名にて釜山に護送

 し、23日、受取の為め来れる福岡俘虜収容所の鈴木少尉に引渡せり(23日、京城電

 報)。

 

大正4年11月26日(金)東京日日

●逃走俘虜の行方

 奉天まで尾行せしも遂に逸す

  一人は八幡丸にて上海に去る/彼等の逃走手段は実に巧妙を極めたり

  逃走俘虜5名の中、モッデは京城に於て逮捕し、ウェーングジュテル少尉並にシウト

 レー中尉の行方は今尚判明せざるも、ジャクセイ少佐とケンペ中尉の逃走経路は、下関

 署に於て取調の結果、判明せり。其の顛末を報ぜんに、下関水陸両署に於て、御大典中

 下関駅内外を警戒中、16日午前8時20分下関着関門連絡船より上陸したる1外人あ

 り、直に山陽ホテルに入りしを、茂木警察署通訳が追跡、訊問したるに、彼は博多より

 横浜までの切符を携え居り、自分は仏国リオン大学教授ドイスラウンド(40)と称し、別

 に怪しき者にあらずと答えしも、巧なる仏語の中に独逸訛あり、怪しみたるが、同署が

 俘虜逃走の通報        を受たるは20日午後7時にて、警察にても斯かる大事件の発生せし

 とは夢にも知らず、独探の嫌疑に止め置きしに、彼はボーイに命じて釜山までの往復切

 符を求めしめ、一度帰還すべく装うなど、今から思えば実に巧妙なる手段を尽し、16

 日午前10時10分発関釜連絡船にて釜山に向いたれば、注意人物として刑事を尾行せ

 しめしが、釜山に着するや、更に奉天までの切符を求め、朝鮮観光を為さず、18日奉

 天着後、天津に向いしものの如し。此の外人こそ、後に取寄せたる写真に照し、ジャク

 セイ少佐なる事を確めたるが、同署にては、刑事は単に独探嫌疑を以て尾行せる事なれ

 ば、国境外に去れば足るとなし、逮捕せざりしは遺憾なりと言い居れり(25日、下関

 電報)。

▲商人と称して警察を欺く

 一旦九州に逃れて、引返して下関に来る

  23日午前8時20分下関着関門連絡船より上陸したる1外人あり。紺の背広服、茶

 褐色の地に赤青筋入のオーバーコートを纏い、青紫色の中折帽を戴き、直に山陽ホテル

 に入り、午後2時20分まで滞在し、朝食と昼食を摂り、更に鉄道院所属高島丸にて門

 司に渡らんとせるより、挙動不審の廉にて取調をなしたるに、彼は瑞典ストックホルム

 の商人ニーセロン(30)と称し、商売上の要件ありて上海に赴くものなりとの事に、尾行

 注意中、同日午前八幡丸に便乗、上海に向いしを以て、出帆を見届けて引返せり。然る

 に、其後これも写真と照合の結果、ケンペ中尉と判明せりと(同上)。

           写真:逃走せし福岡収容所の俘虜将校

             向って右より(前列)海軍中尉ストレーラー、海軍少佐ザクセー、

             陸軍中尉ケンペー、(後列)陸軍少尉ヱンクステルン、海軍少尉モ

             ッデ

 

大正4年11月29日(月)東京日日

●大胆なる逃走振り

 俘虜5名の逃走経路、悉く判る

  下関署の訊問を巧に切抜け、廓に遊興し連絡船にて去る

  逃走俘虜5名中、モッデは京城にて逮捕され、ジャックセーは天津に去り、ケンペは

 上海に逃れたるは既報の如くにして、他の2名の行方に就ては、下関署にて極力捜索中

 なりしが、28日に至り漸く其足跡を探知するに至れり。即ち、去17日門司警察署よ

 り、氏名国籍不明の1外人、下関に向えりとの通報に接したれば注意中、同日午前8時

 20分着連絡船より上陸したる1外人は、紺の背広に茶のオーバーを纏い、縞の鳥打帽

 を戴き、上陸するや直に山陽ホテルに入りしを以て、下関署の茂手木通訳が訊問したる

 に、仏人ブチユール(31)と称し、他は何事も語らず、人力車に乗じ、豊前田遊廓筑政楼

 に案内せしめ、芸娼妓は揚ず、仲居等と身振手真似にて、麦酒3、4本を傾け、3、4

 0分の        後、山陽ホテルに引返し、午前10時発関釜連絡船にて渡鮮せり。船内にて彼

 の自署せる姓名は、下関署員に答えたるものと異り、仏人ドクトル・モッシュ・ヘンリ

 ー・ボイクト(31)とあり、挙動不審なれば、水上署員は釜山まで尾行し、釜山警察署に

 引継をなせしに、同人はモッデ同様、釜山より奉天までの切符を買い、奉天より天津に

 至りたり如し。山陽ホテルにて自署せる筆跡、写真、其他立会いたる警察署員等の証言

 に依れば、此者こそ逃走俘虜海軍中尉シュートレーラなる事を確めたり。

  又、19日午前8時20分着関門連絡船より上陸したる1外人は、茶のオーバーコー

 トに鳥打帽を戴き、午前10時着連絡船にて釜山に着し、奉天より北京に向いたるが、

 下関署の訊問に対しては、瑞西人スタリンガ(26)と称せしも、其実、逃走せる海軍少尉

 ゲルハルト・ウニレックシュレなるを確めたり。之を要するに、逃走俘虜5名は、13

 日ケンペが瀬踏に成功したるより、16、17、19日と連日又は隔日に、同一経路を

 取り、午前5時博多発列車に乗込み、8時20分下関に上陸、ケンペのみは八幡丸にて

 上海に去り、他は悉く連絡船にて奉天に至りしものにて、充分に謀し合せたる上、決行

 せるものなり(28日、下関電報)。

 

大正4年12月1日(水)東京日日

●俘虜逃走事件の取調べ終る

 従卒替玉となりて逃走者の室に起臥す

  俘虜将校の逃走に関し、福岡憲兵分隊に於て取調べたる海軍砲兵少尉候補生ドクト

 ル・ハックは、29日第4回目の取調べに際し、自己の関係せる一切を白状して曰く、

「真先の逃亡者なる海軍中尉ケンペの逃走せる12日よりも2、3日前の事、収容所の庭

 園内を散歩中、同人より逃走を試むる事、並に予て逃走準備として背広服1着を某所に

 隠匿したる事を聞きたれども、其の隠匿場所は申立つる能わず。又、陸軍少尉モッデは、

 従卒マッケンゼン所持の外套を貰い受けて着し、衛兵の眼を晦まして脱出したり」と申

 立て、ザクセン少佐の従卒シレーダーは、少佐逃亡後2、3日間少佐の室に入りて、替

 玉となりたる事        を確め、共謀の事実判明せるを以て、憲兵分隊は29日夜、一先ず取

 調を打切りハック及びモッデの両人を憲兵分隊に留置し、従卒5名は歩兵第二四連隊の

 営倉に禁錮し、其筋の命令を待ちて小倉師団の軍法会議に護送する筈なり(30日、福

 岡電報)。

 

大正4年12月2日(木)東京日日(房総版)

●俘虜を警戒

  病気にて習志野衛戍病院に入院中の俘虜海軍一等卒カーエルは、30日全治退院し、

 又、在東京独逸人宣教師は、30日習志野収容所に来り、通訳立会の上、俘虜一同に説

 教を為したり。西郷所長は、観兵及観艦式に陪観の為め不在に付き、逃走等の万一を慮

 り、従来の外、習志野騎兵第一三連隊に警戒方を依頼したり。

 

大正5年1月4日(火)東京日日

●久留米の俘虜また逃亡

 2日の晩から居なくなる

  久留米俘虜収容所俘虜海軍重砲兵卒ゲリーハウトザック(22)は、2日夜逃走せるを、

 3日午前6時の点呼の際、発見せり。彼は、折襟の海軍服を着し、2行ボタンを1行に

 なし普通服の如くなせる形跡あり。10円位の所持金あるべし。丈は6尺位の大男にて、

 髭は黒き方、顔は長き方にて、支那広東税関吏たり。英語、支那語を好くす。警戒を厳

 にし捜索中なるが、今尚行方不明なり(3日、久留米電報)。

 

大正5年1月6日(木)東京日日

●俘虜の胸に日本の数字

 先ず出入門鑑励行/誕生日のお祝

  俘虜逃走以来、其筋にては、是が取締上に就き種々研究中なるが、福岡旧柳町なる下

 士収容所は、先ず外来者に対する取締の一部として、出入門鑑を所有する事にし、之を

 所持せざる者は、一々取次を乞いて係員に面会せられたし、との旨を掲示し、又、俘虜

 に対しては大分収容所の方法に倣い、4日午後、各自の被服右胸部に、白布に日本数字

 を以て現したる番号札を縫い付けさせたり。之は、事故ある毎に一々姓名を問い質すの

 繁を避け、且、外国人を見馴れざる衛兵等が、一々其特徴などを見分け難く、自然姓名

 を問い質す際にも偽名し、責任を免るる者あるを防ぐ為めにして、尚、此標識に依り、

 赤十字支部及物産陳列場収容の俘虜将校一同にも適用すべき筈なり。但し、下士の気風

 は一体に柔順にして、又、中には今尚、白の夏服にメリヤスの肌着を重ね居るもの4、

 5名あり。因に、来る27日のカイゼル誕生日には、喧騒に亘らざる限り、相当の祝意

 を表する事を許可したり(5日、福岡電話)。

 

大正5年1月28日(金)東京日日

●独俘虜の祝宴

  27日はカイゼルの誕生日なるより、喧騒に亘らざる限り俘虜の外出を許す事となり、

 将校連は食堂を装飾し、午後6時より相会して祝宴を開き、兵卒連は第1号室にカイゼ

 ルの写真を掲げ、午前10時一同集合して、俘虜中の音楽家ミリエスのピアノに合せ、

 国歌を合唱し、宴会を催したり(27日、福岡電報)。

 

大正5年2月1日(火)東京日日(房総版)

●俘虜の乱暴

 再び重営倉

  千葉郡習志野俘虜収容所海軍二等砲兵オブ、フリヒドリヒセン(25)は、去る11日、

 監視兵の隙を窺い脱営せんとせる為め、重営倉20日に処せられ、31日満期出獄を許

 さるる筈なりしも、常に乱暴を働き改悛の状なきより、更に重営倉10日に処せられた

 り。

 

大正5年2月13日(日)東京日日

●今度は丸亀の俘虜

 一昨夜2名逃走/全力を尽して捜索中なれど手懸りなく行方更に不明也

  11日午後8時頃より12日払暁迄の間に、丸亀俘虜収容所の俘虜上等兵レーケル

 (25)、ゲルマイ(24)の2名は、軍服の侭、逃走、行方不明となりたるより、憲兵隊並に

 県下各警察署は、全力を挙げて捜索中なり。彼等2名は、収容所の東手なる便所の扉を

 排し、之を踏台として塀を乗越えたる形跡あり。尚お、其筋にては、多分瀬戸内海に向

 って逃れたるにあらずやと、船舶所有者に就て一々調査せしも其痕跡なく、さりとて鉄

 道、汽船等に依り遁れたる模様もなければ、多分陸地を辿りて何れにか潜伏し居るべし

 との見込にて、全力を挙げて捜索中なるが、石井所長は、責任を以て一両日中に逮捕す

 べしと云い居れり。同収容所は、一昨年開設当時、俘虜が木炭商人と結託して不経済の

 炭を買入れ使用し居る事発覚し、一問題持上りたるより、石井所長は特に取締を厳重に

 為し居りたるに、又、遂に此の失態を演ずるに至りしは、当日は紀元節の為め、大祝日

 の例として聊か警戒を忽にしたる隙に乗じたるものなるべし(12日、丸亀電報)。

 

大正5年2月15日(火)東京日日

●逃走俘虜捕わる

 軍隊・消防、山狩の結果/昨夜8時に至り遂に発見さる

  11日夜、丸亀収容所を逃走したる俘虜上等兵ゲルマン外1名は、其後、巧に踪跡を

 晦まし居たるが、憲兵隊並に警察は、全力を挙げて活動し、警察所有船2隻は、12日

 夜、風波を冒して瀬戸内海島嶼、並に怪しき帆船等につき夫々捜索をなし、一方、丸亀

 第十二連隊より将校10名、兵卒100余名を引率して、潜伏の疑いある三豊郡詫間村

 の山々を包囲し、同村消防夫援護の下に山狩りを行い、尚、県下の消防組数百名、各方

 面に手分けをなし、物々しき迄に活動し居たるが、遂に昨夜8時に至り、三豊郡辻村に

 潜み居るを発見し、取押えられたり(14日、高松電報)。

 

大正5年3月8日(水)東京日日

●独宣教師の抗議

 俘虜への接見禁止の為

  金沢の独逸宣教師チンメルマンは、5日米国大使を経て、全国俘虜収容所出入を禁止

 されたり。右は、大阪収容所にて規定以外の談話をなしたる為めなるも、同人は之を不

 服とし、当時の事情を記述し、同大使を経由して、近日抗議書を提出すべし(7日、金

 沢電報)。

 

大正5年3月15日(水)東京日日(房総版)

●宣教師の出入を禁止す

 習志野俘虜収容所の警戒

  習志野俘虜収容所にては、従来毎週1回ずつ、在東京の独逸人宣教師来り、監督将校

 立会の上、俘虜に対し伝道せしめ居たるが、最近福岡俘虜収容所に於て、宣教師と俘虜

 が結託し外部との連絡を取りたる事実発覚せるより、習志野収容所に於ても、今週より

 絶対に宣教師の出入を禁じ、厳重に警戒中なり。

 

大正5年3月29日(水)東京日日

●大阪俘虜収容所の出火

 13棟を全焼し2棟を半焼す/逃亡の目的で放火せし疑あり

  28日午前9時、大阪市西区岡島町大阪俘虜収容所内東北の家屋より出火し、木造平

 家建1棟60坪の建物13棟を全焼し、更に2棟を半焼して、10時半鎮火せり。右1

 3棟の全焼家屋中6棟は、収容俘虜510名中将校のみを収容し居たるものにて、将校

 俘虜は出火と見るや、直に各自の荷物を背負いて空地に避難し、1名の負傷者もなく、

 急報に依り警察本部及九条、西、水上の3署より警官300余名が出動し、消防に尽力

 すると共に、彼等の逃亡を警戒し、一方第四師団司令部及歩兵第三十七連隊・砲兵第四

 連隊・憲兵隊より200余名の兵士及憲兵が駈付け、収容の周囲を七重八重に取囲みた

 る為、1名の逃亡俘虜もなかりしが、一時は非常の混雑なりき。

  原因は煙草の火ならんともいい、又は俘虜中の何者か放火せしにあらずやとの疑あり。

 目下厳重取調中にて、所長管野中佐は大野副官と共に、善後策を講じ居れるが、同収容

 所は総建物50棟故、焼残りたる37棟のみにて充分彼等を収容し得る余地あれば、建

 増はなさざる可く、損害は、バラック式の木造家屋故、五、六千円に過ぎざる見込みな

 りと(28日、大阪電話)。

 

大正5年7月19日(水)東京日日

●習志野に怪しき外人

 独俘虜と談話し、秘密文書を交換

  17日午前7時頃、習志野俘虜収容所附近に1人の怪しき外国人が徘徊し、監視歩哨

 の隙に乗じ、裏手の柵傍に接近して、折柄構内散歩中の俘虜将校と、密に独逸語を以て

 談話を交換し居たる歩哨兵が発見し制止せしも聴かず、依って歩哨兵は其旨を西郷所長

 に報告せるより、原田中尉現場に駈着けたるに、件の怪しき外人は逸早く現場を逃走せ

 るが、捕虜将校との間に秘密文書を交換せる疑いあり、目下厳重に取調中なり(18日、

 千葉電話)。

●習志野に怪しき外人徘徊す(房総版)

 俘虜と独語で談話を交換し、秘密文書を交換せる疑あり

(以下同文)

 

大正5年9月27日(水)東京日日

●独亜銀行の営業停止

 大蔵大臣よりの命令/昨日限り閉店す  俘虜、犯人の貯金多し

  大蔵大臣は、25日附を以て、銀行条例第8条第2項に拠り、横浜山下町180番な

 る独亜銀行横浜支店に対し、営業停止を命令し、同命令は26日、神奈川県庁を経て横

 浜市役所に到達せしより、坂上通訳は、早速同支店に到り命令書を伝達せしに、同支店

 支配人エーチ・コンネル氏は、命令は遵奉すべきも、銀行には日本にある独逸捕虜40

 00余名並に京浜間在留の独逸人約300名の貯金あり、是等の支払をも同時に停止さ

 るるに於ては、誠に迷惑を感ずるとて、種々懇談する所あり。主務省に交渉したるも、

 命令は絶対的の営業停止なればとて、同銀行は26日正午限り閉鎖したり。同支店の資

 本金は75万円にして、其開業は明治38年11月1日にて、本店は上海バンドにあり、

 資本金751万上海両なる由。

 

大正5年9月29日(金)東京日日

●独探の費用に

 独亜銀行に対する営業停止の裏面/関係者の大恐慌

  独亜銀行が営業を停止せられたるとは、既報の如し。其近因と見るべきは、去る2月、

 独逸政府は支那政府より受領せる同国借款の利子其他数千万円を、独亜銀行の手を経て、

 密に同行神戸支店に輸送し来り、其一部は横浜支店の手を経て、在米独探の運動費に使

 用せる嫌疑あるのみならず、尚、日本内地の如何わしき方面にも之を撒布し、我軍事上

 の秘密をも探査せる外、鉄輸入支那貨幣を流用し、我正貨の海外輸出を企てたる等の痕

 跡あるより、遂に今回の厳命とありたる由にて、之が為め同国商人は頗る窮境に陥り、

 在横浜独商約60戸中には、その結果遠からず追放を命ぜらるる時期あるべしとて、既

 に閉店して米国に立退く準備をなしたるさえあり。一方、銀行にては、他の預金は兎に

 角とするも、此際、在留捕虜4000余名の預金支払を同時に停止されたるは、彼等に

 対し同情に堪えざれば、特に此の点に関し、政府に向って解除方を懇請中の由なれば、

 或は、特に何等かの名義にて解除の手続を為すやも知れずと。

 

大正5年10月18日(水)東京日日

●聖上行幸の為め俘虜を移送

 下士卒全部を他の収容所に分送す

  大演習につき聖上行幸あらせらるるを以て、福岡市旧柳町に収容せる独逸俘虜下士卒

 全部319名は、18日大分へ69名、19日青野及び大阪へ111名、20日習志野

 へ69名、名古屋へ170名の割合にて輸送することとなれり(17日、福岡電報)。

 

大正5年10月27日(金)東京日日

●習志野の俘虜逃走す

 船橋町にて憲兵に逮捕さる

  千葉郡習志野収容所の独逸俘虜海軍二等兵曹フランシススーラン(39)は、25日夜8

 時50分頃、厳重なる監視兵の隙を窺い、二重の鉄条網を乗り越え、闇にまぎれて何処

 へか逃走したるを、同9時就床点呼の際、係官が発見し、西郷所長に報告し大騒ぎとな

 り、直に二宮憲兵分遣所及び千葉署習志野出張所に通知して、八方行方捜索中、同10

 時過ぎ、東葛飾郡船橋町地先を逃げ行くを憲兵が逮捕し、取調の末、26日軍法会議に

 送りたり。同人は、去る22日福岡収容所より移転されたる者にて、在福中にも両三度

 逃亡を企てたることありと(26日、千葉電話)。

 

大正5年11月5日(日)東京日日(房総版)

●俘虜騒ぐ

 首謀者は18名/独亜銀行の預金引出に就て

  目下習志野俘虜収容所に収容中なる独逸俘虜は、此程営業を停止されたる横浜独亜銀

 行の預金引出に関し、西郷所長の誠意を認むる能わずとて、大に激昂し、預金者18名

 首謀となりて頗る不穏の状あり。或は、彼等が一団となり、西郷所長の面前に於て其不

 誠意を痛罵せんなど絶叫し居る者も、少からず。形勢刻々に険悪に陥りつつあるより、

 同所に於ても極力鎮撫策を講じ居れるが、事件の真相は極めて簡単にして、彼等の内1

 8名が俘虜として日本に来りたる際、独亜銀行に平均1人30円、全部540円程の預

 金をなしたるが、同行は営業停止の悲運に接したれば、之を聞ける俘虜は、俄に預金引

 出の請求をなし、既に1箇月を経過せるも、尚、何等の回答なきより、銀行の無法並に

 収容所長の不誠意に就て不平を鳴らし、甚だしきは、日本政府が冷淡なりとて悪罵を放

 つに至れるものあり。因に、独亜銀行は大蔵大臣に対し、預金引出しの特別除外例を申

 請し、一方横浜市役所に対しても、急遽なる便宜取扱方を懇請しあり。殆ど犠牲的に奔

 走し居れど、捗らず。為に、俘虜等の誤解を招くに至れるなるべしと。

 

大正5年11月10日(金)東京日日(房総版)

●俘虜紛擾事件解決

 預金払渡に決す

  習志野俘虜収容所に在る独逸俘虜18名が、横浜独亜銀行の預金引出に関し西郷所長

 の誠意を解せず、却って不穏の行動に出でんとしたること、既報の如し。其後、収容所

 にては、同行に対して数回交渉をなしたる結果、同行が大蔵大臣に宛てたる特別除外例

 請求を横浜市役所に差出せる便宜取扱い方請求に依り、来る30日迄には総預金540

 円の払渡をなすことに決定し、同所内に起れる紛擾事件も無事解決せり。

●独探か

 怪しき1外人=千葉駅より行方を晦す=

  8日午後3時9分、千葉駅着列車の二等車より下車したる1外人あり。別室に乗込み

 尾行し来れる警視庁の刑事が、同駅に待合せ居たる千葉署の刑事に引継をなしたるが、

 右の外人は年齢31、2歳位にして、身に黒羅紗背広服を纏い風体卑しからず。下車後、

 小荷物係より静岡駅発送に係るトランク15個を受取り、其の儘千葉町寒川方面に立ち

 去り、尾行の刑事を捲いて、何れともなく姿を晦ましたるが、其挙動甚だ訝かしく、独

 探らしき節あり。其筋にては、秘密裡に捜索中なり。

 

大正5年12月19日(火)東京日日(房総版)

●俘虜の喜び

 =習志野原に於ける= 講和の実現を待つ

  目下習志野俘虜収容所に収容中の独逸兵は、収容以来無謀なるカイゼルの軍国主義を

 恨み、頻りに怨嗟の声を放ち「カイゼルを殺せ。世界の撹乱者はカイゼルなり」などと、

 盛に独帝を罵倒し居たるが、過般講和説が報道さるるや、懐かしき妻子の許に帰るは近

 きにあるべしと、一同欣喜雀躍し、一日も講和の早く実現さるるを期待し居れるが、取

 締の警官に対しても片言交りの日本語にて「永く厄介になりました」と、既に帰国の近

 ずけるが如く礼を述べ、柔順に命ぜられたる作業に従事し居り。午後6時の夕飯を済ま

 すや、彼等は一団となりて独逸の国歌を合唱し、遥に故国を偲び居れる様、いと哀れに

 見え、今は我厚遇を衷心より感謝し居れりと。

 

大正6年1月24日(水)東京日日

●日独捕虜交換交渉

〔倫敦電報〕22日ロイテル発

  コーペンハーゲン来電に拠れば、ローカルアンツァイゲル紙ベルン通信員の所報に曰

 く、日独捕虜の交換交渉は終りを告げ、日本に於ける独墺両国非戦闘員捕虜も亦、数週

 間中に本国に帰還すべしと。

 

大正6年1月27日(土)東京日日(房総版)

●昨今の俘虜生活

 帰国の早きを祈る

  習志野俘虜収容所に在る独逸兵700余名は、其後連合国との講和問題が絶望となり

 しを伝え聞き、孰れも愁然たる有様なるが、尚お故国が糧食の欠乏甚だしきことを耳に

 し、尠からず憂慮し、且つ父母妻子の身の上を気遣い居れるもの多く、目下の寒気にも

 規則整然たる日常生活をなし、感冒等に冒さるる者極めて稀にして衛生状態は遺憾なく

 行届き居り、衛兵等の命令に克く服従し、只管、帰国の一日も早きを祈り居れりと。

 

大正6年3月16日(金)東京日日(静岡版)

●俘虜使用の協定成る

 本県工業試験場

  本県工業試験場にては、静岡俘虜収容所より、去月上旬俘虜アルツールを傭聘し、指

 物及び玩具の製作に従事せしめ居るが、今回牧瀬工業試験場長は嘉悦収容所長との間に、

 俘虜労役協訂書を交換し、同時に、従来作業時間は午前中4時間なりしを1日7時間に

 延長し、1日の労金を20銭と定めたる上、作業中の監視其他一切の責任は牧瀬場長が

 負う事となりたりと。

 

大正6年4月8日(日)東京日日

●丸亀収容所の俘虜暴行

 =多度津へ移転を拒み、将校7名を大八車に縛り付て移送す

  丸亀浜町の俘虜将校17名は、7日午前9時、多度津へ向け出発の所、死を決して出

 発を拒み暴行を働くより、収容所附所員、検察官及憲兵隊出動し、取鎮めんとせしも肯

 かず、上官に抵抗し、9時30分に至るも出立すること能わず。10名は徒歩にて移送

 したるも、7名は暴行を続けし為め、捕縛の上、大八車に1名づつ結い付けて、7台に

 て9時50分多度津に移されたり(7日、丸亀電報)。

 

大正6年4月10日(火)東京日日

●戦慄すべき強盗の兇刃

 惨殺されしイルマ夫人

   俘虜となれる良人、ザルデルン大尉 =大尉は、独逸前参謀総長の息

   独逸から遥々尋ね来しイルマ夫人  =夫人は、独逸前海軍大臣の娘

  福岡俘虜収容所の独逸俘虜海軍大尉ヂクフード・フォン・ザルデルンの妻にして、福

 岡市外住吉町に仮寓せるヱラー・エミーリエ・イルマ(30)が、去2月24日夜半、何者

 かに惨殺され、次でこの悲報を聞けるザルデルン大尉は、3月1日未明、収容所内の自

 室に於て縊死を遂げし事件あり、この事件は、犯人捜索上記事掲載方を禁ぜられいたる

 が、8日払暁、犯人を逮捕するに至れり。

  イルマの家は、元愛知県知事深野一三氏の所有にて、那珂川に臨める三千坪以上にし

 て、大正4年暮以来借受け、長男ジェルベスター(11)、次男オルスト(8)、家庭教師独

 人ヨハナバルクネール等と住み、邸内の一棟に、厨夫北条歌三郎夫婦を住ませいたり。

 兇行当時、長男は帰国し、家庭教師は松山に赴き、家には次男とイルマのみなりき。兇

 行の翌朝、即ち25日朝5時頃、厨夫歌三郎の妻が、例の如くイルマの部屋を暖めんと

 母屋に赴き、取乱したる四辺の光景に不審を抱き、寝室に入れば、イルマは在らず、隣

 室9畳の間の入口に、寝        衣は乳房の辺りまではだけられ、仰向けに打倒れ、顔面右頬

 部及び胸部を短刀にて突刺され、雪白の寝衣は半ば朱に染み、血潮は襖にまで飛び散れ

 る惨状に、仰天し其筋に急報したれば、係官は時を移さず臨検せる結果、寝室内の卓子

 上に在りたる白金腕巻時計及真珠入白金指輪、紙幣・銀貨取り交ぜ100余円程入れる

 財布と其他が紛失し居るより、全く窃盗の目的を以て忍び入り、イルマに発見され格闘

 の末、殺害逃走せるものと判明し、死体は夫ザルデルン大尉に一見せしめし後、九州大

 学法医学教室に運び、高山博士執刀にて解剖に附したるが、其際、死体の腰部に附着し

 いたる短刀の「はばき」を発見し、これを端緒に犯人の捜索に着手せり。因に、兇行の

 際、隣室に臥し居たる次男オルストは、母の殺さるる物音を聞きしも、怖ろしさに毛布

 を被りて、其儘夜を明したりと(9日、福岡電報)。

◆亡妻を慕いてザルデルン大尉も自殺す

 3月2日に葬儀を済す

  一方、イルマの夫ザルデルン大尉は、この悲報に接するや、憂慮の余り喪心の体とな

 りしより、江口収容所長は其心中を察し、同日直ちに衛兵2名と、同僚なるドクトルハ

 ック、ウヰッドマン大尉の両人を附添わせ、イルマの住居に赴かしめ、死別の情を尽さ

 しめしに、帰来食事も取らず、快々たりしが、終に子供等は東京の宣教師ミルレーダに

 託する旨の遺書を認め、3月1日未明に、亡き妻の跡を慕いて縊死を遂げしを、翌朝点

 呼の際発見し、大いに驚き、それぞれ手続をなしたる上、2日午後1時を以て福岡収容

 所内の広場にて葬儀を行い、同日午後、九大医科大学内火葬場にて荼毘に附したり(同

 上)。

◆犯人捕わる

 =8日払暁、小倉にて

   白金の腕時計其他、盗品全部を所持す

  この重なる椿事に、其筋にては必死に犯人逮捕の活動をなし、7日に至って漸く、小

 倉市烏町二丁目パン屋岡城方のパン製造職工、通称神行富弥事、田中徳一(25)なる事を

 突き止め、福岡県警察部より出張せる中島刑事部長及大米龍雲を逮捕せし刑事の為に、

 外出先より岡城方に戻らんとせるところを逮捕し、小倉署にて一応取調しに、イルマ方

 より奪いし真珠入指環、白金腕時計等を所持しいたれば、真犯人に相違なき事を確め、

 8日午前11時14分博多着列車にて福岡署に護送され、徳一は捕縛当時は小倉の厚司

 に茶襦子の帯を締め、ソフト帽を頂き、身の丈5尺1寸5分、髯濃く一癖あり気の容貌

 なりと。

  彼が福岡署に護送さるるや、福岡地方裁判所の阿部検事、後藤判事等の取調を受けた

 り。中島刑事部長の談に曰く、「徳一は、終始温順らしく見せ懸け、護送中も至極穏か

 にて、隧道通行中は目を閉じて物思いに耽るものの如くなるが、自分も殊更目を細くし

 て徳一の挙動を窺いたるに、彼は自分の不用意を見るや逃走の態度に出ずるなど、油断

 できる曲者なり」(9日、同上)。

◆徳一自白す

 脅迫に応ぜぬより、終に殺害す

  田中徳一は、厳重なる取調に対し、包むに由なく、終に「強盗の目的にて、2月24

 日午後12時頃、イルマ方勝手口の錠前を捻切りて忍び入り、イルマの寝室に至り、匕

 首を以て、金を出せと脅迫したるも応ぜざるより、隣室なる客間に引出し、下頸部と右

 乳上を突き刺し、尚おイルマの寝巻にて絞殺を図りしも、抵抗する為め果さず、遂に電

 燈のコードにて絞殺し、現金100余円、鞄、時計、指環等を強奪し去れるなり」と自

 白したり(9日、同上)。

◆犯人徳一の素性

 私生児で前科一犯/幼少からねじけ者

  犯人徳一は、佐賀市上蘆町宮木久平の庶子にて、明治29年2月佐賀郡兵庫村青物商

 田中新太郎(55)の養子となりしが、新太郎には5人の実子ある上、家貧しき中に継子と

 して育てられし為め、ねじけ者にて、幼少より手に合わず。大正2年6月、窃盗犯にて

 懲役3箇月に処せられ、出獄後、京阪地方に赴き、今春帰来し、兇行当時は福岡市外新

 柳町旅人宿橋本屋に、小倉市島町三丁目洋服店岡崎富治(30)と詐称して宿泊し居り、当

 夜は午前1時頃、何食わぬ顔して帰り、翌朝8時頃出発したりと(同上)。

◆活動写真見物の帰りに就縛

 =パン作りの上手な徳一/主人岡城の談

 「徳一は、昨年6月頃6円で雇ったが、パン製造は非常に上手だった。其後、福岡市外

 津屋崎の中徳旅館に勤めて居たが、3月19日(兇行後21日目)に来て、津屋崎の方

 はやめたから使って呉れとの事に、仕事も上手故、今日迄使って居た。7日は宅の子供

 を活動写真見物に伴れて行くといい、子供が嫌だというので、自分一人で外出し、1時

 頃帰って来た処を、大勢の刑事・巡査に逮捕された。所持品中、時計は12円、指環は

 13円で買ったといって居た」(9日、小倉電報)

◆名門の出なるザルデルン夫妻

 =イルマは不評判の女

  ザルデルン夫妻は、共に名門の出にして、ザルデルンの父は独逸参謀総長たりし事あ

 り、又イルマは元独逸海軍大臣の娘にて美人の評判高く、夫が青島開城と同時に日本に

 俘虜となるや、跡を慕いて日本に来れるものなり。彼女は、己が独逸名門の出なること

 を鼻にかけ、日本人を「黄い小猿」と侮り、寄留届等も容易に差出さず、其筋より数回

 説諭を受け、持余され居たる事あり。家庭経済については、口八釜しく、出入商人を困

 らし、極めて不評判の女なりしと(9日、福岡電報)。

 

大正6年4月11日(水)東京日日

●イルマ殺し、犯人収監

 徳一は猫を被り、表面温順を装う

  イルマ殺しの犯人田中徳一は、其後、福岡地方裁判所構内なる未決監に収容せられ、

 吉村予審判事の係りにて取調を受けたるが、内心は兎に角、表面だけは頗る温順にして、

 猫を被り謹慎し居る由(10日、福岡電報)。

◆哀れなる遺孤フオルド

 両親の死も知らず、病床に横わる

  父母を失って只一人敵国に残された故ザルデルン大尉の遺児フオルド(6)は、せめて

 故国の祖父母の許に行き、甘き夢を結ばんにも、行くに船なく、今は是非なく、俘虜慰

 安説教にて時折福岡に行ける事ある小石川富坂町の独逸宣教師シュレーダー氏に引取ら

 れ、頑是なく父母の死も知らずに暮している。シュレーダー氏夫人が、非常に可愛がっ

 て、アーベーセーと毎日のように教育をしているが、可憐の児フオルドは、数日来気管

 支炎に罹って咳が劇しいため、静かに臥っている。日本語はまだ少しも判らないので、

 友達もなく、毎日淋しそうに玩具を弄りながら無心に遊んでいるのも哀れである。

 

大正6年5月27日(日)東京日日(静岡版)

●俘虜の移転

 全部を赤十字社支部に収容

  静岡俘虜収容所にては、今回赤十字社支部二階建本館全部を借受け、市内鷹匠町二丁

 目第二収容所の俘虜全部を同所に収容する事とし、26日第二収容所の俘虜80余名は、

 各種の手廻り道具を携帯し、護送兵に守られ第一収容所に引移りたり。因に、赤十字支

 部は、隣接せる武徳会の一部に移って執務し居れり。

 

大正6年7月22日(日)東京日日(静岡版)

●俘虜の製作品展覧会

 =静岡物産陳列館で開催されん=

  静岡物産陳列館にては、目下俘虜マタウスを招聘し、市内各商店の希望に依り陳列棚

 の調査をなさしめつつあるが、尚、其他の俘虜中、背景画を巧に描くものあるより、之

 をも招聘する由なるが、俘虜は静岡に収容されし以来、麦酒の空箱、其他の廃物を利用

 して、椅子、卓子、マンドリン、軍艦の模型等を製作せるより、同館にては、更に之等

 の工芸品を借受け、同館楼上に於て展覧会を催すべく、豊島同館長より、目下俘虜収容

 所長に交渉中なりと。

 

大正6年8月1日(水)東京日日(静岡版)

●逃走俘虜捕わる

 =江尻署の手にて

  静岡俘虜収容所の独逸俘虜兵卒シウベルド(25)が、29日夜逃走せるとは既報の如く

 なるが、同人は逃走の夜、静岡市在清水山附近の山中に潜伏し、30日日没を待ち、東

 海道鉄道線路に沿いて横浜に向うべく、庵原郡江尻町巴川附近を通行中、同夜11時頃、

 予て張込居たる江尻署の警官に逮捕されたるより、藤井憲兵隊長外憲兵2名出張し、3

 1日午前4時50分静岡着列車にて護送し来り、取調の上、重営倉30日に処す。

 

大正6年8月10日(金)東京日日(房総版)

□独逸俘虜 =日本語の研究

 ▲…自国の勝利を夢る

  県下習志野原の俘虜収容所に、配所の月を眺めつつある独逸捕虜は、クロー中佐以下

 473名であるが、収容当時の健康状態は、平均体量18貫200目であったが、目下

 は18貫600目に殖えた。彼等も最初は、広漠である原野生活に淋しかった様であっ

 たけれど、今日では余程落ちついて来た。而かも、寛大な取扱いに満足して、柔順に規

 律を守っている。彼等は信仰心が厚く、日曜の礼拝は勿論、故国の妻子の身の上を察し

 て、恙なかれと、日夕神に祈るのである。過般、一俘虜が脱走を企てて船橋町まで遁れ

 たが、二宮憲兵分遣所員に追跡されて取押えられた。爾来、警戒厳重の為に、収容所の

 脱出を企つるものが無くなった。附近には騎兵4個連隊が毎日演習を行っているので、

 逃走し        ても到底遁るることの出来ないのを観念して、無謀の脱走をする者がないのか

 も知れぬ。

  最も感心すべき一事は、何れも読書を怠らぬことである。毎日暇さえあれば、携帯し

 て来た本を読む。中には日本語研究に熱中している者も少くない。夜分になると、10

 時の報ずるのを待って電燈を消す。其理由は、10時からの点燈力を、他に有利に使用

 せんとするのである。茲にも独逸の経済思想が横溢しているのを見られる。休憩時間に

 は、毎日バラックから出でて、収容所構内を散歩するが、如何にも楽し気に、愉快に遊

 び、暮す居室に帰って来れば、雑談に耽るが、最後の勝利者は独逸であると云って、飽

 まで自国の勝利を夢みて居る、云々と、収容所員は語った。

 

大正6年8月12日(日)東京日日(房総版)

●俘虜負傷

 蹴球試合中の椿事/全治迄には10日を要す

  習志野原独逸俘虜一同は、10日、同原陸軍演習地地均工事を終り、午後より慰労休

 暇を貰い、東西2組に分れて蹴球試合を行えるが、双方熱狂し、競技頗る猛烈を極めた

 る為、軽微の負傷者続出し、東軍に属せる同所西舎下士卒パステルチャー(27)は、西軍

 に属せる東西下士卒ジャンデイル(23)と共に先陣、打球に力闘し居たるが、熱狂の余り、

 折重なってボールの上に顛倒し、パステルは左脚大腿骨に裂傷を蒙り、ジャンは顔面を

 強か砂上に打突けたる為、鼻孔より鮮血淋離として迸り出でたる騒ぎに、試合を無勝負

 にて引分くると同時に、両名には応急手当を施したるが、パステルは全治迄約10日、

 ジャンは約5日        要すべしと。因に、同収容所内衛戍病院内に収容され居る蹴球負傷者

 は、此他2名。胃腸病18名、脚気病2名、全部24名に達し居る由。

●東京府教育家の俘虜視察

  瀧澤東京青山師範学校校長、荻保東京府立職工学校長、大宮東京府立工芸学校教諭の

 3名は、10日東京府知事の命を受けて、千葉郡二宮村高津独逸俘虜収容所にて、俘虜

 の日常生活を視察したり。

 

大正6年8月13日(月)東京日日

●独逸俘虜を使う新しき試

 軍事上の参考となる

  習志野原独逸俘虜収容所の俘虜が、去る6月以降、日々交替にて同所陸軍演習地約1

 千坪の地均工事に着手し居りしが、此程完成せる事は既報の如くなるが、俘虜中、青島

 要塞の土工として専門技術を有し居れる者20余名あり、今回の工事にも、彼等の新知

 識を応用せしめたる処、独特の設計を加味したる点、尠からず。頗る参考の資と為れる

 に鑑み、今後も屡々、此種土木工事に労役せしむる方針なりと云うが、同所に収容せる

 俘虜中には、此他建築術に独特の才能を有する者20余名有り。追々秋季となり、同地

 が演習其他軍事上諸般の設備に繁劇を加え来るより、此の機会に於て建築術の実地応用

 を為さしむる事となるべしと。而して、這は本邦にて独逸俘虜をして此種事業に労役せ

 しむる新しき試みにして、名古屋収容所俘虜の音楽、福岡収容所の加工品製造等と共に、

 幾多軍事上の参考に資する点、蓋し尠からざるべしと云う。

 

大正6年8月19日(日)東京日日(房総版)

●俘虜労役

 大荷置場を建設/10月下旬までに完成

  本邦収容独逸俘虜に対しては、既に名古屋、福岡各収容所に於て労役を為さしめつつ

 あるが、習志野原収容所にては、同原陸軍演習地の地均し工事を為さしめたる結果の良

 好なるに鑑み、近く建築事業に着手せしめんとの議有るは既報の如くなるが、其後、陸

 軍当局の許可を得て、愈々来月下旬頃、俘虜中24名の専門技術家を首脳とせる建築隊

 を組織して、同収容所の東方、高津区陸軍演習地に大バラック式の荷置場様のものを建

 築するに決し、目下之が諸般の準備中なるが、西郷所長も該事業に対して多大なる期待

 を有し居り、軍事上徳に注目に値するものにて、之れが完成は、遅くも10月下旬なる

 べく、秋季陸軍諸種演習にも屡々使用さるべき予定なりと。

 

大正6年9月5日(水)東京日日(房総版)

●縦横無尽に快翔

 =昨日、習志野原に於ける飛行機隊其他連合演習

  飛行機隊、歩騎砲兵隊連合演習第4日目(4日)は、習志野原に於て、騎兵第十五、

 十六の両連隊と連合し執行せるが、午前6時半、12号機を渡辺中尉、15号機を郡司

 軍曹、単独にて操縦し、根拠地たる陸軍歩兵学校練兵場を出発し、演習地の習志野原高

 津新田に赴き、他の将校一同は、汽車にて同所に参集せし大関大佐指揮の第十六連隊(西

 軍)に、15号機は高津新田の密林中に駐屯の奥野中佐統率の第十五連隊(東軍)に配

 属し、同7時より演習を開始し、第1回は渡辺中尉13号機に中山大尉を、郡司軍曹は

 15号機に弘岡大尉を搭乗せしめて飛翔し、約400米突の上空より、互に敵部隊の集

 合状態を偵察して味方の陣地に報告筒を投下し、第2回は12号を龍山中尉(長峰大尉

 同乗)、15号を斎藤中尉(嵯峨大尉同乗)操縦して、400乃至800米突の上空を

 縦横無尽に飛翔し、軍の行進運動を偵察し、光弾投下に依り其結果を報告せるが、光弾

 は空中にて破裂し、流星の如く閃々たる火煙の長き尾を曳きて直下する様、壮快を極め

 たり。第3回は12号を曾根中尉(同乗者木村大尉)、15号を武山中尉(同大谷大尉)

 操縦し、600米突の高度にて演習場を数周し、両部隊の戦闘準備を偵察し、爆弾を投

 下して敵主力の状態を味方に報告して着陸せるが、此頃より風愈々加わり、400米突

 の上空にて風速20米突、且つ気流悪く飛行困難となりたれば、万一の危険を慮り、9

 時半演習を中止し、一同は歩兵学校に引上げたり。

 

大正6年9月10日(月)東京日日(房総版)

●独逸俘虜に情欲は大禁物

 習志野の収容状態

  習志野広原の東南隅に、400余名の独逸俘虜が収容され、構内は1万3千余坪あり、

 間口23間奥行4間の建物4棟及事務室1棟、衛兵所、浴場、炊事場等の附属建物より

 成り、クロー中佐は単独に一室を占め、他の将校は1室に2、3名、下士以下は雑居な

 り。収容所の周囲は、杭を二重に立て、之に針金数条を張り、外部には幅3尺位の塹壕

 を穿ち、構内6ヶ所に歩哨を置きて、看視厳重なるが、俘虜の嗜好は第一運動、第二音

 楽にして、起床より消灯時間まで盛に運動し、暢気に日を送れり。尚、情欲を誘発する

 動機を与うるが如きことあらば、脱柵、逃走者を出す虞あるより、此点には特に周到の

 注意を払い、如何わしき服装をなせる婦女子は、成るべく周囲に近づけざる方針を執り

 居れりと。

 

大正6年9月16日(日)東京日日(房総版)

◆房総半島絵行脚(その2)

 =習志野原=

  白い雲が悠やかに空をすべって、秋は流石に多感の俘虜にもの思わする日が続く。

 の果しない情緒になく胸を抱いて、彼等は口笛に和して青島節を唄っている。

 故国恋しや、吾家懐しや。斯うして、囚れの異国の勇士は、さみしい三度目の秋を迎え

 た。

        □郷愁のなみだはてなし戦塵の故国は遠く家はるかなり

                        (挿絵:3名のドイツ兵)

 

大正6年9月23日(日)東京日日(房総版)

●津田沼町の奉迎準備

 騎兵学校行幸

  聖上陛下には、来る27日、千葉郡二宮村陸軍騎兵学校に行幸在らせらるるに付、津

 田沼町に於ては奉迎の誠意を表せんが為、各戸に国旗を掲揚し、停車場前に奉迎門を建

 設する由なるが、鹵簿御通過道路の両側溝渠は、1戸1名ずつ出役して、22日迄に大

 清潔法を施行し、尚、民家屋上の見苦しき箇所には修繕を加え、万遺漏なきを期しつつ

 あり。

  県庁にては、当日供奉員の為に、津田沼30台、千葉70台の人力車を傭い上ぐるに

 決したり。又、軍隊の堵列は、騎兵第二旅団長永山衛戍司令官目下不在の為め、確定に

 至らざるも、司令官帰団の上、津田沼鉄道大隊、騎兵各連隊、学校・教導大隊等の堵列

 場所が決すべく、附近小学校生徒、各種団体、一般奉拝者等の奉迎位置に就ては、騎兵

 学校、郡役所、警察署等目下協議中なるが、千葉憲兵分隊にては富谷隊長以下全部出動、

 御警護の任に当る筈なり。

▼御道筋の警戒

 =救護所と警官騎馬隊

  本県警察部にては、巡査5百7、80名を召集して、行幸の道筋を警戒するに決した

 るが、御召列車御警戒は、警察部長及田中警務課長、其任に当り、鉄道沿線には踏切毎

 に巡査を配置し、津田沼停車場より騎兵学校迄、約1里余りの間には、20間乃至25

 間毎に巡査を置きて警戒を厳重にし、二宮村字薬園台巡査駐在所に救護所を設け警察医

 を置く筈にて、別に演習場取締りの為、巡査8名を以て騎馬隊を編成し、先駆は田丸北

 条署長、青木警務課警部の両氏、後駆は山下警部、刈込警部に決す。

 

大正6年9月26日(水)東京日日(房総版)

◆鶴駕…愈々明日本県へ

 ◇奉迎の準備に忙わし

  =昨日の天覧予行演習

  天皇陛下には、予て仰出されたる如く、27日、千葉郡二宮村陸軍騎兵学校に行幸に

 付き、学校及び関係町村民は、目下奉迎準備に忙殺されつつあり。鉄道院は、御着車駅

 の津田沼停車場構内を清潔にし、ペンキ塗り替え、改札口の修繕、御車寄せの建設等に、

 昼夜兼行の姿なるが、県に於ても、数多の土木吏員を特派して、約1里余に亘る鹵簿御

 通過の道路手入に努め、小砂利の敷詰めを急ぎ、又、沿道の民家は垣を結い換え、樹木

 の枝卸しをなす等、奉迎の誠意を尽しつつあり。当日、陛下の津田沼御着車は9時40

 分にして、習志野騎兵第十三連隊より儀仗兵1中隊を出し、順路騎兵学校に御臨幸相成

 る筈にて、御通過道路の両側には、四隣小学校生徒、各種団体、一般拝覧者が奉迎し、

 校門前には永山衛戍司令官の指揮する騎兵4個連隊及鉄道大隊が堵列するに決定し、一

 方本県は、警察官500余名を召集し、憲兵隊と協力、沿道の御警備に備うることとな

 れり。

  学校に於て天覧に供すべき諸演習は、馬術、障害飛越、教導隊戦闘教練等にして、鈴

 木騎兵監臨場、25日午前9時より天覧の予行演習をなせり。先ず第一覆馬場に於て、

 教官山岡大尉が指揮官となり、西原、窪田、斎藤、庵原、尾畑、宇島、徳永、尾崎の各

 騎砲輜重兵中尉が各種の馬術を演習し、次で乙種二年学生森、大島、石田、中里、小野

 の5中尉は、吉岡少佐指揮の下に高等馬術を演じ、最後に教官中田、山岡、野澤、河野、

 佐野の騎兵5大尉は、丸尾少佐之を指揮して馬術の妙技を現し、更に乙種学生守田騎兵、

 宇賀砲兵、伴輜重兵、片桐騎兵、小谷騎兵、小野砲兵、手島砲兵、奥崎輜重兵、寺崎輜

 重兵の9中尉及隅騎兵、米倉砲兵の2少尉は、本多騎兵少佐指揮の下に各種障害飛越を

 なし、続いて騎兵2中隊、機関銃1小隊を以て編成せる教導隊戦闘教練は、練兵場に於

 て行われたるが、周藤、島田の2大尉が(敵仮設)となり、和田、若松の2大尉が中隊

 長、黒瀬大尉が副官、阿久津大尉、中村、加藤、椎名、辻、長瀬、山崎の各中尉が小隊

 長となり、南雲大尉指揮の下に激烈にして壮快なる戦闘を行い、之れにて天覧予行演習

 の全部を了れり。今回修業するは戦術の研究をなせる甲種学生大・中尉22名、外に支

 那留学生3名及び主として馬術研究の乙種学生中・少尉83名、乙種二年学生中尉5名、

 計113名なるが、陛下には学術優秀なる乙種二年学生に軍刀1口を、其他甲乙種学生

 4名に各銀時計1個宛を下賜さるる由にて、植野校長は学生の成績並に教育に関する書

 類を捧呈する筈なりと。

 

大正6年9月27日(木)東京日日(房総版)

◆鳳輦きょう習志野へ

 午前9時40分津田沼駅着御

  =陸軍騎兵学校修業式

  聖上陛下には、既報の如く、今27日午前9時40分津田沼駅御着、陸軍騎兵学校修

 業式に臨幸遊ばさるべきが、是より先、沿道御警衛の任に当るべき県警察部にては、警

 護区域の配置警官の部署等に関し協議の結果、御警衛の沿道を第1区より第8区迄に区

 分し、市川より津田沼駅迄を第1、第2区として、第1区を加藤松戸署長、第2区を衛

 生課椎名警部が担任し、第3区を津田沼附近として鳥海千葉署長、石橋警部(保安課)

 之に任じ、同停車場より学校迄1里の沿道を第4区乃至第6区迄に区分し、4区は本庄

 東金、5区は宮澤八日市場、6区は氏家八幡の各署長担任し、更に学校附近、御野立所

 附近を第7区となし、松谷警視之に当り、習志野の演習場を第8区とし和田警部之を担

 任し、        巡査騎馬隊を指揮して御警衛申上ぐることに決し、数日来各警察署より続々巡

 査を召集して、夫夫部署に就かしめたるが、26日朝を以て全部所定の位置に就きたる

 を以て、御警衛司令官三澤警察部長は、田中警務課長を随え、26日午前10時49分

 千葉駅発上り列車にて津田沼駅に出張し、前日来同地に出張せる憲兵30余名と協同に

 て御警衛に関する予行演習を行いたるが、良好なる結果を収めたり。一方、庶務係とな

 れる神保船橋署長、車両係となれる小関保安課警部及び一般奉迎者其他救護の為め二宮

 村薬園駐在所を根拠地とせる赤十字社救護班、本県衛生課金谷、野口両警察医を以て組

 織せる救護班にても、夫々救護の予行をなし、何れも万端遺漏なきを期し居れり。本県

 知事折原巳三郎        氏は、陛下を両国駅に御出迎え申上ぐべき為め、戸田属を随えて27

 日午前6時40分千葉駅発列車にて、三澤警察部長は田中警務課長を同伴、上京したり。

 小沼衛生課長等は、数日来沿道各地の衛生状態を視察したるが、其結果に依れば、伝染

 病患者1名もなく、衛生状態は頗る良好と認めらるる由、内務省衛生課長宇津野仙一氏

 も亦、26日騎兵学校並に附近一帯の衛生状態を視察し、警保局保安課長河原田嘉吉氏

 は、同日来県、御警衛状態を視察せるが、何れも厳重なる警護状況に、満足の意を表せ

 りと。

 

大正6年9月28日(金)東京日日(房総版)

◇昨日習志野へ行幸

 妙技に御感深し/天覧に供せる色々の馬術

  陸軍騎兵学校修業式

  天皇陛下には、27日陸軍騎兵学校修業式に臨幸遊ばされたり。波多野宮相、鷹司侍

 従長、内山武官長、大炊御門、海江田侍従等御陪乗、宮廷列車は午前9時40分津田沼

 駅に着御、停車場前の御車寄より第二公式鹵簿にて習志野騎兵第十三連隊長高須大佐の

 指揮する儀仗兵1個中隊を先頭に、鷹司侍従長、内山武官長等扈従し、約1里余の県道

 両側に整列せる附近小学校生徒、在郷軍人、各種団体、一般奉迎者等に軽く御会釈を賜

 いつつ、学校に向わせられたるが、校門外には習志野騎兵4個連隊全部堵列して捧刀の

 敬礼を施し、学校長植野少将、鈴木騎兵監、山梨教育本部長、一戸教育総監等は、学校

 正門前に奉迎し、植野校長の御先導にて御馬見場の階上に入御、暫時御休憩遊ばされ、

 自動車にて御先着の閑院宮殿下を初め大島陸相、奥元帥、中村大将、一戸、大谷、秋山

 の各大将、仁田原、河合各中将、永山、鈴木各少将、折原県知事其他の勅・親任文武官

 等に拝謁仰付けられ、次で植野校長は修業生の成績及び教育に関する書類を奉呈し、軈

 て午前10時20分、第一覆馬場に出御、乙種学生、乙種二年学生等の各種馬場運動を

 御覧ぜられ、更に丸尾少佐の指揮する山岡大尉外4名の教官が高等馬術の天覧演習を行

 い、引続き本多少佐指揮の騎兵・砲兵・輜重兵の乙種学生11名は、順次演習場の高さ

 1米突煉瓦積み馬場、2米突余の障害飛越えを天覧に供したる所、陛下には殊の外、其

 妙技に御感深く打興ぜられたり。斯くて校内御巡覧の上、便殿に入御、約10数分間御

 休憩の後、再び        練兵場に出御、御野立所に入らせられ、教導大隊2箇中隊は機関銃1

 箇小隊より編成せる仮設敵の戦闘教練を御覧あり。植野校長に二、三御下問遊ばされ、

 御馬見場前に於て左記5名の優等学生に対し、侍従武官長の手を経て御賜品を下賜され

 たり。

                ▲指揮刀 1口   乙種学生 騎兵中尉  中 里 隆 臣

                ▲銀時計 各1個宛 甲種学生 騎兵大尉  南 雲 純太郎

                          乙種学生 騎兵中尉  西 原 一 策

                              野砲兵中尉  丸 山 八 策

                              輜重兵中尉  池 田 耕 一

  右終って陛下には、便殿に入御、御昼餐の後、午後1時40分学校御発、行幸の時と

 同じく御機嫌麗わしく途中の奉送を受けさせられつつ、午後2時津田沼駅御発車、還幸

 相成たり。

 

大正6年10月1日(月)東京日日(静岡版)

●俘虜の写真結婚

 故国の求婚広告を見て

  静岡俘虜収容所の俘虜107名は、収容所内に3箇年余の歳月を閲し、第4回目のク

 リスマスを迎うる事となりたれど、本年は何等の準備も成し居らざるが、収容当時は、

 近く戦捷の故国に帰りて盛大なる祭典を挙行すべしなどと揚言し、飾付其他の準備華々

 しかりしも、昨今は唯、読書三昧に耽りつつありて、意気更に振わず。尚、最近故国よ

 り輸送し来りし新聞紙は、戦死軍人未亡人の求婚広告を以て充たされ居り、俘虜中には

 写真結婚を申込み、帰国の暁、新家庭を結ばんと、他愛なく喜び居る者さえありと。

 

大正6年10月21日(日)東京日日(房総版)

●秋清き習志野原へ、東宮きょう行啓

 騎兵隊の諸演習を台覧

  =御帰途海軍無線電信所へも

  皇太子殿下には、愈々今21日、県下習志野原に行啓、騎兵各連隊の諸演習を御見学

 遊ばさるるに付、本県警察部は約350名の巡査を召集して、両国橋・津田沼駅間の汽

 車沿道及び御馬車御通過の御道筋を御警衛申上ぐる筈。殿下の両国橋駅御発車は、午前

 8時25分。臨時宮廷列車にて宮内供奉員、折原本県知事、三澤警察部長等に御陪乗を

 許され、津田沼駅御着車は同9時5分なるが、更に御馬車を召され、青木、田丸両警部

 騎馬にて先駆を、苅込、山下2警部後駆を承わり、津田沼町字谷津、藤崎、大久保、二

 宮村三山、前原を順路御通過、沿道の奉迎を受けさせられつつ、午前9時25分習志野

 偕行社に御到着の御予定なるが、騎兵第一旅団長稲垣少将、同第二旅団長永山少将は偕

 行社玄関前に、        将校一同は正門前に奉迎し、御着と同時に永山旅団長の御先導に依り

 貴賓室に入らせられ、少時御休憩中、稲垣、永山両少将に謁を賜い、2将軍より第一、

 第二旅団の歴史大要を言上し、終って永山第二旅団長の御案内にて練兵場内の小高き御

 野立場に成らせられ、同所に奉迎せる騎兵第一三、第一四、第一五、第一六の各連隊は、

 殿下御着と同時に、騎兵連隊制式教練(騎兵第一六連隊)、騎兵旅団制式教練(騎兵第

 一旅団)、騎兵旅団の騎兵に対する乗馬戦(騎兵第一旅団並に騎兵第一五連隊)、騎兵団

 の歩砲兵に対する戦闘教練(騎兵第一旅団及騎兵第一五連隊)の諸演習を台覧に供し、

 殿下には午前11時30分、諸隊が各其位置に於て奉送中を、永山少将の御先導にて偕

 行社に御帰還、御昼餐の後、騎兵第一三連隊長高洲大佐、同第一四連隊長太田黒大佐、

 第一五連隊長大関中佐、第一六連隊長奥野大佐並に第一旅団副官石原大尉、第二旅団副

 官高村大尉等に謁をたまひ、午後0時30分御出発の御予定なるが、稲垣、永山両旅団

 長は偕行社玄関前に、各連隊長以下将校一同は正門前に於て奉送し、前記4警部が前後

 駆を申上げ、御馬車の御列にて三山、大久保、藤崎、谷津の順路を御通過、東葛飾郡船

 橋町字九日市、五日市を経て、塚田村なる海軍省の無線電信所に行啓あり。所長石田海

 軍少佐以下所員全部玄関前に整列奉迎し、貴賓室に御少憩後、機械室に成らせられ、無

 線電信の発受に関し、石田所長より詳細に御説明申上げ、且、実地通信を御覧に供し、

 午後2時20分同所御出発。御馬車にて葛飾村、西海村、山野、印内、寺内の各部落を

 御通過、午後2時45分中山駅御発車の宮廷列車にて還啓遊ばさるる御予定なり。

 

大正6年11月26日(月)東京日日(房総版)

●明治天皇御駐蹕記念碑の序幕式

 由比近衛師団長、恭しく除幕

  秋天高く気澄める25日、習志野原に建設されたる明治天皇御駐蹕の地の記念碑除幕

 式は、午前10時より、いと荘厳に執行されたり。当日式場並に騎兵学校より式場に到

 る間の道筋には小砂利を敷詰め、記念碑には純白の幕を覆われたるが、定刻に至るや大

 島陸相、由比近衛師団長、陸軍東京経理部長今井主計監並に折原知事、西川歩兵学校長、

 各幹部の将官100余名、其他各衛戍軍隊、同官衙学校長、竹内千葉郡長、四隣町村長、

 有志百数十名の来賓等は、何れも所定の位置に着席し、今井主計監は、碑前に進み、建

 碑に関し、「先帝陛下が、明治6年、時の陸軍大将西郷隆盛以下の各武将と数万の諸兵

 を統率し給い、畏くも同原頭に露営2泊に亘らせられて、練武を臠わせ給い、同地を以

 て永久に練武の地として、元小金原の称ありしを習志野原と御命名あらせられ、既に今

 上陛下並に東宮殿下の行幸啓の光栄に浴したる、最も名誉ある地として、亦、明治大帝

 の御偉業を永久に記念し奉るべき地なるを以て、陸軍省に於て本年3月中建設の計画を

 立て、今回全く竣工するに至れり」云々、と、大体の経過を報告し、次に由比近衛師団

 長は経理部技師の補助を受けて、恭しく除幕を行いたるが、碑面には「明治天皇御駐蹕

 の碑」の9文字を刻まれたり。それより、大島陸相式辞を述べ、折原知事、西川歩兵学

 校長等の祝辞ありて閉式。順次来賓は退場して、騎兵学校に休憩。直に式場の設備を撤

 廃し、公衆に縦覧せしめ、一方列席将官並に来賓一同に対しては、騎兵学校将校集会所

 に於て午餐の饗応ありて、午後1時半散会したるが、此の荘厳なる記念碑除幕式を観ん

 ものと附近より参集せる老幼男女、無慮500余名を算し、習志野原頭は時ならぬ殷賑

 を呈したり。

 

大正7年1月11日( )東京日日(静岡版)

●俘虜出廷を命ぜらる

  静岡俘虜収容所の俘虜デックスは、12日横浜区裁判所の民事公判に証人として出廷

 を命ぜらる。

 

大正7年1月13日( )東京日日(静岡版)

●俘虜証人に出廷

  静岡俘虜収容所の俘虜ベックス(28)は、横浜区裁判所ヘ証人として出廷の為、12日

 午後1時20分静岡駅発列車にて、憲兵曹長附添い出発したり。

 

大正7年1月25日( )東京日日(静岡版)

●俘虜の久能詣

  静岡俘虜収容所の俘虜85名は、伏見中尉に引率され、24日午前9時、久能山東照

 宮に参詣し、午後4時、喜々として帰岡せり。

 

大正7年1月27日(日)東京日日

◆大仕掛の独探

 京都を中心、官憲の大活動

 ◇怪しき某国名士と予備中尉/東京の嫌疑者は某大佐

 ◇昨夜京都より村田刑事東上す

  襄に我国に渡来したる某国名士は独探の証跡十分なるに、更に此名士に対し、西本願

 寺某執行の名に於て文通し居るものあるより、京都府警察部にては数日前より、東京警

 視庁と打合せの上、大活動を開始し、目下某執行の親戚にして海外布教師となれる越■

 今村某師が帰朝せるより、更に此方面にも活動を始めたるが、其結果、某執行は関係な

 く、自己の姓名を濫用せられたる事判明し、更に活動の圏内を拡め、全市に亘って大捜

 査を開始するに至り、祇園花見小路附近の勲六等功五級予備陸軍中尉某氏を有力なる嫌

 疑者として調査中なるが、余波は神戸に飛び、湊町署を中心として極力大捜査を行いつ

 つあり、更に執行検事正は27日午後1時より、日曜日なるにも拘らず、京都市内の警

 察署長並に主席警部を裁判所内に召集し、独探事件其他重要案件に就き訓示をなす筈。

 而して此捜査主任は、敏腕の聞え高き金ヶ原警部、渡辺、高木刑事部長にして、外に腕

 利の刑事を使用し活動しつつあり。憲兵分隊にては、未だ活動を開始するに至らざるも、

 警察部の活動を知りて傍観する能わず、内々捜査を進めつつあり。又、嫌疑者と目せら

 れ居るは某中尉のみならず、其部下に4、5の同類を有し、而も東京方面にある休職某

 大佐も之に関連するありて、事件は益拡大せん模様なるより、村田京都府刑事部長は2

 6日午後9時23分京都発列車にて、警視庁と打合の為、急遽東上せり。事件の内容は

 極秘なるも、日本国内の軍事内容を、露都より或る方面に通報し居たる罪跡の端緒を発

 見し得たると同時に、尚其他に重大事件あるものの如し(26日、京都電話)。

◆横浜でも独探収監

 警察部の大活動/更に多数の検挙を見るに至らん

  25日夜、横浜地方裁判所検事局にては、突然山手居住独逸人シャンホルイ・エル・

 ナーゲル(40)を召喚し、笠井検事取調の上、横浜監獄に収監されたり。此れを端緒とし

 て此れに関連せる者続いて検挙さるべき模様あり。又、同市に居住せる某富豪外人にて

 多数の本邦人を雇用し居る者も、独探の嫌疑にて其筋の注目を受けつつある外、別記の

 独探の嫌疑を受け居れる某国名士等も、襄に東京に潜伏し居りしが、其筋の厳しき監視

 に堪えず、近頃潜かに横浜方面に来れる模様あり。神奈川県警察部は、之れにつき大活

 動をなし居れり(26日、横浜電話)。

●排日鮮人を煽てる独探と過激派

 我軍隊の動静を窺う

  西伯利方面に活動しつつある独探並に露国過激派等は、露国西伯利排日鮮人を使役し

 て、朝鮮に於ける吾軍隊の動静を窺いつつあるの疑いあり、其筋にて厳重注意警戒中な

 り(26日、京城電報)。

 

大正7年1月31日(木)東京日日

●東京における独探本部

◇多数の独逸種の外国婦人/毎月1、2回宛の秘密会議

◇目下其筋で厳重に監視中

  独探が我国内に於て大活動をしていることは既記の如くである。近頃、独墺人に対す

 る其筋の警戒は頗る厳しく、注意力も満遍なく働いて、彼等は全く手も足も出ない。併

 し、却々黙って引込んでいるどころではなく、露国人や独逸種の外人を利用して、我国

 の機密を露こうと、物凄い活動をやっている。独墺人の手先に使われている外人の中で

 も、独逸種の外人が一番多く、その中でも婦人の活動が最も目覚しい。

  東京における彼等の本部は、京橋区明石町の某会(特に名を秘す)で、其処には絶え

 ず一人の頭目(特に名を秘す)が出入している。無論外人だ。彼等の主なる者は、その

 頭目を中心として、毎月1、2回宛、潜かに其某会内の一室に額を鳩めては、密々に何

 事か協議し計画する。秘密会議を開く室は、内部から厳重に鍵をかけて、断じて何人を

 も出入させぬ。会議が終ると、彼等は夜の闇を潜ったり、バラバラになって人目につか

 ぬよう、巧に退散する。まるで、秘密結社の会合のようだ。その頭目という外人、赭ら

 顔の尖った鼻の奥の方に、凄い光りを放つ眼を有った40歳前後の男で、何時も築地の

 本願寺の方から明石町に現れて、又同じ方角に消えて行く。其筋では、早くもこれに目

 を注け、此の某会に対して厳重な監視を怠らぬ。そして、可なり証跡も掴んだのである。

 彼等の巣があばかれるのも、遠くはあるまい。

 

大正7年2月1日(金)東京日日

●日本より退去を命じた独探捕縛さる

 桑港で独探行為暴露す

▽元横浜独亜銀行の支配人 29日発桑港特電

  大正4年に、日本政府が国外に立退きを命じたる銀行家ジョージ・ボーデンは、桑港

 に於て独探の嫌疑を受け逮捕されたり。而して、同人の日本に於ける独探的行為を暴露

 されたるなりと思わる。

◆我が政府の注意人物 横山警保局事務官の談

 「ボーデンは、元独亜銀行の横浜支店支配人で、大正4年の2月13日に退去命令を発

 し、同28日に立退いて桑港に赴いた。年齢は当時43歳で、横浜山下町180に居住

 して、独逸人の中心となって独探行為の相談を為し、或は本国と連絡を取って秘密通信

 を為す等の行為があったので、元ジャパン・ヘラルド記者のアールクンツェ(40)、キリ

 ン麦酒株式会社醸造技師長エー・アイエルベルヒ(45)、オスボンハウス止宿のアー・ス

 ラーク(29)外1名等と共に、断然退去を命じた。桑港に行ってからの彼の行動は判然し

 ないが、我政府では今日まで、常に注意を怠らなかった人物である。」

  因に同人退去当時、横浜の各汽船会社支店並に取扱店にては、何れも同人の乗船を承

 諾せざるより、神奈川県警察部にては、己むを得ず東洋汽船に交渉し、漸く春洋丸にて

 退去せしめたり。我国より独探として退去を命ぜられたる第2人目の男なり、と。

 

大正7年2月11日( )東京日日

●俘虜浮れ出す

 大分収容所の少尉及び従卒2名

  大分俘虜収容所に収容中の予備歩兵少尉キュールボルン(29)、其従卒ナーゲル(26)、

 同ダウデルト(30)の3名は、9日午後12時過、収容所の柵を乗り越え遊廓に入込み、

 春日楼に登楼、遊興し、記名を求めたるに日本文字にて「長野正」「高岡刈一」「中山信

 吉」と記入し臥床したるが、大分憲兵隊にては直に俘虜の点検を行い、取押えて、歩兵

 第72連隊の営倉に入れ、10日朝、収容所に於て西尾所長の取調べあり。ナーゲル、

 ダウデルトの2名は営倉30日、キュールボルンは将校の事故、謹慎を申渡したり(1

 0日、大分電報)。

 

大正7年2月26日(火)東京日日(静岡版)

●独探か

 怪しい宣教師

  瑞西国人と自称する宣教師ヤコブ・フヱンカー(40)は、25日午前9時頃、突然静岡

 俘虜収容所に到り、俘虜一同を集めて祈祷をなし立去りたるが、独探の疑いありとて、

 静岡憲兵分隊及び静岡署に於て厳重警戒せり。

 

大正7年2月28日( )東京日日(静岡版)

●怪しい外人

 静岡市に入込む

  東京俘虜恤兵会長なるジーネン・シーケルト商会支配人と称する独逸人ハンスドレン

 グハーン(40)は、27日午後1時、静岡俘虜収容所に来り、通訳立会、俘虜一同に祈祷

 を為し、果物数籠を贈りて立去り、同人と相前後して独逸系の怪しき外人、静岡市内に

 入込みたるより、時節柄独探の疑いありとて、静岡憲兵分隊及び静岡署にては活動を開

 始すると共に、外国人の経営に係る不二高等女学校を始め同市内居住の外国人に対し、

 厳重戸口調査を行い、警戒を加えつつあり。

 

大正7年3月18日( )東京日日(房総版)

●福岡から更に捕虜来る

 =ワルデック以下=習志野捕虜収容所の増築成る

  習志野捕虜収容所は、4棟で500余名の独逸捕虜を収容し、県警察部から特に警戒

 の為め巡査80名を派遣し万一に備えて居たが、先月上旬から又6棟を増築する事にな

 り、大工百数十名宛にて毎日工事を急いだ結果、漸く竣工したので、22日から3回に

 別ち福岡捕虜収容所に在るワルデック将軍以下将校200余名を収容する筈。下士卒は

 福岡の方に残留して置くそうだ。そして此等将校には大抵1人1室を与えて置き、尚お

 本県警察部では警戒巡査を増派するとの事である。

 

大正7年3月24日( )東京日日

●ワルデック、明日品川へ

 山の手を廻りて幕張収容所入り

  福岡より千葉県習志野に移送する俘虜ワルデック総督以下将校30名、下士卒44名

 は、柴田中尉以下11名の兵卒護衛の下に、23日午後8時50分、特別列車にて神戸

 を通過せり。ワルデック始め副官カイザック少佐、墺国軍艦エリザベス艦長マクビック

 大佐、参謀長サックザック大佐以下佐官6名は一等車に、他の将校は二等車に、下士卒

 は悉く1台の三等車に詰込みたるが、カーキー色の海軍服を着たるワルデックは、列車

 のプラットホームに入るや、カーテンの隙間さえギッシリと閉ざして、物静かに控えた

 るが、下士卒等は珍し気        に窓より半身を突出して構内を見廻し、大陽気に話し合い居

 たり(23日、神戸電話)。

  斯くて、神戸を発したる列車は、25日午前3時20分品川着、新宿より田端に出で、

 北千住より亀戸に向い、25日午前9時50分亀戸発、同11時15分幕張着、習志野

 収容所に送らるべし。

 

大正7年3月25日( )東京日日

●ワ提督本日着

 幕張着午前11時15分

  福岡俘虜収容所より習志野に転送さるべきワルデック提督以下将校下士卒75名は、

 柴田中尉護送の下に25日午前11時15分幕張駅着、同所にて精密なる点検を為し西

 郷習志野俘虜収容所長に引き渡す筈なるが、当日千葉署よりは鳥海署長以下数名の警官、

 万一を警戒の為め、幕張迄出張する由。

 

大正7年3月26日( )東京日日

●習志野へ着いたワルデック

 将校連が必死になって写真班の邪魔をする

 ◇車の幌深く、幕僚・下士卒と共に

 ◇昨日、幕張の俘虜収容所に入る

  福岡俘虜収容所から習志野へ移送さるるワルデック総督以下46名の独逸俘虜は、福

 岡二四連隊柴田中尉護衛の下に、軍用列車にて、25日午前3時品川駅着、山の手線を

 迂回して田端に出で、千住を廻り船橋を経て、同11時15分幕張駅に着いた。駅前に

 は群衆溢れ、第一師団の相良副官、俘虜収容所の田辺中尉等も出張して居た。ワルデッ

 ク総督は、黒の軍帽を戴きカーキ色の軍服の上に黒の長マントを着し、赭顔にして血色

 よく、赤革の長靴を穿っている。

  総督が構内の芝生に立つと、将校一同が総督を中に挾んで、写真を取らせまいとする。

 カメラを向けると6尺豊の将校が立ち列んで、之を遮り、近寄ると帽子を以て顔を隠す

 合図をして邪魔をする。其中に、ワルデックは煙草を喫し乍らカラカラと笑って居た。

 中に目立ったのは中折帽の青年紳士で、此男はワルデックの秘書官にて法律顧問のヘッ

 ダー氏、ザツアー参謀長は頭部に繃帯して居る。福岡で怪我をしたのだそうだ。

  軈て準備が出来ると、総督附の将校連は徒歩で、ワルデックとエリザベスの艦長マコ

 ブヰッチ丈けは、幌を深く垂れた車で、1里の道を午後1時、収容所に着いた(25日、

 千葉電話)。

                        写真:安着を喜ぶワルデック(幕張駅にて)

 

大正7年3月27日( )東京日日(房総版)

□戦後経営論を読む俘虜諸君

 ▽生き永えたればこそ此生活

  =お守役西郷大佐談=

  習志野俘虜収容所には、従来472名の俘虜が居たが、25日ワ総督以下75名の新

 客を迎えた。一別以来3年振で懐かしき戦友と習志野の原頭に邂逅した彼等は、ブラボ

 ーを叫びつつ駈け寄って、堅い握手を交換した。彼等のお守役たる収容所長西郷大佐は

 語る。

  妻子と別れて、異国の空に淋しく生活する俘虜に対しては、凡て同情を以て取扱い、

 成るべく自由の行動を許し、余り規則張ったことや小言を云わぬ。かなり常識の発達し

 ている彼等であるから、逃走を企つるようなことは無い。今度新来の俘虜は、まだ親し

 く接しないが、福岡収容所の山下中尉が習志野に転勤したので、万事好都合である。

  元来独逸人は非常に運動好きで、暇さえあれば構内を運動している。又、彼等は天性、

 音楽に趣味を有し、楽器を愛する観念が非常に強い。バイオリンの演奏が始まると、必

 ず一団をなし静聴するのが常である。中には却々神に入って妙を極めて居る者もある。

 而して、彼等の大部分は読書する。何んな種類の本を読んでいるかと見ると、多くは戦

 後経営に関する書物で、各自の職業を研究している。

  俘虜の最も楽しみとする所は、手紙の分配である。精神的苦痛を感じている彼等は、

 故国から家族の安否を知らせて来るのを、何よりの頼りにして、毎日手紙の分配時間を

 待ち兼ね、仲間に宛た書面でさえ、一同が歓んで家郷の物語を聞くのである。クロー中

 佐の如きは、収容所が貸た構内の地面を耕作しつつあるが、それは運動の為めにもなり、

 且勤労の精神を失わぬことにもなる。一同は、朝6時半に起きて夜9時に寝に就く。ワ

 ルデック総督は、青島の戦場で討死すれば偉かったろうに、不幸にして生存した為めに

 習志野に転送さるるようになった。彼に同情せざるを得ない。

 

大正7年3月31日( )東京日日

●大分の俘虜浮る

 脱柵して妓楼に登る

  大分第二俘虜収容所に収容中の兵曹ハインクッヒハーゼン(26)、ルトドルッヒマイエ

 ル(26)、レヲンハルト(25)の3名は、30日午前1時頃、降雨を冒して収容所を脱出し、

 大分停車場より鉄道線路を辿り、かんたん遊廓に到り、打連れて中川楼に登楼したるが、

 同楼より大分署に届出で、同署よりは憲兵隊に通知すると同時に4名の巡査を派して取

 押え、憲兵隊にて取調の上、重営倉30日間に処したり(30日、大分電報)。

 

大正7年4月11日( )東京日日(房総版)

●青島戦役の戦利品

 780点到着/不日各神社に配布されん

  大正3・4年の青島戦役に於ける戦利品は、9日広島陸軍兵器支廠より本県に到着し

 たり。該戦利兵器は、102梱、7999斤、点数788点なるが、種類は6珊榴弾、

 8珊榴石散弾、弾薬筒、填砂弾、歩騎兵銃、将校・下士卒用の軍刀、機関銃其他銃器類

 にして、県は不日之を県下の神社、仏閣、学校等に配付する由。

 

大正7年5月15日( )東京日日(房総版)

●悪性寒冒流行

 佐倉連隊では大閉口

  悪性の流行性寒冒が跋扈しつつある為め、軍隊、諸学校等にては、目下大警戒中なる

 が、終に佐倉歩兵第五七連隊にては病魔に襲わるるに至り、大恐慌を来し居れり。同連

 隊に於ける同病患者は、14日迄に37名を出し、尚お続々伝染する模様なれば、之が

 予防の為め、大消毒を施し、一方、一般兵士の外出を禁じ、極力撲滅に努力し居れり。

 右に就き、同連隊の1軍医は語る。「今回の寒冒は、外出兵士に依りて東京方面より伝

 染し、移入されたるものと信ず。発生中隊に対しては、日々健康者に対しても健康診断

 を施行しつつあり。本病は空気伝染なれば、一般に薬液を用いて口中の殺菌に努めしめ、

 酒保に対しても病菌媒介の恐れあれば、発生中隊の者を成るべく出入せざる様に注意し

 居るのみならず、及ぶ丈けの衛生的注意と予防策を励行しつつあれば、遠からず終息す

 るに至らん」。

 

大正7年6月4日( )東京日日(静岡版)

●暢気な俘虜

◇日本へ帰化したいと言っている

  静岡俘虜収容所の俘虜アルツール・グナーは本県工業試験所へ、ブロベッカーは市内

 札の辻町八木麺店へ、フヱシャーは紺屋町菓子製造業杉山力蔵方へ、何れも雇われ、毎

 日熱心に漆器や菓子の製造に従事し居れるが、彼等の感想を聞くと「欧洲の戦争は今や

 戦い酣にして、何時講和となるか予想がつかぬから、吾等俘虜一同は、何れも永住の決

 心をして居る。今後永く講和の見込みがなければ、日本へ帰化したい、と云って居るも

 のさえあるが、独逸の本国から来る戦時郵便は検閲が厳しいので、詳細に自国の現状を

 知る事が出来ぬが、玉子1個30銭というから、日本よりも10倍高いのは食料品欠乏

 の為であろう。戦乱の渦中より早くのがれて俘虜となった自分達は、日本政府の優遇を

 受けて、安い玉子を喰うことが出来る。毎日朝の8時から4時迄働いて、夜は青葉繁れ

 る収容所に帰り、同僚と共にピヤノ、オールガンなど楽の音に耳を傾ける心地は、別荘

 かとも思われる。静岡は蚊トンボの多い所であるから、音楽を奏する前に蚊が舞踏を演

 ずる様に見えるのも楽しみである。近く5、6里隔てた所へ郊外散歩に出掛くる事とな

 ったから、夫を楽しみに働いて居る」と。

 

大正7年6月10日( )東京日日(房総版)

●千葉神社には大砲弾を分与

 青島戦利品の中から

  本県に分与されたる青島戦利品は、過般神社・小学校等へ夫々配布されたるか、千葉

 神社に於ても12貫余の大砲弾を交付さるる事となりたるより、近く県庁に出頭し、該

 砲弾を受取り、日露戦利品を存置せる小舎に陳列し、永く記念すべしと。

 

大正7年6月16日( )東京日日(房総版)

●収容所長見学

 人事局長と同行にて

  静岡俘虜収容所長嘉悦騎兵大佐、大分同収容所長西尾工兵大佐、習志野同収容所長西

 野歩兵大佐、久留米同収容所長林歩兵大佐、名古屋同収容所長中島歩兵大佐、板東同収

 容所長松江歩兵大佐、似島同収容所長菅沼歩兵大佐、青野原同収容所長宮本歩兵中佐の

 8氏は、陸軍省人事局長白川少将、情報局菅原大尉、軍事課田中大尉諸氏と同行にて、

 14日午前8時37分千葉駅着、陸軍歩兵学校副官平賀大尉の出迎えを受け、直に軍用

 軽便列車に転乗して同校に赴き、将校集会所にて暫時休憩の後、佐久間中佐、大谷少佐

 等の説明に依り練兵場に於て各種の演習を見学し、昼食後1時50分同校出発、軍用軽

 便鉄道列車に便乗し、同2時20分千葉駅発の列車にて帰所せり。

 

大正7年6月19日(水)東京日日(房総版)

●屠畜検査技手会

 俘虜の牛豚解体を参観す

  本県各警察署勤務の屠畜検査技手会議は、来る25、6日の両日、県庁内に於て開会

 するに決定せり。因に、習志野俘虜中には独逸の屠畜学校を卒業し、青島の屠手たりし

 者あるを好機となし、26日、該俘虜を26日千葉町屠畜場に牛豚の実地解体をなさし

 め、会議に列席する前記技手を参観せしむる由にて、通訳は襄に帝大医科大学の講師た

 りしことある俘虜なりと。

 

大正7年6月26日(水)東京日日(房総版)

●屠畜技手会議

 今日は俘虜の牛豚解剖を見学

  本県屠畜検査技手会議は、25日午前9時より県庁内参事会室に於て開会せるが、出

 席者は▲千葉・長峰▲佐倉・深堀▲佐倉・吉原▲旭・三浦▲茂原・長野▲鴨川・鳥居▲

 北条・矢津▲木更津・武田▲成田・砂山の9名にして、佐藤内務技師来賓として列席、

 大海原警察部長は小沼衛生課長、青木警部、蛯名、田中両技師、青柳警部補、今野技手

 等を随えて臨場、一場の注意訓示ありて、左記指示、諮問事項の討議に移りたるが、2

 6日は午前8時より千葉屠場に於       て、独逸俘虜の牛豚屠殺解体を見学し、午後より協

 議をなす由。

    ▲指示事項 服務、屠場管理、屠殺法の改善、血液の利用、牛乳搾取所の監

  督、牛乳試験、肉類販売者取締 ▲諮問事項 1.豚の生体検査並に屠殺法

  に付、適当なる方法如何 2.狂犬病の決定並に被咬傷者の処置に関する適

  当なる方法 3.牛乳搾取所位置選定に付、是が標準如何 4.屠場の構造

  設備に関し規定改正の意見如何 5.簡便なる牛乳配達容器の考案如何。

 

大正7年6月27日( )東京日日(房総版)

●千葉屠場参観

 昨日の屠畜技手会議

  本県屠畜検査技手9名は、26日午前8時、千葉町屠場を参観し、独逸俘虜が牛豚屠

 殺解体の実況を見学し、午後は県庁内参事会室に於て協議会を開き、午後4時終了散会

 せり。

 

大正7年7月9日(火)東京日日(静岡版)

静岡俘虜収容所 愈移転す

 東京又は習志野へ

  陸軍大臣より昨8日、静岡俘虜収容所長海津大佐宛、同収容所を移転する事に決定し

 たりとの入電あり。右に付き、収容所附高橋中尉は同日、歩兵第二九旅団司令部に出頭、

 収容所員の任免及其準備等に就き打合せをなしたるが、係官は語る。「移転先は未だ東

 京か習志野か判明せざるも、静岡収容所の移転は早くより陸軍部内の問題になって居た。

 移転の理由は、市街地の中央に収容所を置くは、独り静岡のみなれば、之を千葉県習志

 野の如き田舎に移す時は、取締上頗る便宜なりとて、其筋にても愈移転を断行したもの

 であろう。100余名の俘虜全部を輸送するには相当の準備を要するを以て、多分来月

 上旬頃ならん」云々。

 

大正7年7月10日(水)東京日日

○大分の俘虜を習志野へ移送

 静岡のも一緒に

  大分に収容中の独逸俘虜110名は、8月1日より5日迄の間に、静岡の俘虜100

 名と共に習志野へ移送する事に決せり(9日、大分電話)。

同日(静岡版)

好遇を感謝す/俘虜将校

 移転先は習志野

  既報静岡俘虜収容所は、愈千葉県習志野へ移転する事に決定したるが、同収容所は大

 正3年12月中、青島陥落後独墺両国の俘虜107名を収容し、ゼッケンドルフ男爵外

 20余名の将校は現在の第一収容所へ、其他70余名の兵卒は市内鷹匠町二丁目第二収

 容所へ収容したるが、蓮実前収容所長時代に於て、第二収容所の俘虜1名逃走して行方

 未だ判明せず。英国士官と称して支那に逃込みたりとの説あり、当時大問題となり、其

 後2箇所に収容所を置くは衛兵を多く要すとて、第二収容所を廃して第一収容所に合併

 し、今日に至れり。

  前記ゼ男を始め、マチヤス大尉外10余名の将校は、平和克復の見込なしとて、何れ

 も自費を投じて収容所内に9尺2間の離屋を建てて休憩所に宛て居たるが、本国の妻子

 及び横神両港の知己等より送り来れる荷物や、静岡にて買入れたる物品山の如く、7噸

 積1車は要するものもあるべく、是等の荷造り其他の準備に弗々着手したりと。

  右に就て俘虜将校は、静岡収容所にて満3年6箇月間、非常なる好遇を受けたりとて、

 孰れも感謝し居れり。

俘虜収容所本月限り閉鎖

  既報静岡俘虜収容所は、愈本月限り閉鎖し、来月上旬、千葉県習志野に移転する事に

 決定したるより、9日嘉悦所長より俘虜一同に対し、移転準備に就き注意を与えたり。

 

大正7年7月21日( )東京日日(静岡版)

俘虜、女工と通ず

 発覚して色男の営倉入り

  静岡市俘虜収容所の俘虜歩兵一等卒カルベール(25)は、通訳アルツール附添い本県工

 業試験場へ通勤中、係員の目を盗みて、同試験場の製糸工女静岡市鷹匠町三丁目栗田栄

 蔵長女みよ(17)と情を通じ、19日午後9時頃、収容所裏手の柵を乗り越えて前記みよ

 と媾曳し、同11時頃、大胆にも収容所の表門より帰り来る処を営兵に取押えられたる

 が、歩兵第二九旅団司令部より鈴木旅団長出張、取調べを為し、俘虜取締規則違反とし

 て静岡連隊内の営倉に収容せり。一方みよは、外聞を恥、逃走せるも、静岡署にて取押

 え、一応取調べを為したる上、帰宅を許さる。

 

大正7年7月23日(火)東京日日(静岡版)

俘虜移送

 愈々1日から習志野へ

  既報静岡俘虜収容所の俘虜100余名は、来月1日より5日間に亘り、千葉県習志野

 へ移送する事に決したり。

 

大正7年7月26日( )東京日日(房総版)

●俘虜移送

 静岡、久留米、大分からの珍客

  静岡、久留米に収容中なりし俘虜136名は、来る8月6日、大分に収容せる同21

 5名は来月8日、何れも午前11時5分幕張駅着列車にて、県下習志野収容所に移送さ

 るるに決定したり。

 

大正7年8月2日(金)東京日日(静岡版)

俘虜移送準備

 愈々5日に習志野へ

  静岡俘虜収容所は来5日、午後6時静岡駅発にて105名が、千葉県習志野へ移送す

 る事と決したるより、1日荷物の発送に着手したり。

 

大正7年8月4日(日)東京日日(房総版)

連隊と津田沼

 町民は軍隊に冷淡

  千葉鉄道連隊が8月1日から拡張されて津田沼に1個連隊を置き、千葉を第一連隊、

 津田沼を第二連隊とし、旅団に編成された処で、津田沼町は急に連隊附将校の居を構う

 る者が激増した。一体、同町附近には騎兵も4個連隊居るので、何分狭い街の事とて貸

 家が無く、該将校等は船橋や市川或は態々東京方面から通って来る始末で、同地には空

 地も多く、且つ相当財産を有する者も尠くないに拘らず、町民は一向平気で、軍隊など

 見向きもせぬと云った調子だが、恁麼事では同町将来の発展上遺憾である。殊に大工其

 他の職工が多数入り込んで居るにも拘らず、之に供給すべき物資に乏しき為め、職工連

 は非常な不便を感じて居れりと。

 

大正7年8月7日(水)東京日日

○移送俘虜習志野へ

 150名到着す

  習志野に転送の独逸俘虜150名は、臨時軍用列車にて6日午前零時15分、総武線

 幕張駅に着せる。俘虜中ペーペルス少佐以下将校6名、下士卒94名は久留米、マチヤ

 ス大尉外将校7名、准士官4名、下士卒95名は静岡収容所より送られしものにて、一

 同歩廊に整列、福原、高橋両中尉の点呼を受け、衛兵10数名、憲兵、警官等に護られ、

 徒歩習志野に着し、新築の兵舎に入れるが、卒ヘーラーのみは、列車が亀戸附近を進行

 中、持病の癲癇を起し人事不省に陥りたるを以て、幕張駅より担架に乗せ、収容所に送

 れり(6日、千葉電話)。

 

大正7年8月8日( )東京日日(房総版)

●俘虜の生活

 習志野収容所に於ける

  習志野俘虜収容所には、6日転送されたものを合せて、現在703名の独逸俘虜が居

 るが、8日には更に大分から移送の俘虜215名が到着する筈である。    

  今度来た俘虜の将校中には、妻子を久留米に残したものが3名ある。是等の家族は、

 近く東京若しくは千葉附近に転居するであろう。尚、帝大医科の構内に銅像を建設され、

 我国の刀圭界に功労尠からざりし外科の大家、故スクリッバ博士令息モーア少尉も、俘

 虜となって習志野に収容されている。少尉の母は日本人で、現に東京には多くの親戚が

 あり、且日本語は頗る達者である。

  本年5月以来、俘虜に宛た手紙が1通も来ぬ様になった。精神上唯一の慰安物たる書

 面が、本国から来ない為、彼等は殆ど生命を奪わるるよりも辛く、痛く悲観している。

 和蘭の船が独逸の郵便物を東洋に搬ぶことを承諾したそうだから、近い中には何等かの

 消息に接し得るであろうと、之を頼みに故国の夢を結びつつある。ワルデック提督が、

 時々其本国に送る提督の書面は、常に家族の安否を気遣ったものばかりで、昨今の習志

 野は暑気厳しく堪え難きも、夕方は少し涼味を覚えるなどと認めたものもあった。

  多くの俘虜は、今後尚戦争が継続するものと断定し、当分は日本の厄介と諦めている。

 老人将校は若い者と同室するを好まず、西郷所長の許可を得て、収容所構内各所に自費

 を投じ、独逸式茅葺屋根の家屋を建設して、此中に起居している。若手の俘虜は、音楽

 学校を卒業した俘虜に就て音楽を研究しつつあるが、研究4ヶ年の永い間、毎日之れば

 かり練習するので、最早微妙の域に達している。精神修養の為に、毎週1回集まって、

 俘虜の宣教師の説教を聞きつつある。健康な俘虜100名は、毎日習志野騎兵連隊の練

 兵場に出かけて、其の地均し工事に従事している。其他に、収容所内にありて、戦後経

 営に関する読書に耽り、或は各種の運動競技をなし、又は一坪農業を経営する等、徒に

 午睡を貪るようなことはない。

 

大正7年8月9日( )東京日日(房総版)

●独逸俘虜来る

  大分より習志野俘虜収容所に送られたるクニッフェル少佐以下、将校19名、士官7

 名、下士卒188名、計215名は、輸送指揮官、衛兵等5名と共に、予定の如く、8

 日午前11時15分、総武線幕張駅に到着し、停車場構内に整列して点呼を受け、千葉

 警察署長鳥海警視以下数名の警官及習志野憲兵分隊派遣の憲兵等に護られ、徒歩にて約

 1里距てたる収容所に向いたるが、先着俘虜は門前に駈け寄りて、互に其健康を祝し、

 堅き握手を交換しつつ、直に新築兵舎に入れり。

 

大正7年9月13日(金)東京日日(房総版)

●昨日御来県の師団長宮

 鉄道連隊と習志野騎兵の御視察

  近衛師団長久邇宮殿下には、十二日午前八時十三分千葉駅着列車にて御着。宮田連隊

 長以下各将校の御出迎を受けさせられ、直に御乗馬にて鉄道連隊将校下士卒堵列中を鉄

 道連隊に御着。貴賓室にて御少憩の後、連隊並に衛戍病院を御視察遊ばされ、御昼餐後

 軽便鉄道に依り材料廠に赴かせられ詳細に亘り御検分を為し、再び軽便鉄道に御乗車、

 千葉駅御着。二時廿分発の汽車にて津田沼駅御下車。同所より習志野騎兵連隊並に俘虜

 収容所を御視察の上、御帰京遊ばされたり。

 

大正7年9月22日( )東京日日

○独俘虜逃走す

 在郷軍人に捕わる

  久留米俘虜収容所の俘虜フランチ(23)は、20日午前10時、山に登りたる際逃走し、

 憲兵・警察、在郷軍人総出にて、妙生岳を包囲して捜査せしも取逃がしたるが、其夜8

 時、俘虜は変装して麓に出でたるを、在郷軍人会員の手に取押えられたり。高島収容所

 長の取締、緩に過ぎたるに基づくものなり(21日、久留米電報)。

 

大正7年10月16日( )東京日日

技師長、俘虜の送金を取次いで発覚す

=名古屋服部商店の棟方氏/西伯利過激派の独人へ3000円

  最近名古屋に独探事件が起ったとて、其筋では大いに眼を光らせて居る。それは、東

 区宮町の株式会社服部商店に附属せる、当時南区熱田の木綿工場の織機取扱の専門技師

 として大に重宝がられて居る独逸捕虜が、自分の親友で目下西伯利の過激派に参加して

 居る1独逸人から3000円の送金を依頼された。苦しい中から、やっと右金子を調達

 して、之が送金方を名古屋捕虜収容所へ申出でたが、勿論許さるべくもなかった。そこ

 で失望した揚句、今度は之を服部工場の技師長なる棟方武次氏に打明けて、同氏の助力

 を哀願した。同氏は此話を聞いて同情を寄せたのと、モウ一は予て此捕虜の技倆に感心

 して居ったので        大に優遇する積りで、違法と知ってか知らでか、ツイ此依頼を引受け

 た上、自分の部下の一社員の名案を以て送金手続を済ませた。間もなく横浜の税関で看

 破されて、送金は不可能に終ったが、此結果、棟方技師長は其筋に睨まれ、目下厳重な

 る取調べを受けて居る。此結果如何によりては、服部工場は今後、或は捕虜の使用を禁

 止さるるやも知れぬ(15日、名古屋電話)。

 

大正7年10月29日( )東京日日(房総版)

世界かぜ=益猛威を揮う

 軍隊も学校も役所も病院も

 至る所に患者を出す

▲千葉中学では87名

 材料廠の人夫も襲わる

  千葉町附近に於ける流行性感冒は、其の後益猖獗を極め、鉄道第一連隊、歩兵学校等

 にも若干名の罹病者を出し、材料廠人夫中にも約70名の患者現われ、千葉署警官中に

 は欠勤者6、7名、千葉病院看護婦中の罹病者は28日迄に9名を出せり。県立千葉中

 学校内にては、其後益蔓延を為し、28日迄に罹病欠席者87名に達せり。

▲長尾博士夫人感冒で逝く

 千葉町の名高き女流園芸家

  千葉医学専門学校教授にして千葉病院内科第一部長医学博士長尾美知氏夫人とし子

 (39)は、3、4日前よりスペイン風邪に罹り、自宅に於て療養中、終に27日午後11

 時50分、急性肺炎を併発して死去せり。同夫人は、千葉町に於ける女流園芸家として

 名高かりし人なり。

▲菊千代も死す

 千歳家抱えの半玉

  千葉町吾妻町芸妓屋千歳家抱半玉菊千代(16)は、スペイン風邪の為め、17日午後8

 時頃死亡せり。

▲海上、船木両村では1000名に及ぶ

 小学生の欠席が日増し

  銚子町附近に於ける世界風邪、愈猖獗を極め、患者続々発生しつつあり。殊に海上、

 船木両村は流行の中心地にして、銚子署の調査に依れば、28日迄に両村共、罹病者1

 000名に達し、全人口の3分の1に当り、小学校は殆ど半休の状態なり。又、海上郡

 役所は、吏員16名中数名冒され、内2名欠勤し居り、西銚子、銚子、本銚子小学校は、

 児童の欠席日々其数を増加しつつあり。

 

大正7年11月4日( )東京日日

よく勉強する俘虜連

 簡単な入浴法と感心な其読書慾

  習志野俘虜収容所に於ける独逸俘虜の最近の生活に就て、某将校は語る。

 「俘虜兵卒1日の食事は簡単なもので、朝はパンが半封度、昼と晩は同量のパンと野菜

 と肉の1皿だけ。肉と云っても、僅2、3片しかない。馬鈴薯の如きも、成るべく自給

 策を採り、其皮や残飯を以て30頭の豚を飼養し、毎日1頭ずつ屠り、1頭宛補充して

 行く。即ち、各1頭は1ヶ月間飼養した上で屠殺する。其間1ヶ月で約3貫目肥るから、

 全体で90貫の肉を利する事になる。目下、和洋折衷の給養法を案出して、各師団で試

 験中である。彼等は1週間に1回入浴させる。其の日は、朝から夕刻まで7、8時間風

 呂を沸かして置くが、彼等の入浴は、1升2、3合入りの洗面器に微温湯が3杯あれば

 足りる。自分の使用する石鹸は、彼等自身の製造になるものだ。

  勉強家が多く、教育程度は日本人と大差はないが、知識は総て実地に活用され、昨今

 の如きは、約半日は読書で過す。そして、彼等の金銭の用途を見るに、第一に酒保で食

 物を買う為めに費すが、次は、丸善其他の書店から盛に自国図書を購入し、将来の為に

 専門の研究を怠らない。彼等に就て感心する事は、服従心に富み規律を守り、秩序を重

 んじ時間を徒費せぬ事で、殊に仕事を命ずると、此の仕事を何人で何時間に完成すれば

 よいかと質ね、各人の分担を定めた後、傍目も振らずに働いて、予定の時間には完了す

 る」云々。

 

大正7年11月6日( )東京日日

5万余に及ばん

 医師も病んで診察されず/県庁も又てん手古舞い

  県下に於ける世界感冒は、益猖獗を極め、県庁内にては5日、小使の出勤せるもの僅

 に3名にして、転手古舞の姿なりき。又、給仕も4名罹病欠勤せり。此の外、雇、書記、

 属にして罹病せるもの、実に60名に達せり。長尾憲兵分隊長は未だ癒えず、欠勤静養

 中なるが、吉野同分隊班長も5日罹病し、亦千葉町内の医者は臥床せるもの多く、為め

 に患家を診察為す能わず。尚、県下全体に亘りては、約5万人に達する見込みなり。

▲市原の罹病者

◇東海校も市原校も休校

  市原郡東海尋常小学校に於ては、5、6年生徒の全部を休校せしめ、尚お市原尋常高

 等小学校にては208名の罹病者あり。5日より向う3日、全校を挙げて休校し、其の

 他各小学校の罹病者数は左の如し。

        ▲君塚校 98名 ▲千種校 160名 ▲姉崎校 95名 ▲東海校

        46名 ▲三成校 73名 ▲市原校 208名 ▲大久保校 26名

        ▲朝生原校 5名 ▲月崎校 18名 ▲計718名

▲匝瑳に3千名

  匝瑳郡内の世界風邪は、今日までの罹病者3千余名に達し、死者数名あり。八日市場

 小学校は、4日迄に職員21名中7名、児童2百余名罹病欠席し、尚お発生の状況なる

 より、5日より3日間、遂に休校せり。又、海上郡銚子町にては、同病より急性肺炎に

 変じ死亡せる者3名あり。

▲小学生死す

◇印旛・東葛飾郡の惨報

  印旛・東葛飾各郡地方に於ける悪性感冒は、其後益猛威を逞うし、成田町の如き4名

 の医師の取扱えるのみにて3百余名に達し、成田鉄道、成田中学校、女学校、小学校共

 に、多きは3、40名より尠きも10数名の罹病者あり。同郡安食小学校の如き、尤も

 猖獗を極め、同校2年級生徒後藤正順(9つ)は、4日遂に急性肺炎に変じ死亡したり。

 又、東葛飾郡野田小学校は3百余名の罹病者を出し、4日遂に休校したり。

 

大正7年11月14日( )東京日日(房総版)

講和の媒妁を哀願した独逸の無線電信

 =船橋の電信所に感ず

  4800哩の彼方から20分間明瞭に感じた

                所長福井海軍少佐の談

  12日午前9時15分、独逸ナウエン無線電信所から米国アーリントン無線電信所に

 打ったのが、海軍無線電信に感じた。所長福井海軍少佐は語る。「内容の詳細は公にす

 ることは出来ないが、要するに休戦条約に関する事で、実に明瞭に聴取された。此通信

 は英語で、約20分間継続された。船橋と独逸ナウエンの距離は、約4800哩である。

 従来是以上遠距離の無線電信を感じたことは屡あるが、併し今回の米独間の外交に関す

 る無線電信を聴いたのは初めてである。ナウエンは伯林の近くにあって、無線電信所も

 却々大きい。是から講和に就ての通信が、頻繁に交換されるであろう」云々。

教育調査部員の俘虜収容所見学

  県教育会修身科調査部会員14名は、14日習志野に赴き、独逸俘虜収容所を視察し、

 俘虜の製作品を観覧する由。

 

大正7年11月20日( )東京日日(房総版)

世界かぜの罹病者数 10万余に及ぶ

  本県に於ける流行性感冒の罹病者数は、19日県衛生課に於て発表したるが、総数1

 5万261名にして、内死亡者数411名に達せり。其の各郡別、左の如し。

                郡名    罹病者数 名    死亡者数 名

                海上     11,052        29

                匝瑳      1,226         3

                香取      6,211        21

                山武     15,754        35

                印旛     11,546        32

                千葉     18,758        68

                東葛     28,429        55

                長生      9,996        27

                市原      9,883        17

                君津     15,771        27

                安房      7,381        29

                夷隅     14,220        67

▲休校続出す

  海上郡銚子尋常高等小学校は、在籍児童2200余名中、世界風邪に罹り欠席せる者

 600余名に達したれば、19日より4日間、臨時休校せり。

  安房郡白浜小学校にては、其後300余名の感冒患者発生したるを以て、18日より

 1週間、遂に休校。

 

大正7年11月27日(水)東京日日

○近く釈放の邦人俘虜

 ▽独逸に105名/外に所在不明30名

  休戦条約の締結と同時に、独逸に抑留されつつある邦人俘虜は、愈遠からず釈放され

 る事になったが、之れに就て陸軍省俘虜情報局長の談によれば、「休戦条約中に『非戦

 闘員は1箇月以内に釈放する』という条文があって、独逸は邦人俘虜を悉く戦闘員と看

 做して居る。最も、俘虜105名中に2名の船客・非戦闘員があるが、其中の1名は立

 派な軍人白石海軍少佐であるが、兎も角、外務省からは去る24日に右休戦条約の非戦

 闘員を広義に解して、我同胞俘虜の釈放方を速に講ずべく、仏国大使館に打電した。近

 日、何等かの情報に接する事が出来よう。又、従来の慰問金発送も見合せて居る。但だ、

 右の105名以外に、今猶所在不明の在独邦人が約30名ある。それは、▲馬場伝次 ▲

 馬場ハルカ ▲同ハツガ ▲同(不明)シモ ▲同イサミ ▲原カズ ▲三原       ▲ハシ

 ダ ▲クシト ▲畑中キンイチ ▲ジオエコサ ▲(不明)平吉 ▲カム林リンハ ▲

 加藤キモスケ ▲カツヂ ▲ワエズムラ ▲ミスタニジヨセフ ▲ムレカズ安之助 ▲

 中浜 ▲西山ケンイチ ▲沢喜三郎 ▲シザムラスモレンスキ ▲ウラジミル ▲田中

 ▲ウラサリコイシ ▲上原 ▲植村勝次 ▲山下敬太郎 ▲ヤメ ▲西 ▲横山 であ

 るが、姓名も極めて不確実であるが、心当りの係累者は、速に当局に御通知が願いたい」

 云々。

 

大正7年12月 5日( )東京日日

邦人俘虜釈放さる

=独逸から近く英国へ

 白石少佐以下3人の乗客と常陸丸船員103名と

  在独邦人俘虜の処置に就ては、過般外務省から、「非戦闘員のみ」云々とありし休戦

 条約中の条文を広義に解して速に釈放されたき旨をば、仏国大使館を経て交渉中であっ

 たが、4日、日本人俘虜全部を数日中に釈放すべしとの通牒が其筋に到達し、それに附

 帯する情報によると、俘虜中の将校及同待遇16名は、ボースト、ボーデンフェール、

 ワンベックの3箇所に、兵卒同待遇89名は、キューストローに83名、ブランデンブ

 ルク及ブレーメルハーフェンに6名収容されて居たが、今回愈釈放される事になって、

 将校及同待遇はブレーメルハーフェンから乗船し、兵卒及同待遇はリューベック又はス

 テッチンの2箇所から乗船し、何も先ず英国に廻送されることに決定した。此等俘虜全

 部105名の外に、猶お30余名の行方不明者があるが、多くは旅芸人の類であろう。

  釈放される105名は、全部郵船常陸丸の乗組遭難者で、将校は白石海軍機関少佐1

 人、他は悉く同船乗組員と小長井潔氏及大藤治郎氏の2名とである。

白石少佐の留守宅

 若夫人も母堂も嬉し涙に咽びて

  近く独逸より英国に向う海軍機関少佐白石研吉氏の留守宅を、赤坂区青山北町6の4

 2に訪えば、家には同少佐が昨年8月出発間際に結婚した、予備海軍主計総監福永吉之

 助氏の愛嬢なる新夫人の茂子(21)と母堂幾代(53)が留守をまもっている。

  茂子若夫人は、嬉しさを押え兼ね、いそいそとして語る。「海軍省からも何処からも、

 まだ何とも知らせがありませんが、先程鳥渡或る方から承わりまして、母も共に嬉し涙

 にくれて居ります。昨年8月結婚すると間もなく出発しました。寄港毎に音信がありま

 したが、印度を発し喜望峰に航く途中、乗って居た常陸丸が行方不明になったと聞いた

 時は、どの位心配したか判りませんでした。もう此上は神仏の加護によるの外はないと、

 毎日毎日母と共に念じて居りました甲斐あってか、本年9月20日に、生命だけは助か

 って居るから安心せよと、5月14日出の葉書が独逸のワンベックから参りました。そ

 れ以来まだ何の便りもありませんが、今暫らく英国に滞在する事やら、直帰国すること

 やら、一向に存じません。初め主人の身に災難がかかりました時には、軍人の妻のこと

 ですから諦めては居りましたものの、助かったと聞いて飛び立つ思いを致しました。母

 の喜びは勿論、私はもう一時は嬉し涙に咽びました。」

 

大正7年12月12日(木)東京日日(房総版)

習志野の俘虜が帰る

 非戦闘員は既に手続きを終った

  目下習志野に収容しある独逸俘虜は戦闘終結の結果、対独休戦条約により講和予備条

 約締結後、直に帰還せしめらるべきが、殊に非戦闘員は一昨10日帰還手続を為したる

 由なれば、便船のあり次第、直に送還さるべし。

 

大正8年1月24日( )東京日日

ワルデック重態

 世界風に罹る

  習志野俘虜収容所の独逸俘虜約900名中、流行性感冒患者続出し、目下の臥床者3

 00余名に達し居れるが、ワルデック提督も非常の高熱にて重態なり。                     写真:重態の報あるワルデック提督

 

大正8年2月5日(火)東京日日(房総版)

●俘虜感冒に悩む

 罹病者500余名

  習志野に収容せる独逸俘虜の流行性感冒患者は、其後益続出し、目下の罹病者500

 余名を算し、内死亡者13名なりと。

 

大正8年2月7日(木)東京日日(房総版)

●感冒に悩む俘虜

 死んだ者21名

  習志野俘虜収容所の独逸俘虜中、流行性感冒に罹りて病臥するもの多く、目下の患者

 数は500余名を算せるが、同地衛戍病院に入院治療中なりし重病者28名の内、5日

 迄に死亡せる者21名に及べりと。

 

大正8年5月19日(月)東京日日

西郷家人手に渡り、母堂は都落

 魔の手は同家を掻乱して

  13人の女中に侍づかれたのぶ子刀自は、南洲未亡人と子供を親戚へ託し鹿児島へ

         =隆輝侯に悲しき病

  鳴り響ける轡の紋、末寂しく、麻布市兵衛町西郷侯爵家は人手に渡る事となり、昨日

 もさる成金が「寧そ言値の9万円で引取ろう」とまで話が進んだ。去月24日、赤練瓦

 の門柱から「侯爵西郷」の門標が外されてから、蔦の茂り絡むに任せて1ケ月。今明日

 中に、500坪の屋敷と洋館は当主隆輝侯の手を離れる。

  侯は、大西郷の世嗣、故寅太郎侯の長子に生れ、母のぶ子刀自(43)は、故園田実徳氏

 の長女で寅太郎氏が無爵の中尉時代に嫁し、侯を初め愛子(20)、敦子(17)、勝子(16)、

 吉之助(14)、隆永(12)、隆明(9つ)、隆正(6つ)、光子(5つ)、隆徳(4つ)と外2人、8

 男4女の母となったが、刀自からつながる宿世の糸は隆輝侯に幸いせず、儚なき今日を

 招いた。のぶ子刀自は、競馬に万金を投じて豪奢の聞えありし園田氏の血を享けた為か

 あらずか、華美好みが祟って、36年の授爵前、牛込市ヶ谷加賀町時代には、附近の某

 博士と共に牛込一帯の諸商人から、払いのわるい一対と言われていたとか。授爵後、故

 東京府知事富田鐵之助氏の邸を買って市兵衛町に住居してからは、侯爵夫人として愈綺

 羅を競い、最近まで13人の女中に侍づかれた程の生活振りとて、衣装万端云うも更に、

 芝居、遊山等に天性の美貌を輝かした。歩兵大佐の俸給が素より是を充たす筈はなく、

 大正6年2月、園田実徳氏死して西郷家の財政は益窮し、本年1月4日、寅太郎侯逝け

 る日、負債の総額4万円をかぞえた。隆輝侯が家を売らねばならぬ破目は、此処に在る。

  尚、市兵衛町界隈の噂話しでは、家政に頓着せぬ夫人の背後に隠れて、西郷家を撹乱

 した者があると伝えられて居る。更に、同家に取って最も気の毒なるは、当主隆輝侯の

 病気である。侯は、元来資性英明、学習院の初・中等科を通じ俊才の誉高く「天晴れ大

 西郷の孫よ」と聞えた為め、外祖園田氏は掌中の珠玉と愛で、侯も亦、大の「お祖父様」

 好きであった。然るに、一昨年2月の或夜半、自動車が突然、学習院寄宿舎に公達の夢

 を破って、侯に「お祖父様」の凶変を報じた。其一瞬の驚愕に、侯の心は一時に掻き乱

 されて、爾来医薬の効無く、昨今では赤児の如く他愛ないかと思えば、忽ち狼藉に変る

 と云う。泣いても涙を出ぬ程にいじらしく、永い巣鴨病院の生活にも魂は復活らず、今、

 大磯山の手の園田家別邸にうつらうつらと暮して居る。

  嗟、此の悲劇は遂に今月初旬、夫人は二男吉之助君と南洲翁未亡人いと子(78)刀自を、

 麻布新龍土町の西郷午次郎氏(隆輝侯の叔父)に託し、多くの召使に暇を出し、僅2人

 の侍女と馬丁1名を供に、鹿児島市西武田町の別邸に都落ちしたが、失神の隆輝侯との

 別れに、夫人は血を吐く悶えをしたと云う。

  家を売払うて一家の都落ちを余所に、老いたる南洲翁未亡人は、尚故人の高吟──子

 孫の為に美田を買わず──の一句を誦して居るだろうか。

                        写真:今は思出の−西郷侯母堂の盛装

 

大正8年5月28日( )東京日日

独逸の潜水艦、横須賀沖に来る

 −第一隊は来月18日

   一般の観覧に供した上で、南北から日本を一周する

  独逸より押収せる潜水艦7隻は、既記の如く去る4月13日モルタを出発し、ボーツ

 セッド、アデン、コロンボ、ペナンを経て、本月21日新嘉坡に到着したるが、之れよ

 り2組に分れ、第一隊の零二、零四、零六号は関東を母艦とし、29日同地を出発、6

 月7日馬公を経て、同18日、愈横須賀に到着すべく、第二隊の零一、零三、零五、零

 七の4隻も日進を母艦として、来る31日新嘉坡発、之れも第一隊と横須賀沖に集合し

 て、同時に入港すべく、此回航に従事せるは、司令官岩井孝一中佐にして、機関長は村

 田豊太郎中佐なりと。

  猶お、此等潜水艦到着後の処置に就ては、海軍当局に於て種々講究の結果、近く帰還

 すべき第一、第二特務艦隊と、此潜水艦6隻をば悉く横浜沖に集合せしめ、第一回の戦

 捷示威の目的を以て、一般の観覧に供したる後、第一隊は北より、第二隊は南より、各

 日本を一周せしむる計画なりと言い、最後に何れか適当なる場所に於て撃沈する事とな

 るべきも、夫は講和会議の結果を待って決定すべしという。

  任命されし各艦艦長は、左の如し。

            零一艦長海軍少佐木内達蔵 △零二艦長海軍少佐米山順吾 △零三艦長同大尉熊澤

竹造 △零四艦長同上片原常次郎 △零五艦長同上澤野源四郎 △零六艦長有本明

△零七艦長同上浮田秀彦

 

大正8年6月4日(水)東京日日

○解放する俘虜20名移送

 ア、ロ両州から徴募されたる

  講和条約でアルサス、ローレン2州が仏国へ返還される事になったので、日仏両当事

 者間に、両州出身の俘虜を此際解放する交渉纏り、久留米俘虜収容所に在る独逸俘虜3

 00名中、両州から徴募された30余名に此旨申聞かせた所、20名の解放希望者があ

 るので、一旦習志野に移送する事となり、木村中尉監督の下に2日午後2時15分久留

 米発貸切車1台に収容、午後8時5分下関発、習志野に向った。習志野にて各収容所か

 ら移送された俘虜と落合い、近い便船で帰国送還される筈である(3日、門司電報)。

 

大正8年6月11日(水)東京日日

○ア、ロ両州の俘虜釈放

  =来月12日= 横浜から直ぐ出帆

  習志野、名古屋、板東、似島、久留米等の各地に収容中なる独逸俘虜4600人の中、

 アルサス、ローレン両州生れの俘虜は、今回同州が仏国に編入さるる事となるべきを以

 て、過般駐日仏国大使エドモンド・バプスト氏より我陸軍省に対って釈放引渡しを要求

 し来り、陸軍当局にても協議の結果、同大使に引渡す事に決定し、既記の如く、此等の

 俘虜全部121名を習志野に集合せしめ、昨今漸く釈放準備を完了し、去る9日、バプ

 スト大使は習志野に赴いて俘虜一同を慰問し、昨日も亦、仏大使館武官ド・ラ・ボマレ

 ード男爵も慰問に赴けるが、愈来月12日、横浜に於て陸軍省と仏国大使との間に引渡

 手続をなし、同日横浜出帆の仏国便船ネロ号に搭乗せしめて仏国に輸送する筈。

同日(房総版)

習志野の俘虜君が稲毛まで遠足/昨日200名がお揃いで

 小雨に包まれながら無邪気に遊んだ

  習志野の俘虜ワグナル中尉以下200名は、10日午前8時から、千葉郡検見川町字

 稲毛の海岸に遠足した。此の日、空には雲深く閉ざし、チラチラと小雨さえ降り出した

 ので、俘虜達は何れも心配気に空を気遣っていたが、出発の時刻が来ると無暗に跳廻っ

 た。俘虜収容所の鈴木中尉外数名の将校下士が付き添って、収容所から、黄ばんだ麦圃

 を両側に挾んだ細い田舎道を、4列縦隊になってザックザックと靴の音を立てながら幕

 張町に出た時には、9時を少し過ぎていた。沿道の住民は「独逸の俘虜が来た」「戦争

 が終えたから国へ帰るんだっぺえ」などと噂をしながら、軒下や畑に突っ立って見送っ

 ている。日本語に精通したモンリー軍曹の如きは、盛んに「美しい景色だ。此の辺に永

 く住みたい」等と愛嬌を振り蒔く。

  幕張で東京街道を横切り、海岸に出で、男波女波の狂う磯端を、飛沫に打たれながら、

 稲毛に向う。附き添うた将校・下士は、一々指で、「あれは鹿野山だ」「この方角が東京

 だ」「天気さえ好かったら、この真っ直に富士山が見える」などと説明して歩いている

 内に、何時か稲毛に来た。

  海岸の捨小舟や陸揚げした筏の上で少憩の後、一同はジャブジャブ海中に入って蜊を

 採り、小児のように他愛なく遊び戯れる。「アサリ、私こんなに沢山採ったあります。

 上げましょう」などと、周囲に取り巻いた子供達を、手近に呼び寄せては呉れているも

 のもあった。正午少し過ぎ、海気館裏手の松林中に引き揚げ、携帯のパンに腹を満たし、

 霖雨しとしとと降り出せる中を帰途に着いたのは、午後2時頃であった。千葉憲兵分隊

 並に千葉署からは、数名の係官を特に派出して、万一の警戒に任ぜしめた。

 

大正8年6月28日( )東京日日

帰国の日近きワルデック総督

 古武士の如き其態度/嬉し悲しの俘虜の心

   きのう、西班牙武官が習志野訪問

  独逸が無条件で調印する日が確定したと伝えられた昨日、習志野の俘虜収容所を訪れ

 た。近所では、俘虜が「日本にいるのもモウ3週間だ」と喜んでいるといっている。こ

 の日恰も、独墺政府から彼等の保護を一任されている西班牙公使館附武官・参謀少佐エ

 ー・ロサ氏が、習志野に俘虜の動静を見るべく収容所へ赴き、所長山崎砲兵大佐等と昼

 食の後、其案内でワルデック総督以下独墺士官を訪問し、午後2時半頃辞去した。

  収容所の高橋中尉は語る。「ワルデック総督は、講和条件の提出された時から一切無

 言で、調印の日が決っても何事も語らず、郷里への手紙にも一切其の問題に触れぬ。平

 常草花を植えたり気に入った連中と散歩などして暮しているが、面会は特別の人の外一

 切避け、未知の人に俘虜として顔を合わすのを恥辱としている。他の連中は講和条件の

 伝えられた時、亢奮していたが、近頃は皆諦めている。此処に収容の俘虜は、大部分予

 後備で、東洋方面に活動していた人が多く、大学出身が11名いる。支那が独人の放逐

 を実行以来、支那行を断念している故、支那に帰る人は10分の1位に減じよう。併し、

 本国も過激思想の伝播で乱れているから帰国しても仕方がないと、皆途方に暮れている。

 殊に、海軍士官は軍艦が無くなったので悲観し、釈放の日が近づいたのは嬉しいが、前

 途については一般に迷っている」云々。

  尚、陸軍当局の談によると、俘虜引渡に就ては近く巴里に中央委員が設定され、俘虜

 引渡し実行委員の任命あり、一切を決定すべく、独逸委員の我国へ来るは8月末頃なら

 ん。

                写真:よろこべる俘虜を=西班牙少佐の訪問

              昨日習志野俘虜収容所を訪いし西国武官ロサ少佐(右)と山崎

           収容所長(左)

 

大正8年7月8日(火)東京日日

独逸の俘虜が就職運動を始む

 東京帝大でも講師として傭聘の説あり

 工業方面にも需要あらん

  −彼等は帰国を厭う

  講和条約も、支那を除く外は調印済となって、国内封鎖の悲境になった独逸も愈其封

 鎖を解かれ、各国に抑留されている俘虜も8月中には釈放されることとなった。

  某博士は語る。「連合国が独逸に課した償金は、独逸の経済状態から見て、殆ど不可

 能に近い。独逸人が此義務を果す為めには数十年の努力を要するので、元来無理遣りに

 纏めて、実際国家的団結の薄弱であった独逸は、『償金を支払う為めに働くことになる』

 という考えから、充分活動の出来る独逸人の大部分、少くともプロイセン以外の独逸人

 には、海外に移住して第二の猶太人たらんとする者が多かろうと思う。

  現に先頃到着した巴里情報に於ても、多数の独人がブラジルに移住を企てたとあるが

 如く、日本在留の俘虜も、大多数日本に残ると云っている。中には既に就職運動に着手

 した者もあって、習志野在留の1人は、松本商校長茨木氏に独逸語教師の傭入方を申込

 んだ、ということである。東京帝大あたりでも、従来関係のあった独逸人教師が再来す

 るようなとあらば、講師として傭聘しようという説が多い。工業方面でも、優秀にして

 而も工賃の廉い独逸技師を傭うことには異論は無く、独逸人も其れを当て込んで、盛ん

 に祖国を見棄てて来朝することであろう。

  軍国主義などは普魯西派の政治家・軍人が考えていたことで、独逸辞とが国家に対す

 る観念は日本人のような統一したものではないから、生活と外交上の圧迫を受ければ、

 大抵の独逸人はどしどし国外に移住するであろう。世界主義の伝播も、此れが為に促運

 されるに違いない」。

 

大正8年7月9日( )東京日日(房総版)

●ア州出身の俘虜を引渡す

 10日仏国大使館へ

  習志野の俘虜収容所に収容中のアルサスローレン出身の将校・下士卒119名は、愈、

 10日午前9時開放され仏国大使館の手に渡さるる筈なるが、同大使館の都合にて、或

 は11日に延期さるるやも知れずと。

 

大正8年7月10日(木)東京日日

○ア、ロ二州の俘虜釈放

 昨日習志野を/今朝帰国せん

  習志野に在りしアルサス、ローレン両州の独逸俘虜下士以下119名は、講和会議の

 結果、仏国国籍を獲得せしより、仏国大使の申出によりて解放と決し、昨朝9時14分、

 鈴木歩兵中尉以下下士卒10名が引率して習志野を発し、同10時両国駅に着せり。彼

 等は大使館より支給されしカーキー色の仏国軍服を着し、ステッキを銃の如く担ぎ、先

 頭に仏国旗を樹て、徒歩にて東京駅に向いたるが、中にはマンドリン、ヴァイオリン等

 を持てるもあり。駅の内外には多数の憲兵出張して警戒し、沿道は各所轄署にて巡査を

 配置して警戒せしめたるが、一行は正午同駅に着し、待合室にて精養軒より取寄せし簡

 単なる中食を済        ませ、午後零時10分発列車にて横浜に向いたり。因に一行は、今朝

 8時頃横浜解纜の仏国汽船エム・エム・メラ号にて出帆帰国する筈なり。

同日(房総版)

●故国の思を抱いて帰る

 昨日釈放された習志野の俘虜連

  習志野俘虜収容所の独逸俘虜900名中アルサス、ローレス出身の俘虜119名は、

 9日午前釈放の通知に接し、昨夜来何れも出発の仕度を整え、9日午前来原し仏国大使

 館副館引率の下に、午前9時47分幕張駅発上り列車にて大使館に向う。

 

大正8年7月13日( )東京日日(房総版)

習志野収容所の俘虜は、怎うして居る

 アロ2州の俘虜は開放/独逸が調印と聞いて憤慨す

  習志野俘虜収容所に居ったアルサス、ローレン2州の俘虜221名の日、去る2日2

 名、9日に119名を開放し、仏国大使館の手に引渡した。為めに同収容所内は余程淋

 しい気分が漂って来た。独逸が愈平和条約に調印したと聞いた時は、彼等は何れも切歯

 扼腕して本国政府の腑甲斐なさを痛罵したけれども、乱暴狼藉は働かなかった。日本将

 校又其他の人の多数に対しては、却々如才がない独逸俘虜は、昨今の暑気にも拘らず、

 運動の継続を励行して居る。3度の食事後には、果物を盛んに摂取しつつあるが、殊に

 水蜜桃は彼等が最も好んで居る。又、俘虜中には水泳をしたがって居るものも多い様だ

 が、未だ夫れ丈は彼等の要求を容れない。収容所の近郊には1週1度位宛運動に出して

 居るが、彼等は之を何よりも嬉しがって居る云々と、同所員は語れり。

 

大正8年8月13日(水)東京日日(房総版)

習志野俘虜の財産管理

 昨日告示さる

  折原知事は、本年勅令第304号に依りて、左記独逸人の財産管理命令を発し、之を

 習志野俘虜収容所長の管理に附する旨、12日告示せり。

        ▲現金185円19銭7厘 独ラルル中尉 ▲58円57銭8厘 同トレン   デル少佐 ▲48円82銭 同ウキグナー少佐 ▲91円87銭2厘 同シ       ュタインメッツ中尉 ▲58円57銭8厘 同ハンスハルトマン少佐 ▲9       円56銭 同テンメ大佐 ▲317円11銭5厘 同ワルデック大佐 ▲5       88円4銭 墺太利マコビッツ大佐 ▲貯金43625円63銭 郵便貯金       ワルデック大佐外115名 ▲12768円85銭 川崎銀行船橋支店取扱       ワルデック大佐外11名 ▲3478円88銭 同 墺太利マコビッツ大佐        外1名

 

大正8年8月29日(金)東京日日(房総版)

俘虜の出教授

 勝山の房総煉乳会社へ

  習志野独逸俘虜海軍二等砲兵フランツツォールン(26)は、目下安房郡勝山町房総煉乳

 会社勝山工場へ毎週火・木の2回ずつ出張して、煉乳に関する教授をなしつつあり。

 

大正8年9月5日( )東京日日

釈放の日近く、俘虜連大喜び

 ソワソワと仕事も手につかず、新聞記事の一行に眼が光る

  ヴェルサイユに於ける講和会議は、現下各国に収容中の独墺俘虜を条約批准前に釈放

 する事に決議したと伝えられ、従って我国6箇所に収容中の約4400名の俘虜も、近

 く本国から派遣される受領委員に引渡さるべしと噂されている。

  習志野収容所の当直一士官は曰く。「当所に収容している俘虜は840名で、1日も

 早く釈放せられる事を翹望している事は、昔も今も変りはない。殊に近頃は、日本が批

 准すれば自分等が解放せられるとか、本国の受領委員が出発したとか云う新聞記事を見

 て、一行一字を見落すまいと眼を光らして読んでいる。そして、以前は非常に勉強や研

 究をしたものだが、近頃は皆んな一身上の処置のみ考慮しているらしく、解放の準備と

 して、知人から借た書籍を返却するとか、荷物を入れる箱を造るとかに忙しんで、他の

 事は手が附かないらしい。近頃身体を大切にする事は非常なもので、折角釈放されても

 病気などして死にでもすると、永い間の隠忍も水の泡だと、細心の注意を払っている。

 又、釈放後の身の振方に就いては、一度は帰って故国の状態を見て置かなければと云う

 ような者が多く、中には支那に行きたいと希望している者もあり、帰国しても仕方がな

 いから日本に駐っていたいと云う者もある。然し、それ等は少数だ。

  ワルデックの近状は、以前と別に変った事もなく、内外人共に殆んど絶対に面会を避

 けている。56歳にしては却々の元気で、自己の言動が四囲に及ぼす影響を思い、微少

 も吐裏を表白しないから、彼が釈放後の処置とか帰国後の行動等に就ては、少しも知る

 を得ない。然し、他の俘虜と共に、釈放の日を懐うて包むに由なき喜びはあるらしい。

  目下俘虜の内、就職しているのは、安房の勝山練乳会社に1人、東京のカッフェー・

 パウリスタに菓子造りとして2人、船橋屠殺所に2人と、都合5人あるが、毎日当所か

 ら通勤している」云々(4日、千葉電話)。

 

大正8年10月3日( )東京日日

日本へ一番乗の独逸の新大使

 噂のテール君は日本通

 十有余年間日本に在住した人/氏の新任は外交方針一変の証

  平和克復後第一に日本入りする独逸の大使がフリッツ・テール氏に内定したと伝えら

 れている。氏は日本通で、日光中禅寺湖畔に別荘を持っている。氏の性行につき船越男

 は曰く、「テール氏は日本の独逸大使館に翻訳官として在勤し、後横浜の総領事となっ

 た。前後10年余も日本にいた人で、私も屡会った事がある。肥満した、如何にも独逸

 型の人で、年輩は52、3歳か。独逸の外交官任用方針は、法律、政治、経済に通じ、

 然も語学に堪能な人と言うのだが、同時に先輩の引立が多少の関係を持つ。ところが、

 氏には引立の先輩がない為に、総領事位が止まりで、余りいいところに用いられなかっ

 た。外交官と言うものは、単に本国政府と任国政府との郵便電信の取次ぎ役ではない。

 本国の意志を貫徹する許りでなく、其国民と親密な関係を結ぶと言う事をも考えなけれ

 ばならぬ。此意味から言って、従来迄執り来った独逸の日本外交は失敗であったと言う

 に憚らぬ。フォン・ムンム氏も、アルコヴァレー伯も、近くはこの間引揚げて帰ったレ

 ッキス伯も、失敗の歴史を残したに過ぎなかった。其原因はと言えば、前にも言た、国

 民と理解し合うと言う一事が、旨く行かなかったからである。処がテール氏は、10年

 余も日本にいて、日本の受けがいい。独逸政府が官僚外交を廃てテール氏を選んだのは、

 従来の失敗を挽回せんとする者で、独逸外交の今後は、日本国民と親密な関係を結ぶ為

 に努力するであろう」。

 

大正8年10月6日( )東京日日(房総版)

教育展覧会に俘虜も出品する

 マンドリン、額縁其他を

  来る10日より開催の本県教育品展覧会に、習志野俘虜の製作にかかるマンドリン、

 額縁、インキ壺、将棋等を、参考品として出品せり。同展覧会の出品は、香取郡を除き、

 県下より1261点あり、目下審査中なり。

 

大正8年10月28日(火)東京日日(房総版)

俘虜の帰国

 来月5、6日頃

  目下習志野俘虜収容所に収容され居る独逸俘虜、ワルデック総督以下832名は、批

 准済み次第、他の収容所に散在せる3500余名と共に、来月5、6日頃、全部帰国の

 予定なりと。

 

大正8年10月31日( )東京日日

玉手にペンを執らせ、悠久平和の御親署

 昨日午前11時御批准

  即刻内田外相より巴里なる松井大使へ

 ◇晴の天長祝日さぞや賑わん

  御批准が済んだ。講和条約文書は枢密院、外交調査会等の最高機関の承認を経て、原

 首相は聖上陛下に御批准の奏請をなすに至り、別項の如く昨日午前11時、玉手にペン

 を取らせ給い、悠久なる平和の母たる文書の上に千古に炳たる御親書を賜わった。連合

 与国の最高権威として東洋の盟主として賜われる御批准は、万鈞の重きを講和条約に添

 うるものがあろう。御批准は即刻、内田外相より松井駐仏大使に電送し、寄託の手続を

 なし、正文は外交使臣之を捧持して、仏国外務省に納むる筈である。

内田外相、喜悦の面持して、記者に御批准済の次第を語る

  御批准が済んだとの旨は、昨日11時半、内田外相から省内電信課を通じて、在仏松

 井大使宛に電報された。電信機の音も、今日は思いなしか尊く聞かるる。内田外相は肩

 の重荷を下ろしたように、無言の喜悦を粛として、机にもたれて居た。記者が喜びを述

 ぶるや、外相は「只今松井大使宛電報を発した所で、大使から仏国外務省に寄託し、松

 井大使より確実に寄託済の返電が来た時に始めて公布する筈である。其時は大に喜びを

 諸君と共に語る」と、喜の色を押し包んで語った。

新大使を待つ独逸大使館

 きのう館内見聞の記/館員の荷物200個がごろごろと

  御批准は済んだ。昨の敵・独逸は、今の敵ならず。思い起さるるは独逸大使館である。

 永田町の6000坪の独逸大使館が閉門明けとなるのも近き昨日の午後、一館員は記者

 を導きながら「骸の独逸大使館の復活したる日に−というような記事を書のですか?」

 と笑って引き廻さるる。庭は手入れこそせね、黄金に飽かせた生地は争われねど、一度

 舞踏室に入れば感慨転た禁じ得ぬ。大正3年6月、公使ムンム男が此秋こそはと贅を尽

 して大装飾を施したのに、何の皮肉ぞ、夏の終り大戦勃発と共に、華やぐべかりし秋の

 夜会の舞踏も、独帝の鵬望と共に夢と化し、外壁は蔦紅葉が、一入の秋語りげに這い廻

 り、壁は蝕ばみ金具は朽ち、緋の絨氈は錆びて、惨苦の独逸其のままの姿だ。舞踏室に

 隣る大使家族の室には、倉皇と旗を捲いて去る日、荷造した館員の所持品が200余個

 の荒箱の中に狼藉として横わって居る。大使の室は、伽藍堂で、真丸い柱時計が帰国の

 日のままか? 4時50分を指したままに眠って居る。やがて、新大使の手に、此時計

 も動くまで、神は日独の国交にゼンマイを捲かなかったのだ。事務館のどの室もどの室

 もしめっぽい臭いの中に、総ての化粧を外されて眠って居た。案内者は、「御批准と聞

 いて、賑かなクリスマスの日が頻りに思い出されますよ」と、流石晴やかに笑った。

冥想に日を送って居た碩学ケ博士語る

「私は本当の日独戦争とは思って居なかった」

  講和条約御批准の報を齎して、横浜露国領事館に冥想の日を送りつつある元帝大教授

 ケーベル博士を訪れる。頭髪や顎髯は雪の様に真白で、聖者の様に静かに語る。「私は、

 今度の戦争は本当の意味の日独戦争とは見て居らぬ。従って、自分は日本に対して持っ

 て居った厚意は、従前と少しも変らぬ。然し、御批准は喜ばしいことだ。自分は、英国

 流のデモクラシーには反対で、寧ろ高き意味のアリストクラシーを保持して居る。然も、

 君主政治にも多くの希望と期待とを持って居るものである」と。後の思想界を説き、博

 士の眼からは段々熱情が溢れ出した。博士は、来年26年振で故国に帰り、其の余生を

 送る筈だと云う。

                        写真:批准と聞いて喜ぶケーベル博士

通商禁止令が先ず消滅する

 在留敵国人の分布数/川村警保局長の談

 「批准が公布されると同時に、敵国人と云う名称も当然なくなる訳だから、従来敵国人

 扱いであった独逸、墺地利・匈牙利、土耳其、羅馬尼の4国民に対する取締も自然必要

 がなくなって来る。然し、敵国人の財産は、批准が交換されたからとて、条約の明文上、

 我国民の敵国人の為めに受た損害の程度が如何であるか精算が済むまで、矢張管理する

 事になるが、対敵通商禁止令は当然廃止消滅することになる。現在日本に留まって居る

 敵国人は、独逸人が645人、墺匈国人が57人、土耳古人が9人、羅馬尼人が6名で、

 独逸人は神奈川県に270人、兵庫県に179人、東京に84人居る。此等の在留敵国

 人も、之れからは他の英米仏伊其他の連合各国民と同様に、戦前修交の際通りに、大手

 を振って自由に歩ける事になる。

  次に捕虜は、全部で4351人で、内1人は青島に在住し、他は最も多く居る所は習

 志野に832人、久留米に1082人で、内、将校・准士官は212人、下士卒は38

 15人であるが、是等は批准公布の後、相当手続きを済まして、順次帰国せしむること

 になるだろう」

独商人蘇生の思い

 5年目に漸く門前の草取り

 ◇今まで売掛金で命繋ぎ

  喜ぶのは日独貿易に関係あるものだ。開戦以来殆んど門前雀羅を張って居た独人商店

 も、昨今漸く門口の草をむしるという始末。殊に本邦に於ける独逸商館中最も取引多方

 面なるシーメンス・シュッケルト会社は、開戦以来本業たる電気機械の営業は中止され

 た為め、築地の本社の如き、社員の大多数は解傭し、会社存続上必要の椅子にある人の

 み10数名居残って、東京支店長ドレンクハーン氏を助けて、政府の許可を得、習志野

 なる俘虜に供給す可き金品の取扱のみを其日の仕事として居た処、時節到来、遂に喜ぶ

 可き日を迎えた。同社は過去5年間、従来の取引先きの売掛代金やら其他で居喰いして

 居たのだという。横浜在住独逸人イリス、アーレンス、オット・ライメース商会等は、

 雇人を狩集めて開店準備を整えて、取引禁止解除の命令あり次第、猛烈に活動を開始す

 る許りになって居る。又、山下町海岸の独逸領事館、山手町の独逸合呼応、山手の独逸

 倶楽部等の大建物は、昨今綺麗になって居る。又、戦前横浜在住の独逸人は500人を

 算して居たが、現在では280名余で半減して居る。

独逸の俘虜2名、日本で資本家を求む

 =独逸式の機械の製造をしたいという

  5ケ年間を日本に暮した独墺の俘虜達も、近く平和の確立と共に自由の身となる事が

 出来る。左記2名は、親しく我国工業の経営状態を視て、大に改善の余地あるものとな

 し、日本に留まりて独逸式の模範工場を設立せんものと、目下切りに之れが出資者を求

 めつつありという。若し資本家にして有利に使用して見たいと思う人は、名古屋俘虜収

 容所に就て問合するがよいという。

技師エルンスト・ハーフェルス(28) (1)機械及発動機建造技師の資格

を得、「アーヘン」に於ける「ユンケル」博士試験所の設計技師として勤務。

特に英・仏語を良くす。

技師カール・ワイス(36) 高等工業学校を卒業、「マンハイム」市ハインリ

 ヒランツ機械製造会社に技師となり、主として蒸汽機械の建造、殊に「レ

 ンツ」式ベンケル操転機附「ランツ」式最新式高熱蒸汽機関及農業用諸機

 械        の建造に従事。

 

大正8年11月7日(金)東京日日(房総版)

俘虜解放 12日頃か

 瑞西公使へ引渡し

  目下習志野原の独逸俘虜収容所に在る俘虜は、ワルデック総督以下831名なるが、

 来る12日頃、愈、瑞西公使サリユ氏の手に引渡さるることに内定せり。尚、同地に警

 戒の為出張し居し、千葉署の吉野警部補以下26名の警官は、俘虜の引渡と同時、全部

 同所引払の予定なりと。

 

大正8年11月28日(金)東京日日(房総版)

俘虜解放

 30日に9名

  習志野に収容中のユーゴースラヴ国俘虜9名は、来る30日解放の予定なるが、便船

 其の他準備の為め、俘虜造船中監アンスハルトマン外1名は、27日朝出発、神戸に向

 えり。

 

大正8年11月30日(日)東京日日

独逸俘虜東大へ

 経済学部の技師に招聘

          商業数学のベルリーネル氏

  日本に居る独逸俘虜の中、在留の者は夫々就職を求めているが、習志野にいるドクト

 ル・ベルリーネル氏は、東大経済学部で商業数学の教師として招聘するに議一決し、同

 氏に交渉したる処、氏は既に内諾したが、一応帰国の希望あり、正式の就任は其後にな

 るやも知れず、と。ベ氏は独逸の大学で商業数学を専攻し、戦前東大の招きにより、旧

 法科大学商科の教師となったが、就任1ケ年にして召集され、青島に籠城して俘虜とな

 ったので、其明晰な頭脳と商業用書類の整理の正確なことについては他に比類なく、東

 大に於ては、俘虜となって後も、特に其講義のため出張を申込んだのであるが、陸軍省

 が許さなかったので、己むを得ず解放を待つことになったのである、と。

 

大正8年12月12日(金)東京日日

旅費がなくて帰れぬ不憫な4000人の俘虜

 仲に入った瑞西公使が、日米信託に200万円の借金を頼んだが、捗らぬ

 在露の23万も見殺か

  東京駐在瑞西公使が、最近日米信託会社に100万円乃至200万円の借財を申込ん

 だ。是は、我国に収容されて居る独墺俘虜の帰国旅費としてであるが、交渉は今日まだ

 捗ってない。

  扠も不運なのは独墺の俘虜である。我が国内地にありし4300名は、講和条約の批

 准書が巴里に発送せられたのを聞いて、躍らん許りに勇み立ち、其中109名は既に帰

 国の途に就き、習志野、板東、似島、久留米各収容所に残る4200名も、各土産物等

 の仕度に余念なかった時、突如講和条約附属議定書の調印拒絶の為め、連合国は俘虜放

 還の無期延期を声明した。其上、仮令明日が日、独逸が議定書に調印したとしても、帰

 るべき金を寄越してない。是より先、独逸政府は、俘虜中特殊の技能ある者を永く東洋

 に止まらしむる不利を思い、帰国を一日も早からしむべく、前記瑞西公使に依頼して来

 たが、扠て送返すべき金がない。世上、或は独逸が100万円或は240万円を旅費に

 送ったと伝えて居るが、其実、纏まった金は来て居なかった。是には国際為替の関係も

 あり、又、独逸に金が無いのにも依るらしく、一方逓信省で俘虜送還船として斡旋した

 川崎造船の喜福丸、豊福丸、郵船の富山丸、大阪商船のひまらや丸等の準備は殆ど整う

 て居るが、肝腎の旅費に750万円を要することとて、仮令端金があっても役には立た

 ぬ。夫に、俘虜個人とて故国の財産は政府の管理下に在るから、今は無いも同様、旅費

 の調達等思いも寄らず、瑞西公使は困り抜いた揚句、自ら保証に立て日米信託に申込ん

 だのである。日米信託とて、条件さえ確りして居れば相談に乗るを厭わぬが、保証程度

 も判明せず、第一借用金額さえハッキリして居ぬので、確たる条件を出されたいと望み、

 公使から改めて具体案を提出すべき場合になって居る。

  一方、同じ俘虜問題で、突如独政府から我外務省に宛て、在西伯利の俘虜全部23万

 を日本政府で管理して頂きたいと、懇望的の公文を寄越したこそ意外、よく調べて見る

 と、是は同俘虜の大部分の凍死、餓死の運命に在る時、独り我国に居る俘虜が懸絶せる

 優遇を受けて居るので、彼等は感激の余り、日本の仁慈を写真として本国に送致したが

 ためである。我外務省とて其実情を聞くに付け、不憫は不憫であるが、全部が連合国名

 儀で管理されて居るので、一応拒絶した処、更に最近折返しての懇望があった。併し、

 情に於て忍びざるも、矢張拒絶の外はないだろうと云う。

 

大正8年12月14日( )東京日日

独逸が待焦るる日本の食糧品

 馬克が下落して貿易困難

   戦時中の有益な種々の発明を日独共同でやるのは今が好機

  日独の取引が自由になってから既に我商船は4、5隻、貨物を満載して入独している

 が、目下の所、馬克が下落している為、可成り取引は難かしい状態に在る。横田外務通

 商第二課長は語る。「今迄に入独した船は、生活必需品ばかりを積んで行ったので、却

 って途中の支那、印度で積んだ貨物の方が多い。何れにもせよ馬克が4分の1に下って

 いるので、独逸としては輸入が苦しいばかりでなく、都合のよい輸出の方まで材料が少

 い為に、通商は余程困難である。此夏頃、時計や玩具が少数、倫敦や紐育に現われて一

 寸驚かされたもので、戦前の製品や新造品かと喧しい取沙汰までした位である。兎に角、

 一方には輸出を止めつつあるという説もあって、現在同国の商品の有無は判然しない」。

  又た、事情に精通せる某貿易商会社員の談に依れば、「戦前40銭した1馬克が、通

 商自由となった当時10銭に下落し、昨今4銭と更に落ちているように、為替が甚だし

 く動くのと、国内に金がないのとで、取引が危険である。独逸政府から直接取引の問合

 せなどにも接するが、今の場合、安全を期すれば、自然商品が高くなって取引は可成り

 激しい。今迄入独した貨物は全部食糧品で、鮭、鱒類の鑵詰、豆類、植物性油(バター

 代用)、雑穀類であるが、日本商人は多く将来を見込んで、是等の品物を見本的に少数

 宛送っている状態で、東洋方面で可成大きな取引をしたのは和蘭人の手に依って行われ

 たもので、今迄入独した日本船は皆夫である。要するに、現在では冬季石炭欠乏から起

 る暴動の予想などで物々交換より外はないが、報償契約で、肥料其他の化学工業品は既

 に英仏に取られているので良いものが残って居らぬ所が、戦時中必要に迫られて発明し

 た数々の中で、今日でも尚立派な有益な、経済的に引合う発明が少くないので、彼は之

 等を我国に売ろうとしている。殊に、我国に対しては好感を以ている時であるから、日

 独共同で製造工業を起すに最好の時機ではないかと思う」云々。

 

大正8年12月23日( )東京日日

自由の身となる俘虜600名

 明後日習志野を出発

  ワルデック総督は、全員の帰国を見届けてから還る

  習志野に収容中のワルデック総督以下800名の独墺の俘虜は、平和克復して釈放と

 なり、去る20日、将校・下士31名の先発隊を始めに、残余の777名中約600名

 は、愈基督生誕祭の25日午後1時35分の特別列車(ボギー車10輌、荷車2輌)で

 津田沼駅を出発し、神戸及門司に急行してハドソン丸、喜福丸、ヒマラヤ丸等に分乗し、

 本国へ帰る事となったが、残りの100余名も来年1月中には何れも帰国する。

  又、吾国に居残って職に就く者もある。昨日同収容所に、独逸の経済学者エフ・エム・

 ダック及ユーベルシャール博士の両氏を訪ねた。両氏とも5ケ年間、俘虜の教育に努め

 て、所謂習志野大学の教授であった。ダック氏は語る。「回想すれば、俘虜生活の5ケ

 年も、実に夢の様だ。やがて私は去るに臨んで、貴紙を通じ貴国民から受けた無限の好

 意と親切に対して、深く感謝の意を表する。私達は生活難の喧しい故郷へ帰って、生存

 競争の渦中に身を投ずることに非常な不安を抱いて居るが、帰国後は新独逸の建設に力

 を尽したいと思う」

  尚ユーベルシャール氏は、戦前大阪医科大学に教鞭を取って居たのであるが、再び医

 科大学に帰ると言う。因にワルデック総督は、最後迄収容所に残り、全員の帰国を見届

 け、総督としての任務を果した上、帰国の途に就く筈である。

                写真:釈放の日を待ちこがれて

             習志野大学教授と呼ばるる経済学者エフ・エム・バック氏(右)と

                 ユーベルシャール博士(左) =習志野収容所にて

 

大正8年12月24日( )東京日日

解放された俘虜が松方侯邸の書記

 名古屋の2名──月俸400円

  ケッシン中佐以下230名、明25日解放さる

  名古屋俘虜収容所のケッシンゲル中佐以下独逸俘虜230名の将校・下士卒は、25

 日午前5時57分名古屋発列車にて出発、26日神戸出帆の豊福丸に乗船し、准士官1

 9名は28日出発門司出帆のヒマラヤ丸に乗船、何れも母国に向う事となりたるが、ケ

 ッシンゲル中佐は1月上旬、単身上海に渡航し同地に滞在せる家族を取纏め帰国すべく、

 前陸相大島将軍が独逸留学中、同連隊にありたるレオンハルト・アール大尉は、解放と

 同時に上京、大島将軍を訪問、旧情を叙しこれ又単身帰国する予定にて、今回解放に漏

 れたる170名の将卒は、明春1月中旬名古屋出発の事となるべく、而して残留希望者

 30名中、ヤンソン、デッカーの両名は、月俸400円にて松方侯爵家の書記に雇わる

 る契約成立せり。因に、俘虜一同は帰国に際し、書籍400冊と図書館に飼養し居たる

 家禽10数羽を動物園に寄贈し、曽て独逸に留学せる山崎医専校長外20余名は、23

 日午後収容所に赴き、俘虜一同を慰問し、金200円を寄贈せり(23日、名古屋電話)。

在西伯利の俘虜を代表してヨハヌ大尉の感謝

 本紙所載の西伯利俘虜救護会創設の記事を見て

  西伯利派遣軍にて=大竹生

  去月31日及本月1日の本紙及大阪毎日の所載の西伯利俘虜救護会創設の記事は、在

 西伯利の俘虜をして再生の歓喜を漲らした。堅い雪と氷が凍らせている日曜日の朝、墺

 国俘虜の重砲兵大尉フランシス・ヨハヌ君が自分を訪ねて来て、本紙所載の該記事に就

 て「私は、日本に対してお礼の言葉を知りません」と感激にふるえた声で言った。手に

 は、記事の載っている当日の本紙を持っていた。

  ヨハヌ君は日本軍の手に移され、浦塩郊外の一番河収容所に生活し出してから半年余

 りを、日本語の研究に没頭して、自分の後半生は日本の研究、日本に対する尊敬の為に

 捧げたい、と云て、小学読本は既に読み終り、神道と仏教書の研究をしている。彼は、

 談話の力は乏しいが、漢字を読み又書く事は、外国人としては驚くべきものがある。彼

 は、日本文の一書を予に渡した。書かれてある要点は、1915年西伯利に送られた俘

 虜の総数は90万人であったが、其内40万人は死亡した、其多くは革命後給与の欠乏

 と飢寒の為め病死し、或は伝染病に罹り防疫設備が無い為に斃れたのである。現在露国

 の俘虜一日の給与は、1留90哥(日貨1銭5厘に足りず)、彼等は餓死を免れる為に、

 病人と狂者とだけを収容所に残して、奴隷の如く働いている。彼等の最も不満にて、又

 最も悲みとする所は、巴里の最高会議が、西伯利に於る俘虜中、チェッヒ、波蘭、ユゴ

 ースラブ、小露等の諸民族が全部帰還してから、独墺勃土の俘虜を帰す、と云う一事で

 ある。彼等は何故に、平和克復の後迄、永い時間を西伯利の飢寒と戦わねばならぬかと、

 切に訴えている。

▲日本軍管下の俘虜の幸福

  墺国重砲兵大尉の感謝

  左の一文は、ヨハヌ大尉が日本文で認め、本紙及大阪毎日新聞を通じて西伯利俘虜の

 苦境を訴え、且、自分は日本軍管下にある俘虜となって幸福である事を感謝したいと附

 言したものである。

 ──俘虜将校として大日本軍の管下に居る私は、12月1日の大阪毎日新聞にて、西伯

  利俘虜救護会に就ける記事が、何よりも大賀喜で御座ります。「世界中にて、西伯利

  俘虜をもう忘れ捨てしまったに違いない」と思っていた私共は、其記事を拝読致した

  後、更に気が直り、「万一懐かしい邦国へ帰ろうかも知れない」と心底にて思いなが

  ら、其救護会の発起人の仁慈を感謝しました。去年の12月以来、大日本軍の管下に

  居て、私共は其後、飢饉と種々の体上の難儀を免る事を得、真に懇切の待遇を戴き乍

  ら、復人間の如き生活を致す事も得ました。一生涯、如何に此の大恩を忘れる事が出

  来ましょうか。大日本軍に於ける俘虜生活に就ては、将校が1ケ月48円の給与を受

  け、兵士は1ケ月15円の値のある食物を受けて居るので御座ります。兵士に、其上

  衣服と靴とシャツ等も戴きました(中略)。私共は、懐かしい父母妻子、兄弟等を思

  い出すと、言うに言われぬ悲しい心持が致します。我国には乱雑と飢饉と炭難と、色

  々の難儀があります(中略)。「平和が克復しても、何故帰国するを得ないか、何故西

  伯利中にて幾万の父、夫、子が餓死、病死すべきか、何故故郷で幾十万の妻子等が養

  い人無しに露命を繋ぐべきか」と云う問を、私共が終日終夜、幾度となく思案致して

  居ります(中略)。露軍管下の俘虜に、現世の地獄(大毎の記事中、此の文字あり)

  で御座います西伯利俘虜を救助するには、1日も早く帰国させる事が、一番目的を達

  します。慈善金を贈って、死手から俘虜を救う事は、急迫の必要です。日本人が俘虜

  救護会を創設する事は、洵に模範的の事業であります。死の手から救った俘虜を、精

  神上の手から救って下されば、私共の唯一の慰藉でござります(下略。原文の侭。)

                                     フライシュス・ヨハヌ

                                        墺国重砲兵大尉

 

大正8年12月26日( )東京日日

習志野の俘虜、喜んで故国へ

 昨朝2隊に分れて出発/神戸から乗船帰国す

  ワルデック総督は明春

  習志野原に5ケ年と云う永い月日を暮した独墺の俘虜達は、愈25日午後1時25分

 津田沼駅発の軍用列車で、懐しい故国に帰る事になった。一同の喜悦、言わん方なく、

 朝食後、収容所長山崎少将も、此日帰国されるフォンション海軍大佐以下621名を一

 堂に集め、日本は正義人道を守って諸君に始終した、然し諸君が不満足の点もあったか

 も知れぬが、これは流して貰いたい、と簡単の挨拶が済むと、俘虜一同を代表し、フォ

 ンション大佐が「言尽くせぬ優遇を、本国に帰って宣伝すべし」と答辞を述べ、10時

 習志野を後に、思い思いの服装にいろいろな荷物を拵え、千姿万態、指揮官安部少佐に

 引率され、泥濘の道を徒歩で津田沼駅に向った。

  同駅に於て、一行中29貫と云う巨躯の所有者で、青島に於て勇名を轟かしたクーロ

 ー陸軍中佐は、収容所附今野軍医を介し「5年間、貴国の人々に、手厚い待遇を受けま

 した。帰ると決ったら、急に本国が恋しくなりました。貴紙を通じて、宜しく貴国民に

 謝意を表したい」と。

  尚、621名中72名の先発隊は、同日午前7時31分津田沼駅発普通列車で三宮に

 向い、フォンション大佐以下549名は、午後1時25分発の軍用列車(客車11輌、

 貨車3輌)に分乗、手荷物を積載し、亀戸、赤羽を経て神戸に急行し、喜福丸に乗船、

 帰国する筈だ。而して、残留のワルデック総督以下150名は、来春1月中旬頃帰国の

 予定である。

  此日、津田沼駅附近沿道は、俘虜見物の人たちで賑った(25日、津田沼電話)。

                        写真:放たれし歓喜 俘虜君亀戸駅を過ぐ

 

大正8年12月27日( )東京日日

○帰国の俘虜、汽車から墜落

 京都駅附近で

  名古屋俘虜収容所の独逸俘虜300余名は、今回解放され、25日名古屋を発し、臨

 時列車にて神戸に向う途中、26日午後3時30分頃、京都向町両駅間に於て列車進行

 中、砲兵一等卒某は誤って線路上に墜落、頭部に打撲傷を負い、右手頚を切断され苦悶

 中を通行人に発見され、直に手当の上、伏見憲兵隊の手に保護されつつ、他の列車にて

 神戸に向えり(26日、京都電話)。

○俘虜神戸出帆

 940余名、豊富丸にて

  板東収容所の俘虜クレマン少佐以下、歩兵将校・准士官48名、下士卒515名は、

 第18共同丸にて26日朝、神戸に着し、第4突堤に上陸、神戸に滞在中の俘虜311

 名と共に総員944名は、輸送指揮官高木大佐の点検を受け、板東収容所長松井大佐よ

 り独逸宣教師ケストネルト氏に引渡されて、豊富丸に便乗、午後2時出帆、帰国の途に

 向いたり。尚、青野ケ原、久留米、似ノ島、習志野俘虜合計950名は、宮森中佐指揮

 の下に、27日午前8時迄に神戸に着し、喜福丸に乗船する筈(26日、神戸電話)。

 

大正8年12月28日( )東京日日

○久留米の俘虜

  久留米収容所の俘虜中97名は、26日釈放、神戸へ輸送。又、816名は27日夜

 9時釈放、門司に輸送せり(27日、久留米電報)。

同日(房総版)

俘虜帰る

 昨日将校9名

  習志野俘虜222名は、25日帰国せるが、尚残留俘虜中、将校9名は、26日午後

 5時38分津田沼駅発列車にて、帰国の途に就けり。

 

大正8年12月31日( )東京日日

○似島俘虜出帆

 愈本日門司発

  27日出発の予定なりし似島解放俘虜、将校・下士卒47名は、ヒマラヤ丸艤装遅延

 の為、30日午後似島発、同夜11時広島より下関に向えるが、31日門司出帆、母国

 に直行帰国すべし(30日、広島電話)。

 

大正9年1月23日( )東京日日

駐日独大使決す

 前外務大臣ゾルフ博士 20日発倫敦特電

  ゾルフ博士(前植民大臣及外務大臣)は、東京駐剳独逸大使に任命せられたり。

▲独国危機の際の立役者

  ゾルフ博士は、休戦講和の為に出来たマキシミリアン内閣の一員で、一昨年10月、

 米大統領の講和覚書に対して、独逸政府はゾルフの名に於て回答をしているを見ても、

 独逸の危機にあたって如何に重要な役目を演じたかを知る事が出来る。彼は、国民の為

 の国家であると云う信念から、独逸憲法組織の大改革を断行し、遂にカイゼルを退位さ

 せた当の役者の一人で、今年58歳。伯林及びエール両大学で言語学を、伯林大学のゼ

 ミナールで東洋語を、イエーナ大学で法律を研究した。サモアの知事を振り出しに官海

 に閲歴のある人である。今度、駐日英国大使となったエリオット氏と共に、東洋語に通

 じて居るのは面白い一致である。

                        写真:駐日独大使に任命されしゾルフ博士

 

大正9年1月25日(日)東京日日(房総版)

俘虜皆帰る

 ワ総督以下100余名

  習志野俘虜収容所にあるワルデック総督以下100余名は、近日中に解放、任意帰国

 する筈なるが、之が取締の為め、予て出張中なりし清水巡査部長以下20余名は、近く

 千葉署に引揚ぐべしと。

 

大正9年1月27日(火)東京日日

自由を得てワルデック総督

 =昨日、習志野を去る=

 山崎少将の訣別の辞に、ワ総督の感謝の言葉

  昨日の習志野俘虜収容所にては、大小の荷物は事務所前の広場に山と積まれている。

 所長山崎少将以下所員一同は、今日の俘虜受領者たる独逸委員、宣教師シュレダー氏の

 来着を待つ。午前7時、カーラー中尉以下5名の将校、並に54名の下士以下は、当直

 将校岩崎中尉に引率され、手に行李、トランク、バスケットと、中にはラケット又はヴ

 ァイオリン等の如き娯楽器までを携え、徒歩津田沼駅に向い、夫れより汽車にて両国、

 東京を経て、神戸に送られた。神戸で独逸委員の手に引渡し、本日午後解放の手筈であ

 る。俘虜は帰国する者もあるが、大部分は蘭領印度に向う由。

  午前9時、独逸委員シュレダー氏はシルクハットで来る。門衛の案内で、新設された

 事務所内の応接間に通され、所長山崎少将と会見。厳かに受領の式を済まし、愈午前1

 0時、ワルデック総督以下将校16名並に下士以下24名の俘虜は、事務所前の広場に

 集り、山崎所長より「俘虜として5年間は、随分永かった事で、定めて不自由であった

 だろう。其の間よく忍耐して押し通された事は感じ入る。諸氏は健康で今日の解放の時

 が来た事は、同慶に堪えない。願わくは、長途の旅の、恙なくあらん事を」と挨拶をな

 し、次いでワルデック総督は「永い間、所長閣下並に部下の方々から、望外の親切を忝

 なうし、茲に今日自由の身となる事を感謝します」と簡単なる答辞をなし、最後に受領

 委員シュレダー氏は「諸氏が今日解放されたる事は、大なる自由である。自由は人間の

 必要条件である。諸氏は今日迄その自由を束縛せられて居た。サテいよいよ自由となっ

 た以上は、新しい勢力を以て本国の為めに尽されん事を望む」と、茲に一同万歳を三唱

 し、ワルデック総督始め一同、2里の道を同じく徒歩にて津田沼駅に至り、午前11時

 15分同駅発にて両国駅に向い、東京に留まるあり、横浜に向かうものあり、斯くして

 一同は、最後の自由者となれり。

                写真:5年の幽囚より放たれて

            習志野収容所を出づるワルデック総督(左)とザクセル大佐(右)

                            ──昨日同所門前にて撮影

車中、総督と語る

 故郷に妻子が待つ=感慨深き面持して

  記者はワルデック総督と、両国行列車中に語る。此の日、総督は茶色の中折帽子に紺

 の背広服、天鷲絨の襟を取れる黒のオーバーと云う扮装なり。「最後の署名を」と望め

 ば、総督は、今日自由の喜ぶ様ありありと面に現わし、「よし来た」とばかりに記者の

 名刺の裏面に「マイエル・ワルデック」と、いと軽々と署名する。「是れから直ぐ故国

 にお帰りですか」と問えば、「暫く横浜に滞在して、来月(2月)の下旬頃帰国する。

 故郷には妻子が帰って待って居る。定めて今日の日を喜び、予の帰国を指折り数えて待

 って居るでしょう」と、故山懐かしき面持ちである。健康を問えば、「お蔭で達者です。

 所長閣下(山崎少将を指す)には随分お世話になりました。貴下(記者)からも宜しく」

 と感謝の眼を輝かす。両国駅に着くと自動車を駆って、驀地に東京駅ホテルへ──。                 写真:ワルデック総督の自署

 

大正9年3月17日(水)東京日日

ワ総督神戸へ

 昨朝東京駅発

  曩に習志野俘虜収容所より釈放せられたる前青島総督ワルデック中将は、16日午前

 8時30分東京駅発汽車にて西下したるが、来21日神戸解纜の南海丸にて帰国する予

 定なりと云う。