ドイツによる青島建設、日独戦争、俘虜収容所と
俘虜の活動及び俘虜研究等に関する年表
 
 
 (瀬戸武彦作成)
 
 
1897年(明治30年)
111日 山東省曹州府鉅野県の張家荘で、ドイツ人宣教師二名殺害される。
1114日 ドイツ東アジア艦隊(司令官ディーデリヒス海軍中将)の艦船三隻が青島沖に現れ、青島を無血占領する。(当時の青島は、戸数約400の漁村で、駐屯する清国守備兵は約2000名といわれる。)
 
1898年(明治31年)
 126日 青島に郵便取扱所を開設する。
36日 独清条約締結(青島周辺並びに膠州湾一帯551平方キロを99ヵ年租借、青島・済南間の鉄道敷設権、鉄道沿線の鉱山採掘権等を取得)。膠州湾租借地を海軍省直轄として、総督(海軍大佐)を置く。
416日 ローゼンダール海軍大佐、初代膠州総督に就任する。
531日 「林業に関する総督府告示」が交付され、青島及びその周辺で植林が開始される。
617日 青島の守備軍として、海軍歩兵第3大隊と海軍膠州派遣砲兵隊が配置される(後にその陣容は、部隊名の改称も伴うが、第3海兵大隊(本隊、歩兵4中隊、騎兵1中隊、機関銃隊の計1180名)、海軍砲兵中隊(100名)、海軍工兵中隊(120名)、海軍膠州砲兵隊(本隊並びに4中隊;450名)の陣容となる)。
この年、青島市街ディーデリヒス山の中腹に、青島占領を記念する巨大な記念碑が築造される。
 92日 総督府、「膠州土地法」を制定し、土地の騰貴を抑制する。
1011日 青島市街建設の最終的な青写真完成して、市街建設に着手する。
 
1899年(明治32年)
 417日 独清間で膠海関(税関所)設置の協約が結ばれる。
512日 宣教師にして中国学者リヒャルト・ヴィルヘルム、青島に着任する。
61日 山東鉄道会社設立される。
928日 山東鉄道(青島・済南間430キロ)の建設に着手する。
秋    台東鎮(中国人街;青島中心部から3.5キロ北東、400×400mの碁盤目状の町)が完成する。
1010日 山東鉱山会社設立される。
     この年、ヴィルヘルム皇帝海岸通に、豪華にして瀟洒なプリンツ・ハインリヒ・ホテル完成して開業する。
 
1900年(明治33年)
この年から翌年にかけて特に高密(青島から107キロ北西)周辺で、義和団や農民による鉄道建設工事およびドイツ軍への襲撃が頻繁になる。
 
1901年(明治34年)
高橋写真館、青島で開業する。
 夏    中国人の人口増加に伴い、台西鎮(中国人街;青島中心部から約1キロ西)が建設される。
      この年、建造費95万マルクを投じたイルチス兵営(海軍膠州砲兵隊兵営)が、清国の旧東兵営跡に完成する。
 
1902年(明治35年)
スタイル派カトリック天主堂落成し、また300万マルクを投じた総督府衛戍病院が開院する。クルーゼン、東京での内務省・法務省顧問を辞して、膠州高等判事として青島に赴任する。
 
1903年(明治36年)
715日 お雇い医師ベルツ、青島を訪問して約2週間滞在し、膠州高等判事クルーゼンと旧交を温める。
     この年、建造費75万マルクを投じたビスマルク兵営(第3海兵大隊兵営)が完成する。
 
1904年(明治37年)
611日 山東鉄道の開通式が執り行われる。
夏    小川琢治(湯川秀樹の父親、後に京都帝大教授)、博山及び坊子鉱山等山東の地質、化石の調査を行う。
7月   青島麦酒会社が設立される。
 
1906年(明治39年)
6月   建造費85万マルクを投じた青島屠畜場が完成する。 
     この年、建造費85万マルクを要した総督府庁舎が完成する。
 
1907年(明治40年)
2月   三井物産青島出張所が開設される。またこの年に、膠州湾内の港湾設備が完成する
この年、100万マルク(銅製の配水管・造園等周辺部の経費を含めると350万マルク)を投じて二年に亘って建設されていた、総督官邸完成する。この頃までに、青島市街地の主要な建造物、ドイツ人家屋の建設がほぼ完成する。
 
1909年(明治42年)
1025日 青島に独中大学が開校する。
 
1911年(明治44年)
819日 マイアー=ヴァルデック海軍大佐、総督府参謀長から第4代膠州総督に就任する。
秋     辛亥革命起こる
1231日 横浜のドイツ海軍衛戍病院閉鎖される(開院は187861日)。
 
1912年(明治45年;大正元年)
 11日 中華民国成立する。
 
1913年(大正2年)
111日 横浜正金銀行青島出張所が開設される。
1214日 マイアー=ヴァルデック総督、青島訪問を終えて帰国する山本茂陸軍中尉のために、総督官邸で送別の宴を開く。
 
1914年(大正3年)
628日 オーストリア帝国皇太子フランツ・フェルディナント夫妻、ボスニアでセルビアの一青年によって暗殺される。
728 第一次世界大戦勃発する。マイアー=ヴァルデック膠州総督、北京及び天津駐屯の海軍東アジア分遣隊に対して、青島集結の密命を下す。
81日 福島安正陸軍大将、青島にマイアー=ヴァルデック膠州総督を訪問
     する。
82日 福島大将が日本に向けて戻るとただちに、青島に戒厳令が布かれる。
83日 マイアー=ヴァルデック総督、東アジア在住の予備、後備、補充予備に召集令を発する。
815日 日本政府はドイツに対して823日までの回答期限をつけて、膠州湾租借地を中国に無条件で返還するよう最後通牒を発する。
823日 日独国交断絶し、ドイツに宣戦を布告する
824日 オーストリア巡洋艦皇后エリーザベト、日本の勧告に従って武装解除し、乗員は北京及び天津に向かう。
825日 独立第18師団(司令官神尾光臣陸軍中将)及び海軍の3艦隊が山東半島に向けて出撃する。
826日 日本、オーストリア=ハンガリー帝国と戦争状態に入り、巡洋艦皇后エリーザベト日独戦争に加わる
92日 日本軍、山東半島黄海側の港町龍口に上陸する。
99日 青島攻撃の軍事費として、5300万円の臨時軍事費予算案が国会で承認される(大隈内閣)。
912日 山田中央隊(山田良水少将指揮)の騎兵隊、ドイツ騎兵隊と日独戦争での最初の戦闘を交える。
913日 巡洋艦皇后エリーザベト乗員310名、北京及び天津から私服で青島に辿り着き、日独戦争に加わる。
918日 堀内支隊(堀内文次郎少将指揮)約1000名が労山湾王哥庄東方海岸に上陸し、河東峠で独軍と交戦する。また狗塔埠北方の白沙河左岸でも戦闘があり、両軍の指揮官将校が戦死する。
919日 柳樹台(メクレンブルクハウス)で、日独両軍の間に激しい戦闘が行われる。
927日 浮山(ドイツ名ハインリヒ皇子山)山中で日独両軍の間に激しい戦闘が繰り広げられ、独軍将兵60名が捕虜となる。
928日 ヴァルダーゼー高地攻防をめぐって激しい戦闘が繰り広げられる。
102日 四房山高地攻防をめぐって激しい戦闘が繰り広げられ、独軍に25名の戦死者がでる。
106日 久留米俘虜収容所開設される。
109日 俘虜第一陣55名が門司港に到着する。
1012日 日独両軍間の話し合いにより、戦死者埋葬のために12時間の停戦が行われる。
1018日 2等海防艦高千穂(3709トン)、水雷艇S90400トン)の魚雷を受けて沈没。生存者は僅か5名で、艦長始め271名が戦死する。
111日 巡洋艦皇后エリーザベト、膠州湾内に自沈する。
116日 朝6時、プリューショウ海軍中尉、総督の密命を帯びて飛行機で青島を脱出する。
砲艦ヤーグアル、膠州湾内に自沈する。
117日 未明、ビスマルク砲台へ日本軍の総攻撃があり、砲台は自爆する。
マイアー=ヴァルデック総督、日本軍に降伏して青島を明け渡す。
1111日 東京、名古屋、大阪、姫路、丸亀、松山、福岡、熊本に俘虜収容所開設される。青島近郊労山湾の沙子口より、俘虜の日本への移送が始まる。
1118日 青島市街地のドイツ名街路等が日本名に変えられる(例:ヴィルヘルム皇帝海岸通→舞鶴浜、イルチス山→旭山、モルトケ兵営→若鶴兵営)。
1126日 青島(せいとう)守備軍が設置される。神尾光臣中将が独立第18師団長を免ぜられて、青島守備軍司令官に任ぜられる。
123日 静岡、徳島、大分に俘虜収容所開設される。
128日 旗艦シャルンホルストで青島を脱出したドイツ東アジア艦隊司令官シュペー中将、イギリスとのフォークランド沖海戦で戦死する。
1218日 神尾青島守備軍司令官、東京駅(開業式当日の日)に凱旋する。
12月   松山俘虜収容所の山越地区で、俘虜による最初の学習活動としての英語講習会が始まる。
12月末までに、青島から約4400名の独軍俘虜(ドイツ及びオーストリア=ハンガリーの将兵)が日本に移送され、12ヶ所の収容所に収容される。その後も俘虜移送があり、青島からの移送俘虜数は4688となる。その他南洋群島等からの俘虜を合わせて、最終的には4697名が俘虜として収容される。
 
1915年(大正4年)
 14日 青島において、国民軍の軍籍にあった者の一斉捜索・検挙が行われ、90名余が俘虜となる。
4月   徳島俘虜収容所において、俘虜による新聞『徳島新報』(週刊)第1号が発行される(19174月まで発行されたと思われる)。
524日 大谷喜久蔵陸軍中将、第2代青島守備軍司令官に就任する。
69日 熊本俘虜収容所閉鎖され、俘虜は久留米へ移送される。
97日 東京俘虜収容所閉鎖され、習志野俘虜収容所開設される。
920日 姫路俘虜収容所閉鎖され、青野原俘虜収容所開設される。
10月   俘虜情報局より、『俘虜名簿』(大正410月調)発行される。
 
1916年(大正5年)
35日 大阪俘虜収容所で第1回の演劇が上演される。
328日 大阪俘虜収容所で火災発生する。
6月   この月の終わり頃、『大阪収容所新聞』(日刊)発刊される。
719日 松山俘虜収容所で、俘虜による新聞『陣営の火』(週刊)第1が発行される(19177月発行停止になる)。
 91日 東京三宅坂の俘虜情報局が全焼する。
 96日 大日本麦酒、青島麦酒会社を60万円で買収する。
1021日 高松師範学校等の音楽教師の要望により、パウル・エンゲルとシュタインメッツが丸亀高等女学校で器楽の模範演奏をする。
 
1917年(大正6年)
219日 大阪俘虜収容所閉鎖され、似島俘虜収容所開設される。
44日 青島日本中学校が、旧独軍自動車庫の跡に10万円余を投じて落成
   する。
49日 徳島、松山、丸亀の各収容所閉鎖され、板東俘虜収容所開設される。
6月   日本帝国俘虜情報局より、『獨逸及墺洪國俘虜名簿』改訂版発行
   れる。
86日 本郷房太郎陸軍中将、第3代青島守備軍司令官に就任する。
930日 板東俘虜収容所で俘虜による新聞『ディ・バラッケ』(週刊)第1号発行される(最終巻は19199月号)。
1012日 習志野俘虜収容所において、ミリエス、ユーバシャールの共同主催で、「宗教改革400年記念の夕べ」が開催される。
 
1918年(大正7年)
38日 徳島市公会堂で、板東収容所俘虜製作品展覧会が開催される(〜19日)。
412日 福岡俘虜収容所閉鎖。俘虜は閉鎖以前に段階的に青野原、久留米、習志野へ移送される。
61日 板東俘虜収容所内でヘルマン・ハンゼン指揮により、ベートーヴェンの『第九』が演奏される。
79日 久留米俘虜収容所内でカール・フォークト指揮により、ベートーヴェンの『第九』が「合唱」部分を省いて演奏される。
1010日 大島健一陸軍中将、第4代青島守備軍司令官に就任する。
825日 静岡及び大分俘虜収容所閉鎖され、俘虜は習志野へ移送される。
秋    流行性感冒(スペイン風邪)が世界中で猛威を振るい始める(翌年    の春まで)。
1111日 休戦条約締結される。
1213日 青野原収容所俘虜製作品展覧会が開催される(20日にも開催)。
 
1919年(大正8年)
11日 習志野俘虜収容所長の陸軍歩兵大佐侯爵西郷寅太郎(西郷隆盛の嫡男)、スペイン風邪で没する。
3月   広島県物産陳列館(現在の原爆ドーム)で、似島収容所俘虜製作品展覧会(似島独逸俘虜技術工芸品展覧会)が開催される。
528日 由比光衛陸軍中将、第5代青島守備軍司令官に就任する。
622日 愛知県商品陳列館において、名古屋収容所俘虜製作品展覧会が開催される(〜30日)。
628日 ヴェルサイユ講和条約締結により、青島のドイツ国有財産は、日本に譲渡されることになる。
78日 パウル・エンゲル、この日に板東俘虜収容所内で発行された「ビール新聞」に、「自伝」を載せる
723日 習志野俘虜収容所内において、俘虜による大規模なスポーツフェスティヴァルが開催される。
夏    習志野俘虜収容所内で「チャップリン映画」等の上映会が開催される。
123日 久留米高等女学校講堂で女学生達を聴衆として、久留米収容所俘虜によるベートーヴェン『第九』の第2、第3楽章が演奏される。
125日 ヘルトリング男爵指揮(推定)により『第九』の全曲が演奏される。
1225日 この日より翌年の128日にかけて俘虜の本国送還が行われる。
 
1920年(大正9年)
110日 ヴェルサイユ条約発効する。
2月   青島守備軍陸軍参謀部によって「鹵獲(ろかく)書籍及図面目録」作成される(鹵獲書籍・図面の総数は、31393点;内訳:洋書・漢籍合わせて26260冊、図面は5133葉)。
41日 習志野、名古屋、青野原、似島、板東、久留米の各俘虜収容所閉鎖される。またこの日、俳優三船敏郎が、青島随一の写真館を経営する三船秋香を父として青島に生れる。
420日 浦塩派遣軍俘虜委員樫村弘道陸軍中佐(初代久留米俘虜収容所長)の元に、渋沢栄一、藤山雷太等から、独墺洪国等の俘虜救済のための義捐金44613円が届く。
 
1922年(大正11年)
31日 指揮者石丸寛、貿易商を父として青島に生れる(青島中学校19回生)。
125日 ヴェルサイユ講和条約に基づき、山東鉄道、4000万円で中国政府に売却が決定される。
1210日 青島の行政権が中国政府に引き渡され、青島及び済南に日本総領事館設置される。(第5代青島守備軍司令官由比光衛大将をもって、日本軍による青島占領終結する)
 
1923年(大正12年)
11日 この日をもって、山東鉄道が中国政府の所有になる。
 
 
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1955年(昭和30年)
 1113日 日独国交回復を受けて船橋市習志野霊園に、習志野俘虜収容所で没したドイツ兵士30名の慰霊碑除幕式が執り行われる。
 
1959年(昭和34年)
 410日 旧日本軍記録文書がアメリカ政府より返還されて、防衛庁防衛研修所戦史室に収められる。
 
1963年(昭和38年)
 5月    東宝映画「青島要塞爆撃命令」上映される。
 
1972年(昭和47年)
 510日 鳴門市にドイツ館落成する。
 
1976年(昭和51年)
 1118日 鳴門市の板東俘虜収容所跡近くに、ドイツ兵士合同慰霊碑建立される。
 
1989年(平成元年)
 119日 ベルリン日独センターで「フリッツ・ルンプ展」開催される。
 
1990(平成2年)
 320日 鳴門教育大学社会系及び芸術系教育講座から、『「板東俘虜収容所」研究』発行される。
 
1993年(平成5年)
 1013日 鳴門市に新ドイツ館落成する。
 
1997年(平成9年)
 111日 久留米市教育委員会によって、第7回企画展「ドイツ人俘虜と久留米」開催される(〜15日)。
 
1998年(平成10年)
 327日 ベルリンのドイツ歴史博物館において1897年から1914年における中国のドイツ植民地展」が開催される(〜619日)。
 331日 鳴門市から、『ディ・バラッケ』第1巻発行される。
 
1999年(平成11年)
 331日 久留米市教育委員会から『久留米俘虜収容所 19141920』発行される。
 
2000年(平成12年)
 115日 習志野市教育委員会により、習志野市津田沼で特別史料展「ドイツ兵士の見たNARASHINO 1915-1920 習志野俘虜収容所」開催される(〜30日)。
 331日 鳴門市ドイツ館から、『どこにいようと、そこがドイツだ』発行される。
 
2001年(平成13年)
 331日 鳴門市から、『ディ・バラッケ』第2巻発行される。
 53日 鳴門市ドイツ館で、特別企画展「国内のドイツ人収容所」が開催される(〜63日)。
 520日 鳴門市ドイツ館で、パネルディスカッション「国内のドイツ兵俘虜とそれぞれの日独交流」が開催される。
 91日 鳴門市ドイツ館館報「Ruhe(ルーエ やすらぎ)」創刊号発行される。
 98日 丸亀市において、1回「エンゲル祭」開催される。
 1220日 習志野市教育委員会から、『ドイツ兵士の見たニッポン 習志野俘虜収容所19151920』発行される。
 
2002年(平成14年)
 110日 鳴門市ドイツ館館報「Ruhe(ルーエ やすらぎ)」第2号発行される。
 424日 丸亀ドイツ兵俘虜研究会発足する。
525日 旧青野原俘虜収容所の将校宿舎の一部が、農家の納屋として使用され現存している事が判明する。
      鳴門市ドイツ館館報「Ruhe(ルーエ やすらぎ)」第3号発行される。
97日 丸亀市において、第2回「エンゲル祭」開催される。
930日 鳴門市ドイツ館館報「Ruhe(ルーエ やすらぎ)」第4号発行される。
 
2003年(平成15年)
 2月    鳴門市ドイツ館館報「Ruhe(ルーエ やすらぎ)」第5号発行される。
 31日  習志野市教育委員会から、『習志野市史研究3』(ドイツ捕虜収容所特集)発行される。
 315日 鳴門教育大学・鳴門市から、『地域社会における外来文化の受容とその展開』―「板東俘虜収容所」を中心として―発行される。
331日 久留米市教育委員会から、『ドイツ軍兵士と久留米』―久留米俘虜収容所U―発行される。
 49日 インターネット上の研究組織「チンタオ・ドイツ兵俘虜研究会」発足する。
 412日 名古屋日独協会によって、名古屋俘虜収容所跡に「日独友好の碑」が建てられ、ドイツ人墓地(旧陸軍墓地;現平和公園内)において献花慰霊祭が執り行われる。
 6月    鳴門市ドイツ館館報「Ruhe(ルーエ やすらぎ)」第6号発行される。
 1015日 鳴門市ドイツ館館報「Ruhe(ルーエ やすらぎ)」第7号発行される。
 1025日 ドイツ館から、『青島戦ドイツ兵俘虜収容所』研究―創刊号発行される。
 1214日 丸亀市において、第3回「エンゲル祭」開催される。
 1216日 丸亀市において、独日文化交流育英会から寄贈された菩提樹の植樹祭が行われ、丸亀俘虜収容所で没したドイツ兵の墓がある旧陸軍墓地に、苗木二本が植えられた。
 
2004年(平成16年)
 122日 板東俘虜収容所の俘虜によって建設された「ドイツ橋」が、徳島県の県史跡に指定される。
 210日 鳴門市ドイツ館館報「Ruhe(ルーエ やすらぎ)」第8号発行される。
  31日 小野市から、AONOGAHARA捕虜の世界』(『小野市史第三巻 本編V』別冊)発行される。
  515日 大分市で、久留米俘虜収容所俘虜カール・フォークト作曲の作品が、大分ウィンドフィルハーモニーによって90年ぶりに演奏される。
  620日 鳴門市ドイツ館館報「Ruhe(ルーエ やすらぎ)」第9号発行される。
 
 
(本年表作成に当たっては、小阪清行、星昌幸、校條善夫の三氏からご教示を得ました。なお漏れている事項も多々あると思われ、また日付が判明していない部分もあります。ご教示頂ければ幸いです)