ヴィクトーァ・ヴァルツァーと彼の日本人家族
 
墓まで持っていかれた秘密
 
 クッツホーフに住むハンス・ヨアヒム・シュミット氏は奇妙な巡り合わせによって血縁の再会に貢献した。90年以上もの歳月の後、彼は日本とドイツの家族を再会させた。
 
 「ザールブリュッケン新聞」寄稿者、フレディ・ディトゲンからの記事
 
[クッツホーフ] クッツホーフのハンス・ヨアヒム・シュミット氏は、90年ぶりにある家族を再会させたが、そこには悲しくまた謎めいた愛の物語が隠されていた。
 前史。3年前にハンス・ヨアヒム・シュミット氏は、ケラータール郷土史協会のカール・ハインツ・ヤンソン氏と共著で、かつてクッツホーフに住んでいたアンドレアス・マイレンダーの生涯についての本を出版していた。このアンドレアス・マイレンダーという人物は第一次世界大戦勃発の際、中国の膠州湾ドイツ租借地に兵士として滞在していて、そこで日本軍の捕虜になった。この本のための調査に際して、シュミット氏はドイツ兵捕虜のすべての名簿を調べあげた。総勢4700名のドイツ人が日本で捕虜となり、その中にアイフェル高原にあるメッテンドルフ出身のヴィクトーァ・ヴァルツァーも含まれていた。この調査を続けるうちにシュミット氏は、日本の習志野市教育委員会社会教育課に勤める星昌幸氏と知り合いになった。去年の7月にシュミット氏のもとに星氏から一通のEメイルが届いた。その中で星氏はおもしろいエピソードについて語っていた。すなわち、習志野在住のミツイ・ユージ氏が習志野市役所に星氏を訪ねてきて、「私の母親ウメの前夫がヴィクトーァ・ヴァルツァーと言う名前のドイツ人だった」と言ったというのである。
 ウメとヴィクトーァ・ヴァルツァーの間には二人の娘がいた。トキコ(1911年生まれ)とテルコ(1913年生まれ)である。その後ヴァルツァーは大阪の収容所に収容された。
 

一口メモ

 ハンス・ヨアヒム・シュミット氏、59歳。
  妻ガビー・アンドレ・シュミットさんおよび二人の娘さんと一緒にクッ
  ツホーフに在住。彼はカール・ハインツ・ヤンソン氏と一緒に『クッツ
  ホーフから中国・日本へ――アンドレアス・マイレンダーの1912年
  から1920年までの苦難の旅』を書いた。その際の調査から、当時ザ
  ール地方からは約70名の男性がチンタオに居住いたことが判明した。
  彼のホームページ(www.tingtau.info)のために、シュミット氏はこれに
  関するさらなる情報を求めている。

 
 
 ウメへの接触が途絶える
 
 大阪の収容所からはヴァルツァーは、娘たちと一緒に長崎に住んでいたウメと手紙の遣り取りをしている。しかし1917年に似ノ島に移された後、ヴァルツァーからウメへの連絡は途絶えた。ヴァルツァーは1919年末に収容所から解放された。彼は、理由は不可解であるが、日本の家族に連絡することなく、戦友たちと一緒にドイツへ帰ってしまう。ヴァルツァーは生きている間、この世の誰一人にも、日本に妻と子供がいることについて話さなかった。ヴィクトーァ・ヴァルツァーは二度と結婚することなく、1956年に84歳で死んだ。彼は自分の秘密を墓の中まで持って行ってしまった。この時点でウメはすでに亡くなっていた。彼女は1937年に47歳で亡くなっている。ウメは長い間ヴィクトーァ・ヴァルツァーのことで悲嘆に暮れていた。彼を見つけ出そうとした苦労も徒労に終わった。そして1924年になってやっと再婚している。相手の名前はシュムタ・コキチ(コーキチ?)といい、彼との間にウメは三人の子供を儲けた。その三人の一人が先のミツイ・ユージ氏である。ウメは自分の娘、テルコとトキコとにはしばしばヴァルツァーについて語っていた。そしてテルコはその話をさらに自分の子供達(*)に語って聞かせていた。それ故、テルコの娘である篠田和絵さんは、自分の祖父の足跡を辿りたいと思ったのである。
 (* 訳注:篠田さんからの情報によれば、テルコの子供は和絵さん一人のみ)
 この思いがハンス・ヨアヒム・シュミット氏のお陰で実現した。シュミット氏は約一年間にわたって、彼女のドイツの血縁を探していた。そして見つけ出すことに成功した。今回篠田和絵さんがその夫のコージさんと一緒にクッツホーフにやって来たが、シュミット氏は二つの家族が会えるように色々世話をした。すなわち彼は篠田さん達のためにドライバーの役を買って出て、彼らと共にメッテンドルフに行き、ヴィクトーァ・ヴァルツァーの墓に詣でた。また彼らと一緒にヴァルツァーの血縁が住むフランケンタールとトリーァにも行った。「全部で650キロ走りました」とシュミットさんは言った。通訳を務めたのはザールラントに住む三人の日本人女性である。サキコ・タケウチ・モールとリョーコ・ヴォイルガルト(*)、そしてもう一人はピュットリンゲン在住のフミコ・テラウチである。
 (* 訳注:篠田さんからの情報によれば、正しくはリューコ「立子」)
 
 驚天動地
 
 日本人の親戚がいたことについて、ドイツ側の反応はどうだったのだろうか?「彼らにとっては驚天動地でしたね」とシュミット氏は語った。ヴィクトーァ・ヴァルツァーは、その姉妹アマーリアの孫にあたるゲルトルート・ギーレンツさんと長い間一緒に住んでいた。ギーレンツさんは彼女の大叔父をいつも「おじいちゃん」と呼んでいた。だから彼女はドイツでヴァルツァーの生涯について一番よく知る人である。その彼女も彼の日本の家族については一度も聞いたことがなかった。「篠田さん一家にとって、彼らが今回ドイツの縁者たちのもとに錨を投げ込んだということは途方もなく重要なことです。そのことによってヴァルツァー家は一気に大家族に成長した訳ですから」、とシュミット氏は語る。両家族は今後も関係を続けていきたいと望んでいる。そしてこの物語は固唾を飲むほどに興味深いものなので、シュミット氏はこのことについて一冊の本を書こうかと考えている。
 
 (写真の下の説明: ヴィクトーァ・ヴァルツァーの日本の子孫達がザールラントにやって来た際、ハンス・ヨアヒム・シュミット氏とその妻ガビー・アンドレ・シュミットさん(右から)は、訪問者達と多くの旅を共にした。)