クリスティアン・フォーゲルフェンガーの日記
 
ディルク・ファン・デア・ラーン、小阪 清行 共訳
 
1915年7月12日
 午後2時に、侯爵・西郷中佐が現れて、日本の皇后の手紙を披露した。この中では、青島で足や腕、あるいは眼を失ったすべてのドイツ兵は、日本政府から代用物を支給される、と通知されていた。これについて、我らのクーロ中佐は皇后に対し、我々全員の心からの感謝を述べ、特に収容所の兵士らへの温情ある取り扱いについて感謝した。
 天津の婦人協会から、今日大量の煙草の寄付を受け取った。我がヤーグアル号の機関兵らは、今日すばらしい噴水を中庭に設置し、それが水車を回している。最近ここでは、古バケツをかまどに仕立直して、とても多くの物を焼いたり煮たりしている。蚤の害は増大しているが、殺虫剤リゾールで床マットを拭き清めているので、空間を換気してどうにか除去できている。今日は、とても暑い一日が終ろうとしている。
 
1915年7月19日
 一日中、敷物と毛布を外で、浴場の上に吊して風に当てた。まったく害虫ばかりで、夜は必要な休息がほとんど取れない。ヴァイオリン弾きたちは、葉巻の木箱から2本目のヴァイオリンを作り出したが、これが実によい音を響かせた。
 
1915年8月1日
 そうこうする間に、3本目と4本目のヴァイオリンが完成した。その上さらに、ギターまで作ろうとしている。ワルシャワの陥落についての朗報がもたらされた。感謝を込めて、再びあの「勝利の冠を賛えよ」の歌が響き渡った。クーロ中佐とヤーグアル号の基金から、ビールを1本ずつもらった。夜9時以降我々がOMD(東亜海軍分遣隊)の居室に行くことを禁止する命令が出された。OMDの連中に対してもこの禁令が出て、彼らも夜9時以降我々の居室に来ることが出来なくなった。あるイギリス人が、新聞にこんな記事を書いていた。この戦争の責任を負う者は、罰当りのドイツ人だけである、と。
 両親から煙草類、飾り文字用のペンとノートの入った小包を受け取った。今日の戦況報道は、青島の戦いについての新聞記事を伝えた。あの時、日本軍の攻囲を通り抜けてツェッペリン飛行船が現われたのだが、このツェッペリンは日本の複葉機に撃ち落とされてしまった、というのだ。
 デュッセルドルフの昔のガール・フレンドTr.STから、今日手紙をもらった。1913年以来初めてだ。また、私物を荷造りするように、との命令を受けた。なぜなら、我々は近日中に別の収容所に移されることになるのだそうだ。
 
1915年9月7日
 我々は早朝4時に起こされた。衣服の袋や木箱の準備は昨日のうちに終えていた。たいていの連中は既に夜中の2時から忙しく働いていた。なぜなら、蚤が夜も休ませてはくれなかったのだ。奴らも今や、別の蚤のサーカスに行こうというのだろうか。3時少し過ぎには、もう前庭に整列している者もいた。ここから我々は、駅へと行進した。通りはまだ静かで、行く角々で警固に出会うだけであった。我々の犬まで、それはあるドイツ人の家族から贈られたものであったが、我々と並んでとことこ歩いている。
 5時頃、我々は列車で駅を離れた。我々には野原しか見えず、遠くには聖なる山・フジが見えた。6時に我々はウキワの駅に着いた。駅前に整列し、それからさらに、野原や草地や小さな村々を歩調をとって行進していった。そこでは住民たちが、小さな奇跡でも見るかのように、我々をじろじろと見ていた。合唱し音楽を奏でながらさらに進み、8時頃には我々の新しい収容所・習志野に到着した。号令一下、我々は日本の兵士たちの万歳に迎えられた。新しい宿舎が指示され、我々はそこに荷物を詰め込んだ。それからまず、我々は収容所中を見て回った。4棟の大きな兵舎が、我々の宿舎だった。収容所全体は、およそ400×250メートルぐらいの広さである。それぞれの部隊に、1棟の兵舎が割り当てられている。将校収容棟は収容所の入口に、歩哨の宿舎と向き合って立っている。居室は、とてもよく整備されている。各人用に私物を入れる戸棚がある。兵舎の中央は土間になっており、テーブルとベンチがいくつか並べられている。この左右に、50センチの高さの木製の床があり、藁布団が敷かれているが、これは我々になくてはならぬもの。藁布団は、日中には5枚ずつ重ねてしまわなければならない。明るい大きな窓があるので、採光は充分だ。兵舎の中央には両側に2つずつ、下士官用の小さな部屋がある。兵舎と兵舎をつなぐ通路にはすべて、屋根がかけられている。各兵舎の左側には、トイレが設けられている。100メートルごとに日本の歩哨が、銃を携えて立っている。収容所全体は2重の鉄条網で取り囲まれ、その間に深さ2メートル・幅2メートルの堀がある。この堀はしかし、雨期のときくらいしか水を貯えることはない。逃亡などあり得ない。厳しい見張りを抜けられるものではないので、自由への道はなお遠い。望むことは、戦争がまもなく終って、久しく離れている故郷を再びこの目で見ることだ。
 
1915年9月8日〜20日
 この間に、高跳び用のスタンドやサッカー・ゴールのポール、平行棒などが作られて設置された。
 海軍砲兵隊の連中も、以前の収容所から我々のもとへ到着した。彼らは何時間も、他の収容所での状況を報告しなければならなかった。我々の収容所は見渡す限り平原なので、今も存在するロシア人捕虜用の古い収容所(1904年〜05年)も見通すことができ、日本の砲兵の演習も観察した。見ていて青島での思い出が、再びよみがえって来た。ここでは、騎兵の演習も実施された。
 
1915年10月5日
 日本の歩兵が、騎兵と交代した。その後の歩兵の演習では、突撃に次ぐ突撃が繰り返された。日本人のバンザイ、バンザイ(hurraの意)という声が、一日中響き渡った。トマト栽培やその他の野菜のために、菜園を作った。OMD(東亜海軍分遣隊)の「にわとりミュラー」は養鶏を始めた。庭には小さなラウベ(あずまや)が、たくさん建てられた。今我々に許されているのは、まさに年金生活者の暮らしそのものである。兵員厨房のコック達は、豚の飼育を始めた。子豚がにわとりと一緒に、鉄条網で囲まれた広い敷地を走り回っている。ひどい雷雨が、収容所を取り囲んでいる堀をほぼ満杯にした。揚水ポンプは全部修理中なので、我々は井戸からバケツで水を汲み上げなければならない。
 
1915年10月24日〜31日
 大雨にもかかわらず、小さな仮の礼拝堂でミサを行なうため、カトリックの神父が訪れた。二人の感じのいい日本の女性が再びやってきていて、ミサのために必要な部屋を整えるのにあたって、ミサの侍者役の我々二名を手伝ってくれた。明日は、プロテスタント信徒のための礼拝が行われる。久留米収容所では日本の歩哨と捕虜の間で大きな乱闘騒ぎがあったとのことで、我々に対する見張りもたいへん厳しくなった。今や歩哨は、着剣した銃剣を持って兵舎の間をひっきりなしに巡回している。
 日本の皇帝から彼の36歳の誕生日の記念に、一人一人にりんご2個とバナナ2本、砂糖とコーヒーが2箱ずつ与えられた。夕方には追加として、各々に小さな容器のコンビーフが与えられた。監視の建物には、たくさんの旗飾りが見える。午後3時頃、強い地震があった。窓はガタガタいい、兵舎もぐらぐら揺れて、市電に乗ってポイントやカーブを通り抜けるときのような感覚だった。これが、習志野での最初の地震だった。これにも徐々に慣れることができるだろう。
 
1915年11月7日
 今日で、極東での捕虜暮らしは1年になる。誰もが、青島戦での最後の数時間について語り合っている。戦死した戦友達のことを思い出す静かな時間が流れた。
 
1915年11月10日
 日本の旗が、再び国中にひるがえった。今日は、ミカド(皇帝)が昔の帝都である京都で戴冠するめでたい日なのだ。この日の祝いに、我々は彼の誕生日のときと同じ物をもらい、昼には鳥肉をのせたご飯が与えられた。3時になると、収容所の衛兵が全員広いサッカー場に将校達と共に整列した。兵士達は銃に着剣し、将校達は整列した兵士達を背にして深々とおじぎをした。ラッパ手は戴冠式の曲を朗々と響かせた。
 
1915年11月13日
 大きな地震の震動で、我々は4時に、夜中の休息の最中に飛び起きた。窓はガチャガチャ鳴って、粉々になった。震動はおよそ10分間も続き、それから再び静かになったが、それも長くは続かなかった。5時に再び、すべての隙間がミシミシ鳴り、窓はガチャガチャ鳴って、眠りの場所はグラグラ揺れた。それはまるで、嵐の沖合で船に乗っているようだった。震動は、午後の5時まで繰り返された。時間がたつにつれて、ますます揺れが激しくなった。もし我々が石造りの家に住んでいたら、この揺れに生き残れはしなかっただろうと思う。
 
1915年11月14日
 今日もまだ、震動は同じ強度のままである。近隣の村からの知らせによると、家の倒壊で子供が5人死亡したそうだ。2、3日前から、日本の羽生中尉の従卒勤務についている。彼は私の仕事振りを見ることによって、ドイツ将校に対する従卒勤務のあり方に通じ、さらに自分のドイツ語能力を完全なものにすることを望んでいる。午後には、あらゆる種類のスポーツ。サッカー、拳球、擲球に徒競走。すべては競技会になっていて、たっぷりの賞品が約束されていた。ビールに煙草類、ジャム入り揚げパン、それにいろいろな種類の果物だ。日本の将校たちが出席しているにもかかわらず、この運動会の最後には、ドイツ皇帝陛下への万歳三唱がわき上がった。
 今、どこでもかしこでも、ヴァイオリンやギターが作られ、瓶の中の船(ボトルシップ)も作られている。なぜならば、もうすぐ自分たちで作った品物の展示会を開こうというのだ。帝国軍艦ヤーグアルの100分の1の模型も、同じく製作中である。これは、ヤーグアルの元艦長への我々からの贈り物にするのである。ボトルシップはたくさん作り上げられて、日本人の来場者に販売される。煙草の箱の銀紙が溶かされ、この素材を使って錨の形をした文鎮が作られている。
 
1915年12月18日
 今や至る所で、クリスマスの準備が始まった。他の収容所で捕虜の将校が脱走したので、ここでも監視が著しく強化された。
 我々の分隊が当番に当たっているので、1週間ジャガ芋の皮むきをしなければならない。その他に、大きな給水塔に毎日、必要な量の水を補給してやらなければならない。一人当り200回、ポンプを押さなければならないのだ。
 
1915年12月23日〜26日
 聖なる夕べ、クリスマスのお祝いが始まった。たくさんのクリスマス・ツリーや緑の葉が、居室を彩った。午後5時に、シュポーア宣教師によってクリスマスの礼拝が行われた。クーロ中佐はスピーチに立ち、全員が愉快なクリスマスを祝うことを望むと述べた。6時には我々の居室で、クリスマス・プレゼントが分配された。ある日本の石鹸工場が、一人一人に石鹸一箱と歯磨粉を寄付してくれた。ビール1本の他に、それぞれ胡桃や果物をたっぷりもらった。私は、特別のプレゼントとして財布と、くじ引きで煙草20本とテニスボールを1個もらった。夜にはポンチと豚の焼肉、ソーセージにソーセージ・スープが出された。将校は、将校だけで集まって祝っていた。
 24日には、朝食にクリスマスのシュトーレンが出された。そのあとで水の汲み上げ。全員が200回ずつ押さなければならなかった。10時にフィッシャー宣教師による礼拝。午後は大音楽会。夜は再び、夜中の12時まで大騒ぎとなった。2か月ぶりに、今日再び故郷からの手紙を受け取った。賄賂を使ってうまくやる奴もいる。ある日本人の若者にお金をやると、喜んで手紙を郵便局に出してきてくれるのだ。夜は、海軍砲兵隊の戦友たちと一緒に祝った。酒保ではビールが、1本残らず売り切れとなった。クリスマスの間だけで、ほぼ3,000リットルが販売された。
 
1915年12月31日
 今日は再び、全員が一番良い服を身に着けた。なぜならば、時がうまく流れてくれるようにと、行く年の最後の日を、もう一度できるだけ盛大に祝おうというのだ。朝の6時までお祝いが続き、最後は再び、我らの皇帝への万歳三唱がわき起こった。合唱協会は、「一年の最後の時」を歌った。こうして我々は、愉快な気分で1916年に突入した。新年に乾杯!!!この年は我々に、何をもたらすのだろうか???
 
1916年1月2日
 早朝4時に、たいへんな空騒ぎ。集合がかかり、衛兵と日本の将校によって厳しい査閲が行われた。一人の予備役下士官が夜陰にまぎれて脱走し、その際に鉄条網に引っかかったまま、警察官に引っ捕らえられたのだ。彼は、「敵襲」というあだ名があった。なぜならば、青島で空襲を受けた時に神経をやられてしまい、いつも「敵が襲って来るぞ」と叫んでいたからだ。数日後、彼は再び、朝の点呼の際に姿を見せなかった。歩哨は彼が、兵舎の屋根の上に座って、手には釣り糸を垂れた竹竿を持ち、その先に古い靴をぶらぶらさせているのを見つけた。日本の中尉はこらえきれずに腹を抱えて笑いだした。こんなことは、いまだかつて経験したことがなかったからだ。処罰は断念された。
 
1916年1月4日
 今日は、新しい冬の衣類が支給された。私は、軍服を一着手に入れた。まったく突然に、水兵中隊のある男が病気になり、高い熱を出して、もう助からないように見えた。クーロ中佐は、医者がカンフル注射を施し最大の危険が過ぎ去るまで、病室を決して立ち去ろうとはしなかった。
 
1916年1月15日
 大掃除をしなければならない。祝日の大騒ぎの後には、いつも必ず必要になる仕事だ。我が友エレは、故郷から再び小包を受け取った。中味は、たくさんの煙草類だった。おかげで我々は、他の連中を「煙に巻く」ことが出来た。
 
1916年1月27日
 皇帝の誕生日。再びお祝いをしなければならない。10時にフィッシャー宣教師による礼拝。朝食にはまず、音楽が演奏された。曲目は「勝利の冠を賛えよ」。クーロ中佐は、気迫に満ちたスピーチを行なった。その後は、いつもの皇帝万歳の三唱だ。
 故郷からのすばらしい便りも受け取った。寝袋をすべて積み上げて、全員で祝うことが出来るようにテーブルを16個並べる場所をつくった。お昼には、ジャガ芋を添えた豚の焼肉とりんご2個が出された。ヤーグアル乗組員全員が、将校も一緒になって一つの部屋に集まっていた。レフラー中尉が、お祝いのスピーチを述べた。それぞれが、ビール2本と煙草を10本受け取った。楽しい音楽も用意されていた。ラスムッセン上等兵曹が、木製模型ヤーグアルと鉄のごとく勇敢な水兵たちについて戦記漫談風に講演を行なった。3人のポナペ島人も、彼らの言葉で歌を歌ってくれた。残念なことに、このお祝いは、鼻血を流す殴り合いで終ってしまった。長い捕虜生活は、意見の相違をも鮮明にさせているようだ。
 
1916年2月8日〜27日
 クレーフェルトの赤十字から、紙巻き、葉巻、刻みなどの煙草が届き、賃金も再び65銭が与えられた。いつものように、たくさんのスポーツが行われた。ユーバーシャール博士が、日本人の目立った特徴、とりわけガニ股で内股であることについて講演を行なった。銀行から、4円50銭を受け取った。私はこの期間、再び病気になった。私の体重は130ポンドから123ポンドに落ち込んだ。インフルエンザがひどく流行り、多くの病人を痛めつけている。二、三の将校は、ラウベを持とうとしている。それで、ゾーリンゲン出身の戦友シェルカンプと私は、コルデス少尉とフォン・ベルンハルディ少尉のために、ラウベ作りを手伝いに行った。ベルンハルディ少尉は「ボレ」の愛称で呼ばれ、フォン・ベルンハルディ将軍の息子なのだ。ラウベの下に、庭の下にまで達する地下室を作った。広さは5×5メートルだ。梁と板で作った天井が、庭を下から支える恰好である。夜9時以降は全員が立ち退かなければならないので、我々は警報装置を取り付けた。庭の囲いは、何本もの節を抜いた竹竿で作られているが、その竹筒が地下室に新鮮な空気を送る通気口になっている。庭の木戸は、紐で地下室と結ばれている。誰かが庭に入ってくると、紐が引っ張られて地下室のウィンカー(木の棒)を下に落し、それで警告が発せられるようになっている。なぜこんな装置を作ったかと言えば、これを作る前に、夜中に地下室で騒ぎ続けていたら、歩哨に邪魔をされたことがあり、彼が翌朝、当直将校とラウベに入って、地下室を捜し出そうとしたことがあったからである。歩哨は、ラウベの中にある床板を銃の台尻で叩いてくまなく捜して回り、地下室への降り口が見つかってしまったと思われた瞬間があった。しかし、彼が見つけたそれは、ラウベに拵えた冷蔵保存庫にすぎなかった。
 気晴らしに、雪合戦や出来る限りのスポーツが行われている。給水塔を、もう一度清掃しなければならなかった。我々はまた、収容所のそばで土木作業にいそしんでいる。日本の兵隊が掘り返した塹壕を、シャベルで埋めるのだ。日給は1人5銭だ。日本の将校は我々の仕事を眺めながら、とてもうまいドイツ語で我々と話し合い、煙草を配ってくれ、イギリス人の悪口を言った。奴らは青島で、常に前線の後ろに隠れて眺めていただけなのだ、と。
 
1916年3月〜4月10日
 時は、毎日変わらず過ぎていく。今日は、羽生中尉が別れを告げた。彼は、以前たとえ短い間であっても彼の下で従卒を勤めた者全員を自分の部屋に呼んで、別れのあいさつをした。彼は、特に気に入っていた我々の内の5人と、記念の写真を撮った。
 
1916年4月11日
 今日は私の誕生日なので、我が戦友ハーゲンが特別な食事を用意して驚かせてくれた。普段の昼食はますます悪くなっていくばかりだというのに。彼はほかの戦友たち、ブレスラウ出身のグレニッツ、デュッセルドルフのエレ、ケーニッヒスベルクのペッヒブレンナー、ゾーリンゲンのクライナーブュッシュカンプをも、このお祝いの焼肉料理に招待した。かれらは贈り物として、20リットルのビール(子豚ちゃん)を持ってきた。大豚ちゃんというのは30リットルの樽のことだ。それは、実に素晴らしいお祝いのごちそうだった。小さなウサギの骨をやろうとして、私は我々の愛犬がいないことに気が付いた。夜になって、焼肉にしたのはイエウサギではなく、我々の愛犬シュトロルヒだったことが明らかになった。最近の食糧事情の悪さによって、これ以上飼うことができなくなっていたのだった。それにも関わらず、それは我々にとってとても美味かった。いずれにしても兵員厨房の食事よりもずっと量のある上等な食事をしたのだ。別の日の朝、我々は厨房から茶をもらうことができなかった。やかんの中でネズミが2匹溺れ死んでいたからである。これを見て日本の主計将校がコック達に言った、「ドイツの兵隊はネズミまで食うのか」と。
 田中という名前の新しい日本の将校が、今日着任した。イースターが迫っている。「隅々まで大掃除」の号令が下された。居室は飾り付けられ、良い服が用意された。
 
1916年4月23日
 イースターの朝食。一人あたま卵2個とケーキが一切れ付く。10時にフィッシャー宣教師による礼拝。午後から夜遅くまで、われわれの楽団によるコンサート。その際、私も修理したギターで演奏した。イースターの2日目は、スポーツと音楽の娯楽で過ぎ去った。
 
1916年4月26日
 合唱協会がクーロ中佐に、誕生日のセレナーデを捧げた。彼は心から感謝して、ビールを何本かくれた。さまざまな小包や新聞が届いた。新聞の一部が焦げていた。どこかで火事にあった証拠だ。各自が月々、あらかじめ数行が印刷されたはがき1枚と用箋1通をもらうだけなので、故郷にもっとたくさん送ってやりたいと思ってもそれができない。家族・親戚がいない者は、割り当てられたはがきや用箋を売っている。もっとたくさん書き送りたいと思っている者は、これで助かっている。
 
1916年5月3日〜22日
 以前あったレスリング部が再結成された。テニスコートで音楽付きで興行を行おうというのである。夕方近く、およそ200メートルほどの距離から、日本の砲兵の大砲の響きが轟き渡った。彼らは、我々の収容所の隣で、また演習を始めたのだ。中佐は再び、日露戦争についての講演を行なった。この講演はたいへん興味深いもので、大きな講演会場が超満員になった。異動した羽生中尉は、この間にもう一度、スポーツ競技を見るために我々を訪ねてくれた。我々の飼っている6羽の鴨が水浴びできるように、池を作ってやった。今までに出会った一番の好人物、吉岡軍医少佐が、今日我々に別れを告げた。故郷の人々によろしく、またドイツへ帰国する時は身体に気をつけるのだぞ、と言ってくれた。故郷から、小包が数個届いた。幸いなことに、私は再び煙草類を手に入れた。ひどい空腹を覚えたので、午後パンの一かけらを漁りに、兵員厨房に行ってみた。そこへ向かう途中で1つの紙袋を見つけたが、それには次のように書かれていた。「南洋物産と高級食料品の店、店主ヤーコプ・フォーゲルフェンガー夫人」。いったいどうやって、この紙袋が日本にやって来たのだろう? 私がこの紙袋をパン焼場に持っていって見せると、パン職人のローベンスが言った、「それは、俺のところに来た小包から出て来たんだ。俺の婚約者がオーバーカッセル(デュッセルドルフ)のドレーク広場に住んでいて、彼女がそれを送ってくれた」。このことを通して我々二人は友だちになった。我々の最初の仕事は、蚤取りだった。ウールの毛布を一枚から、たいてい20匹から30匹の蚤が出てくる。蚊帳は、蚊に対しては十分な効果があったが、無限の苦痛の種となっている蚤に対しては無力だった。今日6月5日は、午後に戦友を墓場へ運ぶために、花輪を編んだ。およそ1時間ほど行進して、我々は小さな森の墓地に到達した。フィッシャー宣教師が追悼の辞を述べ、そのあと歌声が響いた。曲は「俺には一人の戦友がいた」だった。ドイツ国旗に覆われた棺は、今や日本の大地に包まれた。
 
1916年6月11日
 聖霊降臨祭。午前に礼拝。ヘルゴラント付近での英雄的な戦い、ドイツ艦隊の大勝利に思いを馳せた。昼食は、また格別にうまかった。デザートにはりんご、バナナ、レモンが出された。午後には、小さなお祝いが行われた。合唱協会はこの日を彼らの歌で飾った。夕暮れに、国旗の歌が響いた。「誇らしく、黒白赤の国旗ははためく」と。また1円30銭が全員に支給された。酒保は大忙しだ。再び壊れてしまったポンプは、新しいものと取り替えられた。またもや天と地が争っているかのように埃が立ち、まるで砂漠にでもいるかのように思われた。この砂埃用にシャワー室が用意されているが、ここで洗っても体をきれいにすることは不可能である。
 
1916年6月21日
 再び製作品展覧会が開かれた。大きな集会所に、自分たちで作った品々、ボトルシップ、楽器、鋳型に流した鉛の錨。それに海兵中隊が砲艦「イルティス」を100分の1の縮尺に組み立てたもの―これは正しく芸術作品で、絶賛を博した。
 練兵場では、日本の兵隊が銃剣術を行っている。そこでは一突きごとに「バンザイ、バンザイ」と、恐るべき叫び声が響いていた。クーロ中佐は、ヒンデンブルクの会戦について講演を行なった。降り続く大雨が、収容所を周る堀を再び満水にした。やれやれ、堀にこうも水が一杯では、感じのいい「芸者」を収容所に引っ張り込もうと思っても、とても実現できそうもない。水泳パンツで外で水浴びを満喫した。こうやっていると大雨も、さわやかな気分にさせてくれるものだ。健康診断があって、私の体重はまた114ポンドに減っていた。最近、食事を楽しむことはほとんどできない。肉など、頭の中にしか存在しない。
 トイレは、朝から晩まで常にふさがっている。皆、下痢に苦しんでいるのだ。郵便物がたくさん届いたが、日本人は多くの郵便物を処分してしまったらしい。郵便物の内容を検閲することは、彼らにとって手に余る仕事なのだ。小包が配られたが、丸2ヶ月間も横浜に放置されていたものだ。中身はたいてい駄目になっている。私は再び、14日間ベッドに寝込まなければならなかった。さらに8ポンド痩せた。再び1円30銭が支給された。
 日本人は、同盟の祝いをしている。収容所の外で土木作業をしていると、巡回の将校が馬に乗って現われた。彼はエルザス生れの捕虜をつかまえてフランス語で会話をしていたが、やがて彼を馬に乗せて、泥酔状態でそこから駈け去った。私の膝は蚊にさされて炎症を起こしていたのだが、かろうじてその症状から脱することができたので、よかった。というのも、医者は直ぐにメスで切ろうと待ちかまえているからだ。風車が建てられた。これはコーヒー挽きに使われ、非のうちどころなくうまく行っている。
 
1916年8月22日〜9月1日
 ネズミの害が続いていて、我慢ならない。我々はやむを得ず、パンを天井から紐で吊した。ネズミどもはしかし、それでもなおパンを目指して壁板から飛びつこうとしている。チフスとコレラが発生したので、水はもはや飲むことが出来ない。再び地震が我々の兵舎を揺さぶった。窓ガラスは、窓枠が引き戸の中で軽く動いただけだったので、再び粉々になることはなかったが、震えると大きな騒音を引き起こした。
 我々の体操協会は、用具調達のために、今や月々一人当り10銭の寄付を要求している。地震は既に3日も続いている。鉄道で三日三晩旅をしたとしても、建物が突き上げられガタガタいうこの恐怖といらだちほどには、神経がすり減らされることはないだろう。昼食のときもテーブルの揺れでガチャガチャ音をたてた。それでもクーロ中佐は外での新聞報道の読み上げを中止しなかった。
 
1916年9月2日
 カトリックの者は、今日再び礼拝があった。我々はまた、二人でそのための部屋の準備をし、その後、女性奉仕者の部屋も整えなければならなかった。これは副業的な仕事だが、いつも気持ちよくやれている。夜には再び、ラウベの下の地下室で盛大な祝宴をやった。四重奏の音楽付きで、必要な飲み物もあったが、これは、コルデス、ベルンハルディ両少尉からの心尽しである。苦悩は、すっかり洗い流された。
 
1916年9月7日
 今日で、習志野収容所に来て1年になる。OMDの一人の男が、戦友とある賭けをした。1箱のビールを賭けて、パレードの歩調で収容所内を一巡りして、将校収容棟に格別の栄誉礼をしてくる、というものだった。彼はこれを実行し、賭けに勝った。数日後、商船隊の太った船長が賭けをした。彼は、もう一人の太った船長を手押し車に乗せて、収容所内を2周、押して回らなければならなかった。こうして彼は、20リットル樽のビールを勝ち取った。中国が日本に宣戦布告した、との噂が立っている。そうこうするうちに、重量挙げのために金梃が数個作り出された。一つは92ポンド、もう一つは200ポンドの鉄だ。
 
1916年9月12日
 今日はまた、30人の日本人将校による収容所の大見学会が行われた。彼らは、居室の清潔さにとても驚いていた。引き続き彼らは、兵員厨房で、彼らの箸を使って朝餐を取った。蚊帳が返却された。今日は再び、あらかじめ数行印刷された便箋1枚とはがき1枚が支給された。月々、たった1通の手紙と1枚のはがきを書くことが許されているだけだ。故郷から2つの小さな小包を、今日受け取った。
 クーロ中佐はもはや、読み聞かせに来ることが出来なくなったので、新しいニュースはいつもひそひそと口伝てに伝えられて来るようになった。
 
1916年10月21日
 今日は2時から、大体育祭が行われた。まず、鞍馬、平行棒、鉄棒の体操、続いて音楽と合唱の後、棒を使っての体操が行われた。歌は、「我らが船のマストには、誇らしく黒白赤の国旗がはためく。我ら脅かす敵に禍あれ」などであった。その後に、拳球、サッカー、それに重量挙げなどの重競技が続いた。「選手は戦いに立ち上がる」の歌が響き渡った。音楽家たちは、午後も通して演奏を続けた。ドイツと日本の将校たちが参列した。夕方になって、欠かせないビールと共に、本来の祭が始まった。このビールは、ドイツの将校たちから体操選手に寄付されたものだ。ハイメンダール中尉が、私のために特によく面倒を見てくれた。祝宴は夜まで続けられた。日本人は、ここで示された選手の成績と鉄の規律を見て、驚いていた。
 
1916年10月22日
 午後、約50名の戦友が、他の収容所から我々の下へ到着した。この中には、もとの上海の楽長もいて、彼はヴァイオリン奏者たちを引き連れ、またさまざまな楽器も一緒に持ってきていた。再び、他の収容所のいろいろな様子が語られた(福岡)。
 
1916年11月7日
 我々が捕虜となって、今日で2年が過ぎた。この苦難の年月は、いったいいつ終わるのだろう。フィッシャー宣教師がコルボ司厨兵曹のところに呼ばれた。彼に臨終の秘蹟を授けるためである。肉の量がどんどん少なくなっていくなかで、その苦情は主計士官に向けられたが、彼はコック達に「ネズミの丸焼きを出せばよかろう」と返答した。
 11月16日、およそ50人の日本の士官候補生が現われた。彼らは、サッカー、ハンドボールや体操のようなスポーツの行事を見学しに来たのだ。彼らの一人は、鉄棒にぶら下がると、恐ろしい叫び声を発しながら、その能力を示した。この叫び声は、日本人がスポーツをやるときには常に発せられるものである。
 
1916年12月21日
 来たるクリスマスのお祝いの準備が始まった。居室では大掃除が行われ、樅の木が飾り付けられ、お祝いの服の汚れが落とされた。下士官はそれぞれ1円50銭、兵員にはそれぞれ1円25銭が支給された。これは給与と、ドイツのさまざまな団体からの寄付金である。
 
1916年12月24日
 クリスマス。風呂に入ったあと、お祝いの服を身に着ける。短い礼拝と、いつもより幾分ましな昼食の後、5時頃から本来の祝祭が始まった。クーロ中佐は再び、気迫に満ちたスピーチを行なった。それから、くじ引きが行われた。私は、煙草を50本もらった。我らがヤーグアルの元の指揮官から一人ずつ、帝国軍艦ヤーグアルの写真と、献辞のついた艦長の肖像画をもらった。クリスマスの2日目は、ミリエス楽長の音楽と、祝いには不可欠のアルコールで過ぎていった。大きな金額の義援金が届いたためたっぷり飲めたのだった。新しい歌を歌う。「ビールだ、ビールだ、ビールを持って来い!カネなんて、死んじまったら何になる?」。日本人との間にいろいろ不愉快な事件が起ったせいで、ビール禁止令が出された。酒保は、もうビールを出すことが出来なくなった。
 
1916年12月31日
 ビール禁止令のため、我々は早々にベッドに入った。夜中の12時に、私は水兵の笛を、他の連中はトランペット、ヴァイオリンやギターを取り出した。これで耳を聾する音楽を奏で、新しい年を告げてやったのだ。新しい年・1917年に乾杯!ビール禁止令が廃止されたので、再び酒保で必要なだけ買いだめすることができた。それで、改めてもう一度、盛大に祝ったのだ。
 
 これに続く数年も、全体として見れば、過ぎ去った年月と同じように経過した。
 
そうこうする内に、我々の収容所と並んで、同じ規模の第二収容所が完成し、他の収容所から移送されてきた人々に割り当てられた。以前の青島総督マイヤー=ヴァルデックも、彼のかつての幕僚達全員と共に、この収容所に収容された。その他はオーストリア人だった。時が経っていくうちに、劇場が建てられ、ここではマルフケ下士官を監督とする劇団が、イプセンのいろいろな戯曲や、その他の作品を上演した。新たに収容された将校のために、新たな厨房も整えられた。最近のひどい給食のせいで、私は我が友ローベンスと共に、そこでのコック見習を志願した。彼はそこで、パン焼場を引き受けることとなった。我々はそこで、総勢6名で、75人の将校のための給食を賄うこととなった。我々の第一コックは、フーゴー・クールホッフという熟練した料理人で、彼の父はルール地方(ヴィッテン・ヘーヴェン)でホテルを持っていた。ここで働いているうちに私は、118ポンドから160ポンド以上に体重を回復することが出来た。我々はここで、我々の居室をも与えられ、快適な生活を送ることができた。賃金として各自、月25円の報酬をもらい、無料の食事とたっぷりの果物を手に入れた。その他にさらに、いくらかの副収入を得るために、瓶ビールと樽ビールの販売を引き受けた。将校は、少尉で月に75円の給料をもらっており、それよりも階級が上の将校は、その地位に応じてもっと多くの金額を受け取っていた。ここで私はまた、最高の料理の作り方を学んだ。ある朝、私が当番コックだった時に、デュッセルドルフ生れのフリッツ・マティアス海軍大尉(「間抜けな死に神」とあだ名されていた)が現われ、目玉焼き3個とコーヒーを要求した。彼は私だとわかると、私に向ってこう言った、「ああ、君も帝国軍艦ヤーグアルで私の部下だったね」と。私は、こう返事してやった、「ええ、その通りです。しかし私は、忘れてはいませんよ。あなたは、宣戦が布告された日に上海から青島に向って航行している時、私を撃ち殺そうとしたではないですか。しかし、連発ピストルが見つからなかったので、私に4時間もの懲罰訓練の罰を科しましたね。朝4時に、私が進路の水深を、測鉛で確認していた時のことです」。 彼は私に、その事件は忘れて欲しい、と頼んだ。そして、「今や自分も君と同様、捕虜にすぎないけれども、将校としていんぎんに挨拶し、そのように応対して欲しい」と言った。ここではコックは、それぞれ1週間に1日の休日をもらっていた。ティロ・フォン・ゼーバッハ少尉が厨房の指揮に当っており、日本の商人・高橋から必要な肉、野菜、ジャガ芋、卵の購入を手配していた。収容所外での労働奉仕を我々は免除されていた。ヤーグアルの機関兵でダンツィッヒ出身のフリードリッヒ・ヴァーグナーは、将校の浴場の世話をしていたので、そこで我々も入浴することが許されていた。傷みやすい食料や野菜を保存しておくために、冷蔵用地下室が建てられた。これに関しては(例の秘密の地下室の場所と違って)文句がつけられる理由など存在するはずがなかった。冷蔵用地下室の上に据え付けた風車が、新鮮な空気を送り込んでいた。
 外ではたびたび、野外映画の上映が行われた。収容所中で、全部で30名の者が亡くなった。主に、インフルエンザの大流行の時の犠牲者だった。こうして歳月は、1919年のクリスマスの朝まで過ぎていった。
 
1919年 クリスマスの朝
 捕虜生活から解放の日
80人の男たちにとってその夜は午前4時に終わりを告げた。その80人の中には帝国軍艦ヤーグアルの将校たちに混じって私自身も含まれていた。8時に我々は、音楽と名残の尽きない別れの挨拶に送られて、習志野俘虜収容所を去り、駅へ向って行進して行った。ここから東京へ行き、さらに3日間の列車の旅で神戸へ向った。そこに着くや、我々は港へと連れて行かれ、そこで他の収容所から来た約1000名の戦友に合流した。ドイツへ の帰還輸送のために、日本の汽船「豊福丸」「喜福丸」「はどそん丸」が停泊して我々を待っていた。我々は自分の荷物を船上に運び終えると、将校を含む約1000名が、汽船「豊福丸」の前に集合させられた。日本の中佐が別れの演説を行ない、無事の帰郷とドイツでの健康を心から祈ると述べた。演説の終りには、ここは日本の歩哨に封鎖されており、神戸の町へ入ることは禁止されているので、港から立ち去らないように、との厳命も下された。我々はそれから、各自3歩前進を命じられた。これが、捕虜生活から自由への、最初の歩みとなったのである。続いて「解散」と「上船」の号令が響き渡ったが、自由になった者達の群れはバラバラになって港から神戸の町に走り出して行った。歩哨には、自由になった連中を押し止めることなどとてもできなかった。なぜなら、たくさんの人力車が並んで、その前で車夫たちが「マダム アリマス」(売春宿の娘の所へ)と叫びながら町へ行くように誘っていたからである。
 数時間以内に「豊福丸」が出港することがわかっていたので、私は再び上船した。ヤーグアルの乗組員には、下の中間デッキが割り当てられていた。それは、とても小さくて狭い部屋だった。船側に12のベッドが平行に並び、その上段にベッドが12。約1メートル幅の狭い廊下で仕切られてして、向かいに12、その上にまた同様に12のベッドがあった。したがって、48のベッドが、一本の狭い廊下で仕切られた状態で並んでいるのだ。それぞれのベッドに、救命胴衣が備えつけてある。部屋の中央には、ベンチとテーブルが窮屈な状態で置かれている。食事はうまかった。将校たちには、上の中間デッキが割り当てられていた。トイレは、上部デッキの仮設小屋に設けられていた。
私は習志野収容所を去る際に、ベルンハルディとコルデスの両少尉から25円ずつもらっていたので、私にとって不可欠である煙草は、まだ神戸にいる内に買っておいた。しかしそれは後から思えば結局不必要だった。それは以下のような理由からである。沖へ出て5日目に、退屈しのぎに上部船橋に行ってみた。そこは本来、立入禁止の場所だったのだが。 この船の日本の乗組員は、5人の航海士と4人の操舵員、それに約30人のその他のスタッフから成っていた。上部船橋には、船長と一等航海士がおり、それに一人の操舵員が舵を握っていた。当直の一等航海士は、私に何の用かと尋ねた。私は彼に、ドイツ語と英語のゴチャまぜで、何か操舵に関して手伝えることがあれば喜んで手伝いたい、と言った。彼は、私の職業は何か、と尋ねた。私が、帝国軍艦ヤーグアルの操舵下士官だ、と答えると、彼は私に操舵員として舵を握らせてくれた。彼は、ドイツ語を少し習いたいと思っているようだった。12時に船橋の人員が交代となり、私は昼食に、甲板に降りて行った。私の大好物の、 エンドウ豆のスープが出た。食事の際に日本人の操舵員が現われ、「フィンガーさん、あります?」と叫んだ(私の名前フォーゲルフェンガーを、彼は発音出来なかったのだ)。私の戦友が「フィンガーサン アリマセン」(いないよ)と彼に答えた。しかし、そうこうしている内に、彼は私を見つけて、私の所に来て、「フィンガーさん、キャプテンあります」(船長がお呼びです)と言った。私が船橋に上がって行くと、船長は、「あの一等航海士といつも一緒に当直をやって行くつもりがあるか」と尋ねた。「彼は自分のドイツ語を完全なものにすることを望んでいるのだ」とも言った。私が承知すると、日本の航海士用の船室がある上部船橋に、居間兼寝室が与えられた。しかも私はそこで、日本人用の食事と飲み物と煙草類を、何でもそしていくらでも得ることができるようになった。私の新しい部屋は今や上部船橋にあり、将校や仲間たちからとても羨ましがられた。これ以来私は、戦友たちからケッペン(船長)と呼ばれるようになった。
シンガポールに着く少し前に、船上で最初の死者が出た。イギリス人が彼をシンガポールに埋葬することを許さなかったので、我々は彼を海に葬らなければならなかった。遺体を24時間以上船上に留めておくことは許されなかったのである。遺体は帆布に包まれ、 敬意を込めて海に投げ入れられた。すべての機関が、もう一度“AK”(自動中段緩衝連結)の状態に戻された。なぜならば、遺体がもう一度、船の前方に位置するようにしなければならないからだ。これは、海の男のしきたりなのだ。
 石炭と食料を積み込むために、次の港である蘭印のサバンに向った。ここで我々は初めて新聞を手に入れることができたが、その中に次のような記事を発見した。「習志野収容所の最後の捕虜が去った後、収容所は日本の重砲兵隊の宿営となったが、その際、一門の大砲が地中に掘られた大穴に沈んでしまった」。この穴は我々が夜の祝宴に使った庭の地下室に違いなかった。あの天井の梁では、大砲の重みに耐えることができなかったのだ。
 2日間滞在した後の朝、サバンの港を去るときに、喜福丸が入港してきた(註:喜福丸は1920年1月18日に、ようやくサバンに入った)。今日は大規模に救助訓練を行なった。すべての救命ボートと救命いかだに、予め決められた通りに乗り込んだ。私は、日本人乗組員用の大きな救命ボートに乗ることが許された。2月4日の夜6時30分に、我々はスエズ運河に到達した。イギリス人から、運河通航中は、元捕虜は誰も上甲板に出てはならないとの命令が出された。また写真撮影も禁止された。何ぴとも、運河の船に何が降ろされるか、確認できないようにするためだった。(註:実際は人々は上甲板にいたし、また写真もたくさん撮っていた)。
  サバンから私は、さらに500本の葉巻を買って持ってきた。石炭と食料を積み込むため、ポート・サイドに寄港したが、着いたのは2月6日の夜中3時だった。ここで私は更に、ジモン・アールツトの紙巻きを1000本買い込んだ。スエズ運河を通過する際に、私は再び、船橋の上で舵を握ることを許されるという幸運に恵まれた。何しろ、私は日本人の下で働いていたのだから。地中海で、さらに2人の戦友の死を悼まなければならなかった。彼らもまた、海に葬らなければならなかった。
 2月24日に、我々はヴィルヘルムスハーフェン港外の錨地に到着し、ここで一晩を 明かさなければならなかった。1隻のアメリカ船から、我々は未掃海の機雷敷設海域にいる、との警告を受け取った。我々の要請に応じて水先案内人が船上にやって来て、ドイツ人の操舵員が船上にいるか尋ねた。日本人との意志の疎通が難しかったからだ。船長は私を指し示し、「ここに、ドイツ船ヤーグアルの操舵下士官がおりますよ」と英語で答えた。そこで、私が操舵を引き受け、水先案内人の指示に従って水門を通過し、それから港の桟橋に着岸させた。船長は、私の働きに対する感謝のしるしとして、お茶をふるまってくれ、私は上部船橋で、日本の航海士たちに礼を述べられた。それから私は上甲板に赴いたが、そこで私は名ケッペン、名操舵員として戦友たちの肩車に乗せられ、甲板の上をぐるぐる回された。次の日、私は日本人乗組員の一部と一緒に上陸し、海員バザールへ行って彼らが目立つものをやたらと買い漁るのに付き合った。なぜならば、1円に対して4ライヒスマルクももらえたので、彼らにとってはすべてが安かったからだ。衣服の補充として、全員がウールの毛布から作られた冬用コートと帽子を受け取った。私は両親に電報を送り、翌日にはデュッセルドルフに着くはずだと知らせた。列車の中で一晩を過ごしたあと、私は朝8時にデュッセルドルフに到着した。父は、既に朝7時から、駅で私を待ち侘びていた。そこで、窓際に立っていた知り合いの、ヤーグアルのフリーゲルスカンプ少尉に出会い、彼は私が、1本あとの列車で着くだろうと教えた。父は、次の列車を待つために、彼の兄弟と一緒にコーヒーを飲みながら待合室に座っていた。ところが、この列車は、8時少し前にはもう到着してしまったので、私は父やおじと会うことはなく、市電に行ってオーバーカッセルへ向った。
 ライン橋に差しかかると、車掌が私に、いったいどこから来たのか、と尋ねた。私がリュックサックを背負って、折れた杖を持っていたからだ。「私は、日本の捕虜収容所から来たのだ!」と答えると、重ねて彼は、身分証明書を持っているか、と尋ねた。橋の上で、ベルギーの占領軍による旅券検査があるのだという。私は、持っていないと答えた。後ろのデッキから前のデッキに移ることによって検問をかいくぐり、オーバーカッセラー通りまで行った。そこで、ヒェルスカー通り――昔のアルミニウス通り――がどこにあるかを訊きたかったのである。偶然ここで私は、母の兄弟であるペーターおじに出会った。言葉をかけた私に彼は尋ねた、「いったいあんたは誰かね?」。私だと分かったとき、彼の質問はこうだった、「やぁ、坊主。いったいどこから帰ってきたんだ?」。それから彼は私を引っ張って、両親の家に向った。家の手前100メートルで月桂樹の木を示して、「あそこがおまえたちの家だよ」と教えてくれた。父はその時まだ、市内で私を待っていた。母は私を迎えいれながら「まぁ、これが本当に、うちの息子なのかい?」と尋ねた。私が最後に両親の許で過ごしたのは、1913年のクリスマスだった。夜には盛大に再会の祝宴が開かれ、私の名づけ親まで、燕尾服にシルクハットを被ってやって来てくれた。私は郷里を離れている間、デュッセルドルフ方言はほとんど話さず、長年ずっとハンブルク方言ばかり使っていたため、この時もこの方言で喋ったので、なかなか自分が言おうとしていることを理解してもらえなかった。私にとっては、すべてがよそよそしくなってしまっていた。