大阪収容所から似島収容所への移転
移転の経緯と状況について
当時の新聞記事より
【その1】
大正6年2月3日夕刊(2日発行)
大阪時事新報
○俘虜が移転すると/収容所は隔離所に早替り
広島へ移転することになった木津川の俘虜収容所は、陸軍の準備の都合で、未だ実行されないが、広島の方では着々設備は整へつゝあるから、遅くとも本月の末頃には、移転することになるであらう。元々今の収容所は府の隔離所であつたのを、俘虜を収容する頃、丁度明いて居たので、府の方から貸した者である。処が昨年の夏から此方へ虎列拉(コレラ)やペストの為め、隔離人員の数が非情に増加し、昨年の秋頃には鼠島だけでは収容し切れなくなつて非常に迷惑したのである。其の結果、陸軍省の方ヘ取戻方を交渉し、陸軍省の方でみ些か面食つたのであるが、若し府で入用の節は何時にても返すと云ふ約束であつたから、已むなく廣嶋へ移転することになつたので、府は今の処では差したる支障を感じないが、萬一ペスト患者が一人でも出るとすると、忽ち大弱りに弱らねばならぬし、又、今年の夏には昨年よりも虎列拉が猖獗を極めはしないかとの心配もあるので、俘虜が移転すると同時に、直其の儘隔離所に充てるさうである。
【その2】
大正6年2月3日夕刊(2日発行)
大阪朝日新聞
○在阪俘虜移転期確定
西区南恩加島町大阪俘虜収容所の独、墺俘虜全部、即ち独逸海軍砲兵隊長海軍中佐グスターフ・ハッス(四十三年)以下五百四十八名(内入院患者十九名中転送に堪へられざる者と大阪監獄に服役中の三名を残して)を、愈二月十九日を以て広島県下似島陸軍検疫所へ移転到着せしむることに、二日確定競り。仍て宇品町の陸軍運輸部本部にては輸送計画を立てゝ近日収容所へ送附し来る筈なるが、多分十九日午前収容所出発、梅田駅より軍用列車にて輸送することゝなるべく、尤も菅沼所長以下上田大尉、丹羽中尉、主計、軍医、通訳、下士等職員全部附属移転し、収容所の建物は第四師団経理部より大阪府庁へ返還する筈なりと。
『大阪俘虜収容所の研究―大正区にあった第一次大戦下の独逸兵収容所−』(大阪俘虜収容所研究会・大正ドイツ友好の会編、平成20年、大正区役所発行)より