『日独戦争と四国の4つのドイツ兵俘虜収容所』
第7回中国・四国エスペラント大会 東かがわ市、大本白鳥分所にて 2004.10.11
小阪 清行
香川エスペラント会の小阪と申します。今から『日独戦争と四国の4つのドイツ兵俘虜収容所』というタイトルで話をさせていただきたいと思います。
なぜこのような話をすることにしたかと申しますと、この東かがわ市の隣町にあたる鳴門市にはご存じのように、有名な「ドイツ館」がある訳ですが、私自身ドイツ語教師でありながら、1・2年ほど前までこの問題について詳しいことはほとんど知りませんでした。縁あってドイツ兵俘虜研究会に入って、少し勉強を始めましたので、エスペラントという国際共通語を学んでいる方々、あるいは国際交流について興味をお持ちの方々に、今から約90年前の「国際交流」のあり方について知っていただければ、多少の参考になるのではないか、と思った次第です。
日独戦争
「日独戦争」と言ってもあまりピンとこない方もおいでるかもしれません。ご存じのように、1914年6月にボスニアの首都サラエボでオーストリア・ハンガリー帝国の皇太子が暗殺されたことに端を発して、第一次世界大戦が始まります。日本も日英同盟を口実として参戦し、中国山東省のドイツ植民地青島を攻撃しました。青島というのは「青い島」と書きますから、島だと思っておられる方もいるかもしれませんが、実際は膠州湾に突き出た半島の先端部分です。1897年に中国人によってドイツ人宣教師二人が殺害されるという事件が起きます。これを好機に、ドイツは武力によって清朝政府に圧力をかけ、この地を1898年から99年間租借することに成功します。そしてかつての小さな漁村チンタオを近代都市に建設し、「東洋の真珠」とか「東洋の小ベルリン」とか呼ばれるほどになったのです。例えば、チンタオには100年以上前に既に上下水道が完備されておりました。「青島における下水道は、汚水と雨水の両方を排水する遠大な計画で、ドイツ人も誇りとするところであった」と、ある論文にあります。下の写真[1][2]の立派な建物をご覧ください。
さて、戦争が始まった約1ヶ月後の8月初旬に、ドイツ政府は中国国内や日本など東アジアに住むドイツ人を青島へ召集します。その中には、例えば、後に丸亀収容所に収容されることになる東京帝国大学教師(実質的には教授)のSiegfried Berlinerや、後に松山収容所で日本語の教科書を作って俘虜達に教えたKurt Meissnerなどもおりました。彼らが8月初旬に召集されたとき、ドイツの敵としては、やはり中国に進出していたイギリスが想定されており、日本はその時点では参戦を決めていなかったため、まだドイツの敵国ではありませんでした。ですから日本政府も在日ドイツ人たちの中国への出国を許したのです。しかし日英同盟に基づいてイギリスから要請があり、しかももともと日本は中国進出への足がかりを求めていた訳ですから、「これぞ渡りに船」とばかりに8月23日に参戦します。青島攻略軍司令官は有島武郎の岳父にあたる神尾光臣中将で、久留米の第18師団を中心とした28.000名の兵力でした。(ここで「久留米の」という箇所を少し強調しておきます。理由はあとで明らかになります。)さらにこれに約1.000名のイギリス軍が加わります。対するドイツ軍は、約5000人の兵力でしたが、その約2/3は東アジアから応召してきた義勇兵でした。
写真[3]を見てください。これは今から約40年前に発表された「青島要塞爆撃命令」という映画のポスターですが、そこに「世界最初の大空中戦」というキャッチフレーズが見えます。「世界初の空中戦」は実際はヨーロッパで行われています。しかも、「大空中戦」と言っても、日本軍の11機に対して、ドイツ側は飛行機をたった一機しか持っていなかった訳ですから、これは歴史的事実の歪曲なのですが、それはともかく、日本軍が初めて戦争に飛行機を投入したのがこの日独戦争のときでした。
圧倒的兵力の差にもかかわらず勇敢に戦ったドイツ軍でしたが、二ヶ月あまり後に降伏します。短期間の戦いでしたが、戦死者の数は日本軍は1014名を数えました。ドイツ軍の方は戦死者209名、病死者150名、俘虜が約4700名でした。
こうして5000名近いドイツ兵俘虜が日本に連れてこられることになった訳です。彼らは最初全国の12ヶ所の収容所に収容されます。そのうちの3つが四国にありました。すなわち、松山、丸亀、そして徳島です。今日の講演のタイトルは「四国の4つの収容所」となっていますが、それは、これら3つが後に板東収容所という、今の鳴門市にある大きな収容所に統合されることになるからです。もちろんドイツ館はその跡地あたりに建っている訳です。
さて、合計で約920名のドイツ兵俘虜がこれら3つの四国の収容所に入れられますが、その内訳は松山の7ヶ所の収容施設に396名、丸亀の2ヶ所の収容施設に324名、徳島の2ヶ所の収容施設に約200名です。後に他の収容所からの移動などもあり、結局約1000名のドイツ人が四国で約5年間を過ごすことになります。
この大会は「中国・四国大会」ですから、「中国・四国の5つの収容所」というタイトルにしても良かったのです。なわち、最近多くの原爆被害者の遺骨が掘り起こされて話題になった、広島市の似ノ島にもドイツ兵俘虜収容所があったのです。しかし、似ノ島については私自身あまり多くを知らないのです。また研究者がいないため、研究もあまり進んでいないようです。私が集めることの出来た史料の範囲内で申し上げるならば、大阪収容所の俘虜たち545名が、板東収容所が出来たのとほぼ同じ時期に、陸軍検疫所の建物があった似ノ島に移されています。その俘虜たちの中には、後に菓子店「ユーハイム」を創業することになるカール・ユッフハイムなども含まれておりました。似ノ島について私が知っているのはだいたいこの程度です。
という訳で、話を四国の収容所に戻します。
松山収容所
まず、松山収容所についてお話します。
高浜虚子の句に「捕虜居る御寺の桜咲きにけり」というのがあります。ここで少し細かい点に触れておきたいと思います。「捕虜」と「俘虜」はどう使い分けするのか、という問題についてですが、意味はほとんど変わらないと思います。ただ、当時の史料にはだいたい「俘虜」という言葉が使われているようです。時代が、古いか新しいかの問題だと言う方もいます。あるいは、捕まった時点では捕虜だが、収容されてからは俘虜である、という言い方をされている研究者もおいでます。まあ、いずれにせよ今ここでは大した問題ではありませんので、ごちゃ混ぜにして使うことになります。
さて、虚子がここで言う「捕虜」は、恐らくドイツ兵ではなく、日露戦争のときのロシア兵だと思われます。松山の収容所に触れるからには、日露戦争にも触れない訳には参りません。松山は、それ以前の日清戦争(1894年〜95年)のときすでに俘虜収容所の町に選ばれていて、日本で最も古い俘虜の町だそうです。日露戦争のときには、一番多い時で約4000人、延べ6019人が収容されていたといいますから、10年後のドイツ兵の数の10倍以上の規模です。
ここでおもしろい話を紹介しておきましょう。日露戦争は1904年から約1年半続くのですが、戦場のロシア兵の間に松山の収容所の待遇が特に良いという噂が広がり、降伏するときに、「マツヤマ!」と言って投降してきたということです。具体的にどれほどの厚遇であったかと言いますと、収容所の回りには鉄条網も柵もない。道後温泉にも入りに行ける。将校などはかなりのお金をもっていて、道後温泉の一番高級な風呂に入っていたという記録が残っているそうです。ここで唐突ですが、漱石の『坊ちゃん』の道後温泉の件を引用します。
「おれはここへ来てから、毎日(略)温泉へ行く事に極めている。ほかの所は何を見ても東京の足元にも及ばないが温泉だけは立派なものだ。(略)温泉は三階の新築で上等は浴衣をかして、流しをつけて八銭で済む。その上に女が天目(てんもく[抹茶茶碗の一種])へ茶を載せて出す。おれはいつでも上等へはいった。」
東京帝国大学を出た学士・夏目金之助は、明治28年(1895年)当時、松山中学教員として月俸を80円も貰っていました。当時の国会議員の月俸が70円足らずですから、いかに破格であったか推察できると思います。
話を元に戻しますと、ロシア兵、特に将校などは、俘虜の身でありながら、国会議員の上をいくこの漱石先生と「同じ上等の湯に浸っていたぞなもし」、と言うことになりそうです。
さらに将校の中には家族を呼び寄せて、借家住まいをしていた者もいたそうです。そういう家族が16組あり、中にはコックを雇って料理させていた者もいたとのことです。さらに笑い話のような話を付け加えるなら、道後の松ヶ枝町というところにあった遊郭にあがる俘虜さえ居たと言う話が伝わっていますから、私などは「なんでこんなのが捕虜と呼ばれるんだ」、という気になりますが、皆さんの感想は如何でしょうか?
皆さんご存じのように、板東俘虜収容所のドイツ兵俘虜達は大変大切にされたと言われていますが、実は松山のロシア兵俘虜たちの方がもっと厚遇されていたという印象を持ちます。戦争捕虜が、桜や古寺と並んで、俳句の風景に登場するのですから、なんと風流で長閑な話ではありませんか。
こんな話をしておりますと、自然に想い出されるのは、第二次世界大戦中の関東軍「731部隊」による中国人捕虜への人体実験、それから九州帝国大学医学部での米軍捕虜に対する生体解剖、さらにアウシュヴィッツなど強制収容所でのユダヤ人捕虜虐殺、最近ではイラクの捕虜虐待問題・・・。これらのことを思いますと、捕虜に対する扱いの落差があまりに大きいことに私達は唖然とさせられてしまいます。
では一体どこからこのような違いが生じたのでしょうか。それについては、後で触れることにして、今は松山ドイツ兵俘虜収容所の話に戻りましょう。
実は日独戦争の場合、松山収容所はあまり模範的な収容所ではありませんでした。当時のドイツ人が視察して報告した史料によれば、全部で16あった収容所の中で松山はワースト3だったようです。例えばロシア兵の場合と違って、ドイツ兵の場合は自由外出を許されておりませんでした。ですから、当然道後温泉につかるということも、あり得なかった訳です。あるいは俘虜達は週に一度『陣営の火』“Lagerfeuer”という新聞を発行していたのですが、「なぞなぞを含む娯楽を載せた」というだけの理由で所長から発禁処分を喰らったりしています。
松山にいた俘虜達の中から数名を紹介しますと、すでに名前の出たMeissnerがいました。彼の父親は、カール・マルクスの著書を初めて出版したことで知られるハンブルクの出版社主でした。マイスナーは日独戦争勃発時点ですでに8年間日本に滞在していたため、日本語が堪能で、松山収容所で自作の教科書を使って日本語を教えたり、後に板東で松江所長の通訳をしたりしています。また板東収容所内印刷所から数冊の本も出版しています。
また松山には、ワンダーフォーゲルの生みの親カール・フィッシャーや、後に大阪外国語大学教授となるヘルマン・ボーナーなども収容されていました。ボーナーは後に板東収容所において、ベートーヴェンの「第九交響曲」が日本で初演された際に、記念講演を行いました。哲学博士の称号を持つインテリでして、板東で「ドイツの歴史と芸術」というタイトルで33回に亘って連続講義を行っています。
丸亀収容所
次に丸亀収容所についてお話します。
先ほどのランキングによれば、丸亀収容所はワースト4だったようです。
ちなみに、ワースト1は九州の久留米収容所でした。久留米収容所では、監視・管理が厳しく、後に二・二六事件で有名になる真崎甚三郎所長による将校殴打事件が起き、国際問題に発展しそうにさえなりました。なぜ久留米でそれほど俘虜の扱いが酷かったかと申しますと、この収容所が狭いところに約1300名の俘虜を収容し、ドイツ側の不満が強かったこともありますが、それ以外の理由があります。先ほど青島攻略軍が「久留米」の第18師団を中心としていた、そしてその攻略軍から約千人の戦死者が出た、という話をしました。久留米の師団関係者や地元遺族の感情からすれば、多くの仲間・身内を殺した敵をおいそれと丁重に扱うことなど論外だったのかもしれません。
さて、丸亀がワースト4だった理由は次の3つの点にあったと考えられます。(1)日本人士官がドイツ兵に対して蹴ったり殴ったりの暴行を加えている。(2)宿舎は非衛生的で、ネズミや毒虫、蚊が多い。(3)寝泊まりするところが一人あたり2平方メートルと非常に狭い。
先ほども名前が出ましたが、丸亀には東京帝大教師のBerlinerが収容されていました。このBerlinerによって、この収容所の実態が外部に漏れ、環境の改善に向かうことになるのです。
その経緯は次のようなものです。
丸亀収容所は2つの施設を使っていたのですが、数名の将校を除くほとんどすべての兵士が、西本願寺塩屋別院という大きなお寺に収容されておりました。余談ですが、実は私の家はこのお寺の近くにあり、私はその寺の付属幼稚園に4年間通いました。さらに私の家のすぐ近くにドイツ人女性が(昔の言葉を使いますと)女中さんと一緒に、借家住まいをしておりました。このドイツ人女性が、先ほどの東京帝大教師Berlinerの奥さんだったのです。私の父親は幼いときに、彼女が家の前を通るのを何度も見たそうです。
それはともかく、Berliner夫人は囚われ人となった夫に面会するため、東京から丸亀に引越してきていたのです。夫Berlinerは、面会に来た妻に密かに収容所の実態を告発する文書を渡し、彼女は検閲を避けるためそれを持ってアメリカに渡り、アメリカからドイツ陸軍省に郵送します。これをキッカケに、中立国アメリカ大使館員が全国の収容所を視察・調査してまわり、日本政府に改善勧告を行います。四国の3つの収容所が統合され、新しい板東収容所が誕生した背景には以上のような経緯があったのです。
さて、丸亀収容所についての話を終える前に、少し特異なケースを紹介したいと思います。ドイツ兵の中には、ドイツ人だけでなく、オーストリア人、ポーランド人、チェコ人、ハンガリー人なども若干名含まれておりました。その中の一人、ポーランド人Thaddaeus Haertleについて少し話をしたいと思います。それによって当時のヨーロッパの国と国、民族と民族の間の複雑な事情が多少なりとも理解されるのではないかと思うからです。Haertleは大地主の息子で、その領地は近隣六ヶ村に及んでいたと言います。ドイツの大学で農学を専攻したインテリで、母親はイギリス人でした。ポーランド人でありながら、祖国はドイツの支配下にある。しかも彼の体の中には、ドイツ人の戦闘相手であるイギリス人の血が半分流れていましたから、どうしても考え方が連合国寄になります。そのためHaertleは孤立して、収容所内で迫害も受けます。彼は久留米から丸亀に移されるのですが、久留米時代、ドイツ人将校に反抗して3ヶ月の重傷を負ったり、丸亀時代には日本人憲兵に反抗して、営倉に閉じ込められたり、丸亀から板東に移される際、ドイツ人と同じ列車に乗せられることに抵抗し、縛られて荷車で運ばれたりと、反骨精神がなかなか旺盛でした。板東では連合国寄りの数名と共に、収容所から1キロ離れたところに隔離収容されていました。大戦終結後、日本人女性と結婚して高松に住んでいました。その日本人妻の連れ子である安宅温さんが、『父の過去を旅して』という感動的な本を書いていらっしゃいます。安宅さんとはときどきメールの遣り取りがあるのですが、私宛のメールの一節に、「日本で一人われわれ赤の他人を家族にして、最後まで強く生き切ったヘルトレを私は深く愛し、尊敬しています」とあります。反骨精神とともに、真っ正直な心と優しさを持った素晴らしい父親であった、と回想されています。
丸亀についてはワースト4という点を強調しすぎた観がありますので、最後に逆の面も紹介させていただきましょう。俘虜達は週に2回は歩いて20分ほどの万象園という公園に散歩に行って、サッカーなどのスポーツをやっておりましたし、給料ももらって収容所内の店でビールも飲めておりました。また写真[4][5][6]を見ていただければ分かりますように、彼等は収容所内で演奏会、スポーツ大会、芝居などをやって案外楽しみ事にも事欠かなかったようです。
徳島収容所
3つ目の徳島収容所については、板東収容所と重なりますので、あまりお話いたしません。ただ、徳島市富田浦町の県議会議事堂と周辺バラックに約200名が収容されていたこと、それから所長が松江豊寿中佐だったことを覚えておいていただきたいと思います。
板東収容所
さて、いよいよ「模範収容所」と呼ばれた「ベスト1」の板東収容所の話に移ります。
そもそもなぜドイツ兵俘虜収容所の問題が世間に知られるようになったのでしょうか?あるいはなぜ鳴門市にドイツ館が建ったのでしょうか?それは板東俘虜収容所の俘虜に対する待遇が極めて人道的だったからなのですが、その中心に松江豊寿所長の存在があります。
ですから松江所長の話から始めたいと思います。松江がなぜ統合された収容所の所長に任命されたかと申しますと、全国の収容所を視察・調査して回ったアメリカ外交官によって、徳島収容所時代の松江の協調性を重んずる管理が高く評価されたからでした。
「世界にマツエほどのコマンダーがいただろうか。『すべての人間が兄弟となる』という(ベートーベン第九交響曲の)言葉は彼のために存在する」――これは松山と板東で日本語講師を務め、また松江所長の通訳でもあったMeissnerの言葉です。別の元俘虜――彼は板東ばかりでなく第二次世界大戦時のシベリアでも俘虜生活を送ったのですが――この元俘虜が90歳近くなって、次のように語っています。「独り暮らしの今は、板東の温かい思い出に包まれて生きている。それにしても、松江所長と高木副官は素晴らしい軍人だった。みんな尊敬していた」。
そんな板東収容所の俘虜待遇の具体的な内容を見てみたいと思います。
甲子園球場の1.5倍もある広大な敷地に、バラックと言いますか、兵舎が建っておりまして、938名のドイツ人が収容されておりました。後に久留米など他の収容所から更に100名前後の俘虜を迎えるのですが、「強制収容所」と悪名をとった久留米収容所から移って来た兵士などは、あまりの違いに驚いたと言います。
久留米では、常に団体外出しか許されず、暖房の不充分なバラックで、衛生施設は問題が多く、必要な運動の場も確保されず、過密状態に置かれていました。
ところが板東では環境が遙かによいばかりか、例えば到着の日などには、松江所長の粋な計らいにより、就寝時刻が12時まで延長され、構内での自由行動も許されました。そのため、懐かしい縁者、旧友との再会を喜んで盛大な酒宴が催されたといいます。また、親類、友人、知人などはなるべく近くのバラックに住ませるなどの配慮が払われました。囚われ人達にとっては、物質的な環境の改善よりも、むしろこのような気配りの方が遙かに心に沁みるものだったと想像されます。
板東収容所では、新聞の発行が許され、本が出版され、音楽活動も盛んで、ベートーベンの第九が板東で初演されたのは有名ですが、それはほんの一部分で、さすが音楽の国だけあって、二つのオーケストラの他、吹奏楽団や合唱団、マンドリン楽団などが存在し、演奏活動も活発でした。その他、スポーツ、演劇、様々な講演会、語学講座、野菜の栽培、養豚養鶏養蜂等々。ドイツ人経営の商店もあり、肉屋、パン屋、菓子屋、料理店など。はては所内紙幣・切手の発行まで行っています。さらに後には収容所の裏山に200戸近いセカンドハウスまで立ち並ぶようになります。要するに、柵の外の人間がやることはほとんど全部やることができていたと考えてもよいかと思います。板東収容所に限って言うならば、普通なら苦痛極まりないはずの俘虜生活を、彼らは結構エンジョイしていたような印象さえ受けます。
地元の人たちとの交流も盛んでした。写真[7]を見てください。これは俘虜と地元の大工30人が5ヶ月かけて作った牧舎です。設計はもちろんドイツ人です。交流の別の例を挙げましょう。先ほど見て頂いた写真[6]をもう一度ご覧ください。これは丸亀時代のものですが、この写真の指揮者はエンゲルと言います。丸亀では毎年エンゲル祭という催し物が開催されていますが、もちろん彼の名前から来ています。このエンゲルが、写真[8]で見るように、板東から徳島市まで出向いて、音楽を指導しておりました。場所はNHKの連続ドラマ「なっちゃんの写真館」で有名になった立木写真館です。ついでに申しますと、同じくNHKの連続ドラマ「風見鶏」でも板東収容所が登場していました。これら以外にも俘虜達は、農業やパン・ケーキ作り、ソーセージ作りなどの分野で、地元の人々に多くの影響を与えています。
まとめ
こんな話をして参りますと、板東という収容所には、あたかも美談や明るい俘虜生活しか存在しなかったような印象を与えるかもしれませんが、もちろん、板東収容所をあまり美化し過ぎてもよくないと思います。実際は俘虜生活の中には喧嘩あり、いじめあり、同性愛あり、自殺未遂ありで、中には板東の場合でもこっそり忍び出て、買春をやらかして警察に捕まったようなケースもあります。また、俘虜達の板東に対する思い出が懐かしいのも、意地悪く考えれば、日本で俘虜だったお陰でドイツの同胞たちよりも遥かに優雅な生活を送れたからだと言えるかもしれません。なにせヨーロッパでは6人に一人が戦場で悲惨な死を迎えたほどの長期にわたる激戦でしたから。俘虜達の美しい思い出が生成される無意識の中には、きっとそんな背景も潜んでいたに違いない、ということを確認しておくことは無駄ではないかもしれません。
さて、先ほども触れました問題、すなわちなぜ日露戦争や日独戦争の捕虜たちがこれほど大切にされたのか、という問題が残っています。その背景にはハーグ条約という戦時国際法がありました。その中に「俘虜は人道をもって取り扱うべし」と謳われております。先ほど日露戦争の俘虜の方が日独戦争の俘虜よりも大切にされていたという話をいたしました。なぜそうだったのかと言えば、日本政府は幕末以来列強から、関税自主権がなく、外国人の治外法権を認めるという不平等条約を押しつけられておりまして、この不平等を改正しようとずっと骨折っていたのです。それを成功させるためには日本が、軍事・経済面だけでなく、文化面・精神面でも文明国であることを列強に認めさせる必要があった訳なのです。努力の甲斐あって、日独戦争のときにはすでにある程度日本の国際的地位も向上して、もはや日露戦争のときのような、俘虜におもねるような姿勢は徐々になくなってきていました。それでも例えば、俘虜たちの食事に関して言えば、当時の日本人の平均的摂取カロリー2600calに対して、ワースト4の丸亀収容所でさえ約1.5倍の3300cal前後摂っていますから、やはり厚遇されていたと言わざるを得ません。
それにしても同じ時期の収容所でも、「強制収容所」というレッテルを貼られた久留米収容所などと、「模範収容所」と誉め称えられた板東収容所の間には歴然とした違いが存在しました。一体この差はどこから生じたのでしょうか?
それはやはり松江所長の人格に依るところが大きかったと思われます。松江は朝敵となった会津若松の出身です。そのため彼の一家は一時期、赤貧洗うが如き生活を余儀なくされます。幼年学校・士官学校を経て長州閥の強い陸軍に進みますが、行く先々で「敗者の悲哀」を味わいます。それがドイツ兵への同情へと繋がったと考えられます。上官に抗議して軍法会議にかけられたこともあったそうでして、「武士の情け」を重んずる一本気な人間であり、「ドイツ人も国のために闘ったのだから」というのが彼の口癖だったそうです。中村彰彦という作家が「二つの山河」という小説を書いて直木賞を取っています。実質的に松江が主人公のようなものです。歴史や文学に興味のある方は読んでごらんになれればおもしろいのではないかと思います。
松江が俘虜達を大切に扱うことができたのも、先に述べたような歴史的背景があったからこそ可能だったのであり、もし仮に松江が第二次世界大戦中に俘虜収容所の所長だったとして、同様のことがやれたか、と言えば、大きなクエスチョンマークを付けざるを得ません。また、松江は一時期韓国にいて、韓国統監であった伊藤博文に重用されたと言われています。韓国の保護国化を意図して皇帝に譲位をせまり、軍隊を解散させるなど内政干渉を起こった伊藤やその周辺に、「武士の情け」や「敗者への同情」があったのかどうか、これも大きな疑問です。ですから、松江をあまり美化し過ぎてもいけないと思います。しかし、それらを割り引いたとしても、松江個人の人格が果たした役割はやはり極めて大きかったと私は思うのです。
もう一つ疑問が残ります。つまり日露戦争や第一次世界大戦頃まではまだ一種の長閑さのようなものが残っていたけれども、第二次世界大戦以降になるともはやそのようなものは一切残っていないような気がしますが、それは一体なぜなのかという疑問です。その背後には文明の発達による人間の「心の物質化」という力が働いていると思われます。例えば、写真[9]をご覧ください。これは第一次世界大戦当時の飛行機による爆弾投下の図です。当時は敵機に向かって石やレンガを投げ合って、すれちがいざまに手をふって別れたりする光景なども見られたそうですが、これと、一度に20万人もの死者を出す原爆キノコ雲の間には、途轍もなく大きな位相差があります。両対戦の間の20〜30年間に、「文明」という魔物によって、何か根本的な崩壊が、知らず知らずのうちにわれわれ人類の心の中にも生じたに違いないという気がするのは、私だけでしょうか。ですが、そのような大問題についての考察は哲学者や思想家などの専門家に任せたいと思います。
結論としてはいささか陳腐なものになってしまいますが、多くの収容所が存在した中で、特に松江があれだけのことをやったということは、やはり讃えられていいことだし、トップがそうだったからこそ、副官の高木大尉も俘虜たちに対して太っ腹な態度をとることができたのでしょう。また、地元板東の人たちも、自然体で俘虜たちに近づくことができたのでしょう。そして松江のドイツ兵たちに対する信頼があったからこそ、俘虜たちもその信頼を裏切るまいと努力して、素晴らしい収容所生活を送ることができたのだと思います。「心の物質化」という恐ろしい文明の流れの中でも、やはり「個人の力への信頼」を失いたくないものだと、私自身は考えております。
最後に、俘虜たちと地元板東の人々の心がいかに通い合っていたかを示す文章がありますので、これを読み上げることによって、私の講演を締めくくりたいと思います。元捕虜がかつて世話になった板東の人たちに宛てた手紙の一節です。
「……あのおり私たちは捕虜でありました。そして皆さんは戦勝国の国民でありました。にもかかわらず、私たちは心を通わせ合いました。国境も、民族の相違も、勝敗もそこには存在しませんでした。皆さんと私たちは、それらすべてを乗り越えて、心を一つに強く結ばれ合ったのでした。友愛という一つの心に……」
ご静聴ありがとうございました。
(注: 講演原稿作成の段階で、高知大学の瀬戸武彦先生、ドイツ館館長の田村一郎先生、および「丸亀ドイツ兵俘虜研究会」の仲間達から、疑問点に関して教示を給わりました。末筆ながら記してお礼申し上げます。)