三木成夫といのちの世界

 

吉増 克實

 

(一) まず、三木成夫の生涯について

 

三木成夫(しげお)というなまえをお聞きになったことがありますか。「胎児の世界」、「海、呼吸、古代形象」などの不思議な魅力を持ったその著作については、本誌でもこれまで一二度ご紹介したことがありますのでご記憶の方もいらっしゃるかもしれません。三木成夫は、昭和六十二年六十一歳でなくなりました。生前にも、直接交流のあった人々をその人格から発散される独特のオーラで魅了していましたが、しかし、むしろその死後、遺稿が整理出版されるにつれ、著書を通じてはじめて三木成夫に出会った人々を、次々とその魅力のとりこにしてきています。そして時がたつほどにますます共感の輪が広がってきているようなのです。さまざまな雑誌に特集記事が組まれたり、いろいろなシンポジウムが開かれたりしてきています。どうやら三木成夫の世界には現代社会が見失い捜し求めているいのちとこころの世界への手がかりがあるようなのです。いま、三木成夫は、いのちとこころの世界をとりもどそうとする人たちの大きな共感中心のひとつになってきているようなのです。

私は、医学部の学生のころに、三木成夫の解剖学の講義や解剖実習の指導を通じてその世界に魅了されました。それは「三木体験」といってよいような衝撃的体験でした。それまでに親しんできた自然科学とはまったくちがった生命の見方があることを知らされたからです。それはまたこころの世界への扉を開いてくれる体験でもあったのです。私が精神科の医師としてこころの医療に取り組むことになったのも、すべてはこの「三木体験」が出発点になっています。三木体験がおしえてくれたいのちとこころの世界の探求を続けることが私自身の人生の課題となっています。三木成夫についての話を頼まれるとできるだけお引き受けするようにしているのもそんな理由からなのです。三木成夫の語る世界はその独自性のために「三木学」と呼ばれたり、おもしろがって「三木教」と呼んだりする人もいます。三木成夫の個人的な魅力に引かれて熱烈なファンになったひともいて、三木教の信者だと言われたりします。そうなると私はさしずめ三木教の宣教師ということにでもなるでしょうか。この連載を通じて、三木成夫の世界の魅力をさらに多くのかたがたにお伝えできればと思っています。

六回の連載の始めに今回はまず、はじめて三木成夫の名前をお聞きになる方のために、三木成夫の生涯を振り返っておきましょう。これからお話することの大まかな見当づけにも役立つと思われるからです.

 

おいたち

 

三木は大正十四年十二月二十四日、香川県丸亀市に産婦人科医の四男として生まれました.姉一人兄三人の末っ子でした。何事につけても早熟な才能を示したようですが、とりわけ書道や音楽、美術など芸術全般に対して強い関心を示し、また天分にも恵まれていたようです。小学生のころ書道に抜群の才能を示し四年生で全校代表になりました。甲子園を目指して野球に熱中するお兄さんが宿題の習字の代筆を頼んだところ、それが百点満点の百五十点を取ってしまい、お兄さんも驚くやら困るやらといったことがあったそうです。地元の丸亀中学に首席で入学、第二次世界大戦のさなかの昭和十八年、岡山の第六高等学校に進みました。水泳が得意で水泳部にも所属していたそうです。高等学校と卒業したあと九州大学の工学部航空機学科に入学しそこで飛行機を作る勉強をするはずだったのですが、半年も経たずに敗戦により学科が廃止となり、翌年東京大学医学部に入学しなおしました。昭和二十一年のことです。しかし医学部在学中は当時まだ藝大の学生だったバイオリニストの江藤俊哉さんのところへ押しかけて、弟子はとらないといって断られるのを無理やり弟子にしてもらいバイオリンの練習に熱中しました。バイオリン作りの先生についてバイオリン作りに励んだり、絵の会に入って絵筆を振るったり、医学の勉強よりも藝術三昧の日々を送り、そのため一年留年してしまったほどでした。

 

解剖学者への道

 

昭和二十六年医学部を卒業した後、同じ東京大学の解剖学教室に入り小川鼎三教授に師事して本格的な解剖学の勉強をはじめました。解剖学として生命の形を研究する傍ら、なお同好の友人たちと絵筆を握ることもあったようです。三木の美術的才能は後年、自分の認識を数々の美しい図版で示すという形で開花結実することになります。解剖学教室に入室して二年目にうつ病になり、精神科医で仏教、ゲーテ、クラーゲス研究でも知られる東京女子医大の千谷七郎教授の診察を受けます。次第に生命の本質、人間の生き方といった哲学的な問題にかかわるようになり、千谷教授の導きで在野の仏教学者富永半次郎に師事し、原始仏教や老子や孔子などの東洋思想、古事記、源氏物語、基角の俳諧などの日本の古典、ゲーテの文学や自然学、生の哲学者ルードビッヒ・クラーゲスの哲学などの勉強を続けました。その過程で次第に独自の解剖学が発展する基盤が形成されていったようです。

昭和三十二年、東京医科歯科大学の解剖学教室に移り研究と教育に携わるようになったころから、ゲーテの植物の研究にある「原形とメタモルフォーゼ」にもとづいた「すがたかたちの解剖学」を講義するようになりました。ゲーテは、自分の観察を通じて、植物の花びらやおしべやめしべは葉がそれぞれの部位で変形したものと見ました。むしろ原形としての原植物というものがあって、それが部位によって次々に姿を変える、つまりメタモルフォーゼすると考えたのです。三木はそれをヒトのからだに適用しました。人体は本来ミミズのように頭もくびも胸もおなかも同じ形をしているものが、部位によって変形し姿を変えたものであると言うのです。そして原形としての本来のかたちとはどのようなものであるか、各部位でそれがどんなふうに変化したかを示しました。ヒトのからだは人間の作る機械のように人間の欲求に従って目的に合わせて都合よく作られたものではなく、何億年もの地球の歴史の中で、本来のかたちが新たな環境への適応のために何重にも変形されてできたものであり、ヒトのからだの各部分にはその歴史が年輪のように刻まれているというのです。その講義は、無味乾燥な医学部の講義のなかで異色の魅力を放つものでした。

この研究を深めるため昭和三十七年「個体発生は系統発生を繰り返す」というドイツの発生学者ヘッケルの言葉に導かれ、東北大学の解剖学教室に浦良治教授を訪ねて、さまざまの種の異なる動物の胎児の血管に墨を注入して比較する「比較発生学」という方法を学びました。浦教授はそれまでにすでにさまざまな動物の米粒より小さな心臓にガラスの針で墨を注入し、それを顕微鏡で観察して血管がどのようにして生まれ形を変えていくかを研究していました。ヘッケルは、受精卵は細胞分裂を繰り返しながらそれぞれの種に特徴的なからだを形成していく過程で、生命の歴史、進化の歴史を繰り返すというのです。しかし、人間ではたとえば魚の段階はあっという間に過ぎてしまい観察できません。歴史の古い生命形態ほど古い段階をゆっくり見せてくれるのです。そんな段階が両生類のサンショウウオではゆっくりと、ヤツメウナギではもっとゆっくりと見られるのです。三木は、その役割が良くわからず謎の臓器と言われていた脾臓のなりたちを明らかにしました。脾臓という臓器は脊椎動物の種類によってさまざまにすがたを変えていくのですが、そこに生命の歴史において海で生まれた生命が上陸するという壮大な出来事が映し出されているということを示したのでした。

生前に書かれた数少ない著作のうち、看護者教育のための教科書として書かれた「解剖・生理」1)と、科学百科事典の一部として書かれた「ヒトのからだ − 生物史的考察 − 」2)はこのような時期に書かれました。「動物性器官と植物性器官」と「体壁と内臓」や「あたまとこころ」の関係、「しかけしくみとすがたかたち」などの問題がすでにはっきりと取り上げられています。この間、昭和三十六年に結婚し、二人の子どもに恵まれますが、単に子煩悩な父という以上に、子どもたちとの交流のなかで子どもたちの心の発達を独自の観点から見てたくさんの事を発見していきました。それらの体験は、無心に遊ぶわが子の姿を記録した多くの写真とともに子どもの心の発達について書かれた後の著作のなかで重要な役割を果たしています。

 

解剖学を越えて

 

昭和四十八年、東京医科歯科大学を退職し、東京藝術大学の保健管理センターの所長に就任しました。自然科学に基づく医学の研究では、見出した所見が真理であることを「実証」しなければなりません。それは特に生命研究においては多くの動物のいのちの犠牲を要求しもするものなのです。それまでにさまざまな動物の胎児の拍動する心臓に血管注入を試みてきた三木はヒトの胎児を前にして立ちすくみます。わが子の成長を見守る父親のこころはすでにその作業を不可能にしていたのです。しかしそもそも実証とは、こころで感じられるひとには明々白々な事実を、感じられない人にあたまで納得させようとすることにすぎません。ほんとうにわかるとはこころでわかることであるとすれば、実証の作業はかならずしも必要ではなかったのです。この時期、長年取り組んできた「すがたかたちの解剖学」は深まりを見せていました。いのちのかたちをいっそう根源的に宇宙的な生の原形の現われとしてみていこうとし、「生命の形態学」として総論から各論へと連載が続けられていました。しかし、各論の循環器を最後に中断され二度と完成されることはありませんでした。三木成夫自身の思想の発展における大きな節目に差し掛かっていたのです。

しかし、藝大に移り、医学的実証的研究の要求から自由になった三木の思想は、さらに深まりを見せ飛翔力を増し、その魅力で藝術を学ぶ若者たちの心をもとらえていきました。解剖学の枠を越えて生命の世界の思想を説く三木の講義は学生たちの創作活動にさまざまな影響を与え、「植物的なものと動物的なもの」や「胎児の世界」、「根源形象としてのらせん」などと関連したテーマでの造形作品や音楽作品として結晶します。しかし何よりも、圧倒的な人格的魅力で学生たちの心をとらえたようです。三木にとっても藝大は「第二の故郷」でした。青年時代を藝術三昧にすごした三木のこころが芸術家を目指す学生たちの心と響きあったのでしょう。三木はこころの危機に悩む学生たちのよき相談相手として、こころの医者にもなっていきました。しかし、精神科の専門的訓練を受けたことのない三木にとって、その診断も治療も自分が研究してきた生命の形態学にもとづくしかなかったのです。その意味でこころの医者としてもまったく独特の医者であったのです。朝が起きられない学生たちに見られる睡眠覚醒のリズムの障害を、生命が海にすんでいた時代の潮の満ち干のリズムがよみがえったものと生物学的に意味づけていることもそのひとつです。潮の満ち干のリズムとは月のリズムです。それは女性の月経周期に残され、生まれたばかりの赤ん坊の睡眠覚醒のリズムにはそのまま残されていますが、やがて太陽のリズムによって覆い隠されていくものです。うつ病の日リズム変調とされるものの生物史的意味を解き明かしているのです。このような考えにもとづいて、薬ではなく独自の睡眠リズムの調整法を学生に薦めていました。未刊の解剖学総論草稿3)のなかで、もともと、三木はこう述べていました。「生物の現象の『かたち』を通して『こころ』を見るとき、前者に焦点を当てれば『形態学』が、後者に的を絞れば「心情学」がそれぞれ成立することになる。この生中心の思考に依存する限り、われわれはこの両者の間でのみ自然に対することになり、そこでは学問、藝術のすべてが『生の学』として統一されるのである」と。三木にとっては学問も芸術もひとつの根から生まれるものでした。そして学問から芸術の場に生きる場所を移したときに、おのずといのちのかたちから、いのちのこころへと関心は発展していったのでしょう。

晩年、三木の関心は、よりいっそう根源的ないのちの世界を求めて植物的なるものへのめりこんでいきました。生命の本質は動物性器官にではなく植物性器官にあること、つまり、感覚器や脳神経や筋肉からなる体壁にではなく、消化器や循環器や生殖を担う内臓に生命の本質があるというのです。動物性器官と植物性器官とは、それぞれの中心的臓器、脳と心臓によって代表されます。そして脳は「あたま」のはたらきを、心臓は「こころ」のはたらきを象徴します。そしていのちの本質は食と性のリズムという根源のいのちのリズムを担う植物性器官に、こころの本質はこころの動きに伴って脈打つ心臓にあることを強調しました。最晩年のゲーテもいのちの原形を植物に見出していたのです。昭和五十七年に「みんなの保育大学」叢書の一冊として出版された「内臓のはたらきと子どものこころ」4)では、子どもこころのめざめには「内臓感覚」が大切であると述べています。昭和五十八年に出版された「胎児の世界 ― 人類の生命記憶」5)という著書は中断した生命形態学以降の思想の展開を取り込んで、三木成夫の代表的著作のひとつとなりました。そこには生命記憶のことが、つまりわれわれ一人一人のからだには意識されないままに三十数億年の生命の歴史が記憶されていること、小宇宙としてのからだに大宇宙の根源形象が再現されることが述べられています。さらになくなる年に書かれた「南と北の生物学」では町や家のつくりをはじめとする人間的な営みの中にも生命的構造をみようとしていました。三木成夫の関心は動物植物といった個々の生命形態を越えて宇宙的な生命の本質へと向かっていたのです。それはわれわれを生み出し、また迎え入れる母なるものの世界であったようです。私たちのからだに潜む根源のリズムは、生命がかつて、陸に上がろうか海に戻ろうかとためらいつつ過ごした何億年かの間に、なぎさで聞いた寄せる波のリズムである、母の胎内で聞いた血潮のリズムである、と。

 

死、そして…

 

昭和六十二年八月十三日三木成夫はなくなりました。脳出血によるまったく突然の死でした。葬儀には医学、藝術関係の友人知人教え子のみならず、大勢のまた多彩な顔ぶれが集まりました。三木成夫の死を惜しむ人々によって追悼音楽会や追悼作品展が開かれ、三木成夫記念シンポジウムが開かれました。また、ふたつの追悼文集が出版されました。うぶすな書院の塚本氏によって遺稿がまとめられ「生命形態の自然誌」6)が、ついで「生命形態学序説」7)が出版されました。そして死後十五年たちましたが、不思議なことにいまなお人々の心の中で三木成夫は生きつづけ、むしろ少しづつ共感のネットワークを広げていっているのです。続いて出版された「海、呼吸、古代形象」8)はこれまで以上に多くの読者に迎えられています。記念シンポジウムはその後も続けられ、二年に一度だったのが毎年開かれるようになっています。現代思想、モルフォロギア、詩と思想などの雑誌で特集が組まれました。生まれ故郷の丸亀には「三木成夫の会」9)ができて、三木成夫に共感する人々の集まりが開かれているようです。三木成夫の形態学をテーマにして現代美術に関する公開講座が開かれています。これほどまでに多くのヒトをひきつける三木成夫の思想とは何なのでしょうか。次回からあらためて、一つ一つ詳しく取り上げていくことにしましょう。

    (東京女子医科大学第二病院)

 

1) うぶすな書院から出版されている生命形態学序説(3800円)に収められています。

2) うぶすな書院から出版されています。(2200円)

3) 1)の生命形態学序説に収められています。

4) 築地書館から改訂増補版が出版されています。(1400円)

5) 中公新書(中央公論新社)です。(700円)

6) うぶすな書院から出版されています。(6602円)

7) 上記

8) うぶすな書院から出版されています。(2428円)

9) 三木成夫関連のホームページがあります。リンク集から三月書房の三木成夫の本のリストのページを参照すると入手可能な関連の著作の一覧を見ることができます。  (http://www.geocities.jp/seto_no_shorai/