三木成夫といのちの世界

 

吉増 克實

 

(二)すがたかたちの解剖学

 

(1)いのちのかたち

 

解剖学について

 

三木成夫は解剖学者でした。それもきわめて独自の解剖学者でした。三木は自分の解剖学を「すがたかたち」の解剖学と呼んでいます。それはどんな学問なのでしょうか。少し長くなりますが、まず三木成夫自身の言葉に耳を澄ませてみましょう。

「われわれの言う『すがたかたち』とは、『心情』の受容的な働きによって自然から受け取られたものであると言う。…そこではすべての近くの対象が周囲と境界のない、そして刻々と変化してゆく生きた『形象』として観察されるのであるが、その場合形象のもつ意味(こころ)と受容者の心情は安全に溶け合うことになる。現象を『こころ』の現われた生きた『形象』として眺めること…これが心情に由来した生中心の思考形態のすべてであり、われわれの言う「すがたかたち」を見る目そのものと言うことになる。『すがたかたち』とはこの『形象』にほかならないのである。

こうしてこの目で眺めるかぎり、自然のすべての現象は − 動植物から地・水・火・風にいたるまで − あたかも人間の顔貌容姿のごとく、『こころとかたち』を備えた生あるものとして受容されることになる。…ここから、生物の現象の『かたち』を通して『こころ』を見るとき、前者に焦点を当てれば『形態学』が、後者に的を絞れば『心情学』がそれぞれ成立することになる。この生中心の思考に依存するかぎり、われわれはこの両者の間でのみ自然に対することとなり、そこでは学問、藝術のすべてが『生の学』として統一されてくるのである」(解剖学総論草稿)。このような言葉の中に、すでに、すがたかたちの解剖学のもつ広がりの大きさを予感できるのではないでしょうか。

皆さんは解剖学と聞いてどんなことを思い浮かべますか。理科の時間のカエルやフナの解剖でしょうか。そのときに見た肺や心臓や胃や腸や筋肉など何かおどろおどろしく気味が悪い思い出かもしれません。確かに、解体新書という解剖学の本が翻訳された江戸時代、解剖は「腑分け」ともいわれていました。それは文字通りからだを切り開き、表面からは見えない内臓の様子を観察することでした。

 わたくしが三木成夫とであったのも医学部の一年生の解剖学の時間でした。解剖学の実習はおなかを開いて内臓を見るだけのものではありません.それはおおよそ一年もかかる大変な作業なのです。解剖学教室の人たちの手であらかじめホルマリンで防腐処理され血管に色素を注入された遺体を、ピンセットで結合織をむしり取るようにしながら表面から次第に深部の構造へと血管や神経や筋肉や内臓を選り分け掘り出していくのです。その作業を通じてからだの構造を知り名前を覚えていくのです。

三木成夫は東大の小川教授の解剖学教室に入室したあと勉強とそんな解剖学の実習の指導をつづけながら、厳密にはひとつとして同じではないヒトのからだを見つづけていました。そして東京医科歯科大学に移ったあとそのような体験が積み重なるにつれ、眼前に次第にいのちのかたちの世界がその独自の姿を現してきたのです。三木をいのちのかたちへと導いたのはゲーテでした。

「ゲーテの目に映った自然 ― それはこのような生過程の果てしなくつづく波に乗って『根源のかたち』が刻一刻とその姿を変えながら『個々のかたち』となっていわば流転する − そのようなものであった。現実の『すがたかたち』には…『根源のかたちが作られながら、同時に個々のかたちとして作り変えられる』そのような形成過程がこめられているのでなければならない」(解剖学総論草稿)。そして解剖学にも見方の異なる二つの解剖学があると考えるようになってきたのです。それが「しかけしくみの解剖学」と「すがたかたちの解剖学」です。

「しかけしくみの解剖学」はヒトのからだをある目的のために組み立てられた完成した機械として見る解剖学です。機械にはその部品を含めて何のために作られたものか、はっきりした目的が必ずあります.それをヒトのからだに適用すると、例えば、脳はコンピューター、目はカメラ、心臓はポンプといった部品になります。ヒトのからだはそのような部品を寄せ集めて組み立てた精巧なロボットと見られるのです。そうすると、古くなったり壊れた部品は取り替えればいいという考え方も出てきます.それが臓器移植という考えにもつながってきているのです。それはまた自然を人間の意のままに支配しようとする「自然征服の学問」と読んでもいいようなものなのです。でも、ほんとうに自然には目的などあるのでしょうか。目的とは人間がその時々の自分の都合で自然に押しつけただけのものなのではないのでしょうか。

 そのような目的論的な見方ではないもうひとつの見方があります。それはヒトのからだをひとつの自然としてみる見方です。この見方を三木は「すがたかたちの解剖学」と名づけ、自分の研究方法としました。自然として見られたからだには年輪があります。いまのからだには三十九億年の生命の歴史のあとが、その生成変化のあとが、つまりそのなりたちが刻まれているのです。ここには目的も原因もありません。ただ地球から生まれた地球の一部として、地球の変化とともに変化を続けてきた生命の歴史があるだけです。それはあるがままの自然への深い共感をめざす「自然畏敬の学問」でもあるのです

じつはふたつの見方に応じて、かたちにもふたつのかたちがあるのです。それは「もののかたち」と「いのちのかたち」といってもいいものです。「もののかたち」とは幾何学の三角形のようにいつでもどこでも同じ、時間とは無関係の変化を免れたかたちです。しかし現実の世界にはそのような三角形はありません。それは頭の中にだけある観念のかたちです。現実の三角形は見るヒトによって、見る角度によって、絶え間なくかたちを変えていきます。生きたかたち、いのちのかたちとはそのように時とともに絶え間なく変化するかたちです。そのようなかたちはなりたちを含むかたちなのです。すがたかたちの解剖学はいのちのかたちのなりたちを研究する学問なのです。

いのちのかたちのなりたちを具体的に研究する方法として三木は三つの方法を挙げています。今生きているさまざまな動物の体の構造を比較する比較解剖学、化石になった過去の動物の体の構造を調べる古生物学、そしてさまざまな動物の受精卵が胎児として成長していく過程を比較する比較発生学があります。三木はこれら三つの方法のうち特に比較発生学を専門的に研究しました。それがあとで述べる生命史の再現を見せてくれる胎児の世界なのです。そしてこの変化の様相を根源のかたちのその時々の変形、つまり原形とメタモルフォーゼとして表現したのです。

 

生命の年輪

 

今生きているさまざまな動物はすべて三十九億年の昔、原始の海に生まれた最初の生命球とつながっています。どの生き物も同じ祖先につながるのですが、そのかたちには家柄の古い動物と新興の動物とがあります。ワニは滅んでしまった恐竜たちと同じくらい古くからいる動物です。それに対して人間を含む哺乳類はずっと新しい動物です。同じ両生類でもサンショウウオとカエルとでは家柄の古さが違います。古生物学と比較解剖学とは過去の動物と今の動物のからだの構造を比較しその変化の歴史を研究するのです。われわれのいまのからだは過去と幾重もの深いつながりをもっています。頭のてっぺんから足のつま先に至るまで体のどの部分もそれぞれの悠久の歴史の物語を秘めています。ヒトのからだは決して理想的に作り上げられた神の似姿ではありません。それどころか地球の環境変化に合わせて何度も増改築を繰り返しながら作り上げられてきた古い温泉旅館のようなものなのです。そこには創立以来の由緒ある部分もあれば、最近できたばかりの新しい部分もあります。それはむしろ理想と言うにはほど遠く矛盾に満ちていて、人間特有の障害をはらんだものでさえあります。古生物学者の井尻正二の「人体の矛盾」(新・人体の矛盾と改題、小寺春人との共著として新版が出ている。築地書館)という本はこのことについてかかれた本で、同じ著者の「地球の歴史」(岩波新書)とともに先生の推薦図書でした。われわれのからだに刻まれた多くの年輪の中から少しだけここにあげておきます。

わたしたちの血液は海水とほとんど同じ成分をしています。子宮のなかの胎児を包む羊水も海水と同じ成分をしています。わたしたちは上陸するにあたってからだのなかにふるさとの海を抱えて上陸してきたのです。哺乳類が「海をはらむ族(やから)」と呼ばれるゆえんです。

ヒトとの祖先である脊椎動物は古生代の終わり、石炭紀の古代緑地に上陸を敢行します。そのことによって脊椎動物は大きく姿を変えました。一番大きな変化は、えら呼吸から肺呼吸への変化です。えらが退化したために魚にはないクビといわれる部分ができたのです。

えらはもともと消化管の一番先の部分にありました。最終的に上陸する前一億年、海進と海退が繰り返される干潟に住む魚たちは、えらの腸の最後の部分が風船のように両側に膨らんで肺をもつようになりました。肺ができたあと、やはりふるさとの海が捨てられないで海へ戻っていった魚たちがいます。硬骨魚類と言われる普通の魚たちがそれなのですが、その魚たちが持っているウキブクロは原始の肺の名残です。一度も海を離れることのなかった魚たちがいます。サメやエイなどの軟骨魚類です。軟骨魚類にはそういうわけでウキブクロはありません。

上陸によってえら呼吸が行われなくなると、えらの穴は最初のひとつをのぞいてみな閉じました。一つだけ残されたえらの穴、それが耳の穴なのです。三叉神経、顔面神経、舌咽神経、迷走神経などのもともとのえらの神経核は、えらがあったときと同じように脳の中に並んでいるのですが、それらが支配するえらを動かしていた筋肉はほかの用途に使われるようになりました。そのひとつが哺乳類で豊かに発達する表情筋があります。喜怒哀楽を表す表情を作っているのはえらを動かしていた筋肉なのです。

えら呼吸から肺呼吸への転換は、われわれに運命的な弱点をもたらしました。えら呼吸は心臓や腸と同じように内臓筋による無意識の自立的な運動です。しかし、肺呼吸は胸郭を広げたり狭めたり横隔膜を上下させて陰圧を作り、肺に空気を入れるようにしなければなりません。これらはともに内臓筋ではなく骨格筋を使わなければならなくなったのです。そのために魚のような自律的な呼吸は失われてしまいました。人間が行動するとき「呼吸」をどうはかるかということが常に大問題になるのはこのことに由来するのです。

わたしたちの背骨は前後に彎曲しています。しかしこの彎曲は魚の時代にはありませんでした。ニシンでもサンマでも食べた後の骨を見ればわかるとおりまっすぐです。両生類になって背中側に向けて彎曲ができます。さらに爬虫類になると首が今度はおなかに向けて曲がります。さらに哺乳類になり腰の彎曲が形成され、最後に人間が直立すると腰の彎曲がさらに深くなると同時に首がもう一度反対に顔の側に曲げられることになります。クビと腰は人間の最大の弱点です、むち打ち症とぎっくり腰にはそのような生命の歴史と関連する背景があるのです。

 

胎児の世界

 

 三木成夫を導いたもうひとつの言葉にドイツの発生学者ヘッケルの「個体発生は系統発生を繰り返す」と言う言葉があります。受精卵は胎児として成長する過程で生命の歴史を大急ぎで復習してから生まれてくるのです。脊椎動物の胎児は、魚の時代、両生類、爬虫類の時代を経て、原始の哺乳類から人間へと成長していくのです。数十億、数億年の生命の歴史がそこに再現されているのです。それは生命の再生更新される過程といってもいいのです。生命は生殖を通じて次の世代へと更新されます。そしてその一つ一つの生命はそれまでの一切の生命史を生きなおして新たな個体となるのです。

 進化の歴史を繰り返すと言っても、例えば数億年の歴史が数日数ヶ月と言った短い期間のうちに再現されるわけですから、古い時代のできごとなどはまぼろしのようににたちまちにして過ぎ去ってしまいます。ただ古い形の生き物ほど古い段階がゆっくりと進むのが見られるのです。

 比較発生学の具体的な研究方法を三木に教えてくれたのは東北大学の浦教授でした。それはさまざまな動物の胎児の心臓にガラスの針を刺し、墨汁を注入して血管が見えるようにしてその変化を研究する方法です。

 三木が研究したのは脾臓のなりたちです。脾臓は人間ではその成り立ちがわからず「神秘に満ちた臓器」と呼ばれていたのです。三木はヤツメウナギとオオサンショウウオとニワトリの胎児の発生を調べ、ニワトリの胎児の脾臓がヤツメウナギに見られる腸にくっついた脾臓から、次第に陸上動物の持つ独立した脾臓に変わっていくさまを見出しました。それはえらの退化の前に起こるのです。三木はこれをかつて脊椎動物の進化の歴史に現われたシルル期の海からデボン紀の水辺を経て石炭紀の古代緑地への生命の上陸の再現と見たのです。それはニワトリの発生の四日目を中心に走馬灯のように見られると言うのです。

 三木はこのような方法で心臓がどのように生まれ、えら呼吸から肺呼吸への変化にとも伴ってどのように分化していくのかを、えらの循環から肺の循環への循環系の変化とともに研究しました。そのもっともわかりやすい成果は「胎児の世界」の中に載せられている心臓の奇形についての物語です。生まれてくる赤ん坊にときおり現われる心臓の奇形がポリプテルス型、アミア型、ニジマス型など家柄の古い魚から新しい魚と同じであることを見出したのです。胎児の肺静脈は心臓に戻るときにいろいろの道筋をとおります。そして浮き袋になった硬骨魚類のタイプと肺になった陸上動物のタイプでそれぞれ三つに分かれ、それらが発生の途中にいっしょに出現しているのです。赤ん坊たちの心臓の奇形は一億年の月日をかけて上陸した生命と海に戻っていった生命とのおもかげをやどしているのです。

 三木はヒトの胎児の研究はしませんでした。しかし、藝大の学生への特別講義で生命の歴史をどのようにして伝えるべきかを悩み、集められていた胎児の顔を見せることを決意します。胎児の顔はふつうには隠れて見えないのです。長い逡巡のあとようやく切り落とされあらわになった胎児の表情には、日を追って変化する生命の歴史が現われていたのでした。三十日の胎児には生きている古代魚ラブカの、三十六日の胎児にはムカシトカゲのハッテリアの、そして三十六日の胎児にはすでにけもののミツユビナマケモノのおもかげが現われていたのでした。

 

 次回はすがたかたちの解剖学の中心主題、原形とメタモルフォーゼの話です。

    (東京女子医科大学第二病院)