三木成夫といのちの世界

 

吉増 克實

 

(三)いのちのかたち、いのちの波

 

ヒトのからだを越えて

 

昭和四十三年に「ヒトのからだ」が出版された後、昭和四十四年からすがたかたちの解剖学の完成を目指して書き続けられた解剖学総論は、昭和五十二年「生命の形態学」と題されて発表されます。しかし、この著作は総論を終え、各論が予定の三分の一まで進んだ時点で中断され、後は草稿のまま残されました。それには、昭和四十八年医学部の解剖学教室から芸大へと職場を移したことが関係しているかもしれません。いずれにせよ、この間に、ヒトのからだの成り立ちを明らかにするという解剖学的関心は次第にヒトのからだを越えて拡がり、脊椎動物から無脊椎動物へ、さらに植物へ、そして様々ないのちのかたちのそれぞれに独特なあり方とともに、いのちとそれを取り巻く世界との密接なつながりへと移っていったように思われます。

生命の形態学の総論の表題を見ればすでにその関心の広がりの大きさは明らかです。そこでは、第一章は生の原形と題され、宇宙の根源形象・らせんとリズム、生の波・食と性の位相交代の二部に分けられ、第二章は植物と動物という表題のもと、一部は生物の祖先・進化とは何か、第二部は植物的と動物的・遠の観得と近の感覚、第三部は植物と動物の体制・積み重ねとはめ込みに分けられています。第三章は動物の個体体制の題で、植物器官と動物器官・内臓系と体壁系、両器官の形成・体制の分極、からだの極性・分極の意味するものに分けられています。この総論はそれ自体としてさらに深められ展開されて、「胎児の世界」という著作としてまとめられることになるのです。

 

いのちのかたち

 

 脊椎動物以外の生命の構造、生命のあり方は三木の目にはどのように映ったでしょうか。実はそこにも様々な極性連関が認められるのです。たとえば、脊椎動物と無脊椎動物とは、背骨の有無という以外にも、互いに極性をなす対称的な構造が見られます。つまり脊椎動物では腸管の背中側に神経管が形成されるのに対して、無脊椎動物ではおなか側にできるのです。それどころか発生の初期に受精卵が分割を繰り返すうち、一方がくぼんでいき内外二つの細胞の層からなる袋になります。この袋の底が抜けて腸管が開通するのですが、もとの入り口がそのまま口になるのが先口動物と呼ばれ無脊椎動物になり、新しくできた方が口になる動物が後口動物と呼ばれて脊椎動物になるのです。このような構造の極性の違いがそれぞれのいのちのあり方にどんな意味を与えているのか、三木自身はそのことについては何も述べていません。

しかし、もっと原初的な生命のあり方の違いは植物と動物のあいだにあります。植物は、栄養生殖の植物性機能だけからなるのに対して、動物はそれに加えて感覚と運動の動物器官も備えています。それは大地や大気と直接交流して独立栄養を営む植物と、栄養を植物やほかの動物を食べることによるしかない従属栄養の動物との違いでもあります。「植わった物」としてその場で栄養生殖を営むものと、餌と異性とを求めて「動く物」であるものとの違いです。

動物と植物との構造には極性的な対立がみとめられます。動物から腸管を引き抜いて、それを手袋を裏返すように裏返しにしたものが植物の構造です。腸の絨毛に当たるものが根や葉ということになります。植物は内臓が世界と直接接していて、そこにはどんな隙間もありません。むしろ世界の一部、世界の生物学的部分と言っていいほど世界とひとつになっているのです。その場の大気や土地のほんのわずかな湿り、微妙な光と陰を厳密に反映します。植物の生態はその土地の気候風土をもっとも忠実に反映しています。実際、気候帯の区分はそこに生えている植物の区分で表されているのです。植物は環境に合わせて自分のすがたを変えることすらするのです。ゲーテは梅鉢藻が水中では糸状の葉を示すのに空気中ではつながった丸い葉を示すことを述べています。わたしも極端に乾燥した環境で育ったラベンダーが針状の葉をしていたのが、十分な水分を与えられて育つうちに次第に通常の柔らかな丸みを帯びた葉に変わっていくのを見たことがあります。

また、植物には動物のもつ厳密な個体性がありません。ふれあう植物同士がくっついたり、時には違う種類の木がくっついて一本の木のようになることもあります。植物の生長は細胞が「積み重ね」られていくことによって起こります。植物の生長は大気と大地とをおのれに同化していくことです。そこには原則的に成長の限界はありません。地球大のバオバブの木もありうるのです。

植物を裏返しにして、蠕動運動のための筋肉のサポーターを巻き、それにさらに移動運動のための筋肉のサポーターを巻いたものが動物です。動物はふれあっても肉体同士が同化することはありません。同じ種であっても個体が異なれば拒絶反応が起こります。動物の成長はあらかじめ外枠が決められた中に、次々と細胞が分化し「はめ込まれ」ていくというかたちでおこります。動物は植物性器官の内臓を通じて宇宙と交流しています。それは宇宙を体内に閉じこめているのです。そこでは肝臓と腎臓という出入り口の関所によって内部と外部とが厳しく境界づけられています。それは、動物を構成する細胞が個体としてはっきりしたまとまりを示し、それ以上分割できない全一的なものとしてひとつの中心を介して世界と交流しているように見えます。それは大宇宙に対して自分自身の中心をもった真の意味での小宇宙なのです。

ゲーテは動物よりも植物に生命の本来のすがたを見ていました。死ぬ直前に書かれた友人宛の手紙にも次第に強まる植物への関心を述べています。三木は人間の直立姿勢に、重力の方向に素直に、大地の天空に体を伸ばす植物の姿勢との共通性を見ています。動物は地上を横ばいする不自然な姿勢をとらざるをえなかったのが、人間に至ってはじめて直立する正しい姿勢をとることができるようになったと言います。植物はその姿勢をずっと以前に完成していたのです。

前回にも述べたことですが、三木は、動物が個体性を強めたことを、植物の宇宙と一体になった暮らしと比べて宇宙とのつながりが希薄になったことと関係しているように思っていたようです。しかし、植物ではこころはまだまどろみの中にあります。「こころ」が目覚めるには動物性器官としての「からだ」の目覚めが前提になるのです。そして人間にいたってこころが目覚めるのですが、それは宇宙の中に共感表現の新たな中心が目覚めることなのです。その場の宇宙が目覚めることなのです。ただ人間ではやがてこの「こころ」の中心が「あたま」によって簒奪されることによって、人間生命の宇宙からの疎外が始まることになります。このことについては別のところでお話しするつもりです。

 

食と性の波

 

(参考図表2)

http://www.geocities.jp/seto_no_shorai/yoshimasu_2_fig1.gif

 

 動物のからだの植物性器官は、栄養を中心とする時期と生殖を中心とする時期、つまり食の相と性の相とでその構造を変化させます。たとえばヤツメウナギやサケなど、一生が自分のからだを成長させる時期と生殖のために行動する時期にはっきりと分かれるような生物では、生殖期になるとともに個体を維持するはたらきは失われものを食べなくなります。それに応じて栄養摂取のための腸管は萎縮し、おなかは卵巣や精巣の性物質ではち切れそうにふくらむのです。植物性器官である内臓は拍動しています。三木はこれを内臓波動と呼びました。図は二つの時期のからだの構造の違いを表しています。植物性器官の中心は食の相では心臓に、性の相では卵巣と精巣とが向き合う中心、子宮にあります。植物ではこの二つの位相は、茎を伸ばし葉を茂らす成長繁茂の相と、花を咲かせ実を実らせる開花結実の相がひとつの植物に積み重ねられたかたちとして現れています。

 実はこのような二つの位相は、単細胞生物にも認められるのです。アメーバなのどの単細胞生物では、自己分裂によって自己増殖を続ける増殖相と、二つの個体が接合して核物質を交換する接合相とが区別されます。多細胞生物のシダでは、胞子をつくる無性生殖の世代と、胞子から生まれた前葉体による有性生殖の世代とが交代する世代交代が認められますが、これはとりもなおさず同じ生物の食の相と性の相との交代にほかなりません。反対に動物の食の相と性の相も体細胞の分裂による成長の時期は無性生殖の時期、性細胞の減数分裂と受精の時期が有性生殖の時期と見ることができます。このように、食と性の波は、単細胞生物から多細胞生物の動物に至るまでかたちを変えながらも繰り返し現れます。それはあらゆる生命を支えるいのちの波と言うにふさわしい根源のリズムなのです。

 

生物リズムと四大リズム

 

 からだの植物性器官の変化、内臓波動としてみられる食と性の波は、太陽の周りを回る地球の産み出す四季のリズムと密接に連関しています。それはまず地球の表面を彩る植物の成長繁茂、開花結実の波としてあらわれます。春のさくら前線、秋のもみじ前線は地球と植物との生命の交流の現れなのです。季節とともに訪れては去る渡り鳥の群れも、産卵と子育ての場所と成長の場所との往還を表しています。サケやアユやウナギが生まれ故郷の川上から海へ出てそこで成長期を過ごした後に産卵のために故郷の川へとさかのぼることはよく知られています。それはむろん季節と密接に関係しています。そしてその場合生まれた場所は生殖を終えた魚たちが死ぬ場所でさえあるのです。食と性と、そして死も、地球の季節を織りなす生命の営みの一部なのです。

 動物の産卵が季節的なリズムに織りなされているという以上に、海に住む様々な動物の産卵が潮の満ち干のリズム、つまり月齢と密接なつながりもつこともよく知られた事実です。南の島のカニやゴカイの一種などが一年のうち特別な満月の夜に一斉に産卵のために大移動を初めたり、海の底から海面に一斉に浮かび上がってくるということがあります。ある種の魚が産卵のために海岸に押し寄せたり、ウミガメが産卵のために砂浜にあがってきたりすることも月の満ち欠けと密接なつながりをもっているのです。

 こうした月のリズムは人間のからだにも古い生命記憶として刻み込まれています。生まれたばかりの赤ん坊は月のリズムで寝たり起きたりしますが、それはやがて太陽のリズムに覆われていきます。女性の月経周期も太古のむかし海に住んでいた時代の潮汐リズムの名残なのです。七日を一区切りとするリズムがあることもウサギの歯に刻まれた年輪で確かめられています。一週間が七日であることにもヒトの体に刻まれた生物リズムに基づくものであるらしいのです。

ヒトのからだには地球の自転が作り出す昼夜のリズムと関連する生物リズムが認められます。睡眠覚醒リズムに代表されるこのようなリズムはおおよそ一日の周期を示すために概日リズムとよばれています。一日より短いリズムの中でよく知られているのはレム睡眠と関連した睡眠の九十分周期のリズムです。そのリズムは覚醒している昼間にもわたしたちの意識しないところではたらき続けているのです。

わたしたちの意識の届かない生命の奥底で生命のリズムは宇宙のリズムと響き合っています。三木はこの二つのリズムの響き合いについて次のように述べています。「

サケが故郷の川へ産卵のためにさかのぼっていく。雁が南の餌を求めて大空を渡っていく。これらが季節の風物詩として定着していることはだれも否定できない。ゴカイの類が海底の食の営みから海面の性の営みへと大挙浮上するさまを見て、南方の原住民は暦をつくる。それほど生物リズムと四大リズムは一致する。…こうして生物リズムを代表する食と性の波は、四大リズムを代表する太陽系のもろもろの波に乗って無理なく流れ、そこにはいわゆる生と無生の違いこそあれ、両者は完全に解け合って、ひとつの大きなハーモニーをかもし出す。まさに『宇宙交響』の名にふさわしいものであろう」。

 

パンタレイ

 

 ギリシアの哲学者ヘラクレイトスは、パンタレイ、「万物流転」と言っています。パンタレイのレイは流れるという意味ですが、リズムという言葉もこれに由来します。その意味ではパンタレイは、万物はリズムをもつ、万物は拍動するという意味でもあるのです。三木はまたこう述べていました。「この原始の生命球は、従って『母なる地球』から、あたかも餅がちぎれるようにして生まれた、いわば『地球の子ども』と言うことができる。この極微の『生きた惑星』は、だから引力だけでつながる天体の惑星とはおのずから異なる。それは『界面』という名の胎盤をとおして母胎すなわち原始の海と生命的につながる、まさに『星の胎児』と呼ばれるにふさわしいものとなるであろう」。そうすると四大リズムと響きあう生物リズムは、そもそも母なる地球から分け与えられたものであったに違いありません。ひとつひとつの生命の中に、生命記憶として宇宙のリズムが刻印されています。根源をなす宇宙リズムが、ひとつひとつの生命の中で繰り返し再生更新されているのです。

    (東京女子医科大学第二病院)