三木成夫といのちの世界

 

吉増 克實

 

(四)いのちのはたらき、こころのはたらき

 

かたちからこころへ

 

 前にも述べたように、三木はすがたかたちの解剖学の完成を目指す解剖学者としてこう述べていました。生物の現象のかたちを通してこころを見るとき、前者に焦点を当てれば形態学が、後者に的を絞れば心情学がそれぞれ成立することになる、と。しかし三木の関心は時とともにかたちからこころへと重点を移していったように思われるのです。「胎児の世界」の最後で三木はすでにかたちから離れてこころの問題を直接取り上げています。三木にとって「こころ」とはいったいどのようなものであったのでしょうか。

『こころ。……この本来の意味は何か。わたちたちの祖先は、遠い古代の昔から「コ・コ・ロ」の音声を日常の言葉として延々と使い続けてきたのであろう。それが、漢字の渡来とともに、心臓を形作る「心」の文字に当てられる。この音形象から視形象への翻訳は、彼らが「ココロ」と「心臓」を不可分のものと考えていたことを示す端的な証拠であろう。ここでの「心臓」は、……その独自の運動相貌、絶え間なく続くその拍動の姿に、その本質が求められるのではなければならない。「ココロ」とは、従って、この心拍に象徴される「リズム」そのものであることが伺われる。

……「花鳥風月のこころ」という。それは、人間以外の動植物はもちろん、地水火風の四大にも「こころ」が見られることを言ったものであろう。そこで、いま、この「こころ」を「リズム」に置き換えると「花鳥風月のリズム」となるが、その意味とはもうここでは明らかであろう。花鳥のリズムは「いのちの波」を、また風月のリズムは「天体の渦流」をそれぞれさす。前者が小宇宙のリズムであれば、後者は大宇宙のリズムとなる。そしてこの両者は、たがいに共鳴し合う。「花鳥風月のこころ」とは、したがって、森羅万象が「こころを一にして」息づく、まさに宇宙交響の姿をいったものであることがうかがわれる。

……ここで、人間の「こころ」について考えてみよう。それはこうしてみれば、大宇宙のリズムと共鳴する、このからだの“内なる”小宇宙のリズムということになる。……生命発生以来延々と営まれていたその宇宙交響のうねりは、このからだの深層で今なお生き続けているのでなければならない。自然の「こころ」に感ずる、いわゆる“共感する”というのが、その何よりの証拠ではないか』。

三木の言葉によれば、こころとは何よりも心臓の拍動に表されるリズムそのものであり、こころのはたらきとは花鳥風月のこころに現れる小宇宙のリズムと大宇宙のリズムとの共鳴、すなわち宇宙交響ということなのです。人間のいのちの中にはそのような深いリズムのつながりが潜んでいて、わたしたちが風や光や四季折々の世界の移り変わりにこころを動かされるまさにそのとき、生き生きと心臓をを動かすというのです。

 

クラーゲス

 

 三木がゲーテに導かれて形態学をすすめていったように、心情学を進める上で強い影響を受けた哲学者がいます。それがドイツの哲学者、ルードビッヒ・クラーゲスです。その著作「意識の本質」の中で、クラーゲスは現象の性格や意味を表す数々の言葉について検討し、それらが常に二重の意味を持っていることを明らかにしています。つまり「冷たい」という言葉は、からだで感じる氷の冷たさを現わすと同時に、人の態度の冷淡さという意味での冷たさというこころの意味を持っているのです。それは決して単なる比喩ではなくこころに直接冷たさとして感じられるものなのです。高い音、低い音という時、決して空間的な意味での高低を言っているのではありません。高い音は別に高いところから聞こえるのではないのですが、実際に高く聞こえるのです。それが音のもっているこころの直接の現われなのです。

『色彩や温度、空間属性等々が心情をそなえた人格の記載に役立つのは、それら自体が心情をそなえているからなのである。もし世界に「現象する」のが心情でありそして心情だけであるのでなかったら、心情を世界現象の助けを借りて特徴づけることなど不可能であろうし、また決して試みられることもあり得なかったであろう。現実「それ自体」が、心情をそなえた形象の世界あるいは現象する心情の世界なのである』。『現象は例外なく生きており、物は例外なく生きていないと付け加えれば正しく理解されるであろうか。体験される形象としてみれば、植物、動物、人間ばかりでなく、岩石、雲、水、風、炎も生きているし、日光の中に見えるほこり、煉瓦、机、星空、それどころか空間も時間も生きているのである。ただ考えられるにすぎない物という意味でとらえれば、これに対して、人間でさえほかの物と同じように、単に機械的に運動する原子の結合にすぎない』。

クラーゲスによれば、本来の現実世界とは現象の世界であり、現象はすべてこころをもっている、こころをもっているものはすべていのちをもっている、生きているのです。そして三木が取り上げていた花鳥風月のこころについて言えば、花鳥は小宇宙の生命を表し、風月は大宇宙の生命を表していることになるのでしょう。それらはともにいのちの世界を織りなしているのです。

それにしても、現代人にとって、このようないのちの世界とは日常生活から離れた、まるでおとぎ話か神話の中でしか出会えないもののように思われるのではないでしょうか。事実、自然科学によって産み出された物の世界を基礎にしてわれわれの日常を支える現代文明は築かれてきたのです。わたしたちに親しいのはむしろ物の世界の方かもしれません。あらためて本来のいのちの世界についてよく知るためにはこころそのもののはたらきについてもう少し詳しく知る必要があります。

 

あたまとこころ

 

三木は人間のこころのはたらきについて語るときに、いつも思うという漢字を引き合いに出しました。それはこの漢字の成り立ちがこころのはたらきを不思議なほどよく表わしているからなのです。「思」という漢字は二つの部分、上部の田と下部の心とから構成されていますが、上の田は脳の象形文字、下の心は心臓の象形文字なのです。古代の中国人たちはこころのはたらきを脳と心臓とを組み合わせて表わしていたのです。実は、このことは日本語でも同じなのです。日本語の広い意味でのこころのはたらきは、「こころ」という言葉で表わされるはたらきと、「あたま」という言葉で表わされるはたらきとに分けられます。そして「こころ」は、先の三木の言葉にあったように、本来心臓の拍動を意味する言葉であり、「あたま」はひよめき、つまり赤ん坊の時にはまだ閉じられていない頭頂部の大泉門を表わす言葉なのです。

さらに重要なことには、「あたま」と「こころ」のはたらきとは、いわば対立する二つのはたらきを表わしていて、取り替えることができないのです。それはたとえば「暖かなこころ」とは言えても「暖かなあたま」という言い方はないこと、「よく切れるあたまという言い方はあっても「よく切れるこころ」という言い方はないことからもわかります。

人間は人格のはたらきという観点から見るとき、動物一般と共通する生命と人間にしか認められない自我とから構成されています。生命、つまりいのちではこころとからだが極性的に連関しています。こころはからだの意味であり、からだはこころの現象であると言われるように、それらは互いに切り離すことはできないのです。そこではこころは共感と表現の中心、からだは感覚と運動の中心です。それに対して自我はあたまのはたらきに相当するもので、意志と判断の中心を意味しています。つまりあたまとこころとは、理性と感情、義理と人情など昔から知られている二つの対立するこころのはたらきを表わしているのです。

三木はあたまとこころとの対立を動物性器官と植物性器官との対立、体壁と内臓、はらわたとの対立と関係づけていました。脳と心臓とは、すがたかたちの解剖学ではそれぞれ動物性器官と植物性器官の中心をなす器官であったからです。しかしもともとは動物性器官も植物性器官もともにからだとしてこころと極性的に連関するいのちの一部なのです。あたまの反心情的、反生命的なはたらきの発展には生命の変質、それも動物器官の脳のはたらきの変質を前提にしなければならないのです。実は、あたまとこころとの対立は、生命の宇宙と歴史的人間の心の中だけに生まれた虚無との対立を表わしているのです。虚無とは、あのミヒャエル・エンデの果てしない物語に出てくる虚無、つまりこころの世界ファンタージエンに押し寄せる「ない」のことです。

三木は思うという漢字を心臓が脳を支えている字、あたまがこころの声に耳を傾けている字と言いました。あたまがこころの支えを失った字があります。脳が心臓の横に転げ落ちている漢字、すなわち悩むという字です。こころの支えを失ったあたまは悩むしかないのです。

こころのはたらきとあたまのはたらきとをもう少しくわしく見ていくことにしましょう。

 

こころのはたらきとこころの発達

 

まずこころのはたらきを取り上げてみましょう。こころが生き生きとはたらいていると感じられるのは、世界の出来事にこころが生き生きと動かされるときです。他者や世界とのつながりと拡がりとが感じられてきます。世界には孤立しているものはひとつもなく、すべてがすべてとつながっている、連続し連関していると感じられてきます。それは本来わたしたちが小宇宙として大宇宙のすべてとつながり織りなされていて、こころが動くのはそのつながりが体験として目覚めるだけのことだからです。こころが目覚めると生命の性質、世界の現実的性質が強く共感的に体験されてくると言うことなのです。

そしてこころの体験は時とともに世界とともに変化していきます。こころは世界とともに変化することでその意味を共感的に受け取るのです。また同じことの繰り返しもありません。時間は決して逆戻りすることはなく、すべてはたった一回きりの出来事としてすぎていきます。あるのはリズム的な再生更新だけです。また全く同じものもひとつもありません。こころが強くはたらいているときには、この繰り返しのなさ、世界の個性性と多様性という世界の性質が強く共感的に体験されるのです。

こころの成長は共感する個性的な世界の拡大と共感の深まりとして現れます。それはまず母親に無条件に愛されていることの安心と満足という受動的体験としてはじまります。そこではこころはなおまどろみながらも、愛し手とつながりその愛情を受けいれています。その特定の他者の愛情に気づくことから、特定の他者への愛情体験へと発展します。この愛情体験は他者の喜びへの共感、さらに自分から他者を喜ばせ、その他者の喜びを喜ぶことができるという共感献身体験です。こころが生き生きとはたらいているときには、この特定の対象には共感者の生命的個性性が反映されています。個人的な好き嫌いが強く反映されるのです。次に他者との共感体験を前提にして、共感的共同体体験が発達します。この共同体体験は様々の段階的拡がりを示します。共同体内部では共同体を構成する個々の構成員の個性が尊重されます。個性を異にする構成員が交響的に響き合って構成する共同体に対する共感体験です。それはふたりから始まり、家族、仲間、地域的社会的共同体、さらには生きとし生きるものすべてに対する共同体的共感へと広がっていきます。最後に生命的現実それ自体に対する共感に至ります。それは生も死も大宇宙のリズムの中に織りなして再生更新する宇宙の根源リズムへの共感です。

 

あたまのはたらきとあたまの発達

 

宇宙のすべては時とともに変わり続けています。それに対して変わらないものがただひとつだけあります。虚無、「ない」と言うことです。「ない」には変化も、どんな質的な相違もありません。それだけでは現象不可能な「ない」が人間の心の中にやどって新たな作用中心を形成したのが自我です。生命化された虚無としての自我にとって生命的現実の世界は理解不可能、支配不可能な抵抗として現れてきます。自我は世界にはたらきかけて、虚無を実現しようとします。その現れが、抵抗としての他者や世界への破壊衝動であり、支配欲です。あたまは即座の願望実現を妨げる抵抗としての時間を憎みます。ひたすらスピードが追求されます。変化する世界と時間との関係を絶つことで不変の形式を求めます。自我は個性を憎みます。世界のすべては個性を奪われてただの数値になり、画一化されます。質の代わりに量が追求されます。速く、たくさんのことがだれにでもが一律に実現できることがあたまの目標です。

あたまの発達はむき出しの自己中心的な攻撃欲からその完全な抑制に向かう過程です。感覚的満足の追求から始まり、意志の万能の追求、暴力による他者の支配、ルールを前提にしたエゴイズム的競争における成功追求、エゴイズムの完全な抑制と他者の絶対的尊重と平等、さらに法則とイデオロギーにもとづく物の世界、観念の世界へと向かいます。

 

こころの世界へ

 

 こころのはたらきは基本的には受動的なものです。それはもともとひとつの世界に織りなされている他者や世界とのつながりに目覚め、はたらきかけてくる別のこころにこころが感応しからだが動かされる体験です。それにたいしてあたまのはたらきはもっぱら能動的です。それは孤立した中心としての自我から他者や世界へ一方的にはたらきかけるのです。確かに、ないものに向かって努力できるのは人間だけなのです。こころに導かれるとき、努力は目標への特急切符になります。しかしこころに導かれるのでなければ、終着駅は闇雲の破壊になるよりないのです。

こころが不安や空虚感に襲われるとき、あたまは努力し自我目標の実現によってそれを克服しようとしてがんばります。しかしどれほどがんばってみても、それではこころの満足は得られません。こころを動かすのはこころしかないからです。自我目標はそれ自体としては本来何の現実性ももたない幻影にすぎません。それは努力によっては追求できない生命目標を実現するための仮の目標にすぎないのです。生命目標が見失われ、快楽であれ、権力、金、名誉であれ、自我目標がそれ自体として追求されるようになると、行動はすでに神経症化しているといってもよいのです。それどころか自我の基本的なはたらきは、こころとからだを動かさずに「楽をして」目的を達成することなのです。あたまのはたらきがこころのはたらきに先立つとこころははたらかなくなるのです。

こころの世界が本来のいのちの世界であり、物の世界はあたまによって作りだされた仮象の世界です。いのちの世界はこころが生き生きとはたらくときに初めて現れてくるのです。いのちの世界と心を通わせて生き生きと生きるためにはこころを守り育てることが大切です。そして、能率よく、速く、簡単に、手間ひまかけずにたくさんのものを求めるというあたまのやりかたでこころを育てることはできないのです。共感するこころの喜びを大切にすること、それぞれのこころに働きかけてくるものひとつひとつを、それぞれのこころとからだを動かして大切にする生き方がこころを育てるのです。

    (東京女子医科大学第二病院)