三木成夫といのちの世界

 

吉増 克實

 

(五)母なるものへ

 

いのちの世界

 

三木成夫はいのちの世界への案内人です。そしていのちの世界は、こころが動かされることによって見いだされ、こころが目覚めていくにつれて拡がり深まっていく世界なのです。解剖学者としてヒトのからだの研究から出発した三木の関心は、次第に脊椎動物の系統発生、無脊椎動物との比較、植物を含む生命の世界へと広がっていきました。そしてそれはさらに自転しながら太陽の周りを回る地球が生み出す四大リズムと植物や動物のいのちの波が示す生命リズムとの交響的連関にまで広がっていったのです。

同じような関心の展開を見せた人に今西錦司がいます。今西は今日のサル学など動物生態学の基を築いた人です。彼は自然界の全体的なあり方への関心にも終生導かれていました。そして、種という概念は種個体を集めただけのものという一般的な自然科学的な見方に対して、種の棲み分けという事実を発見し種社会というものが存在することを示しました。進化についても個体の変化を進化の動因とするダーウィン以来の考え方に対して、種の変化が個体の変化に優先すると述べて、独自の進化論を提唱しています。今西によれば個体を越えて種社会(スペキア)が、さらには生物全体社会(ホロスペキア)というものがあるといいます。それはさらにラブロックによって提唱されたひとつの生き物としての地球(ガイア)という見方にもつながるものでしょう。生態学には、土地の気候風土の密接なつながりをもつ動物相(ファウナ)や植物相(フローラ)という概念もありますが、生物全体社会という考えはこれらを包含するものです。

 

極性連関する全体

 

前回に述べたこころの発達という観点からいのちの世界の拡がりとその特質をあらためてみてみることにしましょう。わたしたちはこころが目覚めるにつれ、自分自身をひとつの生命的共感中心としながら、さまざまな共感的全体に所属していることが体験されてきます。共感的連関は全体と部分とであれ、部分と部分とであれ、すべて極性的連関にあります。この共感性は次第に広がっていくときもそれぞれの個体的生命の生命的個性を反映した個性を失うことはありません。まず、人間的な活動と直接関与する段階だけを考えてみてもみましょう。前回に述べたこころの発達の記述と重なるように思われるかもしれませんが、受けとめるこころの側より開ける世界の側に重点を置いているつもりです。

まずは無条件で愛してくれる母親の愛情に対する受動的な安心と満足の体験があります。母が最初の世界ということになりますが、ここですでに母と子という二者による全体的連関が現れます。この母子関係は本来的に個性的です。つぎに自分が積極的な愛し手になり相手とのあいだに共感や信頼感を結ぶ二者間の共感的連関があります。そこにも友人関係であれ、恋人同士であれ、夫婦であれ、二者を包む全体的連関があります。これらはそれぞれ共感中心の生命的個性を反映します。次にはこれらの連関を内包した上での、共感的共同体があります。人間的な共感的共同体の範囲では、家族、(学校、職場)、生まれ故郷、そしてさまざまな次元の文化的民族的共同体があります(たとえば東北地方、日本、東アジア)。わたしたちにとってこれら人間的な共同体も基本的には運命的なものです。運命的というのは生まれると同時のその世界の一部となり、それを選んだり変えたりすることはできないという意味です。わたしたちは親を選ぶことも生まれ故郷を選ぶこともできないのです。

わたしたちはさらに人間的社会的な共同体よりも大きな共同体的全体と運命的に連関しています。わたしたちはヒトとしての種社会に属しています。それがヒューマニズム(人間中心主義)の母胎ともなるのです。さらに動物界に属する一員であり、さらに植物も含む生物全体社会に属してもいます。生物全体社会に対する共感的共同体体験が目覚めるときに生きとし生けるものみな仲間という共感体験が生まれるのです。さらにわれわれは地域ごとの動物相や植物相を含んだ気候風土の一部でもあれば、そのまま生きとし生けるものを育む水と大気の星、地球の一部でもあります。それだけではありません。地球の一部であることは、地球と月、さらに地球の属する太陽系という宇宙的連関に属することでもあります。地球の上で繰り広げられる、動物や植物のいのちの波、食と性との営みは、月による潮汐リズム、太陽の周りを回ることによる四季のリズムと密接なつながりもつことはすでに述べました。最後にわたしたちは時間と空間という宇宙的連関に編み込まれているのです。

全体性に注目するときには、これを個体生命の全体性を出発点にしてその部分との極性連関を見ていくこともできます。小宇宙としての個体生命という全体性に部分として極性連関するのは個々の臓器です。この臓器を全体とすると次には細胞という部分が次の全体になります。そもそも細胞は単細胞生物ではそれ自体が一個の生命としての全体性を示しているのです。細胞に対して細胞内構造物も部分として極性連関を示すと言えるかもしれません。細胞内構造物、たとえばミトコンドリアはかつて独立した生命体であったといわれています。それは核とは別に独自の遺伝子をもっているのです。真核動物の細胞は、原核動物の共生によって生まれたとリン・マーギュリスという生物学者は述べています。彼女もまた三木と同じくヘッケルの生命観に共感を示している学者なのです。さらに、生命的全体性から離れても、さまざまの分子、さらに原子、そしてまた素粒子すら、それぞれの全体性を示していると言えるでしょう。

世界は質を異にする何層もの全体性の分極構造をしているということになります。種も、双葉も、それぞれに完全な全体性を保持しています。それらは不完全な花でもなければ、不完全な実でもありません。生命は成長のどの段階でも完全な全体を保持しています。そしてそれぞれの全体性がひとつの意味として現象しているのです。そもそも多細胞生物の生命史は、それが中心をもった一個の小宇宙となる全体化の完成への過程とさえ見られるのです。

 

体験構造の年輪

 

これらの連関がどれほど運命的なものであるかは、この連関のすべてがわたしたちの体験構造に刻印されていることからも明らかです。上述の時空的連関からひとつひとつのいのちに至るあらゆる階層性は、全体と部分との極性的連関からなっています。全体と部分とが極性的に分かれ、その部分がまた新たな全体として部分と分極すると言うことを繰り返しているのです。分極過程を通じて部分は全体の特質に浸透されながら新たな質性を獲得します。部分には分極過程の後からが年輪のように刻印されているのです。つまりわたしたちの体験構造には時空的連関に始まるあらゆる連関が刻印されています。

共感性の拡大で見た方向とは逆に、体験構造の年輪を見ていくことにしましょう。まず、わたしたちは時空に織りなされています。わたしたちは決して部屋から出るように空間の外に出ることもできなければ、川岸に立って川の流れを眺めるように時間の流れを眺めることはできません。それはわたしたちが時空そのものだからなのです。この時空性の体験が第一の年輪です。わたしたちは宇宙太陽系の一部として、岩や土塊と同じく引力の作用を受けています。そして太陽からの熱と光なしにはわたしたちの生存はもちろん、地球の生命史はあり得なかったことでしょう。引力と光の受容が第二の年輪です。そして地球から生まれたものとして、わたしたちは水と大気なしには生存ません。そのようなものとして生まれたのです。植物と動物の営みは太陽と地球と月と密接なつながりがあります。わたしたちはまた生命のもっとも基本的な特質として植物とともに栄養と生殖という植物性生命過程を分かち合っています。そしてこれを実現するためにほかの動物とともに感覚と運動という動物性生命過程を分かち合っています。こころが目覚めた人間はさらに共感と表現といういのちのはたらきを共有しています。

これら体験構造の年輪が示しているのは、ただ受容するよりない運命的構造なのです。どれほど深く実感されるか、共感的に受容できるかどうかは別にしても、これだけのことからも、わたしたちが宇宙から分化した宇宙の一部であること全く疑いようのない事実であるといわなければなりません。それは決してロマン的夢想の産物、文学的比喩ではありません。時空性をもっとも基本的特質として、何重にも極性分化を繰り返す、そのたびに新たな質性を帯びて現れる世界に、共感中心としてのわたしたちはそれぞれの個性的共感性を通じて出会うのです。この世界のできごとはすべて唯一性という刻印を押されています。世界は個性的なものに満ちあふれています。見渡しがたい多様性の世界、それがいのちの世界です。

あたまのはたらきとはこれらの多様な個性、質性を無視する能力です。それを抽象といいます。そして初めて同一のものが生まれ、同一のものが生まれることで数えたり計算できる数と量の世界が生まれます。ものの世界が生まれるのです。そこにはもちろんいのちもこころもありません。

 

根源のリズムといのちの再生更新

 

いのちの世界のもうひとつの、そしてより根源的な特質があります。それはこの世界という全体的連関が脈動しているということです。世界は時とともに絶え間なく変わり続けています。世界には変化を免れているものはひとつもありません。わたしたちの心と体も、世界と連関しつつ変わりながらその意味を体験しているのです。そして時間はただ一方向にだけ、現在が次々に過去になるというふうに現在から過去に向かって流れていて、逆向きになることは決してありません。世界の出来事はすべてたった一回きりの出来事として生起しているのです。あたまが時間を無視し、質性を無視するときに、同一の出来事の機械的反復がうまれ、また反復可能な概念とものとが生まれるのです。

しかしまたこの変化する世界は、そして世界の連関するすべての部分は、それそれに同一ではないが同じような現象を、機械的な周期ではないが同じような間隔で繰り返しています。類似の現象が類似の間隔で生起することをリズムと呼ぶのです。夜が明けて朝にまなり再び夜が訪れて一日一日が過ぎていきます。しかし今日は昨日とは同じではありません。一年がたてばまた春がやってきますが、今年の春は去年の春とは質を異にする新たな春であることは言うまでもありません。子どもは親に似ているけれど親そのままではありません。連関する世界のもろもろの部分はさまざまのリズムを奏でています。四大リズムと生物リズムの宇宙交響と三木が呼び、ヘラクレイトスがパンタレイといったものです。

たとえば、地球の上のすべてのものは地軸をめぐって周行し、また地球とともに太陽をめぐって周行しながら何重ものらせんを描いています。周行の円環軌道にははじめもなければおわりもありません。終わりはまた新たな始まりになります。地球上のすべてのものは周行を繰り返しながら過ぎた時間の分だけ新しい質性を獲得し更新されるのです。いのちの波、世界のすべては周行しながららせんを描き、脈打ちながら再生更新されます。始めも終わりもない円環運動が時間的に展開されてらせんになり、周行するたびに質を変えて脈動する再生更新になります。世界は、つまり時空は、脈動しながら再生更新を繰り返しています。もっとも新しい現在には、劫初以来のすべての過去が再生更新されて現れています。そのようにして、わたしたちの現在の肉体にも、生命のあらゆる過去が現れているのです。

いのちは食と性の波に乗って絶え間なく再生更新を繰り返しています。わたしたちのいのちは太古の地球の海で生まれた原初の生命球から絶えることなく今日まで再生更新を繰り返してきました。地球はあらゆるいのちの母であり、海はその子宮であったのです。いのちは親から子へと再生更新されます。生命は生殖を通じてつぎつぎと新たな個体へと受け継がれ、そのつどもう一度生命の記憶をたどり直しながら再生更新されるのです。文字通り、子は更新された親であり、再生更新された原初の生命なのです。そして次代へのいのちのバトンタッチを終えた個体は母なる地球へと帰っていきます。大地母神はすべてを産み出す豊饒の女神であるとともに、すべて取り戻す冥府の女神でもありました。母なる地球から与えられたいのちは、また母なるものに返さなければならないのです。三木はこのような個体の死を、元禄の俳人宝井其角の「蟷螂の尋常に死ぬ枯れ野かな」という句を引いて「尋常の死」と呼びました。

 

母なるもの

 

前に述べたとおり、三木は植物における成長繁茂の相と開花結実の相との交代、動物における食の相と性の相の交代に生命のもっとも根源なリズムをみて、それをいのちの波と呼びました。それは無性生殖と有性生殖との交代でもあります。そしてこの交代は単細胞生物の増殖相と接合相の交代から、わたしたちヒトの体細胞の増殖による成長と、減数分裂した性細胞の受精にいたるまで変わることはありません。無極の相と分極の相とが交代しています。

三木は「胎児の世界」の最後に老子の言葉を引いています。「物あり混成し、天地に先立って生ず。寂兮(ケイ)たり寥兮(ケイ)たり。独り立って改わらず、周行して而も殆(つか)れず、以て天下の母為る可し。吾其の名を知らず。之に字(あざな)して道と曰う。強いて之が名を為して大と曰う。大を逝と曰い、逝を遠と曰い、遠を反という。…」(二十六章)。天地への分極に先だつ無極の大なるもの、そこから分極した生命が周行し再び帰ってくるもの、それを母と呼ぶというのです。これをクラーゲスは母たる無極のカオスと分極するコスモスと呼んでいます。「万物、並び作(おこ)るも、吾は以て復るを観る。夫の物の芸々たる、各おのその根に復帰す。根に帰るを静と曰う、これを命に復すと謂う」(十六章)。これは成長繁茂、開花結実ののち大地へと帰る植物の生命の周行を述べているのだと言います。再生更新される生命の中心には大いなる母がいます。すべての母は大いなる母の分身です。大いなる母はまたすべての母の象徴です。三木の胎児の世界は同時に母の世界です。母と子はどちらも生命の周行の最後にある完成された生命の姿であるといいます。

三木は毎年、藝大での最後の講義の時間に学生たちに胎児が母親の胎内で聞き続けたであろう母親の心臓の拍動する音、脈打つ血流音を聞かせていました。母親の死からしばらくして訪れた伊良子崎の海岸で、流木を集めつながら波打ち際を行き来する三木が聞いていた潮騒の音は、こころに呼びかける大いなる母の声に聞こえたにちがいありません。「胎児の世界」はこう締めくくられます。「浜辺に打ち寄せる潮騒の響きは、いつしか意識の表面から消え失せていた。時に高く砕ける音にはっと我に返るのであるが、それも束の間で、ふたたび意識の表からそれはかき消されていく、わたしは黒潮のこころとそこで一体になっていたのだ。いやそれよりももっともっと大きい母なる海のこころと完全に解け合っていたのであろう。いうなれば、人類の生命記憶の故郷に、わたしのこころは、いっとき里帰りしていたのである」。

三木成夫は生涯にわたっていのちの世界について語り続けました。そして今なお残された数少ない著作を通じて、またその魅惑的な言葉によって、いのちのふるさとへと帰るようにわたしたちのこころに呼びかけてくれているのです。

    (東京女子医科大学第二病院)