「チンタオ・ドイツ兵俘虜研究会」 メール会報 0819号
(seit dem 9. April 2003)
Forschungsgruppe "Deutsche Kriegsgefangene aus Tsingtau in japanischen Internierungslagern"
(The Tsingtao War German Soldiers' Internment Camps Research Society)
● *** 千葉在住の植松健氏からの情報 ***
Informationen, die der Redakteur von Herrn Uematsu aus der Präf. Chiba erhalten hat
[2026/06/09 Uematsu K. 植松健 (千葉)] (敬称略)
千葉県日独協会の植松健氏からメールをいただきました。現在は千葉に住ん
でいるけれども、香川県坂出市の出身だとか。それゆえ香川県日独協会の会員
でもあるそうです。毎月帰省しているので、一度会って話をしたいのとことで、
昨日お会いしました。
習志野収容所の研究もされているそうで、元・習志野市教育委員会の星昌幸
氏とも連絡を取り合っている由。星氏が『ドイツ兵士の見たニッポン』(丸善
出版)を出版されていることは周知の通りです。
さて、植松氏とは約2時間情報を交換いたしましたが、その日の内に以下の
URLを知らせてくださいました。
習志野に収容されていた捕虜ヨーゼフ・エリッヒの曽孫が習志野を訪問
東京狛江市にある「ヘルマンさんの会」を紹介
ヘルマン・ヴォルシュケは大阪→似島収容所。狛江でハム・ソーセージの製造
編集者注:
以下は、日本語記事は瀬戸武彦氏の俘虜名簿より。ドイツ語記事はSchmidt
氏のHPより。後者は通常コピーが不可能ですが、今回はなぜかコピーできま
した。
1642) Oellig(エリッヒ),Josef(?-?):海軍東アジア分遣隊第2中隊・2等歩
兵。習志野時代の1919年5月24日、習志野合唱協会の「歌曲の夕べ」ではマ
ルフケ、ハム及びシェーファーの四人でクローマー作の「森の泉のほとりで」
を四重唱した。ライン河畔のリンツ(Linz)出身。(176:東京→習志野)
Oellig, Josef
* Linz/Rhein, Kreis Neuwied, Bezirk Koblenz, Provinz Rheinland; bei Mobilmachung
(01.08.1914) Seesoldat in der 2. Kompanie des Ostasiatischen Marine-Detachements; ab
11.1914 gefangen im Lager Tokyo-Asakusa (Gef.-Nr. 176, Heimatort: Linz/Rhein; IRK-Kontakt:
Tagelöhner Daniel Öllig, Linz, Lasbacherstr.), 07.09.1915 verlegt ins Lager Narashino; Karte am
03.02.1915 an Rabsch im Lager Fukuoka; Brief am 21.04.1915 an Josef Kreidt, Werden/Ruhr,
Sparkasse; Karte am 27.02.1916 an Architekt Th. Foell, Düsseldorf-Oberkassel. 12.1919 entlassen
166) Wolschke(ヴォルシュケ),Friedrich Hermann(1893-1963):海軍膠州砲兵
隊第2中隊・2等砲兵。[屠畜職マイスター]。1891年7月31日、ブランデン
ブルクのラウノ(Rauno)に生れた。兄(Friedrich Paul)、弟(Friedrich Carl)、妹
(Marie Martha,Frieda Charlotte,Agnes Margarethe,Anna Marie)四人の7人兄弟の次男
だった。似島時代、屠畜職人だったケルン(Kern)、シュトル(Stoll)の三人
で、当時の広島市広瀬町上水入町のハム製造会社酒井商会でハム製造の技術指
導をした。三人の写真が『広島中国新聞』(大正8年12月25日付け)に掲載
された。1919年3月4日から広島県物産陳列館で開催された俘虜作品展示即売
会では、バウムクーヘンを出品するようユーハイムを励まし、自身はソーセー
ジを出品し、またドイツ料理を供した。似島獨逸俘虜技術工藝品展覧會のため
に発行された「似島獨逸俘虜技術工藝品展覧會目録」の33頁には、ヴォルシ
ュケ料理のスケッチが掲載された【〔図3〕参照】。大戦終結後は、銀座に新規
開店した明治屋経営の「カフェー・ユーロップ」のソーセージ製造主任になっ
た。後に軽井沢に自分の店「ヘルマン」を創業した。1932年、アメリカから
ベーブルース等を含むプロ野球チームが来日した折り、甲子園球場で日本初の
ホットドッグを販売した。第二次大戦中は同盟国の人間でありながら、長野県
野尻湖畔で営業活動を停止されて、いわば幽閉生活を送った。第二次大戦後、
戦前に東京の狛江に建てられた牛豚の解体・加工施設の一画を借り受けてハム
・ソーセージの本格的な製造を始め、群馬県の養護施設にハム・ソーセージを
毎月届ける等の福祉事業にも貢献した【参照:西東秋男『日本食文化人物事典』
57頁(筑波書房)】。今日、息子のヘルマン・ヴォルシュケ氏が神奈川県厚木
で「ヘルマン」を営業している。東京・狛江の泉龍寺に墓があり、墓碑には「遥
かなる祖国ドイツを誇り、第二の故郷日本を愛したヘルマン・ヴォルシュケこ
こに眠る」と記されている。ブランデンブルクのラウノ(Rauno)出身。(4099
:大阪→似島)
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編集者メールアドレス: kiyuyoki.kasako(@)gmail.com
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