第三節 原型はメタモルフォーゼする
 
かたちは変容せざるをえない
クラウジウスが物質変化の不可逆性をエントロピーと名づけたのは一八六五年であった。だから、世界や生物がなぜ今あるようなすがたかたちをしているのかをエンテレケイアやモナドという言葉でライプニッツが解析したとき、自然を無秩序に向かわせるとするこの概念を当然彼は知らなかった。
だが、およそかたち≠ノついて考えるということは、永遠普遍のかたちなどない以上、変化≠ノついて考えるということを含んでいる。変化するとは、あるかたちが、ある経過を経てそのかたちになり、そして別の経過を経てそのかたちを失うということである。すると、変化について考えるということは、かたちの生―発生―と、その死―崩壊―について考えるということになる。かたちの発生と死に理由があるとすれば、かたちは何らかの力によってそのかたちをとり、何らかの力によって死に至らしめられてしまう、ということになる。
ライプニッツは、生命は全く新たに生まれることも完全に消滅してしまうこともないと考えた。ただ増大と縮小≠繰り返しながら、そのかたちを変えるだけであると考えたのである。モナドという根源的力は、たえず物質を総合して一定のかたちを持った生命たらしめる。自らをとりまく外界に対し、モナドは内側からはたらきかけ、外界のはたらきかけに応答し、自己を表出する。表出することは、外側からの作用に内側からの作用で対応することであるから、物体的実体であれば、その形態を維持することであるし、動物であれば、さらに魂を維持することであるし、人間であれば、その上さらに精神を維持することである。
 
モナドの主従関係は根本現象に辿り着く
優れた自然研究者でもあった文豪ゲーテは、ライプニッツのモナドに階層的秩序があると考えた。たとえば彼は、手のモナドはそれを統括する「主モナド」に仕えており、手のモナドは手がからだから離れないようたえず働いている。手によるピアノ演奏は手にとってはただ疲労するだけであるが、それを動かして音楽を奏でる主モナドにとっては喜びであるだろうといっている。モナドに従属関係があるというわけである。
このモナドの従属関係を主人の側にたどって行くと、そこからあらゆる現象が流れ出す自然界の原点、自然現象の中心とでもいうべきものにたどりつく。ゲーテはこの自然界の原点を「根本現象」(Urphänomen)と名づけた。
モナドが、一≠ナありながら全宇宙を表出する多≠ナあるように、根本現象という一≠ヘ、外界の多様な状況に応じて変化し、多様な経験的現象として現われることによって多≠ナある。反対に、永遠の戯れである経験的現象は根本現象の反映であるといえる。自然とは、一と多、普遍と特殊のような重層性を持っているのである。
根本現象は、経験的現象の背後に隠されているようなものではない。根本現象とは、死んだ蝶の標本でなく、今ここにたゆたう蝶であって、経験とともにあるものである。すぐれた建築家が家を見るとき、眼に映っている家と同時に≠サの骨組みを見透かすように、またすぐれた音楽家が曲を聴くとき、耳に入る楽音だけでなくその音楽的構造を同時に聞くように、経験的現象はつねに根本現象を同時に顕にしている。複雑多様な自然現象から抽象された幾何学的な図形ではなく、決定論的であっても予測が不可能なカオスのように、絶えず多様に変容しながら自己を表現する、単純で普遍的な生き生きとしたかたちである。
経験的な自然は根本現象の表現である。根本現象は外界の条件によってさまざまな貌を見せる。現象としての自然にとっては、その現象の原因≠ナなく、どのような条件≠ノおいてそのような現象が生じるかが問題である。つまり、因果関係ではなく相互関係が問題である。ゲーテにとっての自然の学とは、因果関係の抽象化によって頭の中にうつされた静態的世界を考察する抽象の科学ではなく、自然のすがたをありのままに捉えようとする具体の科学でなくてはならない。根本現象は経験から分離することはできない。法則や理念は現象の背後にあるのでなく、現象そのものが知られるべき法則なのである。
 
ゲーテは直観によって自然の秘密を明かす
ゲーテには頭で考えること、いわゆる思考というものが頼りないものに思えた。理性的で真正な思考を、あらゆる感情や偏見から自由に、絶え間なく行使するには神がかり的な意志力が必要であることを知っていたからである。つまり、主観のもつ恣意性が自然の真実を捻じ曲げてしまうことをおそれていたのである。主観の捉えるものが身体が受け止めるものよりしばしば範囲が狭くなってしまうことを彼は知っていた。
そこで、自然の秘密を掴み取る方法として採用されたのは、党派的になりがちな主観や思考などではなく、感情も思考もすべて含まれるような身体的能力である「直観」(Anschauung)であった。頭による理性的な分析だけではなく、身体的なはたらきかけをも含む直観的な総合によって自然の秘密は開示される、そうゲーテは考えた。
わたしたちが動植物を判別するとき、花弁がいくつであるとか、茎の長さがどうとか、脊椎があるとか、手足をもつとか、肺で呼吸するとかということを一々考慮してこれは何々であるなどとはしないであろう。つまり、植物と動物、昆虫と人間、アメーバと岩石、などの区別は思考に依らなくとも直観的に分かってしまう。また、犬を見るとき、ポチやコロを見るのであって、犬そのものを見るのではない。しかしポチやコロの犬らしさ≠ヘ、ポチやコロを見ているとき同時に見えている。そうでなければそれが犬であると認識できないことになってしまう。あらゆる種類の犬のすがたかたちを包含するらしさ≠ニしての根本現象は、このように直接経験できないが、直観によってしか捉えられない。
直観とは見ることを、眼前にある対象に常に即しながら見ることを契機としている。ある対象が何であるかは見ることによって分かるのである。それでも分からなかったら、さらによく見ることによって分かるはずである。『色彩論』の序でいっているように、熟視は観察に、観察は思考に、思考は統合に移行するのである。現象自体が学説であり、世界を注意深く見ることはそれだけですでに理論化することなのである。
精神による自然理解が、分析すること、つまり自然に切れ目を入れることであるとすれば、直観による自然理解は、自然をありのままに受け取ることである。すると、人間と他の自然をも切り分けず、連続する一つの存在として受け取ることになるわけだから、直観による自然認識は人間自身の認識をも意味することになる。自然を知ることは、自分を知ることなのである。
こうして対象から離れずに注視しつづけるとき、最後に直観されるのは、主客の融合の境位にあるもの、見るものと見られるものとの垣根が取り払われるときにたち現われるもの、自然即人間、人間即自然であるようなデモーニッシュなものである。根本現象に浸ることは最上の幸福をもたらすが、同時に、不安や畏れ、慄きの真っ只中に陥れる。ゲーテによれば、この悍しくかつ聖なる体験は、言語による説明や解析の可能性を超越しており、したがって、根本現象を前にしたわたしたちに残されているのは、ただ沈黙して自然の神髄を享受することだけである。
 
あらゆる植物は原植物からつくられている
根本現象からあらゆる経験的現象が生産される、という方法論が、さまざまな有機体、特に動植物に適用されることによって、創造されたのが、「原型」(Urtypus,Urbild)という概念であった。原型とは、有機体の構造の同一性であり、あらゆる動物、あらゆる植物のなかに透かし見える典型的なすがたかたち、らしさ≠竍おもかげ≠フようなものである。
 「植物が私を追いかけてくる」とまで言わしめるほどに、かねてから植物研究に熱を入れていたゲーテは、有名な『イタリア紀行』の最中、はじめて接する南国の草木を微に入り細をうがって眺めているうちにある霊感に打たれた。かねてから胸に抱いていたある想念、「原植物」(Urpflanze)という想念に対する確信が決定的なものとなったのである。
むしろ、植物という無限の奥行きと間口を持つ世界が、ただ見入るばかりで全く頭など働かせていないゲーテの体内に入り込んで、一つのシンプルで不可思議でデモーニッシュな像を投影したというべきか。珍しいさまざまな植物たちがある一つの秘密を持っていることをついに打ち明けてくれたのである。この秘密は彼の魂のなかであるかたちをとって現われた。こうして彼はこれらの考えうる限りで最も多様な草木たちのなかに、考えうる限りで最も単純な一つのかたちを見て≠ニることができたのである。 
天然自然と触れ合うことの少ない現代人でも、花屋や植物園に行けばいかに草木がみずからの多彩ぶりを誇らしく見せつけているかはたやすく理解される。これほど多様な色や形、大きさ、諸器官の組合せ―いいかれば形態―があることをしりながら、なおゲーテは植物には、すべてに共通する、あるひとつの原型があるというのである。
たしかにそれは単純なものなのである。薔薇やチューリップなど溢れるほどの多様性を持つ植物たちを私たちは、昆虫や他の動物などと思わずに、目の前に佇むそれらについて何か考える前からまちがいなく植物であると直観する。どうしてであろうか。あらゆる植物は、ある一つの単純な「お手本」からつくりあげられているからにほかならない。
さまざまな植物と触れ合ううちに、個々の植物を超えた植物というもの≠ェ見えてくる。いつしかすべての植物に共通する一つの「普遍的形象」がわたしたちの身体に染み入ってくるのである。こうして、そこからあらゆる属もあらゆる種も導かれてくるような一つのお手本が直観されてくる。ゲーテにはそう思われた。
あらゆる植物種は、このお手本としての原植物から導出される。すなわち、地上に繚乱しているあらゆる植物は、「超感覚的な原植物の感覚的な形」(ゲーテ「著者は自らの植物研究の由来を伝える」野村一郎訳)であり、原植物がメタモルフォーゼすることで植物種の多様性が生まれると考えたのである。この意味で、植物の原型とは植物の一般的等価形態≠ナあるといえるだろう。一般的等価形態とは、自分以外のすべての商品が自分のヴァリエーションであるような価値のかたちをさしているからである。
 
原型とメタモルフォーゼは二重性をもっている
原型という内からの作用と、環境という外からの作用の相互作用によって、原型が多様にメタモルフォーゼし、あらゆるかたちが現われる。植物に限らず、あらゆる有機体は、さまざまな外的状況に適応することによって生まれた、原型のメタモルフォーゼであり、原型の具体的表現である。かたちは、内と外から、そして原型とメタモルフォーゼによってつくられるのである。生き物たちは、そうしてできた個々のかたち≠ノよって外界に溶け込み、自分らしいくらしを営むのである。いいかれば、原型概念およびそこから派生する形態概念には、生物の生き方である生態≠ニ、個体の構造≠フ双方が組み合わされている。
くだいていえば、誰某のあの表情はいつもとちがう≠ニいう場合のいつもの表情=Aあのふるまいは誰某らしくない≠ニいう場合のらしいふるまい=A根原のかたち≠ニしての原型とはこのようなものといえるだろう。考えてみればわかるようにどんな動物のいつもの表情≠焉Aらしいふるまい≠煖体的に記述したり説明したりすることは不可能である。生きているかぎり、表情もふるまいも変わりつづけているからである。ただ印象の積み重ねがつくりあげたイメージやおもかげ≠ニして知られるにすぎない。原型とはこのようなものである。
だが、原型は、単にあらゆる有機体を横に貫くだけでなく、個々の個体を縦に貫くという、二重の意味が込められている。つまり、原型には二種類ある。動物や植物のあらゆる種に共通する姿形という意味での原型、そして、個体のからだのあらゆる部分に共通する「同一器官」としての原型である。
すなわち、前者の原型とは、あらゆる植物種がそこから生み出される原植物のことであり、後者の原型とは、ある植物種の個体をつくりあげているすべての部分(器官)を貫く「根源的同一性」のことである。ドイツに帰ってから急いで書き上げた「植物変容論」では、同一器官が、自らのもつ収縮と拡張≠ニいう分極した力によって、植物のからだをつくりあげる様子を論じている。
すなわち、子葉という同一器官が拡張≠オて茎葉を出し、それが収縮≠キることによって萼へと変容―メタモルフォーゼ―し、ふたたび拡張≠オて花弁となり、雌蕊・雄蕊の生殖器官の結実によって収縮≠オ、最後に果実となって拡張≠キることでその一生を終える様を一年生草本においてつぶさに見て取った。これは植物全体においてだけでなく、植物個体においても、原型とメタモルフォーゼがその体制を築いていることを示している。
したがって、原型に二重性があるように、メタモルフォーゼにも二重性があることになる。子葉という同一器官が、茎葉、咢、花弁、花蕊、果実へと、時間の経過にしたがって変化するようなメタモルフォーゼを、「連続的(sukzessiv)メタモルフォーゼ」とよぶ。また、ゲーテは動物の骨格はすべて椎骨を原型としていると考えたが、骨格を構成するそれぞれの椎骨が、頭蓋になるか、頸椎になるか、尾骨になるかなどの役割は、生殖のときから決定されている。つまり、頭蓋になる予定の椎骨が尾骨になったりするということはない。
つまり、それぞれの椎骨の役割は維持したまま、鳥や魚や四足動物や人間などの種によって骨格の形態が変化するようなメタモルフォーゼを、「同時的(gleichzeitig)メタモルフォーゼ」とよぶ。四足動物の上肢と鳥の翼のような、見た目が異なる異種の器官が発生史的、個体体制的に類似していることを相同というが、同時的メタモルフォーゼというのは、この相同器官をつくるような作用を指している。
 
形態学は、すべては原型の変容であると考える
原型とは変幻自在にみずからをメタモルフォーゼすることのできるプロテウスなのである。ゲーテにとって、原型とメタモルフォーゼというかたちの思想≠ヘ森羅万象に当てはめることが可能なものだった。なぜなら、形態をつくろうとする意欲と権利はあらゆる物質がもっており、そして、自然はこの「本質的な形」と戯れながら自分自身を多様性の方へ向かって生産しているからである。
だから、動物においても、超感覚的な原型が、すべての動物のすがたかたち≠ェそのなかに包摂できるような形―「根原のかたち」―とされた。さらに、あらゆるものは形を持つのだから、有機物に限らず、岩石や光―色彩―のような無機物にもこの思想は拡張される。こうして、すべてが原型の変容であるとする学問を彼は「形態学」(Morphologie)と名付けた。
 
「全有機体制の根底には、根源的な内的共通性とでもいうべきものがある。これに対して形態の差異は、外界に対する必然的関係の差異に由来している。だから不変であるとともに、たがいに相違したものになってゆく現象を理解するために、根源的な同時的差異やたえまなく進展してゆく変形というものを仮定することは正しいことである。」(ゲーテ「齧歯類の骨格」高橋義人訳)。
 
動物学に関しては、すでにゲーテは顕著な功績を残していた。それまでヒトの上顎には顎間骨(切歯骨)がないことがサルとの違いであると信じられていた通念を、胎児にそれを発見することで打ち破ったのである(胎児期に上顎骨と顎間骨が完全に癒合してしまうためそれまで見分けがつかなかった)
原型概念は、彼の動物学研究をさらに押し進めた。二回目のイタリア旅行の最中、ヴェネツィアの砂浜で拾った、打ち砕かれた羊の頭蓋から、頭蓋が椎骨から変型して出来たものであるとする頭蓋椎骨説を唱えたこと(この説は後にT.H.ハクスリーによって否定された)。動物の外的構造は基本的に、頭部、中間部、後部の三つに区分され、この三つの部分が、それぞれ独自の機能を果たし、しかも相互に結びつきながら高度に統合された有機体を形成していること。頭蓋が六つの椎骨から成り立っていること。また、齧歯類の骨格について。さらには動物哲学にまで及んだ。原型とは普遍的な理念であり、しかも見える理念≠ナあった。
ニュートンは物質としての光がどのような性質をもち運動法則をもっているかを探求した。だがゲーテにとっては、現象としての色彩が、いいかえれば、人間の感覚に開示される光の現われとしての色彩が重要なのであった。彼にとって色彩とは「光の表情」であり、「色彩環」に表されるような一つの全体性を持っている。色彩の原型としての色彩環が現実の状況によって変化することであらゆる色彩が表現される。人間と無関係に振舞う物質としての光の因果律ではなく、人間と光との織り成す綾としての色彩がいかにして@ァち現われるかが問われているのである。だから「光学」でなく「色彩論」というのである。つまり、人間に対して光がどのように現象するのかを問う、色彩の現象学が重要であると彼はいいたいのである。
 
原型の変容はエレメントによって制約される
こういった原型は、他の条件から全く自由に自己をメタモルフォーゼさせるというわけではないのはもちろんである。骨格における椎骨の役割分担はあらかじめ決まっていたことから分かるように、まず原型そのものが一個の制約条件になっていることはいうまでもない。原植物が動物になることはない。生命体は、地球から生み出されたものであり、よく言われるように地球は生命の海の母である。どんなに生命体が原型に導かれながら限りないほどの多様性を生産しているように見えても、それは原型という枷と、外界という枷の範囲内でのことである。
 
「魚は水のために存在するというよりも、魚は水のなかで水によって存在するといったほうが、ずっと含蓄が深いように思われる。…魚と呼ばれる生物の存在は、水と呼ばれるエレメントの制約の下においてのみ考えられるのであって、そこでこそ単に存在(ザイン)するのみならず、成長(ヴェルデン)することも可能になるということを、もっとずっと明確に表現してくれるからである。つまり内から外へ、外から内へと考察してゆくこの見方こそ、最初にして最後のもっとも普遍的な見方なのである。いわば内的な中核をなす決定的な形態があって、これが決められた外的なエレメントによってさまざまな姿に形成されてゆくわけである。
「自然は水がなければ魚を、空気がなければ鳥を、土がなければその他の動物を生み出すことができず、要するにこれらのエレメントの制約がなければ生物の存在は考えられないのだ
「この見方からすれば、植物界全体は、大海や河川が魚の制約された存在様式にとって必要なのとまったく同じように、昆虫の制約された存在様式にとって必要な海なのである。無数の生物がこの植物の大海のなかで生まれ、育てられてゆくさまがわれわれの眼にとまる。こうして見てゆけば、最後には動物界全体もこれまた巨大なエレメントと映ずるのであって、そこではある種族が他の種族を基盤にして、また他の種族のおかげで――生れているとまではいわなくても――生存しているのである。こうしてわれわれはもはや関係やつながりを使命や目的と見なすこともなくなり、形成する自然があらゆる方面から、またあらゆる方面に向かって自らを表現してゆくさまを、次第に的確に見てとれるようになるであろう。」(ゲーテ「普遍的な比較理論の試み」高橋義人訳)
 
「内的な中核」としての原型は、前提条件としての「外的なエレメント」の海≠フなかで、自分自身という枷と、この海が加える制約が許してくれる範囲で、自由に℃ゥ己を形成する。植物界は土壌や大気や太陽など自然全体を海とし、魚は河川を海とし、草食動物や昆虫は植物界を海とし、肉食動物は他の動物たちを海として、それらの原型を多様にメタモルフォーゼさせ、地球を無数の種で彩るのである。
球体の中心から出る半径があらゆる方向へ向かって進むように、根源的な「形成衝動」(Bildungstrieb)―エンテレケイアやモナドといってもよい―をもつ自然はあらゆる方面へ自己を表現し、また同時にあらゆる方面から制約を加えられる。そして内外からの表現の境界に浮かび上がるかたちは、自然全体に偏在する原型とエレメントの絡み合いであり、闘争であり、調和である。ここでゲーテは、生命の形成に言及しながら、生物学でいう連鎖≠烽チと一般的な言い方になおせば、生命全体の相互関係の世界を同時に語ることになっている。
 
原型は生命形態のアルファベット≠ナある
この原型によって、現在存在するあらゆる植物や動物を比較できるし、また、これまで生物史上に現われたあらゆる植物や動物が、原型を基点として一定の順序で並べることができるであろう。原型は時間軸に沿った比較の規準でありうるし、同時に、空間軸に沿った比較の規準でもありうる。つまり原型は時間的であると同時に空間的である。すなわち普遍的な概念なのである。
ヘーゲル=マルクスの段階概念は、時間的であると同時に空間的であった。たとえばヘーゲルであれば、世界史を構成する四つの契機、すなわち、東洋世界、ギリシャ世界、ローマ世界、ゲルマン世界は、空間的であるとともに時間的概念である。つまり、現在でも地図を開けばこれらの四つの世界は同時に¢カ在しつづけているのだが、しかも、ヘーゲルはこれら四つの順に@史は発展してきた―西洋が一番発展しているかどうかは分からないが―と考えるのである。原型とは生物学における段階概念であり、段階とは社会経済学における原型概念であるといえるだろう。
ゲーテの構想では、原型によって既に存在している生物をその発生順に再構成しうるのみならず、「現実に存在していないかもしれないが、しかし存在しうるものである」(『イタリア紀行』第二次ローマ滞在 1787517日 ナポリ、高橋義人訳)様々な生物体までも考え出すことができるはずである。
化学を少しでも齧ったことがある者なら誰でも、教科書の表紙裏に元素の周期表があるのを見たことがあるだろう。あらゆる物質は原子や分子から出来ており、そのすべての原子や分子の名称や特徴が表形式で示されている。元素が物質のアルファベットであるように、また、原初的観念がモナドのアルファベットであるように、原型とは、生物の、もっといえばあらゆる生命形態のアルファベットなのである。


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