ジークフリート・ベルリーナー (1884 - 1961)について
 
― 日本で暮らしたあるドイツ人 ―
 
 
2012年7月12日トリーア(および同年10月30日ベルリン)独日協会における講演
ハンス・コンラート・ローデ
訳: 小阪清行
 
訳注:
 [H. K. ローデ氏の略歴]
 1939年、カッセル生まれ。マールブルク大学、ベルリン大学、ブエノスアイレス大学で経済学を専攻。1966年から30年以上にわたって、製薬会社ベーリンガー・マンハイム・グループ(現在はスイスのエフ・ホフマン・ラ・ロシュ社が買収・統合)で働かれました。その間、日本・メキシコ支店の支配人などを歴任。日本には1968~1975の7年間滞在されていました。2000年に退職され、その後はトリーア独日協会の理事などをされる傍ら、明治時代の在日ドイツ人やドイツ兵捕虜の研究に打ち込んでおられます。
 
※ この講演のドイツ語原文は以下のURLでご覧いただけます。なお、種々な理由により、ドイツ語とこの翻訳の間に若干の違いが存在します。

  ローデ氏ドイツ語原文
 
 
 
目次
 
  はじめに
1.   ベルリーナー家の歴史的背景
   (ハノーファー出身のユダヤ系一族)
2.   ジークフリート・ベルリーナーのドイツでの教育
3.   日本での仕事 1913/1914
4.   植民地チンタオにおける兵役と日本での捕虜生活
4. 1.  戦争の勃発
4. 2.  丸亀収容所 1914年11月〜1917年4月
4. 3.  仏教寺院での収容所生活 (生活一般)
4. 4.  収容所生活 スポーツ
4. 5.  丸亀におけるアンナ・ベルリーナー
4. 6.  丸亀発の匿名告発
4. 7.  ジークフリート・ベルリーナーの収容所での音楽活動
4. 8.  板東での収容所生活 1917年4月〜1919年12月
5.   ジークフリート・ベルリーナー、再度東京で教授職に 1920 - 1925
6.   妻、アンナ・ベルリーナー
7.   ライプツィヒ 1925 - 1938
· 大学教授
· 保険会社社長
· 独日関係への寄与
8.   強いられたアメリカ亡命
9.   1950年代の補償金訴訟
10.  マールブルクの学生同盟アルザティア・ライプツィヒへの尽力
11.  晩年 ジークフリート 1961年没  アンナ 1977年没
12.   ジークフリートとアンナの著書
13.  文献
 
 
 
はじめに
 
歴史的興味をもってある人物を研究していると、ときどき思わぬ偶然に出くわすものです。私にとってそのような偶然の出会いは、東京にある「ドイツ東洋文化研究協会」(OAG)の報告書を調べていたときのことでした。そのとき私は、1921年から1924年までOAG財務理事をやっていたS.ベルリーナーの名前を発見したのです。調査の結果、次のことが明らかになりました。つまり彼は、私が所属する学生同盟(ブルシェンブント)の関係でその名前を知るジークフリート・ベルリーナー博士その人であって、彼はその生涯の数年間を日本で過ごしていたのでした。2011年は彼の没後50周年にあたりますので、ジークフリート・ベルリーナーを記念して彼に関する講演を行うという考えが浮かびました。これまでどこにも記録されていないジークフリート・ベルリーナーの生涯を明らめるに際して、私の好奇心は際限なく深まっていきました。当初この講演はパワーポイント使用のプレゼンテーション用として用意されましたが、トリーア独日協会の枠を越えて読んでいただくため、参考資料も挙げたこのヴァージョンを作成する必要が生じた次第です。
   * 訳注: ここで学生同盟(ブルシェンブント)と学生組合(ブルシェンシャフト)を区別しておく必要があります。ブルシェンシャフトの方が一般にはよく知られておりますが、これは成立初期には革新的であったものの後に民族主義に傾き、反ユダヤ主義的傾向を帯びました。しかし、ベルリーナーが関係していたブルシェンブントはこれとは違い、民族主義・反ユダヤ主義から自由でした。ナチス時代には迫害を受けております。(ローデさんの説明を参考にして)
 
「日本の想い、ドイツの想い」というホームページ(www.das-japanische-gedaechtnis.de)の管理人であるアレクサンダー・ビュルクナー博士には、ジークフリート・ベルリーナー博士およびアンナ・ベルリーナー博士という魅力的人物の歴史をそのホームページに掲載していただけるとのことで、感謝の念に堪えません。また、日本のドイツ語教師であり、丸亀ドイツ兵俘虜研究会のメンバーである小阪清行氏にも、特に感謝の意を表したいと思います。彼は収容所日誌のドイツ語への翻訳、丸亀の収容所およびその関連施設の案内などにより、この稿の完成に大きく寄与されました。またこのヴァージョンを日本語に翻訳するという仕事を進んで引き受けてくださいました。
 
私はハンス・ヨアヒム・シュミット氏にも感謝申し上げたいと思います。氏のホームページ(www.tsingtau.info)によって私は、日本で捕虜となった将兵たちに関する広汎な情報を得ることができたのでした。
 
基本的資料を与えてくださった、ニューヨークのレオ・ベック文書館、アメリカ・オレゴン州パシフィック大学の文書館、ハノーファーのニーダーザクセン州立文書館の司書の方々にもお礼申し上げます。
 
最後にベルリンのDr.ゲルハルト・クレプス教授に、ジークフリート・ベルリーナーの経歴に関して専門知識に基づいた助言を賜り、拙稿を補完することができたことに感謝申し上げたいと思います。
 
 
 
1. ベルリーナー家の歴史的背景
 
ジークフリート・ベルリーナーは1884年2月15日に、マンフレート・ベルリーナー(1853-1931)とその妻ハンナ(旧姓デッサウ)の5人の子供のうちの一人としてハノーファーで生まれました。父親のマンフレート・ベルリーナー(1853-1931)ザムエル・ベルリーナー(1813-1872)の総勢13人の子供の5番目の子供でした。ザムエルはハノーファーで織物業を営んでおりましたが、この職業は彼の父親モーゼス・ベルリーナー(1786-1854) が1800年頃のフランスによる占領時代に、ユダヤ人に与えられた職業の自由によって可能となったのでした。
 
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(↑ 画像1) ハノーファーのベルリーナー家の家系図1)
   1) ヘルムート・ツィンマーマン著 『生と運命 ― ハノーファーユダヤ会堂の落成によせて』の「ベルリーナー家」より。ハノーファー出版局、ハノーファー1963年、88〜101ページ。
 
父親マンフレートには、非常に成功した兄弟たちがおりました。その一人はエーミール・ベルリーナー(1851-1929)で、彼は1870年に兵役を逃れるためアメリカに渡っております。
 
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(↑ 画像2) エーミール・ベルリーナー
 
エーミール・ベルリーナーは、蓄音機、レコード盤、電話用マイクの発明家とされており、アメリカとドイツで多くの発明品を商品化しています。
 
エーミールは彼の弟ヨーゼフ・ベルリーナー (1858-1938)と共に、 1881年にハノーファーでJ.ベルリーナー電話会社1)を興しております。ヨーゼフ・ベルリーナー は、銀行での見習い期間と兵役を終えた後、アメリカに渡り、二年間弱電工学を専門的に学びました。
   1) フリードリヒ・クレム著 『新・ドイツ人の伝記2』の「エーミール・ベルリーナー」より。(1955年、99ページ以下)。URL:http://www.deutsche-biographie.de/pnd116136146.html
 
1898年にこの電話会社は株式会社となり、同じ年に二人はレコード盤製造のための会社、ドイツ・グラモフォンを設立しました。そのキャッチフレーズ "His Master's Voice" は世界的に有名になりました。
 
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(↑ 画像3) ハノーファーのユダヤ人墓地「アン・デァ・シュトラングリーデ」にあるヨーゼフ・ベルリーナー家の墓
 
もう一人の兄弟ヤーコップ・ベルリーナー(1849-1918)は、ベルリーナー・電話会社の営業部長になりました。
 
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(↑ 画像4) ヤーコップ・ベルリーナーの墓 
 
ジークフリートの父親マンフレートは商学教師になり、1878年に「ベルリーナー高等商業学校」を設立し、1903年には創立25周年を祝いました。本来ならばその10年後の1913年に、息子のジークフリートがこの学校の経営を引き継ぐはずでした。1)
   1) ペーター・シュルツェ著 ハノーファー市立文書館 HR 16 No.1439 2005年2月/3月
 
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(↑ 画像5) マンフレート・ベルリーナー
 
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(↑ 画像6) マッシュ通り8にあった学校の建物 1903年頃
 
しかしこのジークフリート・ベルリーナーには別の計画がありました。彼は1910年にアンナ・ベルリーナー(旧姓マイアー、ハルバーシュタット出身)と結婚しており、1913年に東京帝国大学の商学担当教授として招聘され、日本に渡ることにしたのです。
 
ジークフリートの生涯を見る前に、社会学者だった妹のコラ・ベルリーナー(1890-1942)が、ユダヤ人社会のために政治的に深く関わったことで有名である点に少し触れておきたいと思います。1)
   1) ツィンマーマンの前掲書、98ページ以下。
 
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(↑ 画像7) コラ・ベルリーナー
 
コラ・ベルリーナーはベルリン大学とハイデルベルク大学で学び、『ドイツにおけるユダヤ人青年組織』という論文で博士号を得ました。1927年に彼女はドイツ大使館経済部顧問としてロンドンに渡りました。1930年には、ベルリンにある職業教育研究所に経済学教授として招聘されました。1933年には国家公務員としての職を解かれ、その後はユダヤ人組織で働いておりました。兄のジークフリートは、彼女に合衆国に移住するよう説得しましたが、彼女は他のユダヤ人の出国を助けることが自分の責務と考えていたのでした。1942年に彼女は、ドイツ在住ユダヤ人協会の他の職員たちと共に白ロシアに移送され、そこで殺害されました。ホロコーストを記念して、ベルリンとハノーファーにコラ・ベルリーナーの名前を冠した通りがあります。
 
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(↑ 画像8) ベルリンのコラ・ベルリーナー通り
 
おもしろいことに、コラ・ベルリーナーはハノーファーで、ハルバーシュタット出身のアンナ・マイアーと同じ学校に通っていたのでした。この二人の交友関係から、アンナはコラの兄ジークフリート・ベルリーナーと知り合い、愛し合うことになったのです。アンナ・ベルリーナーの素晴らしい生涯と活動に関しては後に述べることになります。
 
ジークフリートより一歳年下の弟はベルンハルト・ベルリーナーでした。後にアメリカのサンフランシスコで有名な学者になったこの心理学者について、その興味深い生涯を語れば、話が長くなりすぎますので省略いたします。ただここで重要だと思われますのは、彼が1907年にライプツィヒ大学で、実験心理学の祖として有名なヴィルヘルム・ヴント教授の元で博士号を取得したことです。この同じヴント教授の元で、1910年にアンナ・マイアー、後のアンナ・ベルリーナーは、初めての女性博士候補生として登場いたしました。
 
 
 
2. ジークフリート・ベルリーナーのドイツでの教育
 
ジークフリート・ベルリーナーはまずハノーファーの実科ギムナジウムに通い、そこで1902年にアビトゥーアに合格しました。その後彼はライプツィヒ大学とゲッティンゲン大学で、数学、物理学、経済学を学びました。
 
1905年に彼はゲッティンゲン大学において弱冠21歳の若さで、『ゆっくりと負荷を変える際の鋳鉄の反応』というタイトルの論文で博士号を取得いたしました。彼の博士論文の指導教授はエドゥアルト・リーケ教授でしたが、彼は1881年以来物理学の正教授であり、物理学研究所の所長でもあり、かつゲッティンゲン大学物理学協会の創立者でもありました。ナチスの時代に、ジークフリートは博士号を剥奪されましたが、これは他の多くのユダヤ人市民にも起こったことです。かなり後、2004年になってやっと、ゲッティンゲン大学の評議会は博士号の再認定を決定いたしました。もちろんジークフリート・ベルリーナー博士に対してもです。1)
   1) 出典: www.uni-goettingen.de/de/19166.htlm  バックアップデータとして筆者の手元で保管。
 
さらに興味深いのは、後にノーベル賞を受賞することになるマックス・ボルン教授が1958年の手紙で、ジークフリート・ベルリーナーと一緒にゲッティンゲン大学で弾性に関するゼミに参加し、このゼミでの研究をベースに後にボルン自身の博士号請求論文が書かれた、と述べていることです。1)
   1) レオ・ベック研究所 (Leo Baeck Institute): ジークフリート・ベルリーナー・コレクション AR 5280(LBI): マックス・ボルンよりジークフリート・ベルリーナー宛の手紙(1958.1.22)
 
1906年にジークフリートはゲッティンゲン大学でプロイセンの高等教員国家試験に合格し、数学と物理を教える資格を得ました。
 
1906年から1907年まで彼はハノーファー歩兵第74連隊で兵役を務めました。1)
   1) ツィンマーマン 上掲書 97ページ
 
1907年から1908年までベルリーナーはアメリカ合衆国で研究に携わりましたが、この期間に彼が合衆国在住の伯父エーミール・ベルリーナー(蓄音機の発明者)の世話になったのは当然のことです。
 
「私は合衆国で研究生活を送りましたが、それはワシントンD.C.のジョージ・ワシントン大学の学生としてでありまして、最高裁判所長官ハーランの元で特に憲法学を専攻いたしました。」1)
   1) LBI (Leo Baeck Institute): CV S.ベルリーナー
 
合衆国からの帰国後、ジークフリート・ベルリーナーはライプツィヒの公立商業学校で教職に就きました。1908年にはライプツィヒ商科大学で講師となり、1910年に同大学の教授になりました。
 
学問的仕事に加えて、ジークフリートは民間経済の仕事にも従事しておりました。すなわち、1909年に彼は、南米との商取引に関わるハンブルク輸出入会社の執行部付き補佐となりました。1)
   1) ペーター・マンテル著: 『経営学と国家社会主義』 ヴィースバーデン 2009年。659ページ
 
1910年には会計士になり、同年9月25日に、彼と同様ユダヤ系のアンナ・マイアーとハルバーシュタットで結婚しました。アンナ・ベルリーナー博士、後のアンナ・ベルリーナー教授の興味深い生涯については、後に触れることにいたします。
 
この早い時期にジークフリートはすでに著書を出版しております。
 
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(↑ 画像9) 『金利と借り入れ』
C.E.ぺーシェル出版 ライプツィヒ 1912
 
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(↑ 画像10) 『政治的算術 ― 非数学者のための保険計算』
C.E.ぺーシェル出版 ライプツィヒ 1912
 
1912年に出版された『C.E.ぺーシェル出版100周年記念 1912年』には、上記ベルリーナーの本の内容に関して以下のように書かれております。1)
   1) www.schaeffer-poeschel.de/jubilaeum/1912.htm
「ベルリーナーは政治的算術の教材をどんな非数学者にも理解できる形にまとめあげている。より難しい部分(借り入れ計算)に必要な材料を用意しておくため、まず最初に複利計算と金利計算が取り扱われている。各課のはじめに著者は課題を設けているが、これが冒頭から明快な問題提起の役割を果たしている。計算が詳しく解説されているので、すべての数字を最初から自分一人で完全にやり直してみることが可能である。得られた結果をまとめて、そこから公式が引き出され、テーマそのものへと入っていくことができる。『借り入れと関係をもつすべての人間にとっての教科書・・・』とウィーンの"経済学者"誌は引用している」
 
1913年にジークフリートは妻アンナと一緒に日本に渡ります。
 
 
 
3. 日本での仕事 1913 ― 1914
 
ジークフリート・ベルリーナーは東京で、東京帝国大学の商学(経営学)担当講師として法学部に所属しておりました。
 
「ドイツ東洋文化研究協会」(OAG)の資料によれば、Dr.ベルリーナー教授の採用は1913年10月29日に横浜で開催された理事会(議長、R.レーマン氏)において決定されました。さらにOAGの会員名簿(第16巻、1914年7月16日付)には、会員住所として「東京四谷区大番町33」と記されております。
 
 
 
4. 植民地チンタオにおける兵役と日本での捕虜生活
 
 
4.1. 戦争の勃発
 
1914年8月の初旬に召集令が発せられると、118名の日本在住ドイツ人予備役および志願兵が、ドイツ植民地防衛のためチンタオに旅立ちました。その中に30歳のジークフリート・ベルリーナーも含まれておりました。彼はすでに1907年にハノーファーで一年間の兵役を終えており、またユダヤ人とはいえ完全にドイツ国民として組み入れられておりましたので、武器を取ってドイツの植民地チンタオに馳せ参じることは、明らかにジークフリートにとって愛国的義務だったでありましょう。ドイツ兵たちは日本人に護衛されて船まで行きましたが、日本とドイツが近い将来に対決することになろうとは、ドイツ人も日本人も誰一人考えていなかったでしょう。
 
ジークフリート・ベルリーナーはチンタオ第3海兵大隊第7中隊の予備副曹長でした。第2要塞歩兵隊の投光装置操縦係でした。1)
   1) ハンス・ヨアヒム・シュミット: チンタオ防衛軍と日本での収容所生活 URL: www.tsingtau.info
 
中国在住のドイツ人、および他の極東地域在住の者たちと一緒になってチンタオを防衛するはずでしたが、5.000人の兵士で50.000人の日本人を相手にする訳ですから、もともと不可能な話でした。3ヶ月後に降伏し、約4.700名の生存者は、日本側の捕虜となり、日本の色々な収容所に分散して収容されました。
 
 
4.2. 丸亀収容所  1914年11月〜1917年4月
 
1914年11月にジークフリート・ベルリーナーは他の323名の捕虜たちと一緒に、チンタオから船で四国の丸亀に移送されました。そこでの出迎えは、明らかに敵国兵に対するものではありませんでした。日本通として有名な商人ヨハネス・バールトは彼の回想録の中で次のように書いております。「村の小径は花で飾られ、通りには花輪で飾られたプラカードが掲げられていましたが、そこに書かれていたドイツ語の言葉に私たちは大変驚かされました。『篤き友情と、慈悲の心をこめて歓迎いたします!』」1)
1) ヨハネス・バールト: 『極東のドイツ人商人』(1891-1981) E.シュミット出版 1984, 49ページ以下。バックアップデータとして筆者の手元で保管。
 
詳細な収容所日誌が、全収容期間に渡って日本側管理者によって作成され、完全な形で現存しております。有り難いことに、われわれの丸亀訪問に先立って小阪清行氏がこの日誌の一部をドイツ語に翻訳してくださいました。1)
   1) 丸亀俘虜収容所日誌 (1914.11.16 - 1917.4.7) 部分訳:小阪清行 http://koki.o.oo7.jp/Marugame_Lagertagebuch.htm
 
1914年11月16日の収容所日誌には以下のように記されております。
「青島より俘虜324人(将校7 准士官21 下士卒296)福寿丸にて門司港から多度津へ到着。塩屋別院、丸亀市船頭町看護婦養成所跡二ヵ所へ収容。収容所長、石井彌四郎中佐。」
   * 訳注: この部分は実は翻訳者小阪による日誌の要約であって、日誌の文言そのままではありません。
 
今日のテーマでお話する私にとりまして、ドイツ兵捕虜たちが若い時期に約二年半過ごした寺を、ほぼ98年後に訪問することができたことは大変名誉なことでありました。私は1968年に、ジークフリート・ベルリーナーと同じ年齢で、東京に参りましたが、仮に私がその一年後に収容所に入れられていたら、と想像しましたときに、背筋が寒くなりました。私の家内ブリギッテはNHKドイツ語講座の講師として働いていたことを誇りに思っておるのですが、その家内は、仮に私が収容所生活を強いられていた場合には、アンナ・ベルリーナーと同じ運命をたどることになっていたでありましょう。つまり外国でその夫を収容所に訪問するという運命です(その外国というのは、ベルリーナー家にとりましても、またわがローデ家にとりましても、非常に愛すべき国なのですが)。このように個人的生活背景をありありと思い描いてみますときに、捕虜たちの歴史が全く異なった意味を持って参ります。そしてかつて敵であったものが友となったという事実が、それだけ一層貴いものとなるのです。
 
 
4.3. 仏教寺院での収容所生活 (生活一般)
 
まず第一に極めて狭い空間に長期間共同生活を送るということがいかに厳しい現実かということを確認しておきたいと思います。捕虜一人に与えられた面積は畳一枚(180cm×50 cm)分で、決してそれ以上ではありませんでした。
 
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(↑ 画像11) 畳一枚(191cm×95 cm)は実に狭い
 
畳一枚が一体どれくらいの広さなのかを体験するために、私は実際に畳の上で横になってみました。正直言って、恐ろしく狭かったです。しかし捕虜たちは1914年11月の段階では、他に選択肢がありませんでした。戦勝国としての日本に、一挙にやってきた大勢の捕虜を受け入れる準備が全くできていなかったからです。日本人は捕虜にはならない、死ぬまで戦うか、あるいは自害して果てるからだ(だから収容所の用意などできていなかったのだ)、と簡単に言われたりしますが、実際その通りなのかどうか、私は確かめることはできませんでした。
 
ジークフリートの戦友であるヨハネス・バールトはすでに引用した回顧録の中で次のように書いております。
「仏教寺院が今やわれわれの住処となったが、これは丸亀の中で最も美しく最も大きな建物であった。われわれ兵卒は広い本堂で、就寝にあたって一人畳一枚が割り当てられた。将校たちには別の小さな建物が与えられていた。本堂の前には広い敷地があり、ここに台所、日本式洗面所、風呂が新しく建てられた。本堂の周辺にはいくつかの小さな部屋が作られ、昼間はここでずっと大きなテーブルに向かって座ることができ、また食事もここでとった。」1)
   1) バールト、前掲書、50ページ
 
いずれにせよ捕虜たちにとってここ丸亀で重要だったことは、差し当たり収容所生活という悲しい現実とどう折り合いをつけるか、という事くらいでした。というのも、彼らはドイツがヨーロッパの戦争にすぐに勝利するとの(残念ながら非現実的な)希望をもっていたからです。
                 
下士官と兵卒は寺に収容され、将校たちは別の建物に住んでおりました。ドイツ側の(将校の中で最も階級の高い)先任将校はランツェレ大尉でした。収容所に到着して最初に彼が果たすべき役割は、収容所の待遇改善を要求することでした。1914年11月18日の収容所日誌にその要求の一例を見ることができます。
  T 食事の量を増すこと
  U 麦酒を飲ませること
  V 酒保を開くこと
  W 将校には自由に散歩を許すこと
 
日本側はこの要求に応じて、捕虜たちを喜ばせます。午後には二時間酒保が開かれ、ビール、タバコ、菓子、果物が販売されました。しばらくするとサッカーボールを入手し、また自炊することも許されました。1914年11月18日の収容所日誌におもしろい記述があります。第2中隊の兵士たちはほとんど職業軍人で、食料の不足についてそれほど不満を漏らしていません。ところがジークフリートが属していた第7中隊の兵士はそうではなかったのです。彼らはたいてい予備役でして、第2中隊よりもはるかに強烈に空腹を感じております。恐らく職業軍人は、あまり苦情を言わないように訓練されていたものと考えられます。
 
 
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(↑ 画像12) 2012年4月に訪問した丸亀の浄土真宗本願寺派塩屋別院
本堂、第3海兵大隊第2中隊はここに収容されていた
 
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(↑ 画像13) 塩屋別院の平面図
   * 訳注: キャプションに本願寺塩屋別院とあるが、これは間違いで(浄土真宗本願寺派、すなわち西本願寺派の)「本願寺塩屋別院」が正しい。
 
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(↑ 画像14) 捕虜の集合写真、1915年
 
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(↑ 画像15) 捕虜の集合写真
前列右端がジークフリート・ベルリーナー
 
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(↑ 画像16) 2012年の塩屋別院
庫裏、S.ベルリーナーが所属していた第3海兵大隊第7中隊はここに収容されていた
 
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(↑ 画像17) 境内の中庭に屯する捕虜たち
 
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(↑ 画像18) 捕虜(下士官)たちの寝所
 
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(↑ 画像19) 場所を広くするため、布団は巻いて片付けられる
 
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(↑ 画像20) 居間兼寝室兼食堂
 
 
捕虜たちにとって、寺の建物に入ったり畳の床にあがる際などに靴を脱がなければならないことは、慣れないことだったに違いありません。しかしそれよりもずっと慣れないのは、何かやるべきことを見つけて一日一日の時間を過ごさなければならなかったことです。一斉に起床したり、幾分軍事訓練的なものがあったり、食事を共にしたり、ときどきは日本側管理者の監視下で遠足したりするようなことはありました。しかし後に他の国々で強いられた強制労働はありませんでしたから、捕虜たちは自分自身でやること、例えば職人的な手作業など、を見つける必要があったのです。
 
 
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(↑ 画像21) 丸亀収容所の作業室
 
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(↑ 画像22) 物干しの様子
 
 
スポーツの試合、芝居、音楽などが徐々に重要な活動になっていきます。ジークフリートの音楽活動については後にお話することにいたします。予定していた彼の学問的連続講演(商学専門コース)は「ある理由で」中止になりました。日本側管理者から適当な内容と見なされなかったから、あるいはそれに興味を示す聴き手が見つからなかったから、ではないかと推察されます。その後より小さなグループで、東アジアの経済問題に関する演習や相談会などを開いております。1)
   1) OAG 出版物 第17巻 パートB、1914〜1922 269ページ
 
 
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(↑ 画像23) 小包の到着
 
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(↑ 画像24) 塩屋別院 2012年 山門
 
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(↑ 画像25) 塩屋別院 2012年
 捕虜たちの足跡を求めて、小阪さん(中央)と
   * 訳注: 右はローデさん。左の方は塩屋別院の関係者。たまたま「チンタオ・ドイツ兵俘虜研究会」のメール会報でこの日にローデさんが訪問されることを知っており、声をかけてこられました。
 
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(↑ 画像26) 塩屋別院 本堂内部
 
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(↑ 画像27) かつて丸亀収容所の管理事務所があった場所(塩屋別院山門前)
   * 訳注: 以下が収容所当時の写真
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(↑ 画像28) 日本とドイツの将校たち
前列左から二番目: 先任将校ヴァルデマール・ランツェレ大尉
 
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(↑ 画像29) 1917年3月10日に製作品展覧会が行われた教覚寺跡地
ここで捕虜たちが製作した作品が販売され、約3万人の来場者があった
   * 訳注: 以下が1917年当時の教覚寺の写真
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(↑ 画像30) 塩屋別院前の通り
昔捕虜たちが外出するときはこの通りを通っていた
 
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(↑ 画像31) 1915年当時の塩屋別院前の通り
 
 
4.4. 収容所生活 スポーツ
 
収容後すぐに捕虜たちは日常生活にスポーツ活動や試合を取り入れます。その際彼らの想像力には際限がなく、ここでは体操の数例を挙げるにとどめておきます。
 
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(↑ 画像32) スポーツ、その1
 
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(↑ 画像33) スポーツ、その2
 
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(↑ 画像34) スポーツ、その3
 
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(↑ 画像35) スポーツ、その4
 
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(↑ 画像36) 
この場所(現在の中津万象園横)は以前は捕虜たちのサッカー・グラウンドとして使われておりました。収容所からはかなり離れた場所にあります。
 
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(↑ 画像37) 
最初将校7名が(1914.11.16〜1916.10.5)、後にオーストリア系イタリア人とポーランド人捕虜が収容されていた(1916.10.9〜1917.4.7)建物。
 
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(↑ 画像38) 捕虜アマンドゥス・テンメの墓がある墓地
 
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(↑ 画像39) アマンドゥス・テンメの墓碑
 
丸亀での二年半の収容所生活の間に一人が死亡しました。ゲルゼンキルヒェン出身の第3海兵大隊第2中隊水兵アマンドゥス・テンメです。1)    
   1) ハンス・ヨアヒム・シュミット: www.tsingtau.info
彼は重い十二指腸虫症を患って衛戍病院に入院中、1915年6月6日に死亡しました。丸亀市の駒ヶ林にある当時の陸軍墓地で行われた彼の埋葬式には、捕虜のほぼ全員が参加しました。この墓地は今も軍人墓地として現存します。
 
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(↑ 画像40) 丸亀ドイツ兵俘虜研究会のメンバーとの親睦会(2012年丸亀にて)
 
2012年4月17日の丸亀ドイツ兵俘虜研究会との出会いは、「敵だった者同士が兄弟に」というわれわれの中心思想の生きた例証だったということができると思います。極めて盛んな情報交換が行なわれ、グループがドイツ兵捕虜の歴史を総括しようとする意気込みは印象的でした。私たちはジークフリート・ベルリーナーに関する記事の仕上げに貴重な刺激を受けました。とりわけ、当時の捕虜の運命を越えて、日本で新しい友を得て、丸亀ではいつでも歓迎されるだろうとの実感を持って帰って参りました。
 
 
4.5. 丸亀におけるアンナ・ベルリーナー
 
ベルリーナーという名前は丸亀収容所とは二つの点で特別な関係を有しております。一つは、若い妻アンナ・ベルリーナー博士が六ヶ月に渡って女中と共に丸亀に居を構えて、夫の解放のために尽力したことです。もう一点は、ジークフリート・ベルリーナーが書いた収容所の窮状を訴える匿名の手紙を、アンナが厳しい郵便物検閲を掻い潜って持ち出し、アメリカ経由でドイツに送りましたが、これが重要な外交活動を引き起こします。そしてこのことが後に板東収容所という新しい収容所を作るきっかけになった可能性があります。
 
アンナがジークフリートの東京収容所への移転を申請
 
アンナ・ベルリーナーの興味深い経歴については後に詳しく述べることにいたしまして、ここでは丸亀での活動についてのみお話いたします。
 
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(↑ 画像41) アンナ・ベルリーナー
 
アンナは1915年1月25日に東京から、ガスリーアメリカ大使を介して日本の加藤外務大臣に宛てて申請書を提出いたします。その中で、夫を自分の住む東京の収容所へ移転してくれるように懇願しております。
 
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(↑ 画像42) アンナ・ベルリーナーの申請書
 
この申請は1月27日に陸軍省に転送され、2月4日に陸軍大臣によって正式に却下されました。2月6日には外務大臣が大使宛てに、どの捕虜の場合でも収容地を変更することは許可されないのが原則である、との回答を送っております。これに先立つ1914年9月に東京帝国大学法科大学の教授会は、ベルリーナー博士が応召して戦地に赴いたことにより、彼との労働契約はその効力を失ったものと見なし、給与の支払い停止を決定しております。興味深いのは、1932年発行の『東京帝国大學五十年史』によればジークフリート・ベルリーナー博士は、1913年9月から1914年11月まで商学の「大学教師(講師)」であって、アンナ・ベルリーナーの手紙に書かれている「教授」ではありませんでした。1)
   1) 高橋輝和: 「丸亀俘虜収容所からの匿名告発書」 岡山大学文学部紀要 第38号 2002.12 (部分訳はベルリンのアレクサンダー・ビュルクナー博士にお願いしました。感謝申し上げます。)
 
 
アンナ・ベルリーナー、6ヶ月丸亀で過ごす
 
その後東京を発ったこの若いドイツ人女性は1915年2月15日に丸亀に現れ、夫を収容所に訪ねます。このときの状況を想像してみてください。われわれが今年(2012年)丸亀を訪問したときでさえ、四国の人口10万人の小都市で、われわれ以外にはヨーロッパ人はいないようでした。100年も前にこのような土地へやってくるとは、われわれには想像を絶することのように思えました。
 
収容所長付き通訳の立ち会いの元で夫婦は話し合います。翌日1915年2月16日の午前に夫人は再び来所して、例外的に夫に面会する許可を得ることができました。なぜなら彼女が収容所の近くの新浜町というところにある借家を借りたいと思ったからでした。
   * 訳注: 収容所まで徒歩で約15分の距離。正確には、当時は塩屋町新浜であり、まだ新浜町ではなかった。
 
二週間後にアンナ・ベルリーナーは再び収容所に現れ、入所と面会を申請します。再度、収容所長付き通訳の立ち会いの元で、許可が与えられます。彼女はその間に丸亀に引越してきておりました。彼女の足跡を辿ってみましょう。
 
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(↑ 画像43) 丸亀市新浜町でアンナ・ベルリーナーが住んでいた家の跡地
 
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(↑ 画像44) アンナ・ベルリーナーが借りていた家の家主の家(上記借家の真横)
 
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(↑ 画像45) アンナ・ベルリーナーに家を貸していた家主の孫
 
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(↑ 画像46) アンナ・ベルリーナーが借りていた借家が解体される直前に、たまたま瀬戸教授が見学(2003年)。内部も検分することができた
 
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(↑ 画像47) 同上
 
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(↑ 画像48) 
これは小阪さんのお祖父さんの家があった場所で、ここで当時10歳の彼は1915年にアンナ・ベルリーナーが収容所に行く姿を目撃している。そして後に彼の息子にそのことを語って聞かせた。
 
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(↑ 画像49) アンナ・ベルリーナーはこの道を通って収容所へ出向いていた
 
面会は月に二回しか許されませんでした。その間彼女は女中の岩崎よし子を介して、食べ物や花束を手紙と一緒に夫に届けておりました。
鳴門のドイツ館にはジークフリート・ベルリーナーが1919年に岩崎さんに宛てて書いた葉書が保管されております。当時彼は丸亀の他の捕虜たちと共に板東に移されていたのですが、そこから彼は、彼女が送ってくれたお菓子の礼状を上手な日本語で書いております。
 
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(↑ 画像50) ジークフリート・ベルリーナーから女中岩崎よし子への礼状 1919年10月8日付
 
当時のこの資料を小阪さんがドイツ語に訳してくれました。小阪さんも高橋教授もジークフリートの日本語のレベルの高さを褒めております。
 「十九日のお葉書も何よりなお菓子もたしかにいただきまして、申されない程お喜び申しました。心からお禮を申し上げます。お菓子は實に旨しくて、此の前の五ヶ年の間に其のお菓子程旨しい物をお食べ申した事が一っペンも有りません。よし子様は甚だ上手ですねー。私もずっと前からよし子様にものを差し上げるのでしたが、實には解放が明日ですか何時ですかと思って居る間、この前の四・五ヶ月を費やした者ですから、送るよりも持って来る方が好いと思って、つい今迄御無沙汰を致しました。妻は今獨乙に居て、手紙毎に『よし子様によろしく』と書いてありますよ。先はお禮かたがたに御通知まで。お身をお大切に 」1)
   1) バックアップデータとして筆者の手元で保管。
 
何週間もの時が流れましたが、捕虜たちの状況には何の変化もなく、アンナ・ベルリーナーは女中の岩崎よし子と一緒に新浜町に住んでおります。6月14日に彼女は人力車を雇いまして、食べ物と手紙を届けるために、収容所へ行くよう手配します。その際、車夫に子犬と犬小屋、皿、ブラシを受け取ってくることも頼んでおきました。ジークフリートは収容所の外で運動中でしたが、呼び出されて、件のものを車夫に渡して運動に戻ります。しかしその際、彼がそれらを検閲を経ずに渡したため、やがて十日間の重謹慎の処分を受け、ベルリーナー夫人が彼に再び面会できるようになったのは、やっと7月初旬になってからのことでした。
 
7月と8月初旬にはアンナはまだジークフリートに面会に出かけております。その後、1915年8月19日から22日までがアンナにとって、俘虜日誌に記載されている丸亀からの別れの日々です。彼女は日本と夫に別れを告げ、アメリカに渡ります。1)
   1) 丸亀俘虜収容所日誌、前掲箇所
 
 
4.6. 丸亀発の匿名告発
 
アンナ・ベルリーナーが荷物の中に何を忍ばせてアメリカに渡ったかは、百年近く後に岡山大学の高橋輝和教授が論文「丸亀俘虜収容所からの匿名告発書」の中で明らかにしてくれました。1) 
   1) 高橋、前掲箇所
 
これは外交的介入を要請した文書で、このことは丸亀収容所を閉じて新しい収容所を板東に建設することを日本側に決断させた可能性があります。
 
しかしながら1915年8月の段階では、ベルリンの国防省に届いたこの手紙は、差し当たり丸亀収容所の窮状を訴える一匿名告発書に過ぎませんでした。ドイツ国防省は1916年1月22日にこの手紙を、次のようなコメントをつけて外務省に転送いたします。
「この手紙は、日本側の検閲を経ることなしに、夫がこの収容所にいるある婦人によって、日本からアメリカへ持ち出され、そこからドイツに送られた」。
 
劣悪な状況として挙げられた例は以下のようなものです。
 ○ 取るに足らない理由で、ただ罰するためだけに、尋問もせず処罰を下す。曹長は、罰しても構わない人間の名前を挙げるように何度も要請された
 ○ 講演を禁止
 ○ 歌の練習が何度も許可されなかった
 ○ 居住、食事、睡眠、私物の保管のための面積が捕虜一人につき2平方メートル以下である
 ○ 最初の数週間は食料が全く不十分で、パンと、食用とは思えない魚のくずの入ったタマネギスープが配給されたのみ
 ○ 捕虜を突いたり殴ったりなど、衛兵による苛めが繰り返えされている
 ○ 日本人が三人がかりで鉄の道具をもって捕虜にかかってきたため、日本の酒保をボイコット
 ○ 収容所内に運動のための十分な場所がなく、週に2回だけ2時間、スポーツをやるだけの広さのある場所に連れていかれるのみ
 ○ 冬は暖房用燃料が不十分で寒く、燃料費はこちらが持つと提案しても入手できない
 
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(↑ 画像51) ベルリーナーの告発書1
 
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(↑ 画像52) ベルリーナーの告発書2
 
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(↑ 画像53) ベルリーナーの告発書3
 
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(↑ 画像54) ベルリーナーの告発書4
 
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(↑ 画像55) ベルリーナーの告発書5
 
アメリカ合衆国は当時まだ参戦していなかったので、ドイツ政府はアメリカ政府に仲介を依頼し、これが実現した訳です。すなわち、合衆国は日本政府から収容所視察への同意を取り付けました。視察を行ったのは東京の在日アメリカ大使館三等書記官であるサムナー・ウェルズです。彼はすべての収容所を視察して、その報告書を提出しております。ついでに申し上げておきますと、このサムナー・ウェルズという人物は後に、フランクリン・D・ルーズベルトの顧問として合衆国の外交において重要な役割を果たしました。
   * 訳注: http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%A0%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%82%BA
 
1916年3月に彼は日本の12の捕虜収容所を視察して、その結果について詳細な報告書を書いております。例えば久留米収容所については酷評をくだしておりますが、丸亀収容所については比較的穏当な評価となっております。1)
   1) ハンス・ヨアヒム・シュミット: 27. 2. 2012年2月27日のニュース バックアップデータとして筆者の手元で保管。
 
ただし、次のような点が指摘されております:
 ○ 寺院および周辺の施設は捕虜の収容に不向き
 ○ 寺院の中は異常な過密状態
 ○ すきま風を防ぐため捕虜たちは透き間や裂け目に紙を張りつけているけれども、そのため寝室の換気ができなくなっている
 ○ 入浴施設がよくない。便所が居住空間に近いため捕虜の健康を害する恐れがある
 ○ 室外で競技や運動などをする道具やスペースがない
 
日本政府は、板東収容所を新しく建設し、四国にある3つの収容所(徳島、丸亀、松山)の捕虜をそこに移転させることになりますが、その背景にこのサムナー・ウェルズの報告があった可能性があります。松江大佐が所長を務めていた板東収容所については、模範収容所としてよく知られておりますので、ここで詳しく述べる必要はないでしょう。
 
 
4.7. ジークフリート・ベルリーナーの収容所での音楽活動1)
   1) ジークフリート・ベルリーナーの音楽活動の詳細に関する資料は、『エンゲル・オーケストラ その生成と発展1914-1919』 ヘルマン・ヤーコプ著 板東俘虜収容所印刷所発行 1919 URL: http://koki.o.oo7.jp/Engel-Orchester.pdf バックアップデータとして筆者の手元で保管。
 
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(↑ 画像56) エンゲル・オーケストラ
左端が第一ヴァイオリンのジークフリート・ベルリーナー
 
ジークフリート・ベルリーナーがいつ頃音楽に対する愛に目覚めたのか、あるいはそもそも音楽を愛していたのかどうか、今となってはもはや明らかにすることはできません。確実に言えることは、彼がライプツィヒ大学の学生時代に学生同盟アルザティアで学生歌を歌っていることです。日本に渡る前から彼はきっとヴァイオリンを所有していたでありましょう。と申しますのも、エンゲル・オーケストラの記録に彼が寺院オーケストラに参加したことでレベルアップしたと書かれているからです。
 
「1915年8月 丸亀寺院楽団
楽団は二名の新メンバーを迎えた。ベルリーナー博士とパウルゼンで、両者とも弦楽器奏者である。
 
1915年10月17日に演奏会。ベルリーナー博士の参加でオーケストラの質は格段に向上し、エンゲルはこのコンサートで初めて指揮者兼ヴァイオリン奏者として演奏することを試みた。この演奏会によって楽団にとっての新時代が始まった。」
 
 
収容所での二回目のクリスマスの日、1915年12月25日にエンゲル・オーケストラは以下のような曲を演奏した。
 1.序曲「詩人と農夫」        F・スッペ
 2.春の声 ウィーンのワルツ     J・シュトラウス
 3.ヴァイオリン協奏曲 第7番からアダージョとロンド
                    ピエール・ロード  独奏者ベルリーナー
 4.「シルヴィア」からバレー音楽   レオ・ドリーブ
 
報告者である私ローデ(Rode)は、洒落てこう言わせていただきましょう。ベルリーナーがロード(訳注: Rodeはフランス語読みでロード、ドイツ語読みではローデを演奏したと。私と同姓で、あまり有名でない作曲家・ヴァイオリニスト、ピエール・ロードは1774年2月16日にボルドーで生まれ、1830年にパリで死んでおります。1)
   1) URL: www.uni-protokolle.de/Lexikon/Pierre_Rode.html  バックアップデータとして筆者の手元で保管。
 
以下のURLでヨシュア・ヘンダーソンの演奏をお聴きになれば、ピエール・ロードのこのヴァイオリン協奏曲第7番イ短調がどれほど美しい曲であるか感じていただけるでしょう。1)
   1) http://www.youtube.com/watch?v=cVJ-ABUYh2Y&feature=youtube_gdata_player
 
1916年1月2日の「国民の夕べ」に際して、エンゲル・オーケストラは第8回演奏会を開催し、様々な曲を演奏しております。五番目の曲目としてG.ランガー作曲の舞曲『おばあちゃん』がベルリーナー博士とヴァイツの二人のソリストによって演奏されております。
 
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(↑ 画像57) 『おばあちゃん』のレコード(部分)
 
オーケストラ全員による演奏会の他に、室内楽の夕べもありまして、後者はまず第一にヴァイオリン奏者としてはパウル・エンゲルとジークフリート・ベルリーナー、ピアノ奏者としてはヘルマン・クラーゼンによって担当されておりました。
 
1916年4月23日の第12回復活祭演奏会では、ジークフリートはソリストとして、ニコラ・ヴァカイの『ロメオとジュリエット』からアリア『プレンディミ・テコ(私をあなたと一緒に連れていって)』を歌っております。ヴァカイは1790から1848まで生きたイタリアの作曲家です。1)
   1) www.wikipedia.org/wiki/Nicola_Vaccai バックアップデータとして筆者の手元で保管。
 
1916年7月9日の第14回楽団設立一周年記念演奏会ではジークフリートはヘンリク・ヴィエニャフスキの作品17番『伝説』をソリストとして演奏しております。1)
   1) www.wikipedia.org/wiki/Henryk_Wienawski バックアップデータとして筆者の手元で保管。
 
以下のURLでヴァイオリニスト、レオニード・コーガンの演奏をお聴きになれば、この美しい小協奏曲がどのような曲であるかお分かりいただけるでしょう。1)
   1) http://www.youtube.com/watch?v=ywcrIyrR34E&feature=youtube_gdata_player
 
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(↑ 画像58) ベートーヴェンのヴァイオリンとピアノのためのソナタ、作品24番「スプリング・ソナタ」も演奏された第2回室内楽の夕べ(板東、1917年2月18日)のプログラム
第2中隊の部屋にてエンゲルとベルリーナーがヴァイオリニストとして演奏
 
 
4.8. 板東での収容所生活 1917年4月から1919年12月まで
 
1917年4月に新しく建設された板東収容所への移転が行われた。ジークフリート・ベルリーナーはそこでハノーファー、マッシュ通り8という本国住所で登録されております。
エンゲル・オーケストラは板東においても継続され、松山収容所から来た新しいメンバーによって24名の規模に拡大し、ベルリーナー博士は第一ヴァイオリンとして名前が挙がっております。エンゲル・オーケストラ協会においてベルリーナー博士は1917年11月から1918年8月まで書記兼会計係に就いておりました。
 
板東収容所とその映画化についてはすでに別の場所で報告いたしました。映画のクライマックスは1918年6月1日に開催されたベートーヴェンの第九交響曲初演の場面でした。最終章が「歓喜への賛歌」で結ばれているこの曲は、今や日本人の隠された国歌となっております。もっとも正直に申し上げて、この演奏はパウル・エンゲル・オーケストラによってではなく、ヘルマン・ハンゼンが指揮する徳島オーケストラによって演奏されたのでした。そういう訳で、ジークフリート・ベルリーナーはこの歴史的出来事に音楽家としてではなく、恐らくは聴き手として参加したものと考えられます。
 
ベルリーナー博士の音楽愛は他の箇所でも記録されております。
 
ベルリーナーは移住の際に1840年代に製作されたヴィヨームのヴァイオリンを紛失しました。彼は公証人に対して次のように証言しております。「そのヴァイオリンの状態は極めて良好でした。薄褐色のニス塗りで、響きが非常に豊かでソフトでした。私はよくこのヴァイオリンで演奏したものでした。……私が東京におりました頃、アルベルト・アインシュタイン教授がそこで特別講義を行っておられたことがありました。彼もヴァイオリンを演奏するのですが、私のヴァイオリンで色々な曲を弾いてみて、とても褒めてくれました。あるとき大きな催し物があり、その演奏会で私のヴァイオリンを使って、ベートーヴェンのクロイツェル・ソナタを演奏されました。」1)
   1) ニーダーザクセン州立文書館。Akte Nds. 110 W Acc 84/90 Nr. 446/24: 1956年22月9日、公証人パウル・ジーゲルに対するジークフリート・ベルリーナーの宣誓供述
 
ジークフリート・ベルリーナーとアルベルト・アインシュタインの交友関係および1922年の東京での会合については、アインシュタインの日記で読むことが可能です。
 
19221118
 またベルリーナー家を訪問
 19221121
 素晴らしい和風建築のベルリーナー家で快適な夕べを過ごす。主人は知性溢れる経済学者、妻は優雅でかつ知性もあり、ベルリーナーの夫人としてぴったりの女性。このような状況下では、のらくら時を過ごすことは仕事よりも骨が折れるものであるが、稲垣たちの心憎いまでの配慮でそうならずにすんだ。
 192212月1日
 ホテルで盛大な夕食会。ほとんどの文化人エリートが出席。食事のあと(山本の後で)スピーチをしなくてはならなかった。そしてヴァイオリン(クロイツェル・ソナタ)。(午前中は田丸氏がホテルに訪問)」1)
   1) 日本滞在中のアルベルト・アインシュタインについての研究: 第一部『日本芸術の中のアルベルト・アインシュタイン』。 アルベルト・アインシュタイン生誕125周年記念号 ドイツ物理学協会 社団法人、 第68回春期学会 2004年3月14日〜18日 ウルム大学。 バックアップデータとして筆者の手元で保管。
 
ジークフリートにとって板東収容所では、丸亀においてよりも、音楽活動以外に、経営学について講演する機会が多くなったことは間違いありません。1917年5月に彼は株式会社の融資に関する講演を開始しました。
   1) 板東での収容所雑誌『バラッケ』。1917年12月2日号、152ページ
 
「丸亀で計画していた大学講座がなんらかの理由で実現できなかったので、私は丸亀でも板東でも、小さなグループで東アジア経済問題に関する演習や話し合いの機会を持った。簿記講座では中国輸出入商社の経営状況を例に取ったが、これが個々の問題を吟味する機会となった。
以下の論文の資料は、一部はそのときの討論から取られたものである。
 ○ 日本における輸入会社の組織と経営
 ○ 中国における輸入会社の組織と経営
 ○ 中国における輸出会社の組織と経営
 ○ 中国における海運会社の組織と経営と技術
(上記論文は、ハノーファーのハーン書店出版部から出版されている。ジークフリート・ベルリーナー)」1)
   1) OAG 出版物 第17巻 パートB、1914〜1922 269ページ以下
 
板東収容所の1919年11月24日付け日刊電報通信に、ベルリーナーによって、二冊の本が完成したとの見出し広告が載せられています。
「ハノーファーのハーン書店出版部より、以下の私の著作が出版されます。
『中国における輸入会社の組織と技術』
『日本における輸入会社の組織と技術』
関心のある方は、リストに名前を記入してください(ベルリーナー)。」1)
   1) ドイツ日本研究所: 板東コレクション, 日刊電報通信  1919年11月24日, No. 213
 
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(↑ 画像59) 日本における輸入業の組織と経営
 
日本における輸入業の組織と経営に関するこの本(題は後で少し変更)は今日的観点からも、とてもおもしろいです。一つには、当時日本で輸入業に関わった会社に関しての、勝れた歴史的洞察があります。さらにベルリーナーは、重要な助言もしております。例えば、輸入会社に配属される工場従業員の選抜に関して、以下のように書いております。
 
「そのような従業員、特に下級の従業員を選ぶにあたっては、製造業者は極めて慎重でなければならない。つまり思慮深く冷静な人間を日本に送るようにしなければならない。組立て工は長期に渡って、管理者の影響が及ばない遠隔の地で暮らす訳である。そうすると、自分の仕事をないがしろにしたり、あるいは工場主や管理者の利益よりも、客の利益の方を優先させる誘惑に駆られがちである。賄賂を受け取るような心配もあるが、より危険なのはむしろバッカスとヴィーナスであって、これらは陽気な『日出ずる国』においてはまだ大いなる力を持っており、孤独な組立て工の生活を朗らかなものにさせるに与ってあまりあるのである。」
   1) ジークフリート・ベルリーナー:「日本における輸入会社の組織と技術」、ハノーファーのハーン書店、1920年
 
ジークフリート・ベルリーナーの捕虜仲間は日本在住のドイツ人、クルト・マイスナーだったが、彼は名の知れた商人でありまた日本学者だった。マイスナーは自分の伝記に書いている、「天津から来たコックが日本人女性たちにジャガイモ料理を教えていた。またDr.ベルリーナー教授は撫養(ムヤ:今日の鳴門)で経済に関する講演を行っていた。私はこれら両方の通訳を務めていた」。1)
   1) クルト・マイスナー、ハンニ・マイスナー夫妻: 「日本での60年」 クルト・マイスナーによる再版 1973年 ハンブルク 86ページ
 
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(↑ 画像60) 兵士 クルト・マイスナー1)
   1) H.J.シュミット氏のHPより: www.tsingtau.info
 
この時期に板東収容所でジークフリート・ベルリーナー博士とクルト・マイスナーの共著が出版されている。「戦時中の日本における鉄道産業の発展」 ハノーファー・ハーン書店
 
ジークフリートは捕虜生活から解放され、1925年まで東京で暮らしていたときも、また後にライプツィヒに帰ってからも、クルト・マイスナーとの交友関係を保っていた。そして恐らく彼の会社ライボルト商館を支えていたと思われる。これに対してベルリーナーはマイスナーからライボルト商館の11.000円の株式配当を受け取っている。後に彼はアメリカ合衆国移住せざるを得なくなった際、10.000ドルの価値があったと思われるこの株式を1.295ドルで売却せざるを得なくなった。1)
  1) ニーダーザクセン州立文書館。Akte Nds. 110 W Acc 84/90 Nr. 446/24: 1956年22月9日、公証人パウル・ジーゲルに対するジークフリート・ベルリーナーの宣誓供述
 
1919年12月に板東収容所の捕虜は解放されますが、ジークフリートは日本に留まりました。
 
チンタオ戦参戦者たちは、特に第二次世界大戦後お互いに接触をとりあい、ドイツで戦友会を結成しました。ジークフリートは1960年のチンタオ戦友会に参加したと伝えられています。1) これは十分あり得ることです。なぜならこの年に、彼がマールブルク学生同盟アルザティアの創立祝賀会に参加したことが写真によって確認できるからです。
   1) H.J.シュミット氏: www.tsingtasu.info ジークフリート・ベルリーナー
 
 
 
5. ジークフリート・ベルリーナー、再度東京で教授職に 1920〜1925
 
解放後ベルリーナー博士は1920年2月から1925年3月まで再び東京帝国大学の経営学の教授として働くことができました。彼が再任されたのは、「彼の研究・教育の能力と熱意が高く評価されていたため」でした。『東京大学百年史』には、彼が経済統計研究室に「商業資料文庫」を置くことを提唱し、会社の定款や営業報告書類を蒐集して、企業経済の実証研究を促進した、と書かれています。1)
   1) 高橋、前掲箇所
 
名誉職活動に関しては、彼は「ドイツ東洋文化研究協会」(OAG)のメンバーでした。1921年223日に1920年の年度末決算の監査は彼によって行われ、また1921年から1924年まで彼は財務理事でした。1)
   1) ペカール・フォン・ヴェークマン: 「OAGの85年」 1961年東京 36ページ
 
他の理事たちとの関係およびOAGに対するベルリーナー博士の取組は明らかに良好であったようで、彼はドイツに帰国後ライプツィヒにOAG事務所を開設しております。1)
   1) ペカール・フォン・ヴェークマン、ロベルト・シンチンゲル: 「OAGの歴史 ― 1873 - 1980」 1982年東京 45ページ
 
ライプツィヒ時代のベルリーナー夫妻およびナチスによる権力掌握後の劇的変化に関しては後ほど報告いたします。ここでは遺漏無きように、ジークフリート・ベルリーナーの日本時代の出版物で、世界経済に関する一連の論考を再度挙げておきましょう。まずハノーファーのハーン書店がこれを手がけますが、1925年からはC.E.ペーシェル出版社がこのシリーズを引き受け、1933年までこれを継続します。このシリーズでは様々な国の経済要素について論述されています。
 
第1巻:ジークフリート・ベルリーナー著 『日本の輸入貿易の組織と営業』(1920)
第2巻:ジークフリート・ベルリーナー著 『中国の輸入会社の組織と営業』(1920)
第3巻:ジークフリート・ベルリーナー/クルト・マイスナー著 『戦時中の日本における鉄道産業の発展』(1920)
第4巻:ジークフリート・ベルリーナー著 『中国の輸出会社の組織と営業』(1920)
第5巻:P. クラウトケ著 『中国の有用植物と有用動物』(1922)
第6巻:ジークフリート・ベルリーナー著 『阿波の藍取引の組織』(1924)
第7巻:アンナ・ベルリーナー著 『日刊新聞に見る日本の広告』(1925)
第8巻:ジークフリート・ベルリーナー著 『山東省における落花生取引』(1926)
 
1912年に出版された『政治的算術』の他に彼はC.E.ペーシェル出版社から、シリーズ『組織の本』(1924)の一冊として『資本としてのお金』というタイトルの本を出版しております。
 
 その他にジークフリート・ベルリーナーは色々な雑誌に記事を書いております。例えば、経営学の雑誌、商学・商業実務の雑誌、商学研究雑誌、世界経済論叢、経営学事典、多くの日本の雑誌などです。1)
   1) LBI (Leo Baeck Institute): CV S. Berliner
 
 
 
6. 妻、アンナ・ベルリーナー
 
すでに色々な箇所でジークフリートの妻に触れてきましたが、ここで年代順にジークフリート・ベルリーナーの事績を追うことを一時的に中止しまして、その夫と同じくらい興味深いこの学者について報告することにいたしたいと思います。
 
アンナは旧姓をアンナ・マイアーといい、1888年12月21日にハルバーシュタットで、父イスラエールと母ヘンリエッテというユダヤ人を両親として生まれました。父親のイスラエールは有名な婦人用既製服の商店を経営しており、絹布やあらゆるファッション関係の品物を扱っておりました。1859年生まれの母親ヘンリエッテは、1942年、83歳のとき収容所に移送されて殺されました。アンナにはグレーテ、エリーザベト、ゲルトルートの三人の姉妹がおりました。1) 1887年生まれのエリーザベトは、後にジークフリートとアンナが亡命生活に入ってから、引越の荷物を二人に送る仕事を引き受けております。彼女自身も一時捕らえられますが、後に合衆国に逃げることげでき、1982年にカリフォルニアで死亡しております。
   1) http://www.juden-im-alten-halberstadt.de/menschen.php?menschID=132&filter=M (ザビーネ・クラムロート著: 「往年のハルバーシュタット在住ユダヤ人」[絶版]に関するHP)
 
アンナ・マイアーは15歳のとき実家のあるハルバーシュタットを去り、1905年から1909年までハノーファーの実科ギムナジウムに通いました。1)
   1) Pacific University Archive, Anna Berliner Collection ACC.2011.260 - Memorial lecture delivered 1978 by Mathew Alpern.
 
アビトゥーア(大学入学資格試験)に合格後、彼女は1909年にフライブルクで2学期、1910年にベルリンで1学期、医学を学びました。しかし彼女は早くから、新しい展開を見せている心理学の分野に進みたいという希望を持ち始めていました。すでにベルリン大学時代に、臨床課程以前の医学科目と平行して、心理学のゼミに参加しておりました。
 
1910年、21歳のとき、高校時代の友人コラ・ベルリーナーの兄と知り合いになりました。そしてその年のうちに彼らは結婚しました。この兄というのがジークフリート・ベルリーナーだったのです。彼はすでにライプツィヒ商科大学の講師であり、1910年には教授に任命されました。
 
アンナ・ベルリーナーは夫に伴われてライプツィヒへ行き、そこで心理学を学びました。彼女は、実験心理学の創始者である有名なヴィルヘルム・ヴント教授1)が男子学生しか博士候補生として受け入れないことを知ってはいましたが、大胆にもヴント教授のもとで強力に自己を貫いたのです。恐らくヴントは彼女の果敢さに感服したのでしょう。結局彼女を博士候補生として受け入れることに同意したのです。こうしてアンナは、ヴント教授の元で最初の女性博士候補生となり、1913年にライプツィヒ大学から最優等の成績で哲学博士号を取得するという栄誉を勝ち得たのです(博士論文のタイトルは『感覚的印象の主観性と客観性』で、1914年にライプツィヒのエンゲルマン書房から出版)。そしてその直後の1913年に東京帝国大学の客員教授として招かれた夫に付き従って渡日した訳です。
   1) www.wikipedia.org/wiki/Wilhelm_Wundt
 
東京でアンナは1913から1914年にかけて、東京帝国大学付属精神病院の心理学実験室で働いておりましたが、戦争が勃発して、夫は収容所に入れられてしまいました。
 
アンナは前述のごとく丸亀滞在の後、1915年8月に合衆国に旅立ちました。最初彼女は1915年から1916にかけてカリフォルニア大学バークレー校で、専門の心理学をG. M. ストラットン教授の元で、また数学をC. I. ルイス教授の元で研究しました。その後奨学金を得て、コロンビア大学で心理学、哲学、人類学の研究に打ち込みます。傍ら彼女は、ニューヨークのユダヤ人孤児養護施設で心理学者として働き、またニューヨークにある色々の会社で宣伝の助言者としても働いておりました。
 
戦後1920年にアンナは再び日本に戻り、広告という課題に取り組みます。そして星製薬の心理学顧問として働きました。彼女はこの会社の宣伝部の顧問として働いていたのでした。彼女は宣伝に関しての講習を行ったり、宣伝員を選ぶ試験方法を開発したり、彼女自身が女性宣伝員の面接試験を行ったりしました。更に私立の星製薬商業学校で販売技術を教えましたが、この学校は星一によって1922年に設立され、これが今日の星薬科大学へと発展したのです。創設者の星一は、第一次世界大戦後の困難な時にあって、ドイツの学問と日独関係発展のため、パトロンとして抜きん出た働きをしました。2012年2月に星一はベルリンの日本大使館で特別顕彰されております。1)
   * 訳注: http://koki.o.oo7.jp/hoshi_hajime.htm
   1) ベルリン日本大使館、日本だより No.87, 2012年2月
 
彼女はまた、当時の東京市長後藤新平子爵(後に伯爵)の顧問としても働きましたが、彼も星と同様、日独関係に特に重要な役割を担っておりました。更にアンナは日本大学でも教鞭を取っております。
 
彼女の出版物は極めて広い範囲に及んでおります。特に注目に値するのは1925年にC.E. ペーシェル出版から発行された『日刊紙に見る日本の広告』です。
 
http://koki.o.oo7.jp/rodeimage061.jpg
(↑ 画像61) 『日刊紙に見る日本の広告』
 
ペーシェル出版(今日のシェーファー・ペーシェル出版)は1925年に極めて興味深い記事を書いておりますが、これは現在でも通用するかもしれません。
 
「東京在住の著者は、我が社で出版物を出す初めての女性である。彼女の著作について、スイスの商学雑誌は次のように書いている。『65枚の挿絵を元に、日本の広告が欧米のものとどこが違っているか説明されている。著者の判断によれば、日本の広告はコンセプトとしては欧米から多く学んでいる。しかし日本人は直感の名手である。そしてまさにこの特質ゆえにこそ、この宣伝研究の書籍を購入する値打ちがあるのである。』その「あとがき」に著者ベルリーナーは次のように述べている。『日本においては、風情とか情緒とか言うものが強く押し出され、純粋に思考的なものは軽んじられます。西洋においては逆ですが。間接的に見る者の目に働きかけるもののすべて ― 日本の広告に見いだされるものはこれです。すなわち、美的な造形、世間を支配する雰囲気との結びつき、風情の形成、広告の統一性が重要であって、購買根拠を理念として動機付けようとする傾向が欠けています。…雰囲気に重きを置く広告が間違っているかどうか、それは疑問です。唯一私たちに言えることは、日本の広告に見られるような過剰な雰囲気への傾向は、私たちに対しては効果が無い、それだけです。忘れてならないのは、アメリカの広告もまたその典型的なものは、そのままドイツに移すことはできないという事実です。まず翻訳した場合、物事は違った風に感じられますし、また、どの国にもその国の伝統というものがあるからです。』1)
   1) https://www.schaeffer-poeschel.de/jubilaeum/1925.htm
 
彼女にとって、在日中のこの時期の他の重要なテーマとして、茶道がありました。彼女は日本語を学び、三年間に渡って茶道の稽古に通っております。ドイツに戻った後の1930年、ライプツィヒで『日本の茶道』というタイトルで二つの大きな論文を発表しています。(ブルーノ・シントラー博士のAsia Major社発行。第5巻(1930)の281〜488ページ、および第6巻(1930)の109〜297ページ)
 
この論文の「序」にアンナ・ベルリーナーは次のように述べています。
「茶道の稽古を始めたとき、茶道の奥にある途方も無く大きなものについて、私は何も知らなかった。しばらくやればマスターできるだろう、と言う軽い気持ちでいたのだった。しかし稽古をやればやるほど、私の前に聳え立つ巨大な体系を前にして、驚きは増すばかりだった。事柄自体として探求され、把握されるに値する民族心理学的現象として立ち現れて、ますます私を魅了したのである。」
 
デートレフ・カントフスキは、その大著『茶の道』において、アンナ・ベルリーナーの著書に詳細な解説を加えて(93ページ以下)、これを称賛しておりますが1)、その中で、日本の茶道に身を置かんとする者は、すでに80年も前に書かれた本ではあるにもかかわらず、このアンナの著書を是非とも一読すべきである、と勧めております。
   1) デートレフ・カントフスキ:『茶の道』 http://kops.ub.uni-konstanz.de/handle/urn:nbn:de:bsz:352-opus-18041
 
ここで一旦、ドイツでのベルリーナー夫妻の生活に戻ることにいたします。そしてアンナに関しては、この講演の最後にもう一度、アメリカでのその最晩年と、彼女の悲劇的死について触れることにいたします。
 
 
 
7. ライプツィヒ 1925〜1938
 
1925年にベルリーナー夫妻はドイツに帰国し、ライプツィヒのヤーコップ通り25番地に住むことになりました。
 
Dr.ジークフリート・ベルリーナー教授は研究を通して保険数理の方面に広汎な知識を得ておりました。この知識を彼は、「ハンブルク・ライプツィヒ生命保険銀行株式会社」の設立者および社長として役立てました。この会社は後に「ドイツ・ロイド生命保険」と名前を変え、1927年に「ゼネラリ保険会社」に吸収されました。
 
ベルリーナーはこの生命保険会社を12年の間に、保険総額7200万RM、年間特別配当1320万RMの規模にまで発展させました。配当金は毎年8%支払われました。
   * 訳注: ライヒスマルク。1924〜1948のドイツの貨幣単位
 
この時期にベルリーナーはしばしばオーストリア、チェコスロバキア、オランダ、ハンガリー、イタリアへ赴き、これらの国々の支店の発展を支え、かつ査察しております。1)
   1) レオ・ベック文書館 (Leo Baeck Archiv): 上述箇所。ベルリーナー経歴参照
 
ジークフリート・ベルリーナーが指揮をとっていた時期のドイツ・ロイド生命保険は、とりわけ20年代から30年代初頭にかけて、ライプツィヒのユダヤ人団体を援助・支援しています。1)
   1) バルバラ・コヴァルツィク: 1900年から1933年までのライプツィヒ北部郊外におけるユダヤ人の職業生活。ライプツィヒ 1999 58ページ。
 
これと平行してベルリーナーはライプツィヒ商科大学で教え、また夕方には保険会社社員のために研修授業を行っています。ベルリーナーは日本へ行く前の1909年から1913年まで公立上級商業学校で教鞭をとりましたが、彼はその卒業生団体を組織し発展させるにあたって中心的役割を果たしました。そしてベルリーナーの仲介で、上級商業学校の多くの卒業生たちが大きな保険会社に職を得ることができたのでした。
 
日本との関係はライプツィヒに戻っても途切れることはありませんでした。ジークフリートとアンナはライプツィヒにOAG(ドイツ東洋文化研究協会)の支部を立ち上げ、長年に渡って(1932年まで)無給でこれを率いました。1)
   1) カール・フォン・ヴェークマン、ローベルト・シンツィンガー: OAGの歴史 1873-1980、東京 1982 45ページ
 
アンナは茶道に関する彼女の本の中で、茶道関係の和書の翻訳を、ライプツィヒ滞在中の学生三人(C. Hiroe, R. Iinuma, F. Hamada)が引き受けてくれて非常に助かったと力を込めて述べております。1)
   1) アンナ・ベルリーナー: 日本の茶道 ブルーノ・シントラー博士のAsia Major社 第6巻(1930) 210ページ
 
ライプツィヒは当時、日本との関係において重要な役割を果たしていました。アンナの『日本の茶道』を発行したブルーノ・シントラー博士のAsia Major社は、OAG出版物の販売も引き受けていましたし、また同じくライプツィヒ所在のハラソヴィッツ出版は、日本および東アジアに関する出版物を世界中に送り届けておりました。OAG草創期の古いコレクションもライプツィヒで閲覧することができましたし、また今でも大部分は、第二次世界大戦や東独時代の艱難を乗り越えて、グラッスィ民族学博物館で展示されております。
 
ジークフリートとアンナは出版や講演を通して、ライプツィヒのOAGで模範的存在となりました。OAG雑誌(第20巻、1930年1月15日、5ページ)は彼らの業績を次のように称賛しております。
「財政的な結果は別として、われわれはライプツィヒ支部に対して、特に次の点に関して感謝しなければならない。つまり、戦争によって長く中断されていたが、支部はドイツにおいてOAGの名前を再び栄誉ある地位へと導いてくれたのである。」1)
   1) ペクリスティアン・W・シュパング: 頓挫したライプツィヒの博物館建設計画とベルリン部局 欄外注 OAG 第2部 2005, 5ページ
 
しかし1933年にナチスが権力の座に就くことによってすべてが終わりました。ジークフリートとアンナはユダヤ人でしたので、もはやサロンには出入りできなくなります。当時の独日協会事務局長ハックから「ナチス党員にして職務管理者」と呼ばれたライプツィヒ大学日本学教授ハンス(ヨハネス)・ユーバーシャール**は、ジークフリートとアンナをライプツィヒOAGから閉め出すという不名誉な役割を果たすことになりました。1)
   * 訳注: ハック   ** 訳注: ユーバーシャール http://koki.o.oo7.jp/hack_ueberschaar.htm
   1) ギュンター・ハーシュ編 独日協会 1888−1996、ベルリン 1996、140ページ
 
ハックはすでに1933年に、ベルリンとライプツィヒのOAG支部を独日協会の管理下に置こうと努力しています。ベルリン支部の統合に関しては明らかに問題がなかったのですが、ベルリーナー夫妻のお陰で活動が極めて活発であったライプツィヒ支部においては状況はより複雑でした。「そのときライプツィヒのユーバーシャール教授が、ベルリーナー夫妻の存在は、新しい政治状況の下ではもう我慢の限界だろう、と短く言った」。1)
   1) ハックからゾルフへの書簡より (ハーシュよりの引用) 
 
1930年にライプツィヒ・ドイツ・東アジアクラブ(D.O.C.)がOAGに加盟するのですが、これによってライプツィヒOAG支部は新しいより強化された地方支部となり、ドイツOAGは(オーストリアとスイスも含んでではありますが)突如日本のOAGよりも加盟者数の多い団体となりました。
 
OAGはその会長であるクルト・マイスナーがヨーロッパ旅行中の1934年に、支部をライプツィヒからハンブルクに移しましたが(その際、更迭されたライプツィヒの役員に対して一言の感謝の言葉もなければ、支部移転の根拠についての十分な説明もなされませんでした)、それによってライプツィヒの支配的な地位は揺るぎはしませんでした。1934年の年度報告の3ページには言葉少なく次のように書かれているだけです:「支部はハンブルクに移転したが、それは多くの観点から、こちらの方がライプツィヒよりも、東アジアに興味を持つすべての者が行き来するのに地の利があると思われたからである」。同時にOAGの出版を担当する出版社はベルリンのベーレント社からライプツィヒのハラソヴィッツ社に移りました。後者が他ならぬライプツィヒに所在していることは、ハンブルクが地理的に特別な意味を持つという上記の記述と矛盾しております。ライプツィヒ支部のかつての指導者がユダヤ人であったこと(そしてナチスの迫害から逃れるため辛うじてドイツを去ることができたこと)には言及されておりません。恐らくはその事が ― 同時代の観察者の立場によって異なるかもしれませんが ― OAGにとっては気まずく、あるいは屈辱的に感じられたからでしょう。1)
   * 訳注: 所在地は現在ヴィースバーデンに移っているが、当時はライプツィヒ
   1) ペクリスティアン・W・シュパング: 頓挫したライプツィヒの博物館建設計画とベルリン部局 欄外注 OAG 第2部 2005, 5ページ
 
OAGの歴史、およびそのユダヤ人会員との交際の歴史を洗い直すための後の研究によれば、こともあろうに戦友クルト・マイスナーが、政治的日和見主義の立場から友人ジークフリート・ベルリーナーに対してよそよそしい態度で接していることが明らかになってきています。第二次世界大戦後の1973年にハンブルクで出版されたマイスナーの自伝1)の中でも、ベルリーナー夫妻のライプツィヒでのOAGのための名誉職活動に関して、称賛や承認の言葉は一切述べられておらず、ましてや彼らをOAGから追放したことについては全く触れられておりません。2)
   1) クルト・マイスナー: 「日本での60年」 1973年 ハンブルク 184ページ
   2) ペクリスティアン・W・シュパング: トマス・ペーカー編集「逃走と救い」(ベルリン、2011 86ページ)より、「二つの世界大戦の間のドイツ東洋文化研究協会(OAG)」
 
ユダヤ人ジークフリート・ベルリーナーにとって、ナチスの政権奪取以来、生活はいよいよ困難になってきました。商科大学ではもはや講義を受け持つことは許されず、ただ夜間コースのみが許可されていました。ドイツ・ロイド生命保険では、代理人を獲得することがますます難しくなりました。代理人による顧客獲得も、競争相手がロイドの経営者はユダヤ人であると宣伝したため、同様に難しくなっていきました。1937年10月1日に、株式会社は便箋の頭書きに取締役の名前を明記しなくてはならないとの規定が施行されたとき、ベルリーナーは保険会社の経営から退くべき時が来たと感じました。
 
ドイツ・ロイド生命保険の取締役であるパウル・シュペートマンと話し合った結果、1937年9月23日に退職協定が結ばれ、退職一時金は76.000 RM(ライヒスマルク)、年金は月額1.000 RMで、貨幣価値換算と生命保険料の支払も含まれていました。1)
   1) ニーダーザクセン州立文書館。Akte Nds. 110 W Acc 84/90 Nr. 446/24: 1954年9月7日、公証人パウル・ジーゲルに対するジークフリート・ベルリーナーの宣誓供述
 
おもしろいことに、ケンピンスキー株式会社の前身であるホテル・ベトリープ株式会社の支配人として戦後活躍したのが、ほかならぬこのパウル・シュペートマンでした。彼に対しては、ケンピンスキー資産を管理するユダヤ系子孫たちから批判がありますが、ここではそれについて詳しく述べる余裕はありません。ただ以下の点についてのみ言及しておきたいと思います。ナチス時代にシュペートマンは、アッシンガー・コンツェルンの取締役として、ナチスから要求されたアーリア化事業の一環として、ケンピンスキー・グループのユダヤ人所有者と譲り受けの契約を交わしております。1)
   * 訳注: ユダヤ人の財産を没収してドイツ人の所有に移すこと
   1) http://www.landesarchiv-berlin.de/php-bestand/arep225-pdf/arep225.pdf
 
 
 
8.  強いられたアメリカ亡命
 
1938年6月にジークフリート・ベルリーナーはアメリカ合衆国に旅立ちます。公式には生命保険制度の調査のためですが、実際の目的は、ナチス政権という亡霊が過ぎ去って、再びライプツィヒに帰れる日を待つためでした。ですから彼は家財道具の一切と資産をドイツに残しておいたのでした。
 
この希望が叶えられないこととなったため、彼は1939〜1941の間、ワシントンDCのハワード大学の商学・金融学部で講師としての活動を始めます。収入は月額250ドルで、頗る薄給でした。1941年10月1日から彼はオハイオ州コロンバスにあったアメリカ国民生命保険会社で第一副社長に就任しました。差し当たりの月給は300ドルでしたが、一年後には600ドルに昇給しています。1)
   * 訳注: 1867年に創立された全米屈指の名門黒人大学
   1) ニーダーザクセン州立文書館。Akte Nds. 110 W Acc 84/90 Nr. 446/24: 1954年9月7日、公証人パウル・ジーゲルに対するジークフリート・ベルリーナーの宣誓供述
 
しかしベルリーナーは1943年3月31日にはこの地位を失います。会社の経営者がドイツ人だったため、アメリカ政府によって解散させられたのです。その後は、保険の斡旋によって自分と妻の生活を支えようと試みました。いくつかの資料から、当時の彼には月100ドルしか収入がなかったことが分かっています。今日のわれわれの目から見れば、アメリカのユダヤ人移民がこれほどの苦難に直面していたことに驚かざるを得ません。1945年の初頭にベルリーナーはシカゴに行き、そこで保険の斡旋により少なくとも月に250ドル得ておりました。戦時中および戦後のベルリーナーの収入がどれほど少なかったかは、以下の表を見ていただければ明らかです。
 
アメリカ滞在中の収入の内訳1)















 
米ドル
  1939   0
  1940   4.380
  1941   5.850
  1942   2.583
  1943   2.937
  1944   1.870
  1945   0
  1946   1.800
  1947   1.800
  1948   600
  1949   543
  1950   500
  1951   -507
  1952   -40
  1953   840
 
   1) ニーダーザクセン州立文書館。Akte Nds. 110 W Acc 84/90 Nr. 446/24: 1954年9月7日、公証人パウル・ジーゲルに対するジークフリート・ベルリーナーの宣誓供述
 
この戦時の困難な時期に、アンナ・ベルリーナーは家計を支えるために、コロンバスのオハイオ州立大学で成人のための日本語の授業を受け持っていました。彼女は日本語の個人授業を行ったり、広告に関する自分の本をシカゴ大学用に英訳したりもしております。更にまたシカゴの書店で従業員としても働いております。1)
   1) パシフィック大学文書館: アンナ・ベルリーナー文庫 ACC.2011.260 ― マシュー・アルパーンによる記念講演、1978年
 
1946〜1947、彼女は北イリノイ眼科大学で心理学の授業を担当しました。しかし1948/49年度には、彼女は職を見つけることができませんでした。アンナはすでに60歳で、しかもユダヤ人である彼女にとって、大学で職を得ることは容易なことではありませんでした。
 
オレゴン州フォレスト・グローヴ市のパシフィック・グルーヴ大学が彼女に講師の職を用意したことは、大学の大きな功績です。ベルリーナー夫妻(アンナ60歳、ジークフリート65歳)は1949年1月にフォレスト・グローヴに移住します。1951年には彼女はすでに教授になり、心理学実験室の所長でした。彼女はこの大学で1962年に定年を迎えるまでの長い期間、成功裏に職務を全ういたしました。
 
 
 
9.  1950年代の補償金訴訟
 
1954年9月7日にDr.ジークフリート・ベルリーナー教授は彼の郷里ハノーファーを訪問した際に、弁護士であり公証人であるパウル・ジーゲル博士と面談し、彼に対して宣誓供述を行いました。パウル・ジーゲル (1880 - 1961) は名望のある弁護士で、1921年以来公証人としても任命されておりました。1922年に彼は弁護士会の理事であり、1933年より以前、そして1945〜1959の間副会長でした。1945年以降ニーダーザクセン州の司法の再建に重要な役割を果たしました。パウル・ジーゲルはユダヤ人でしたが、ドイツのホロコーストを生き延びた数少ない人間の一人です。その彼がジークフリート・ベルリーナーの補償金訴訟において代理人を務めたのです。
 
まずジークフリートは、ドイツ生活保険における彼の地位や、辞職を強要されたこと、そしてその際、前述のように退職金や年金の支払に関する取り決めがあったことについて述べます。1939年に停止されていた年金の支払は、1946年から過去にさかのぼってドイツ・ロイド生命保険から再支給されていましたが、ベルリーナーは創設者としてまた代表理事としてこの会社を成功に導き、もし正常な政治状況であったならば、70歳の今日に至るまでこの仕事を続けていたはずである点を論じました。彼は受け取り損ねた収入に関してドイツ帝国を相手に補償の申請を行いましたが、その際受け取った年金とアメリカ合衆国で受け取った収入を差し引いております。それによれば請求額は524.000 RMで、この間アメリカで得た収入とドイツ・ロイド生命保険から後払いされた年金は170.000 RMでした。
 
1937年に76.000 RMという退職金の額は当時の基準からすればかなり気前がいいと思われるかもしれません。またベルリーナーはそれまでの数年間にかなりの資産を貯蓄してはおりました。しかし移住にはかなりの費用が必要でした。ユダヤ人資産課税、帝国脱出税、退職金への25%もの課税(アーリア人には10%)などによって、179.390 RMもの負担が生じたことが明細書から読み取れます。
 
清算書 ドイツからの出国1)
 補償金訴訟の請求額と支払額の比較
  請求額 RM 和解金額 DM**
1. ユダヤ人資産課税       93.720       18.744
2. 帝国脱出税       74.270       14.854
3. 税刑 (退職金の合計76.000 RMに対して10%ではなく25%と不当に課税されたため)       11.400
 
       2.280
 
合計      179.390       35.878
 
   1) ニーダーザクセン州立文書館。Akte Nds. 110 W Acc 84/90 Nr. 446/24: 1954年12月27日、ライプツィヒ在住アルトゥール・クッチェンロイターの宣誓供述 (支払の残務整理を引き受けたジークフリート・ベルリーナーの近親者)
   * 訳注: ライヒスマルク(1924〜1948)
  ** 訳注: ドイツマルク(1948〜1998)
 
さらに、ドイツ・ロイドに強制的にまとまった株式を売却させられたこと、および既述日本株式の売却による損失がこれに加わります。
 
家具調度の損失はかなりの額にのぼりました。ヤーコップ通り25にあった元々の大きな住居の家主からは、ドイツ・ロイド退社の際に退去を求められました。それから5月末にハノーファー経由でアメリカに渡るまでの間、ベルリーナーはカール・タウフニッツ通り8の同様に大きな住居に引越しておりました。
 
1938年11月9日の水晶の夜に、突撃隊がベルリーナーの住居に押しかけかなりの損害を与えました。最終的にアメリカに留まることを決意した後、ベルリーナー夫妻は、当時まだハルバーシュタットにいたアンナの姉妹エリーザベト・マイアーに、片付けを依頼しております。エリーザベト・マイアーがライプツィヒ外国為替管理事務所に提出した目録の中で、ライプツィヒに残っていたはずの多くの物が線で消されております。その中には次のようなものが含まれておりました。
· 最初に言及しましたヴィヨームのヴァイオリン(1920年時点の購入金額 8.000マルク
· イタリアのヴァイオリン製作者テストーレ作の高価なヴァイオリン、製作年1638年
· 高価なペルシャ絨毯4つ
· 父親マンフレート・ベルリーナーの遺産で、高価な16世紀の古書4冊
· 日本の箪笥、大きな机、4つの小さな日本机
· 学生同盟アルザティアのワッペン入り椅子35個
· その他
これらすべての損失をベルリーナーは34.795マルクと評価しております。
   * 訳注: パピーアマルク(1914〜1923) それまでの金マルク(Goldmark)に対して、第一次世界大戦勃発を受けて金兌換停止以降の紙マルク(Papiermark) http://koki.o.oo7.jp/mark.htm
 
義理の姉妹エリーザベトは自分でもう一度ハルバーシュタットからライプツィヒに行って、残った品物を片付けようと思ったけれどもできませんでした。なぜなら彼女自身がユダヤ人ゆえに逮捕されたからです。1)
   1) ニーダーザクセン州立文書館。Akte Nds. 110 W Acc 84/90 Nr. 446/24: 公証人パウル・ジーゲルによって公証されたエリーザベト・マイアーの文書[アメリカ・サンフランシスコ発、1947年8月3日付け]
 
引越荷物と称するものはハンブルクに送られました。1955年8月1日のジークフリートの宣誓供述によれば、この引越荷物には50.000 RMの価値しかなかったとのことです。1)
   1) ニーダーザクセン州立文書館。Akte Nds. 110 W Acc 84/90 Nr. 446/24: 1955年8月1日、ジークフリート・ベルリーナーの宣誓供述
 
特に貴重な物件は以下のようのものでした。
1938年までの雑誌:
· キール世界経済記録集
· 商学研究雑誌
· 商学研究と貿易慣行の雑誌
· 簿記雑誌
日本製の品物
· 古い日本人形の収集 800 RM
· 九谷焼の皿一枚 800 RM
· 古い日本の皿二枚 各2.400 RM
 
残りの引越荷物はハンブルクの倉庫に入れられ、残念ながらアメリカには届きませんでした。
 
引越荷物の競売
1941年7月14日にジークフリート・ベルリーナーの引越荷物は競売にかけられました。

 競売売上

   5.648,50 RM

 諸費用

    -356,30 RM

 倉庫保管・配送費用 業者Peters & Löwenthal

   -1.173,70 RM

 小計

   4.118,50 RM

 行政管理費

    -286,00 RM

 残金
 

   3.832,50 RM
 
 
ドイツ銀行ハンブルク支店の国家警察司令室口座に振込1)
   1) ニーダーザクセン州立文書館。Akte Nds. 110 W Acc 84/90 Nr. 446/24
 
1954/55年の補償金訴訟は、ジークフリートに上記のごとく35.878 DMの和解金をもたらしましたが、これは実際に被った損害に比して不十分な弁済金でした。どのような理由によりベルリーナーがこの和解に応じたのか、資料から読み取ることはできません。可能性としては、老齢でいつ終わるか知れない訴訟を続けたくなかった、あるいは1950年代にはアメリカにおける彼と妻アンナの経済状況が好転していたことが考えられるでしょう。後に、すなわち1960年に、ベルリーナーは失われた不動産に対しての補償を受け取っており、補償金の総額は約100.000 DMになりました。
 
 
 
10.  マールブルクの学生同盟アルザティア・ライプツィヒへの尽力
 
講演の最後に私は、Dr.ジークフリート・ベルリーナー教授が「彼の」そして同時に「私の」学生同盟、すなわちマールブルクの学生同盟アルザティア・ライプツィヒ、のために尽力したことに触れて、その功績を顕彰したいと思います。
 
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(↑ 画像62) アルザティアのワッペン
 
1893年にライプツィヒでアルザティアが創設された経緯や、ベルリーナーがライプツィヒで独日関係に貢献した時期の前後に、彼がアルザティアで活躍していた状況などについては、ほとんど資料が見つかっておりません。学生同盟アルザティア・ライプツィヒは、学生同盟(ブルシェンブント)の連合(BC)、すなわち民族解放団体の連合体、に加盟しておりました。
 
ドイツ人の精神生活においてユダヤ人がどのような地位を占めていたかについて述べることは、この講演の枠を遙かに越えてしまいます。ただ、当時のドイツ帝国では、古くからプロイセンに根付いていた寛容の伝統に則って、若いユダヤ人にドイツの大学で学ぶ自由が与えられておりました。しかし大学内の学生組合(ブルシェンシャフト)ではこの寛大さは必ずしも通用しませんでした。愛国主義の名の下に反ユダヤ主義も広がり、ユダヤ教徒の学生には多くの団体への加盟が拒絶されるか、あるいは望ましくないとされておりました。
 
これに代わるものとして、人種条項がなく、寛容を強調し、平等を原則とする団体、すなわちユダヤ人も非ユダヤ人も等しく会員として受け入れる団体が成立しました。学生同盟アルザティア・ライプツィヒはこの種のグループに属しており、ここでベルリーナーは重要な役割を果たしたのです。1919年時点でこのような原則に則って学生同盟連合に加わった団体は、23ありました。
 
ナチスの支配が始まりますと、この連合は1933年に真っ先に恐怖政治の犠牲となり禁止されました。そして連合の仲間たちの多くは、ユダヤ人大量虐殺以前に、苦労に苦労を重ねてやっとのことで国外に移住することに成功したのでした。
 
第二次世界大戦後の数年間、アルザティアや他のBC学生同盟の生き残りメンバー(学生同盟員用語でOBは「古参」[アルター・ヘル])は世界中に散らばっておりました。しかし緊密な個人的つながりは続いており、1950年代にアルザティアを復活させようという動きが生まれました。ライプツィヒでの復活は東ドイツの政治体制ゆえに問題とされませんでした。結局マールブルクが選ばれましたが、その理由は一人の「古参」が弁護士としてそこに居住していたからです。このマールブルクのアルザティア復活に、もっとも中心的とまでは言えないまでも、大きな役割を果たしたのが、われわれが古参コジことベルリーナーでした。残念ながら私は、他の学生同盟仲間から極めて印象的な人格と表現されているこのジークフリート・ベルリーナーと直接面識を得ることは叶いませんでした。と申しますのも私が学生同盟に入りましたときには、彼は病気がちで、アメリカからドイツに旅行することはもはや不可能になっておりましたから。しかしながら私はここ10年ほど古参グループの書記をやっておりますが ― 残念ながら若手の活動家がもう存在しませんものですから ― その関係で私はジークフリートの手紙を入手することができたのです。その中から抜粋していくつか紹介いたしたいと思います。そこから見えて参りますのは、彼の組織力の才能でして、それがわれわれに好印象を与えます。
   * 訳注: 学生同盟のメンバーはニックネーム(隠語で、「ビール名 Biername」)を持っていたようです。
 
S. ベルリーナー教授より学生同盟アルザティアBCへの手紙(アメリカ合衆国オレゴン州フォレスト・グローヴ、1959年1月30日):
· マールブルクにもきっと住所ラベル機を置いている印刷業者が存在するはずです。古参の住所を刷版に圧印しておいて、いつでも数分で住所の書かれた封筒が用意できるようにしておけばよいでしょう。
· 住所の書かれた封筒を数セット事務所に用意しておけばよいでしょう。
· また、住所入りの学生同盟葉書を1セットか2セット用意しておいて、特別の機会に使えば、喜ばれるでしょう。
· すべての古参に住所原版を打ち出したものを送って、住所に間違いなどがないか確認してもらえばよいでしょう。
· 住所原版をアルファベット順に揃え、それらを順番に帯状に並べなさい。そうすれば簡単に会員名簿ができあがります。これをすべての古参に送付して、その名簿を確認してもらい、もし名簿に記載されていない住所があれば知らせてくれるよう頼んでおいてください。未だ住所不明の会員が多くいますから。
· クリスマスや来客歓迎の飲み会、ビア樽祝賀**など、特別の出来事があった場合は、翌日すぐに短く報告すること。注目すべきスピーチやおもしろい出し物***があった場合には、それも報告すること。古参の誰もが、自分も今マールブルクにいるのだ、という気持ちにさせることが肝要。そうすればみんなマールブルクに押し寄せて来て、彼らからお金を引き出すことがそう難しくはなくなるでしょう。
   宛名を書く際には名前の後ろに、「Als. AH [アルザティア古参]」と書くことを忘れないように。手紙の呼びかけの際には、「親愛なる古参」と。同盟の正式の手紙は「まず我らが学生同盟の挨拶を」で始め、最後は「心より学生同盟の挨拶を」で締めくくり、第二幹部の名前、花押、地位を書くこと。
· 遠距離の外国へは航空便を使うこと。その際、孔版印刷に薄い紙を使用すること。
· これらすべての手続き(宛名印刷機、孔版印刷、送料)の費用については私が持ちます。古参ルックに、差し当たっての費用請求書を作って私に渡すように頼んでください。
…………
   * 訳注: 学生同盟や学生組合はそれぞれ固有のデザインの絵はがきを持っていたようです。
   http://couleurkarten.berliner-burschenschaft.de/Leipzig/B_Alsatia.html
   ** 訳注: メンバーの誕生日など祝い事の際に、ビア樽を寄付する風習があったとのこと。
   *** 訳注: ここに「出し物」と訳したドイツ語(Fuxenulk)は、どの辞書にもなく、検索でも一つとしてヒットしない。ローデさんの説明では、学生同盟の隠語で、新入生(Fuchs)に強いるスピーチや歌など。
 
マールブルクのアルザティア・ライプツィヒ現役学生の夏学期報告(1959年9月1日付け)には、ジークフリート・ベルリーナーが学期初めに数日間マールブルクに滞在し、助言と行動を通して若い活動家たちを支援したことが強調されております。「彼に対しては特にこの場でいま一度、宛名印刷機という極めて便利なプレゼントをいただいたことに、深甚の感謝を表したいと思います。これによって会報の送付という厄介な作業が苦労なしの喜びへと変化しました。」
 
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(↑ 画像63) 1960年に開催されたマールブルクの学生同盟アルザティア・ライプツィヒの設立祝賀会
ラーン川河畔マールブルクのリゾートホテル・オルテンベルクにて。前列、右から三人目がジークフリート・ベルリーナー
   * 訳注: マールブルクの公式名は「ラーン川河畔マールブルク」
 
マールブルクの学生同盟アルザティア・ライプツィヒの伝統を復活させるため、最も重要な土台は、固有の同盟クラブハウスを入手することでした。これに関して、ジークフリートとアンナは最も重要なスポンサーでした。彼らは1961〜1964に総額210.000 DMを、マールブルク、ベーリング通り9番地にある建物を取得するために寄付したのでした。
 
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(↑ 画像64) ラーン川河畔マールブルク、ベーリング通り9番地の旧アルザティアハウス
 
この建物はシュロスベルクの大変美しい場所にあり、私自身にとって名誉なことですが、1963年に第一幹部としてこの家の最上階に住むという貴重な体験をさせていただきました。
 
我らが古参コジことジークフリート・ベルリーナーは、この美しい学生同盟ハウスへの入居を、残念ながら彼自身が体験することが出来ませんでした。1961年4月15日に彼はアメリカから手紙を書いておりますが、この手紙にも重要な助言が含まれております。
「残念ながら私は、何時ドイツに行くことができるのか、まだ皆目見当も付きません。まず、妻がどのように計画するのか、それを待たなければならないからです。最近私が何回かヘマをやらかしたものですから、妻は私を一人で旅行させようとしないのです。
· 私が希望しますのは、この新しい建物の所為で諸君が奢侈に流れることなく、われわれが今までアルザティアで常に尊重してきた簡素なしきたりを守っていただくことです。
· 私の予測では、将来同盟メンバーは間違いなく(OB, 現役、新入生を含めて)約40名になると思います。これを諸君はメンバー募集によって実現できるでしょう。
· アルザティア・ライプツィヒは鉄の規律で知られ、BCの間でもそのような折り紙が付けられていた訳ですが、何よりもこの規律を守るよう注意していただきたい。規律なしでは、われわれの団体は単なる娯楽集団に過ぎず、そうなることは全体に避けていただきたいと思っております。
クラブハウスへの引越は設立祝賀会の間に行われるものと推察しております。もちろん私も出席を希望しております。私はもはや坂道を登ることは叶いませんが、タクシーを使えば楽に行けるでしょう。」
 
私が入手しているベルリーナーの最後の資料は、1961年7月9日の手紙です。
「極めて残念ですが、医者の診断によれば、私の心臓はヨーロッパに旅行するには弱りすぎているとのことです。今回は特にクラブハウスの完成式に参加できることを楽しみにしていたのですが。
…友人たちに見せたいので、アルザティアハウスの写真を何枚か送ってもらえれば、嬉しく思います。ニューヨークのシュタインハウスと、カリフォルニア・サンフランシスコ在住の私の兄ベルンハルト・ベルリーナーにもそれぞれ一セットずつ送っておいてください。彼らは同盟にかなり興味を示しており、必要とあれば、いつかかなりの寄付をしてくれるのではないかと思います。」
 
私たちは1960〜1980代の若い学生として、先祖たちの寛容という理想、自由主義的考えという理想を、変化したドイツにおいて尊重し育むことを学んで参りました。残念ながら後に学生生活は大変革を被り、学生同盟への興味もその犠牲となりました。マールブルクの学生同盟アルザティア・ライプツィヒはもはや後輩を持たず、同盟クラブハウスの経済的負担に耐えられなくなりました。活動家たちはその活動を停止し、それ以来OBたち、言ってみれば退役者たちのグループが残っているだけです。
 
 
 
11.  晩年 ジークフリート 1961年没  アンナ 1977年没
 
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(↑ 画像65) ジークフリート・ベルリーナー
 
1961年10月16日にジークフリート・ベルリーナーは少々長く患った後、アメリカ・オレゴン州フォレスト・グローヴ、Bストリート2206の自宅で死亡いたしました。
 
1961年11月11日付けのアルザティアによる賛辞には、ジークフリートは次のような哀悼の言葉で惜しまれておりますが、けだし至言であります。
「我らが同盟の同士にして卓越した人格者Dr.ベルリーナー教授(Cosi)がご逝去されました。彼は根っからの数学者で、思考の明晰さを愛し、冗句を受け付けませんでした。彼は強烈な義務遂行の人であり、物事に全力投球する行為の人でありました。職業生活においては功を成し、心から家庭を愛し、青春時代より彼の生涯はアルザティアの運命と融け合っておりました。快活な学生であり、かつ忠実なアルザティア人でありました。学問の世界で名誉ある地位に登ってからも、数十年間に渡りその組織的、実践的、学問的能力を同盟発展のために注ぎ、その長い生涯の間には古参グループの初代議長も務められました。」
 
納骨は1961年12月20日に、ハノーファーのユダヤ人墓地「アン・デァ・シュトラングリーデ」において行われました。アルザティアからも多くの同士が参列し、正装した三人の幹部がアルザティアの壮麗旗でベルリーナーへの最後の敬意を表しました。
   * 訳注: 学生同盟の正装と旗の画像(ただし、アルザティアの画像が見つかりませんでしたので、以下に示したのはオーストリアの某学生同盟のもの) http://upload.wikimedia.org/wikipedia/de/2/2d/Tauriskia2.jpg
 
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(↑ 画像66) 晩年のアンナ・ベルリーナー
 
アンナは夫の死後さらに16年間生き、彼女の専門である心理学の領域で以下のような最高の栄誉を受けております。
· 1963年に国際心理学者会議で、終身フェロー
· 1971年にアメリカ検眼協会の大きな賞であるアポロ賞受賞
 
アンナ・ベルリーナーは88歳であった1977年5月16日に、悲劇的な最期を遂げます。16歳になるフォレスト・グローヴ高校の生徒ジム・ワトキンスによって、自宅で殺害されたのです。恐らくはお金を強奪するために押し入り、それに対してアンナが抵抗したため、無残にも打ち殺され、さらに刺殺されたものと思われます。両親が喧嘩別れして、薬物依存症となっていた少年は、逮捕され無期懲役の判決を受けましたが、これはアメリカ合衆国では懲役20年を意味します。しかし彼は未成年でしたのでそれ以前に出所したものと推察されます。
 
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(↑ 画像67) アンナ・ベルリーナー殺害に関するパシフィック新聞よりの切り抜き
 
彼女の死後の1978年、ある賛辞の中でマシュー・アルパーン教授は次のように述べています。
「今重要なのはアンナ・ベルリーナーの生涯がわれわれに教えてくれたことです。常に彼女は教えてくれました。自分自身の手本を通して、読んだことについての議論を通して、教えてくれました。そしてまたある人が彼女の議論に対して答えた際に、彼女がその答に如何に反応したか、その反応の態度を通しても、彼女は教えてくれたのです。彼女の批判は ― 決して無礼ではないものの ― 常に辛辣で厳しいものでした。しかしハイレベルなものでした。」
(“What is important now is what Anna Berliner’s life has taught us. Always she taught. She taught by her example, by discussing what she had read and how she responded to one’s reply to her discussion. Her criticism were always sharp and hard, though never unkind, but her standards were high.” )1)
   1) Pacific University Archive, Anna Berliner Collection ACC.2011.260 - Memorial lecture delivered 1978 by Mathew Alpern.
 
アンナ・ベルリーナーの遺産
 
アンナ・ベルリーナーはその遺言状の中で、相続税支払とハノーファーの墓管理費支払後、残った資産によってゲッティンゲン大学に基金を設けるよう指示しておりました。この基金は、数学・理学部にジークフリート・ベルリーナーの名前で、数学と物理学の研究奨学金として設置して欲しいという内容でした。
 
このジークフリート・ベルリーナー基金は、1994年3月3日時点のゲッティンゲン大学の情報によれば、684.216 DMの遺産価値があり、物理学部において他の基金(ウンゲヴィッター博士基金)と統合されているとのことです。1)
   1) 2011年12月15日付けゲオルク・アウグスト大学(ゲッティンゲン大学)の文書より
 
物理学部はこの基金を財源として、優秀なディプロマ論文や博士論文を顕彰するため「ベルリーナー・ウンゲヴィッター賞」を授与し、また高い能力を持った若い科学者に奨学金を給付しております。1)
   1) http://www.uni-goettingen.de/de/44771.html
 
ベルリーナー夫妻が、運命によって自分たちの故郷ドイツを失ったことに、憤慨するどころか、その遺産のほとんどすべてをドイツの機関に ― すなわち、ジークフリートは彼が愛した学生同盟アルザティアに、アンナは夫の母校に ― 寄贈した事実を、われわれはいくら高く評価しても、し過ぎることはありません。
 
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(↑ 画像68) ハノーファーのユダヤ人墓地「アン・デァ・シュトラングリーデ」にジークフリートとアンナ・ベルリーナーの墓はある
 
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(↑ 画像69) ハノーファーのユダヤ人墓地「アン・デァ・シュトラングリーデ」の墓
 
 
 
12.  ジークフリートとアンナの著書
 
   * 訳注: 彼らの著書については、翻訳しないでそのままコピーしておきます。
 
BERLINER, Anna,
· 1914 Subjektivität und Objektivität von Sinneseindrücken. Inaugural-Dissertation zur Erlangung der Doktorwürde der Hohen Philosophischen Fakultät der Universität Leipzig. Leipzig/Berlin: Wilhelm Engelmann
· 1924: Geometrisch-Ästhetische Untersuchungen mit Japanern und an japanischem Material, in: Archiv für die gesamte Psychologie, Vol. 49, S. 433-442
· 1925: Japanische Reklame in der Tageszeitung. C.E. Poeschl Verlag Stuttgart, Weltwirtschaftliche Abhandlungen Band 7
· 1928: Japans Akademikerinnen, in: Deutsche Hochschule, Vol. 17, Nr. 7, S. 104 - 106
· 1928: Japanische Frauen von heute, in Driesch, Margarete (Hrsg.): Frauen jenseits der Ozeane, Niels Kampmann Verlag Heidelberg
· 1930: Der Teekult in Japan, Verlag Asia Major Dr. Bruno Schindler, Vol. VI (1930)
· 1948: Lectures on Visual Psychology, The Professional Press, Chicago.
 
BERLINER, Siegfried:
· 1905: Über das Verhalten des Gusseisens bei langsamen Belastungswechseln, Dissertation, Göttingen
· 1909: Der Erfinder des sprechenden Telefons
· 1912: Renten und Anleihen, C.E. Poeschel Verlag Leipzig 1912
· 1912: Politische Arithmetik - Versicherungsrechnung für Nicht-Mathematiker, C.E. Poeschel Verlag Leipzig 1912
· 1920: Organisation und Betrieb des Importgeschäfts in Japan, Hahn’sche Buchhandlung Hannover
· 1920: Organisation und Betrieb des Importgeschäfts in China, Hahn’sche B.
· 1920: mit Kurt Meissner: Die Entwicklung der japanischen Eisenindustrie während des Kriegs. Hahnsche B.
· 1922: Organisation und Betrieb des Exportgeschäfts in China, Hahn’sche B.
· Organisation, Betrieb und Technik des Seeschiffahrtsgeschäfts in China, Hahn’sche B.
· 1924: Geld als Kapital
· 1924: Organisation des Indigohandels im Lande Awa
· 1926: Der Erdnusshandel in Shantung
 
 
 
13.  文献
 
   * 訳注: 文献についても、翻訳しないでそのままコピーしておきます。
 
Barth, Johannes: Als deutscher Kaufmann in Fernost 1891 - 1981, E. Schmidt Verlag 1984
 
Berliner, Anna: Der Teekult in Japan, Verlag Asia Major Dr. Bruno Schindler, Vol. VI (1930)
 
Berliner, Siegfried: Organisation und Betrieb des japanischen Importhandels, Hahnsche Buchhandlung zu Hannover, 1920
 
Botschaft von Japan, Berlin, Neues aus Japan, Nr. 87, Februar 2012
 
Das Engel Orchester, Seine Entstehung und Entwicklung 1914 - 1919, Gedruckt und Gebunden in der Lagerdruckerei des Kriegsgefangenenlager Bando 1919)
URL: http://koki.o.oo7.jp/Engel-Orchester.pdf
 
 
Deutsches Institut für Japanstudien: Bando-Sammlung, Täglicher Telegramm-Dienst Bando vom 24. November 1919
 
Die Baracke, Lagerzeitschrift vom Kriegsgefangenenlager Bando Nr. 10, 2. Dezember 1917
 
Die Forschung über Albert Einstein in Japan: Part I. "Albert Einstein in der Japanische Kunst" 125. Geburtstag von Albert Einstein Deutsche Physikalische Gesellschaft e. V.
68. Frühjahrstagung 14.-18. März 2004 Universität Ulm
 
Göttinger Senatsbeschluß zur Wiederanerkennung der Titel,
URL: www.uni-goettingen.de/de/19166.htlm
 
Haasch, Günter (Hrsg.) Die Deutsch-Japanischen Gesellschaften 1888 - 1996, Berlin 1996
 
Kantowsky, Detlef: CHA DO TEE WEG
http://www.ub.uni-konstanz.de/kops/volltexte/2006/1804
 
Klamroth, Sabine:Juden im alten Halberstadt
URL: http://www.juden-im-alten-halberstadt.de/menschen.php?menschID=132&filter=M
(Website des vergriffenen Buches)
 
Klemm, Friedrich, ?Berliner, Emile“ in: Neue Deutsche Biographie 2 (1955),
URL: http://www.deutsche-biographie.de/pnd116136146.html
 
Kowalzik, Barbara: Jüdisches Erwerbsleben in der Inneren Nordvorstadt Leipzigs 1900-1933, Leipzig 1999
 
Landesarchiv Berlin: www.landesarchiv-berlin.de/php-bestand/arep225-pdf/arep225.pd
 
Leo Baeck Institute: Siegfried Berliner Collection AR 5280 (LBI)
 
Mantel, Peter: Betriebswirtschaftslehre und Nationalsozialismus, Wiesbaden 2009
 
Marugame-Lagertagebuch (1914.11.16 - 1917.4.7) übersetzt von KOSAKA Kiyoyuki
 
Meißner, Kurt und Hanni: Sechzig Jahre in Japan, Wiederauflage 1973 durch Kurt Meißner, Hamburg
 
Niedersächsisches Landesarchiv: Akte Nds. 110 W Acc 84/90 Nr. 446/24 Akte Siegfried Berliner.
 
OAG Veröffentlichungen Band 17 Teil B: 1914-1922
 
Pacific University Archive, Anna Berliner Collection ACC.2011.260
 
Schmidt, Hans-Joachim: Die Verteidiger von Tsingtau und ihre Gefangenschaft in Japan, 
URL: www.tsingtau.info
 
Schulze, Peter: Stadtarchiv Hannover HR 16 Nr. 1439 Februar/März 2005
 
Spang, Christian W.: Das gescheiterte Museumsprojekt, Leipzig und die Sektion Berlin in Randnotizen OAG Teil 2, 2005
 
Spang, Christian W.: Die Deutsche Gesellschaft für Natur- und Völkerkunde Ostasiens (OAG) zwischen den Weltkriegen, in Thomas Pekar (Hrsg.) Flucht und Rettung, Berlin 2011
 
Takahashi, Terukazu: Eine anonyme Anzeige aus dem Kriegsgefangenenlager Marugame, in: Journal of the Faculty of Letters, Okayama University, Volumen 38, Dezember 2002
 
Veröffentlichung 100 Jahre C. E. Poeschel Verlag
URL: www.schaeffer-poeschel.de/jubilaeum/1912.htm
 
Weegmann, Carl von: 85 Jahre O.A.G, Tokyo 1961
 
Weegmann, Carl von und Schinzinger, Robert: Die Geschichte der OAG - 1873 - 1980, Tokyo 1982
 
Zimmermann, Helmut: Die Familie Berliner, in: Landeshauptstadt Hannover, Presseamt (Hrsg.), Leben und Schicksal. Zur Einweihung der Synagoge in Hannover, Hannover 1963