一 丸亀・岡山時代―書画の才能の芽生え
 
 三木成夫は1925(大正14)年12月24日に、香川県丸亀市西本町で産婦人科医であった父・綱三(つなぞう)、母・於令(おれい)の四男として生まれた。母は、徳島の医者の家に生まれ、旧姓を井上といった。一番上が姉・房子、次が長兄・周平、次兄・国彦、すぐ上の兄・照也の五人兄弟の末っ子であった。
 後に、姉は香川と大阪で旧制中学・高校の教師をつとめた国友正氏と結婚したが、三木は小学生のころからこの義兄を尊敬し、大阪の家にもよく訪ねている。長兄は父の後を継いで西本町の病院を継いでいる。一つ年上の従兄弟の井上博也氏とは子供のころからよく遊び、後に六高の同窓となる。すぐ上の照也氏は、東北大学を卒業し、香川県で高校の数学教師となったが、もっとも親しく、何かにつけてよく相談していたという。ちなみに、父は1967年に83歳で、母はその十年後の1977年に87歳で亡くなっている。
 三木はやせ型、蒲柳の質で、野球の得意な兄たちとは違い、からだはさほど丈夫ではなかったようだ。しかし、幼少より、書画の才能をあらわし、照也氏によると、丸亀市城乾尋常小学校四年生の時に、書道部に属し、初唐の虞世南の書法を練習し、すばらしい字を書いた。小学校の代表としてその地域で優勝したことがあるという。
 1938年に香川県立丸亀中学校に首席で入学する。1943年には、瀬戸内海の対岸、岡山の第六高等学校の理科甲類に進学する。スポーツはあまり得意ではなかったというが、水泳だけは好きで、中学・高校時代は水泳部で活躍した。六高では、寮生活を楽しみ、旭川の氾濫で大被害をうけた時は、図書館の後始末に大奮闘したという。
 しかし、折からの戦況の悪化により、六高在学中に勤労動員にかりだされ、工場生活にあけくれる日々をおくる。三木は、からだがあまり丈夫でなかったせいか、一年の時に「健民修練」をうけ、中国山地の湯原温泉に従兄弟の井上博也氏とともに合宿している。
 戦争末期の1945年4月に九州大学工学部航空機学科に進学するも、敗戦による廃科で退学を余儀なくされる。工学部に進学したこと、数学が得意であったことは、三木はもともとは分析的思考にすぐれていた性格であったことを示している。また後年、飛行機に乗るのが嫌いで、どこへ行くのにも鉄道で出かけていた彼が、なぜ、航空機学科に進学したかはひとつのなぞである。
 なお、三木がどのようにしてうつくしいシェーマを描くようになったかは、よく知られていない(三木は医歯大時代に、学研の編集者から「これだけの図が描ければ、助教授よりはるかに高い給料がとれる」と言われたことを嬉しそうに語っていた)。三木のシェーマによくでてくる腸管(我々はこれを土管と呼んでいた)は、航空機学科でまなんだ飛行機の設計図が基礎になっているのだろう。
 いずれにしても、三木の書画の才能は、天賦のものであったといえよう(しかし、三木は天才と言われることを嫌った。「自分は天才ではない。努力しているのだ。どれだけ苦労しているか、他人には分からないだろう」と語ったという)。


(戻る)    (進む)