二 学生時代―医学か音楽か、苦悩の日々
 
 敗戦後の1946年4月に、三木は、東京都文京区本郷の東京大学医学部医学科に入学する。医者の家系に育ち、理科系でも文科に近いところでということで、兄・照也氏の勧めもあって医学部進学を決めたという。しかし、空襲で一面の焼け野原となった東京での学生生活は、どのようなものであったのだろう。
 三木は、入学してまもなく、音楽会で知り合った東京音楽学校(現在の東京藝術大学音楽学部)の学生であった江藤俊哉氏に師事し、ヴァイオリンを夢中になって練習しはじめる。ヴァイオリンに興味をもったのは、義兄・国友氏の影響である。また彼は、鉄門主催の大学での演奏会に招待した江藤氏を楽屋に閉じ込めて「おれを弟子にしないうちは帰さない」と言って、かなり強引に江藤氏の一番弟子になったそうである。ショパンのような長い髪をなびかせてヴァイオリンをかかえた三木の姿は、江藤氏そっくりだったという。友人と弦楽四重奏団を編成して演奏活動をおこなっていた。
 そのあげく、三木は突然に「医学部はやめて音楽学校にいきたい」と言いだす。しかし、相談した照也氏や国友氏の「ヴァイオリンは続けてもよいが、ともかく大学には行け、できたら卒業しろ」という説得にしたがったという。
 そして、1951年に卒業し、東京大学付属病院での一年間のインターンをへて、1952年に医師国家試験をうけ、合格している(卒業後にも音楽学校のヴァイオリン科にゆきたいと言ったが、やはり家族の反対にあい、その道をあきらめたという)。家では、グノーのアヴェ・マリアをよく弾いたそうである。また、ヴァイオリンの音の響きをよくするために、自分で工夫して、あごの下に固定するためのゴムをつけて演奏していたという。これは、今日ではすべてのヴァイオリンにつけられているようになったが、当時はまだ誰もしていなかったことであった。
 三木は、学生時代、郷里の関係のある資産家の家に、卒業後にその家のお嬢さんと結婚し、将来は大学教授となることを約束して迎えいれられた。この家で、彼は「若だんな様」とよばれ、長かった髪をバッサリ切って、ヴァイオリンのレッスンの代わりにアテネフランセに通って外国語の勉強をしていた。しかし、そのような生活にたえられず、年末に帰省したのち、卒業試験で上京してももとの下宿にもどり、二度とその家に戻らなかったという。


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