三 本郷(東大)時代―冨永半次郎との出会い
 
 三木は、学生時代に解剖学の小川鼎三(3)教授の講義に心酔し、同級生の淺見一羊氏のさそいもあって、1952年4月に大学院に進学して、解剖学を専攻する。三年半で中退して、助手になり、解剖学者への道にはいる。彼は、院生・助手あわせて五年間を本郷の東京大学医学部解剖学教室で過ごす。
 このころ、解剖学教室の同僚として、先の淺見一羊氏(後に順天堂大学解剖学教授)と藝大から内地留学の中尾喜保氏(後に東京藝術大学美術解剖学教授)がいる。三人は仲がよく、小川教授は彼らを「三人組」とよんでいた。土曜の午後は、踏朱会でともに絵を描いていたという。
 しかし三木は、大学院二年目に突如として不眠症におちいり、二晩、三晩まったく眠れない状態になる。そして、東京女子医科大学精神科の千谷七郎教授の診察をうける。「これはうつ病の初期で、精神病ではなく、一種の冬眠のようなもので、いつかは必ずなおる。しかし、人間としての根源的な問題はこれからも付いてまわるから」と言われ、冨永半次郎(4)を紹介され、冨永塾に通うようになる。じつに、冨永との出会いこそ、彼の人生において決定的な出来事であった。
 千谷氏の自宅を利用した浦和の冨永塾では、まさに古今東西の古典がテーマとされ、釈迦・孔子・聖徳太子・紫式部・宝井其角・ゲーテなどの著作がとりあげられた。三木はここで、仏教思想をはじめ、哲学・文学を学んだ。院生時代には、釈迦の『パーリ涅槃経』の「ヴァヤダムマー・サンカーラ」の実修にとりくんでいる。
 いずれにしても、三木の思想には、この冨永塾でまなんだ釈迦・ゲーテ・其角の影響がきわめて大きい。とくに、ゲーテの原形論にもとづく形態学を学んだことが、のちの彼の学問研究の方向を決定することになる。
 また、のちに三木は、千谷氏らとルートヴィヒ・クラーゲスの著作の勉強会をおこなっている。そこで彼は、クラーゲスのリズム概念、人間論などの学説から大きな影響を与えられている。
 したがって、冨永半次郎とクラーゲスなどの碩学の研究なしに、三木の思想を論ずることはできない。
 
 
[注]
 
(3) 小川鼎三 1901―1984年。東京大学医学部解剖学教室教授。神経解剖学を専攻。また、鯨類の脳の研究から始まって鯨類の分類学・形態学的研究をおこない、わが国で初めて鯨学を体系化したことでも有名である。東大退官後、順天堂大学医学部医史学講座教授となり、医史学の研究でも業績を残す。著書に『脳の解剖学』『鯨の話』『医学の歴史』『解体新書』『杉田玄白』『医学用語の起り』などがある。ヒトの対極にある鯨の脳からヒトの脳を見るという方法は、三木に大きな影響を与える。三木の講義の話ぶりは小川に似ていたという。
 
(4) 冨永半次郎 1883―1965年。東大法学部・文学部をいずれも中退。在野の思想家・教育者。本郷追分の願行寺で東大・一高生らに東西の古典を講ずる。晩年、千谷七郎氏の浦和の自宅で冨永塾をひらく。『剣道における道』『釈迦仏陀本紀』『釈迦仏陀本紀余論(全21冊)』『正覚について』『聖徳太子』『國文學の基礎』などの著書がある。


(戻る)
    (進む)