四 お茶の水(医歯大)時代―解剖学から宗族発生へ
 
 (1) 脾臓と血管系の比較発生学的研究
 
 1957年に、三木は、文京区お茶の水の高台にある東京医科歯科大学に転勤し、十六年半にわたり医学部解剖学教室の助教授をつとめる。
 この頃、冨永塾で学ぶようになってうつ病が回復した三木は、下宿先の娘さんであった16歳年下の当時中学三年生の竹谷桃子氏に結婚を申し込み、竹谷氏が20歳(三木は36歳)になった1961年4月に結婚している。竹谷氏が尊敬していた中学校の先生が三木といっしょに冨永塾へ通っていたこともきっかけのひとつであったという。
 お茶の水に移ってから間もなくの1959年に、三木は医歯大で当時東京藝術大学で美術解剖学および人体美学を講じていた西田正秋教授の「仏像における同存化表現」という特別講義を聞き、黒板に描かれた幼児の顔が一瞬のあいだに菩薩像に変身したことにつよく感動している。以来、彼は西田をふかく尊敬するようになる。西田を慕う思いが、後年、藝大へ転勤するひとつの布石となっていると思われる。
 解剖学研究者としての三木は、永年研究テーマをさがしていた。三木は解剖学教室へ入局する際、小川教授に「十年間はアルゲマイネ(総論)をやらせてください」といったそうである。そして、解剖学教室にはいってまさに十年目の1962年と翌年の二つの夏を仙台の東北大学医学部解剖学教室の浦良治教授(5)のもとですごし、脊椎動物の血管系の比較発生学的研究をおこなうことになる。
 それは、極細のガラス管を引き、その先端を斜めに折って針を作り、双眼顕微鏡のもとで、小さな動物の胚子のさらに小さな心臓に墨汁(あるいはメチレンブルー)を注入して、血管系を染めだす方法で、そのコツは「米粒に般若心経を書く」要領だという。
 当時、浦の教室では、ナメクジウオから、スナヤツメ、マダラサンショウウオ、アカウミガメ、ニワトリ、ハムスターなどを材料として、血管系の比較発生学的研究が精力的におこなわれていた。三木は、その一連の研究につよく惹かれたのであろう。1961年7月に弘前で第六六回解剖学会総会が開催された時、彼はその懇親会の席で、すさまじい形相で浦をさがしていたという。
 三木は、浦一門の一連の仕事のひとつとして今は天然記念物に指定されているオオサンショウウオを材料として、幼生から成体までの各発育段階について心臓への墨汁注入をおこない、その結果をすぐに、1962年の千葉で開かれた第22回解剖学会関東地方会で発表している。その内容は、処女論文「オオサンショウウオに於ける脾臓と胃の血管とくに二次静脈との発生学的関係に就いて」としてまとめられ、1963年12月に母校の東京大学から医学博士の学位を授与されてる。ドイツ語の要旨と図の説明のついたこの論文は、後にティシェンドルフによってメェレンドルフ―バルグマンの『人体顕微解剖学叢書』第6巻、第6分冊(1969年)にその図を含めて大きく引用されている。
 このような研究の進展は、三木の医歯大での授業にも大きな影響を及ぼし、それまではクラーゲスの祖述といった心もとないものであったのが、自信に満ちた迫力のある講義に一変したという。
 つづいて、同じ手法を爬虫類のアカウミガメ、鳥類のニワトリの胚子に適用する。そして、1965五年には第二論文「脾臓と腸管2次静脈との関係―ニワトリの場合」(この論文は、この年の4月に亡くなった藤田恒太郎教授(6)を追悼している)を公表する。この二つの論文で三木は、脊椎動物の宗族発生(Phylogenie, 一般には系統発生と訳されている)で、脾臓が類洞脾→門脈脾→独立脾へと進化してきたこと、オオサンショウウオではこの変化が幼生から成体へのゆっくりした成長の中でくりかえされるのに対し、ニワトリでは胚子発生の初期に短時間でくりかえされること、それは脊椎動物の祖先がシルル紀の海からデボン紀の水辺をへて石炭紀の緑地へと上陸したことの再現であること、を明らかにしている。
 このような血管系の比較発生学的研究は、やがて哺乳類・ヒトへと進む予定であった。しかし、じつに解剖学者としての三木のオリジナル論文は、ついにこの二篇にとどまってしまうのである。
 後年、三木は、比較発生の研究をつづける意欲のなくなった理由に、このころすでに長女が、妻の胎内に宿っていたことをあげている。じつに三木らしい(しかし、理由はそれだけでないことは後述するとおりである)。
 
 
 (2) 「解剖生理(解剖学ノート―人体の歴史を中心にして)」
 
 このころ三木は、アルゲマイネ(総論)の仕事もはじめている。『高校看護・基礎医科学』(1966年)の一部として書かれた「解剖生理」(三木は『解剖学ノート―人体の歴史を中心にして―』という別刷を作っていた)は、彼の最初の著書である。
 この本で三木は、これまでのどの解剖学の教科書とも違った方法で、人体の構造と機能を記述している。これは、アリストテレス(島崎三郎氏の教示による)とザビエル・ビシャー(田隅本生氏の紹介による)にしたがって、人体を構成する諸器官を栄養―生殖にたずさわる植物性器官(内臓系)と感覚―運動にかかわる動物性器官(体壁系)の二つに色分けする。そして、はたらきの順に、前者を吸収系(消化・呼吸系)・循環系(血液・脈管系)・排出系(泌尿・生殖系)に、後者を受容系(感覚系)・伝達系(末梢・中枢神経系)・運動系(筋肉・骨格系)に分けて述べている。また、はじめに、生物とはなにか、植物と動物のちがいを述べ、最後に、人間と動物の違いについて、ゲーテの問いにこたえるかたちで、それは人体に刻まれた生命の歴史を思い知ることである、と結んでいる。
 本書は、看護婦をめざす高校生のためにやさしく書かれており、また短いなりにすべての系統について書かれたまとまったものであり、人体のしくみを学ぶうえでも、三木の思想を知るうえでも、絶好の入門書となっている。また、三木のオリジナルなシェーマ原図が多数おさめられている。このうち、動物体制の原形を横断面で示した図は、その後もなんどか描きなおされているが、永年にわたる彼の研究の結晶であり、三木家の家紋にしたい、と語っていた。そのほか、腸管発達の歴史、泌尿管と生殖管の分離、鼻の開通の歴史、神経細胞の鎖ができるまでなどのシェーマを見れば、一目で人体の歴史が理解できる。
 私は、医歯大在職中に神田の古本屋で見つけたこの本を読んだ時に、これまでどれだけの講義をきいてもよくわからなかった人体の構造と機能について、はじめて「なるほど」と理解できた感動を忘れることができない。藤田恒太郎(6)は『人体解剖学』(南江堂)のなかで「解剖学とても暗記する学問でなくて、理解する学問である」と述べている。しかし、皮肉にも、私はその本ではなく、三木の著書によって、はじめて理解することができたのである。いまだに毎年の授業のはじめにこの本を読み返している。
 本書の特徴は、人体の構造(なりたち)と機能(うごき)だけでなく、三木がつけたその副題にもあるように、それらの歴史(おいたち)を解説していることである。
 この本は、高校看護の教科書として書かれたが、准看護婦の資格試験には役立たないということから、あまり利用されることなく、まもなく絶版になったのは残念なことであった。
 
 
 (3) 「ヒトのからだ―生物史的考察」
 
 つづいて三木は、小川鼎三編集の『原色現代科学事典6―人間』(1968年)に「ヒトのからだ―生物史的考察」を書いている。ここでは、教科書という制約から解放されて、正面から人体の歴史を主題として論じている。まず、生命観の変遷から、生殖のリズム、西洋と東洋の自然観のちがい、動物体制の原形について植物性器官と動物性器官に分けてその歴史を解説し、最後にクラーゲスの人間論により、こころ(心情)とあたま(精神)の対立が人類の宿命であると述べている。
 その各章をみても、例えば消化系が前著では他の教科書と同じように、口→咽頭→食道と胃→肝臓・膵臓と十二指腸→小腸・大腸・肛門の順で書かれていたのが、本書では歴史的に古いほうから、腸→肝臓→膵臓→顎と胃→頬と臼歯→舌と手、といった順に書かれている。また、中枢神経と末梢神経を分けずに、古いものから、脊髄と脊髄神経、延髄と鰓弓神経、小脳と内耳神経、中脳と視神経、前脳と嗅神経、の順で書かれ、最後に人類の感覚と観得についてのべていることも、他の書にない特徴である。
 この本には、カラーの図や写真がのせられており、それを見るだけでも楽しい。前著と同じ図もあるが、カラーとなっている分、よりわかりやすい。三木が、渾身の力をこめて描いたこれらのシェーマは、芸術作品としての価値さえもっているといえる。
 「解剖生理」と「ヒトのからだ」は、後に書かれた「解剖学総論」「生命の形態学」の原形となっているが、あとの二著が未完になっているだけに、三木の思想をまだ初期の段階ではあるが体系化したものとして、きわめて貴重なものとなっている。
 
 
 (4) 古生物学との出会い
 
 三木の思想・学問は、冨永塾で学んだゲーテや、千谷らと学んだクラーゲスの思想が基礎になっているが、もうひとつ、医歯大時代に歯学部ではあったが同じ解剖学教室にいた古生物学者の井尻正二氏や動物学者の田隅本生氏との出会いも大きな影響を与えている。
 当時は、解剖学の教育は医学部・歯学部合同でおこなわれており、教室も同じ建物にあり、各講座のスタッフはかなり自由に交流していたようである。
 そんなある日、三木は古生物学者の意見を聞こうと、井尻氏を自分の部屋にさそう。背が高く、地質調査できたえあげられたその屈強そうな体格の井尻氏は、三木のイメージのなかのクロマニヨン人そのものであったという。三木は、ニワトリ胚子の墨汁注入標本を見せて、血管系の発生過程が脊椎動物の上陸史の再現であるとみる自説への同意を求めたところ、即座に井尻氏がすべてを理解して自分の考えにうなづいたことを、「さすが」と述べていた。これが三木の古生物学への入門となり、以後彼は、井尻・湊著『地球の歴史』(岩波新書)を愛読し、「古代緑地」「造山運動」「海をはらむ族(やから)」といった言葉がでるようになる。
 また、三木がニワトリの論文で引用しているジョセフ・ニーダムの窒素排泄物の研究を紹介したのは田隅氏である。田隅氏はまた、ローマーの『脊椎動物古生物学Vertebrate Paleontology』やビシャーの論文を彼に紹介している。さらに、田隅氏は当時コルバートの『脊椎動物の進化』の翻訳していたが、その見本がとどけられた時に、三木に見せたところ、興奮して「いま、これをくれろ」といって放さず、そのまま巻きあげられてしまったという。
 三木が古生物学の世界につよく惹かれ、地球の歴史や生物の進化についてかかれた井尻氏やローマー、コルバート、グッドリッチらの本を夢中になって読み、それらにつよく共感するなかで、そのライフワークのテーマは、比較発生学から古生物学を含めた宗族発生へと進んでいったのである。
 もうひとり、三木から大きな影響をうけとるとともに三木に対しても影響を与えた人として平光試i氏(7)について述べたい。平光氏は、1959年に東京医科歯科大学医学部を卒業して以来、大学院・助手・講師・助教授時代を三木と同じ教室ですごし、彼のよき同僚であると共にまたよき批判者であった。同じ教室にいた平山廉三氏(現在は医歯大医学部第二外科)は「詩人三木と全人的科学者平光が机を並べ、詩と真実を対話していた」と述べている。
 二人は、解剖実習の遺体で発見した心臓神経の「原形」をしめす配列から、アカウミガメ・アオザメの心臓神経の解剖をおこない、脊椎動物における心臓神経の宗族発生に関する論文を公表している。これは平光氏のアメリカ留学中に英文で書き上げられ、帰国後小川教授のはからいで1971年に学士院紀要に掲載された。
 
 
 (5) 医歯大での解剖学総論と解剖実習
 
 私が三木と出会ったのは、お茶の水時代後期である。じつは、ほかの講義をきくつもりが、当時の「学園紛争」のせいか、三木の骨学の最初の講義をきいてしまったのである。それは、ゲーテの原形論からはじまり、動物体制の原形を黒板いっぱいに描き、ついで、外骨格と内骨格について話された。
 当時、地質学を専攻し、古生物学の研究をはじめていた私は、これこそ、自分のもっとも知りたいほんものの古生物学の講義だと直感した。その後、不思議な縁で解剖学の教師となったが、いまだに私の最初の授業は、この時の三木の講義の感動をそのまま学生に伝えるものとなっている。
 その後、古生物学の先輩である井尻氏の紹介で、私も歯学部ではあったが同じ大学の解剖学教室に勤めるようになった。しかし、そのころはすでに医学部と歯学部は分かれて授業をするようになっており、私は、医学部の方の解剖実習を担当していた三木の授業を横からながめるだけであった。
 死体の並んだ実習室で、三木は色チョークでうつくしいシェーマを黒板に描きながら、人体構造の原形について語っていた。毎年、解剖実習における学生への課題は「脊椎動物の個体体制の原形(Urtypus)を求め、人体の頭・頚・胸・腹・腰の各部で、いかなる変身(Metamorphose)を遂げるか、横断面で図示せよ」というものであった。このテーマこそ、ゲーテ形態学を人体解剖学に適用しようとしたものといえる。
 三木の講義・実習のためのノートには、彼の未発表のシェーマが多数残されており、今後充分に研究すべき貴重な資料となっている。
 
 
 (6) 「解剖学総論草稿」―人体解剖学から宗族発生へ
 
 1969年夏から三木は、『解剖学総論』の執筆にとりかかっている。その草稿には、解剖学の現状へのするどい批判と、ゲーテ、クラーゲスの思想にもとづいて解剖学を再構築したい、という自身の学問への抱負が述べられている。医歯大時代、私はその原稿をみせてもらったことがある。それは、彼自身が烏口を引いてつくった専用の原稿用紙に書かれていた。三木は「ふつうの原稿用紙では息が詰まって書けない」と言っていた。おそらく、彼は書いては消し、消しては書くということを繰り返していたのであろう(三木は、医歯大を去る時の医局の歓送会で「はやく解剖学総論を完成させて、皆さんに謹呈したい」と述べていた)。 また、公式の学会を嫌い、組織づくりは不得手であった三木にしては珍しいことであるが、1969年11月に、菊地栄一・千谷七郎両先生を戴いて本会を発足させるために、幹事役として貢献している(その後、幹事役は高橋義人氏にうけつがれ、現在では前田富士雄氏が加わっていることは、会員諸氏がご存じのとおりである)。
 お茶の水時代末期の1972年、三木は『うぶすな―千谷七郎教授還暦記念論文集』に「『原形』に関する試論―人体解剖学の根底をなすもの」という論文を書いている。そこでは、原形を求めることこそ解剖学の根底であり、それはほかならぬ比較解剖学・古生物学・比較発生学の三つの方法により宗族発生を追求することであるとしている。すなわち、さまざまな動物の「生きた化石」(比較解剖学)、過去の生物の直接の遺物である化石(古生物学)、さらに胎児発生の「象徴劇」(比較発生学)に、人体の歴史(宗族発生)を求めようというのだ(この論文には、千谷氏と共通の恩師・冨永半次郎への謝辞が付けられている)。
 医歯大時代の三木は、解剖学者としての研究生活をするなかで、しだいに狭い視野に閉じこもり、分析的・実験的・還元主義的方向のみに進む解剖学界の現状、学生に解剖学用語の丸暗記をしいるだけの解剖学教育のあり方に失望するようになり、自分の学問の基盤をどこに求めるか、苦悩するようになっていったのであろう。
 三木は、医歯大の学生における自分の授業の評価は、学生五人につき、興味をもつものが一人、反発を感じるものが一人、残りの三人は中間であると語っていた。しかし、幾人かの学生には深い愛情をそそぎ、クラーゲスの思想に惹かれて彼の紹介で女子医大の千谷教授の精神科に入局した卒業生も七人以上にのぼる。
 
 
[注]
 
(4) 冨永半次郎 1883―1965年。東大法学部・文学部をいずれも中退。在野の思想家・教育者。本郷追分の願行寺で東大・一高生らに東西の古典を講ずる。晩年、千谷七郎氏の浦和の自宅で冨永塾をひらく。『剣道における道』『釈迦仏陀本紀』『釈迦仏陀本紀余論(全21冊)』『正覚について』『聖徳太子』『國文學の基礎』などの著書がある。
 
(5) 浦 良治 1903―1992。東大医学部解剖学助教授の後、岡山大学をへて、東北大学医学部解剖学教授となる。血管系の比較発生学的研究で知られる。著書に『実習人体解剖図講座』『人体解剖実習』がある。三木は、『図譜』の図のレイアウトと引出し線を入れるのを手伝っている。『生命形態の自然誌』の序文を書いたが、愛弟子を追うように一昨年、88歳で亡くなった。
 
(6) 藤田恒太郎 1903―1965年。東大卒業後、東京高等歯科医学校解剖学教授をへて、東大医学部解剖学教授となる。東大退官直後に60歳で逝去。歯の研究で知られ、『人体解剖学』『歯の解剖学』『歯の組織学』『生体観察』などの教科書を残している。三木は、藤田の解剖学の教授方にはつよい反感をもっていた。古生物学の井尻正二氏の恩師。
 
(7) 平光試i 1929―1994年。東京医科歯科大学医学部卒業後、同大大学院で解剖学を専攻、同大助手、講師、助教授をへて、埼玉医科大学教授。心臓の発生、ナメクジウオの発生の研究で有名。大著ローマー・パーソンズ著『脊椎動物のからだ―その比較解剖』の訳者として知られる。著書に『講座進化C形態学からみた進化』などがある。三木のもっとも近くにいた解剖学者で、三木のよき理解者であるとともに批判者でもあった。三木成夫記念シンポジウムの発起人。この夏、64歳で逝去。


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