五 上野(藝大)時代―生命形態学への道
 
 (1) 藝大への転勤―現代科学の岐路にたって
 
 三木は、このまま医学部教授になり、解剖学者として大成するかと思われた。しかし、1973年6月、47歳になった彼は、まったく突然に、お茶の水の高台から不忍池をはさんだ対岸にある上野の杜にある東京藝術大学の保健管理センターの医師として赴任する。
 そこで、学生と職員の健康相談にあずかる一方、生命哲学・生命美学ともいうべき生物学=「生命の形態学」と「胎児の世界」として保健理論を教えるようになる。これは、友人でかつての同僚・中尾喜保教授からの誘いによることであった。また、西田正秋先生への尊敬も理由のひとつであったのだろう。
 藝大への転勤により三木は、解剖学者から「生命哲学者」へと変身する。それは、若き日にあこがれた旧音楽学校と美術学校(往年の音校・美校)の伝統をもつこの大学へのつよい憧憬からなのであろうか。そして、藝大生にヴァイオリンに熱中したかつての自分の姿をみる思いがしたのだろうか。この転身を本人は「まるで鮭が生まれた川へ遡るように」と語っている(このころ、あこがれの大学に来た三木は、まるで新入生のように朝早く目覚めて胸をときめかせて登校していたという。医歯大では、朝早く来ることはめったになかったのに……)。
 しかし私は、そこにもう少し深い必然性があったように思う。それは、すでに紹介した「解剖学総論草稿」に述べられているような現代の解剖学への批判である。藝大転勤直後にかかれた「ゲーテの形態学と今日の人体解剖学―現代科学の岐路にたって」には、その理由がさらに詳しく書かれているように思われる。
 すなわち、この論文では「しくみ」の分析に明け暮れる自然科学としての解剖学と、「かたち」を求める“自然哲学”としての解剖学が対比され、後者こそ、ゲーテ形態学をうけつぐもので、原形は宗族発生の追求としてとらえなければならないとしている。三木はすでにこの時、みずからこの解剖学の岐路に面して、“自然哲学”の方向を選択しているのだ。この論文で、彼はそのいとなみこそ自分のライフワークであると、宣言しているように感じられる(この論文は、三木の恩師・浦良治教授の先生で、わが国における比較解剖学の祖・西成甫(8)に捧げられている)。
 そのことばのとおり、ゲーテ形態学をうけついだ三木の生物学=生命形態学の学生への課題は、「生の原形を求め、植物・動物・人間の三者でいかなる変身をとげるか」であった。三木のテーマは、人体解剖学と脊椎動物の比較発生学から、植物の生もふくめた新しい生命論の創造に進んだのであった。
 この頃、私はなんどか藝大の保健センターを訪れ、毎週木曜日(後に水曜日)午後の生物学(正式には生物生態学)の講義をきいたり、お話をうかがったりした。三木の講義は、黒板に書いた文字と図表、毎回くばられるみごとなシェーマを描いたプリント、それに左右二台のプロジェクターを駆使したスライド、時には胎内音を録音したテープなどを使った迫力のあるものであった(この学校でスライドプロジェクターを使えるのは私一人と語っていた)。
 生物学は美術学部の学生のための授業であったが、名講義として知られるようになり、音楽学部の学生はもとより、学外の三木ファンが毎年数人は聴講生として(あるいは非合法で)三木の講義をききにきていた。なかには、一年から四年まで四年間にわたって三木の講義をきいた学生もいたという。
 藝大の三木の部屋ははじめ、音楽学部の古い木造の建物のなかにある養護室のようなところであった。彼は、天井の高いその部屋が気にいっていた。しかし、後にその向かい側に独立した四角い灰色のコンクリートの保健センターが建てられた。その部屋に行くと、いくつもの藝大生の作品が置いてあり、彼はいつも嬉しそうに見せてくれた。その作品のなかには、すばらしい油絵や日本画、彫刻もあれば、「植物的、動物的」と題する木の箱に入ったウンコの模型まであった。彼は、健康法クラブというサークルの顧問をつとめ、自分をしたって集まる学生に囲まれて、まさに「水をえた魚」のように幸福そうであった。
 
 
 (2) 「生命形態学」の執筆
 
 そして、三木は「生命の形態学」を執筆しはじめる。これは、『解剖学総論』を発展させたもので、解剖学会を退会した彼にとっては、すでに「解剖学」よりも「形態学」のほうが自分のライフワークにふさわしい名称となったのであろう。
 1977年から「綜合看護」(現代社)に掲載されはじめた「生命の形態学」は、「人体解剖学総論」という副題のついた〈1〉生の原形、〈2〉植物と動物、〈3〉動物の個体体制、の三章と、「人体構造原論」という副題の〈4〉消化系、〈5〉呼吸系、〈6〉循環系、の三章が残されている(このあとに〈7〉泌尿系、〈8〉生殖系、〈9〉感覚系、〈10〉神経系、〈11〉運動系、〈12〉人間と動物といった章がつづく構想であったのだろう)。
 「解剖生理」・「ヒトのからだ」との大きな違いは、生の波を「食と性の位相交替」としてとらえ、動物体制の原形を「食の相」と「性の相」に分けて、前者では栄養系が発達するが、後者ではそれに代わって生殖系が発達するとしている点である(また、「植物(的)器官」「動物(的)器官」と呼んでいたのを「植物器官」「動物器官」としている)。さらに、動物体制の原形を横断面だけでなく、縦断面でも描いていること、ヒト胎児(胚子)の顔面のスケッチが描かれ、それと生きている化石との対比により、脊椎動物進化の過程が示されていることなど、三木が推敲に推敲を重ねてきた十年間の成果がすべておさめられている。
 各論部分の三章をみると、それぞれの系統について、まず動物体制の原形をあらわす横断面の中にその位置が示され、ついで、その起源を述べ、さらに、その機能分化について宗族発生の過程をおって歴史的に古い器官から順に解説され、最後に、人類においてその系統がどのような歴史的宿命にあるか、について明らかにしている。これは、まさに、数十億年の歴史における人体構造発達史とでもよぶべきものである。このような試みは、いまだ誰もおこなったことのない、壮大なテーマといえよう。
 なかでも、〈6〉循環系は、かつて自分が属した浦一門の血管系に関する比較発生学的研究を紹介しつつ、さらにそれを生命形態学の立場から意味づけ、体系化している(この文は、恩師・浦良治(5)に捧げられている)。とにかくここまで書いて、ほっとして、しばらく休みたい、といった気持ちになったのであろう。また三木は「人類の神経系の宗族発生が解明されるまでは書きあげられない」と語っていたという。
 じつに「生命の形態学」こそは、「三木がそのもてるものすべてを投入し、自信をもって世に送ろうとしていた畢生の大作になるはずのもの」(平光(2))であった。私も、毎回美しい記念切手をはった封筒にいれられて、ていねいな添え書きとともに送られてくる別刷を宝物のようにこころときめく思いでうけとったことが忘れられない。しかし、この連載は、はじめは毎号〈季刊〉であったのが、やがて一号おきとなり、三年間つづいたのち、全体の構想の半分の六回で中断されてしまう。
 当時現代社に勤務し、「生命の形態学」の編集を担当していた塚本庸夫氏(現在はうぶすな書院)は、三木が前の晩おそくまでかかってかきあげた原稿やシェーマを、朝、池袋の駅のホームで待ち合わせて、いっしょに山手線に乗りながら打ち合わせるといった、かなりのめり込んだ、見方によってはまるで綱わたりのようなやり方で進めた、という。彼にとっては「寿命を縮める」ような苦しくも楽しい仕事であったのだろう。
 三木のライフワークであった「生命の形態学」が未完に終わったことは、ある意味で、人類史的な損失といえる。三木を知る多くの人びとが、その完成をいかに待ち望んでいたことか……。毎回送られてきた別刷を読むことは私の生きがいでもあった。もう、残りの章を読むことができないとは、私には耐えられないほど残念だ。
 しかし、その各章はそれなりに完結したものであり、それを読むだけでも三木の思想を十分に理解することができるのである。また、残りの章についても草稿や他の本や雑誌のために書いた論文や、講演や講義のために書かれたシェーマも残されており、これらを検討することにより、今後書かれる予定の章についてある程度の見当をつけることも可能である。これは三木が我々に残した宿題なのであろうか(拙文「ホネのかたち・1〜4」The Bone 1990年、はこのような試みのひとつである)。
 
 
 (3) 「動物的および植物的―人間の形態学的考察」
 
 「生命の形態学」の連載を中断したころから、三木の著作活動は急激に活発になる。その執筆によって蓄積したものを一気にはきだそうとしたのである。
 1979年11月に、本会で講演し、その一部を「動物的および植物的―人間の形態学的考察」として本誌第二号(1980年)に執筆している(この講演そのものは、本号に掲載されている)。
 これは、人間は「理性」のおかげで「どの毛だものよりも毛だもの臭くなった」と語ったゲーテへの回答として、三木が、人間とはなにか、人間と動物とはどこが違うのかについて述べたものである。
 そこでは、まずヒトの胎児の顔の発生過程が脊椎動物の顔の宗族発生の象徴的な再現であることが示され、ついで、植物のからだが“積み重ね”によって造られるのに対し、動物のそれが、“はめ込み”によってできることが述べられている。そして、外へ開いたからだをもつ植物は自然に宇宙リズムに共振する「遠」の観得の性能をもつが、それは動物にも本来そなわっているものである。しかし、内に閉じこもる体制の動物は「近」の感覚をもち、それは、人間では「精神」による「自我」の意志作用となり、「肉体」を支配する。この「精神」の束縛からのがれるためには、植物のもつ「遠」と交流する「心情」をとりもどすことが必要である、としている。
 ゲーテへの宿題をはたした三木は、以後、冨永半次郎やクラーゲスから学んだ思想を現代の諸問題に適用すべく、積極的に講演・執筆活動をおこなうことになる。その結果、生命形態学とは別に、宇宙論的・自然史的生命観を基礎にした三木の保健論・保育論が生まれることになる。
 
 
 (4) 宗族発生的・クラーゲス的保健論
 
 三木は、藝大で学生・職員の健康診断にかかわるなかで、いくつかの保健論に関する文を書いている。
 三木はそれらの中で、子どもや若者にみられる「不調」や「不定愁訴」の原因が、人類の祖先がもっていた冬眠体質や夜行性体質にあるのではないかということ、その回復には本来の生活のリズムをとりもどすための「拍子」を加減するのがよい、と述べている。また、思春期の問題を「食と性の位相交替」としてとらえ、人類における生殖過程の抑制の結果とみている。さらに、呼吸不全については、魚類時代の延髄支配の内臓筋による鰓呼吸から、陸上での大脳支配の体壁筋による肺呼吸に移行してきたという、人類の呼吸系の歴史の結果ととらえている。 これらは、自身の不眠症・うつ病の経験をもとにし、また「生命の形態学」で展開した三木の宗族発生的人体観と、クラーゲスのリズム概念を現代人の健康問題に応用したものである(それに対し、ただ、甘やかしているだけではないか、という批判があったという)。
 また、三木は、藝大で体育を教えていた野口三千三氏の「こんにゃく体操」を学び、同じく藝大で歯科を担当されていた村木弘昌氏から丹田呼吸を教えられ、さらに、以前から関心をもっていた東洋医学との関係で伊沢凡人氏の漢方医学の排泄論に興味をもち、これらについていろいろなところで語っている。
 これらは、余分の力を抜き、詰まった息を抜き、汚れた水を抜く、というもので、三木のからだの「入―出」に関する双極性の理論と一致し、「入」のみを重視する西洋医学にたいして、「出」をも重んじる東洋医学の思想につよく共鳴していたものである。
 
 
 (5) 「脊椎動物のPhylogenie―人頭骨の“なりたち”に関する考察」
 
 三木は、井尻正二氏の還暦記念出版である『古生物学各論・第四巻 脊椎動物化石』(1981年)に「脊椎動物のPhylogenie―人頭骨の“なりたち”に関する考察」を書いている。ここでは、本来、「解剖学総論」の骨格系の章のために用意した、人類の頭骨の宗族発生がみごとなシェーマにより示されている。また、個体発生と宗族発生の関係をしめすシェーマが、これまでのものと違って、動物や胎児の図がはいったものに変えられている。
 この論文では、見開きの左頁に図が、右頁に文がレイアウトされている。これは三木によると、左眼が形態を把握する右脳に投影され、右眼が文字を認識する左脳に入るから、そのように配列すべきなのだと言っていた。
 じつは私は、この本の編集を担当し、原稿の依頼・催促から校正まで、三木を何度もたずねた。頭骨の形成の横断面などの制作の手伝いをし、シェーマの書き方、スクリーントーンの貼り方、写植の文字の入れ方まで教えていただいたことは、非常に勉強になった。
 藝大での講義のプリントにもされている人頭骨の宗族発生のシェーマは、三木がもっとも力をいれて描きあげたもののひとつである。三木は、爬虫類なら手に入るかぎりの現生・化石の数十種の爬虫類の頭骨の図を同じ方向の同じ大きさの写真に焼き、それを重ねて比較し、さらにその上下の両生類と哺乳類の頭骨との関係もあわせながら、描きあげたのである。三木は、直感だけでものを言っているという批判があるが、その直感は膨大な資料にもとづいたものであることを知る人は少ない。
 ここで、私は、三木のもうひとつの性格を知ることになる。それは、校正を真っ赤にすることである。初校なら、まだ仕方ないかもしれない。しかし、再校、三校まで真っ赤にされては、編集者も印刷屋の植字工の人もまいってしまう。しかも、いまのようにワープロがなく、一字ずつ組んでいく活版印刷の時代である。しかし、これほどまでに自分の文にこだわることは、今となっては見習わなくてはならないことかもしれない。
 
 
 (6) 『内臓のはたらきと子どものこころ』
 
 三木は、井尻氏の紹介により、斎藤公子氏が園長をつとめる埼玉県のさくら・さくらんぼ保育園の保育大学講座で保母さんと若い父母に講演し、その内容を最初の単著『内臓のはたらきと子どものこころ』として、1982年に出版している。
 ここでは、子どものこころの成長において、膀胱感覚・口腔感覚・胃袋感覚という内臓感覚が非常に重要であること、とくになんでもものをなめ廻す唇と舌の感覚が、ものの形態や性状の把握の基礎となること、内臓のうごきには日リズムや年リズムがあり、動物の食と性のリズムは宇宙リズムと呼応するものであること、一歳児にはじまる呼称音をともなう指さしはクラーゲスの「指示思考」の始まりであり、二歳児にはじまる言語の使用は象徴思考の始まりであり、三歳児では言葉が発達するとともに絵を描きはじめ、概念思考が始まること、このような子どもの成長過程(個体発生)は猿人以来の人類の歴史(宗族発生)の反復であること、が述べられている。
 本書には、三木自身の子どもの写真が多数おさめられており、彼が子育てをしながら、そこに人類の宗族発生を垣間見てきたことを物語っている。そこからは、彼の二人の子どもに対する父親としての深い愛情が感じられる。彼は、二人の子どもの幼い日からの絵画などの作品をすべてたいせつに保存していた(その作品は、皆本二三江著『絵が語る男女の性差』東京書籍、に収録されている)。また彼は、子どもの脱落した乳歯をホルマリンのはいったスクリュー管に保存していたという。彼の死後、期せずして二人の子どもが美術大学に進学したことを三木は雲の上でさぞ喜んでいることだろう。三木の保育論となった本書は、いまだに保育関係者に大きな影響をあたえつづけている。
 
 
 (7) 『胎児の世界―人類の生命記憶』
 
 その翌年には、名著『胎児の世界―人類の生命記憶』を著し、三木の名前は一躍世間に知られるようになる。三木がこれまで勧めてきた脊椎動物の比較発生学的研究をもとに、人間のからだとこころに刻まれた生物進化の歴史(これを三木は「生命記憶」とよぶ)を論じたものである。
 T章の「故郷への回帰」では、椰子の実と正倉院御物展についての個人的体験から、日本人の祖先が「海上の道」と「絹の道」をとおってきたことが示される。そして、その記憶は、玄米食と母乳の味の経験から、出産の際にほとばしり出る羊水破裂と二重写しにされる古生代紀の脊椎動物上陸のドラマと、水中卵から陸上卵をへて着床卵に至る進化の歴史についての解説をへて、ついには「母なる海」の塩の結晶までおよぶ。
 U章の「胎児の世界」では、その生命記憶、すなわち脊椎動物の上陸史が、ニワトリの卵の中での血管系の発生と、ヒトの顔面の初期発生で象徴的に再現されることが明らかにされる。とくに、受胎32日から38日までのヒト胎児(胚子)の顔面スケッチは、すでに「生命の形態学〈2〉植物と動物」(1977年)に一部掲載されたものであるが、いまだ誰もなしえなかった画期的な業績であり、本書のハイライトとして圧倒的な迫力で読者のこころを揺るがさずにはおかない。
 この胎児の標本は、三木がお茶の水時代に、血管系の比較発生学的研究の資料として、知り合いの産婦人科医の好意により収集してきたものである。しかし、前述したようにすでに自分の子どもをもつようになった三木は、研究を続ける意欲を失っていた。ところが、藝大で保健理論の集中講義を担当するようになった彼は、自分のできる性教育は子宮のなかの出来事を見せる以外にないと考え、切羽詰まった気持で、標本ビンにしまっていた胎児の標本をとりだして、その頚を切断し、顔面のスケッチをした、と語っている。
 V章の「いのちの波」では、この生命記憶の根源が、ゲーテの植物メタモルフォーゼを発展させた「食と性の位相交替」として示され、宇宙リズムに呼応する内臓波動としてとらえられた後、「母なる海」への「永遠回帰」のいとなみに人類の進む道が求められる、と結ばれている。
 本書は、手ごろな大きさで、中公新書として広く販売されたため、三木の名は一般にも広く知られるようになる。そして、この本の出版を契機に、彼は、いろいろなところから講演や執筆を依頼されるようになる。このことは、三木の思想が広く知られるよいう意味ではよいことであったが、彼のストレスをまし、やがて死に至らしめたという面では、残念なことであったと言わざるをえない。
 
 
 (8) 「南と北の生物学」
 
 三木の執筆・講演活動は、これまでさほど活発なものではなかった。
 とくに学会講演は少なく、医学部助教授で解剖学者であったお茶の水時代でも、解剖学会では、関東地方会でただ一度講演したのみである。そのほか、形態学談話会(1963年)で講演し、薬理学会(1969年)・消化器外科学会(1972年)・循環器学会(1973年)で特別講演をしているのみである。
 上野時代にも、ただ一度だけ、名古屋大学の重井達朗教授のつよい勧めによって、血管神経作用機構に関する国際シンポジウム(1981年)で脾臓の血管発生について講演している。
 しかし、一般の講演はおおく引き受けており、石川県穴水町、看護学校、日本人自然保護協会、東西医学を結ぶ会、高崎哲学堂、地学団体研究会、調和道協会、高松西高校、さらには天理教などで講演している。とくに、死の前年の1986年10月25日に、天理教でおこなった講演は三木の最後の講演で、その内容は彼の死後「G-TEN」(1987年9月号)に掲載された。また、教育大・法政大・東大・筑波大・長崎大などでの特別講演を引き受けている。
 三木がその晩年に書いたまとまった論文は、「正論」に五回にわたって掲載された「南と北の生物学」(1986/7年)である。
 ここで、彼は、自分の動物体制の原形を横断面で示したシェーマをもとに、それを都市の構造に敷衍し、ニューヨークや東京、さらには故郷の讃岐と土佐の関係まで述べている。つまり、脊椎動物では背側に体壁系が腹側に内臓系が位置するが、都市では体壁地区が山の手(北)に内臓地区が下町(南)にあることに似ているという。さらに、脳死と心臓死、子宮死の意味について論じ、北の“あたま”と南の“こころ”、ゲーテの南下と人類の北上が対比される。そして、近年、人類の生存を脅かしつつあるエイズウィルスは、南の“ゴンドワナの霊”が北のローラシアの最後の“知性”に訴えようとしている“血の叫び”ではないか、と述べている。
 この文を読むと、これまでにないような自由な発想で自説を展開している三木の得意げな顔がありありと浮かんでくる。しかし、この時すでに、三木の脳内血管にはなんらかの異常が進んでいたことを思うと、その顔にも死の影がしのびよっていたように感じられる。
 
 
 (9) 死の状況
 
 ここで、三木の死に至る状況について述べよう。
 三木は、1987年8月10日未明、自宅で脳内出血を起こし、ソファーに倒れたまま眠っている姿が、朝になって夫人によって発見される。そのまま病院に入院するが、回復することなく、13日に息をひきとる。
 病院でのCTスキャンでの診断では、左脳に脳内出血が起こり、左被殻を中心に内包・視床を巻き込み、前頭葉まで大きく延びた大出血で、正中線は大きく右へ偏移し、脳ヘルニア直前の状態であった。病院へ着いた時点での手術による機能回復の可能性は0パーセント、生命回復の可能性は1000分の1であったという。
 倒れる前日、三木は、テレビの中日×巨人戦で、中日ドラゴンズのルーキー近藤真一投手がノーヒット・ノーランを演じたのをかなり興奮して見ていたという。三木は、子どものころからの野球好きで、とくに従兄弟の牧野茂氏が中日にいた関係から、中日ファン(アンチ巨人ファン)であった。
 三木は、野球をみた後、体調をくずされた姉の国友房子氏から電話で依頼された薬と手紙を封筒に入れたところで、倒れたらしい。野球をみて興奮したり、姉へのこころのこもった手紙を書くなど、じつに三木らしい最期といえよう。
 三木は、以前から、そもそも動物器官の中心である大脳に植物器官の血管が侵入することにかなりの難儀があると語っていた。「生命の形態学〈6〉循環器」でも、第四紀における人類の大脳の急激な拡大とその血管分布との関係について「脳底から出発する動脈は、皮質の発達と比例して急速に肥大するが、とくにこの部には強い動脈硬化が現れ、侵入細動脈枝の外側線条体動脈に“出血”の名をもたらせる。…(中略)…この血行領域に発生するさまざまの障碍は、こうして見れば急速な大脳化の生んだひとつのなりゆきとして受けとるよりない」と述べている。まさに彼は、その「なりゆき」をみずから実践したのである。
 永年にわたる講演や執筆活動、講義と学生や職員の健康相談におわれる多忙な生活が、もたらしたものであろう。享年61歳とは、平均寿命より20年もはやい、突然の死であった。生前、「人生は、モーツァルトの三十九番のように突然に終わるのがよい」と語っていたという。まさに、そのとおりの死であった。
 
 
[注]
 
(2) 平光試i「あとがき」(『生命形態の自然誌・第一巻』1989 471―474頁)
 
(5) 浦 良治 1903―1992。東大医学部解剖学助教授の後、岡山大学をへて、東北大学医学部解剖学教授となる。血管系の比較発生学的研究で知られる。著書に『実習人体解剖図講座』『人体解剖実習』がある。三木は、『図譜』の図のレイアウトと引出し線を入れるのを手伝っている。『生命形態の自然誌』の序文を書いたが、愛弟子を追うように一昨年、88歳で亡くなった。
 
(8) 西 成甫 1885―1978年。東大卒業後、ドイツ・ハイデルベルク大学へ留学して、筋系の比較解剖学的研究に従事、帰国後、東北帝大教授をへて、東京帝大解剖学教授となる。東大退官後、前橋医専校長、群馬大学学長を歴任。わが国における比較解剖学の祖で、類型解剖学を提唱する。エスペランティストとしても有名で、日本エスペラント学会の理事長もつとめた。『比較解剖学』『小解剖学』など多数の著書がある。三木は、恩師・浦の恩師である西を尊敬し、江ノ島の自宅を幾度か訪ねている。


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